切通しを越えた先・古井戸が残る遊廓跡・此処でも発見謎の三業組合
これまたハードルの高そうな飲み屋街ですなあ。
米沢を出た奥羽本線の普通列車は、見渡す限りの目に染み入るような深い緑の中を進んでいきます。行きの車内ではギリギリまで下調べのためスマホと睨めっこだったので車窓の風景には全く気がつかなかった・・・50分ほどで福島に到着、東北本線に乗り換えて20分、福島市と郡山市のほぼ中間に位置する二本松駅に降り立ちました。丹羽氏が治めた二本松藩10万石の城下町、町中を旧奥州街道が貫く静かな地方都市です。二本松城の通称である霞ヶ城公園で毎年10月に開催される菊人形祭りは日本最大の規模を誇っているとか。この二本松城、戊辰戦争であえなく落城、二本松少年隊という悲劇があった地でもあります。そんな町にも嘗て遊廓が存在しておりました。
『二本松大原遊廓 福島県二本松町大原にあつて、東北線二本松駅で下車すれば、駅より東北約十五丁位の所にある遊廓だ。乗合自動車の便があり、根崎角で下車すればすぐである。娼楼は総計二軒あり娼妓は拾二人位居て居稼ぎ制全部写真制ではなく、陰店制で遊びは全部東京式の廻し制に成つて居る・・・芸妓を呼べば玉代一時間五十銭である。妓楼は、新亀楼、吉村楼の二軒だ。』
お馴染『全国遊廓案内』からの抜粋になります。東北へ十五丁、根崎角をキーワードに地図を眺めておりますと、幸いにも根崎という町名が今も健在でした。距離的にも合っているようです。附近をじっくり観察してみますと・・・あった、ありました!!明らかに不自然な幅員がある通り・・・おそらく此処で間違いないと思います。ただちょっと気になることが一つ・・・その場所までの道程なのです。山一つ越えないといけないみたい(笑)正確には切通しだと思うのですが、地図を見るかぎりは・・・。いずれしろ登り下りは覚悟しないといけないようです。久しぶりの探索でしたので、前回の米沢でかなり足にきちゃってます・・・大丈夫かいな。そのうえ今にも降り出しそうな怪しい雲行き・・・急ぎましょう。
駅前通りを進みますと、すぐに東北本線と並行している県道355号線に出ます。これが嘗ての奥州街道。旧街道に面した商家にコレが・・・竿燈祭りとかがありますから、たぶん『がんばれ東北』って意味なんじゃないかと・・・事実、除染作業をしている人の姿も見かけました。此処も被災地なのですね。
旧奥州街道を東へ・・・最初に出会うのが、のぼりみたいな看板が目印の御菓師玉嶋屋さん、創業は文化文政時代まで遡るという老舗の和菓子屋さんです。名物は羊羹、帰りに玉羊羹・・・水風船に羊羹が入ったやつ・・・を購入、甘さ控えめでおいしゅうございました。大正8年(1919)に建てられた銅板葺きの建物は国の登録文化材です。
途中の脇道でステキな写真館に出会いました。昭和11年(1936)に建てられたヒラタテ写真館さんです。パラペットの雷紋、角の重なった円柱みたいな装飾、右手すぐは旧奥州街道・・・そこから見られることを意識しているのだと思います。バリバリの現役というのが嬉しいじゃないですか。赤テントがちょっと残念ですけどね(笑)
別の脇道・・・ドット絵みたいなお宅がありましたとさ。
こ、これは・・・思わず絶句。突き出したリブ、アーチ窓、屋号の配置・・・かっこよすぎだろ・・・。
しかも一部が『ぬけられます』状態・・・こういう発見は嬉しいなあ。
その先で左折、緩やかに登っている県道129号線に入ります。この坂道、地元では亀谷坂と呼ばれているようなのですが・・・実は帰りに東側の別の坂道を辿るのですが、そこも亀谷坂なんだとか・・・で、どちらかが旧奥州街道のはずなのですが、それもはっきりしない・・・。
坂は思っていたほどの勾配ではありませんでした。ホッとしたのも束の間・・・こりゃ、すげえ・・・現れた物凄い切通しに驚かされます。これで山を越えていきますよ。
切通しを抜けた先は郭内・・・『郭』とくると黙っていられませんが(笑)郭は郭でも、こちらは城郭の意味かと・・・すぐ西には二本松城址である霞ヶ城公園があるわけ。
立派な建物、市民ホールか公民館かと思いましたら、これが大七酒造!?なんと酒蔵でした。物凄い違和感・・・。
その先にあるのが『根崎』の交差点、南を向きますとこういう状況。気になる一画は右の通りを入った先にあるはずです。
不自然に幅員がひろがった通りが奥の山に向かって緩やかな登り勾配で伸びておりました。並木の名残かもしれない桜の下には古井戸!?そして石碑には『大原』の文字・・・この一文も刻まれておりました。『大原 丹羽氏による町割り以前は、二本柳(旧安達町)まで人家ひとつない広野であったので「大原」、その中心の山を大原山(現愛宕山)と称していたという。明治35年から昭和16年まで、大原遊郭として栄えた』・・・大当たりです。
何という私の眼力・・・これはちょっと自慢してもいいのでは(笑)でも、見渡したかぎり遺構らしきものは皆無・・・残っていたのは桜並木と蔵が一棟だけ。まあ、元々二軒しかなかった遊廓ですから・・・。
あ、こんな凄い枝ぶりの松も・・・間違いなく往時からのものですね。昭和16年までということは、戦争が始まって閉鎖、戦後赤線として復活できなかったということなのでしょう。周りのロケーションを見て何となく納得(笑)
距離にして100mほどでしょうか、山にぶつかってメインストリートは終わっておりました。その先には鳥居と苔生した階段が延々・・・地図を見ますと、山頂に社らしきものがあるようですが、そこまで登る気力はございません。
よくよく考えてみますと、二軒しかなかった遊廓にこんな立派なメインストリート必要なのでしょうか。明治、大正頃はもっともっと賑わっていた遊里なのかもしれませんね。
脇に入ったところにある本久寺、ほどよくというもの変ですが、いい感じに荒れております。左の斜面に見事な枝垂れ桜がありますよ。
メインストリートから分岐する脇道に切妻の破風がズラリ・・・遺構ではなく単なる長屋だと思うのですが、不思議な光景でした。
二軒の間には古びた石畳が残っておりました。草臥れた下見板張りの質感が堪りませんなあ。
???
根崎の交差点に戻ってそのまま鯉川を渡り、旧奥州街道を更に東へ進むと嘗ての宿場であった油井です。高村智恵子の生家があるのですが、町並み的にはいまいちみたいですのでこの辺りで裏道を辿って戻ることに致します。
巨大な土蔵が現れました。なぜか有料駐車場との表示・・・これが車庫なの???
長屋門みたいな入口もありました。土壁は落書きでいっぱい、相々傘なんて久しぶりに見ましたよ(笑)
左のベンガラ色の格子は国田屋醸造さん、安永5年(1777)創業という醤油味噌の醸造元です。そして向かいには名も無き看板建築。木が邪魔で全景が分からないのが残念。
その先にはトタン梱包物件、おそらく元は茅葺屋根だったのだと思います。こんな髪型の人いますよね(笑)
それではもう一つの切通しを抜けて駅方面に戻りますよ。これがかなりの上り坂・・・ヒイヒイ・・・気付いたのですが、通りの両側には家具店がいっぱい。二本松の名産は家具なんだそうです。300年の伝統を誇っているそうですが、このご時勢です。見事なまでの閑古鳥状態でした・・・。
行きのと似たような切通しを抜けると、今度は膝がカクカク言いそうな急な下り坂・・・散々歩いた後のこれはきつい。駅から続く県道355号線に出る手前、土蔵、お宅、土蔵、お宅・・・不思議な連続。
そのまま県道355号線を渡り、県道と東北本線に挟まれた細い通りを駅へと向かいます。地図を見ますと、どうやら歓楽街らしきものがあるっぽい・・・ちょっと期待しているわけ。
これが大正解!!
米沢にこういった路地が皆無だったので、正直ものすごく嬉しい(笑)
・・・だって、想像どおりに寂れていたから。
こんな美しい飲み屋建築も・・・二階のカーテンがエロすぎますな。
そして現れた若葉通り・・・冒頭画像は反対側、旧奥州街道に面した入口です。看板はこんなんですが、中の飲み屋さんは至って普通でした。現役かどうかは果てしなく微妙でしたけど・・・。
元カフェー!?なんて一瞬思ってしまうものも・・・たぶん違うでしょうけど。でも、戦後再開できなかった大原遊廓の代わりとして、青っぽいお店があったとしても不思議ではないのでは。
問題はこの『二本松三業組合』・・・実はこれと全く同じものを隣町である本宮市で見ているのです。両者ともいくら調べて情報がほとんどありません。思うに以前は純然たる花柳界が存在していたのではないでしょうか。まあ、それなりの町には必ずおられましたからね、芸者さん。で、時代の流れで花柳界は無くなったけど、似たような接待する商売、まあ実態は全然違いますけど(笑)・・・である飲み屋さんの組合に名前だけが引き継がれた、と・・・間違っていたらご免なさい。
近くで見つけた謎の洋館、生い茂った庭木のせいでこんな感じでしか寄れませんでした。
後姿はバッチリなんですけどね・・・気になるなあ。
向かいにはコレですから、垂れた汚れの跡もデザインの一部ですな(笑)
駅前広場の手前にある二葉旅館さんです。
これは良い雰囲気、このまま泊ってしまいたい・・・。あ、ついに降り出した・・・さて、現実に戻って帰ると致します。
僅かな資料と地図、これだけで遊里跡の場所を推定する・・・そして大当たり。このしょうもない趣味の醍醐味だったりするわけです。建造物としての遺構は確認できませんでしたけど、久々でしたので良いストレス発散になりました。以上、二本松の探索でした。
これまたハードルの高そうな飲み屋街ですなあ。
米沢を出た奥羽本線の普通列車は、見渡す限りの目に染み入るような深い緑の中を進んでいきます。行きの車内ではギリギリまで下調べのためスマホと睨めっこだったので車窓の風景には全く気がつかなかった・・・50分ほどで福島に到着、東北本線に乗り換えて20分、福島市と郡山市のほぼ中間に位置する二本松駅に降り立ちました。丹羽氏が治めた二本松藩10万石の城下町、町中を旧奥州街道が貫く静かな地方都市です。二本松城の通称である霞ヶ城公園で毎年10月に開催される菊人形祭りは日本最大の規模を誇っているとか。この二本松城、戊辰戦争であえなく落城、二本松少年隊という悲劇があった地でもあります。そんな町にも嘗て遊廓が存在しておりました。
『二本松大原遊廓 福島県二本松町大原にあつて、東北線二本松駅で下車すれば、駅より東北約十五丁位の所にある遊廓だ。乗合自動車の便があり、根崎角で下車すればすぐである。娼楼は総計二軒あり娼妓は拾二人位居て居稼ぎ制全部写真制ではなく、陰店制で遊びは全部東京式の廻し制に成つて居る・・・芸妓を呼べば玉代一時間五十銭である。妓楼は、新亀楼、吉村楼の二軒だ。』
お馴染『全国遊廓案内』からの抜粋になります。東北へ十五丁、根崎角をキーワードに地図を眺めておりますと、幸いにも根崎という町名が今も健在でした。距離的にも合っているようです。附近をじっくり観察してみますと・・・あった、ありました!!明らかに不自然な幅員がある通り・・・おそらく此処で間違いないと思います。ただちょっと気になることが一つ・・・その場所までの道程なのです。山一つ越えないといけないみたい(笑)正確には切通しだと思うのですが、地図を見るかぎりは・・・。いずれしろ登り下りは覚悟しないといけないようです。久しぶりの探索でしたので、前回の米沢でかなり足にきちゃってます・・・大丈夫かいな。そのうえ今にも降り出しそうな怪しい雲行き・・・急ぎましょう。
駅前通りを進みますと、すぐに東北本線と並行している県道355号線に出ます。これが嘗ての奥州街道。旧街道に面した商家にコレが・・・竿燈祭りとかがありますから、たぶん『がんばれ東北』って意味なんじゃないかと・・・事実、除染作業をしている人の姿も見かけました。此処も被災地なのですね。
旧奥州街道を東へ・・・最初に出会うのが、のぼりみたいな看板が目印の御菓師玉嶋屋さん、創業は文化文政時代まで遡るという老舗の和菓子屋さんです。名物は羊羹、帰りに玉羊羹・・・水風船に羊羹が入ったやつ・・・を購入、甘さ控えめでおいしゅうございました。大正8年(1919)に建てられた銅板葺きの建物は国の登録文化材です。
途中の脇道でステキな写真館に出会いました。昭和11年(1936)に建てられたヒラタテ写真館さんです。パラペットの雷紋、角の重なった円柱みたいな装飾、右手すぐは旧奥州街道・・・そこから見られることを意識しているのだと思います。バリバリの現役というのが嬉しいじゃないですか。赤テントがちょっと残念ですけどね(笑)
別の脇道・・・ドット絵みたいなお宅がありましたとさ。
こ、これは・・・思わず絶句。突き出したリブ、アーチ窓、屋号の配置・・・かっこよすぎだろ・・・。
しかも一部が『ぬけられます』状態・・・こういう発見は嬉しいなあ。
その先で左折、緩やかに登っている県道129号線に入ります。この坂道、地元では亀谷坂と呼ばれているようなのですが・・・実は帰りに東側の別の坂道を辿るのですが、そこも亀谷坂なんだとか・・・で、どちらかが旧奥州街道のはずなのですが、それもはっきりしない・・・。
坂は思っていたほどの勾配ではありませんでした。ホッとしたのも束の間・・・こりゃ、すげえ・・・現れた物凄い切通しに驚かされます。これで山を越えていきますよ。
切通しを抜けた先は郭内・・・『郭』とくると黙っていられませんが(笑)郭は郭でも、こちらは城郭の意味かと・・・すぐ西には二本松城址である霞ヶ城公園があるわけ。
立派な建物、市民ホールか公民館かと思いましたら、これが大七酒造!?なんと酒蔵でした。物凄い違和感・・・。
その先にあるのが『根崎』の交差点、南を向きますとこういう状況。気になる一画は右の通りを入った先にあるはずです。
不自然に幅員がひろがった通りが奥の山に向かって緩やかな登り勾配で伸びておりました。並木の名残かもしれない桜の下には古井戸!?そして石碑には『大原』の文字・・・この一文も刻まれておりました。『大原 丹羽氏による町割り以前は、二本柳(旧安達町)まで人家ひとつない広野であったので「大原」、その中心の山を大原山(現愛宕山)と称していたという。明治35年から昭和16年まで、大原遊郭として栄えた』・・・大当たりです。
何という私の眼力・・・これはちょっと自慢してもいいのでは(笑)でも、見渡したかぎり遺構らしきものは皆無・・・残っていたのは桜並木と蔵が一棟だけ。まあ、元々二軒しかなかった遊廓ですから・・・。
あ、こんな凄い枝ぶりの松も・・・間違いなく往時からのものですね。昭和16年までということは、戦争が始まって閉鎖、戦後赤線として復活できなかったということなのでしょう。周りのロケーションを見て何となく納得(笑)
距離にして100mほどでしょうか、山にぶつかってメインストリートは終わっておりました。その先には鳥居と苔生した階段が延々・・・地図を見ますと、山頂に社らしきものがあるようですが、そこまで登る気力はございません。
よくよく考えてみますと、二軒しかなかった遊廓にこんな立派なメインストリート必要なのでしょうか。明治、大正頃はもっともっと賑わっていた遊里なのかもしれませんね。
脇に入ったところにある本久寺、ほどよくというもの変ですが、いい感じに荒れております。左の斜面に見事な枝垂れ桜がありますよ。
メインストリートから分岐する脇道に切妻の破風がズラリ・・・遺構ではなく単なる長屋だと思うのですが、不思議な光景でした。
二軒の間には古びた石畳が残っておりました。草臥れた下見板張りの質感が堪りませんなあ。
???
根崎の交差点に戻ってそのまま鯉川を渡り、旧奥州街道を更に東へ進むと嘗ての宿場であった油井です。高村智恵子の生家があるのですが、町並み的にはいまいちみたいですのでこの辺りで裏道を辿って戻ることに致します。
巨大な土蔵が現れました。なぜか有料駐車場との表示・・・これが車庫なの???
長屋門みたいな入口もありました。土壁は落書きでいっぱい、相々傘なんて久しぶりに見ましたよ(笑)
左のベンガラ色の格子は国田屋醸造さん、安永5年(1777)創業という醤油味噌の醸造元です。そして向かいには名も無き看板建築。木が邪魔で全景が分からないのが残念。
その先にはトタン梱包物件、おそらく元は茅葺屋根だったのだと思います。こんな髪型の人いますよね(笑)
それではもう一つの切通しを抜けて駅方面に戻りますよ。これがかなりの上り坂・・・ヒイヒイ・・・気付いたのですが、通りの両側には家具店がいっぱい。二本松の名産は家具なんだそうです。300年の伝統を誇っているそうですが、このご時勢です。見事なまでの閑古鳥状態でした・・・。
行きのと似たような切通しを抜けると、今度は膝がカクカク言いそうな急な下り坂・・・散々歩いた後のこれはきつい。駅から続く県道355号線に出る手前、土蔵、お宅、土蔵、お宅・・・不思議な連続。
そのまま県道355号線を渡り、県道と東北本線に挟まれた細い通りを駅へと向かいます。地図を見ますと、どうやら歓楽街らしきものがあるっぽい・・・ちょっと期待しているわけ。
これが大正解!!
米沢にこういった路地が皆無だったので、正直ものすごく嬉しい(笑)
・・・だって、想像どおりに寂れていたから。
こんな美しい飲み屋建築も・・・二階のカーテンがエロすぎますな。
そして現れた若葉通り・・・冒頭画像は反対側、旧奥州街道に面した入口です。看板はこんなんですが、中の飲み屋さんは至って普通でした。現役かどうかは果てしなく微妙でしたけど・・・。
元カフェー!?なんて一瞬思ってしまうものも・・・たぶん違うでしょうけど。でも、戦後再開できなかった大原遊廓の代わりとして、青っぽいお店があったとしても不思議ではないのでは。
問題はこの『二本松三業組合』・・・実はこれと全く同じものを隣町である本宮市で見ているのです。両者ともいくら調べて情報がほとんどありません。思うに以前は純然たる花柳界が存在していたのではないでしょうか。まあ、それなりの町には必ずおられましたからね、芸者さん。で、時代の流れで花柳界は無くなったけど、似たような接待する商売、まあ実態は全然違いますけど(笑)・・・である飲み屋さんの組合に名前だけが引き継がれた、と・・・間違っていたらご免なさい。
近くで見つけた謎の洋館、生い茂った庭木のせいでこんな感じでしか寄れませんでした。
後姿はバッチリなんですけどね・・・気になるなあ。
向かいにはコレですから、垂れた汚れの跡もデザインの一部ですな(笑)
駅前広場の手前にある二葉旅館さんです。
これは良い雰囲気、このまま泊ってしまいたい・・・。あ、ついに降り出した・・・さて、現実に戻って帰ると致します。
僅かな資料と地図、これだけで遊里跡の場所を推定する・・・そして大当たり。このしょうもない趣味の醍醐味だったりするわけです。建造物としての遺構は確認できませんでしたけど、久々でしたので良いストレス発散になりました。以上、二本松の探索でした。