虚空を睨む手作りの鬼・円形造作とセピア色の花嫁・墓地沿いに謎のホルモンが
虚空を睨んではいるのですが、実は結構空ろな目線だったりするわけ。
今回は群馬県南東部、神流川が大きく湾曲する左岸に位置する小さな町、鬼石を訪れます。ちなみに『おにいし』ではなく『おにし』が正しいみたい。嘗ては中山道の脇往還である十石街道が通っていましたので、宿場という役割も果たしていたのでしょう。以前は鬼石町でしたが、平成18年(2006)に隣接する藤岡市に編入されています。鬼石というおどろおどろしい地名ですが、昭和2年(1927)に発行された『群馬県多野郡誌』に由来が記されてありました。『往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の爲に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落る地を鬼石といふ』なんかこういった逸話に弘法大師が頻繁に出てくるような気がするのですが、毎回毎回大活躍ですな(笑)最初はこの地名に惹かれて地図を眺めていたのですが、気になる一画を見つけてちょっと行ってみるかということになったわけ。
肝心の遊里関係ですが、群馬県ですので乙種料理店ということになります。昭和13年(1938)に群馬県衛生課が作成した『花柳病諸統計』なる恐ろしいデータには、業者の数は不明ですが、芸妓6名、酌婦4名という記録が残っています。小さな町ですが、やはりいらっしゃいました。これを見ていて気付いたのが、思っていたほど感染率が高くないということ。だからといって当時は治療法が確立されてない時代ですので、恐ろしい病であることに変わりはないと思いますが。巷では若い人の間でクラミジアや淋病が流行っているとも聞きます、もっともっと恐い奴もありますしね。まあ、男女限らず、そして玄人素人限らず、遊ぶときは自己責任でくれぐれも注意したいものです。まあ、私はそういった方面、よく知りませんが(爆)
この町、かなり交通の便が悪い処にありますので、お隣の埼玉県から路線バスという大胆なルートを取りました。JR本庄駅からバスで揺られること40分ほど、最初はそれなりにいた乗客も一人降り、二人降り、最後は私一人に。鬼石郵便局前で下車、町のメインストリートと思われる県道13号線午前9時の様子。人影は皆無、時たま車が通るだけ・・・なんだか凄い処に来ちゃったぞ。
県道から西側に入りますと、芝生広場の向こうに見えてくるのが鬼石多目的ホール。平成17年(2005)竣工、設計は妹島和世建築設計事務所、平成15年(2003)に行われたコンペの当選作になります。
建物はホール1(体育館)、ホール2、管理部分と3棟に分かれています。フリーハンドで描いたような曲線を多用、まるで分裂するアメーバのような平面になっております。全面ガラス張りで各棟ともスカイラインを統一しているのが特徴、ご覧のとおりかなり軽やかな印象の公共建築です。
左がホール1、右がホール2のエントランス、2棟の間はこんな路地空間になっており、ガラスに反対側が写り込み、パースペクティブが強調されます。おかしいと思いませんか?左は体育館なのですが、高さが全然足りていませんよね。答えは地盤を掘り込んでアリーナを地下としているから、ホール2も同じ方法をとっています。まるで平屋のように見える理由はコレ。景観に配慮した結果だと思われます。
まだ開館しておらず、内部が見られなかったのが残念。見上げると空も写り込んでおりました。
判りにくいと思いますが、右の天井はシナ合板張り、安っぽく見えないところはさすが。以降、町の様子をレポしますが、その雰囲気に比べると明らかに浮いているように見えるかもしれません。しかし、現地ではそこまでの異物感はありませんでした。廃校になった中学校の跡地だそうですが、敷地に余裕があるからかもしれません。とはいえ、好きな建築かと問われると、ウーン・・・何だか学生の課題設計みたいに見えちゃうのですよ。
県道に戻る路地で出会いました。一応飲み屋さんみたいなのですが、過剰なまでの小庇に唖然。
いい感じにサビサビのトタン建築、臭突が並んでいることから分かりますが、どうやら長屋だったみたい。
県道に戻った処で見つけたリブ壁がオシャレなお宅。車寄せ風のキャノピーには、迷彩色みたいな変わったタイルが使われておりました。
近くにあるのが享保13年(1728)創業という老舗の酒蔵、藤崎そう兵衛商店さん。この屋号、どこかで見た記憶がと思ったら、埼玉県寄居町にも醸造蔵があり、あちらが本店みたい。
向かいには重厚な門と塀を構えたお宅。宿場の名残でしょうか。
その先に視線を向けると、歴史ある商家がズラリ。此処はかなり見応えがありました。
手前のお店には市松模様のタイルが貼られた派手目なショーケース。中を覗くと物置状態の向こうに急角度の階段が見えました。何屋さんだったのでしょう。此処を右に入る通りを、地元では大門通りと呼んでいるわけ、気になる名前ですよね。地図上で注目したのもこの一画なのです。
すぐに現れるのが割烹喜撰さん、通りいっぱいに建っている総二階建てなので、かなりの迫力。なんといっても真ん中の、コチラに破風を向けた小屋組み丸見えの切妻屋根が面白い。後から付け足したようにも見えるんだよなあ。
庇の垂木が美しい、間隔にパターンがあるの分かるでしょうか。ワンポイントで色褪せたベンガラみたいな色漆喰が残っておりました。
おっと、大事なもの忘れるところでした。大好物の擬木もあるのですぞ。
振り返るとこんな感じ、右手奥がショーケースがある商店になります。
その先の路地を入ると冒頭画像の場所。むくりの付いた破風と透かし彫りが残る手摺が妙に気になるわけ、右は障子むき出しだし。
破風に乗っているのが、鬼瓦ではなく鬼そのもの。手造り感に溢れた作品ですが、正直あまり恐くない(笑)
大門通りに戻ると割烹がもう一軒、美乃和さんです。喜撰さんはあれでした、コチラは現役だと思います。
その先の四つ角に建つお宅に妙な違和感・・・。
奥のくり抜いたような入口に吸い寄せられ、お隣も気になるなあと振り返ると・・・
いきなりピンク外壁に円形の造作が現れたわけ、これには驚きましたわ。
分かりにくいと思いますが、円形造作には組子による、遊里跡ではお馴染の松皮菱風の意匠が見て取れるのです。
お隣には青の出窓に白のパーゴラ、これがいい草臥れ具合なわけ。今回のお気に入りはコチラに決定。
何だろうと覗いてみると、なんとパーマ屋さんでしたか。セピア色の花嫁が哀愁を誘いますなあ。
大門通りの突当りにあるのが福持寺さん、建久7年(1196)創建という古刹です。通りはこのお寺の参道を兼ねていたようですな。
福持寺さんの脇、墓地沿いの坂道を登っていきますと、一見すると旅館風の物件があります。庭木で見切れていますが、奥の看板には何故かホルモンの文字。
コチラ、庭木の向こうに隠れるようにしてこんな造作があるわけ。
看板の矢印に導かれるまま回り込むと・・・うわ、本当にあった。しかも暖簾が出ているし、まだ午前10時なんですけど。もちろんまだやってはいませんでしたけど、そのロケーションを含めて物凄く惹かれたお店でした。お隣の旅館風物件のこっち側にも、同じような八角形の造作があるわけ。
県道13号線から分岐する県道177号線をしばらく行きますと、神流川を堰き止めた小さなダムが現れます。神水ダム、昭和43年(1968)竣工の重力式コンクリートダムです。
美しいエメラルドグリーン・・・この上流約6キロにあるのが、神流湖で知られる下久保ダムです。同じ重力式コンクリートダムですが、堤頂長が605mと日本一の規模を誇っています。此処は下久保ダムの逆調整池という位置づけみたいです。
向こう岸には杉木立に囲まれた小さな社がありました。丹生神社さんです。
県道177号線が分岐する仲町交差点に面して、料亭か旅館だったのではないかと思われる立派な木造建築があります。
かなりの大店であることが分かるかと思います。
しかし、近付いてみるとこんな有様、余命僅かといった状態でした。
日野萬って屋号だったのかと思ったら、コチラ向かいの商店の看板。なんでこんな処に放置されているのでしょうね。
当初はその地名に惹かれただけだったのですが、行けば行ったで楽しめてしまうものです。あの大門通り、おそらく福持寺の山門が由来だと思うのですが、別の意味も兼ねていたら嬉しいなと。以上で山あいの小さな町、鬼石の探索はオシマイ。
虚空を睨んではいるのですが、実は結構空ろな目線だったりするわけ。
今回は群馬県南東部、神流川が大きく湾曲する左岸に位置する小さな町、鬼石を訪れます。ちなみに『おにいし』ではなく『おにし』が正しいみたい。嘗ては中山道の脇往還である十石街道が通っていましたので、宿場という役割も果たしていたのでしょう。以前は鬼石町でしたが、平成18年(2006)に隣接する藤岡市に編入されています。鬼石というおどろおどろしい地名ですが、昭和2年(1927)に発行された『群馬県多野郡誌』に由来が記されてありました。『往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の爲に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落る地を鬼石といふ』なんかこういった逸話に弘法大師が頻繁に出てくるような気がするのですが、毎回毎回大活躍ですな(笑)最初はこの地名に惹かれて地図を眺めていたのですが、気になる一画を見つけてちょっと行ってみるかということになったわけ。
肝心の遊里関係ですが、群馬県ですので乙種料理店ということになります。昭和13年(1938)に群馬県衛生課が作成した『花柳病諸統計』なる恐ろしいデータには、業者の数は不明ですが、芸妓6名、酌婦4名という記録が残っています。小さな町ですが、やはりいらっしゃいました。これを見ていて気付いたのが、思っていたほど感染率が高くないということ。だからといって当時は治療法が確立されてない時代ですので、恐ろしい病であることに変わりはないと思いますが。巷では若い人の間でクラミジアや淋病が流行っているとも聞きます、もっともっと恐い奴もありますしね。まあ、男女限らず、そして玄人素人限らず、遊ぶときは自己責任でくれぐれも注意したいものです。まあ、私はそういった方面、よく知りませんが(爆)
この町、かなり交通の便が悪い処にありますので、お隣の埼玉県から路線バスという大胆なルートを取りました。JR本庄駅からバスで揺られること40分ほど、最初はそれなりにいた乗客も一人降り、二人降り、最後は私一人に。鬼石郵便局前で下車、町のメインストリートと思われる県道13号線午前9時の様子。人影は皆無、時たま車が通るだけ・・・なんだか凄い処に来ちゃったぞ。
県道から西側に入りますと、芝生広場の向こうに見えてくるのが鬼石多目的ホール。平成17年(2005)竣工、設計は妹島和世建築設計事務所、平成15年(2003)に行われたコンペの当選作になります。
建物はホール1(体育館)、ホール2、管理部分と3棟に分かれています。フリーハンドで描いたような曲線を多用、まるで分裂するアメーバのような平面になっております。全面ガラス張りで各棟ともスカイラインを統一しているのが特徴、ご覧のとおりかなり軽やかな印象の公共建築です。
左がホール1、右がホール2のエントランス、2棟の間はこんな路地空間になっており、ガラスに反対側が写り込み、パースペクティブが強調されます。おかしいと思いませんか?左は体育館なのですが、高さが全然足りていませんよね。答えは地盤を掘り込んでアリーナを地下としているから、ホール2も同じ方法をとっています。まるで平屋のように見える理由はコレ。景観に配慮した結果だと思われます。
まだ開館しておらず、内部が見られなかったのが残念。見上げると空も写り込んでおりました。
判りにくいと思いますが、右の天井はシナ合板張り、安っぽく見えないところはさすが。以降、町の様子をレポしますが、その雰囲気に比べると明らかに浮いているように見えるかもしれません。しかし、現地ではそこまでの異物感はありませんでした。廃校になった中学校の跡地だそうですが、敷地に余裕があるからかもしれません。とはいえ、好きな建築かと問われると、ウーン・・・何だか学生の課題設計みたいに見えちゃうのですよ。
県道に戻る路地で出会いました。一応飲み屋さんみたいなのですが、過剰なまでの小庇に唖然。
いい感じにサビサビのトタン建築、臭突が並んでいることから分かりますが、どうやら長屋だったみたい。
県道に戻った処で見つけたリブ壁がオシャレなお宅。車寄せ風のキャノピーには、迷彩色みたいな変わったタイルが使われておりました。
近くにあるのが享保13年(1728)創業という老舗の酒蔵、藤崎そう兵衛商店さん。この屋号、どこかで見た記憶がと思ったら、埼玉県寄居町にも醸造蔵があり、あちらが本店みたい。
向かいには重厚な門と塀を構えたお宅。宿場の名残でしょうか。
その先に視線を向けると、歴史ある商家がズラリ。此処はかなり見応えがありました。
手前のお店には市松模様のタイルが貼られた派手目なショーケース。中を覗くと物置状態の向こうに急角度の階段が見えました。何屋さんだったのでしょう。此処を右に入る通りを、地元では大門通りと呼んでいるわけ、気になる名前ですよね。地図上で注目したのもこの一画なのです。
すぐに現れるのが割烹喜撰さん、通りいっぱいに建っている総二階建てなので、かなりの迫力。なんといっても真ん中の、コチラに破風を向けた小屋組み丸見えの切妻屋根が面白い。後から付け足したようにも見えるんだよなあ。
庇の垂木が美しい、間隔にパターンがあるの分かるでしょうか。ワンポイントで色褪せたベンガラみたいな色漆喰が残っておりました。
おっと、大事なもの忘れるところでした。大好物の擬木もあるのですぞ。
振り返るとこんな感じ、右手奥がショーケースがある商店になります。
その先の路地を入ると冒頭画像の場所。むくりの付いた破風と透かし彫りが残る手摺が妙に気になるわけ、右は障子むき出しだし。
破風に乗っているのが、鬼瓦ではなく鬼そのもの。手造り感に溢れた作品ですが、正直あまり恐くない(笑)
大門通りに戻ると割烹がもう一軒、美乃和さんです。喜撰さんはあれでした、コチラは現役だと思います。
その先の四つ角に建つお宅に妙な違和感・・・。
奥のくり抜いたような入口に吸い寄せられ、お隣も気になるなあと振り返ると・・・
いきなりピンク外壁に円形の造作が現れたわけ、これには驚きましたわ。
分かりにくいと思いますが、円形造作には組子による、遊里跡ではお馴染の松皮菱風の意匠が見て取れるのです。
お隣には青の出窓に白のパーゴラ、これがいい草臥れ具合なわけ。今回のお気に入りはコチラに決定。
何だろうと覗いてみると、なんとパーマ屋さんでしたか。セピア色の花嫁が哀愁を誘いますなあ。
大門通りの突当りにあるのが福持寺さん、建久7年(1196)創建という古刹です。通りはこのお寺の参道を兼ねていたようですな。
福持寺さんの脇、墓地沿いの坂道を登っていきますと、一見すると旅館風の物件があります。庭木で見切れていますが、奥の看板には何故かホルモンの文字。
コチラ、庭木の向こうに隠れるようにしてこんな造作があるわけ。
看板の矢印に導かれるまま回り込むと・・・うわ、本当にあった。しかも暖簾が出ているし、まだ午前10時なんですけど。もちろんまだやってはいませんでしたけど、そのロケーションを含めて物凄く惹かれたお店でした。お隣の旅館風物件のこっち側にも、同じような八角形の造作があるわけ。
県道13号線から分岐する県道177号線をしばらく行きますと、神流川を堰き止めた小さなダムが現れます。神水ダム、昭和43年(1968)竣工の重力式コンクリートダムです。
美しいエメラルドグリーン・・・この上流約6キロにあるのが、神流湖で知られる下久保ダムです。同じ重力式コンクリートダムですが、堤頂長が605mと日本一の規模を誇っています。此処は下久保ダムの逆調整池という位置づけみたいです。
向こう岸には杉木立に囲まれた小さな社がありました。丹生神社さんです。
県道177号線が分岐する仲町交差点に面して、料亭か旅館だったのではないかと思われる立派な木造建築があります。
かなりの大店であることが分かるかと思います。
しかし、近付いてみるとこんな有様、余命僅かといった状態でした。
日野萬って屋号だったのかと思ったら、コチラ向かいの商店の看板。なんでこんな処に放置されているのでしょうね。
当初はその地名に惹かれただけだったのですが、行けば行ったで楽しめてしまうものです。あの大門通り、おそらく福持寺の山門が由来だと思うのですが、別の意味も兼ねていたら嬉しいなと。以上で山あいの小さな町、鬼石の探索はオシマイ。