遊廓跡近くのカフェー鑑札・ソープ街の呑ん兵衛横丁・花街跡の先にはピンク映画館!?
相変わらずの見落としだらけ、ちょっと反省・・・。
2015年初っ端は甲府市、特に理由はありません。6年ぶりになりますか、しばらく訪れていないので行ってみるか、そんな感じです。里帰りからの直行というハードスケジュール、前日はちょっとした同窓会で久々の痛飲、それにしても皆老けたなというより・・・剥げたな(笑)酷い二日酔いでしたが、盆地の寒風に吹かれたらちょっとスッキリしましたよ。とりあえず『全国遊廓案内』から始めさせていただきます。
『甲府市穴切遊廓 山梨県甲府市穴切町に在つて、中央線甲府駅で下車すれば西南ね約七丁の個処に在る。駅からは乗合自動車の便もある。甲府は元徳川直轄の地であつたが、今は県庁の所在地で連隊もあり甲府第一の都会である。生糸、葡萄、水晶等の産地で特に甲斐絹及甲州ブドウの名を知らぬ人は無い。甲府駅の在る処は古の舞鶴城の一端で、城址は今舞鶴公園に成つて居る。享保年間には、市内柳町に飯盛女として旅館に散在していたものが、明治初年に新柳町へ移転し、明治廿七年には遊廓と変更して、同業者娼妓共に其の数を増した。処が明治四十年の大火で全焼したので、止むを得ず四十一年五月には、代官町の仮営業所から現在の場所に移転して今日に至つたものである。現在貸座敷が二十一軒あつて娼妓は百七十八人居る・・・』
※前回のレポはコチラ、前々回のはコチラとコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。
前回は工事中だった甲府駅北口広場が綺麗に整備されておりました。広場の真ん中にあるのが美しい擬洋風建築の旧睦沢学校校舎、明治8年(1875)に建てられた国の重文です。当初は巨摩郡睦沢村(現在の甲斐市)に建てられましたが、その後甲府市の北に位置する武田神社に移築されます。以前訪れた際は足場に囲まれていて姿を拝めませんでした。此処に移築するためだったのですね。
そのまま裏通りを辿って目的の場所へ・・・キッチン、喫茶、そして麻雀と多角経営だったようですが・・・。
面白い窓に出会いました。
目的の場所というのが此処、全く変化がないように見えますが・・・。5年ぶりの再会です。
『新天街』・・・飲み屋さんが連なる横丁建築です。
ブリッジが横切る豪華版?なのはいいのですが、肝心の屋根が無い・・・あるのはか細い小屋組のみ。
右のタイル貼りの部分は共同トイレです。通路の両側には排水溝、屋根が無くなるのを予見していた・・・なわけないか。
変わっていないように思えたのですが、出口辺りに妙な違和感。
ハワイさんの小窓がいいね。
そして何よりも想い出さんのクッションフロアみたいなタイルがステキすぎる。
違和感の正体はコレ、出口部分が無くなっていたというわけ。何があったのでしょう。
近くにあるのが菊乃湯温泉さん。建物は味気ないものですが、創業は昭和9年(1934)なんだとか。このお風呂屋さんに縁があるのが太宰治。太宰が甲府に住んでいた昭和14年(1939)頃、明け方まで執筆していた彼は、此処で汗を流していたとか。正月でしたが地元の方で賑わっておりました。
菊乃湯さんが面している通りで見つけました。コレ、ブックベンダーって言うんだ・・・初めて知った。思春期を迎えた男の子にとってコレは強敵。前を通るだけでドキドキでしたでしょ?そろばん塾の帰り道、適当にボタンを押してカバンに押し込みダッシュで帰宅。ワクワクしながら取り出した宝物、モデルさんの凄まじさに絶句と涙・・・いい人生経験させていただきましたよ。言われたとおり止まってみましたが、何も起きまへん。
再び裏通りを辿って駅方面へ・・・途中で見つけた和楽器店、看板がいいね。
あ、またお風呂屋さんだ。コチラは高砂湯さん、さきほどの菊乃湯さんもそうですが、甲府のお風呂屋さんのほとんどは天然温泉らしいです。
高砂湯さん裏手のコインランドリー、粋な造作がありますね。元は何だったのでしょう。
駅の反対側に抜ける朝日通り(県道6号線)沿いにちょっとした恐怖を覚える物件があります。
これでもかといった感じで徹底的にベニヤで塞がれておりますなあ。見ているだけ息苦しくなってきた。
中央本線の線路を潜って向こう側へ、飯田通り(県道106号線)にぶつかったら右折、通りの南側の宝一丁目に穴切遊廓がありました。遊廓跡がまさに『跡』になっているのは前回、前々回で確かめてありますので、その後に隆盛を誇った赤線の名残を探すの今回の目的。通りから分岐するどん詰まりの路地にあったお宅、二階の窓廻りが気になりますが、なんか違うよなあ。
さらに奥、玄関の欄間と出格子がいい感じですが、何とも判断の難しい物件です。
もう一本向こうの通りに入ると目に飛び込んできたのがさつきの看板。
さつきさんは隣のお店みたいですが、手前には何となくカフェー風の一風変わったアーチ窓が並んでおりました。
プランターボックスで塞がれた入口には、元の色が判断できないほど退色した色ガラスのドア。でも、こうして改めて見ると、そこまで古いものではないような・・・ウーム、赤線時代の物件って判断しずらいのばかりなのはなぜなのでしょう。
その先に冒頭画像の物件があります。『みます』さんで合っていますでしょうか???窓の造りが気になりますが、それよりも松の盆栽が気になって仕方がないわけ(笑)
あ、すぐ脇にも入口がありました。銘木でできた看板には小料理とあります。
看板の右下には円形の鑑札、かすれ掛けの文字でカフェーと刻まれておりました。反射が酷くて読めませんね、申し訳ない。
向かいにはこれまた正体不明の廃屋、でもコチラは一般のお宅のような気がする。
駐車場の片隅にポツンと取り残されておりました。
裏側は下見板とトタンのパッチワーク。小窓が妙に引っかかるのですが・・・。
分岐する細い細い路地を探ってみました。奥に見えるのがさきほどの廃屋です。
実は此処が地図上で何かあるんじゃないかと睨んでいた一画なのですが、見事なまでの空振りに終わりました。
路地を抜けると穴切遊廓跡、何も残っていないことが判っていますので今回はアッサリと。雪を抱いているのは南アルプスの白根三山でしょうか。
遊廓跡の手前、『赤線跡を歩く【完結編】』にも載っていたいい色合いの飲み屋さんが跡形も無く消え失せておりました。
お隣の奥の斜めに振られた玄関、以前はギリギリまで無くなった飲み屋さんの建物が迫っていたため、物凄く妖しく見えたと記憶しているのですが、こうも白日の下に晒されてしまうとねえ・・・。
この界隈、無くなった飲み屋さん以外にも数軒のお店並んでいます。右の後ろ姿の黄色い熊、去年でしたっけ、格好が卑猥だと騒がれたのって。確かに、この服装はいかんでしょ(笑)
周囲の細い路地にも入ってみました。一瞬、オオッと思ったコチラは単なるアパートみたい。枯れた蔦が物凄く恐いのですが。
鮮やかな黄色い外壁は床屋さん、時代的には赤線時代のもののように思えるのですが。
その1はここまで、引き続き赤線跡ではないかと思われる一画を彷徨います。もう少しお付き合いくださいませ。
相変わらずの見落としだらけ、ちょっと反省・・・。
2015年初っ端は甲府市、特に理由はありません。6年ぶりになりますか、しばらく訪れていないので行ってみるか、そんな感じです。里帰りからの直行というハードスケジュール、前日はちょっとした同窓会で久々の痛飲、それにしても皆老けたなというより・・・剥げたな(笑)酷い二日酔いでしたが、盆地の寒風に吹かれたらちょっとスッキリしましたよ。とりあえず『全国遊廓案内』から始めさせていただきます。
『甲府市穴切遊廓 山梨県甲府市穴切町に在つて、中央線甲府駅で下車すれば西南ね約七丁の個処に在る。駅からは乗合自動車の便もある。甲府は元徳川直轄の地であつたが、今は県庁の所在地で連隊もあり甲府第一の都会である。生糸、葡萄、水晶等の産地で特に甲斐絹及甲州ブドウの名を知らぬ人は無い。甲府駅の在る処は古の舞鶴城の一端で、城址は今舞鶴公園に成つて居る。享保年間には、市内柳町に飯盛女として旅館に散在していたものが、明治初年に新柳町へ移転し、明治廿七年には遊廓と変更して、同業者娼妓共に其の数を増した。処が明治四十年の大火で全焼したので、止むを得ず四十一年五月には、代官町の仮営業所から現在の場所に移転して今日に至つたものである。現在貸座敷が二十一軒あつて娼妓は百七十八人居る・・・』
※前回のレポはコチラ、前々回のはコチラとコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。
前回は工事中だった甲府駅北口広場が綺麗に整備されておりました。広場の真ん中にあるのが美しい擬洋風建築の旧睦沢学校校舎、明治8年(1875)に建てられた国の重文です。当初は巨摩郡睦沢村(現在の甲斐市)に建てられましたが、その後甲府市の北に位置する武田神社に移築されます。以前訪れた際は足場に囲まれていて姿を拝めませんでした。此処に移築するためだったのですね。
そのまま裏通りを辿って目的の場所へ・・・キッチン、喫茶、そして麻雀と多角経営だったようですが・・・。
面白い窓に出会いました。
目的の場所というのが此処、全く変化がないように見えますが・・・。5年ぶりの再会です。
『新天街』・・・飲み屋さんが連なる横丁建築です。
ブリッジが横切る豪華版?なのはいいのですが、肝心の屋根が無い・・・あるのはか細い小屋組のみ。
右のタイル貼りの部分は共同トイレです。通路の両側には排水溝、屋根が無くなるのを予見していた・・・なわけないか。
変わっていないように思えたのですが、出口辺りに妙な違和感。
ハワイさんの小窓がいいね。
そして何よりも想い出さんのクッションフロアみたいなタイルがステキすぎる。
違和感の正体はコレ、出口部分が無くなっていたというわけ。何があったのでしょう。
近くにあるのが菊乃湯温泉さん。建物は味気ないものですが、創業は昭和9年(1934)なんだとか。このお風呂屋さんに縁があるのが太宰治。太宰が甲府に住んでいた昭和14年(1939)頃、明け方まで執筆していた彼は、此処で汗を流していたとか。正月でしたが地元の方で賑わっておりました。
菊乃湯さんが面している通りで見つけました。コレ、ブックベンダーって言うんだ・・・初めて知った。思春期を迎えた男の子にとってコレは強敵。前を通るだけでドキドキでしたでしょ?そろばん塾の帰り道、適当にボタンを押してカバンに押し込みダッシュで帰宅。ワクワクしながら取り出した宝物、モデルさんの凄まじさに絶句と涙・・・いい人生経験させていただきましたよ。言われたとおり止まってみましたが、何も起きまへん。
再び裏通りを辿って駅方面へ・・・途中で見つけた和楽器店、看板がいいね。
あ、またお風呂屋さんだ。コチラは高砂湯さん、さきほどの菊乃湯さんもそうですが、甲府のお風呂屋さんのほとんどは天然温泉らしいです。
高砂湯さん裏手のコインランドリー、粋な造作がありますね。元は何だったのでしょう。
駅の反対側に抜ける朝日通り(県道6号線)沿いにちょっとした恐怖を覚える物件があります。
これでもかといった感じで徹底的にベニヤで塞がれておりますなあ。見ているだけ息苦しくなってきた。
中央本線の線路を潜って向こう側へ、飯田通り(県道106号線)にぶつかったら右折、通りの南側の宝一丁目に穴切遊廓がありました。遊廓跡がまさに『跡』になっているのは前回、前々回で確かめてありますので、その後に隆盛を誇った赤線の名残を探すの今回の目的。通りから分岐するどん詰まりの路地にあったお宅、二階の窓廻りが気になりますが、なんか違うよなあ。
さらに奥、玄関の欄間と出格子がいい感じですが、何とも判断の難しい物件です。
もう一本向こうの通りに入ると目に飛び込んできたのがさつきの看板。
さつきさんは隣のお店みたいですが、手前には何となくカフェー風の一風変わったアーチ窓が並んでおりました。
プランターボックスで塞がれた入口には、元の色が判断できないほど退色した色ガラスのドア。でも、こうして改めて見ると、そこまで古いものではないような・・・ウーム、赤線時代の物件って判断しずらいのばかりなのはなぜなのでしょう。
その先に冒頭画像の物件があります。『みます』さんで合っていますでしょうか???窓の造りが気になりますが、それよりも松の盆栽が気になって仕方がないわけ(笑)
あ、すぐ脇にも入口がありました。銘木でできた看板には小料理とあります。
看板の右下には円形の鑑札、かすれ掛けの文字でカフェーと刻まれておりました。反射が酷くて読めませんね、申し訳ない。
向かいにはこれまた正体不明の廃屋、でもコチラは一般のお宅のような気がする。
駐車場の片隅にポツンと取り残されておりました。
裏側は下見板とトタンのパッチワーク。小窓が妙に引っかかるのですが・・・。
分岐する細い細い路地を探ってみました。奥に見えるのがさきほどの廃屋です。
実は此処が地図上で何かあるんじゃないかと睨んでいた一画なのですが、見事なまでの空振りに終わりました。
路地を抜けると穴切遊廓跡、何も残っていないことが判っていますので今回はアッサリと。雪を抱いているのは南アルプスの白根三山でしょうか。
遊廓跡の手前、『赤線跡を歩く【完結編】』にも載っていたいい色合いの飲み屋さんが跡形も無く消え失せておりました。
お隣の奥の斜めに振られた玄関、以前はギリギリまで無くなった飲み屋さんの建物が迫っていたため、物凄く妖しく見えたと記憶しているのですが、こうも白日の下に晒されてしまうとねえ・・・。
この界隈、無くなった飲み屋さん以外にも数軒のお店並んでいます。右の後ろ姿の黄色い熊、去年でしたっけ、格好が卑猥だと騒がれたのって。確かに、この服装はいかんでしょ(笑)
周囲の細い路地にも入ってみました。一瞬、オオッと思ったコチラは単なるアパートみたい。枯れた蔦が物凄く恐いのですが。
鮮やかな黄色い外壁は床屋さん、時代的には赤線時代のもののように思えるのですが。
その1はここまで、引き続き赤線跡ではないかと思われる一画を彷徨います。もう少しお付き合いくださいませ。