色街向かいの真っ黒商家・色ガラス欄間のお風呂屋さん・ようやく見つけた名料亭の今
色ガラス製のガラスブロック、綺麗ですねえ。
東北遊里跡巡礼の旅も七日目、ついに最終日を迎えました。明日からはまた日常に戻らないとならないわけ・・・帰りたくない(笑)そうもいきませんので、残り一日大いに楽しませてもらいましょう。とはいえ、今日も残暑が厳しいみたい。そして旅の恥はかき捨てとはよく言ったもので、昨晩はちょっとはじけすぎちゃったみたい・・・。それを予感していたわけではありませんが、今日はかなり余裕のあるスケジュールになっております。長旅の疲れもかなり溜まっていることですし、ノンビリいきましょうや。
まずはベースキャンプにしている秋田市から奥羽本線で一駅の土崎港を訪ねます。雄物川の河口にひろがる古くからの港町、嘗ては秋田県第一の貿易港とされ、物資の集散地としても栄えてきたという歴史がある町でもあります。『秋田県遊里史』によりますと、遊里関係もかなり歴史があるようです。藩政期には裏通りに揚屋まがいの宿があり、浜女という私娼を抱えていたそうです。飯盛女みたいなものだと思います。文政4年(1821)に稲荷町や永覚町の揚屋が願い出て、新たに新柳町に遊廓を置くことが許されます。明治元年(1868)、久保田(秋田市)下米町の遊廓が大火で焼け、翌年に新柳町に移転させられることになります。一気に大所帯となった新柳町遊廓は隆盛を極めることになります。しかし、それもつかのまのこと、明治4年(1871)には久保田に遊廓がない不便さから、再び下米町に遊廓が設置され、移転組は元の場所に戻ってしまうことになります。
新柳町が最も繁栄したのは明治の中期で、同25年(1892)以降、港に入る船が少なくなると町の景気は急速に後退していくことになります。土崎港は浜風が強く、度々大火が発生したのも要因の一つになっているのかもしれません。昭和4年(1929)になりますと、貸座敷4軒、娼妓10名という著しい衰退ぶりでした。一方、元々色街だった稲荷町は50名の酌婦が活躍しており盛況だったそうです。花柳界も頑張っていたようです。同時期で芸妓屋14、5軒、芸妓50名、内12、3名が舞妓とのこと、定期的に演舞会みたいなものを開催していたそうです。『秋田県遊里史』にその後ことは書かれていませんでしたが、おそらく数年後の公娼廃止をもって消え失せる運命にあったのだと思います。
『土崎遊廓 秋田県土崎港新柳町にあつて、雄物川の河口に位し、鉄道は奥羽線土崎駅で下車する。駅から西へ約十五丁、車代五十銭市街の東南端の高台に一廓をなして居る此の遊廓は文政四年頃に初つたものであるが、火災の為に盛大だつた昔の観を失つて終つた・・・特殊の情緒は比較的古風な気分で、快活と、侠気と、情味に富み、非常に落着いて遊興出来るのが之の地の独特。岡本新内「せめて一夜の仮寝にも、妻と一言おはれたら、此の一念も晴れねきにどうした因果で片おもひ、いやがらしんやす顔みれば、わたしや愚痴ゆゑ尚かはい・・・」』
『市街の中央部港寄の方に「稲荷町」(一名濱町)、南端に「新柳町」(一名新地)の二花街があつて土崎の方が古い歴史を有して居るのであるが、今日は酌婦専門の私娼窟の如くなつてしまつて甚だ振るはない。新柳町の花街は文政四年の創業で、数度の祝融に禍ひされて昔日の観無しと言はれるが、割烹店などにも大きな家があつて、土崎港の花街として恥づる所はない。新柳町 市街東南端の高台に位置を占めて自から一廓を成し環境のゴミゴミして居ない点がなかなか感じがよい。芸妓屋十五軒、芸妓四十五名(内十二名舞妓)。料理屋十五軒、待合無し。貸座敷四軒、娼妓十名・・・主なる料亭 武田亭、池鯉亭、酔月、嘉根佐・・・池鯉亭は名に負ふが如く庭園とお池の鯉に名あり、且包丁は当地随一との評がある・・・稲荷町 和船時代、土崎が秋田湊として繁昌した頃からの古い花街で、明治初年公娼を許され、更に芸妓などの居つた時代もあつたが、今日は面目を一変して私娼窟となり・・・料理店にそれぞれ酌婦を置いて居る。その数総で四十余人。埼玉、群馬地方の乙種料理店と同じもので、特に呼べば新柳町からハコもはひらぬことはないが、芸妓は稲荷町の料理店に呼ばれることを喜ばず、料理店の方でも芸妓を呼ぶことは歓迎せぬ』
上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』による昭和初期の土崎港の様子でした。『赤線跡を歩く 完結編』にも遺構の類はほとんど残っていないとありましたので、あまり期待はしていなかったのですが、下調べ段階である事実を知ることになります。上記の文献にも載っている料亭が今も残っているというのです。当初は港町の風情みたいなものを感じられればそれでいいやという感じでしたので、俄然やる気がでてきちゃったというわけ。見つけられるといいのですが・・・。
現在時刻は9:00・・・いつもこれぐらいだと楽なんですけどね。この駅舎、昭和元年(1926)に建てられたものなのですが、変なリフォームされちゃっている。窓廻りの装飾はオリジナルみたいですが、この煉瓦風タイルはないよなあ。
カスベあります・・・ご存知カスベとはエイのこと。北海道や東北では一般的な食材みたい、煮付けにすると旨いとか。
その先に現れたお宅?に唖然・・・何コレ???
斜めに振られた入口と腰に貼られた鉄平石から飲み屋さん関係ではないかと思われるのですが・・・。これもカフェー建築の一種としてしまってもいいものか、悩むところです。
嘗ての稲荷町近くにやって参りました。国道7号線(船川街道)沿いに、真っ黒な商家?があります。『赤線跡を歩く 完結編』には、料亭だったと思われるとあります。
三重になった庇が凄いですね。妻側には特徴的な手摺が残っています。国道を挟んだ土崎港西3丁目が嘗ての稲荷町なのですが・・・な〜んにも残っておりません。ここまで何もないとある意味スッキリしますな。
コチラ、地図には美美美容院とあるのです(笑)そのまま建物の妻側に廻り込んでみますと・・・
・・・裏手に元飲み屋さんと思われる、廃れたお店が連なっておりました。手前が冒頭画像の場所になります。
いいですよねえ、この入口廻り。こういったものによく見られる色褪せたピンクの外壁、汚れのせいで茶になりつつありますけど・・・。新しめのドアだけが残念、と贅沢言っておきます。
袖壁にスリットが入っています。何だろうと思って表に回ってみましたら、藤政旅館とありました。既に現役ではないみたい。
並びには和風のお店もありますよ。この通りを抜けると稲荷町だったわけでして、こういうのも色街の特徴の一つだと思うわけです。
新柳町を目指してそのまま国道7号線を南へ・・・途中に映画にでもでてきそうな、おどろおどろしい廃墟が。表側に回ってみましたら、那波商店さんという文化4年(1807)創業の酒蔵のものでした。廃墟ではありません。
近くで見つけたたぶん元飲み屋さん。分かりにくいと思いますが、二階の手摺には松の透かし彫りがあります。
屋号は『あそこ』・・・なんて大胆な・・・。「ちょっとあそこに寄ってく?」「あそこって何処だよ」「あそこって言ったら、あそこしかないだろ」「あそこじゃ分からないだろ」キリがないのでこのあたりで(笑)
ポツリポツリと飲み屋さんがある裏通りを新柳町目指します。
やがて広い通りに出ます。新国道こと県道56号線です。左に行くと旧新柳町なのですが、その前に非常に目立つ看板建築を鑑賞していきますよ。
塩乃湯さん、残念ながら既に現役ではありません。左官によるハーフティンバーとでも申しておきましょうか、何とも表現しようのない、それでいてとても魅力的な意匠です。
気になるのが菱形の桟が入った欄間、緑と赤の色ガラスが使われています。上に照明の痕跡が残っていますね。下の庇は後から付けられたものだと思います。
通り沿いには飛び飛びですが、柳並木があります。新柳町を意識したものなのでしょうか。
近くで可愛らしい洋館を見つけましたよ。
コチラも左官によるハーフティンバー風、マンサード屋根というのがポイント高いわけです。いいなあコレ。
新柳町はこの通り(県道56号線)沿いにあったそうです。『赤線跡を歩く 完結編』には、もっと南側のジャスコがある一画がそうだったとあります。まあ、いずれにしろ何も残っていないということだけは共通しているのですがね。おそらくですが、通りの拡幅によって遺構は無くなってしまったのではないでしょうか。ちなみにこの先の秋田県調理師専門学校がある敷地には、嘗て大内という料亭があったそうです。この専門学校、経営している学校法人が大内学園、これも転業の一種でしょうか。
諦めて駅方面に戻ろうとすると、旧新柳町の外れで出会ったのがコチラ。小料理加茂川さん、小料理というわりにはお店が大きいような・・・。
入口には貸席とありますね。あ、奥に料理店の鑑札も発見です。初めて見るタイプのものだ。以前は別の業態だったのかもしれません。
改めて見ても小料理という規模ではないぞ(笑)まあ、何にせよこれはちょっと嬉しい出会いでした。
何もないと言ってしまいましたが、コレも遺構の一つとしてもいいのではないでしょうか。仕出し屋さんです。宙に浮く欄間とでも申しましょうか、面白い造りですなあ。
更に駅方面(北)に戻りますと、地元で旧電車通りと呼ばれている通りに出ます。その名のとおり、嘗て此処を秋田駅前から延びる市電が走っていたそうです。通りがちょっと広くなっているのが分かるでしょうか、停留所の跡なのです。
近くにあるのが旅館山水館さん。分かりにくいと思いますが、奥の壁は斜めに建物の中に食い込んでいるのです。レトロフューチャーなデザインが物凄くカッコイイなあ。この旅館の隣に目的の物件があるはず、事前の情報には青い屋根が目印とあるのですが・・・。
本当にあった!!実はコチラが『全国花街めぐり』にも載っている名料亭池鯉亭さんなのです。かなりの大店ですし、航空写真には奥に屋号の由来と思われる大きな池があるのが確認できました。
もちろん退役済みです。現在の主は?と入口を見ますと・・・東方之光秋田センター???地図にはエム・オー・エー東日本販売???何のこっちゃ。帰ってから判明したのですが、エム・オー・エー → MOA!?なんと、あの世界救世教関連の施設になっていたという衝撃の事実が・・・。まあ、コチラの団体はあまりきな臭い噂はないようですが、私も熱海にあるMOA美術館に行ったことがありますし。もちろん純粋に建物と収蔵品を見に行っただけですぞ。
伸びやかで美しい入母屋造りの部分はおそらく大広間なのでしょう。集会とかやるのにはもってこいの空間だよなあ。『赤線跡を歩く』によりますと、池鯉亭が廃業したのは昭和49年(1974)だったそうです。同時に芸妓連も解散になったとのことですので、コチラは土崎港の遊里の最後の砦みたいな存在だったのかもしれません。
名料亭から新興宗教の施設、こんな華麗?な変身を誰が想像したでしょう。現地では分かりませんでしたが、帰ってからその事実を知りひっくり返りそうになった土崎港の探索でした。次回はこの旅最後の探索、秋田市街を遊里の痕跡を探して彷徨います。
色ガラス製のガラスブロック、綺麗ですねえ。
東北遊里跡巡礼の旅も七日目、ついに最終日を迎えました。明日からはまた日常に戻らないとならないわけ・・・帰りたくない(笑)そうもいきませんので、残り一日大いに楽しませてもらいましょう。とはいえ、今日も残暑が厳しいみたい。そして旅の恥はかき捨てとはよく言ったもので、昨晩はちょっとはじけすぎちゃったみたい・・・。それを予感していたわけではありませんが、今日はかなり余裕のあるスケジュールになっております。長旅の疲れもかなり溜まっていることですし、ノンビリいきましょうや。
まずはベースキャンプにしている秋田市から奥羽本線で一駅の土崎港を訪ねます。雄物川の河口にひろがる古くからの港町、嘗ては秋田県第一の貿易港とされ、物資の集散地としても栄えてきたという歴史がある町でもあります。『秋田県遊里史』によりますと、遊里関係もかなり歴史があるようです。藩政期には裏通りに揚屋まがいの宿があり、浜女という私娼を抱えていたそうです。飯盛女みたいなものだと思います。文政4年(1821)に稲荷町や永覚町の揚屋が願い出て、新たに新柳町に遊廓を置くことが許されます。明治元年(1868)、久保田(秋田市)下米町の遊廓が大火で焼け、翌年に新柳町に移転させられることになります。一気に大所帯となった新柳町遊廓は隆盛を極めることになります。しかし、それもつかのまのこと、明治4年(1871)には久保田に遊廓がない不便さから、再び下米町に遊廓が設置され、移転組は元の場所に戻ってしまうことになります。
新柳町が最も繁栄したのは明治の中期で、同25年(1892)以降、港に入る船が少なくなると町の景気は急速に後退していくことになります。土崎港は浜風が強く、度々大火が発生したのも要因の一つになっているのかもしれません。昭和4年(1929)になりますと、貸座敷4軒、娼妓10名という著しい衰退ぶりでした。一方、元々色街だった稲荷町は50名の酌婦が活躍しており盛況だったそうです。花柳界も頑張っていたようです。同時期で芸妓屋14、5軒、芸妓50名、内12、3名が舞妓とのこと、定期的に演舞会みたいなものを開催していたそうです。『秋田県遊里史』にその後ことは書かれていませんでしたが、おそらく数年後の公娼廃止をもって消え失せる運命にあったのだと思います。
『土崎遊廓 秋田県土崎港新柳町にあつて、雄物川の河口に位し、鉄道は奥羽線土崎駅で下車する。駅から西へ約十五丁、車代五十銭市街の東南端の高台に一廓をなして居る此の遊廓は文政四年頃に初つたものであるが、火災の為に盛大だつた昔の観を失つて終つた・・・特殊の情緒は比較的古風な気分で、快活と、侠気と、情味に富み、非常に落着いて遊興出来るのが之の地の独特。岡本新内「せめて一夜の仮寝にも、妻と一言おはれたら、此の一念も晴れねきにどうした因果で片おもひ、いやがらしんやす顔みれば、わたしや愚痴ゆゑ尚かはい・・・」』
『市街の中央部港寄の方に「稲荷町」(一名濱町)、南端に「新柳町」(一名新地)の二花街があつて土崎の方が古い歴史を有して居るのであるが、今日は酌婦専門の私娼窟の如くなつてしまつて甚だ振るはない。新柳町の花街は文政四年の創業で、数度の祝融に禍ひされて昔日の観無しと言はれるが、割烹店などにも大きな家があつて、土崎港の花街として恥づる所はない。新柳町 市街東南端の高台に位置を占めて自から一廓を成し環境のゴミゴミして居ない点がなかなか感じがよい。芸妓屋十五軒、芸妓四十五名(内十二名舞妓)。料理屋十五軒、待合無し。貸座敷四軒、娼妓十名・・・主なる料亭 武田亭、池鯉亭、酔月、嘉根佐・・・池鯉亭は名に負ふが如く庭園とお池の鯉に名あり、且包丁は当地随一との評がある・・・稲荷町 和船時代、土崎が秋田湊として繁昌した頃からの古い花街で、明治初年公娼を許され、更に芸妓などの居つた時代もあつたが、今日は面目を一変して私娼窟となり・・・料理店にそれぞれ酌婦を置いて居る。その数総で四十余人。埼玉、群馬地方の乙種料理店と同じもので、特に呼べば新柳町からハコもはひらぬことはないが、芸妓は稲荷町の料理店に呼ばれることを喜ばず、料理店の方でも芸妓を呼ぶことは歓迎せぬ』
上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』による昭和初期の土崎港の様子でした。『赤線跡を歩く 完結編』にも遺構の類はほとんど残っていないとありましたので、あまり期待はしていなかったのですが、下調べ段階である事実を知ることになります。上記の文献にも載っている料亭が今も残っているというのです。当初は港町の風情みたいなものを感じられればそれでいいやという感じでしたので、俄然やる気がでてきちゃったというわけ。見つけられるといいのですが・・・。
現在時刻は9:00・・・いつもこれぐらいだと楽なんですけどね。この駅舎、昭和元年(1926)に建てられたものなのですが、変なリフォームされちゃっている。窓廻りの装飾はオリジナルみたいですが、この煉瓦風タイルはないよなあ。
カスベあります・・・ご存知カスベとはエイのこと。北海道や東北では一般的な食材みたい、煮付けにすると旨いとか。
その先に現れたお宅?に唖然・・・何コレ???
斜めに振られた入口と腰に貼られた鉄平石から飲み屋さん関係ではないかと思われるのですが・・・。これもカフェー建築の一種としてしまってもいいものか、悩むところです。
嘗ての稲荷町近くにやって参りました。国道7号線(船川街道)沿いに、真っ黒な商家?があります。『赤線跡を歩く 完結編』には、料亭だったと思われるとあります。
三重になった庇が凄いですね。妻側には特徴的な手摺が残っています。国道を挟んだ土崎港西3丁目が嘗ての稲荷町なのですが・・・な〜んにも残っておりません。ここまで何もないとある意味スッキリしますな。
コチラ、地図には美美美容院とあるのです(笑)そのまま建物の妻側に廻り込んでみますと・・・
・・・裏手に元飲み屋さんと思われる、廃れたお店が連なっておりました。手前が冒頭画像の場所になります。
いいですよねえ、この入口廻り。こういったものによく見られる色褪せたピンクの外壁、汚れのせいで茶になりつつありますけど・・・。新しめのドアだけが残念、と贅沢言っておきます。
袖壁にスリットが入っています。何だろうと思って表に回ってみましたら、藤政旅館とありました。既に現役ではないみたい。
並びには和風のお店もありますよ。この通りを抜けると稲荷町だったわけでして、こういうのも色街の特徴の一つだと思うわけです。
新柳町を目指してそのまま国道7号線を南へ・・・途中に映画にでもでてきそうな、おどろおどろしい廃墟が。表側に回ってみましたら、那波商店さんという文化4年(1807)創業の酒蔵のものでした。廃墟ではありません。
近くで見つけたたぶん元飲み屋さん。分かりにくいと思いますが、二階の手摺には松の透かし彫りがあります。
屋号は『あそこ』・・・なんて大胆な・・・。「ちょっとあそこに寄ってく?」「あそこって何処だよ」「あそこって言ったら、あそこしかないだろ」「あそこじゃ分からないだろ」キリがないのでこのあたりで(笑)
ポツリポツリと飲み屋さんがある裏通りを新柳町目指します。
やがて広い通りに出ます。新国道こと県道56号線です。左に行くと旧新柳町なのですが、その前に非常に目立つ看板建築を鑑賞していきますよ。
塩乃湯さん、残念ながら既に現役ではありません。左官によるハーフティンバーとでも申しておきましょうか、何とも表現しようのない、それでいてとても魅力的な意匠です。
気になるのが菱形の桟が入った欄間、緑と赤の色ガラスが使われています。上に照明の痕跡が残っていますね。下の庇は後から付けられたものだと思います。
通り沿いには飛び飛びですが、柳並木があります。新柳町を意識したものなのでしょうか。
近くで可愛らしい洋館を見つけましたよ。
コチラも左官によるハーフティンバー風、マンサード屋根というのがポイント高いわけです。いいなあコレ。
新柳町はこの通り(県道56号線)沿いにあったそうです。『赤線跡を歩く 完結編』には、もっと南側のジャスコがある一画がそうだったとあります。まあ、いずれにしろ何も残っていないということだけは共通しているのですがね。おそらくですが、通りの拡幅によって遺構は無くなってしまったのではないでしょうか。ちなみにこの先の秋田県調理師専門学校がある敷地には、嘗て大内という料亭があったそうです。この専門学校、経営している学校法人が大内学園、これも転業の一種でしょうか。
諦めて駅方面に戻ろうとすると、旧新柳町の外れで出会ったのがコチラ。小料理加茂川さん、小料理というわりにはお店が大きいような・・・。
入口には貸席とありますね。あ、奥に料理店の鑑札も発見です。初めて見るタイプのものだ。以前は別の業態だったのかもしれません。
改めて見ても小料理という規模ではないぞ(笑)まあ、何にせよこれはちょっと嬉しい出会いでした。
何もないと言ってしまいましたが、コレも遺構の一つとしてもいいのではないでしょうか。仕出し屋さんです。宙に浮く欄間とでも申しましょうか、面白い造りですなあ。
更に駅方面(北)に戻りますと、地元で旧電車通りと呼ばれている通りに出ます。その名のとおり、嘗て此処を秋田駅前から延びる市電が走っていたそうです。通りがちょっと広くなっているのが分かるでしょうか、停留所の跡なのです。
近くにあるのが旅館山水館さん。分かりにくいと思いますが、奥の壁は斜めに建物の中に食い込んでいるのです。レトロフューチャーなデザインが物凄くカッコイイなあ。この旅館の隣に目的の物件があるはず、事前の情報には青い屋根が目印とあるのですが・・・。
本当にあった!!実はコチラが『全国花街めぐり』にも載っている名料亭池鯉亭さんなのです。かなりの大店ですし、航空写真には奥に屋号の由来と思われる大きな池があるのが確認できました。
もちろん退役済みです。現在の主は?と入口を見ますと・・・東方之光秋田センター???地図にはエム・オー・エー東日本販売???何のこっちゃ。帰ってから判明したのですが、エム・オー・エー → MOA!?なんと、あの世界救世教関連の施設になっていたという衝撃の事実が・・・。まあ、コチラの団体はあまりきな臭い噂はないようですが、私も熱海にあるMOA美術館に行ったことがありますし。もちろん純粋に建物と収蔵品を見に行っただけですぞ。
伸びやかで美しい入母屋造りの部分はおそらく大広間なのでしょう。集会とかやるのにはもってこいの空間だよなあ。『赤線跡を歩く』によりますと、池鯉亭が廃業したのは昭和49年(1974)だったそうです。同時に芸妓連も解散になったとのことですので、コチラは土崎港の遊里の最後の砦みたいな存在だったのかもしれません。
名料亭から新興宗教の施設、こんな華麗?な変身を誰が想像したでしょう。現地では分かりませんでしたが、帰ってからその事実を知りひっくり返りそうになった土崎港の探索でした。次回はこの旅最後の探索、秋田市街を遊里の痕跡を探して彷徨います。