うまいこと舞妓さんが通りかかればと・・・いくら待っても来ませんでした。
さて、これから訪れる七日町ですが、その名のとおり毎月七のつく日に市が開かれていたそうです。古くから人々が集まる町だったわけです。この界隈が市内随一の歓楽街に成長するのに大きな役割を果たしたのが、明治9年(1876)創業の老舗料亭である千歳館さん。きっかけとなったのが明治44年(1911)に発生した山形市北大火、全焼してしまったお店を現在地に再建したのが大正4年(1915)のこと・・・当時は一面に桑畑がひろがっていたそうです。時を同じにして料理店や芸妓置屋を誘致したそうですが、これが花柳界形成の礎となったようです。昭和に入りますと、近くにある県庁の政治家や役人、その1でお話した兵隊さんなどが頻繁に足を運ぶようになります。また、近くには映画館が乱立するようになり一大不夜城が形成されるに至ります。当時の様子は『全国花街めぐり』から・・・。
『山形市は県庁所在地で兵営もあるし、人口は五万六千、東北六県の中では仙台・青森に次で兎にも角にも三番目に位する大都で、その周囲には広大な最上平野を控えて居ながら、どうもパツとせぬ市街である。派手なところがない。善くいへば素朴、わるく言へば野暮である。従つて遊びの方面なども極めて不粋らしく、これといふ情調も見出せないが兎に角書くだけは書いては置かう。市の繁華区は旅籠町、七日町、横町附近で、料理屋なども此の七日町界隈にもつとも多い、元来ここには専門の芸妓屋はなく、すべて芸妓は料理屋の抱え制度で、大抵の料理屋に二三名づつ内芸妓が置いてある、但し客の招きに応じてどこの料理屋へでも出向く。故に強て花街なるものを求むるとすれば「七日町」であらう。遊廓は「小姓町遊廓」と称し、別に一廓をなして大小約四十軒の貸座敷があつて、ここにも若干の抱芸妓が居る。現在芸妓約百五十名。主なる料理店──四山楼。中山。千歳楼。主なる貸座敷──新芳。大金。長しま楼・・・特種の歌踊とてもなく、流行唄やお定りの小唄の外は「おばこ」などをうたつて居る』
ぱっとしない町、無粋で情調もない、とにかく書くだけは書いておこうって・・・この著者の松川二郎氏って時々酷いこと平気で言うんだよなあ。何か嫌な思いでもしたのでしょうか、ぼられたとか(笑)実際そうだったのかはわかりませんが、軒を連ねる料理店、芸妓置屋、待合の中にはガラス張りの温室植物園!?にパターゴルフ場!?なんて変わりものも並んでいたそうで、これだけで当時の隆盛が伺えると思います。戦後も花街は継続、『よるの女性街・全国案内版』によりますと、映画館の並ぶ旭座裏に芸妓76名、丸顔だが美人が多いとあります。その後の様子は不明ですが、何処の花街も同様に時代の流れでゆっくりと衰退していったのでしょう。しかしこの花柳界、ギリギリのところで踏ん張っております。現在も6名の芸者さんが頑張っているそうです。彼女たちの育成枠として市も協力しているのが、その1でも少し紹介した『やまがた舞子』ということになりますね。
七日町を訪れる前にちょっと休憩・・・したいのですが、お店が皆満員・・・この暑さですものね。『水の町屋七日町御殿堰』という嘗て城下町を流れていた用水路を復元した商業施設にあった古井戸、山形市は伏流水が豊富な処なのでこういった井戸が沢山見られたそうです。
ようやく一息つけました。近くで見つけたのが旧丁字屋洋品店、大正14年(1925)に建てられました。現在は七日町二郵便局として余生を送っています。
同じ並びにある書店、なんとオニックス!?もちろんニセモノ(笑)メラミン化粧合板・・・ちょっと違いますが、デコラといえば分かりやすいかな?普通、外壁には使わないんですけどね。
脇道にあるのが『全国花街めぐり』にも出てくる料亭四山楼さん、明治24年(1891)創業の老舗です。屋号の名付け親は伊藤博文なんだとか。敷居高そう・・・。
小姓町遊廓跡から辿ってきた通りに戻ってまいりました。ウハッ、樽を潜って入店ですか・・・工夫をした甲斐はなかったようです・・・。
その先に元料亭ではないかと思われる物件が現れます。脇を覗くと水路が、円窓も発見です。
そのファサード、現在は居酒屋になっているようです。
また立派な料亭です。こちらはのゝ村さん、明治6年(1873)創業です。美しいアプローチです。敷居の高さも相当なもの(笑)
交差点に面しているのが旧旭座、前身は明治初期にできた芝居小屋でした。現在の建物は昭和30年(1955)のもの。長い間、娯楽の殿堂として市民に親しまれてきましたが、2007年に閉館・・・。規則正しく並ぶポツ窓、好きなんですよねえ。気になったのが出入りしている工事業者・・・調べてみましたら、コチラ解体されちゃうそうです。嘗て栄華を誇った七日町のランドマーク的建物だったと思うのですが、ほんと残念ですね。
その先に鮮やかな水色の建物が現われます。こちらが料亭千歳館さん、お店のHPには鹿鳴館調とあるのですが・・・ウーム、どうなんでしょう、これは(笑)
這い回るハーフティンバー風のボーダー、それが二重になった軒下でプッツリ切れて寺社建築風の持送りに変化、その軒も一部唐破風みたいだし・・・所謂擬洋風建築の一種になるんだと思うのですが、何とも表現しようのない建物ですなあ。とにかくハイカラなことだけは確かです。
気に入ったのが建物の角を隅切って造られた勝手口?このタイル貼りの柱いいなあ。あ、忘れていました、国の登録文化財です。
千歳館さん脇に大門です。この界隈の飲み屋街、花小路と呼ばれています。
潜った先の路地に入ると、見渡す限り飲み屋、飲み屋、飲み屋・・・。
路地沿いはそうでもなかったのですが、袋小路に入ると、まるでグラデーションのようにゆっくりと場末っぽくなっていくのが面白いなあ。
仕舞いにはこんな状況に・・・。
この看板が気に入りました。麦とろ食べたい・・・。
別の路地・・・ママさん、日本人じゃないのかな???文章が(笑)
モザイクタイルのポーチはパーマ屋さん、前方に見えるのは・・・
円と四角の下地窓がある冒頭画像の建物、元料亭でしょうか。どうやら商売はされていない様子。
勝手口?脇の横スリットの開口がステキ。こういった用途の建物に時折見られる造作ですが、コレ好きなんですよねえ。舞妓さんが来ませんので、さらに細い路地を奥へ・・・。
その先にも料理店らしき建物、2階出窓下のアールが面白い。
角を曲がったら行き止まりでした。そこにも何かいわくあり気な建物が・・・。
長いこと人が通っていないようですね。
こちらは反対側、千歳館さんの裏手辺り・・・だったと思う、で見つけました。庭が夏草に覆われており正体不明。以上が七日町になりますが、山形市にはまだまだ魅力的な近代建築が残っております。引き続きそちらを・・・といきたいのですが著しくモチベーション下がっております。原因はもちろんこの異常な暑さ・・・とにかく行けるところまで行ってみましょうか。
なんだか吸い込まれそうな入口廻りですね。
長〜いお店に出会いました。細谷牛肉店さん、明治38年(1905)創業という老舗、昭和天皇が来県した際には牛肉を献上されたそうです。
長〜い建物の反対側はすき焼きのお店だったようですが、現在は使われていないみたい。お隣には木造4階建て!?という驚くべき構造の仙台屋旅館さんがあるのですが、酷い写真に・・・こんなところにも猛暑の影響か・・・。
その先にあるのが山形市立第一小学校、思いっきり煽ってみたら、帝政ロシアのアヴァンギャルドポスターみたいになってしまった・・・ウム、これはこれで良い。
昭和2年(1927)竣工、県下初の鉄筋コンクリート造の校舎になります。さきほど帝政ロシアと言いましたが、どちらかというとドイツ表現主義のほうが正しいかと思われます。校舎にしては象徴的な建物に見えますが、それもそのはず、当初は勧業博覧会の会場として使われたそうです。国の登録文化財です。
もうヘロヘロ・・・昇降口のポーチで暫しの休息・・・まだまだ見たい建物があるぞと思いながら立ち上がろうとした瞬間です。経験したこともない立ちくらみでストンと尻餅・・・な、なんだ、いったい何が起こったんだ!?再び立ち上がりましたが、今度は指先がプルプルと痙攣し始めた・・・これ、ヤバイでしょ。辺りを見回しても休憩できそうな場所がない・・・。通りかかったタクシーを捕まえて駅前に戻り、フラフラと這うようしてカフェへ・・・そこから記憶が飛びます・・・。
気がつくと一時間半ほど経過・・・どうやら熱中症寸前だったみたい。この山形市の後、お隣の上山市のかみのやま温泉を訪れるつもりでした。遊廓跡らしき場所も判明していましたし、80円で入湯できる共同浴場で汗を流すというプランだったのですが、それは諦めないとならないみたいです。この日の山形市の最高気温37度、東京は35度・・・どういうことやねん!!もう少し休んだら、次の目的地である新庄に向かうことにします。歩行距離9キロ・・・以上、かなり不本意な探索になってしまった山形市でした。あ、そうえいば大好物ののし梅買うの忘れてた・・・。