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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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静岡県 富士宮市201301その1

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残り二つは何なの?・此処にもあった落水荘!?・まさにフジヤマ!ゲイシャ!の町

この辺り、かなり雰囲気が残っていると思うのですが・・・。


 2013年初っ端のレポは静岡県富士宮市。正月から慌しい探索はしたくなかったので、ゆっくり一泊して4つの町を巡って参りました。のんびり旅でしたが、旅に出るまでが慌しかったあ・・・昨年の暮れ、恒例の冬の青春18きっぷを購入したのですが、何を勘違いしたのか有効期限が1月20日までと勝手に思いこんでいたのです。年明けからいろいろと忙しくなりそうなので、このままだと間違いなく使い切れない・・・急遽予定変更!!なんとかやりくりして2日間を確保。問題は場所、いくら乗り放題だからといっても7時間も8時間も鈍行に揺られるのは勘弁、3、4時間で行ける範囲で遊里が存在し、かつまだ訪れたことのない町・・・自然と導き出された答えは静岡県だったというわけ。急な計画でしたので、相変わらず下調べは杜撰ですぞ、という決まり文句も置いときますね。

 『大宮町遊廓 静岡県富士郡大宮町字茨木に在つて、東海道本線富士駅から富士身延鉄道に乗換へ、大宮駅で下車する。大宮は、昔から富士登山の大宮口宿場で、飯盛女も相当に居たものだが、今は貸座敷が三軒しか無い。娼妓も約十人程居るのみだ。附近は養蚕地なので製糸工場が多い。店は陰店で、遊興は時間制と、廻し制とある。費用は一時間遊びが一円七十銭位で、廻しの一泊は二円見当である。台の物は付かない』

 以上は『全国遊廓案内』による富士宮市の昭和初期の様子です。大宮町とありますが、昭和17年(1942)に大宮町と富岡村が合併して誕生したのが富士宮市になります。大宮という名の由来ですが、古くから富士山信仰の拠点の一つであった富士山本宮浅間大社の門前町として栄えてきたという歴史があるからみたいです。今回はその由緒正しき浅間大社への初詣も兼ねた探索になります。で、肝心の遊廓跡ですが、当然のことながら字茨木なんて地名は残っていないわけ。しかし、駅の西側一帯に大宮町という表記が・・・もう少し目を凝らしてみますと旅館と割烹が数軒あるみたい。この一画を中心に攻めてみることにしましょうか。まあ、当時で三軒しかなかった遊廓です。見つからなくって当然といった感じで気楽にいきましょう。正月ですしね。

 東京から3時間あまり、東海道本線富士駅で身延線に乗り換え20分ほどで富士宮駅に到着。この身延線、富士山を眺めるのには最高の路線かと・・・一度、終点の甲府まで乗ってみたいのですが、途中に遊里が存在した町が無さそうというというのが難点。富士駅を出ると、カーブを曲がる度に左右の車窓に雪化粧を施した山頂が大迫力で迫ってきます。しかし、車内が浅間神社の初詣客でラッシュ並みの混雑・・・ゆっくり眺めていられませんでした。



ご安心を、駅前からもこんな感じで望めますよ。私の下手糞な写真では伝わりませんが、実際はもっともっと迫力があります。正月早々ありがたや〜。しかし、山頂を望めたのはこのときだけ、以降は雲の帽子を被ったままでした。



まずは駅の東側、東町をフラフラしてみます。最初に出会った飲み屋さんがいい雰囲気、先の展開が楽しみになってきましたよ。



料理名を店名にしてしまうとは・・・しかも本店(笑)



ピンクのトタンとは珍しいですね。古びた木の部分との取り合わせ、このアンバランスが堪らんわけです。



入口が二ヶ所・・・どうしてでしょう・・・気になりますよね。レトロな照明もいいなあ。



どのあたりがフラワーなのかよくわかりませんが・・・。



和と洋・・・洋ってほどでもないか・・・でもこういうの好きですよ。



ここから大宮町・・・まず見つけたのが重厚な商家、呉服屋さんみたいです。入口の上に立派な看板が掲げられておりました。向かいはスナックハッピー・・・。



雨戸が閉め切られた謎の建物、何だったのでしょう。



入口も固く閉ざされておりました。扉が斜めに振られているのがおわかりになります???飲み屋さん関係かも・・・いや、もしかすると・・・。



おふくろの味水口屋さん、もうやってないみたい。おふくろさんは何処・・・。



真っ白な塀に囲まれた旅館鳥岩さん、かなり大きな建物なのですが、古いんだか新しいんだか、いまいちよくわからない。一応現役っぽいです。



この界隈、旅館や飲み屋さんが点在しているのですが、どうもピンとこない・・・違うのでしょうか。



かと思えば路地裏にこんな質屋さんがあったりします。付属する頭でっかちの蔵が面白いですね。



あ、また旅館だ。こちらはとっくに退役済みたいですね。やっぱり間違っていない!?なんだか混乱してきた・・・。



四つ辻に建つ看板建築のいけだ化粧品店さん、アーチ窓が気になるのですが、アーケードのせいでよくわからない。右に行くと浅間大社があります。



近くの小さな神様。失礼、名前は失念してしまいました。鳥居の先、参道のように伸びている路地の奥にそれは現われました。



これが問題の物件、単なる古い平屋建てのお宅に見えますでしょ。おや?何か看板みたいなものが掛けられていますよ。



『富士宮五業協同組合事務所』・・・ご、五業!?なんぞコレ???えーと、とりあえずおさらいしておきましょう。所謂花街を形成するために必要な三つの業種(料理店・芸妓置屋・待合)を『三業』といいます。これまで待合抜きの『二業』には何度か出会っておりますが、さすがに『五業』は初体験・・・というか、花街が存在していたのでしょうか。或いは遊廓には芸妓がつきものだったりしますから、それの関係かも・・・いやいや、そんなことより重要なのは残りの二つは何なのかということ・・・で、何なの???



路地を抜け、綺麗に整備された県道76号線を渡った先も大宮町です。このお宅の物干し台には仰天、豪快さんだなあ(笑)



その先が妙に気になる・・・うまく言い表せないのですが、独特の雰囲気があるのですよ。



このいい感じに廃れた路地、地図に載っていないのです。で、これを抜けますと・・・



冒頭画像の場所に出ます。割烹壽さんです。お店のHPを拝見しましたら、現在の御主人で三代目だとか、かなりの老舗ということですね。老夫婦がお品書きを見ていますが、お昼は蕎麦を供しているようです。かなり惹かれたのですが、ここは富士宮、例のB級グルメを食べなくてはと思い踏みとどまりました。



壽さんの先には六本木(笑)地方都市で結構見掛けますが、やっぱり憧れの場所ということなんでしょうか・・・あんなところの何処が良いのか全く理解できませんけどね。



壽さんの裏手に立派な長屋門が残っています。江戸時代に造られたようですが、当初は別の場所にあった豪商のものでした。昭和の始めにこの地移築され、料亭高しま家の門として使われてきたそうです。屋根の上に突き出たガス燈みたいな照明は明らかに料亭時代のものですね。高しま家が無くなった後もこの門だけは残されましたが、痛みが激しく解体寸前のところを市が買い取り、現在は歴史の館という資料館的な使われ方をしているようです。注目してほしいのが、料亭があったという事実、すぐ近くには前述の壽さんがありますし、その2で紹介しますがもう一軒近くに気になる物件があるのです。もしかすると、この一画がそうだったのかも・・・と妄想すると楽しいわけ。



長屋門の向かいには廃墟になった飲み屋さんが数軒、屋号が達筆すぎて読めません。

その1はここまで、その2では浅間大社に初詣をした後、近くで超有名建築家作品のパクリ疑惑物件を発見して大興奮・・・というのはちょっと大袈裟かもしれませんが、個人的にはとてもツボに嵌った物件・・・まあ知らない人が見たら何言ってんだコイツってことになりそうですけど。

静岡県 富士宮市201301その2

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赤と黄・・・ファインダーを覗いていたら目がチカチカしてきた。


 遊廓ばかりが気になっておりましたが、慌てて富士宮の花柳界のことを調べてみましたら出てくる出てくる・・・今更言うことではありませんが、インターネットって素晴しい(笑)それら情報をまとめてみますと、大正から昭和にかけて富士宮では100名超の芸者さんが活躍されていたそうです。その中心となっていたのが、その1で紹介した長屋門の料亭高しま家さんだったというのは嬉しい偶然でした。やはりあの界隈だったようです。事実、往時は検番も存在していたそうで、それの名残が例の『五業協同組合』なのかもしれません。でも、残りの二つは依然として謎のままなんですけどね。で、その由緒正しき富士宮芸者ですが、なんと今も現役の方おられるとのこと・・・その数4名と寂しいものですし、おそらくベテランの姐さんばかりだと思いますが、伝統を絶やしてなるものか頑張っておられるそうです。

 料亭高しま家さんが存在していた一画の西隣には、これから訪れる富士宮本宮浅間大社があるのですが、全国の1,300余りもの浅間神社の総本宮なんだそうです。更に富士山山頂には奥宮があるのですが、八合目より上は全てこの神社の境内という扱いらしいですぞ。それだけ昔から富士山が信仰されてきた証でもあるのでしょう。富士山登山の代表的ルートである富士宮ルートは相模湾を背にして登るため人気があるそうですが、登り口は五合目(標高2,390m)・・・ほとんどの登山客は富士宮市内を素通りしてしまうのでしょう。以前でしたら、登山前に浅間大社で無事を祈り、帰りに芸者さんとどんちゃん騒ぎで精進落し・・・それでも足りない人は遊廓へどうぞ、みたいな感じだったのでは・・・。時代は変わり、今や健脚ならば日帰りも可能ですものね。登山スタイルの変化とともに町も遊里も衰退してしまったのでしょう。嘗ての富士宮は、まさにフジヤマ!ゲイシャ!の町だったというわけ・・・ちょっと力技なまとめ方だったかな(笑)



それでは初詣に行きましょう。浅間大社の手前にこんな塔と下見板張りの工場みたいな建物が・・・地図を見ますと、ニッピゼラチン城山揚水場とあります。ニッピはゼラチン製造国内トップシェアを誇る会社、ゼラチン製造には良質な水を必要とします。富士山麓にひろがる富士宮は、豊かな伏流水に恵まれた町。その湧水を此処で汲み上げているのだと思います。工場みたいのはポンプ室ですね。



建物の外にはみ出した配管とバルブが滅茶苦茶カッコイイんですけど・・・。



浅間大社脇の県道180号線を北へ少し行ったところにあるわく玉旅館さん。もしかしたらと思ったのですが、違ったみたい。現役です。



わく玉旅館さんの向かい、砂利道を挟んで建つのがテーラーゴトーさん。いいですねえ、技術の店。地方都市を訪れると気になるのがこのテーラーともう一つ・・・文化服装学院(笑)



富士山本宮浅間大社境内にある湧玉池、湧水を源とする澄み切った水が満々と湛えられておりました。



向かいのお宅?に住みたい・・・特に手前の茶室っぽい部屋、最高のロケーションでしょ、コレ。



オシドリって生涯添い遂げるというのはウソなんですって、そう書こうと思ったら・・・コレ、鴨じゃん(爆)



湧玉池の奥にある朱塗りの社が水屋神社。此処が湧水の源、敬虔な富士道信者はこの富士山御霊水で身を清めてから富士山に登るのを習わしとしていたそうです。



これが浅間大社拝殿、人出は思っていたほどではありませんでした。元旦に故郷の神社に行っているのですが、初詣って何ヶ所訪れても大丈夫なのでしょうか。



初詣を終え、食事にしようとお店を物色しているときにコレを見つけました。料亭ひさごさん、この向こうにその1で紹介した長屋門こと料亭高しま家さん跡と割烹壽さんがあるのです。



はい、はっきりと富士宮五業組合とありますね。隣は料理店の鑑札、富士山の絵が静岡県らしいですね。



全景はこんな感じ、あっさりとした造りです。風情はありませんな。建て替えたのではないでしょうか。



奥に鳥居が見えますが、この通り、以前は参道の一部だったと思われます。居並ぶ看板建築、参拝客目当ての商店だったのではないでしょうか。しかし、今はもう・・・。



そのうちの一軒、錆びたレンガ柄の板金と純粋なトタン、そしてトタン製サイディング。何でしょうこの奇妙な三層皮膜・・・。



通りの裏手にお宮横丁なるものがあります。観光客向けの小さなお店が集まった所謂屋台村みたいなものと思っていただけたら宜しいかと・・・出口が細い路地に面しているのですが・・・



そこにこんな見事な三階建て。しかし、用途がいまいち判断しずらい。



冒頭画像の赤い屋根の建物です。手前のいい感じにレトロな橋の欄干は浅間大社の湧玉池を水源とする神田川を跨いでいます。



これが全景、かなりの豪邸ではないかと・・・奥から顔を覗かせているのが三階建ての部分。元旅籠のようにも見えるのですが、如何でしょう。



問題は神田川沿いに建つコレ、何となくですが料亭関係に見えるのですが・・・妙な造りだなと思いながら見つめておりますと、あることに気付きました。



オオッ、なんと建物の真下を水路が貫通!?これぞ日本の落水荘じゃありませんか!!そう、フランク・ロイド・ライト先生の代表作の一つであるカウフマン邸がこんなところに・・・物凄いこじつけですけど(笑)所謂トマソンの高所ドアもあるし・・・たぶん増改築の結果なんだと思います。まあ、どう見ても落水荘とは似ても似つかぬものなんですけど、勢いで冒頭のサブタイトル書いちゃったものですから、無理矢理盛り上げようと本人も必死なわけ・・・驚いたフリしてくださいませ。



昼食は予め目をつけていた喫茶らんぶるさんへ・・・ちょっとカフェーっぽい雰囲気の感じられるファサードです。サイケなタイルが堪りませんなあ。



薄暗いというよりも明らかに照度が足りていない店内(笑)見事なまでに昭和で時が止まっておりました。いただくのはもちろんB級グルメの雄、富士宮やきそば。あ、あれ?・・・正直に申して、そこまで騒がれるものなの???というのが第一印象。確かに美味しいですけど、いたって普通なんですけど・・・。



そんなことよりこのレトロな店内のデザインは必見かも・・・あまりにも暗すぎて、やきそば自体の撮影は失敗しておりましたが(笑)あ、富士宮やきそばの由来の一つとして、太平洋戦争で仕事を無くした芸者さんが始めたという説があるそうですよ。たぶん間違いだと思いますけど。



燃料を補給しましたので、いい感じに鄙びた路地を辿りながら西富士宮駅を目指すことに致しましょう。



シャツの彫刻が面白いですね。



西富士宮駅のちょっと先でこれを見つけました。惜しい!!これで屋根が架かっていたら横丁建築に認定していたのに(笑)



建物が奥で曲がっていて、遠近感が強調されているのはポイント高いのですが、いかんせん屋根がねえ・・・勿体無い。新しい建物でしたのであれですが、近くには旅館が二軒あったりして、この界隈ちょっと気になりました。



これはこれはご丁寧に・・・こちらこそ写真だけで申し訳ないです。

以上で富士宮の探索はオシマイ。花柳界の存在は確認できましたが、肝心の遊廓がね・・・でも、初っ端の探索としては結構楽しめました。次回は旧東海道の宿場町由比です。遊里とはほとんど関係ありませんが、これはこれで面白かったですよ。

静岡県 静岡市清水区由比201301その1

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旧東海道16番目の宿場・木製水門とプチ王の小道・珍しいお魚の懸魚

この高度感がお伝えできないのが悔しい・・・。


 由比は東海道五十三次のお江戸日本橋から数えて16番目の宿場、中世の頃に形成されたそうです。天保14年(1843)時点で本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒という記録が残っています。どちらかというと小規模な宿場だったようです。そのため宿場ごとに義務付けられていた100疋の伝馬と100人の伝馬人足の負担がかなり厳しく、何度も軽減してほしいと幕府に陳情していたという実態があるそうです。

 明治維新後、参勤交代の必要が無くなると宿場町から漁業と農業の町に変わっていくことになります。海まで突き出した山肌を利用したみかん栽培が盛んなようですが、なんといっても此処の名物はサクラエビ、かき揚げとか堪りませんよね〜。しかし、悲しいかな今はシーズンオフ、新鮮なのを食べたければ春まで待たないとならないようです。4年前に一つ手前の蒲原宿を歩いているのですが、そのときの終点蒲原駅から歩き出しました。



蒲原駅前を横切っている県道396号線が嘗ての東海道、これを西へ進みます。此処の飛び出し坊やは女の子・・・で間違っていませんよね?



県道沿いには古い町屋がポツリポツリと残っておりました。そのうちの一軒の戸袋、板金の打ち出し装飾が微笑ましい出来。なんの鳥だかよくわからない(笑)



東名高速の高架を潜った先のY字路を左へ、早くも陽が傾いてきた。富士宮でノンビリしすぎましたね、急ぎましょう。右の煙突は・・・



神沢酒造場さんのもの。大正元年(1912)創業の老舗です。



その先で通りが鉤形に曲がっています。此処が由比宿の入口、当時は木戸があったそうです。そこに面している古い商家、志田家住宅です。いつごろ建てられたのかは不明ですが、中に入ると帳場や箱階段などが残っているそうです。



これは蔵でしょうか、古いものではないようですが、ずいぶんと立派な造りです。



本陣跡の向かいの商家は、400年も続く染物屋の正雪紺屋。慶安の変で自刃した由井正雪の生家とされています。



本陣跡に当時の建物は残っておらず由比本陣公園として整備されています。東海道広重美術館なんてものもあるのですが、正月ということで門が閉められており入れませんでした。



本陣公園沿いの水路、当時の馬の水飲み場を再現したものです。こういうものがある本陣って珍しいそうです。そこに亀2匹、所謂直列二亀頭というやつですな(笑)あれ?亀って冬眠しなかったっけ!?



正雪紺屋の隣に方形屋根に下見板張りの可愛らしいお宅があります。嘗ては郵便局だったそうです。明治39年(1906)に建てられました。板塀で美しいアーチ窓が隠れてしまっているのがちょっと残念。



その先に東海道由比宿おもしろ宿場館なる観光施設があります。サクラエビもいただけるようですが、旬じゃないので今回はスルー。その店先にアホ面を晒した二体の人形が・・・間違いなくあの名コンビですね。



こんな近代建築も残っています。旧庚子銀行本店、大正14年(1925)に建てられた国の登録文化財。現在も清水銀行由比支店出張所として現役です。列柱の雷文みたいなオーダーが面白いなあ。



以前訪れたお隣の蒲原宿は、街道筋から分岐する魅力的な路地が結構あったのですが、由比宿はいまいち・・・オッ!?と思って入ってみると、お宅一軒分しかなくてすぐに向こうの通りに出ちゃったりして・・・うまいこといきません。



由比川を渡ってさらに旧街道を西へ・・・しばらく進むと、この豪壮な商家が見えてきます。稲葉家住宅です。出桁にぶっとい垂木が二段、所謂せがい造りというやつです。見事なものですよ。



妻側にはこんな彫り物が・・・下り懸魚というものです。装飾の意味もあるのでしょうが、本来の役目は桁の木口の腐食を防ぐためみたいです。先日、同じものを千葉県茂原市で見かけました。あちらは龍でしたが、こちらは鶴です。銅製の樋もいいですね。



遠くの煙突に『いなばライトツナ』の文字・・・工場みたいです。此処ではなくタイの工場で製造しているようですが、いなばとくれば今話題のツナとタイカレーとチキンとタイカレー。先日、試しに購入してみたのですが、嵌りました(笑)辛いのは苦手なのですが、これはオススメ。100円の味じゃないです。ツマミとしてそのままでもいいのですが、私はパスタに混ぜています。騙されたと思って一度お試しあれ。



辛うじてですが、宿場の面影が感じられるでしょうか。



正月だというのに法被姿の人がちらほら・・・何だろうと思っていましたら・・・



提灯がズラリ・・・何だコレ???



提灯の下を潜って進むと豊積神社。とりあえず初詣を済ませて、辺りで忙しそうに何かの準備をしているお爺ちゃんに、これから何が始まるんです?と聞いてみますと、お太鼓祭りなるお祭りが始まるのだとか。このお太鼓祭り、起源は平安時代まで遡るそうで、簡単に申せば元日から1月3日まで、大太鼓を下げた若衆たちが町内を練り歩くというものみたい。県の無形文化財に指定されているそうです。正月早々大変ですね、という私の言葉に、あんたも正月早々こんなところにね、と返されてしまった・・・アハハ、全く仰るとおりです。夜からが本番みたい・・・そこまではいられないので、ここいらで。



旧街道ばかり辿るのも何なので脇道に入ってみたのですが、大した収穫もなく並行している県道396号線に出てしまった・・・。旧街道に戻る道を探していると、このお宅に出会いました。完全に水路にはみ出ちゃってる(笑)



近くの屋根付き駐車場・・・この空虚な感じが堪りませんな。



その先に冒頭画像の場所が現われます。脇を流れていた水路の前方を見ますと、こんな古びた水門が・・・しかも木製!?長いこと作動していない様子です。問題は脇を下っていく小道・・・。



コレ、幅員の半分ぐらいが水路の上に跳ね出しているのです。水路まで2、3mほどの高さですが、手摺が無い急な下り坂のせいでしょうか、物凄く恐い・・・足がすくみそう。まず思いついたのが、スペインに存在する『王の小道』・・・検索するとyoutubeなどでとんでもない動画がご覧になれると思います。ヒイイ・・・とか言いながら、なぜか何度も見てしまう・・・どうしてでしょうね。大袈裟と思われるかもしれませんが、高所恐怖症ってそういうものなのです。



この橋がまたいい、斜めというのがポイント高いわけ。



振り返るとこんな感じ、やっぱり恐い・・・変色したコンクリートと苔がもっと恐い・・・。あ、黒部峡谷下ノ廊下にも見えてきた・・・まあ、どちらも大金を積まれて踏破しろと言われても絶対無理ですけどね。



おそるおそる摺り足で橋を渡ると、トタンと下見板張りの変な小屋がお出迎え。左の崖からは巨岩が今にも転がり落ちそうに突き出しているし・・・どうなってんだ此処・・・。



ふう・・・ようやく難所を潜り抜けることができました。正月早々、何をやってるんでしょうね・・・。

なんとか旧東海道に戻ることができそう・・・ということで、その1はここまで。その2でも引き続き宿場の面影を求めて街道を行きます。夕陽と追いかけっこですが・・・ほんと、急がないと陽が暮れそう・・・。

静岡県 静岡市清水区由比201301その2

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鰹?鮪?・・・考えてみましたら懸魚の由来って文字通りお魚でしたね。


 その1の最後で難所を潜り抜けてきた私ですが、実はこの由比宿自体が越すに越されぬ大井川と並ぶ東海道の難所だったというはあまり知られていない事実ではないでしょうか。当初の東海道、由比宿と興津宿の間は、海岸まで突き出した急峻な山のおかげで波打ち際の岩場を、白波のしぶきを浴びながら行く旅人泣かせの道だったそうです。『下道』と呼ばれていたそうですが、後になって薩埵峠(さったとうげ)を越えていく『中道』が整備されることになります。まあ、この『中道』も数キロに渡って険しい山道続きますので難所であることには変わりなかったようですが、溺れるよりはましということなんでしょう。

 で、気になるのは『下道』時代のこと・・・当然のことですが、台風などで海が荒れると旅人は宿場に足止めをくらうことになります。そこで出番となるのが飯盛女・・・でも、由比宿の飯盛女のことを調べても乏しい手元の資料だけではよくわからない・・・。そういった宿場ですので、かなりの人数が手ぐすねを引いて待ち受けていたんじゃないかと思われるわけ(笑)その1でアホ面を晒していた名コンビが活躍する『東海道中膝栗毛』にこんな一文があります。

 『此はなしのうち由井のしゆくにつくと、両がはよりよびたつるこへ ちやや女「おはいりなさいやアせ。名物さとうもちよヲあがりやアせ。しよつぱいのもおざいやアす。お休なさいやアせ」 弥二「ヱゝやかましい女どもだ 呼たつる女の声はかみそりや さてこそ爰(ここ)は髪由井の宿」それより由井川を打越、倉沢といへる立場へつく。爰は蚫栄螺の名物にて、蜑人(あまびと)すぐに海より、取来りて商ふ。爰にてしばらく足を休めて爰もとに売るはさゞゐの壷焼や 見どころおほき倉沢の宿それより薩捶峠を打越、たどり行ほどに、俄に大雨ふりいだしけれ』

 『ちやや女』とあるのは『茶屋の女』のことだと思いますが、果たして単なる茶屋の娘だったのか・・・。存在していたであろう由比宿の飯盛女ですが、宿場としての使命を終えた明治維新以降、彼女たちは何処に行ってしまったのでしょう。近くですと薩埵峠を越えた先の清水市遊廓か静岡市安倍川遊廓あたりではないかと密かに思っているわけ・・・余計なお世話ですね、こんなこと。



なんとか難所を潜り抜け、再び旧東海道に戻ってきましたよ。しばらく行きますと由比駅が見えてきます。手前にこんなゲートが・・・そのまま駅前をスルー、まだまだ旧街道を辿りますよ。



県道396号線を渡ると寺尾の集落。この辺りのほうが宿場の面影が残っているような気がします。



脇の路地を覗いてみますと、こんな左官仕上げの重々しい扉が残っておりました。



そして、見上げると橋の欄干みたいな手摺が・・・。



その全景・・・なんでしょう、コレ???



旧街道に戻り先を急ぎましょう。宿場っぽい雰囲気になってきましたよ。



・・・というか、この辺りも由比宿ということで宜しいのでしょうか。その1で紹介した蒲原宿側の入口から3キロ以上も離れているのですが・・・。



海側の一段低い場所に建っていた蔵?三つ並んだ越し屋根が目を引きます。漁業関係の施設でしょうか。



その先に見えてくるのが、東海道名主の館小池邸です。



小池家は代々寺尾集落の名主を勤めてきた由緒ある家柄なんだそうです。残念ながら建物は明治期に建てられたもののようです。現在は街道歩きを楽しむ人のための休憩所として使われています。私も休憩したかったのですが、正月だから閉まってる・・・。国の登録文化財です。



画像を開いてから気付いたのですが、美しい桟が入った窓が連続するこのお宅にも下り懸魚がありますね。



その先で家並みが途切れ一気に山道みたいな雰囲気に・・・左手の海側には東名高速に国道1号線、東海道本線が並行して走っています。山がギリギリまで迫っているためこの狭い場所しか通せなかったということなのでしょうか、なかなか見られない光景です。嘗ては此処を『下道』が通っていたのだと思います。当初はこの辺りで引き返そうと思っていたのですが、日没までもう少し進めそう、行けるところまで頑張ってみましょう。



山側は一面みかん畑ですのでこんなのがあったりします。一度乗ってみたい(笑)



ようやく次の集落が見えてきましたよ。倉沢の集落です。前書きの『東海道中膝栗毛』に出てくるアワビとサザエが名物とされるところです。



神社に立てられた大きなノボリ、結構見かけたのですが、この地域特有のものなのでしょうか。



向かい合う二軒、土蔵風の建物は用途不明です。



旧東海道脇の高台で見つけたのが冒頭画像のお魚の懸魚がある建物、西倉沢公会堂です。寄棟屋根に下見板張りですのでそれなりに歴史がある建物だと思うのですが、綺麗に塗装し直されていて年代が判断できません。



旧街道から分岐する急坂を下っていくと、土蔵の上に住宅を乗っけたような不思議な造りの建物が・・・左手は東海道本線に面しています。



所々にこんな惹かれる路地があるのですが、下っていっても現れるのは線路なんですよね・・・。



左手の平屋建ての商家は間の宿本陣跡こと川島家住宅。この倉沢集落は薩埵峠への登り口に位置しているため、休み茶屋が十軒ほど並んでいたそうです。その中でも、この川島家は集落の名主を代々勤めていたそうです。峠越えをする参勤交代の大名行列がこの店で休憩をしたため本陣と呼ばれているそうです。宿場にあるそれとは違うみたいです。



お隣には一部が土蔵造りの商家、こちらは間の宿脇本陣柏屋。こちらも茶店だったみたいですね。明治天皇御小休所跡と書かれた看板が掛けられておりました。陛下も此処で休憩されたようです。



倉沢集落の家並みが途切れました。この先は薩埵峠へ向かう急な上り坂が続くだけ・・・。



薩埵峠は歌川広重の東海道五十三次で描かれるほどの富士山を望む絶景スポット。時間があればと思っていたのですが、辿り着くのは間違いなく夜(笑)此処で引き返すことに致しましょう。



由比駅に戻る途中、道端でコレを見つけました。時計台って呼んじゃっていいのでしょうか。側面には昭和五年十二月、もう一方には退團記念と刻まれておりました。何から退団したのでしょうか・・・。

歩いているときから気になっていたのですが、どこからどこまでが由比宿だったのかということ。倉沢の集落までとなると5キロ以上・・・こんなに長い宿場ってあるのでしょうか。以上、宿場町由比の探索でした。

静岡県 周智郡森町201301

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石松が育った(らしい)町・蔵が連なる裏路地・破風が美しい老舗料亭

石松の養家だからというわけではないと思うのですが・・・。それにしても見事な枝ぶりですね。


 前回の由比探索の後、清水で一泊です。夕食のため立ち寄ったチェーン店だと思われる海鮮居酒屋、正月ということで此処ぐらいしかやっていなかったのですが、大晦日からずーっと飲みっぱなしだったからでしょうか・・・気が付くと宿のベッドで大の字、どうやって辿り着いたのかよく覚えていないわけ(笑)あ、さすがにマグロは美味しかった、という微かな記憶だけが・・・。せっかく嘗ての赤線である相生町近くに宿を取ったのに、結局行かずじまい。まあ、以前訪れていますからということでお許しくだされ。

 さて、二日目です。毎度お馴染の鉄ネタになってしまい恐縮ですが、以前から気になっていた路線に乗ります。それが浜名湖の北岸をグルリと迂回するようにして掛川と新所川を結んでいる天竜浜名湖線。国鉄時代は二俣線と名乗っていた第三セクターのローカル線です。この路線沿いの遊里が存在したと思われる町を巡りますよ。初っ端は県西部のほぼ中央に位置する森町。町の歴史は鎌倉時代中期まで遡るそうです。戦国時代になりますと、この地域を巡って今川氏と斯波氏が争うようになり、周辺にいくつもの山城が築かれるようになります。町の南北を貫くようにして秋葉山詣でに使われた信州街道が通っているため、江戸時代は宿場町として栄えてきたようです。

 この町のことで忘れてならないのが『森の石松』ですよね。アウトロー、そしてギャンブラーの元祖みたいな人物ですが、この森町出身というのが定説になっています。しかし、愛知県新城市出身という説や実は隻眼ではなかったという説・・・仕舞いにはその存在自体が怪しいと言われる始末、要するにいろいろと謎の多い人物だったみたいです。町の北部、山あいにある大洞院にお墓が存在しているようですが、こういったものの宿命でしょうか、ギャンブルのゲン担ぎのため削って持ち帰る輩多数で何度も造り直しているとか。まあ、このお墓自体、他所にも複数あるそうですから、此処のも本物かどうか怪しいところではあります。

 『森町遊廓 静岡県周智郡森町にあつて、東海道本線袋井駅から北へ約三里、森町行の電車もあれば、乗合自動車もある。電車は駅から賃三十八銭、自動車は四十五銭である。此の遊廓は明治二十四年に設定されたものではあるが、元は矢張飯盛女であつた。散娼制が集娼制に改まつた迄の事である。貸座敷は目下、「花月楼」と、「喜栄楼」の二軒丈けで、娼妓は全部で十五人居る。重に東北地方の女が多い・・・茶、椎茸、次郎柿、森梅衣菓子等が土地の名物だ』

 以上は『全国遊廓案内』による森町に存在したとされる遊廓の昭和初期の様子になります。やはり宿場の飯盛女が由来のようですね。下調べ段階で明治の頃の様子も知ることができました。地元の古老中村秀吉の『明治の森の町物語』によりますと、遊廓の設置は明治29年(1896)だったそうです。天森橋のたもとの新町、天宮境に七軒(初音楼、玄蕃楼、春日楼、花月楼、鈴野楼、金静楼、喜楽楼)が集まって遊廓を形成したとあります。すでに新町、天宮境という町名は残っておりませんが、町の中央を流れる太田川沿いに天森橋という交差点を発見、近くには新町公民館なるものも・・・どうやらこの界隈のような気がします。それ以外にも、石松が育ったとされる家なんてものも残っています。それがどういうわけか割烹旅館なのです。もしかすると、遊里と何かしら関係あるのかも・・・。まあ、いずれにしろ二軒しかなかった遊廓です。見つからなくって当然、気楽にいきましょうや。



掛川駅から一両編成のワンマンカーで揺られること20分ほど、最寄りの遠州森駅に到着です。



木造駅舎の遠州森駅、昭和10年(1935)に建てられました。駅舎とプラットホームは国の登録文化財です。この天竜浜名湖線、駅に到着する度、この駅舎は登録文化財に指定されていますと車内放送があるわけ・・・まあ、有り難がるのは私も含めた少数なんでしょうけど、生き残りに必死なんでしょうね。



森町の中心街へは駅前を横切る県道278号線をひたすら東へ1キロほど。前書きにあるとおりお茶が名産品です(笑)



途中にあった廃院となったお医者さん。玄関廻り、窓の並びがモダンだなあ。



この辺りからが中心街になるでしょうか、地元では川原町と呼ばれているようです。洋品ふくやさんのテント製?のブリーズソレイユモドキが面白いなあ。ちょっと気色悪いですけど。



その先に短い距離ですが古い町屋が続いておりました。宿場の面影が辛うじて感じられるでしょうか。



嘗ての屋号でしょうか、なんて読むんでしょうね。



こちらは大石家住宅、なんと寛政11年(1799)に建てられたそうです。そんな年代物とは知らなかったので全景を撮り忘れてた・・・。それだけ大切にされているということなのでしょう。格子が綺麗だなあ。



盛土をした塚のような高台に建つ三島神社。千年以上の歴史がある由緒正しき神様なんだとか・・・この神社の森が森町の名の由来となったという説があるそうです。



瓦を葺き替えたばかりみたい、これはこれで美しいですよね。この旅何回目の初詣でしょう、数打ちゃ当たるというものではないと思いますが、念のため(笑)



この辺りから新町になるでしょうか・・・しかし、遺構らしきものは見当たらず。まあ、予想どおりでの結果ですので、大して気にはなりません・・・というのは真っ赤なウソ、僅かな痕跡でもいいから何か見つけたかったなあ。



この食堂脇の路地を真っ直ぐ行った先辺りに、嘗ての天森橋があったようです。現在の橋の少し下流になりますね。



こんなお店もありましたが、遊廓との関わりは不明です。とっくの昔に退役してしまったようですけど・・・。



遊里跡は発見できませんでしたが、こういった未踏の田舎町をフラフラ彷徨うのは楽しいものです。



左手、川沿いに建つ重厚な入母屋屋根にピンときました。



玄関に翠清の文字、そして立派な家紋?もしかして!?と一瞬思ったのですが、こちらはウナギ専門の割烹なんだそうです。遊廓だけでなく、森町には芸者さんも多数活躍されていたそうですので、こういったお店に出入りしていたのではないでしょうか。



その先に冒頭画像の物件が現われます。そう、これが森の石松が育ったとされる割烹旅館新屋さんです。



森町出身で『正伝清水次郎長』の著者である村松梢風によりますと、石松はこの新屋さん裏手の高台にある天宮神社の境内で拾われたとされています。



いくつまで此処で育てられたのかはわかりませんが、その後次郎長親分に預けられ数々の武勇伝を残していくことになります。



ほら、ちゃんと看板もありますよ。室内の柱には石松の刀傷なんてものも残っているそうですぞ。割烹旅館ですから芸者さんも出入りしていたのではないでしょうか。石松は酒乱だったらしいので、芸者さんを呼んでどんちゃん騒ぎ・・・勢い余って刀を抜いたという感じだったのかも・・・。でも、この建物、どう見ても江戸時代からのものには見えないのですがね(笑)



せっかくですので、天宮神社に初詣していきましょう。



本殿は改修工事の真っ最中で見られませんでした。石松が拾われたらしい境内から森町の町並みを見下ろします。真下に見える建物が新屋さんです。



帰りは辿ってきた通りと並行する路地を行くことにしました。これが大正解。



円窓が縦に二つ並ぶお店?元飲み屋さんでしょうか。路地のクネリ具合が絶妙ですな。



その先、笠付きの街灯がレトロな蔵と向かい合うのはオカノ写真館さん。



すでに現役ではないみたい。綺麗に直されておりますが、ヴォールト屋根のキャノピーはかなり歴史があるものだと思います。欄間も宜しいですな。こうなると二階部分が気になるわけ・・・サイディングの内側はどうなっているのでしょう。



オカノ写真館さんを通り過ぎると、蔵や古い町屋が集まる一画。いい雰囲気です。



近くにも割烹料理店、小さな町なのに結構見かけるのが気になるところではあります。



小庇を支える持ち送りは何を象っているのでしょう、ステキですね。ペンキが剥げ落ち気味のトタンもいい感じ。



また蔵が現れました。漆喰が落ちて下地の荒壁が露わになっておりました。



銅板張りの扉に見事な緑青、綺麗ですねえ。



その先に現われたコレにはビックリ!!料亭の柏屋さんです。創業は明治年間、四代続く老舗なんだそうです。



現在のお店は昭和4年(1929)に建てられたもの、最近になって改修されたみたいですね。瓦から下見板張りまで、全てが新しくなっておりました。特に目を引くのが見事な唐破風、絶妙な曲線ですね。わかりにくいと思いますが、奥の部分は鮮やかな群青色に塗られています。現在はフェンスに面していますが、往時は此処がメインの入口だったのでしょう。



二階はコの字のプランになっているようです。往時の姿を尊重しそのまま改修されているのだと思います。素晴しいことですね。いやー、いきなりだったので本当に驚きました。



帰り道、遠州森駅近くで出会った出世稲荷・・・まあ、普段出世などとは全く縁のない生活を送っておりますが、これだけ並ぶとなんだか脅迫されているみたい・・・恐いです(笑)



登録文化財の木造駅舎に戻ってまいりました。



やってきた掛川方面に向かうワンマンカー、これには乗りませんよ。それにしてもおチビちゃんって鉄道大好きですよね。



私が乗るのは反対方向に向かうこちらです。

結局というか案の定といいますか、遊廓跡は確認できませんでした。石松と同様、本当に存在していたのでしょうか。以上、森町の探索でした。

告知 夕宵鉄路

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総員に告ぐ!!・・・あ、このキャラすぐ破綻しちゃうのでいつもどおりでいかせていただきますね。勝手にスナップの鬼と呼ばせていただいているGG−1こと写真家岩屋光俊氏の個展『夕宵鉄路』(ゆうしょうてつろ)が2月4日(月)から新宿のギャラリー蒼穹舎にて開催されます。

筋金入りの『鉄』らしい氏のブログを拝見しておりますと、時折見たこともない鉄道や聞いたこともない駅が現れます。調べてみますと、へえ〜、あそこを走っていたんだと驚かされることがあるわけです。タイトルから想像して今回はそのあたりのことなのかな?と思っているのです。盲腸線限定になってしまいますが『鉄』の駆け出しみたいな私にとっては興味深々のテーマなのですよ。

ご本人は閑古鳥が鳴くかもなんて謙遜されておりますが、そうならないよう皆様こぞってお越しくださいませ。



◆岩屋光俊ブログ『Roc写真箱』 http://roc69.exblog.jp/
◆ギャラリー蒼穹舎          http://www.sokyusha.com/gallery/gallery2013_1.html

静岡県 浜松市天竜区二俣町201301その1

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隠れていた松皮菱・砦のような美術館・社と池と櫓と井戸?

嘗ての目抜き通り、人っ子一人おりませぬ。正月だからですよね?


 遠州森駅からワンマンカーで揺られること20分、山あいの天竜二俣駅に到着です。現在は浜松市天竜区ですが、以前は天竜市でした。で、天竜市の前身は二俣町だったわけです。この町の特徴はなんといっても天竜川。大きく蛇行した流れの内側、岬のように突き出した高台に町の中心があります。そんな場所ですので、中世の頃は戦略上重要な地だったようで、岬の先端に築かれた名城二俣城を巡って武田信玄・勝頼親子と徳川家康が何度も激しい攻防を繰り広げたそうです。近代になりますと、天竜川の水運を活かした物資の集積地として栄えていくことになります。特に周辺の山から切り出した木材が特産でしたので、上流にある佐久間ダムが完成する1950年代まで筏流しが行なわれていたようです。また、秋葉街道が南北に貫いていましたので、宿場町という一面もありました。往時は相当賑わっていた町なんだと思います。

 『二俣町遊廓 静岡県磐田郡二俣町字吾妻町に在つて、東海道線浜松駅から遠州電鉄に乗換へ、二俣駅で下車する。乗合自動車の便があつて賃十銭。附近の三方ヶ原は家康と武田氏とが戦つて家康の初めて敗けた古戦場として有名だ。二俣は天竜川の沿岸に在つて、北遠の咽喉を占め、水利の便がよい。当貸座敷は明治九年に許可されたので、目下妓楼は八軒、娼妓は二十五人居て、静岡県の女が最も多い・・・恐らくは茲は県下最低廉の遊里だらう。妓楼は、延年楼、小泉楼、宝来楼、金子楼、二見楼、喜楽楼、吾妻楼、京美楼、の八軒』

 お馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。吾妻町とありますが、残念ながらこの町名は残っておりません。これは困った・・・しかしです、そんなに大きな町ではありませんので、じっくりと目を凝らして地図眺めてみますと・・・八軒存在したという妓楼と同じ屋号の旅館を発見。それ以外にも周囲には小さな町にしては不自然なくらい旅館が集まっているわけ。この界隈を重点的に探ってみることにしましょうか。



天竜二俣駅に降り立つと、鉄ちゃんや親子連れがチラホラ・・・なんだと思いましたら、構内に残る近代化産業遺産に認定されている扇形車庫や転車台などを見学できるツアーがあるんだそうです。予約なしで参加できるみたいなのですが、時間帯があわず断念。仕方ないので駅前に展示されているこちらで我慢します。C58の389号機、嘗ては北海道を走っていました。昭和44年(1969)から天竜浜名湖線の前身である国鉄二俣線に移り、昭和46年(1971)にこの地で廃車になりました。



状態はあまり芳しくありませんが、運転台も見られますよ。



駅前を西へ、天竜川の支流である二俣川を渡るとそこが二俣町の中心。その真ん中を南北に走っているのがクローバー通り商店街、一応これが目抜き通りみたいです。手前の古い商家の奥、赤い鳥居が見えますね。



しっかりと吾妻町と書かれておりました。この辺りのようですね。ちなみにこのお稲荷さん、豊川稲荷から分閣されたものだそうです。



脇道に入ると旅館ふか家さん、新しい建物でした。



そのまま脇道を抜けると二俣川沿いの国道152号線に出ます。これが嘗ての秋葉街道になります。そこにこの看板、前書きの『全国遊廓案内』の中に喜楽楼とありますよね。果たして建物は・・・



残念・・・こちらも新しくなっておりました。転業旅館なのでしょうか。



近くの路地に入りますと、まず現れたのが吾妻町公会堂。



その先に、由女とあります。『ゆめ』とでも読むのでしょうか、用途は不明。建物はいたって普通のトタン製サイディング張りです。実はこの路地、さきほどのクローバー通りに出るために通ってきたのです・・・どうしてこれに気付かなかったのだろう。



問題はそのお隣、こちらもトタン製サイディングで綺麗にお化粧されているのですが・・・どうも全体の雰囲気が妙・・・。手前に大和張りの塀がありますが、その奥を覗き込んでみますと・・・



オオッ、こんなところに松皮菱が!!周りの色褪せた漆喰、元は何色だったのでしょう。たぶんこれが遺構で間違いないと思います。



建物の裏手は細い細い路地に面しています。プロパンがそれなりに新しいのでどなたかお住いのようですが、見た目は完全に廃屋状態です。



高欄風の手摺が残っておりましたが、元の姿が全く想像できませんね。何も発見できなかったらどうしようと思っていましたので、とりあえずこれで一安心。安心した途端、お腹が鳴った(笑)



路地を抜けたところにある喫茶店だか食堂だかよくわからないお店に飛び込みました。地図を見ても、此処ぐらいしか食事ができそうなところがなさそうですので・・・。まさに昭和で時が止まっている店内、半ば物置と化していたのですが、正月早々、とんでもないものをいただいてしまった・・・好き嫌いはほとんどない人間なのですが、これは正直きつかった・・・。



とりあえず空腹だけは満たされたので探索続行、クローバー通りに戻りますと最初に現れるのがかどや旅館さん。庇の先端はモザイクタイル貼り、小判型の窓みたいなのは何でしょうね。コレ、一見するとモダンな看板建築風に見えますでしょ???



しかし、妻側に廻ってみますと、こんな立派な切妻屋根が現れて驚かされます。洋と和の境を強引に仕切る妙な形状の袖壁が面白いなあ。



この建物、ものすごい奥行きがあるのです。



しかもその先に続くのが・・・なんと、赤煉瓦の蔵。



さらに続きがあるのです。今度は雷紋が施された石蔵風。石積に見えるのは左官による目地ですよ。以上、二俣町の嘗ての栄華を物語るような建物でした。



たま〜に車が通りかかるくらい・・・静かな静かな正月の田舎町・・・。



この時計、いつから止まったままなのでしょう。窓の桟がカワイイですね。



オーシャンウヰスキーの箱文字が懐かしい酒屋さん。普通の看板建築風に見えますが、近付いてみますと・・・



おわかりになります???コレ、全部『木』なのです。角のアールのついた部分も含めて。下見板張りにも見えますが、どちらかというと天然スレートやカラーベストコロニアルを木材で代用しているといったほうが正しいかもしれません。林業で栄えていたという名残なのかもしれませんね。非常に珍しいものだと思います。こういう発見は嬉しいなあ。



またまた旅館、こちらは現役の尾張屋旅館さん。高欄風手摺に白く塗られた庇の持ち送りが見られますが、古いものではなさそうです。



歴史はあるようですが、遊廓との関係などは一切不明です。



ここでひとまずクローバー通りとはお別れ・・・二俣川を渡って町の東側にある山へと続く急坂をヒイヒイ言いながら登っていきますと、まるで砦のような不思議な三角屋根が見えてきます。



浜松市秋野不矩美術館。秋野不矩(あきのふく)は二俣町出身の日本画家。彼女の功績を称えるための美術館になります。設計は看板建築の名付け親である藤森照信と内田祥士(習作舎)、竣工は平成10年(1998)。インドやネパール、アフガニスタンなども訪れて創作していた彼女の作品とも共通点があるように見える建物です。



屋根の天然スレート、藁すさの入ったザクッとした左官の外壁、地元産と思われる杉板等、自然素材のみで造られた温かみのある建物になります。外壁から突き出しているのは木製の樋、ル・コルビジェのロンシャンの教会をモチーフにしているとか、いないとか・・・。普段の私はコンクリートや金属ばっかり・・・こういったのに憧れるのです。えっ、中は?ですって・・・正月のため休館ですって・・・またやっちゃった、アハハ・・・。



町中へ戻る途中、とある会社の正月のお飾り。橙が落っこちてた・・・これは不吉だ(笑)

前半はここまで。後半もいい感じに鄙びた町をウロウロした後、この二俣町で育った偉人ゆかりの場所を訪ねますよ。お楽しみに。

静岡県 浜松市天竜区二俣町201301その2

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トタンで出来たコートハウスとでも申しましょうか。


 二俣町ゆかりの偉人というのが本田宗一郎。畑は違えど私も技術者の端くれ、偉大すぎる大先輩のこと尊敬しておりますよ。宗一郎の出身地は静岡県磐田郡光明村、この村と二俣町・龍川村・上阿多古村・熊村が合併して発足したのが旧天竜市になります。現在の浜松市天竜区山東が嘗ての光明村になるみたい、現在私がフラフラしている旧二俣町とは隣同士なわけ・・・宗一郎は大正8年(1919)に二俣町立尋常高等小学校に入学していることですし、もう彼の郷里といってしまっても構わないかと。強引ですけど(笑)尋常高等小学校卒業後、宗一郎は東京湯島の自動車修理工場アート商会に丁稚奉公に出ることになるわけです。そんな彼のゆかりの地が近くにあるとのことですので、フラフラついでに寄ってみましたよ。



再びクローバー通りに戻って参りました。入母屋屋根になまこ壁があるのは、こちらも旅館の海老屋さん。ほんとこの界隈、旅館ばっかりですね。そのまま視線を先に動かしていきますと・・・なんと、三階建!?



こちらは御宿陣屋さん、またもや旅館です。元々は福田屋という屋号だったそうです。陣屋とありますが、宿場のそれとは違うみたいですよ。残念ながらとっくの昔に退役されたようです。



御宿陣屋さん向かいにあるのが二俣医院さん。車寄せのある下見板張りの擬洋風建築は大正5年(1916)に建てられました。今も現役というのが素晴しいですね。外壁の水色はオリジナルでしょうか。



かと思えばこんなお店も・・・誰だっけ、こんなの描く女性イラストレーターいましたよね。



その先にあるのがヤマタケの蔵、中庭を囲むようにして三棟の土蔵が並んでいます。元々は材木や繭を扱う商家のものだったそうです。ヤマタケというのは、その商家の屋号みたいです。母屋は解体されましたが、蔵だけは残されました。正面の蔵は二俣町唯一の蔵座敷なんだとか。



一部には煉瓦が使われています。現在はコミュニティ施設的な使われ方をされているそうです。大正12年(1923)に建てられました。



要石のあるアーチは裏門になります。いい感じです。↑で一部に煉瓦と言いましたが、メインの構造は煉瓦造に漆喰塗りみたいです。



固く雨戸が閉め切られた土蔵造りの商家、たぶん廃屋なんだと思います。欄間の造りが面白かったので一枚。



クローバー通りの西側、山沿いを並行する通りへ・・・その先にこれが現れます。本田宗一郎ものづくり伝承館。元々は昭和11年(1936)に建てられた旧二俣町役場ということなのですが・・・このリフォームはやりすぎ、どう見ても新築物件ですがな。真偽のほどはわかりませんが、元の建物を解体してそっくりに改築したという噂があるのですが・・・。しかし、これでも国の登録文化財・・・選定基準ってどうなっているのでしょうね。



で、隣にあるのが二俣諏訪神社。杉の巨木の奥に本殿があります。さしずめこの杉は鳥居代わりといった感じでしょうか。もちろん初詣させていただきましたよ、この旅5回目ですけど(笑)



この諏訪神社なんですけど、境内が変。こんな円形の池、奥の櫓みたいのは何でしょう???



この池、清龍の池と呼ばれているそうです。必要以上にごつい橋(笑)を渡った先には弁天様だったっけ・・・奥には地蔵堂と奥の院?何だかすごいことになっちゃっているわけ。



何よりも気になるのはこの櫓です。井戸櫓というそうで、よく見ると櫓の根元に井戸があるのがおわかりになるかと。何か由緒あるものだと思っていましたら、元々は二俣城にあったとされる天竜川の水を汲み上げるための櫓を復元したものなんだそうです。どうしてこの場所に造られたのかは不明・・・単に高低差のある場所ってだけかも・・・。



櫓の上はこんな感じ、床板が抜ける恐れがあるため立入り禁止です。まあ、頼まれてもこれ以上は進めませんけど。



だって、こんなロケーションですよ・・・ヒイイ・・・。



櫓のある崖上に建つ清龍寺さん、本田宗一郎ゆかりのお寺です。信長に自害させられた松平信康の菩提寺でもあります。尋常高等小学校時代の宗一郎少年は、このお寺の正午を知らせる鐘を30分早く突き、まんまと早弁していたんだとか、さすがです(笑)



大正14年(1925)に建てられたあさの洋品店の蔵、二俣町では珍しい石蔵です。使われているのは伊豆石、持送りの金物が立派です。戦時中、作家の有吉佐和子が此処で疎開生活を送っていたそうです。



その先に冒頭画像のトタンで出来たコートハウスがあります。これがファサード。



立派な土蔵、漆喰の劣化具合が最高です。



シンメトリーでマッシブな看板建築のだるまさん、元飲み屋さんでしょうか。目に止まったのが脇の路地・・・



こんな看板が・・・入ってみましょう。



ご丁寧に中ほどにも看板(笑)と思ったら、本当にお店がありました。ペラペラの書き割りみたいな建物です。



これはいい雰囲気ですなあ。お店が存在したこと自体に驚いたのですが、もっと驚いたのが正月だというのに開店準備中だったということ(笑)



この路地、気に入りました。



これは別の路地、高欄風の手摺が気になりますが、正体不明。



飲み屋さんの成れの果てらしきお店が並ぶ通りに出ました。さっきまであんなに晴れていたのに、気がつくと山のほうから風に乗って雪がヒラヒラと・・・。



当初の予定では、二俣城址と天竜川も訪れるつもりだったのですが、寒くて堪らないので今回はここまでとさせてください。

遊廓跡らしき一画も発見できたことですし、結構実りの多い探索となりました。以上で今年最初の静岡ノンビリ旅はオシマイです。お付き合いありがとうございました。

埼玉県 本庄市201212(再訪編)その1

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スクラッチタイルの長屋商店・謎の玉垣に再会・荒廃進む妖しい路地裏

一棟に床屋が二軒というのはどうなんでしょう。しかも左のお店、価格設定が変だし(笑)


 前回の2013年初っ端の探索に続きますのは、2012年納めの探索。時系列が前後しておりますが、些細なツッコミはなしということでお願い致しますよ。確か前回は2008年だったと記憶しておりますので、4年ぶりになるでしょうか。本庄を選んだ理由は・・・特にございません。腕組みをして暫く地図と睨めっこ・・・結局惹かれる町が見つからず・・・とりあえずこの辺りに行っとくか・・・こんな感じ。ですので、この前書きにも書くことが思いつきませんので、早速始めさせていただきます。

 『本庄町 本庄町は、埼玉県と群馬県との国境近くにあつて、鉄道に依れば、高崎線本庄駅で下車する。此処も県令に依つて公娼を廃止されて居るので乙種料理店と成つて居る事は浦和川口等と同様である。店は全部陰店制で自由に客と交渉が出来る様になつて居る。御定りは二円と定められて居るが、大抵は料理の一二品を取らねばならぬので総計三円五十銭位はかかる事だらう』

 以上は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。前回のレポにも記してありますが、本庄は旧中山道の宿場町、しかもかなりな規模だったようですので、たくさんの飯盛女が活躍していたのではないかという想像は容易にできるわけです。一説では最盛期で、飯盛女を置いた旅籠が54軒もあったといいます。それの名残ともいえるのが『だるま屋』と呼ばれていたお馴染乙種料理店ということになります。これも前回記しましたが、『日本全国遊廓一覧』には貸座敷という名の下、9軒51名という記録が残っているわけ。これが乙種料理店で間違いないと思うのですが、遊廓のように一廓を成していたのか、市内に散在していたのか・・・今となっては知る人も僅かなんだろうなあ。

※前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが理解しやすいかと。



今回も同じ物件から始めましょう。駅のすぐ近く、JR高崎線沿いに建つ旧大政商店本庄支店、赤煉瓦で彩られた商家です。個人的には本庄でいちばん美しい建物だと思っております。大正9年(1920)建てられました。



立派な卯建、これだけの逸品、特に赤煉瓦となると関東ではかなり珍しいものになると思いますよ。



北側を並行している通りへ・・・こちらも前回紹介した西沢写真館・・・って、手前のコレには気付かなかった。協立印刷さん、こういうシンプルなの大好きです。星にKの社章がカッコイイ。



で、肝心の昭和2年(1927)に建てられた西沢写真館さんですが・・・明らかに崩壊が進行しておりました。これだけの写真館ってなかなか見られないと思うのですが・・・。



たっぱのある二階が写場だと思うのですが、窓が外れ中はゴミ屋敷状態・・・震災の影響もあったのかもしれません。このお店、ウェブで検索すると一応ヒットするのですが、現役なのかなあ。



ショーケースに色褪せた写真、いつからこのまんまなんだろう。



その先の交差点に冒頭画像の看板建築の長屋形式商店が威容を誇っています。またまたになりますが、これだけの規模のものは珍しいと思います。同潤会の一連のアパートを彷彿とさせるのはなぜでしょう。手前の床屋さんの袖看板をご覧下さい。カット900円、調髪980円???それを見上げる三人組、「金額間違えちゃったよ・・・」とでもぼやいているのでしょうか(笑)



縦を眠り目地として水平ラインを強調したスクラッチタイルが綺麗だなあ。年代ははっきりしませんが、おそらくは昭和初期頃に建てられたのだと思います。それにしてはタイルの剥落がほとんど見られません。腕のいいタイル職人さんが担当したのでしょうね。



脇道で見つけた藤の湯さん、素っ気無い建物ですが現役ですよ。



藤の湯さんの向かいに建つ半ば廃墟と化しているソシアルビルの階段に、なんと美しいグラデーションが!?コレ、意図したものではなく、たぶん陽に焼けただけだと思います(笑)



なんと、天国はこんなところにあったのか・・・。



このお店、前回訪れた際、ずーっと準備中なんでしょうね・・・なんて言ってしまったわけ。現役でした。モンローさん、その節は大変失礼致しました。



前回も紹介した路地、相変わらずいい雰囲気ですなあ。赤煉瓦の建物は明治27年(1894)に建てられた旧本庄商業銀行倉庫、担保物件である繭を保管するためのものでした。現在は洋菓子店として余生を送っているはずなのですが・・・。



路地を抜け旧中山道である県道392号線に出てみると、どうも様子が変・・・なんと、もぬけの殻状態、洋菓子店は何処・・・。どうやら2011年夏に突然閉店してしまったそうです。何があったのでしょう。現在は市が買い取り、活用方法を模索中みたい・・・一応、国の登録文化財ですので、変な使い方だけは避けてほしいものです。



中央三丁目交差点を左折、今回は大して目的のない探索なのですが、とりあえず訪れておきたいという場所がこの先にあるわけ。



その目的地の手前にある文具店の丸十さん。70年代テイストの店舗部分がいいなあ。手前の駐車場、何かがあったような微かな記憶が・・・。



まあ、そのおかげで以前は見ることができなかった趣のある母屋部分をジックリ観察できるわけ。



此処が一応の目的地である普寛霊場。御岳教の開祖である修験者普寛を奉っている社です。地元の方は親しみをこめて『ふかんさま』と呼んでいるそうです。



必見なのがこの玉垣、前回偶然コレを発見したときは驚いたよなあ。刻まれているのは寄進者の名前というのはご存知だと思います。上の縦書き部分には一番組、二番組とありますので、所謂火消し関係の方々ですね。問題は下の横書き部分・・・判読できるのを以下に挙げてみます。『白山待合 仲よし とんぼ 新花』『白山 寺島家 さのみ家』『芝烏森 桝田家』白山、芝烏森とありますで、おそらく花街関係と思われます。



強烈なのが右の玉垣・・・『新吉原 角海老楼』『新吉原 一元楼』『新吉原 品川楼』『新吉原 大華』『新吉原 水常楼』『新吉原 辰金楼』『新吉原 大崎屋』『新吉原 大慶』『新吉原 鯉松』『新吉原 ○(読めず)中楼 長清楼』・・・とまあこんな感じで新吉原のオンパレードなわけ、こりゃ壮観だわ。



それだけ信仰されていたという証拠なんでしょうけど、どうしてこんなにも吉原の皆さんから支持されているわけ???



本堂の天井、龍の彫り物が見事でしたよ。



近くにあるのが、明治16年(1883)に建てられた擬洋風建築の旧本庄警察署。現在は本庄市歴史民俗資料館として余生を送っています。しかし、年末年始の休館中で入れませんでした。

前半はここまで。普寛霊場の玉垣は一度見てみる価値ありかも、かなり驚かれると思いますよ。後半もこれまた前回訪れた、妖しげな界隈のその後の様子を再訪してみます。

埼玉県 本庄市201212(再訪編)その2

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垣根の垣根の曲り角♪・・・山茶花山茶花咲いた道♪・・・焚き火はありませんでした。


 嵐のような年度末がようやく過ぎ去ろうとしておりますが、依然としてあれこれ残務が山積み・・・相変わらずてんてこ舞いの私です。それのせいにするわけではありませんが、この前書きに記すことが全く思いつかない・・・ですので、早速始めさせていただきます。ほんと手抜きで申し訳ない。


※前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが理解しやすいかと。



旧本庄警察署近くで見つけた洋館付住宅、かなり立派なお屋敷です。蔦に覆われた母屋はお化け屋敷状態ですが、塀や門は妙に新しいのが不思議。



虫籠窓と格子が並ぶお宅、いい感じに鄙びております。埼玉で虫籠窓って結構珍しいと思いますよ。何気なく格子の奥を覗いてみますと・・・



B29???



その先に前回も紹介した廃れきったお店が並ぶ妖しい路地があります。前回も感じたのですが、明らかに此処の空気、澱んでいる・・・。



私が立っている駐車場にも同じような建物が並んでいたのですが解体されてしまったようです。旧中山道に面したところにあったお寿司屋さんのゲートも消え失せておりました。それにしても壮観ですなあ。



銀座二丁目にやってまいりました。この界隈の妖しさもなかなかのものですぞ。



色褪せたピンク色のレトロなはじめや食堂さんで昼食です。気になる存在でしたが、前回は入れなかったのです。このお店、一見するとカフェー風に見えなくもない・・・かな!?後から知ったのですが、ロケなどにも使われているそうで、フカキョンが此処で働いているシーンが撮られたそうですぞ。いいですよねえ、フカキョン(笑)でも、気付けば彼女、いつのまにか三十路なんですよね・・・。



優しそうな老夫婦が切り盛りするお店です。入るとチェックのテーブルクロスが掛けられたテーブルが二つだけ・・・えっ、こんな狭いの!?とりあえず座ったのですが、実は奥にガラス扉で仕切られた別室があるのです。後から来た常連らしい地元のお客さんは、慣れた様子でそっちを利用していました。ちょっと変わった造りですよね。元々は食堂ではないのかも・・・。で、注文したのはしょうが焼き定食、ポークソテー用みたいな分厚いお肉が使われておりました。味噌汁の旨さが印象的でしたよ。



食った食ったとお腹をさすりながら出てくると、お店の駐車場でこのチビニャンコに出会いました。全力で逃走を図る寸前の姿です。



向かいには売り地の看板が立っている更地、井戸のみが残されておりました。



その先が冒頭画像の山茶花の垣根がある場所。電柱のニャンコはさっきのとは別の子です。



酒処美味さん、前回もそうでしたが相変わらずのいい佇まい。見事な飲み屋建築だと思います。



例の如く、入口の扉は斜めに振られております。



近くにあるのが前回も紹介した円窓がある謎のお宅。通りの先には飲み屋さんの看板がいっぱい、そんなロケーションですので気になって仕方がないわけ。



横から見ると妙に平べったい建物であることがわかるかと思います。窓の位置も変だし。しかも奥は表通りに面した看板建築の商店に繋がっているわけ・・・ますます訳がわからない。



こちらも前回紹介した路地。行き止まりのように見えますが、突当りでクランクしていて何処かに抜けられるみたい。お約束ですので、一応言っておきましょう『ぬけられます』



路地の中ほどにある窓の桟が特徴的な廃屋も以前と変わらず。私の中では、これこそが『だるま屋』こと乙種料理店ではないかと思っている物件になります。実際のところどうなんでしょう・・・。



もう一つの路地、ミッキーさんの看板は健在。相変わらずの宣伝量に苦笑(笑)向かいの廃屋にはブルーシート、何があったのでしょう。



路地を抜けると、嘗ては賑わっていたと思われる商店街。此処には何かのお店があったと記憶しているのですが、それが解体された結果奥から小さな土蔵が現れたというわけ。



土蔵の脇にはさきほどのミッキーさんがある路地と並行するようにして、廃墟と化したトタン長屋が奥へ続いています。



ほんのりと辺りに漂う甘ったるい異臭・・・正体はこの葉っぱの実???



突当りに建つのっぺらぼうの看板建築が気になって仕方がない・・・何だったのでしょうね。



荒れ果てて崩壊しつつある長屋を覗いてみました。



どんな寂れた地方都市でもこの商売だけは元気だったりするんですけどね・・・。

また数年後訪れるとまた違う光景が見られるのでしょうね。以上、ゆっくりと姿を変えつつある本庄の妖しい一画でした。

群馬県 高崎市倉賀野201212

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追分がある宿場町・ぽっかりと口を開けた奥・畑の中に忽然と現れたもの

『前方』から見た『後円』・・・コレ、なんだかお分かりになります???


 本庄(前回参照)が当初予定していたよりも早く片付いてしまった・・・このまま帰ろうかと思ったのですが、日没までもう少し時間がありそう。隣町の深谷にでも寄っていこうかと思いながらぼんやりと地図を眺めておりますと、目に飛び込んできたのが倉賀野の文字。そうか、此処があったか・・・以前、ざっくりと下調べをしたことがあるのです。まあ、いつもざっくりなんですけどね(笑)

 倉賀野は中山道の江戸から数えて12番目の宿場町。ちなみに前回の本庄が10番目になります。この倉賀野宿で日光へ向かう例幣使街道が分岐しているわけ。所謂追分があるということになりますね。そのせいなのか分かりませんが、往時には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠60軒あまりを数えたといいます。かなりの規模を誇った宿場であることが分かるかと思います。問題は宿場としての使命を終えた後のこと・・・此処は廃娼県である群馬県、果たして『だるま屋』こと乙種料理店は存在していたのか。飯盛女と称する遊女も存在していたと思うのですが・・・。元宿場の町並みウンヌンなんかよりも拙ブログ的にはそっちが気になるわけです。



なんとも殺風景なJR高崎線倉賀野駅の駅前・・・旧中山道へは、とにかく南へ行けばいいみたいです。



旧中山道に出る手前にあった自由堂薬局さん、いいなあこのファサード。



通称東国文化歴史街道こと県道121号線に出ました。これが嘗ての中山道。とりあえず追分を見たいので東に向かいます。最初に現れたのが土蔵造りの商家。どうやらすでに空き家みたいな雰囲気・・・かなりの奥行きがあります。



海鼠壁の塀沿いに裏手に廻ってみますと、こんな立派な門が残っておりました。かなりの豪邸だと思います。



素っ気無い看板建築のお店・・・すごい奥行きだなと思いながら視線を動かしていきますと・・・エッ、煙突!?



裏手はこんな状態、とっくの昔に廃業したのか廃墟と化しておりました。たぶんお風呂屋さんだと思います。



ようやく元宿場町に相応しい家並みが現れましたよ。



まずは立派な卯建が上がった出桁造りの重厚なお宅、これは大変宜しいですなあ。



建物はもちろんですが、感心したのが見事なリフォーム手法。大切に使われているんだなあ。



お次は白の土蔵に緑の見越しの松、そして黒板塀。シックな装いです。



門がすごく立派なんですよ。



こちらが宿場時代の雰囲気をいちばん感じられるのではないでしょうか。往時のもののように見えるのですが、年代がはっきりしないのが残念。



その先で道路が分岐しています。此処が追分になります。右が旧中山道、左が旧日光例幣使街道です。



追分に建つのがカラフルな閻魔堂。宿場時代は阿弥陀堂だったそうなのですが、明治になって建て替えたところ閻魔堂になってしまったとか・・・なんだそりゃ(笑)



左 日光道、右 江戸道と刻まれていますね。奥の石灯篭は追分常夜灯と呼ばれています。



最初の場所に戻る途中、脇道で見つけたお宅。換気用の越屋根が並んでいますね。屋根裏でお蚕さんを飼っていたんだと思います。



若草ということで建物も緑なのでしょうか。試しに検索したら、豪快な動画を発見してしまった。コレ、カラオケDAMで配信中なんだとか(爆)矢島院長の白塗り怖いのですが(笑)心臓の弱い方ご注意を・・・。



同じ建物に入居しているのがコチラ。もちろん入れませんでした。年末年始だからというわけではなく、ずーっとこの状態みたい・・・。



最初の場所に戻り、今度は旧中山道を西へ・・・嘗ての本陣はベイシアの駐車場になっておりました。以前の下調べでは、この先に脇本陣が残っていると記憶しているのですが・・・



目の錯覚???確か二階建てだったはず・・・それに、妙に建物が傷んでいるように見えます。震災で被害を受けたのでしょうか。



覗き込んでみて納得。ジャッキアップして基礎を造り直しておりました。それで三階建てに見えたわけです。かなり大掛かりな改修工事が行なわれているようですぞ。この脇本陣、実は江戸時代のものではなく、明治36年(1903)に再建されたものなんだそうです。それでも築110年、まあいろいろと建物に問題が起きても仕方ないですよね。今後どう使われるのか気になるところです。



脇本陣の敷地はかなり広大、それを取り囲むようにして蔵が並んでおりました。その中に巨木がドーン。



蔵沿いを辿っていきますと、これまた裏門がありましたとさ。これも立派だなあ。



再び旧中山道に戻って上町の交差点へ・・・そこにあるのが極めてシンプルな看板建築、ぽっかりと口を開けた奥が気になるわけ。恐る恐る覗いてみますと・・・



なんだ、この妙な造りは・・・長方形のガラスブロックにブラックガラスの扉・・・喫茶B・G!?若い人は知らないと思いますが・・・というか、私も知らない時代ですが(笑)戦後すぐの頃、社会に出て会社などで働く女性のことを職業婦人と呼んでいたわけです。英語にするとBusiness girl、略してBGということですな。当時の女性からすれば憧れの職業だったのですが、とんでもない事実が発覚します。当時駐留していた進駐軍のスラングでは、BGは娼婦を意味するものだったのです。その結果、NHKはこれを放送禁止とするなど大騒ぎ・・・代わって使われるようになったのが今もお馴染のOLということになるでしょうか。謎の喫茶B・G・・・BGはスラング・・・乙種料理店・・・というのは強引でしょうか。それはさておき・・・いいですよねえ、OLさん(爆)

此処まで旧中山道を辿ってきたのですが、レポにするにはちと弱い。他に何かないかとスマホの地図を眺めてみますと・・・あった、ありました。拙ブログの主旨からは少し外れておりますが、まあこの際仕方ない、贅沢は言っておられません。旧中山道をさらに西進、左折して何の変哲もない住宅街を抜けた先にそれは忽然と現れました。



畑のド真ん中に小高い丘が・・・コレ、なんだかお分かりになります???



こうすれば分かりやすいかな。えっ、まだ分からないですと???もう、仕方ないな・・・昔の偉い方のお墓ですよ。国指定の史跡、名前を大鶴巻古墳といいます。画像ではよく分かりませんが、航空写真で見ると端正な前方後円墳であることが確認できます。全長123m、高さ10.5m、4世紀から5世紀初めに造られたと推定されています。私が立っているのが『前方』の部分ということになりますね。



『後円』の部分にも登ってみました。これだけでなく周辺には幾つかの古墳が点在しており、総称して倉賀野正六古墳群と呼ばれています。嘗ての宿場町は古代ロマンの町でもあったというわけ。ちなみにこの大鶴巻古墳、発掘調査されていないとのこと・・・もしかすると!?

トリが古墳だったとは・・・相変わらずのグダグダ展開で拙ブログの2012年は暮れていくのでした。以上、倉賀野の探索でした。

茨城県 石岡市201303その1

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天狗党がお世話になった遊廓・映画のセットみたいな町・漸く見つけた美しきバルコニー

民俗資料館近くにて・・・ポツンと残る小さな飲み屋さん、妙に心に残った光景でした。


 今回は茨城県のほぼ中央に位置する石岡市です。この地は常陸国の国府が置かれていた場所、国分寺があったということになりますね。古くから地域の中心だったわけです。当時は府中と呼ばれていました。この国府と府中は、現在も町名として残っています。ちなみに東京の府中市の名前も、武蔵国の国府が置かれていたことが由来になっている・・・というのはご存知の方も多いと思います。町中を旧水戸街道が貫き、近くの霞ヶ浦を利用した水運も盛んだったそうで、宿場があり物資の集積地、しかも府中城というお城もあったそうですから、宿場町に城下町という往時はかなり栄えた町だったようです。現在は町中に数多く残る昭和初期に建てられた趣のある看板建築を目玉に、昭和レトロな町をアピールして観光客を誘致している・・・これもご存知ですよね???

 でも、石岡を訪れるのは初めてなんですよね。周辺の水戸や土浦などは何度も訪ねているのに・・・。それには二つほど理由があるのです。その一つとして挙げられるのが、変な観光地化が進んでいるのではないかということ。ネットで見るかぎりですが、目玉の看板建築が妙に小綺麗なんですもの・・・。看板建築は大好物ですが、あまりにも綺麗過ぎるのはちょっと、ねえ・・・なんだか高嶺の花みたいで、いまひとつ食指が動かなかったわけです。でも、いざ訪れてみると全然そんなことはなく、とても静かで落ち着いた町であることが判明、食わず嫌いはいかんなと思った次第です。シーズンオフのせいか、観光客の姿もチラホラ程度でしたし・・・これはこれで問題かもしれませんが(笑)

 重要なのはもう一つの理由・・・それだけの町でしたら遊里の一つや二つあったとしても不思議ではないのですが、手元の資料をめくってみても石岡の石の字も見当たらないわけ・・・これは拙ブログ的には致命的、後回しになって当然だと思いません???しかしです、この度石岡にも遊里が存在していたことが判明しちゃったわけ。詳しくはその2でお話致しますが、市の民俗資料館にその証拠があるらしい・・・これは行くしかない!!と意気揚々常磐線に飛び乗ったのはいいのですが、春の嵐とでも申しましょうか、強風の影響とかで電車がノロノロ運転・・・いっこうに進みやしない・・・この石岡の後、笠間を再訪するつもりだったのですが、どうなっちゃうの私!?



なんと、到着が一時間の遅れ・・・ただでさえノンビリ家を出てきたので、これは痛い・・・。ちょっと焦りながら早足で歩き出したときです。横から妙な視線を感じたわけ・・・ヘッ???



コ、コレ、タヌキですよね・・・なんでウナギ持ってるの???白のシルクハットにエプロン?も変だし・・・。よくよく見ますと、一応女性みたい。ちゃんとオッパイありますな。思わず二度見・・・そして唖然ですわ。



後姿です。なんでしょう、この色っぽい腰つきは・・・。後から知ったのですが、この更地には少し前まで老舗のうなぎ屋さんがあったそうです。タヌキ嬢はお店のマスコットだったというわけ。で、そのお店ですが、震災で建物に被害があったとかで解体の憂き目に・・・マスコットだけが残されたということみたい。傍らの看板には不法投棄禁止、これ狙っているのでしょうか(笑)



つっかけにペディキュアが妙に艶っぽい・・・。それしてもなんでタヌキなんだろう・・・。



いきなり変なのに引っかかってしまいました(笑)とりあえず民俗資料館がある石岡小学校を目指すわけですが、早くも看板建築が現れましたよ。二階窓の小庇の装飾が特徴的ですが、まだまだこんなのは序の口なわけ。



お次は社名の箱文字フォントがかっこいい石岡印刷さん。入母屋の屋根に破風、和洋折衷の建物です。



駅前通りが突当るのが国道355号線、これが旧水戸街道になります。マスヤ本店さん、まん丸でカワイイぞ(笑)



左折して少し行くと看板建築が連続する一画があるのですが、そちらは後でのお楽しみ。すぐに右に入る通りへ・・・土蔵造りの八百屋さん、巨大な看板のせいで全体像が分からないのですが、妻側には左官による石張り風装飾に赤煉瓦が顔を覗かせておりました。



鳥獣店って・・・要するにペットショップですよね。



その先の平屋の看板建築、はす向かいの黒い建物は次に紹介致します。



まずは平屋のほうから・・・上の知恵の輪みたいのが独特、こんな装飾は初めてです。面白いなあ。



黒い看板建築は国の登録文化財、平松理容店店舗兼住宅。昭和3年(1928)に建てられました。アカンサスなどが使われた頂部の装飾が素晴しいですね。店舗兼住宅とありますので、奥に続く母屋も文化財に指定されているのでしょう。洋館付住宅の一種としても宜しいかと思います。特にいちばん奥の洋館部分の二階がいいなあ、あそこに住みたい(笑)なによりも、床屋さんとして現役なのが嬉しいじゃないですか。



民俗資料館での調査終了、詳しくはその2にて。資料館近くにあるのが冒頭画像の廃墟と化した洋館風住宅。この枝ぶりいいなあ。



全景はこんな感じ。なぜか高い塀の内側から我が物顔で笹がワッサワッサ。右奥には鳥居が見えますが、小さな社があるわけ。不思議な一画ですね。



若宮一丁目と府中二丁目の境にあるのが二十三夜尊という小さな神様?というか地蔵堂?。地図には参道脇に中の湯という表示があるのです。しかし、それらしき煙突が見当たらない・・・あ、右のお宅の玄関廻りに注目。廃業しちゃったのですね・・・。



こんな由緒正しき土管、久しぶりに見ましたよ(笑)



押縁下見板張りのかなり大きな建物。おそらく当初は蔵だったと思うのですが、それをリフォームして住宅として使っているみたい。中はどうなっているのでしょう。



安っぽいタイルがステキな土蔵造りの商家。二階の漆喰が剥落して木摺(きずり)や木舞(こまい)が露わに・・・痛々しいですね。下の庇に新しい痕跡が残っていますので、おそらく震災でやられたんだと思います。



ド派手なミナミボウルさん。塗り替えたばかりのように見えるのですが、入口という入口全てがコンパネで塞がれているわけ。調べてみましたら、やはり震災の影響で閉店だそうです。建物は問題なさそうに見えるのですが、おそらく中の装置関係が相当やられてしまったのでしょう。此処だけでなく、茨城県内ではかなりの数のボーリング場が同じ理由で廃業に追い込まれているそう・・・ただでさえ苦しい経営状態だったところに大地震、再建できなかったのでしょう。



その先のセブンイレブンで飲み物を購入しようと思いましたら、駐車場にこんな巨木がドーン。それだけでなく、向こうには土蔵がいっぱい・・・何だコレ???



土蔵だけでなく。道路沿いには焼き過ぎレンガの積まれた美しい門も残っておりました。地図を見ますと青柳新兵衛商店とあります。どうやらこちらは裏門みたいですね。こりゃ、とんでもない豪商ですぞ。



是非とも新兵衛さんの母屋が見たいと思い、広大な敷地沿いを回り込み表通りに出てみます。途中、道端に転がっていたのが、○にイと書かれた・・・何コレ???



これが新兵衛さんのファサード、北関東特有の重厚な黒漆喰の見世蔵です。注目は赤煉瓦の蔵、卯建付きという豪華版ですぞ。どんな商売をなさっていたのでしょうね。



向かいにも土蔵造りの商家、この通りの雰囲気はなかなかのものでした。



この大谷石も新兵衛さんの蔵・・・いったい幾つあるんでしょう。



長大な赤煉瓦の塀、これも新兵衛さん家のもの。奥にセブンイレブンの駐車場にあった巨木が見えますね。あの辺りまで全部新兵衛さんの敷地・・・お友達になりたいわ〜。



旧水戸街道に戻ってまいりました。今度は△□の組み合わせ。□のほう、これまた大谷石の陸屋根の蔵、表面仕上げがちょっと面白いわけ。一般的な大谷石の仕上げはノコギリで引いたままや割肌が多いのですが、此処のはゴルフボールのディンプルみたいのが規則正しく並んでいる・・・びしゃん叩きとはまた違うようだし。あ、びしゃんというのは細かい突起が並んだ金槌みたいな工具、これで石の表面を叩き削って柔らかい表情を出すのです。とにかく、こんな仕上げ初めて見ましたよ。



お茶の石川園さんの奥行きもなかなかのもの。最近のマイブームである物干し台がいい味出してます。



その先で見つけた看板建築、新聞販売店だったようです。コーナーに使われている型押しのトタンはよく見られるものですが、二階庇上の装飾が珍しいです。何より窓の桟がステキだなあ。



駅前通り方面に戻りましょう。途中で出会った黒漆喰の見事な見世蔵。漆喰がいい感じに剥げ落ちて、ロマンスグレーと化しているわけ(笑)こちらの商家は昭和9年(1934)に建てられたそうです。



脇道の先にチラと見えた看板建築と鳥居。鳥居は宇迦魂稲荷神社のもの・・・読めない・・・。



どうやらバイク屋さんみたい。コーナーにはメダイヨン、斜めのチェック模様がカワイイですね。

前半はここまで、見事な看板建築がたくさん出てきましたが、こんなのはまだまだ序の口。後半ではもうお腹いっぱいって言いたくなほど出てきますから(笑)それらを見物した後、遊廓跡を訪ねましょう。

茨城県 石岡市201303その2

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そのまま三丁目の夕日のセットになりそうですよね。此処ではありませんが、実際に石岡はロケ地として使われているそうですよ。


 元治元年(1864)3月、筑波山で水戸藩の攘夷派数百名が突如挙兵します。のぼり旗にはデカデカと尊皇攘夷と書かれていたそうです。これが俗に言う『天狗党の乱』です。派兵された幕府の討伐軍と筑波山や水戸附近で何度か戦が繰り広げられますが、次第に劣勢になり後退・・・追い詰められた天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仲介してもらい朝廷に尊皇攘夷を訴えるため、旧中山道を北上、一路はるか彼方の京都を目指すことになります。総大将は水戸藩元家老の武田耕雲斎、約千名という大所帯だったそうです。しかし、途中の敦賀で討伐軍の大軍に包囲されあえなく降伏・・・。この討伐軍を率いていたのが、唯一の頼みの綱である一橋慶喜だったというのはなんとも皮肉な話です。捕まった天狗党には、厳しいお上の裁きが下されます。死罪352名、遠島137名、水戸藩預り130名・・・武田耕雲斎以下トップ数名は晒首・・・こうして天狗党の乱は収束していくのことになるのですが・・・数年後には明治維新なんですよね。

 晒首にされた天狗党トップの中に、石岡ゆかりの人物がおりました。それが水戸藩の側用人だった藤田東湖の四男、藤田小四郎。天狗党が筑波山で挙兵する直前、小四郎たちが密かに宿泊していたのが石岡に存在していた遊廓だったのです。その名を『新地八軒』といいます。その名のとおり八軒の妓楼からなる廓でした。

 市の民俗資料館に展示されていた新地八軒の配置です。左上から松屋・近江屋・紀州屋・金桝屋、右上から大和屋・山本屋・井関屋・三好屋、いちばん下は鈴宮稲荷神社。小四郎たち浪士は筑波山に発つ前、このお稲荷さんで成功を祈願し鬨の声をあげたと伝わっています。

 小四郎は普段から新地八軒を常宿にしていたそうで、特に紀州屋の女主人いく子をおふくろと呼び慕っていたそうです。右上の女性がいく子です。いく子は男まさりの女丈夫だったそうで、小四郎の考えに共感し、浪士たちの面倒をみたそうです。下にはいつ頃撮影されたのかは不明ですが、新地八軒の写真が貼られています。結構地味な造りだったように見えますね。

 以上は、民俗資料館の展示物やネットの情報だけによる、石岡に存在したとされる遊廓新地八軒の様子でした。おかしいと思いませんか???民俗資料館に行ったのなら詳しい係の人がいるのではないかと・・・もちろん係のお爺ちゃんがいらっしゃいましたよ。しかし、新地八軒のことはほとんど知らないそうです。地元の人でも知っている人は少ないだろうとのこと。自分的には、明治維新以降の様子がいちばんの関心事なのですがね。いろいろと資料を引っ張り出して調べてくれましたが、やっぱり分からない・・・。唯一、新地八軒という表記があったのが下の写真、わざわざコピーを取ってくださいました。

 『稲吉旅館(石岡市・明治36年)交通の発達により人びとが旅行をする機会が増えると、旅館の規模も大きくなっていった。その後、旅館や料亭が増えて、この地域に隣接する一帯は「新地八軒」といわれる料亭街となった。』そうキャプションには書かれてあります。写っている建物は妓楼ではなく、純粋な旅館ということみたいです。明治36年とありますので、明治維新後も新地八軒は残っていた・・・いや、この文はそういう意味ではないような気がするのです。まあ、とにかく謎の多い遊里だったということみたいですな。とりあえず場所だけは判明しましたので最後に訪れてみることにします。



さてと、その1でお約束したとおり、ここから石岡名物看板建築巡りの始まりです。駅前通りが突当る丁字路に戻って旧水戸街道を南へ・・・すぐに現れるのが水西酒店さん。リブ状の外壁が特徴、よく見られる装飾ですね。分かりにくいのですが、屋号の箱文字の斜め上に見える三角形の照明、レトロでステキなのですよ。



ライフライン関係を埋設したようですね。スッキリしたのはいいのですが通りが広いので、妙に空虚な感じが・・・これも電柱電線を見慣れたせいでしょうか。左に見えるのは森戸文四郎商店さん、昭和5年(1930)頃に建てられた国の登録文化財です。



元々は飼料店だったそうです。意匠的にはアールデコになるでしょうか、柱型がパラペットから突き出しているのが効いています。



格子が美しい数奇屋風の和風建築は生蕎麦の東京庵さん。昭和7年(1932)頃に建てられました。こちらも国の登録文化財。



この並びは堪りませんなあ。特に左の玉川屋さん、銅板平葺きにアーチ窓・・・そして煎豆に甘納豆、扱っている商品までが昭和です。この通りの古い写真を見つけたのですが、以前は歩道上にアーケードが架かっていました。観光の目玉にするために撤去したようです。



右の石岡富国社さん、結構見かける型押しされたトタンに包まれた建物なのですが、面白いのが軒天にもそれが使われていること・・・なんかカワイイですね。今回のお気に入り物件です。



向かいに一際目を引くお店があります。こちらも昭和5年頃に建てられたという、すがや化粧店さん。またしても国の登録文化財です。この界隈の建物、昭和5年以降に建てられたものばかり・・・理由は昭和4年(1929)に発生した石岡大火のせい、中心街の1/4が焼失したそうです。



すがや化粧品店さんのディテール、どう見てもモデルは古代ギリシアの神殿建築以外有り得ないわけ(笑)屋号が書かれたペディメント、イオニア式とコリント式オーダーの組み合わせ、重厚ですなあ。石貼りに見えますが、もちろん全部左官職人の手によるものですよ。保存状態も大変宜しい物件です。



その先に二軒、左が十七屋履物店さん、右が久松商店さん、どちらも昭和5年頃に建てられました。もちろん両方とも国の登録文化財。



まずは十七屋履物店、真ん中のアーチの装飾を中心としたシンメトリーな構成、連続する持送り風の造作が面白いですね。窓の縁を強調するように長方形のモザイクタイルが貼られています。



そして久松商店さん、下見板張りに見えるのは金属板の平葺き、たぶんオリジナルじゃないと思います。縁起物の雷紋が真ん中でアーチになっています。窓の欄間には松葉のモチーフ。



看板建築群の終わりにあるのが、黒漆喰の見世蔵、福島屋砂糖店さんです。こちらは昭和6年(1931)に建てられました。そして、またもや国の登録文化財。黒漆喰と書きましたが、鉄筋コンクリート造と木造の混構造なんだそうです。とても珍しいと思います。電柱電線がない通り・・・やっぱり映画のセットにしか見えない・・・。



その先を左折すると、土蔵造りの長屋門が見えてきます。こちらは安政元年(1854)創業の酒蔵、府中誉さんです。いちいち明記するのも面倒なのですが、こちらも国の登録文化財(笑)奥にバスが停まっていますが、観光コースの一部になっているみたい。団体さんが見学中でした。



石岡市唯一の酒蔵です。この辺りは筑波山を源とする伏流水が豊富な土地なんだそうです。



近くにも看板建築・・・やっぱり電柱電線があったほうが落ち着くと思いません???



Y字路に建つ廃屋、モルタルと押縁下見板張りの競演。右奥に見えるお店も廃屋・・・何気なく覗いてみますと・・・



ヒイイイッ!!コレ、ガラス越しのお店の中・・・怖いよ〜。



国道6号線に出てしまいました。国道脇の広場というか駐車場、右は食堂の廃墟なのですが、その奥・・・テントで出来た入口が見えますね。看板にはファッションヘルス リッチマン!?すぐ近くにはファミレスなんかがあったりするわけ。一見さんにはかなりハードルの高いお店だとお見受け致しました・・・というか、現役???



ここいらで駅方面に戻って、新地八軒跡を目指しましょう。途中出会ったのが半切妻屋根に下見板張りの建物、ピンクがカワイイですね。どうやらお医者さんだったみたい。ファサードは洋風なのに、妻側だけはなぜか和風・・・分かりにくいと思いますが、手摺のある二階部分が跳ね出しており、軒天にアールがつけられています。



門を挟んで、瓦が美しい方形屋根の母屋?が続いておりました。



蔦に覆われて、もはやお化け屋敷と化した飲み屋さんです。



近くに美しい飲み屋建築がひっそりと佇んでおりました。ねじくれた看板がポイント高いわけ。



こちらもなかなか・・・色ガラスの扉が綺麗ですね。お隣はほぼ骨組みしか残っておりません。



さきほどの看板建築群から少し離れた場所にもこんな逸品が残っています。喫茶店四季さん、昭和5年頃に建てられました。しつこいようで申し訳ありませんが、国の登録文化財です。コリント式オーダーをメインとした左官職人のテクニックが炸裂しまくっている建物、一見の価値ありですぞ。



なぜか左隅だけ上下の柱型が通っていないわけ。まあ、プラン上仕方がなかったようですが、ものすごくアンバランスに見えるんだよなあ・・・実際、構造上もそうみたいでして、つっかえ棒で支えられておりました。



全体が洗い出し風の左官仕上が使われているのですが、庇の先端のねじりん棒みたいな装飾をご覧下さい。ちゃんと色分けされているのがお分かりになります???このお店で昼食をと思ったのですが、扉を開けると喫茶店というよりも薄暗い場末のバーみたいな造り・・・店主らしきお婆ちゃんに食事ができるかと聞くと、コーヒーしか出せないとにべもなく断られてしまった・・・デカデカとランチって看板出してるじゃん。



空腹を抱えたままやってまいました。此処が新地八軒跡でございます。左に見えるのが鈴宮稲荷神社、この先に道を挟んで八軒の妓楼が並んでいたことになります。ハイ、ご覧のとおり、何も残っておりません・・・。



何か痕跡はないものかとお稲荷さんを調査しましたが、全て徒労に終わりました。そろそろ戻ろうかと駅方面に足を向けたときです。脇道の先に何かがチラと・・・



これこれ!!これを探していたのですよ。下調べ段階でコレの存在を知ってはいたのですが、何処にあるのかまではわからなかったわけ。こんなところにあったんだ・・・。それにしても電柱が邪魔・・・あれ?さっきは全然違うこと言っていましたよね、コイツ(笑)



土屋家住宅というそうで、その他の詳細は一切不明、おそらく前述の看板建築群と同じ頃に建てられたのだと思います。どうやら左官屋さんだったらしい・・・納得の造りですよねえ。



中でも気に入ったのがこの美しいバルコニー。いいでしょ、コレ。



はす向かいのマンションの駐車場、奥に貼られたタイルにビックリ。でも、よくよく見ましたら一部がぺロリ・・・コレ、タイルじゃなくてクロス(壁紙)じゃん(笑)一部が吹抜になっているし、何よりも変な窓・・・当初は何かのお店だったのだと思います。

この後、駅近くの石岡カフェという、どうやら市の商工会議所のアンテナショップ?みたいなお店でビーフシチューを頂きました。歩き回って空腹のためライスを大盛りにして欲しいとお願いしたのですが、頑なに断られてしまった。あれは何だったのでしょう・・・。食事を終えて駅に行くと、常磐線は依然として強風の影響で30分以上の遅れ・・・もう勘弁して・・・。

茨城県 笠間市201303(再訪編)その1

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山頂の巨大珍構造荒城・崩壊寸前嘗ての一大レジャー施設・円筒分水かと思いきや

なんでしょう、このよく分からない組み合わせ(笑)


 強風の影響で30分遅れていた常磐線がようやく動き出しました。しかし、水戸線への乗換駅である友部で再び30分の待ち合せ・・・目的地の笠間に到着したのは当初の予定から2時間遅れ・・・。いつもはおおよその目的地だけを定めて、後はいい感じの界隈を探しながら適当にフラフラ漂うというのがパターンなのですが、こうも大幅にスケジュールが狂ってしまうとどうしようもないわけ。今回はお日様と追いかけっこしながらピンポイントで攻めるしかないようです。

 2008年以来ですから実に5年ぶり、前回の際は様々な発見に次ぐ発見でたいへん充実した探索になったわけですが、特に驚いたのが知られざる花街の存在・・・しかもそれが現役と聞き更にビックリ・・・そんなレポに終始してしまいました。あれから5年ですか、早いものですね。その間に震災が発生、焼き物の町でもある笠間は窯元などに大きな被害があったと聞き以前から気になっておりました。

 同じく震災の影響で廃業に至ってしまったという珍妙な造りの巨大ホテルが笠間稲荷神社の近くにあるのです。前回のときもその存在を知ってはいたのですが、訪れるのをすっかり忘れていた・・・当時はまだ現役だったんだよなあ。名前をホテル山乃荘といいます。試しに検索しますと、トップに楽天トラベルの『山乃荘へようこそ』なるHPが出てくるわけ。これで騙されました、下調べ段階ではてっきりまだ現役かと・・・たまたま航空写真を見て異変に気付きます。屋根瓦がグシャグシャ・・・よくよく調べましたら震災直後に休業・・・そして再建叶わず廃業・・・。それはともかく、このホテルの造りが凄いんです。清水寺を代表とする懸造(かけづくり)、或いは鳥取県にある投入堂風ともでも申しましょうか。とりあえずこのホテルを見学してから、前回も訪れたお気に入りの場所を再訪してみましょうか。

※前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが分かりやすいかと思われます。



今回も此処から始めましょう。笠間駅すぐ近くにこの駅前横丁があります。見にくくて申し訳ない。



砂利道に並ぶ廃れた飲み屋さん、5年前と全く変わっていないように見えます。まあ、そういうことなのでしょう。突当りはJR水戸線の線路です。



笠間駅から1.5キロほど・・・ほら、見えてきましたよ。笠間稲荷神社の西側、笠間日働美術館裏手の小高い丘の斜面にこの巨大な『お城』が異様を誇っています。これがホテル山乃荘さん。日働美術館にも寄りたかったのですが、今回の遅れに遅れたスケジュールでは到底無理・・・次回に繰り越しです。



全景・・・よく見ると屋根瓦が酷い状況であるのが分かるかと思います。嘗てこの高台には笠間城があったそうです。それでこういった意匠にしたのだと思いますが・・・まあ、ようやるわと感心するというか、呆れるというか・・・。



もっと驚くのが、コレ。まさに現代の懸造ですな(笑)まだこの時点では、廃業しているという事実にいまいちピンときていないわけ。そこで建物の裏手に出るために、急な坂道をヒイヒイ言いながら登っていきますと・・・。



見事なまでの廃墟然とした姿に呆然・・・。手前に写っている木造の大門というかゲート、震災の影響だと思うのですが、倒壊寸前まで傾いております。



すんごい唐破風キャノピーに口アングリ・・・。この山乃荘さん、開業は昭和28年(1953)と意外にも歴史があるんだそうです。おそらく笠間稲荷神社への参拝客を見込んだものだったのでしょうけど、当時はそれだけ需要があったということなんだろうなあ・・・現在の寂れた町の様子からは全く想像できませんけど・・・。



破風の下、見事な龍の彫り物が闖入者である私を睨んでおりました。ガラス越しにロビーを覗いてみましたが、完全に廃墟でした。此処から先は某廃墟探索サイトさんにお任せ致します・・・というか、既に紹介済みだったりして・・・。



山乃荘さんのある高台の東側にちょっとした飲み屋街がひろがっています。そこにあるのが笠間芸妓組合事務所、所謂見番です。前回、これを発見したときは心底驚きました。現在はどういう状況かは分かりませんが、平成19年時点で置屋11軒、20名の芸者さんが頑張っておられるとのことでした。



なぜか入口が全開・・・お人形がらしくていいですね。一階にひと気はありませんでした。二階で稽古中なのかな?



その先にあるのが料亭小柳さん、前回のときは、その雰囲気から『元』なのかな?と思っていましたら、板さんが出てきて驚いたお店になります。漆喰塗り、腰に鉄平石が貼られた外壁だったのですが、安っぽいサイディングに変わっておりました。引き戸の向こうに暖簾が見えますので、まだ現役・・・だと思いたいです。



立派な蔵は笹目宗兵衛商店さんのもの。明治26年(1893)創業の老舗酒蔵です。元々は笠間藩主である牧野家が経営していたそうです。この蔵、ちょっとやつれた感じの瓦屋根がとても美しかったのですが、金属の平葺きに変わっておりました。おそらく震災の被害に遭われたのだと思います。



左官による鉄平石貼りが表現されたこちらは無事。



その全景・・・二階ばかりに窓があるのが妙に気になりました。



トタンのバラックみたいな食堂というか、飲み屋さん?前回のときは、中から賑やかなお年寄りたちの声が聞こえたのですが・・・しんと静まり返っておりました。



この近道を通って笠間稲荷神社に向かうと致しましょう。



近道の中ほどには、廃業してしまった割烹旅館なんてものも・・・。



時間帯のせいでしょうか、妙に閑散とした笠間稲荷神社。参道沿いの仲見世もガラガラ・・・。こう見えましても、日本三大稲荷神社の一つですぞ。



可愛らしい四姉妹?がお参り中でした。いちばん下のおチビちゃんは、そんなことより奥が気になって仕方なかったようですが(笑)



新しい・・・とはいっても建てられたのは昭和35年(1960)とのことなのですが、拝殿の風情はいまひとつ。しかし、重厚な入母屋造りの東門は一見の価値あり、特に棟の部分に施された鏝絵によるカラフルな龍は必見ですぞ。文化13年(1816)に再建されたものだそうです。



東門脇にある謎の廃屋・・・一見すると料亭風に見えなくもないのですが、門が酷い状態になっておりました。



その先でチャリのお爺ちゃんに声をかけられました。見事な茨城弁でしたので、最初はなんのことだかサッパリ(笑)・・・どうやら拝殿の裏手に続く御本殿の彫刻を撮ったか?すごいから見ていけ、ということだったみたい。行ってみましたら、仰るとおり確かにこれは見事なものですなあ。お爺ちゃんありがとう。時代ははっきりしませんが、この御本殿は江戸末期に建てられたものだそうで・・・ヘッ?国の重文!?全然知らなかった・・・何のための下調べなんだか・・・相変わらず杜撰すぎるだろ、お恥ずかしいかぎりです。



でも、重文より気になったのが、その後ろで開催されていたこの会議(笑)



何を話し合っているのでしょうね。現代人の信仰心の無さなどを嘆いているのでしょうか。



右のお堂は瑞鳳閣、大正天皇即位を記念して大正6年(1917)に建てられました。設計は築地本願寺などで知られる伊東忠太です。東屋みたいのが幾つか並んでいますが、毎年10月に開催される菊まつりの展示用のもの、かなり大規模なお祭りみたいですよ。この近くで見つけたハート型のメダイヨンと美しいバルコニーがある逸品の看板建築、洗張のお店だったのですが、跡形もなく消え失せておりました・・・残念。



場所は笠間稲荷神社の近くとだけ申しておきましょう。前回、偶然発見した謎の一画があります。震災の影響が気になっていたのですが・・・よかった、まだ残ってた・・・ん!?



超広角レンズだと分かりにくいと思いますが、まさに崩壊寸前・・・指でちょんと押せば一気に逝っちゃいそうな雰囲気です。まあ、前回も酷い状態だったのですが、震災が追い討ちをかけたようです。



前後左右にガタガタのグニャグニャ・・・時空が歪んでいるのではないかと錯覚を覚えるほどです。見ているだけでクラクラしてきた・・・違う意味でもクラクラしておりますが(笑)前回のとき、三角屋根の向こうから煙突が顔を覗かせていたのでお風呂屋さんだったのでは?と思ったのですが、どうやらそれも倒壊しちゃったみたい。



で、それと向き合うのが昭和館、嘗ての映画館です。こちらも酷い状態・・・てっぺんに昭和館と鏝絵で描かれた扁額が辛うじて残っていたのですが、それも落ちちゃったみたい・・・下地の木摺が露出して痛々しい姿です。



昭和館の入口前にはトタン屋根の車庫、埃が溜まった車が停まっておりました。前方に三角屋根の側面、とんでもない歪みっぷりがよくわかると思います。



そんな荒廃した中、鮮やかな緑が目に飛び込んできてビックリ!!もぎりの窓口ですね。前回のときもサンドバッグには気付いていたのです。緑は陰になっていて気付きませんでしたが・・・。それで住人がいるんじゃないかと思ったのですが、この状況・・・これで誰か住んでいたら、それこそホラーですな。そんなことはどうでもいいことで・・・何よりこの緑、ステキすぎるでしょう。で、視線を下に動かしますと・・・



コレですから・・・もう素晴しすぎて・・・暫しウットリです。



傍らの棚には本が無造作に積まれていたのですが、いちばん上がコレ・・・ある意味出来すぎだろ(笑)



向こう側に出てみました。うわ・・・こっちも酷い。トタンの錆っぷり・・・階段の露出っぷり・・・ぷりぷり祭りだあ!!申し訳ない、ちょっと興奮しすぎておかしくなっております。



少し冷静になりましょう。昭和館には食堂も併設されていたということなのでしょうか。ちなみに松緑は前述の笹目宗兵衛商店さんところの銘柄です。で、向かい合う三角屋根の建物に視線を移しますと・・・



またまた衝撃の光景が・・・半端じゃない崩壊っぷりはもちろんなのですが、お分かりになります???奥の引き戸に『ゆ』の文字、横の脱衣棚、転倒寸前の体重計・・・なんと、やっぱりお風呂屋さんだったのです。昭和館がらみということなのか、貼られているブロマイド?は日本の女優さんみたい。屋号は何だったのでしょう、やっぱり昭和湯???奥がものすごく気になりますが、拙ブログはあくまでも遊里跡探索が主旨・・・廃墟探索サイトではございません。本人もとんでもないヘタレでございます。というか、廃墟関係の猛者でも此処は危険すぎますよね。一応忠告はしましたぞ。



壁にぶら下がるブーツ、その奥には円形の造作の痕跡・・・猟奇的なものを感じさせる光景・・・。



最後に半開きになった扉の奥にカメラだけを突っ込んでみました。これが昭和館の内部・・・格天井になっているのが分かるでしょうか。客席は残っておらず、ヨレヨレのスクリーンの白さだけが妙に目に残りました。よくよく考えてみましたら、映画館、銭湯、食堂・・・往時は一大レジャー施設的なものだったのではないかと・・・。



おそらく次回はこの光景を見ることはできないのでしょうね・・・。

前半はここまで。なんだか廃墟巡りみたいなレポになってしまいましたね。山乃荘さん、昭和館さんですが、実際に訪れて何かトラブルに遭っても拙ブログは一切関知しませんのであしからず。重ねて忠告しておきますぞ。後半でも引き続きお日様と競争しながら、もしかするとマイブーム物件かもしれないというものを探してセカセカ歩き回ります。

茨城県 笠間市201303(再訪編)その2

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いつまで待っても看板に明かりが灯ることはありませんでした・・・。


 今回の笠間再訪編ですが、下調べ段階で気付いたことがあります。何気なくグーグルの航空写真を眺めていたときです。町の中心から北西に1キロほど、小高い丘らしきものを越えた先にそれがありました。まん丸の水があるという表示・・・これは、もしかするとマイブームである・・・円筒分水!?円筒分水が分からない方、いちいち説明するの面倒なのでコチラをご覧くださいね。これは栃木県日光市今市に存在しているものなのですが、これにいたく感動してしまいまして・・・嵌りました(笑)その後も近場の物件を幾つか見学しに行っているわけです。もちろん遊里跡探索のついでという形ですけどね。


群馬県高崎市にある長野堰用水円筒分水、直径約13m、かなり立派なものです。水量が豊かなのはいいのですが、写っていない向こう側は大量のゴミがプカプカ、アングルが限られてしまったのが残念でした。此処から流れ出した水路を辿っていきますと、面白い光景が・・・それにつきましては、高崎市の再々訪編で紹介致します。いつになるか分かりませんけど・・・。


神奈川県川崎市高津区にある二ヶ領用水久地円筒分水、直径約16m、規模はもちろんなのですが此処はロケーションが最高。流れ出す二ヶ領用水の両側に桜の木があるのです。最初に訪れたときそれに気付き、開花を狙って再訪(笑)画像はそのときのものになります。しかし、残念ながらどんよりとした曇り空、これじゃ桜は映えませんな・・・来年あたりもう一度行かなくてはならないみたいです。

 しかし、いくら調べても今回の笠間にそれが存在するという証拠は見つけられませんでした。改めて航空写真を眺め直してみると、ちょっと違うような気がしてきた・・・でも、特徴である二重丸風の構造が見て取れるんだよなあ・・・。まあ、とりあえず行くだけ行ってみましょうか。とんでもない無駄足になりそうな予感がするのは気のせいでしょうか。

※前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが分かりやすいかと思われます。



笠間稲荷神社前を横切る通りを西へ・・・途中にあるのが謎の壁画がある喫茶店。もちろん現役ではありませんよ。コレ、稀に見かけるのですが、仕上げの名称が未だに分からない・・・。



洋風のバルコニーがある逸品の看板建築、石塚箪笥店さんも健在。震災などなにするものぞといった感じです。クラック一つ見当たりません。素晴しいですね。



国道355号線を渡って更に西へ・・・頃合をみて右に入る脇道に入ります。砂利敷きの駐車場の片隅になぜか雀荘の看板???



住宅が点在する田んぼの中をしばらく行きますと、小高い丘にぶつかります。これの向こう側にあるはずなのですが・・・。



坂道の傍らに立つ石碑に目が止りました。箱田うら山古墳!?なんと、単なる丘だと思っていたのは大昔のお墓だったのです。全長45mの前方後円墳、6世紀頃に造営されたものだそうです。



此処が『後円』になるのでしょうか、表示がなければ築山にしか見えませんな。古墳を越えた先に見えてきましたよ。



嫌な予感が的中、単なるまん丸の池でした・・・またやっちゃった・・・。



背後には墓地、崩壊したベンチやサビサビの東屋みたいのもあります。一応公園として整備されたようですが、使われている様子は皆無・・・。



すぐ横を国道50号線が通っているのですが、その下をボックスカルバートのトンネルが貫いています。それを抜けると笠間市総合公園、まん丸の池もそれの一部なのでしょう。円筒分水かと思いきや、忘れ去れた公園だったというわけ・・・以上、壮大な勘違いでした。



最後に訪れたのが、前回も紹介したバラックのような飲み屋さんが並ぶ一画。急がないと本当に日が暮れそう・・・。



明らかに崩壊が進行しておりました。マンホールの蓋代わりに使われていたのが、なぜか巨大な丸ノコの刃(笑)



中央辺りに白い物体が見えますが・・・ニャンコの亡骸。ニャンコって死を悟ると姿を隠すっていいますよね、何があったのでしょう・・・合掌。



震災の影響でしょうか、袖看板が落ちちゃったみたい。



提灯にも明かりが灯ることはないんだろうなあ・・・。



リフォーム或いは解体でもするつもりだったのか、あるお店などは外壁がベロンと剥がされ、中が丸見え・・・これがなんとも安っぽい造りでガッカリ・・・そのまま放置プレイ状態、可哀相でした。



表通りに面した光景、5年前の光景と比べてみると分かるのですが、テナントが変わっているようでした。一応現役だった時期があるようです。でも、今はもう・・・。



テントのキャノピーが骸骨状態の津軽さん、カフェー風の入口廻りがステキですねえ。



『佳世』なのか『佳代』なのか、屋号は純和風なのに、このロゴ・・・いいなあ。お隣は御影石に大理石、ふんだんに石を使った豪華版。なのにドアのしょぼさ具合(笑)



そして最後に控えますのは夕顔さん、このストライプかっこ良すぎるでしょう。ドアの位置も絶妙すぎますよ。絶品の飲み屋建築ですなあ。



この素っ気無さが堪らんのです。左の看板の右上にはかすれて消える寸前ですが、十八歳未満ウンヌンという表示が残っておりました。どんな業態だったのでしょうね。



夕顔・・・その名のとおり、夕刻から咲き出す花・・・でも、此処のは咲くことはなさそうです。



最後に再び見番に寄ってみました。どういうわけか、依然として全開状態(笑)炬燵にストーブと薬缶、妙に艶っぽく見えてしまったのはなぜでしょう。それにしても姐さんたちは何処???

慌しい探索になってしまいましたが、十分すぎる収穫のあった笠間の再訪編でした。間違いなく昭和館の姿を見るのはこれが最後でしょうね。そう思うと、ちょっと複雑な心境です。

百人遊女 坂辺周一

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 ちょっと前に遊里読本ということで幾つかのカストリ雑誌なるものを紹介致しましたが、あれは書籍と言ってしまってもいいものか・・・UPした後ちょっと疑問に思ってしまったわけです。今回は一応ちゃんとした本ですぞ、漫画ですけどね。

 紹介するのは、坂辺周一の『百人遊女』です。たまたま書店で『遊女』の文字を見かけて試しに1巻を購入・・・気付いたら全6巻が揃っておりました(笑)坂辺周一というと、ドラマ化もされた『ティッシュ。』が代表作になるでしょうか、ちょっとアブノーマルでエロティックなホラーサスペンス物を得意とされているようですが、この『百人遊女』はそれらとは全然違います。

 舞台は吉原、日本橋人形町にあった『元』ではなく、現在も男たちのパラダイスとして君臨し続ける『新』のほう・・・だと思います。そのあたりのことの明記は無かったと記憶している、というか全部読み返すのが面倒なのでそう言っているだけなんですけどね。そんな日本最大規模と最上格式を誇った遊里、そこで繰り広げられる泡沫の色恋話の数々、はじまりはじまり〜。

 遊廓というと、男女の嫉妬や裏切り、ドロドロの修羅場みたいなものばかり想像されるかもしれませんが、これは違います。基本、江戸っ子が喜びそうなお涙頂戴の純愛人情物語・・・登場する男のほとんどが遊女に入れあげるお人好しと、叶わぬ片想いに胸焦がす純情青年。それに対峙する遊女も様々な悩み抱えて登楼する男を慈愛で包み込む天女様と、本来の身分と惚れてしまった男との狭間で揺れ動く初心な女心みたいな・・・個人的にはもっとドロドロになってほしかったのですが(笑)全て一話完結、悲恋で終わることもあるのですが、何かしら救いがある終わり方になっております。これがちょっと爽やかすぎていて、私のようなひねくれた人間とっては気に入らないわけ(笑)

 実際のところ、当時の遊廓での男女の関係はどういった感じだったのでしょうか。確かに歌舞伎、落語、講談、浮世絵などでこういった純愛物語があったという記録が残っているのも事実です。でも、大多数は一時の擬似恋愛に溺れ、彼女らの手練手管に骨抜きにされる・・・現代の性風俗と同じだったのではないでしょうか。まあ、現在はその手練手管自体が無くなりつつあるようですが・・・あ、そういった業界、私はよくわかりませんぞ(爆)

 そういったのは抜きしても十分に読み応えのある一冊だと思います。何と言っても坂辺周一が描く女性が美しすぎます。特にぷっくりとした唇の表現が秀逸すぎる・・・こう見えましてもちょっぴり漫画を齧った人間です。やっぱりプロはすげ〜なあと改めて感心させられました。一方で残念だったのが背景・・・あっさりとした直線的な表現ばかりでつまらない。もっとこう、華美な装飾などを炸裂させてほしかった・・・。まあ、所詮は背景、主役は人物ですから致し方ないところなのでしょうけど。資料自体が少なかったということもあったのかもしれません。

 もちろん場所が場所ですので、ちゃんと致してるシーンがございます。そういったのが苦手な方・・・は、いらっしゃらないと思いますが、一応(笑)物語の間には『吉原近道』という雑学辞典みたいなコラムも収録されておりますよ。この連休、暇を持て余しておられるようでしたら如何でしょうか。

 最後に帯タタキの文章を記しておきます。
 『現代(いま)を生きる女性に贈る『百粒の涙』
  江戸時代―――享楽の世界と噂され、
  浮世を離れた場所、吉原遊郭。
  老若男女の垣根なく、純愛の海に溺れゆく。
  百人いれば百通り、至極の愛がありました。』

 エッ、コレ女性向けの物語だったの!?

埼玉県 川口市201303 その1

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ステンドグラスがある部屋とは・乙種料理店は何処・街道脇で見つけたもの

いきなりですが、問題です。この美しいステンドグラス、何処にあるのでしょうか???正解は後ほど。


 川口・・・実はこの町、拙ブログで最初に探索レポを公開した町なんですよね。それは2006年6月のこと、ちょうどドイツで開催されたワールドカップの真っ最中、眠い目を擦りながら観戦する中、日本代表は惨敗するわけです。あれから7年ですか・・・来年にはブラジルで開催されるんだよなあ・・・早いものですね。生来の飽きっぽい性格ですので、これだけ続いているのはほんと奇跡に近いものがあると少し自慢したいくらい(笑)

 当時は遊里などというものにはほとんど興味はなく、古い町並みとちょっと怪しい路地裏などをフラフラできればそれで満足していたんだよなあ。まあ、その頃からの酷い写真と酷い文章というのは一貫しているわけでして、継続は力なりとはいかないところがお恥ずかしいかぎり・・・ちょっとは成長しろよと思うのですが、これがなかなか(笑)唯一の変化はカメラが優秀なものに変わったくらい、このあたりの急速な機材の発達というのは驚くべきものがありますよね。

 その記念すべき初回のレポですが、この度公開を中止致しました。いくら初期のものとはいえ、書いた本人が読んでも赤面してしまうほどのとんでもない酷さ、これは他人に見せてはいけないものだ、という判断からそうさせていただきました。というわけで、川口を改めてフラフラ彷徨って参りましたよ。厳密には再訪編ということになるのでしょうが、初心に戻るという理由から(再訪編)とはしておりません。まあ、初心に戻るなんて偉そうにしておりますが、本当のところは久しぶりに行ってみようか・・・そんな感じなんですよね。埼玉県ですので、だるま屋こと乙種料理店が存在していたようですが、それについてはその2のほうでお話させていただきます。いつものように大した情報はありませんけど・・・。とりあえず比較的古い町並みが残っている、地元では本一商店会と呼ばれている本町一丁目界隈を目指すことに致します。



川口駅東口から南東に伸びる産業道路を真っ直ぐ行くと本一商店会なのですが、途中の脇道へ・・・この辺りは金山町になるでしょうか。そこで見つけた洋館付住宅の一種・・・というか、洋館部分のほうが立派ですな(笑)三層の土蔵付きという豪華版。鋳造業で財を成した方のお宅でしょうか。



その先、川口神社の裏手にいい感じに古びた看板建築が並んでおりました。



BARBERオバタさん、現役なのでしょうか。



気に入ったのが多々良せんべい平澤さんのショーケース、いいなあコレ。今でもそうですが、曲面ガラスってとんでもない値段するんですよ。往時はさぞかしハイカラだったのでしょう。バラ売りしてくれるというのも嬉しいですね。



川口神社の南側、少し奥まった場所に立派なお屋敷が現れます。ン?川口市母子福祉センター???



ちょっとお邪魔させていただきますよ。陸屋根に出窓が並ぶ洋館付住宅とでも申しましょうか、私の後ろには土蔵もあったりします。何だろう此処・・・というわざとらしい前置きはここまで(笑)現在は母子福祉センターですが、元々は鋳物問屋『鍋平』の四代目当主嶋崎平三が建てた別邸でした。鋳物の町川口の隆盛を物語る遺構ということになりますね。それはともかく、この建物、とっても面白いのですよ〜。



飛び石を辿っていきますと・・・見えてきましたよ。



円形と出窓状のステンドグラスが並んでおります。両者が近いので妙にバランスが悪い(笑)冒頭画像はコレになります。果たして中はどうなっているのでしょうか。そのまま視線を右に動かしていきますと・・・



こ、これは!?・・・なんと、建物の下を潜れるようになっているではありませんか。鮮やかな群青色の外壁も気になりますぞ。



渡り廊下を潜り抜けると、そこは池泉回遊式の庭園。中央に網代張りの部分が見えますが、あそこの下を潜ってきたわけ。向かって左が明治末期頃に建てられた母屋、右が昭和14年(1939)に増築された離れになります。両者とも国の登録文化財です。手前に擬木の柵が見えますが、池があります。水はありませんでしたが、離れの広縁の下まで続いておりました。



離れの欄間、青の色ガラスが使われているのお分かりになりますでしょうか。



庭の全景です。昭和16年(1941)頃に完成したようです。市の指定文化財だそうです。



これが玄関、チャイムを押せば管理しているお姉さんが開けてくれます。御影石の巨大な沓脱ぎ石がすごいですね。右のドアの先は、最初に現れた茶色の外壁に出窓が並んでいた部分、事務室として使っているみたい。ドアはオリジナルではないような気がします。



母屋の和室、桃の節句は過ぎたのにまだお雛様が飾られておりました。床の間脇の書院には精緻な組子障子、所々欠けていたのが残念。



渡り廊下からステンドグラスを見るとこんな感じ・・・内側を知りたいとそのまま回り込んでいきますと、意外な光景が現れます。



何でしょう・・・この、なんでもござれ感・・・暫く唖然ですわ(笑)左から参りましょうか、ピンクの洗面器がありますが、壁には美しい青の大理石。こんな鮮やかなのは初めて見ましたよ、でも種類が分からない。窓にはカーネーション?のステンドグラス。右の壁が凄まじい・・・ド派手なガラスモザイクによる壁画、帆掛け舟と松だと思うのですが、舟の『帆』が鏡になっているわけ。ちょっと微妙な出来ですけど(笑)奥に進みますと・・・



なんじゃコレ・・・モザイクタイルに浮かぶ切り株の飛び石・・・なんだかこの空間、夢に出てきそう。



床のディテール、カフェー建築で見られるような彩度の高いものではなく、ちょっと地味目のタイルを使って使っているのが分かりますね。どうもうまくAFが機能しませんので、珍しくマニュアルで撮影しております。思いっきりピンボケ・・・馴れないことをするとこうなるわけ。で、恐る恐る奥の引き戸を開けますと・・・



なんと、あの円形のステンドグラスの内側は便所かよ!!なんて豪勢なんだあ。それにしても和風便器と合わないことといったら(笑)



脇には常滑焼風の洗面器、カランの上には蝸牛が這っておりますよ。壁のモザイクタイルも綺麗ですね。



何となく予想できたと思いますが、お隣は小便器。出窓状のステンドグラスは此処でした。床に注目、全部大理石・・・男性にしか分からないと思いますが、公共のトイレなどで小便器廻りの人が立つ範囲に石が貼られているのをよく見かけますよね。あれを汚垂石といいます。オシッコって、思っている以上に飛び散るんです。中にはキレの悪い人もいたりしますしね(笑)以前はタイルのままということが多かったので、目地に入った汚れを落とすのが大変、石の一枚板にしてしまえば楽ということなのです。それを此処では既にやっていたというわけ。でも、大理石はアンモニアに弱いはずなんだけど(笑)



もっと驚くのが、この天井。分かりにくいと思いますが、緑と赤の色ガラスによる格天井なのです。いっそのこと建築照明にして内側から照らせばいいのにと一瞬思ったのですが・・・すぐに改めました(笑)それにしてもこの水廻りの意匠、お施主さんの趣味なのでしょうか。とにかく此処は必見ですぞ。



離れの広縁、欄間の色ガラスが綺麗ですね。



なぜか板張りの和室。畳表を代えるため、畳屋さんが持って行っちゃったんだそうです。黒檀と思われる床柱、とんでもない銘木が使われています。そして此処の書院にも組子障子が・・・でも、さっきの水廻りの後だと地味に見えてしまうわけ(笑)



下地の板にちゃんと番号がふられておりました。間違えると嵌らなくなっちゃうんだと思います。



不思議なお屋敷を堪能して外に出るとこの看板・・・鋳物の町ということです。周辺工場一同というのがいいですね。



近くで見つけたかなり大きな廃屋、石の門柱が凄いですなあ。こちらも鋳造業関係だったのかもしれませんね。



本町たたら荘というコミュニティセンターの裏手に謎の洋館があります。おそらく個人邸だと思うのですが、調べても詳細が一切不明・・・というか、人が住んでいるのかさえもよく分からない・・・どなたかご存知ありませんか???



此処にもステンドグラスが使われています。素朴なドイツ壁とよくマッチしております。



向かいには出窓のある洋館付住宅、手入れが行き届いております。大切に使われているようです。

その1はここまで。東京の目と鼻の先にあんな逸品があったなんて、探せばまだまだあるものですね。その2では乙種料理店を探して彷徨うのですが、果たして結果は・・・お楽しみに。

埼玉県 川口市201303 その2

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末枯れた家並み、それを見下ろす高層マンション・・・川口を代表する景観の一つだと思います。


 さて、肝心の川口の遊里です。ご存知の方も多いかと思いますが、元々川口は日光御成街道の宿場町。これから向かう本一商店会こと本町一丁目辺りが宿場の中心だったようです。以上のことから、川口の遊里は宿場由来と言ってしまっても宜しいのではないでしょうか。その後、近くを流れる荒川で鋳型に適した良質な川砂が採取されることが判明し、鋳造業が隆盛を極めていくことになるわけです。全国区の産業がある町ですから、当然遊ぶ場所・・・必要ですよね。

 『川口町 埼玉県北足立郡川口町字栄町に在つて、東北本線川口駅から東北へ約四丁の処に在る。川口は鋳物工場町で、鋳物工場の多い事は日本一である。町も可成発展して居て人口も浦和に劣らない。市政の敷かれるのは、浦和よりも川口の方が早いだらうと土地の人々は推測している。栄町は遊廓の様に一廓に成つて居るが、乙種料理店の一廓で、酌婦が一軒の家に多い処で十人位、少ない家でも三四人宛も居て陰店を張つて居る。善い玉は余り居ない。何の事は無い亀戸の白首の様なものだ。同業者は二十三軒あつて、酌婦は約百廿人居る。其れでも検黴やつて居るそうだ。御定りは二円で酒が一本付く。昼なら一時間、宵から二時迄、二時から翌朝迄が一仕切りださうだ。客の廻しも取つて居る・・・』

 以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の川口の様子です。栄町とありますが、一丁目から三丁目までものすごく広範囲なんですけど・・・。駅から四丁とありますので、おそらくは三丁目に存在していたのだと思いますが、いくら地図と睨めっこしても一廓を成していたという痕跡は皆無なわけ。ご存知だと思いますが、川口は有数のベッドタウン、雨後の筍の如くあちこちでマンションやショッピングセンターが林立・・・開発が進みすぎていてかなり期待薄の状態なわけです。市役所の近くや川口陸橋から続く通りの両側にあったという情報をウェブで見つけましたが・・・まあ、その辺りを含めて彷徨ってみることにしてみます。



産業道路が岩槻街道(国道122号線)にぶつかる手前に本一商店会の入口があります。門番のように立ち塞がるのが、福田屋洋品店さんともう一軒。両者とも美しい緑青が表れた銅板張りの看板建築です。おそらく昭和初期ぐらいに建てられたのではないでしょうか。網代に矢羽に青海波などなど、職人さんの妙技をとくとご覧あれ。



近くの明治期創業という亀の湯さんは更地になっておりました。関東では珍しい独特な看板建築風のお風呂屋さんだったのですが・・・。



本一商店会の通り、これが嘗ての日光御成街道(岩槻街道)みたいです。所々に往時を彷彿とさせる建物が残っています。右の中西日進堂薬局さんは大正期に建てられたものらしいです。



嘗ては川口の中心街だったということなのですが、とてもそれが信じられない光景ですよね。



周囲にはこんな感じの路地が結構見られます。風情はいまいちですけどね。高い塀の向こうから土蔵らしきものが顔を覗かせていましたが、詳細は不明・・・。



そんな路地の一本を抜けると・・・現れたのが、大砲!?鋳物関係と思われる会社の敷地に無造作に置かれていたのですが、説明板にはこうありました。18ポンドカノン砲・・・嘉永5年(1852)に津軽藩より依頼を受けて製造したもののレプリカとのこと。当時では不可能とされていた大型砲なんだそうで、それだけ川口の鋳物職人は優秀だったということですな。



本一商店会の入口に戻ってまいりました。産業道路を挟んだ向かいに店仕舞いしていまったらしい薬局、胃腸薬がイチオシだったらしいです(笑)その向こうに気になる造りのお宅。遠景には竣工当時は日本一の高さを誇っていたエルザタワー55。



このお宅が妙に艶っぽく見えてしまうのはなぜ???それを睥睨するマンション、冒頭画像の場所は此処になります。



で、向かいの薬局ですが、ファサードは地味なのに、妻側はとっても賑やかなのです。



洗い出し風の左官仕上です。



プチラビリンスなアパート、あづま荘さんです。いいなあ、コレ。そのまま駅方面に戻り栄町三丁目を歩いてみましたが、案の定全く収穫はありませんでした。ここまでなーんにもないとある意味スッキリしますな。そして、腹が減った・・・。



隣町の幸町で見つけたとんかつわらじ亭さんに飛び込みました。見るからに昭和なお店ですが、中もそんな感じ。カウンターのみですが清潔な店内、人の良さそうな親父さんが一人で切り盛りしています。ヘッ?とんかつ類が全部500円以下!?よくよく見たら単品の値段(笑)定食にするためにはご飯付き(335円)にしないといけないみたい、それでも800円くらいで済んじゃうわけ。カラリと揚がった顔ほどもあるわらじとんかつ、おいしゅうございました。先日の人間ドックで、お医者さんから揚げ物は控えるように言われたのに、いい歳してこれだけは止められない。写真が盗撮風になっておりますが、レンズのフードが緩んでいるだけでございます。



燃料を補給しましたので川口陸橋に向かいましょう。途中にあった写真館、三階建てほどの高さがあるのですが、三階部分には窓が見当たらない・・・写場ということなのでしょうか。



川口駅の北側で県道35号線が線路を跨いでいるのが川口陸橋、竣工したのは昭和32年(1957)のこと。道路で東西の町を結ぶのは市民の悲願だったようで、竣工時は盛大なお祭りが行われたそうです。高架下が居住スペースになっていたようです。



しかし、遺構らしきものは一切見当たりませんでした。この通りを東へ行けば市役所に出るみたいです。



市役所周辺をフラフラしてみましたが、やっぱり何も発見できず・・・唯一といいますか、近くで高い煙突を見つけたわけ。



さいわい湯さん・・・かなりの規模のお風呂屋さんです。遊里と何か関係あるんでしょうか・・・。



再び川口陸橋から続く通りに戻って東へ・・・途中、こんな看板建築を見つけました。川口ダイキャスト・・・鋳物の町ならではですよね。でも屋号の文字、木製なんですけど(笑)



中央の西洋風の柱型がある部分が嘗ての入口だと思います。潰しちゃったみたい。



脇道の光景・・・中途半端に古びたお店などが続いておりました。ちょっと周辺の状況から浮いているよう見えるのです。



こういうの嫌いじゃないのですが・・・やっぱり違うよなあ・・・。



こんな飲み屋さんもあったりしますが、『全国遊廓案内』に書かれている規模とは全然違うよなあ。こういうのは慣れっこですが、やっぱり悔しい・・・。それにしても乙種料理店って本当に存在していたのでしょうか。



結局何の成果も得られず、そのまま旧芝川を渡って日光御成街道に出ると、この洋館が見えてきます。大正12年(1923)に建てられた国の登録文化財、旧田中家住宅です。



県内唯一の木造と煉瓦造の混構造三階建ての建造物になります。柱梁が木造、その間の壁に煉瓦が積まれているのだと思います。更にその上からイギリス積みの化粧煉瓦で包んでいると考えて貰えれば分かりやすいかと。頂部の銅板による装飾が綺麗ですね。田中家は代々この地で味噌蔵を営んできたそうです。一族は村議会議員、県議会議員、貴族院議員等を歴任してきたそうです。地元の名家ということですな。



此処もお雛様が飾りっぱなし(笑)接客スペースということで畳なんだと思います。上部の突き出した部分、たぶん神棚だと思います。奥で昭和9年(1934)に増築された仏間や広間がある純和風の部分と繋がっています。



1階の応接室・・・格天井にセンターシーリング、和洋折衷の意匠でまとめられています。



階段・・・行って来いの単純な構成ですが、三層分ありますのでかなり迫力がある空間になっています。段裏に縁甲板が張られているのが結構珍しいと思います。



踊り場から1階を見下ろします。手摺の柱の装飾は松ぼっくり???



3階の大広間・・・イオニア式のオーダーが部屋の中にあるというちょっと変わった構成です。この建物の見所の一つではないでしょうか。



3階ですので往時は眺望が抜群だったそうで、晴れた日には富士山まで望めたとか。西洋の柱列越しに見る富士山、なかなかオツなものだったのではないでしょうか。



庭園の池越しに増築された寄棟屋根の和風部分を望みます。この庭、嘗ては何棟もの味噌蔵が並んでいたそうです。あまりこういったものが残っていない埼玉県では素晴しい部類に入る建造物だと思います。でも、その1で紹介した鋳物問屋の別邸が個人的には好みだなあ。あの水廻りはほんと面白かったです。

旧川口市はここまで、なんとその3があるのです。その3では2011年に川口市に編入されたばかりの町を歩きます。この町も日光御成街道の宿場だったのですが、旧街道筋から一歩入った路地の奥で・・・発見しちゃったのですよ。

埼玉県 川口市201303 その3

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まあとにかく、驚きましたよ。路地の奥にコレが現れたときは・・・。


 2011年に川口市に編入されたというのが鳩ヶ谷市、当時は蕨市に次いで日本で二番目に小さい市でした。川口と同じく日光御成街道(岩槻街道)の宿場町だったわけですが、平成13年(2001)に埼玉高速鉄道線が開通するまで公共の交通機関がバスしかなく、長いこと陸の孤島などと言われ続けてきたという可哀相な歴史がある町なのです。まあ、そのおかげで開発が一気に進み、辛うじて保たれていた宿場の面影も風前の灯状態・・・皮肉なことですよね。この日光御成街道、仕事や野暮用などで結構頻繁に行き来した道なのですが、言われてみれば確かに、以前はもっと趣のある家並みが残っていたような気がします。

 国道122号線の真下を行く埼玉高速鉄道線、川口元郷駅から鳩ヶ谷駅までの二駅乗っただけなにの260円!?第三セクターだから仕方ないのでしょうが、いくらなんでもボリすぎ(笑)一般的にこの国道122号線が岩槻街道と呼ばれていますが、鳩ヶ谷駅手前で分岐する県道105号線が嘗ての日光御成街道になります。まあ、この探索はその1・その2の旧川口市のレポのおまけみたいなもの・・・鳩ヶ谷に遊里があったという記述などは見つけられませんでしたし、とりあえずお気楽なブラブラ散歩的な感じで歩き出したのですが・・・あんなことになるなんて・・・。



殺風景な鳩ヶ谷駅から少し東に行くと日光御成街道・・・最初に現れるのが一見すると工場か倉庫みたいな地味な建物。実はコレ、お風呂屋さんなのです。



立派な煙突で納得、昌美浴場さんです。何時に開店とか書かれた表示が見当たらないのですが・・・。



見沼代用水を渡ります。橋の親柱の上には、なぜか子供の銅像。どこ見てるの?



その先、地元では御成坂と呼ばれる緩やかな勾配の坂道、その中ほどにスパニッシュ風の美しい洋館があります。旧船津眼科医院、昭和7年(1932)に建てられました。



鳩ヶ谷宿跡のランドマーク的な建物ですな。連続するアーチ窓を強調するように、ざっくりとした質感のグレーの二丁掛タイルが貼られています。頂部の細かい装飾に八芒星風の小窓・・・内部を見てみたいですね。



ポツリポツリといった感じですが、こういった古い商家が残っています。土蔵を従えた酒屋さん、伝統的な出桁造りです。往時のものかは分かりませんが、石畳も残っておりました。



高欄風の手摺が残る町屋、こちらは整骨院として使われているようです。



確かに風前の灯状態でしたが、街道から分岐する袋小路には面影が残っているような気がしました。石畳がいいですね。



これは残っていましたね。いつも車窓から注目していた豪壮な石蔵です。独特な縞模様、伊豆石でしょうか。



古い町並みを売りにしている観光地でよく見かけますよね、旧型ポスト。どうもああいうのはあざとくて好きになれません。でも、こういう微妙な町にあるのは大賛成(笑)この先には何も無さそうですので戻りますよ。



全身にタイルを纏った看板建築風、古いんだか新しいんだかよく分からない建物です。児童館的な使われ方をしているみたい。



近くにあったカッコイイお宅です。



来た道を戻るのも何ですので、脇道に入ってみました。そこで見つけた古びた板塀、旅館か料亭風に見えるのですが・・・その先には数軒の廃れた飲み屋さん・・・。



で、この謎のゲートが現れます。足立百不動礼所???どうやら埼玉県南部から東京都北部にかけて存在する百軒のお不動さんを巡礼するものみたい・・・そのまんまですな、説明になってない(笑)私の背後には笠間稲荷神社の小さな社と古井戸なんかもあったりして、この界隈ちょっと妙なのです。



そのまま奥へ・・・此処、入っちゃっていいの?って雰囲気ですが・・・。



あ、あった。どうやらコレが32番札所みたい。後から知ったのですが、嘗て此処には源性寺というお寺があったそうです。お寺は無くなったけど、祠だけは残されたということみたいです。



振り返ると、こんな砂利道の路地・・・これを抜ければ日光御成街道に出られそう・・・。



ン?・・・右側に何かあるぞ・・・



ヒャア!!思わず声が洩れました。こんなのがいきなり現れたら誰でも驚きますよね。辺りに漂う重苦しい空気、ただ者ではありません。



虫籠窓風のくり抜きがある塀、趣のある桟の入った窓・・・遊里跡でしたら、間違いなくと強く言い切ってしまうのですがね(笑)まあ、軽々しい発言は控えておきますよ。



分かりにくいと思いますが、塀と建物が物凄く接近しているので、塀が外壁の一部みたいになっちゃっているわけ。どうしてこんな建て方したんだろう・・・。



そのまま路地を行くと街道に出ます。右はシャッターが降りたままの蕎麦屋さん、さきほどの艶っぽい部分はこの蕎麦屋さんの建物の一部ということみたい・・・ということは・・・。



帰ってから調べてみましたら、鳩ヶ谷宿には往時で16軒の旅籠があり、この辺りに本陣があったそうです。もしかしたらこの蕎麦屋さん、元旅籠だったのではないでしょうか。そして、そこには飯盛女も・・・と妄想すると楽しいわけです。

旧川口市があまりにも収穫が無かったのですが、最後の最後で救われたといった感じでしょうか。逆転までとはいきませんが、ロスタイムに同点ゴールといった感じ?なんのこっちゃ(爆)以上、原点ともいえる川口市の探索でした。

東京都 台東区上野(池の端)200905・201210・201305

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文字通り池の端にあった花街・裏玄関も御利用頂けます・二日酔いと早朝の歓楽街

夜中の22:00頃、この近くを歩くと・・・ステキな出会いがあるかもしれません。


 一応、都内の遊里はほぼ全て踏破したつもりですが、一向にレポが進まない・・・。なんと言いますか・・・一般的にこういったことって資料が少ないものなのですが、東京の場合は探せば様々なものが出てきちゃうわけ、要するに有りすぎて困っちゃうという状況に陥ってしまうのです。まあ、それらから参考にさせていただく記述などを選ぶのが面倒っていうのが本音なんですけどね(笑)そんな子供みたいなことも言ってはいられませんので、5月6月は『都内の遊里強化月間』と銘打ちまして、東京のそういった場所を重点的にレポしていきますよ。でも、いろいろと忙しくなりそうな雰囲気・・・途切れそうな予感がプンプンしてるんですけど・・・。

 強化月間の初っ端を飾りますのは台東区上野です。多くの観光客で賑わう上野恩賜公園の不忍池、此処はどなたでもご存知ですよね。でも、池の南側の畔に、かなりの規模の花街が存在していたということを知っている方は少ないのではないでしょうか。別名『池の端』とも呼ばれたのですが、昭和初期の段階で芸妓置屋184軒、芸妓426名、料理屋約20軒、待合120軒を数えたといいます。幇間も9名いたそうですから、相当な規模だと思います。この花街の特徴といいますか、ちょっと変わったところというのが、下谷区と本郷区の区界を挟んでひろがっていたということになるでしょうか。下谷区というのは現在の台東区、本郷区は文京区と思っていただければ宜しいかと・・・タイトルには台東区とありますが、単なる便宜上でのことです。芸妓組合も二つに分かれていたそうですが、行き来は自由だったようです。よくある組合毎に競い合って仲が悪いということはなかったみたいですね。




 地図をご覧ください。上が下谷区、下が本郷区です。この地図は1950年代のものですので既に台東区・文京区に変わっておりますが、町名は古いままみたいですので、これを使わせていただきました。不忍池の下、下谷区の池ノ端仲町、数奇屋町・・・本郷区の湯島同朋町、湯島天神町三丁目・・・この界隈が嘗ての花街だったようです。現在の地下鉄上野広小路駅と湯島駅を結ぶ春日通り、その両側に花街がひろがっていたということになりますね。往時の様子は『全国花街めぐり』にお願いすると致しましょう。

『池の端の夜の灯 今は山下を電車が通るやうになつて幾分殺風景にはなつたが、それでも公園入口の池に面した徙崖や、静養軒辺りから見おろした夜の光景―――不忍池の向ふ端に料理待合の軒燈がズラリと一列にならんで、それが池の水にうつる風景は、東京の花街でもちよつと他には類のないなまめかしさを見せていゐる。蓮の花咲く不忍池を抱こんで居る点が何と言つても此の里の生命で、左に弥生ヶ丘、右に東叡山といふ眺望もひとり池の端の待合のみが誇りとする所である、殊に老木に富んだ上野公園のこんもりとした大きな森は四方の風景を一際引き立ててゐる。春は、丘上一面あいたいする花雲に覆はれ、夏は池の面一ぱいに紅蓮白蓮でうつくしく色どられる。秋の月、冬の雪景、とりどりに趣きがあつて、甍の海の東京の真ン中にどうしてこんな処があるかと、まア大袈裟にいへばそれ位に誉めてもいいところ・・・』

 珍しい、いつも辛辣なのにベタ誉めですな(笑)この花街、上村敏彦著『東京 花街・粋な街』によりますと、由来がいまいちはっきりしないそうですが、一帯は古くから江戸庶民のお手軽な観光地・・・その一言で済んでしまうような気がするのは早計でしょうか。東京の遊里はほとんどがそうですが、此処も東京大空襲で灰燼に帰してしまいます。戦後になって復活しますが、昭和30年代に入りますと、一気に歓楽街へと変貌していくことになります。そして昭和50年代には見番もなくなり、江戸時代から続いた花街は消え失せてしまうのでした。

 現在の界隈は、膨大な数の飲食店の中にラブホやソープ、各種風俗店が点在する雑多な歓楽街・・・その中に花街の残り香を探し出すのは容易ではないわけです。でも、こういう場所って遊里ウンヌン関係なく、ただフラフラするだけで面白い光景を発見できるから楽しいですよね。実際のレポもそういうことになっております(笑)都合三度訪れております。去年の二度目はちょっと特殊な状況ですが・・・それにつきましてはレポの中で説明させていただきます。

註)各画像のキャプションに付けられた☆は2009年5月、★は2012年10月、◆は2013年5月に撮影されたことを示しています。



◆上野駅公園口改札を出ると警視庁の機動隊員がいっぱい・・・???と思いながら坂を下っていくと、前方に街宣車の長蛇の列・・・そうか、今日は憲法記念日でしたか。まあ、彼らに関しては肯定も否定もしませんが、人様に迷惑かけるなと・・・とにかく、うるせー!!中央通りの手前に白の仮囲いが見えますが、あそこに建っていたのが・・・



☆上野松竹デパート、向かいを走る京浜東北線からも見える3階の囲碁センターが有名でしたね。いつもお爺ちゃんたちでいっぱいでした。4年前のこの時点で解体が決まっており、中の階段を登ってみましたが、囲碁センターは既に閉鎖されておりました。



☆こういうのも上野らしい光景なのかなと思ったのですが・・・。



◆街宣車の凄まじい音量に追い立てられるようにして不忍池へ・・・池の手前にあるのがハッテン場として有名な上野オークラ劇場。奥に新館があるっていうのは知らなかった。それにしても彼等・・・この場合は彼女等?って、どうしてこういう処に集うのでしょうね。考えてみると、上野公園って昔からそういう処として有名だったらしい・・・まあ、隠れられる場所いっぱいありそうだものなあ・・・そうそう、上野駅構内にも有名な便所がありますよね。私はまだ利用したことありませんが・・・あ、もちろん用を足すためですぞ(笑)



◆扉に貼られていた女優さんたちの指名手配書・・・罪状に爆笑!!巨乳柔乳不法所持、美乳準備集合罪、美乳開帳常習犯、映像による誘惑罪等々・・・なんという重罪、これは危険だ。しかも再犯注意だとぉ?・・・どんどん再犯しちゃってくださ〜い(笑)



☆不忍池に出ました。奥のタワーマンションの隣にクレーンが見えますが、嘗てあそこに建っていたのが、菊竹清訓が設計したソフィテル東京ことホテルCOSIMA。中央のコアから枝のように客室部分が跳ね出しているというダイナミックな構造のメタボリズム建築でした。平成6年(1994)に竣工ということは、おそらく計画が始まったのはバブルの最中だったと思われます。その特異な姿から景観論争も巻き起こったのですが、営業不振により平成18年(2006)に廃業・・・そして解体。世の中に存在していたのはたった12年・・・100m超の高層ビルで、日本で初めて解体されたという不名誉な記録が残ってしまった建物になります。菊竹先生も一昨年の暮れに亡くなられてしまいました。晩期のコレや江戸東京博物館は評判悪かったですけど、初期のスカイハウスや東光園とかは大好きでしたよ。ソレの写真、何処かにあるはずなんだけど見つからない・・・。



◆そして現在・・・ソフィテル東京があった場所には、ほぼ同じ高さのタワーマンションが建設されています。それ以外にもこんなに・・・。通りかかったおチビちゃんが一言「あの高いの邪魔だよね〜」全く仰るとおりです・・・。



◆この辺りが花街跡の西端になるでしょうか・・・何か繋がりのあるものかはわかりませんが、こんな純和風のお宅があったりします。その背後に続いているのはラブホ・・・現代の東京らしい光景ですよね。



☆花街跡の西の外れにあるのが有名な旧岩崎邸。明治29年(1896)竣工、設計はジョサイア・コンドル、国の重文です。此処はアサッリ済ませますよ。



☆なぜかというと、見学者が多すぎたから・・・当日は1階のホールで演奏会も開催されていてゆっくり見学できませんでした。



☆・・・というのを気に入った写真が撮れなかった理由にしているわけ(笑)で、今回再訪してみると、耐震補強工事が始まっており、建物の1/3くらいに足場が・・・。



☆このバルコニーは気持ちいいですよね〜。



☆塔のある玄関廻りに比べて、芝生の広大な庭に面したこっち側、妙にプロポーションが悪いように見えるんだよなあ。



☆工事が終わったらまた来ます。



◆いつも気になるのが旧岩崎邸の南側、立ち塞がるようにして建つこのマンション。湯島ハイタウンというそうで、たぶん賃貸物件だと思いますが、怖いくらいの圧迫感・・・外壁に規則正しく並んだエアコンの屋外機も怖い・・・。



☆花街跡に戻って参りました。不忍通りから一本入ったところにあるのがレトロな境屋酒店さん。詳細は不明ですが、おそらく建てられたのは昭和初期ぐらいではないでしょうか。横に連続する出窓はモダンなのに、全体の構成はアールデコという不思議な建物です。テラコッタや洋瓦などに拘りが感じられますね。で、この建物、去年再訪すると全面に足場が・・・嗚呼、ついに壊されちゃうかと思っていましたら・・・



◆あらあら、ずいぶんと垢抜けちゃって(笑)思わず笑っちゃいましたが、これはねえよなあ・・・ちょっとガッカリです。



☆近くにあるのが昭和5年(1930)に建てられた黒沢ビルさん。当時はどういった用途だったのかはわかりませんが、現在は眼科医院と歯科医院が入居しています。ラチス梁のモダンなキャノピーはオリジナルでしょうか、玄関の欄間には美しいステングラスが使われています。屋上に生えた大木が目印です。



☆向かいの中華料理店の軒下で、人懐っこいニャンコに出会いました。



☆この日は5月とはいえ、真夏みたいな陽射し・・・シバワンコとポメ、早くもバテ気味です。



☆またニャンコで申し訳ない。老舗のとんかつ屋千代本さん横の路地にて・・・それにしてもおまえらくつろぎすぎ。



☆そうこうしているうちに木戸の奥からもう一匹現れた。そしていきなり大股開きの淫らな格好(笑)突当りにある大人のサロンの兄ちゃんが、コイツなにやってんだって表情で見ていたっけ。



◆そして今回平成25年・・・4年ぶり、感動の再会だというのに、相変わらずのマイペースぶりに安心したよ。黒の子は何処に行っちゃったんだい???



◆そしてこのノビである(笑)この子、ストリートビューにも写っていて、また大笑い。



◆春日通りから分かれる路地、その突当りに現在の界隈を象徴するような物件が残っています。



◆旅荘なみき亭さん・・・微妙な虫籠窓に軒燈、高欄風手摺、もしかすると前身は待合だったのかもしれません。その後、旅館に転業したのかも・・・ただし旅館は旅館でも連れ込み系ですな。どうしてですって?入口脇の照明にはこうあります・・・『裏玄関も御利用下さい』



☆4年前・・・その前を、日傘をさした派手なお姉さんが通り過ぎていきました。ヒラヒラと・・・まるで原色の蝶々みたい・・・。



◆言われたとおり裏玄関利用してみました。もちろん開きませんでしたけど・・・現在は廃屋状態みたいです。あ、マイブームの物干し台も発見です。



◆この界隈、遺構かもしれない物件はコレ一軒・・・寂しいですね。



◆周辺にはこんな感じのお店だらけ、これはこれで素晴しいとは思いますが・・・ねえ・・・。



◆男爵でまず思いついたのが、オークラ劇場・・・それ系のお店でしょうか。長いことやっていないようでした。



◆タワーパーキングの足元に佇むいい感じの焼き鳥屋とおでん屋です。



◆中央通りに抜ける手前の路地にあったコインロッカー(笑)まあ、笑っている私も撮られているんですけどね。



◆広小路の交差点にある虎屋さん、年がら年中閉店セールをやっているお店といった感じでしょうか。安い・・・安いんだけど、欲しいものが全然ない・・・。そのまま春日通りの南を並行する通りへ、この辺りが花街跡の南端にあたるようです。



☆そこ見つけたはずのこちら・・・実は記憶が曖昧でよく覚えていないのです。確かこの辺りだったはずなんだけど・・・お宅なのかお店なのかそれさえも・・・試しに検索したらすぐに判明、インターネットって素晴しい。和食のお店だそうです。この時(4年前)は『湯島121』という屋号でしたが、現在は『くろぎ』に変わっているそうです。実は知る人ぞ知る名店なんだそうで、此処の大将、アイアンシェフこと道場六三郎と対決したこともあるとか・・・そういった番組全く見なくなりましたので何のことやらって感じですが(笑)夜は予約必須らしいですが、ランチは1000円程度でいただけるとか・・・まあ、そんなことより肝心なのは建物、リフォームされたようですが、元は置屋ではないかと妄想させていただきました。物干し台の手摺に転用されているのは彫刻欄間ですね。



☆こちらも遺構の一つと言ってしまっても宜しいかと思われます。三味線や琴、和楽器を専門に扱うお店です。その戸袋には撥(ばち)です。お店は退役されてしまったようでしたが・・・。



◆向かいには『東京 花街・粋な街』に載っていたお宅?が残っておりました。塀の向こうには離れなどが点在しているようです。こちらも遺構なのでしょうか。

以上が、『池の端』のレポになりますが、此処からが特殊な状況下で行なった去年のレポになります。その特殊な状況というのが、徹夜で飲んだ後の探索(笑)友人とこの界隈で飲んでいたのですが、妙に盛り上がり、気付けば朝・・・そして二日酔い、こんなに酷いの久しぶり・・・。酔い覚ましというわけではありませんが、ちょっとフラフラしていきましょう。時刻は午前6:30です・・・。



★たまたま神奈川県に探索に行った帰りに寄ったのでカメラを持っていたというわけ。まずはなみき亭さんから、まあ早朝だからといって此処は変化ありませんよね。実は前夜、友人と会う前にこの周辺をブラブラしていたときのことです。此処のすぐ近くの路地の暗闇で『たちんぼ』さんに声をかけられました。口調からして日本人ではないと思います。最近では新宿と鶯谷で見かけましたが、まだいるんですねえ。もちろん着いて行きませんぞ、私は飲みに来たの(笑)



★見覚えありますよね。こんなところ定点観測してどうする・・・。



★早朝の歓楽街って好きなんですよね。祭りの後みたいな感じが・・・。



★不忍池ではどなたか存じませんが、アーティストの作品が浮かんでおりました。ウーム、よくわからん・・・そんなことより、頭がガンガンする・・・。



★そりゃ、池の鴨もまだおネムだよね。

今度が本当(笑)以上で『池の端』のレポはオシマイ。次回は今回の目と鼻の先、湯島天神前に存在した花街の痕跡を探します。で、そのまま御茶ノ水を目指して南に向かうつもりです。
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