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遊里跡(遊廓・赤線・カフェー街)をブラブラあてどなく歩いた記録です。観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

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    暗闇の先にあったものとは・・・。


     戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を見ますと、甲府の中心街は歯抜け状の空地だらけということに気付きます。これは昭和20年(1945)7月7日の通称『たなばた空襲』によるものと思われます。この空襲によって甲府の市街地の七割以上が焼け野原と化したそうで、その1で紹介した穴切遊廓も例外なく跡形も無く焼けてしまったようです。戦後になると遊廓に代わって赤線・青線が隆盛を誇ることになります。『全国女性街ガイド』には赤線・青線がごっちゃになり『紫水晶』とも呼ばれ、穴切町から仲町・錦町附近に百軒、四百三十名もの女性がいたといいますから大した規模だと思うわけです。そして同時に、いつの時代も女性は逞しいとも・・・男達が敗戦に打ちひしがれている間に彼女達は裸一貫で勝負していたんだよなあ。まあ、良い悪いは別にしてですよ。

     赤線・青線があったとされる穴切町・仲町・錦町は、現在の宝一丁目と丸の内二丁目になると思われます。駅前通りである平和通り(県道6号線)の西側はほぼ色街だったということになるのかもしれません。まあ、百軒という規模になればこれぐらいないと収まらなかったのかもしれませんね。その1に引き続き、その2もその一画からお送り致します。



    路地を抜けるといきなり塞がれた円窓にご対面です。



    側面には扇形、瓦一枚分の小庇はカフェー建築の定義としても宜しいかと。この扇、どうやってガラスを納めているのか現地では分かりませんでしたが、枠が無いでしょ?これがスッキリしていて非常に宜しいわけです。



    全景・・・摩訶不思議な曲線を描くパラペット。分かりにくいのですが、形なりの屋根ではなく看板建築なのです。南アルプスの稜線を模したのでしょうかね。



    こっちにはちゃんと入っていましたよ。



    向かいの観賞魚店はやっていませんでした。水草がいいね。



    少し西に行った処でもっともっと摩訶不思議な物件に出会いました。雰囲気からして色街とは関係のない一般のお宅だと思います。



    なんといっても出隅に穿たれた円形のガラリ四つ。あ、ガラリというのは目隠しのために角度をつけた薄い羽根材を並べた換気口のこと、よくドアなどに用いられているの見たことがあると思います。コレ、床下換気孔ってこと???雨水の浸入の阻むため外壁の上部をデザインして出っ張らしているのが心憎いぞ。



    塀に半分隠れておりますが、脇には円形の造作もあります。室内はどうなっているんだろう、小品なれど興味が尽きないお宅でした。



    近くの路地裏で見つけた琺瑯看板、今は亡き町名が記されておりました。大和張りの塀が新しいですよね。わざわざ付け直してくれたようです。



    冒頭の円窓がある物件の近く、複雑な造りのお宅?に目が留まりました。



    二軒の間が『ぬけられます』状態、左は飲み屋さんだったようでして、扉の上にカフェーの鑑札が残っておりました。直されてすぎていて元の姿が全く想像できないのが残念。



    古びた公会堂、この界隈、こんな感じの味のある公会堂や公民館がたくさんあるのです。



    サイディングできっちりラッピングされておりますが、ダイヤの小窓が気になりますよねえ。



    付き物の質屋さんもありましたよ。コチラ、鬼瓦に屋号が刻まれていました。



    袖壁に平行四辺形の格子が嵌ったお宅、外壁の色も相まってちょっと妖しい雰囲気。



    全景・・・窓の位置が気になりますが、どうも思い過ごしだったみたい。以上で『紫水晶』跡と思われる一画の探索はオシマイ。その1と合わせてどれかは遺構ではないかと思うのですが、確信には至らないわけ。自分の眼力の無さに呆れるばかりですわ。気分転換のために、駅前にあるほうとうの名店小作さんで燃料補給、心も身体もポカポカになりましたので次の目的地に向かいましょう。



    まだ残っていたんだ・・・平和通りに面して骨組だけの大門が残っておりました。5年前と全く変わっていない・・・。



    奥には長屋形式の呑ん兵衛横丁があります。きらくさんは現役なのでしょうか。



    大門は変わっていませんでしたが、建物は明らかに崩壊と荒廃が進んでおりました。



    どん詰まりにはトタン塀、貼り紙には甲府市の名前で倒壊の危険ウンヌンとありました。この姿を見られるのもあと僅かかもしれません。



    次に向かったのは中央一丁目、新しくなった市庁舎裏が町いちばんの繁華街であり、巨大歓楽街でもあります。そこでいきなり出会った『カフエー』の電飾にビックリ、『カフェー』じゃないところがポイント高いぞ。



    居並ぶソシアルビル、その間にはこんな呑ん兵衛横丁。どう見ても大通りじゃないよね(笑)この界隈、こんな横丁の宝庫なのです。



    そんな横丁の一本にお邪魔しました。前方に見えてきたオリンピック通りの入口、ポッカリ口を開けた暗闇の先に見えたのが冒頭画像の光景、思わず息を呑みましたわ。



    暗闇を抜けると今度は口アングリ・・・何なの此処・・・。



    無音の世界・・・聞こえるのは私の足音のみ・・・。



    無音どころか時も止まっている空間です。



    凄まじい情報量、夜の様子が見てみたいと思ったところではたと気付きました。正月です、お店が現役だったらシャッターに謹賀新年の貼り紙ぐらいしますよね。それが一切見当たらないのです・・・。



    横丁を抜け、現実に戻るとそこは南銀座。私の背後にはシャボンの香り漂う大人のお風呂屋さん街。正月ということなのか、はたまた景気のせいなのか、店先のお兄さん達、皆さん暇そうでした。



    唐突になりますが、螺旋階段が大好物です。



    ほら、またあった。



    閉め切られたパイプシャッターの奥はこんな感じ。正月早々、こんなものを撮っている私、いったい何なのでしょうね。



    歓楽街を抜け、駅方面に戻って城東通り(国道411号線)に出ました。通りに面してこんな大門があるはずです。



    柳小路・・・此処は前回も紹介しましたね。路地は私の背後で直角に曲がっています。



    やなぎと書かれた看板、地図には旅館とあるのですが、もうやっていないだろうなあ。



    向かいの飲み屋さんのポーチ、左の長方形モザイクタイルが珍しい。



    この小路、中ほどにも大門があるという豪華版。右手の新しいお宅の処には特徴的な格子が嵌ったお店があったのですがね、こうなってしまいましたか・・・。

    その2はここまで、あの横丁には心底驚かされました。前半の色街跡なんかどこかに吹っ飛んじゃったもの(笑)で、今回の探索、まだまだ続くんですよね。その3では前回と前々回と空振りに終わった花街跡を懲りもせずまた訪れちゃいます。こう見えても結構粘着質なのです。

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    廃屋だからというわけではありませんよ。


     『市街南部の中心、「太田町公園」に近い若松町から東青沼町に亙る一円の地域で、この両町に跨つて七十軒の芸妓屋が散在し、そこに二百七八十名の芸妓が居つて「若松検」「吾妻検」の両検番に分れて居るが、出先の料理店は同一で大小併せて七十軒。その内代表的の料亭は太田公園内の「望仙閣」と、市街の中央櫻町三丁目にある「開峡楼」の二軒であらう、何方かといへば望仙閣の方が、庭もひろく落ちつきがあつて私は好きだ・・・』

     以上が『全国花街めぐり』による嘗て甲府に存在した花街の概要になります。太田町公園というのは市内の南に位置する遊亀公園のこと、元々は一蓮寺という時宗のお寺の境内だったそうですが、明治になって甲府市に譲渡され公園に整備されました。遊亀(ゆうき)とはおかしな名前だなと思いましたら、甲府城址である舞鶴城公園に対して付けられたようです。鶴と亀ということですな。

     遊亀公園の北側、市内を東西に流れる濁川に挟まれているのが若松町と青沼一丁目、二丁目、たぶんこれが嘗ての東青沼町になるのだと思います。場所はすぐに判明したのですが、『全国花街めぐり』に散在とあるとおり、結構な広範囲なのです。その1とその2でレポした赤線・青線跡の比じゃないわけ。大空襲とその後に行なわれた区画整理が原因なのか、地図に目を凝らしてもピンとこないし。それで前回、前々回とほぼ収穫なしだったわけです。今回も同じ目に遭いそうな予感がプンプン・・・まあ、それでもいいのです。別の目的がありますから。



    歓楽街を後にしてやってきたのは中央四丁目の交差点。通りの向かいにこんな大門、村松新道ですか・・・ちょっと探ってみましょう。



    飛び飛びですが、何となく艶っぽいお店が並んでいるわけ。新道という言葉が気になり調べてみましたら意外な事実が判明。戦前まではカフェーや飲食店が並ぶ通りだったそうです。



    その先の赤トタンに包まれた廃屋?を見て6年前の記憶が鮮やかに蘇ってきた。此処、来てる・・・確か二階に変な窓があったよな。その窓が見える位置まで後ずさり・・・。



    目に飛び込んできたのが冒頭画像の光景というわけ。もちろん本物じゃありませんよ(笑)長野県岡谷市にある国の重文の林家住宅には、コレを象った欄間があります。和風建築の意匠として前例のないものではないのですが、非常に珍しいものですな。そう思いながら眺めているとあることに気付きます。コレ、木製じゃなくて紐じゃん!!(爆)確か6年前は擦りガラスが割られていなくて、その向こうにコレが薄ボンヤリと見えていたはず。そのときは正体が分からなかったんだよなあ。何の目的で造ったのかは全くもって不明ですが、右袖壁の紅葉の透かし彫りを見ると花街と何かしら関連がある物件なのかもというのは考えすぎでしょうか?脇の玄関には立派な扁額が掲げてあるのですが、達筆すぎて読めない。解読できれば建物の正体が判明するのかもしれません。



    村松新道は200mほどでオシマイ。広い通りに出ると円窓付きの看板建築がありました。



    小林洋服店さん・・・黒タイルに縁取られた出窓の下に店名の箱文字が付けられていました。スッキリとしたデザインがいいね。



    同じ通りに面してこんな看板が・・・この建物がそうなの???



    完全な勘違い、都温泉さんは奥にありました。チャリが並んでいますので、正月から地元の方で賑わっているようです。



    隣の廃屋にはいい感じの正統派物干し台・・・あれ!?此処も覚えているぞ。でも、都温泉さんには全く気付かなかった・・・。



    近くにあるのが国の登録文化財である旧甲府商工会議所、大正15年(1926)に建てられました。空襲の被害が大きかった甲府市では貴重な近代建築といえるでしょう。連続する柱型がゴシック建築を思わせる重厚な建物ですが、最上部の庇が重すぎるんだよなあ。平成6年に改修され、現在も郵便局として現役バリバリです。



    甲府市で最も古い鉄筋コンクリート造の建物になります。



    遊亀通り(県道29号線)を少し南に行くと濁川に出ます。画像の右側が嘗ての花街跡ということになるわけでして、そうなるとさきほどの蜘蛛の巣の正体は???



    濁川の河畔にある割烹黒駒楼さん、うなぎが名物なんだとか。創業は江戸時代まで遡るそうで、おそらく往時は芸者さんが出入りしていたのだと思います。お隣にはしみぬき所という看板、こういうのも花街跡ならではというのは考えすぎ???



    一本向こうの通りの果物屋さんにも円窓がありました。



    近くにはこんな物件。右は元飲み屋さん、左はアパートのようです。いい草臥れ具合ですな。看板には美秀楼!?



    思わず『楼』に反応してしまいましたが、残念、中華屋さんでした。



    元飲み屋さんの腰壁には大好物の擬木。しかし、出来はいまいち(笑)



    二軒の間はこんなステキな路地空間になっておりました。抜けると濁川に出ます。



    案の定、大した発見もないまま適当にフラフラしておりましたら、若松町の西隣の相生まで来てしまったわけ。



    そこで見つけた謎の銀座。



    正体は所謂ソシアルビルでした。ヤングタウンの文字が哀しい・・・その前を私に一瞥もくれぬまま、貫禄十分の黒ニャンコが悠然と横切っていきました。正月から見回りご苦労様。



    フォントがいい感じの町子さんの先には・・・



    理容フルヤさんとカズキトレーディングさんという二軒のお店。



    フルヤさんには黒のモザイクタイル貼り・・・



    カズキさんには洗い出し風左官仕上の円柱がありました。



    ちょっと西に行き過ぎてしまいましたので、軌道修正して遊亀公園近くに戻ってまいりました。公園の北隣にあるのが割烹きよ春さん、数寄屋造りのお店は新しいものようですがコチラも名残なのでしょうか。



    遊亀公園内にある正ノ木稲荷稲積神社に初詣、今年の探索の無事を祈願致しました。本殿前の石灯籠にはなぜかハート、恋愛の神様だったりして・・・探索方面のご利益は期待薄かも(笑)



    公園の東隣には遊亀温泉さん。もうすぐ開店みたい、甲府のお風呂屋さんは皆さん元気ですね。温泉ということが理由なのかもしれませんけど。結局というか案の定といいますか、やっぱり花街の名残みたいなものは見つけられませんでしたね。まあ、これは想定の範囲内ですので本当の目的地に向かいます。



    青葉通り(県道22号線)に出ました。結構凝った造りの看板建築、海無し県でのサーフショップは厳しかったようです。



    脇道で見つけた石貼り風の左官仕上に包まれた洋館。



    右が嘗ての玄関だったみたいですな。雰囲気からして元お医者さんではないかと。



    脇道を抜けると見えてくるのがALC板外壁の素っ気無い造りの甲南劇場さん。山梨県唯一という貴重なピンク映画館です。



    正月から豪華4本立が絶賛上映中。やっぱりストーリー皆無のAVよりコレだよね。そう言いながら正月からこんなものを撮っている私、いったい何なのでしょうね・・・。あ、一応断っておきますが、目的地は此処ではありませんぞ。



    そのまま東へ真っ直ぐ・・・途中にあった廃墟と化した工場の事務所棟と思われる真っ黄っ黄の建物にもモザイクタイル貼りの円柱がありました。



    はい、目的地に到着、JR身延線の南甲府駅舎です。昭和3年(1928)に建てられました。アールデコ装飾が散りばめられたシンメトリーな構成、思っていたよりこじんまりとしていたのが意外でした。一日の乗降客が500人程度の駅なのですが、駅舎がこんなに立派なの不思議に思われるかもしれません。身延線の前身は私鉄の冨士身延鉄道、当時はこの駅舎に本社が置かれていたからなんだそうです。



    それでは甲府駅に戻って帰ると致しましょう。

    色街跡・呑ん兵衛横丁・花街跡・ピンク映画館といった感じでバリエーションに富んだ探索になりました。2015年初っ端としては上出来だったのではないでしょうか。今年もこんな調子だといいのですがね。

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    河畔の木陰の四層楼!?・県下三番目の大地主・崩壊寸前の酒寮

    はて?此処は城下町ではないはずなのですが・・・。


     中断していた越後新潟シリーズ再開致します。今日が最終日、新津駅から信越本線で長丘方面に戻り、東三条駅で盲腸線である弥彦線に乗り換え20分ほどで吉田駅に到着です。以前は吉田町でしたが、平成18年(2006)に燕市、分水町との合併で町は消滅し現在は燕市の一部になっています。下調べ段階でもそうだったのですが、今回レポを記すにあたってこの町のことを再び調べてみたのですが、いまひとつその歴史などがよく判らないのです。吉田駅から二つ先、弥彦線の終点である弥彦駅の西には有名な弥彦山がそびえ、その麓にはパワースポットとしても知られている弥彦(彌彦)神社があるわけです。そのことから門前町的な理由から形成された町ではないかと考えたのですが如何でしょう。

     町の歴史などはどうでもいいとぶっちゃけちゃうのは大変心苦しいのですが、この町を訪れた理由はどうしても見たかった近代建築があったから。まあ、探索はついでだと思いながら地図を眺めておりますと、町の西を南北に貫く西川沿いに割烹と記された建物が数軒集まっているのを見つけたわけ、そりゃ気になりますよね。とりあえずこの一画を訪れた後、本当の目的地に向かおうと人影まばらな早朝の駅前に降り立ったのですが、こういうときにかぎって見つけてしまうのですよ。



    気になる一画へは駅前通りを北西へ真っ直ぐ、出会ったのはワンコの散歩のお母さんだけでした。



    その先で通りの幅員が狭まり、地図にも載っていない水路を古びた橋で渡ります。親柱には新田橋と刻まれていました。その名前を確認し、視線を先に延ばした瞬間・・・前方に異様な物体が・・・。



    これにはぶったまげた!!暫し馬鹿みたいにポカ~ンと口を開けたまま見上げておりました。三階・・・いや、右に中二階と思われる窓がありますね。木造四階建て!?隣のお宅と繋がっているようですが、長いこと使われていないようです。



    画像を見てから気付いたのですが、正面二階の蔦に覆われた部分に屋号らしきものが描かれているようです。現地では全く気付かなかった・・・入母屋破風の欄間の繊細な格子に釘付けになっておりました。



    軒天は格天井、四枚引き戸の桟がそこはかとなく中華風なのが面白い。そして欄間部分のべんがら色が鮮やかすぎるのが不思議。引き戸脇の看板には『日本国有鉄道 推薦旅館』とあります。果たして元からそうだったのか、転業されたのか、答えを知る人はいるのでしょうか。



    脇には円形の造作の向こうに破れ障子。そろばんみたいな装飾がこれまた面白いぞ。



    そして見上げると幾重にも重なる軒また軒・・・こりゃ壮観ですなあ。



    すぐ脇を流れるのが西川。こう見るとお城にしか見えないというのは言いすぎでしょうか。



    『お城』の向かいには橋畔楼なる看板。実は当初の目的はコチラだったんですけどね。



    でもコチラ、地図を見ますとお店ではなくお店の寮みたいです。しかし、なぜか側面二階の窓に円形の造作があるのです。



    振り返るとお城がドーン、何度見てもこりゃ凄いわ。



    本体は奥の西川沿いにあるわけ。立派な塀を構えております。一応ウェブでヒットしますので現役のはずですが、詳細などは不明。



    昔の航空写真を見ますと、お店の真ん前に橋が架かっていたようです。屋号の由来かもしれませんね。建物の向こう側には立派なお庭があるのも確認できました。



    脇道にあった料亭かねこ家さん。残念ながらお店は新しいものでしたが、大正末期創業なんだとか。



    脇道を抜ける飲み屋さんが数軒、奥の黄色い建物は割烹大磯さん。前出のかねこ家さんが経営しているようです。



    退役済みと思われる飲み屋さん、入口脇には・・・



    この旅お馴染となった風俗営業の鑑札。これだけ発見がある一画、何かがあったのではないかと思っても不思議ではないでしょ?でも、この吉田の次に訪れた町で出会った方の話では、此処には遊里みたいなものはなかったというのです。その方、橋畔楼さんはご存知でしたが、『お城』のことは全く知らなかったというのも不思議なんだよなあ。



    新潟ですので雁木が見られます。でも、この辺りは新潟でも積雪が少ない処なんだそうです。



    謎の一画を後にして当初の目的地に向かいましょう。西川沿いの裏通りを北へ、途中にあるのが昭和5年(1930)創業の越後味噌醸造さん。



    その先、色づき始めた並木の向こうに小ぶりな蔵がズラリと並んでおりました。



    手前にはか細いものですが濠まで、石橋を渡ってアプローチします。庇の意匠が面白いですね。実は此処、目的地の裏口になります。



    県道223号線に出ましたら駅方面に戻ります。



    近くの水路脇にあった焼き鳥の河童さんはもうやっていないみたい・・・。



    いきなりこの仔にメンチ切られた・・・気が強そうなニャンコだなあ。



    コチラが当初の目的であった香林堂さんです。香林堂さんは代々長岡藩の御用商人を勤めていた今井家なる商家、現在は置き薬の販売をされているとのこと。前出の隣町の方によりますと、往時は1000町歩もの土地を所有していたそうで、これは新潟県下三番目の大地主なんだとか。一番と二番は聞き忘れましたが(笑)まあ、なんにせよ、とんでもない豪商であります。



    釉薬が使われた煉瓦が積まれた重厚な洋館は旧今井銀行、大正9年(1920)に建てられました。名前のとおり今井家が経営していた銀行になります。キャノピーとパラペット部分の銅板細工、階毎に表情が違う要石があるアーチ窓などなど、見所満載の建物です。



    一階窓のグリル(格子)が凄いですな。コレ、オリジナルなんでしょうか。気候の厳しい処なのに、全くといっていいほど直された痕跡が見当たりません。かなり腕のいい大工が手掛けたのではないでしょうか。



    玄関の要石は大黒さん、ニコニコです(笑)キャノピー軒天の照明もいいね。



    床下換気孔の鋳物グリル、郵便記号?はどういった意味なんでしょう。



    旧銀行に続く、切妻屋根妻入りの和風建築は今井家住宅主屋、江戸後期のものとされています。



    まだまだ続きますよ。その先には外壁にデカデカと香林堂と描かれた赤煉瓦。蔵だと思われるかもしれませんが、名前は今井家住宅西洋館といいます。明治中期に建てられたとされています。おそらく来客用の施設だったのではないでしょうか。



    凄いのが寄棟屋根から突き出した望楼。コレ、五角形の平面になっているわけ。中が見てみたいですよね。この今井家住宅、去年7月に国の登録文化財に指定するよう国に答申されたのですが、その後の動きが判りません。無事登録されたのでしょうか。その際の燕市の紹介サイトを貼っておきます。西洋館内部の画像もあるのですが、シャンデリアが下がる花を象ったセンターシーリングが凄い。コレ、薔薇?牡丹?ますます内部が見たくなったぞ。公開してくれないかなあ・・・。



    駅に戻る途中、雁木の下で美しい型板ガラスを見つけましたよ。時計を見ると、まだ少し時間がありますので・・・。



    また此処に戻ってきてしまった。例の『お城』の裏側はこんなグリーンモンスター状態。竹は庭木だったのでしょうか。視線を左に動かしますと・・・



    こんな崩壊寸前の建物が目に飛び込んできたわけ。



    『酒寮』ってかなり珍しいのではないでしょうか。建物の雰囲気と業態が全く釣り合っていないような気がするのですが・・・。



    そして近くのお宅、二階のスダレの向こうに円形の造作があるのお判りになるでしょうか?やっぱりこの一画、何かあったんじゃないかと・・・断言できないのが心苦しい。

    香林堂さんも素晴らしかったのですが、全部『お城』が持っていってしまった感がする吉田の探索は以上です。毎回言っておりますが、こういうことにメジャーもマイナーもないと思うのですが、こういった情報の少ない町を彷徨うのは楽しいと再認識させてくれましたよ。

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    謎の料亭街の意外な正体・鯛を象った車が練り歩く町・戸袋の乙姫様と洋館?

    こう見えても左官屋さんというところがミソ。


     吉田からJR越美線で新潟方面に戻ること三駅で巻に到着です。現在は新潟市の一部になっておりますが、平成17年(2005)までは巻町でした。江戸の頃は三根山藩の領地でして、日本海側を北国街道が貫いておりました。戊辰戦争で敗れ困窮した長岡藩に米百表が送られたという有名な逸話がありますが、お米を送ったのが何を隠そうこの三根山藩であります。明治維新後は西蒲原郡の中心として栄えていくことになります。

     そんな感じでそれなりに歴史のある町のようなのですが、地図を眺めてみてもいまひとつピンと・・・いや、ピンときちゃった。前回の吉田と全く同じ、料亭や割烹が集まっている謎の一画を見つけてしまったわけです。とりあえず此処を訪れてみたのですが、地元の方からこの一画の意外な正体を教えられることになるのです。



    なんとも表現しようない微妙な駅前の光景。やっぱり『楼』に惹かれちゃう私。コチラ、どうやら食堂みたいですが、もうやっていないみたい。向かいは梅屋旅館さん、こっちも同じ状況だとお見受けしました。



    駅前通りから一本入った裏通りには飲み屋さんらしき小さなお店が並んでおりました。



    もちろん此処が目的の場所ではありません。現役のお店は少ないようですし、風情的にもいまひとつですな。



    近くに立派な赤煉瓦の煙突があります。醤油の蔵元の中吉川商店さん、残念なことにもう醤油は造っていないそうです。後述するお盆のときなどには、蔵の内部が公開されるみたい。



    駅前通りに戻って左折すると、吉粂と描かれた蔵が見えてきます。コレを撮っていたとき、偶然車で乗り付けてきたのがなんと此処のご主人。元々は足袋屋だったそうですが、現在は一本向こうの町の目抜き通り(県道374号線)に面した処で洋品店を営んでおられます。まあ、この方がよう喋る喋る(笑)全部書いていたら日が暮れちゃう、というかもうほとんど忘れちゃったけど・・・というわけで要約しますね。この先に謎の料亭街があるのですが、その正体は官官接待の名残だというのです。前書きにもありますが、巻は西蒲原郡の中心でしたので役所関係の出先がたくさんあったそうです。簡単に申せば、良からぬことをヒソヒソ密談する場が必要になったというわけです。でも、もう芸者さんはいないでしょ?という私に問いに、まだいるよという意外なお答え。しかし、調べてみてもウェブではそれらしきものは見つかりませんでした。本当かなあ・・・。



    これも所謂一つの『知られざる遊里』ということになるのでしょうか。



    官官ではありませんが、ちょっと前までは接待って普通にあったんですよね。私も多少ですが、恩恵に与ったこともありましたから。あ、そんな怪しいものではありませんよ。現場の結束を促すための催しみたいなものです。よくあるのがゴルフ、変わったところでは船を借り切っての海釣りなんてのもあったなあ。唯一の芸者遊びがこれでした。それがバブル崩壊を経てリーマンショック後、ぱったりと無くなりましたからねえ、あれは見事でした。



    まあ、そんなことはどうでもいいので肝心の料亭街に向かいましょう。その手前に土蔵が二棟、扉に何か書いてありますよ。



    『御料理 角源』・・・これがお店???裏が更地になっていましたので、お店は無くなってしまったけど、蔵だけは残されたのだと思います。



    その先にあるのが料亭白根屋さん、明治中期の創業とのこと。建物は当時のものではないようですがかなり立派なものです。お隣には創業70年という割烹新ときわさん、コチラも新しい建物でした。



    写真屋さんのこのマーク、よく見かけました。



    料亭街の南の外れにあるのが料亭波勢屋さん、地図でも一際目立っていた大店・・・しかし、様子が変。ショートステイとありますね。どうやら老人施設に転業しちゃったみたい。塀は料亭時代のままのようですが、建物はまるまる建替えてられておりました。ちょっと遅かった。



    戻って新ときわさんの裏口、壁が手前に傾いてる、凄いなコレ。角のお宅は新ときわさんとは関係ないようですが、気になる存在です。



    駅前通りに面しているのが料亭三笠屋さん、大正10年(1921)創業です。



    入口に飾られているのが『鯛車』、鯛を象った行灯で車が付いています。お盆に子供がコレをゴロゴロ引っ張って練り歩くんだそうです。一時期廃れていましたが、平成17年(2005)に復活、町の再興プロジェクトの担い手になっています。



    それなりに歴史のある町ですので、町並みも期待していたのですが・・・ウーム、いまひとつ。



    今回の旅でいちばん滞在時間が短かったからと言い訳しておきます。



    草薙神社脇にあった古い商家、坪庭から見事なカエデで枝を延ばしておりました。抜けると県道374号線、此処で再び吉粂のご主人とばったり。再び長話、あのお店は直江兼続の家来だったとか、あそこは偉い学者の子孫だとか(かなりうろ覚え)・・・そんな一気に仰られても覚えられまへんがな(笑)一方私は次の列車の時間が気になって仕方がないわけ。



    勘だけに頼って裏通りを探ってみましたが・・・そろそろ時間切れ、駅に戻ろうと思ったときです。あれ?何かあるぞ。



    何かというのが、戸袋に描かれたタイル絵。これにはビックリ。右は乙姫様と富士山、まあコレは判る・・・いや、よく判らないか(笑)しかし、左の洋館?と滝はもっと判らない・・・。地図を見ますと、もっともっと判らない。コチラ左官屋さんなのです。そこは鏝絵で勝負でしょう。



    下から仰ぐと乙姫様、ちょっとまぬけ顔。



    個人的にはこっちが好み。どこかで見たことがあると思ったのですが、はたと気付きました。子供の頃、時々通った銭湯にこんなのあったぞ。



    急いで駅に戻る途中にあった見事な鬼瓦、なるほど屋根屋さんでしたか・・・しかし、隣には文具!?多角経営ですな。



    フゥー、なんとか間に合いました。

    ちょっと消化不良の探索になってしまいました。それもこれも話好きなご主人のせい(笑)まあ、そのおかげで謎の料亭街の正体が判明しましたから、よしと致しましょうか。次回はこの旅最後の町、燕市の中心街を時間の許す限りフラフラ致します。

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  • 02/22/15--23:57: 新潟県 燕市201410
  • 職人の町は銭湯の町・路地裏の二枚鑑札・ロンドンロンドン喫茶のロンドン

    北向きの高窓、織物工場のノコギリ屋根のものと同じ役目だと思われます。


     前々回の吉田から再びJR弥彦線に乗り換えて二駅、燕駅に到着です。新潟県のほぼ中央部に位置する燕市、ご存知の方も多いかと思いますが日本を代表する金属加工製品の一大生産地であります。特にステンレスを主とする洋食器生産は、全国シェアの9割以上を占めるほどだといいますから大したものです。この一大産業の礎となったのが和釘になります。江戸時代の初め、疲弊していた領民を救うため、三条城の代官大谷清兵衛の奨励で和釘鍛冶が始まったとされています。当時は各地で大火が頻発していましたので、復興のための和釘は引く手数多だったというわけです。燕は昔も今も職人の町だということですな。

     そんな職人の町に遊里が存在したのか・・・先に答えを言ってしまうと、無かったそうです。あ、これは前回の巻で出会った吉粂のご主人から聞いた話ですけどね。まあ、下調べの段階でもそれらしい情報などは見つけられなかったですし。想像になりますが、お隣の三条には結構な規模の遊里がありましたから、皆さんそっちに行かれていたのではないでしょうか。上記のことは下調べ段階では知らなかったこと、一応地図上で気になる一画をチェックしてありますので、とりあえずそこを探ってみましょうか。



    驚いたのが駅前の光景、何にも無い・・・



    気になる一画というのが駅の東、県道44号線を渡った先にある幸町。お手数ですが地図で確認してみてください。プチ吉原かと見紛うほど綺麗に区画された町割にメインストリートらしきものが見つかるはずです。昔の航空写真にもはっきりと写っているものですからてっきり此処かと・・・。しかし、あったのは住宅街の中にこんな古い町工場と思われる建物が点在しているだけでした。吉粂のご主人の話は正しかった?



    思ったのですが、此処って昔の工業団地みたいな処だったのではないかと。そうじゃないとこの綺麗すぎる区画が説明できないんだよなあ。というわけで、始まって早々に目的を失ってしまった今回の探索ですが、これでオシマイとするわけにもいきませんので、ここからは気軽なお散歩探索とさせていただきます。



    県道44号線に戻ると冒頭画像の建物が現れます。



    たぶんコチラも町工場だったと思うのですが、もう使われていないみたい。雁木がありますね。人が通る通路部分まで上屋が跳ね出しているのが『造り込み雁木』、屋根だけが架かっているのが『落とし込み雁木』といいます。此処の場合、上屋が少し跳ね出していますので『半造り込み雁木』で宜しいかと。



    お隣にあるのが玉川堂さん、文化13年(1816)創業という老舗の銅器の工房。正確には鎚起銅器と呼びます。銅の一枚板を木槌で叩き、やっとこで延ばし、焼き鈍しをし、色付けをして美しい器に仕上げます。その技術は国の登録無形文化財に指定され、ご主人は人間国宝でもあります。海外でも高く評価されているそうです。しかもこの建物も国の登録有形文化財、門を兼ねた雁木は大正期、奥の店舗は明治末期に建てられたものになります。



    なんとこの日はお休み・・・まあ、伺ったところで買えるかわかりませんが(笑)お高いのでしょうね。お店のHP貼っておきます。ぐい呑がいいなあ、値段が表示されていないけど・・・。



    裏通りに入りました。この門扉も職人の町ならでは・・・いや、違うか。



    さらに分岐する路地へ・・・豊満なママさんでもいらっしゃるのでしょうかね。



    路地を抜けるとまた別の裏通り、数軒の飲み屋さんが並んでおりました。



    その並びの端にはカフェー風・・・というのはちょっと苦しいかな?草臥れ果てたモルタル欠き落とし風の外壁がいい感じ。



    でも斜めに振られた入口脇には円窓があるのです。



    コチラもたぶん町工場ではないかと。木目が浮き出た押縁下見板にウットリです。



    駅前通りを渡って今度は西側へ・・・寿町の路地裏に入りました。



    そこで桜湯なるお風呂屋さんを発見。しかし、様子が変だぞ。



    寿町集会所・・・廃業されたようです。寿サロンの貼り紙、少しずらして貼って欲しかった。赤の鯉が見えまへんがな。



    立派な煙突はそのままでした。



    寿町の南には宮町、専養寺さんの本堂の鬼瓦、文字通りのド迫力です。



    その先に町の目抜き通りに抜ける路地があります。



    左は割烹かな?右のパチンコ屋は退役済みのようです。



    割烹には風俗営業の鑑札、それも同じものが二つ。これぞ本当の二枚鑑札!?



    宮町サンロード商店街なる目抜き通りに出ました。正面には小田湯さん、老人無料入浴日なる看板が出ていましたので現役かと思ったのですが、どうやら最近になって廃業されたようです。



    小田湯さんからたった50m、今度は玉宅湯さんです。燕で唯一の現役銭湯らしいです。外観は素っ気無いですが、浴場には佐渡おけさのタイル絵があるそうです。レポには記していませんが、これら以外にも二軒の廃業銭湯を見かけました。これも職人の町ならではないかと・・・仕事で汗を流したら一風呂浴びたいですものね。個人的にはその後が気になるわけ(笑)やっぱり三条に繰り出したということなのでしょうか。



    お米屋さんには円形の造作、鬼瓦は恵比寿さんのようです。



    これは立派な商家、深い軒の出が見事です。関東だと出桁造りなのでしょうけど、この辺りだとせがい造りと呼んだほうがいいかもしれませんね。



    なんと、モンゴルの怪人の出身地は此処燕なのですぞ。燕といっても正しくは前々回レポした旧吉田町なんですけどね。アンドレの足をへし折った怪人は、現在西新宿の居酒屋のマスターをしておられます。キラーって伸ばさないのは方言???



    目抜き通りから分岐する路地には長屋風の呑ん兵衛横丁、此処はかなり歴史がありそう。



    そのうちの一軒、企業戦士(カンパニーウォーリア)ってどうなんでしょう。仕事の愚痴ばかりになりそう(笑)



    商店街は国道289号線にぶつかって終わっておりました。渡った先がちょっと気になる一画なのです。



    左の鮮魚仕出しのつぎ新屋さん、半造り込み雁木上の戸袋は銅板の板金細工で仕上げられております。



    ウーム、これは巧妙な罠だ(笑)入口脇には風俗営業の鑑札がありました。



    通りを抜けると中心街の南を流れる信濃川の支流中ノ口川の土手に出ます。支流といっても本流並みの川幅があります。その土手に面しているのが初元旅館さん、入母屋破風の上には高欄風の手摺。一応ウェブでヒットしますが、現役かどうかは不明。裏に回ると屋根が半ば崩壊していたのが気になります。



    土手から降りて再び中心街へ・・・やっぱりこれといったものは見つからず。前方に見える社は戸隠神社です。



    戸隠神社の境内、玉垣の向こうには古びた長屋が残っておりました。



    レトロな照明がいいね。



    歩き疲れた・・・何処かで休憩したいのですが、この町、カフェはおろかコンビニさえも無いのです。これはちょっとした驚きの事実。ようやく見つけたのが喫茶のロンドンさん。ロンドンとくると『ロンドン、ロンドン、楽しいロンドン♪愉快なロンドン♪』が真っ先に頭に浮かんでしまう世代。外観もそれに近いようなレトロ感が素晴らしいのですが、中はもっと凄かった・・・。



    これ、もう完全に『愉快な』のほうの内装そのものではありませんか(笑)しかも、テーブルのゲーム筐体がギャラガ88、懐かしすぎるぞ。こういうのって脱衣麻雀が多いのですが、あれって絶対勝てませんよね。



    こういうお店にはコレがお似合いかと。最近はアルコールよりこういったお店を探すのがマイブームになっております。失敗すると悲惨ですけどね。今回は大正解というわけです。

    吉粂のご主人の話は正しかったということにしておきましょうか。まあ、気軽なお散歩探索と考えればそれなりに楽しめた燕市の探索でした。以上で久しぶりの越後新潟シリーズはオシマイ、お付き合いありがとうございました。

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  • 03/02/15--02:31: 千葉県 八街市201409
  • 雨に濡れる群青タイル・用途不明謎の長~い建物・駅前の『ぬけられます』

    いつ頃貼られたのかは不明ですが、未だにいい艶放っておりました。


     今回は千葉県北部のほぼ中央に位置する八街市です。ご存知の方も多いと思いますが、特産の落花生が全国的に有名ですよね。私は塩茹でが大好物、ビールのあてにするなら枝豆より好きかもしれません。でも、カロリー高いですからね、何事もほどほどが肝心ですな。

     この町を訪れたのは遊里らしき一画があったらしいという有難いコメントを頂いたから。しかし、いざ地図を眺めてみると首を傾げることに・・・何ともとらえどころの無い町というのが第一印象。この町、中心街が存在しない、というのはちょっと言いすぎかもしれませんが・・・一応駅前に商店街らしきものがあるようなのですが、それが周辺の町と比べると明らかに規模が小さいわけ。その外側には比較的新しいと思われる宅地が、農地(落花生畑?)と共に際限なくひろがっていくといった感じなのです。間口が狭くて奥行きの長い家屋が密集する古くからの町並み的な場所も一切見当たりませんでした。

     この不思議な状況ですが、町の歴史を知るとある程度納得することができます。この辺り、江戸の頃は幕府の放牧地だったそうで、所々に小さな集落だけが散見される何も無い処だったようです。明治になると開墾局が設置され周辺の開発と入植が開始されます。それに伴って始まったのが落花生の栽培ということになるのでしょう。明治30年(1897)に総武本線の八街駅が開業し、駅前に小規模ながら商店街が形成されたという感じでしょうか。要するに歴史の浅い町ということになります。そんな町に遊里が存在したのでしょうか・・・。



    アチャー、降り出しちゃった。予報では今日は降らないって言っていたのに・・・コンビニでビニール傘を購入して探索開始です。ちょっと寂しい駅前の光景、此処にもちょっと気になる一画があるのですが、それについては最後にでも。



    駅前広場から東に伸びる通りを行きます。こういう『百貨店』が健在なのも地方都市の一つの特徴かと。



    その先にあるのが割烹やまもとさん。明治36年(1903)創業、当初は旅館だったそうです。残念ながらお店は新しいものに替わっておりました。お店のHP貼っておきます。お店の歴史のところで昭和3年(1928)の駅前の様子を描いた鳥瞰図を見ることができます。できればもう少し解像度上げて欲しかった(笑)



    通りはすぐに国道409号線にぶつかります。国道を南に行って最初の脇道を右折するとこんな並びが現れます。



    長野商店さん・・・いい具合に緑青が浮いた日の出型看板建築です。



    軒天のアールがお気に入り。何屋さんだったのでしょうね。



    お隣は寄棟屋根の蔵造り?いや、擬洋風建築にも見える不思議な造りのお店。淡いピンクのトタンがいいね。



    安藤呉服店さん・・・右のシャッター廻り、照明の感じからして、呉服店を閉めた後は飲み屋さんとして余生を送っていたのではないでしょうか。



    二軒のお店共、さきほどの割烹やまもとさんの鳥瞰図にもしっかり描かれています。



    国道に戻って今度はJR総武本線沿いを行く脇道に入りました。この通りの先が気になる一画になります。



    これは何だろう・・・塀の向こうに破風が顔を覗かせていますので、嘗ては此処が入口だったと思うのですが。それ以上に跳ね出した二階のずれた小窓が気になりますな。割烹やまもとさんの鳥瞰図には○○湯と記されているように見えるのですが・・・。



    右がずれた小窓がある物件、かなり複雑な造りになっているようです。左の越屋根がある倉庫みたいなのの正体は後ほど。中央に空っぽの自販機には全面に落花生の画像、それ専用の販売機?問題は私が立っている更地、背後には総武本線が走っているのですが、此処には扇屋なる旅館がありました。割烹やまもとさんの鳥瞰図にも描かれており、一年ぐらい前の航空写真では複雑な造りの赤い屋根が確認できていたのですが、間に合わなかった・・・。



    その先で脇道は国道から分岐する別の脇道にぶつかります。此処が気になっていた一画になります。とりあえず左の物件は後回しにして、右にはれいさんなる飲み屋さんの亡骸。



    この飲み屋さんの造りが妙なのです。破れたオレンジテントの先、狭い間口のままずーっと奥まで続いているわけ。



    振り返るとさきほどの倉庫みたいな物件。小澤商店さん、落花生とありますから、此処は炒ったり茹でたりする工場ではないでしょうか。写っておりませんが、右には落花生の加工品を売っている店舗があります。



    問題の左の物件へ・・・まあ、これは一目で判りますよね???



    そう、廃墟と化した映画館であります。背後の建物のせいでファサード全体を収めるのはこれが限界、あおりまくりで申し訳ない。



    なんといってもこの鮮やかな群青色のモザイクタイルです。今は亡き横須賀安浦の例の物件が真っ先に頭に浮かびましたよ。惜しい人・・・いや、惜しい建物を亡くしたものです。



    なんかバランス悪いと思ったら、左右のアール壁の出が違うわけ。ご覧のとおりの熟成度、廃館になってからかなりの時間が経過しているようですな。



    こじんまりとしたもぎりの窓口。昭和三十年代、八街には八街第一銀映、八街第二銀映、八街中央劇場という三つの映画館が存在したようです。コチラはどれになるのでしょうか。



    見上げると朱色のタイルが貼られたリブ壁、ありがちな意匠ですけどこれがレトロ感満載で大変宜しい。



    振り返ると前出の飲み屋りのさんの延長部分、たばこのカウンターで判りますが何らかのお店があったと考えるのが正しいかと。



    廃映画館と向き合うこの細長い建物、途中から大谷石が積まれた外壁に変わり、向こうを走る県道43号線まで続いているのです。地図上で測ってみると、なんと100mもあるのです。どんな用途だったのでしょう、全く想像ができません。



    謎の一画の前を東に行くと総武本線の踏切、手前には古いものではありませんが長屋風の飲み屋さんの痕跡。



    踏切を渡った先にはこんな押縁下見板張りの工場らしきものが。綿貫商店さん、どうやら製茶の工場みたいです。



    先には何も無さそうですので謎の一画に戻り、今度は県道43号線に抜ける裏道に入ると廃映画館の裏側が現れます。外壁モルタルの劣化が凄まじいですが、気になるのは右手の建物。前出の映画館全景が収まっていた画像の左に写っていたものです。外壁に看板の痕跡、コチラも長屋風の飲み屋さんだったようです。



    その先には旅館松楽さん。どうです、やっぱりこの一画妙ですよね。



    県道43号線に出ました。総武本線の踏切近くにあるのが女化稲荷神社。この名前です、気にならないほうがおかしいですよね。記念碑に勧靖の経緯とかが刻まれていましたが、残念ながら遊里がらみの記述はゼロ。女化の読みは『にょか』ではなく『おなばけ』だと思います。関係があるのか不明ですが、茨城県龍ヶ崎市に同じ名前の神社があるそうです。狐が女に化けて男を誘った・・・そんなこともあって近くに遊里が形成された・・・なんて物事はうまくいくわけないよね。



    県道沿いで見つけた廃商店、頂部の装飾と矢羽の桟が入った窓が確認できました。外壁の板金の平葺きはオリジナルではないでしょうね。長いこと放置プレイされているようでして、軒樋が草ぼうぼうでした。



    これが謎の長~い物件の県道に面したファサード。右奥に見える木の向こうに廃映画館があります。こう見てもやっぱり用途不明・・・外壁の大谷石から真っ先に蔵が頭に浮かび、落花生の貯蔵庫だったりしてと考えながら、締め切られた扉に開いた孔にレンズだけを突っ込んで撮影したのが次の画像。



    な、何だコレ・・・液晶画面に現れた謎空間にますます混乱。コレって所謂横丁建築の一種でしょうか。でもお店というわりには痕跡が無さすぎるよなあ。両側にボロボロの絵みたいのが貼られていますが、廃映画館のこともあって映画のポスターだと思ったのですがそうではないみたい。唯一判明したのが突当りの若かりし頃の若大将(なんのこっちゃ)のポスター、その脇にはスピーカーらしきものも確認できますが、やっぱり用途不明であることに変わりはないわな。



    向かいには重厚な造りの商家。黒一色の中、雨に濡れた戸袋の鮮やかな青が印象的。



    二階の高欄風の手摺、それを支える束には見事な彫り物が取り付けてあります。



    国道を渡った先で見つけた佐藤歯科医院さん。手元の近代建築関係の書籍などにも八街市って全くといっていいほど名前が出てこないのです。これも歴史が浅い町というのが関係しているのかもしれません。雨が激しくなってきましたので、ここいらで駅に戻ります。



    最後に訪れたのが駅前広場に面した商店が並ぶ長屋形式のビル、一部が『ぬけられます』状態なわけ。



    抜けた先は半ばシャッター通りと化しておりました。なんと百貨店には別館があったとは・・・。

    遊里ウンヌンはぬきにして、とにかく謎の一画があるということだけは判っていただけたのではないでしょうか。以上で八街の探索はオシマイ・・・としたいところなのですが、このたびレポを書くにあたって、ストリートビューでおさらいをしていましたら、もっと気になる一画を見つけてしまったのです。たぶんこの町、もう一度訪れることになりそうです。


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    妖しい赤より腰のタイル・通風用可動式下見板張り(手動)・19歳はどうしたらいいの?

    拙ブログではお馴染の表示ですが、コレ、よ~く覚えておいてくださいね。


     今回は豊川市、実はこの探索急遽決まったものでして、当初は奥美濃方面を訪れるつもりで計画を練っていたのです。雪の飛騨高山なんか情緒があっていいじゃないですか。しかし、直前になって急な打ち合わせが入ってしまいあえなく頓挫・・・この職業を呪いましたわ(笑)宿をキャンセルしながらスケジュールを再確認してみると、なんとか一日だけはフリーで動けそう。もう行く気満々でしたので代替案を検討したのですが、どうも近場の町には食指が動かないなあということで、美濃の手前の東三河に強行日帰り探索と相成りました。豊川は以前名古屋周辺を探索した際、候補にもあがっていた町ですので下調べは一応万全・・・かな?

     愛知県の東部、東三河平野の中央に位置する豊川は、日本三大稲荷の一つである豊川稲荷を中心に発展を遂げてきた門前町であります。ご存知でしょうか、このお稲荷さん、実は神社ではなくてお寺だということを・・・正式な名前は円福山豊川閣妙厳寺というんだそうです。コレ、たった今知った事実でして、現地で思いっきり二礼二拍手一礼しちゃった奴が此処にいるんですが・・・こりゃ、ご利益は無理ですかね。まあ、常識の無いアホはほっといて話を進めますよ。豊川は旧伊那街道が南北に抜けていましたので、宿場や物資の集積地という一面もある町でした。そのわりには戦後すぐ米軍が撮影した航空写真に写る中心街は、意外なほどこじんまりとまとまっているといった印象、でも密集ぶりはなかなかのものですので、路地裏を重点的に巡ってみることにしましょうか。あ、大した情報はありませんが、遊里関係はその2でお話致します。



    兎にも角にもお稲荷さんにお参りということで、駅から伸びる表参道を行きましょう。



    長屋風の商店が見えてきました。並びの端っこに素晴らしい飲み屋建築があります。



    それがBARカワセさん、框ドアが斜めハンドルだったらほぼ完璧だったのに。



    鈍い光沢を放つ黒モザイクタイルが貼られた雁行する外壁、大胆なデザインだなあ。



    モザイクタイルは中央が盛り上がった座布団型、ちなみに建築用語にこういったものはありませんのでご注意を。バーの鑑札、愛知県は円形です。



    お隣の食堂河精さんがこれまたいい。



    格子下部の左官による装飾が控え目ながら凝っておりますな。格子脇の柱には料理店の鑑札、画像を開いて初めて気付きました。



    その先で表参道は左折、豊川稲荷までは真っ直ぐです。早朝とあって人影皆無の通り、もう少ししたら参拝客で賑わうことでしょう。右は食堂旭亭さん、さきほどの河精さんもそうですが、いい感じの大衆食堂がたくさんあるのです。時間があれば寄りたかった。



    その先のレトロなパーマ屋さんの前で日向ぼっこしいていた三毛ニャンコ。



    シャッター音に驚いて一瞬逃げかけましたが、この場所がお気に入りらしくこのまま留まるべきか迷っている様子がコレ(笑)それにしてもこの仔、三毛の柄がくっきりすぎる、結構珍しいのではないでしょうか。



    お次は珈琲館トミーさん、豊川市初の喫茶店なんだとか!?独特な喫茶店文化が知られている愛知県、ほんとそこら中で見かけますよね。探索していて歩き疲れたときの強い味方なのですが、今回は強行スケジュール、果たして寄っている時間があるでしょうか。



    広大な境内を構える豊川稲荷、曹洞宗の東海義易禅師によって嘉吉元年(1441)に開山されました。思っていたほど古くはないのですね。これで京都府の伏見稲荷、茨城県の笠間稲荷と合わせて日本三大稲荷をコンプリート、だから何だという感じですが。重厚な本殿は昭和5年(1930)に再建されたものになります。右には文化10年(1813)に建てられた法堂があるのですが、改修のためか足場が組まれており姿を拝めませんでした。



    此処で思いっきり柏手打っちゃったというわけ、早朝とあって私以外参拝客の姿が無かったのが不幸中の幸い。巨大な提灯を見ればわかりそうなものなのですが・・・嗚呼、恥ずかしい。



    コチラは昭和4年(1929)に建てられた最祥殿、中には四百畳敷きの大広間があるそうです。広大な境内全てを巡っている時間はありませんのでここいらで。



    お稲荷さんの門前、表参道から分岐する路地にのぼりがいっぱい。



    突当りにあるのが薬師如来堂、お堂っぽくない簡素な造りです。入口の提灯に『円福山』とありましたので、たぶん豊川稲荷のお堂の一つなんだと思います。



    すぐ近くの路地裏にあるのが住吉さん、冒頭画像のお店です。



    奥には二階の軒下に看板の残骸が残るお宅、左には菱形の装飾?の痕跡。元旅館でしょうか。



    表参道に戻って、途中にある駅前通り(県道31号線)に抜ける脇道に入りますと、通りがさらに分岐、テントの庇が架かった路地の先に看板が見えますね。お邪魔してみましょう。



    飲み屋さんで間違いないのでしょうが、なぜかのっぺらぼう。



    そのファサード、アンシンメトリーな破風がいいね。お決まりの鉄平石にスタッコの外壁。このスタッコは大人し目ですが、汚れてくるとやっぱり気色悪い。



    ウェブの情報になりますが、この一画、嘗ては置屋さんが軒を連ねていたそうです。言われてみれば納得の雰囲気が感じられます。右の森川さん、腰に貼られたタイルがまさに迷彩柄、これは面白い。



    ちょっと変わった格子越しに望む森川さん、引き分け戸の上には18歳未満ウンヌンの表示と料理店の鑑札が残っておりました。



    琴三絃・・・この場所に相応しすぎるお店、とっくの昔に退役されたようですが。



    路地を抜けると、今度はレトロフューチャーな喫茶店がお出迎え。こういうの大好物なのですよ。



    ウーム、発音しずらいぞパピさん。こういうモザイクタイル、もはや入手困難なんですよね。



    パピさん前の通りを行くと、この三階建てが見えてきます。玄関の照明には五月と描かれておりました。裏手にさきほどの置屋さんが並んでいたという一画があります。



    やきとりの丸山さん、のぶ子の店さん、両者とも既に退役済みでした。



    最初に出てきた河精さんの処に戻って、今度は通りを東へ・・・見事な造りの商家が見えてきます。斉藤金物店さんです。勾配のきつい入母屋の屋根が見事、こういう商家って関東ではあまり見られないものだと思います。



    脇道でまた出会ってしまった。拙ブログお馴染の文化服装学院でございます。なんでコレに吸い寄せられちゃうんだろう・・・。



    近くの空地では白梅が満開でしたよ。

    前半はここまで、後半ではお待ちかねの遊里跡を訪ねます。これはこれで良かったのですが、その後に訪ねた謎の路地がいたく気に入ってしまった私です。かなり興味深い場所ですので、楽しみにしていただいても宜しいかと。

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    圓福荘の赤よりも、こっちのほうが妖しく見えたのはなぜでしょう。


     これから向かう遊里跡、名前を『圓福荘』といいます。豊川稲荷の正式名『円福山豊川閣妙厳寺』と同じですね。お稲荷さんは元々市内を流れる豊川沿いの円福ヶ丘という高台にあったそうで、現在地に移ってきたのは元禄時代になってからになります。おそらく由緒正しきお稲荷さんにあやかって名前を使わせてもらったのでしょう。でもこの遊里、それ以外の様子がほとんど判らないのです。一応、戦後の赤線時代のものですが、業者20軒、従業婦87名という記録が残っているそうですが、判明しているのはたったこれだけ、成り立ちなどは一切不明なのです。まあ、日本三大稲荷を有する門前町、そして旧伊那街道の宿場町ということで、そういう場所が必要不可欠だったというのは容易に想像できますよね。

     豊川のもう一つの顔というのが軍都です。豊川稲荷の北西に200ヘクタール超の広大な敷地を有していたのが豊川海軍工廠、主に航空機の機銃や対空機銃、それらの弾薬を製造していました。たぶん20ミリ機関砲や13ミリ機銃あたりがメインだったのではないでしょうか。その規模は当時東洋一と言われるほどだったそうです。これだけの規模ですので当然米軍爆撃機の標的になり、昭和20年(1945)8月7日の大空襲であえなく壊滅してしまいます。工廠が設置されたのが昭和14年(1939)ですから、たった6年で無くなってしまったことになります。跡地は陸上自衛隊豊川駐屯地、日本車両豊川製作所(新幹線N700A系などを製造)、豊川市役所などになっています。戦時中の圓福荘の様子は不明ですが、軍人さんもお得意さんだったのではないでしょうか。



    さて、この圓福荘、立地が独特といいますか、いかにも遊里然としていましたので、航空写真で位置関係を説明したいと思います。コレ、国土地理院の地図・航空写真閲覧サービスからの出典(整理番号:MBC616 コース番号:C9 写真番号:7985 撮影年月日:1961/5/6を加工加筆)になります。豊川稲荷と豊川駅に挟まれているのが、門前町を兼ねた中心街になるでしょうか。町を南北に貫いているのが旧伊那街道、町の南を東西に走っているのが旧姫街道、現在の県道5号線になります。姫街道というのは東海道の脇往還、磐田見附宿で分岐して浜名湖の北岸を通って御油宿で再び東海道に合流しています。水色の点線の『置屋?』というのは、その1でレポした嘗て置屋さんが軒を連ねていたという一画になります。その下の紫の点線は最後に偶然見つけた場所、とりあえず謎の一画とでもしておきましょうか。

    肝心の圓福荘は駅の反対側、畑のド真ん中にポツン・・・見るからに隔離状態といった感じなのがよく判ると思います。これは明らかに風紀上ウンヌンとかで移転させられたとみるのが正しいのではないでしょうか。まあ、元々どこにあっていつ移転させられたのか、航空写真は売防法が施行された3年後のものですが、赤線としていつまで現役だったのか、それら肝心なことは全く判らないんだよなあ。そんなことを考えながら航空写真を眺めていますと、あることに気付きます。



    コチラが戦後すぐの圓福荘の様子、同じく国土地理院からの出典(整理番号:USA コース番号:R864 写真番号:6 撮影年月日:1948/1/18を加工加筆)になります。同じ大きさの建物が10棟、規則正しく並んでいるのがよく判ります。6棟と4棟の間が通りになっているようです。



    そして13年後の様子、最初の航空写真を拡大したものになります。10棟の並びは変わっていませんが、どういった用途なのか周りに建物が増えています。そして10棟それぞれの形状が変わっていますね。増える客足に対応するために増築したのではないでしょうか。ボケボケでしたので掲載しませんでしたが、売防法施行直後の1959年の航空写真も同じ状態でした。お手数ですが、現在の状況はグーグルででも確認して下さいな。至って普通の新興住宅地の中に埋没しているのがよく判ると思います。どうです、お気付きになりましたか?20と10・・・そう、前書きにある業者数と建物の数が合わないわけ。この謎の正解は現地に行けば判ります・・・というか、私も自分の撮った写真を見ていてはたと気付いたのですがね。



    お稲荷さんの門前町を後にして旧伊那街道を北へ、頃合をみてJR飯田線を渡り、比較的新しい住宅が並ぶ通りを東へ進みます。嘗ては一面の畑だったというのが信じられない光景です。どこにでもありそうな住宅街をしばらく行くと圓福荘跡の入口です。6棟並んでいた通りの現在の姿、気をつけていないと見逃してしまうと思われるほど、周囲の町並みに溶け込みすぎ。



    凄いでしょ?この妖しい赤。しかし、遺構につきもののべんがらとは明らかに違う発色です。色漆喰でしょうか、いつ頃塗られたのかは判りませんが、色褪せてこれですから往時はもっともっと強烈だったのでしょう。その赤に目がいきがちですが、私は腰に貼られたボーダータイルによるストライプがお気に入り。対照的なこの渋さが、全体が破綻しないよう引き締めているように見えるのです。



    見上げると軒下に軒燈代わり?の吊り灯篭が一基。以前は建物の前に圓福荘と刻まれたコンクリート製の街灯柱が建っていて、それに旅館幸楽と書かれた看板が取り付けてあったそうです。



    玄関の引き戸は三枚引き、これも結構珍しいかも。その脇には妙な形の窓、凧窓とでも呼んでおきましょうか。



    そして豪華な造りの入母屋の破風、垂木の先端には腐食防止を兼ねた銅板による装飾、これがいい。波と花を象った瓦、こういうの関東じゃまず見られないよなあ。引き戸の上には料理店の鑑札が残っておりました。



    同じ建物の裏手、たぶんこれが後から増築された部分だと思います。



    通りに戻ってもう一軒、かなり直されたのか地味目なファサードですが、破風や手摺の造りから一目瞭然です。ここで感じたのが、前出の航空写真と比べて明らかに間口が狭いということ。その理由はすぐに判りました。二階の窓台の手摺をご覧下さい。妻側に返る部分が補修されています。同じく妻側、トタンに包まれた屋根、端部に板金による笠木が見えますね。これでピンときました、嘗ては右にも同じ間口の建物が続いていたのではないか、半分が壊された結果が現在の状態ではないかというわけ。妖しい赤のほうもよく見ると同じ状態でした。これでさきほどの数の食い違いという謎が解決するわけ、要するに10×2=20、1棟に2業者が入っていたということになりますな。俗に言うニコイチの長屋風だったのではないでしょうか。これってかなり珍しい状況なのではと思うわけです。まあ、当時の様子が全く判りませんので、間違っていましたらご免なさいするしかありませんが・・・。



    此処にも赤が使われています。色モルタルに那智黒の洗い出し風、腰には美しいモザイクタイルが貼られていたようですが、サイディングで見えませんでした。コチラにもコンクリート製の街灯柱が建っていたそうです。圓福荘跡に残る遺構は以上の二軒、ほんと至って普通の住宅街に混ざっていますので、かなり驚く光景だと思います。そして、とっても居心地の悪い遊里跡でした(笑)



    駅の近くに戻って参りました。もう一ヶ所というか、もう一軒見ておきたい物件があります。



    駅の南、旧姫街道である県道5号線の中央通1丁目交差点に面しているのが松井線香製造店さんです。大正5年(1916)に建てられました。



    お店の側面・・・一部が『ぬけられます』状態なのは置いといて、二階の外壁に注目!!ありゃまあ、下見板張りが痩せて反っちゃってると思った方、よ~く見て下さいね。



    これがディテール。実はコレ、可動式の木製ルーバーなのです。二階は線香の乾燥室になっているそうで、通風の確保と風量を調整するためこういう構造になっているというわけ。どういう機構になっているのかは不明ですが、間違いなく手動でしょうな(笑)なかなか見られないものですぞ。



    問題はここから・・・駅に戻る途中に出会った豊川商店街駅前駐車場、奥が駅前通りに面しています。お手数ですが最初の航空写真に戻っていただけますでしょうか?紫の点線で囲まれた範囲、謎の一画と説明した場所が此処になります。航空写真には中央に大きな屋根が写っているのが判ると思います。それの跡地が現在の駐車場というわけ。注目していただきたいのが、駐車場の両側に続くサビサビトタンに包まれた建物、航空写真にもはっきりと写っています。地図を見ますと、建物の向こう側には路地があるようです。最後にこの路地を探ってみましょう。



    駅前通りに戻って、まずは右側の路地から・・・此処入っちゃっても大丈夫なの?



    路地は途中で緩く曲がっているのですが、角に建つみほさんがいいアイストップになっております。



    振り返るとこんな感じ、看板が新しいですので現役と思いたい私です。



    その先には腰に格子模様のモザイクタイル、面白い色の組み合わせです。



    お隣のモワレみたいな型板ガラス、初めて見ましたよ。まあ、この路地はまだまだ大人しいといった感じですが、左側が結構興味深い場所なのですよ。



    再び駅前通りに戻って、元は旅館だったらしいうなぎの藤川屋さんの脇を入っていきます。



    右の路地とは違って日陰だからでしょうか、妙に重苦しい空気が漂っているような・・・。奥に看板が見えてきましたね。まあ、焦らない焦らない、順番にレポしていきますから。



    妻入りのコチラ、ぱっと見では普通のお宅に見えるかもしれませんが、裏の駐車場から見ますと・・・



    入口屋別館!?面白い屋号ですなあ。どうやら旅館か料理屋系ではないかと。その証拠に・・・



    入口にはその1でも紹介した18歳未満ウンヌンの表示、レトロな照明がいいね。ガタがきている格子戸の隙間から覗くと、玄関の三和土には笹が生え、その向こうには円形の下地窓がありました。



    お次は御料理春楽さん。コチラの腰にもモザイクタイル、庇のトタンから落ちた錆汁のせいでちょっと可哀想な状態です。



    そして此処にも18歳未満ウンヌン・・・しかし、下には20歳未満ウンヌンだと!?19歳はどうしたらいいのでしょうね(笑)欄間には折れ曲がった料理店の鑑札が残っておりました。



    お隣は路地に勝手にお手製アーケードを架けてしまったらしい憩の店小松屋さん。



    コチラも18歳と20歳、しかも料理店の鑑札が二つ・・・これぞ本当の二枚鑑札。念のため断っておきますが、二枚鑑札の使い方思いっきり間違っているの承知の上ですから。



    そして赤系だけでまとめられたモザイクタイル、これが妖しさ満点で堪らないわけ。さきほどの春楽さんもそうですが、こう見るとコレ完全にショーケースですよね。色街的な場所ではないような気がします。



    アーケードを抜けた先、欄間に組み込まれた照明に屋号らしき文字が描かれておりました。

    謎の一画ですが、航空写真に写っていた大きな屋根は映画館ではないでしょうか。その周りに料理屋が並び、一種の歓楽街が形成されたのではないかと。しかも、近くに置屋があったようですから、芸者さんが出入りしていたのではないか・・・そう妄想すると楽しいわけ。でも不思議なのは料理屋が皆背を向けて並んでいること。まあ、映画館と決まったわけではありませんが、映画館側に向いていればいろいろと効果的だったのではないかと考えたのですが・・・もしかすると、背を向けないといけない理由があったのかもというのは深読みしずぎでしょうか。以上で豊川の探索はオシマイ、圓福荘跡の赤で驚き、謎の一画の赤でダメ押しされたような気分です。次回は蒲郡、三河湾に面した機業地に点在したという遊里跡を巡ります。

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  • 03/23/15--08:47: 愛知県 蒲郡市201502
  • 楽天地=歓楽荘なの?・目印は石のバリカー・『ぬけられます』付防火建築帯

    謎の砂利道、80年前の地図にも載っているのです。


     豊川から飯田線で一度豊橋に戻り、東海道本線に乗り換えて名古屋方面に向かうこと約15分で蒲郡に到着です。三河湾のいちばん奥に位置する蒲郡周辺は、東海地方を代表する機業地なのですが、それについては次にレポする隣町の三谷町の中でお話したいと思います(どうやらコチラが発祥みたいですので)。町の南東には竹島という浜から橋で渡れる小島があり、背後の小高い丘には昭和9年(1934)竣工、経産省の近代化産業遺産に認定されている蒲郡クラシックホテル(旧蒲郡ホテル)があります。他にも水族館や旅館などがあり古くからの景勝地でした。このホテル、見たかったのですが時間の関係で行けなかったのが残念。竹島周辺は戦後すぐに進駐軍に接収され、昭和32年(1952)まで彼らの保養地だったそうで、米兵目当ての歓楽街みたいのがあったとか無かったとか・・・地図を見てもピンときませんでしたけどね。

     ↑のあやふやなものではなく、一応記録に残っているというのが『蒲郡歓楽荘』、業者10軒、従業婦27名とのことで比較的小規模な遊里だったようです。しかしこの遊里、前回の圓福荘以上に正体不明でして、判明したのは駅の南口にあったらしいということだけ。それの名残なのかは判りませんが、気になる一画が残っているようです。当初はそれをサッサと探して飯を食って次の三谷町に行こうと思っていました。地図を見ても、蒲郡の駅周辺は町並み的にもいまいちの印象でしたので。実際、あまり時間をかけなかったのですが、今回レポを記すにあたって改めて情報を収集してみますと、意外な事実を知ることになるのです。

    LINKを貼っておきますが、蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』という昔の町の様子を当時の動画などで紹介しているサイトになります。『商店』の動画に、嘗て駅南口に存在していたという『楽天地』なる歓楽街が紹介されているわけ。昭和10年(1935)当時の周辺の様子を示した地図も登場しています。お店などの位置を航空写真に落としてみたのが次の画像になります。


    今回も国土地理院の地図・航空写真閲覧サービス(整理番号:CB776 コース番号C3 写真番号:29 撮影年月日:1977/8/9を加工加筆)からの出典になります。ちょっと新し目の写真ですが、いちばん写りのよい画像を使わせていただきました。赤の点線が問題の『楽天地』です。当時は港への物資輸送のための臨港線なる鉄道(青の点線)が枝分かれしていました。ピンクの★印は動画の地図で(オ)で示されていたお店、これは芸妓置屋だったという説明がありました。水色の◆印は(リ)と示されていたお店、これについての説明はありませんでしたが、なんとなく判りますよね?たぶん料理店という意味だと思います。まあ、この料理店、芸者が出入りしていた所謂料亭的なお店なのか、或いはもっと妖しいお店だったのか、今となっては判りませんが・・・。

    数字は界隈を象徴するようなお店、そしてレポの中でも写っている可能性が高いお店になります。①共栄座(映画) ②海岸湯 ③福善(リ) ④市川薬局 ⑤大升屋(酒) ⑥嶋田屋(オ) ⑦浜岡(オ) ⑧喜楽(リ) ⑨末広(オ) ⑩富田屋(オ) ⑪磯野家(オ) ⑫江戸っ子(オ) ⑬吉田家(リ) ⑭キリシマ玉突 ⑮サロン天国(喫) ⑯港屋(渡船)・・・①の共栄座は蒲映に名前を変え平成12年まで現役、②の海岸湯の一番風呂は芸者衆だったという説明が動画の中でありました。③~⑤のお店は今も現役、建物は新しくなっておりましたが(おさらいストリートビューで確認済)。あ、一応断っておきますが、あくまでも位置関係は大体ですので、細かいツッコミはなしの方向でお願い致しますぞ。


    そして現在・・・楽天地は再開発と区画整理で跡形も無くなってしまったというわけ。ここで一つの疑問が・・・楽天地=歓楽荘なのかということです。動画の中で、地元の古老が大人の遊び場だったと話しておられました。でもコレ、色々な意味でとれますよね(笑)そしてもう一つ、中央通りを挟んだ西側です。一応は往時の町並みが残っているようですが、もしかすると此処が歓楽荘だったのではないかと考えたのですが如何でしょう。黄の点線で示してありますが、動画の地図の中でも同じように点線で示されているのがコレ。その正体はレポの中に出てくるのですが、それが当初の気になっていた一画ということになります。これは第一印象なのですが、置屋さんだらけというのがどうも気に入らないんだよなあ。求めている色街というよりは花街といった感じですよね。重ね重ね申しますが、以上は帰ってから知った事実のですので、そのことをよ~く承知の上ご覧いただけたら幸いです。



    蒲郡駅南口を出て、名鉄蒲郡線の高架沿いを西へ進み中央通りを渡ります。お店の角が変な隅切りされた飲み屋さん、嘗ては此処にも料理店があったようです。そのまま高架沿いの裏通りを行きますと・・・



    駐車場の向こう、入母屋に押縁下見板の真っ黒な外壁に薄っすらと旅館と書かれているの、お判りになりますでしょうか。コレが⑬の吉田屋さんの裏側になります。そのまま脇に廻り込んでいきますと・・・



    これは・・・ブロック塀越し現れた斜めに振られた赤い外壁にビックリ。豊川に続き、また赤ですか・・・。



    吉田屋さんの正面が見たいと裏通りを曲がるとこんな光景が現れます。右の飲み屋と思われる東さん、元は⑥の置屋だったようです。



    東さんには二十歳未満ウンヌンの表示、蒲郡は琺瑯製の豪華版。駐車場を挟んだ向こうには⑧の元料理店と思われる建物が残っておりました。



    東さんの向かいは⑦の元置屋と思われる建物、二階の手摺には透かし彫りがあります。



    通りは国道23号線に抜けています。国道に沿って並んでいるのが⑨~⑫の元置屋群。その中の⑪の建物、腰には左官の装飾が残っておりました。



    ⑪と⑫の間はこんな簡易舗装の路地になっております。そう、これが航空写真の黄点線の正体、昭和10年の地図でも点線表示でしたから当時からこのまんまなんだと思います。突当りに見えるのが⑬の吉田屋さん。それにしても⑪さん、元置屋には見えないのは気のせいでしょうか。



    路地は吉田屋さんの前で左折、ついには砂利道になってしまいます。写ってはいませんが、玄関には割烹旅館吉田屋と刻まれた立派な扁額が掲げてあります。格子戸の上には料理店の鑑札も残っておりました。



    砂利道の途中にはこんな飲み屋さんの亡骸。造り自体はそこまで歴史のあるものではないと思いますが、砂利道とのミスマッチ感が凄まじい。



    直後、通りかかったご老人に「何してんの?」といった感じで声をかけられたわけ。この辺りはそういった(色街的な)処だったのですか?との私の問いにご老人は「いや、違うよ」と言いながら歩き去ったのですが、行き先はなんと吉田屋さんではありませんか。驚いて見送る私に向かって「うちはもうやっていないから」と言いながら入っていっちゃった・・・なんだかうまくはぐらかされたような気分なんですけど・・・。



    砂利道の出口には石の車止め、業界用語でいうバリカーという奴です。バリカーって本当は商品名なんですけど、いつのまにかこれで通用するようになっちゃったというわけ。突当りはさきほどの東さんがある通り、気付かないで通り過ぎちゃったというわけ。



    中央通りに戻って今度は南へ・・・市民会館手前の交差点に複雑な屋根が架かった商家があります。地図の⑯、渡船の港屋さんだったと思われます。市民会館もそうですが、私の立っている場所も嘗ては海だったようです。この並びの一軒向こうにあったはずの⑮、サロン天国さんが気になって仕方がないのですが。此処を右折してしばらく行きますと・・・



    こんなサビサビトタンが見えてきます。向かいの看板には旅館朝日館とありますね。



    朝日館さん・・・航空写真ではかなり複雑な造りの屋根の形状が見て取れます。ウェブでも一応ヒットしますが、果たして現役なのかどうか。地図上で最初に気になったのがこの界隈でした。



    国道に抜ける脇道にこれまたサビサビトタンに包まれた長屋形式のアパート?



    これはいい熟成具合ですな。



    こんなに廃れているのに、扉のピンクがしっくり納まっているのが不思議。



    国道沿いにある割烹やまださん。食事できるお店を探すのを兼ねた探索でしたので注目していたのですが、お昼はやっていないのかな?この並びのすぐ向こうがさきほどの砂利道がある一画でして、コチラも何か関係があるのかもしれません。



    駅の南側には良さそうなお店がありませんでしたので、中央通りで線路を潜って北側にやってきました。蒲郡ビジネスホテルの裏手には寄棟屋根の蔵みたいな建物があるのですが、これ以上接近できません。



    近くに立派な商家?がありました。



    県道323号線に出ますと長~いビルが現れます。昭和35年(1960)に建てられたサクラビル、所謂防火建築帯と呼ばれる奴です。大規模火災からの延焼をコレで食い止めるというのが主な目的。昭和27年(1952)に施行された耐火建築促進法によって、各地でこういったビルが建設されました。こう見ると壮観ですが、次に訪れた三谷町にはもっと凄いのがあるのです。



    このビル、一部が『ぬけられます』状態なのですぞ。まあ、間口が長すぎますので、こういう部分を造らないと行き来できませんからね。



    向かい合ったベージュのビルも防火建築帯だと思われます。



    コチラは端部のアールになった部分がレトロで滅茶苦茶カッコイイぞ。



    東海道線の高架脇で見つけた半切妻屋根の洋館。詳細は不明ですが、横が運送屋の倉庫でしたので、たぶんそれのオフィスとして使われているみたい。それはさておき、良さそうなお店が全く見つからないのですが・・・。

    ようやく駅北口前で見つけた一松さんで昼食、うなぎと生しゃこ!?が名物みたいですが、カンパチのカマの塩梅と焼き加減が絶妙で美味しかった。そんなこんなで蒲郡駅周辺の探索は以上になります。前書きにある事実を知っていれば、また違う探索になったのかもしれませんね。まあ、結局楽天地=歓楽荘なのかという謎は解けませんでしたが、謎ついでに此処でさらに燃料投入。歓楽荘があったのは小江町だったという情報を見つけました。小江町はすでに存在していませんが、どうやら駅の南側ではなく北側だったみたい。証拠に防火建築帯のビルからちょっと東に行った処に小江神社なる神様があり、向かいには小江公民館なんてものもあるわけ。そうなると砂利道のある一画は楽天地の一部ということになるのかもしれません。芸妓置屋だらけというのも納得できるのではないかと。楽天地の芸者遊びでは飽き足らない連中が駅の北側に通ったという説は如何でしょうか?なんだか燃料投入しすぎて訳わからなくなってしまいましたね。まあ、私は燃料補給できましたので、次の町、三谷町に向かうことに致します。

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    旅館付防火建築帯・路地裏の富士山・閉館していた山頂の怪しい館

    珍しい形状のコンクリートブロックの孔から破風が見えました。


     蒲郡駅から豊橋方面に戻ること一駅で三河三谷駅に到着です。現在は蒲郡市の一部になっておりますが、昭和29年(1954)に蒲郡町・三谷町・塩津村が合併して誕生したのが蒲郡市です。ちなみに『みたに』ではなく『みや』ですので、お間違いのないように。前回お話したように、蒲郡周辺で隆盛を誇った繊維産業の発祥とされているのがこの町であります。蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』にもありますが、明治8年(1875)、三谷町の小田時蔵氏が自宅の二階に織機を置いたのが始まりとされています。明治21年(1888)に東海道線が開通すると、三谷の織物は全国に知れ渡るようになります。戦後になると輸出が急増、ガチャンと織れば一万円儲かるという所謂ガチャマン景気で町は大いに潤ったようです。もちろん科学忍者隊ではありませんぞ・・・毎回毎回ほんと申し訳ない。しかし、ガチャマン景気は数年で下火に・・・それ以降、衰退の一途を辿ることになります。まあ、これは日本全国何処の機業地でも同じような状況ですよね。

     機業地とくるとまず頭に浮かぶのが、京都の西陣と並び称された大好きな町群馬県桐生市であります。桐生市の景観上、重要な役割を果たしているのがノコギリ屋根、蒲郡や三谷、次に訪れる形原周辺でもコレをそこかしこで見ることができます。正確な数は判りませんが、おそらく桐生よりいっぱいあるんじゃないでしょうか。赤煉瓦に大谷石といった感じでバリエーションでは桐生に軍配が上がると思いますが、規模的にはコチラになるかな。形原では連続する凄まじいギザギザに圧倒されました。そんな隆盛を誇った産業が由来なのかは不明ですが、この町に存在した遊里というのが三谷歓楽荘。前回の蒲郡と同じ名前なのが不思議ですが、業者10に従業婦27という記録が残っているそうです。まあ、判っているのはそれぐらいで、これまた正体不明なんですよね。町の南東の山腹にある鄙びた温泉街の手前にそれらしき一画があるようですので、そこを訪れた後、温泉街にある怪しい館を見学してみましょうか。



    駅から海へと延びる通りを行きます。この駅前通り、結構な幅員があるのですが、人影皆無に加えて車の通行もまばら、妙に空虚な感じなのです。



    その空虚さに耐えられなくなったので分岐する路地を辿っていくことにします。



    時間の関係であれだったのですが、ジックリ探索できれば面白い光景に出会えたのではと思わせる一画でした。



    小さな川に出ました。前方にノコギリ屋根が付属する煙突が見えますね。



    国道23号線に面しているが、一見すると古びた普通のビルにしか見えない四季の湯さん。



    男湯女湯の表示が珍しい。10年ぐらい前では現役だったようですが、今はもう・・・。



    裏手のコインランドリーもやっていませんでした。看板が日焼けしちゃって酷い有様ですな。



    振り返ると国道を挟んで向き合う古びたビルがドーン。蒲郡駅前にもあった防火建築帯です。全長100mほど、詳細は不明ですがたぶん昭和三十年代に建てられたものだと思われます。



    このビルも蒲郡駅前のと同様に一部が『ぬけられます』状態なわけ。



    『ぬけられます』を抜けた先、裏側は結構ダイナミックな架構になっております。



    向き合う『ぬけられます』、その先には海が望めました。ふと思ったのですが、すぐ向こうが海なのに必要だったのでしょうか、防火帯・・・。



    海側の『ぬけられます』を抜けますと、ガラスにエッチングで門海老と描かれておりました。



    その正体は旅館、ウェブではほとんどヒットしませんので既に退役済みかと。



    戸袋には扇と折鶴の板金仕上、いいねコレ。後ほど、この旅館の摩訶不思議な構造が判明致します。



    そのまま海に出ました。停泊する漁船の少ない三谷漁港、波間に海鳥が数羽漂っているだけでした。



    漁港に注ぐ川沿いに古い商家が残っておりました。



    そのまま防火帯建築の間を抜けて次の目的地に向かおうとすると、さきほどの門海老さんの看板・・・どうやらコチラがメインの入口だったみたい。脇にはアールの外壁、ストライプの型板ガラス越しに階段が見えますね。裏の木造部分と繋がっていたというわけです。



    防火帯建築の先、国道にこんな植栽帯がある通りがぶつかっています。画像の左側が気になる一画ですので、もしかするとメインストリート!?と当初は思ったのですが、どうやら違うみたい。昔の航空写真を遡ってみましたら、この通り元は川でした。今は暗渠になっているみたいです。



    しかし、不思議なのは国道側の出口にはこんな車止め。コレ、国道への抜け道に使う車が多くて渋滞緩和のために通れなくしたんじゃないでしょうか。



    謎の通り沿いには飲み屋さんが並んでいますが、遺構的な歴史があるものは見当たりません。



    謎の通りを抜けると海側を走る広い通りに出ます。その通りに面しているのが割烹旅館の千賀さん、かなり立派なお店です。裏手が気になる一画ですので、何か関係があるのかと思ったのですが、この地に店を構えたのが昭和45年(1970)とのこと、この先にある温泉街の湯治客目当てだったようです。



    千賀さん裏手の路地に入りました。居酒屋たぬきさんの先に見えてきたのが・・・



    板塀に囲まれた破風が立派なお宅・・・コチラを探していたのですが、呆気なく出会ってしまいちょっと拍子抜け。



    かなり崩れておりますが、瓢箪を並べたような欄間が面白いですね。それより目を引くのがポーチの富士山、既にお気付きだと思いますが。



    洗い出しというよりは、モルタルに玉石を単に埋めましたという手作り感が堪んないわけ。連続する弧は雲海で手前のまばらな部分は海?と勝手に妄想させていただきました。



    路地を抜けると、国道と海沿いの広い通りに挟まれた裏通り。破風のあるお宅が冒頭画像のもの、コチラは元置屋さん?というのも勝手な妄想。



    向かいには一際目立つ物件、割烹旅館青柳さん。ご覧のとおりかなり複雑な造りになっております。



    豊川、蒲郡ときて此処でも赤ですか・・・。



    脇の路地に面した裏門、竹塀がいい感じでした。



    近くのお宅の戸袋は鮮やかな群青色。でもコチラは歴史のあるものではなさそそう。なんでこんな色にしちゃったんだろう。

    前半はここまで、後半も引き続き路地だらけのこの一画からお届け致します。

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    この市松模様、危なく見落とすところでしたよ。


     三河湾を一望する山腹にあるのが三谷温泉です。1200年の歴史を誇る日本有数の古湯なのですが、世間的な認知度はいまいちかもしれません。かく言う私も下調べをするまでその存在を知りませんでしたし。前半、路地裏をウロウロしていた一画は、温泉のすぐ手前に位置しているわけです。果たして此処が三谷歓楽荘跡なのかという疑問の答えは情報が少なすぎて判りませんが、もしそうだとしたらやはり温泉の湯治客目当てということになるのかもしれません。でも、色街跡独特の空気感があまり残っていないのが妙なのです。どちらかというと花街跡といった感じなんだよなあ。

     何度も恐縮になりますが、蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』に三谷温泉関連の動画がありますので、コチラを先にご覧になっていただいたほうが以降の話が判りやすいかと・・・温泉の背後にそびえる弘法山の山頂に立っているのが弘法大師像。高さ約30mで東洋一の大きさを誇っているそうです。弘法大師像の南側、国道23号線を越えた向かいにあるのが乃木山。嘗てこの山頂同士を結んでいたのが蒲郡三谷温泉ロープウェイです。全長400m、高低差35mほどという小さな小さな索道でした。昭和33年(1958)に開業しますが、弘法大師像への道路が整備されると利用客が一気に減少し、昭和52年(1975)には廃止となってしまいます。たった17年という短い生涯でした。問題は乃木山側の発着駅、当時はプラネタリウム館が併設されたハイカラなものだったそうですが、ロープウェイ廃止後、これが華麗なといいますか、とんでもない変身を遂げるわけ。路地裏ウロウロの後、最後に此処を訪れてみることに致します。



    割烹旅館青柳さん脇の路地を行きますと、見えてくるのがサビサビトタンのノコギリ屋根。コチラ、地図にはアパートと記されているわけ。中はどうなっているのでしょうね。



    この気になる一画、国道23号線と海側を走る広い通りに挟まれており、その間を何本もの細い路地が繋いでいます。それをまるであみだくじ宜しく行ったり来たり・・・一向に先に進みません。



    またノコギリ屋根・・・色街に織物工場が混じっていたということなのでしょうか。



    今度はスケルトンになったお宅、これにはちょっとビックリ。ジャッキアップされていますので、おそらく曳家で奥に動かしたのだと思います。手前に証拠が残っておりました。



    ずいぶんと派手なお風呂ですな(笑)



    お次は見事なパッチワーク、いいねコレ。



    ようやく最後の路地、かなりスケジュールが押しております。急ぎましょう。



    とか言いながら、紅葉柄の型板ガラスを鑑賞。コレ、好きなんですもの。



    気になる一画を抜けると、三谷温泉がある山の麓に出ます。割烹旅館三長さん裏にあった廃屋。お化け屋敷みたいですが、売物件の表示が出ておりました。どなたか如何???



    同じ並びにこんな門柱。地図上では奥に見えるアパートに同じ名前が記されていましたが、嘗ては旅館があったのではないでしょうか。



    三谷温泉へは山一つ越えないとなりません。ヒイヒイ言いながら急坂を登っていきますと、突然視界がひらけ、三河湾が一望できました。浮かんでいる島は三河大島、左は小島です。無人島ですが、夏は海水浴場として賑わうそうです。



    乃木山山頂に向かう坂道、崩壊寸前の廃墟と化した飲み屋さん。カフェー風に見えなくもありませんが、残念ながらそこまで歴史のあるものではありません。



    お隣は何かの商店跡でしょうか、タバコ販売カウンターの色褪せた造花が哀しい・・・。



    向かいにあるのが嘗てのプラネタリウム館、右がロープウェイの発着駅でした。現在は大秘殿なる謎の施設、単刀直入に申せば秘宝館の一種で宜しいかと。どうです、華麗すぎる変身でしょ?



    ブハッ、なんと閉館のお知らせなる貼り紙が・・・後で調べてみましたら、去年の9月に閉館していたそうです。ま~たやっちゃった・・・。



    まあ、作り物の○○や××とか見てもしょうがねえだろ・・・と負け惜しみ言っておきますわ。面白いのが前書きにある『蒲郡の記憶』の動画です。はっきりと大秘殿が写っているのに、一言も触れていないわけ。お役所のサイトですものね、さすがに難しいか(笑)



    大秘殿の向かいには乃木将軍像。ご存知、旅順攻略の乃木希典であります。この像は彼が名古屋の歩兵第五旅団長だった明治24年(1891)、伊勢神宮参拝の際に弘法山を訪れたのを記念して、大正9年(1920)に建立されたものになります。



    歴史ある三谷温泉、ご覧のとおり鄙びているというよりは寂れているというほうが正しいかも。まあ、それがいいという私のような人間もいますけど・・・。



    巨大旅館の廃墟なんてものも点在しているようですし、その手のマニアには堪らん場所かもしれません。



    結局何のためにヒイヒイ言いながら山登りしたのか・・・自分のもってなさに呆れながら再び戻って参りました、気になる一画。こんな海鼠壁の蔵もありますよ。平瓦を千鳥に貼っています。結構珍しいのではないでしょうか。



    割烹旅館青柳さん近くで見つけたのが、冒頭画像の腰に市松模様のモザイクタイルが貼られたお宅。危なく通り過ぎるところでした。



    同じお宅の国道側に面した手摺の透かし彫りが興味深い。上は蝙蝠でしょうか、これは縁起物ですから判る。下の狸にススキ?、まあ狸も縁起物ですからいいのですが、妙に動きがアニメチックといいますか、コミカルに見えるのです。



    国道に面した和菓子屋さん、嘗て此処には芸妓の見番があったそうです。見番ということはやはり花街だったのでしょうか。まあ、とにかく温泉街手前に謎の一画があったということだけはお判りいただけたかと。



    いかん、かなり予定より遅れている、帰りは裏通りをショートカットしていきます。途中、惚れ惚れするようなサビサビトタンの長屋に出会いました。



    コチラはおそらく織物工場の事務所部分かと。裏手にはノコギリ屋根が顔を覗かせておりました。回り込む出窓がモダンですな。とはいえ、ゆっくり観察していられないのが残念。

    結局、気になる一画は歓楽荘だったのか・・・相変わらずはっきりしないレポで申し訳ない。まあ、本人はそれなりに楽しんでおりますのでよしとさせてください。次回は再び蒲郡に戻って西隣の港町を訪れます。なんと、この町に存在した遊里の名前も歓楽荘っていうのです。かなり厳しいスケジュールですが、時間の許すかぎり彷徨いたいと思います。

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    港町の遊里跡?・メジロ囀る退役銭湯・過剰なまでのギザギザ

    袋川の河口辺りに何かがあったようなのですが・・・。


     再び蒲郡駅に戻り、名鉄蒲郡線に乗り換え今度は西に向かうと三駅で形原駅に到着です。現在は蒲郡市の一部になっておりますが、元々は単独の自治体でした。昭和37年(1962)に編入されています。この町も三河湾に面しているのですが、前回の三谷町と比べると、より港町的な要素が強いような気がします。漁港も大きいですし・・・あ、そうそう、コチラも前々回、前回に引き続き機業地という顔をもつ町でもあります。そんな町に存在した遊里というのが形原歓楽荘、またもや同じ名前なのです。業者9に従業婦26という記録が残っているそうですが、相変わらず判っているのはその程度、これまた情報が極端に少ない遊里ということになります。漁港近くを流れる袋川の河口辺りにそれらしき一画があるようですが、三谷町でノンビリし過ぎちゃいました。ちょっと慌しい探索になりそうです。



    駅を出たらとにかく東へ・・・途中にあった破風のあるお店、扁額の文字が読めません。ステッカーから判断すると、どうやらクリーニング屋さんみたい。



    その先には床屋さん、木製の窓枠がオシャレですな。



    ちょっと行くと見えてくるのが看板建築のツヂ薬局さん。スクラッチタイルの上、オーダー風の柱型装飾がちょっと顔を覗かせているのが面白いです。



    ツヂ薬局さん脇の路地に入りました。途中に小屋がありまして、中を覗くとこんな状態。写ってはいませんが、左には歴史がありそうなお宅があるわけ。コレって所謂厠ということになるのかも。



    突当りは袋川・・・川の土手から降りるとすぐにこんな路地がクネクネ。



    路地を抜けると県道321号線、それに面したお宅の戸袋に施されていた透かし彫りです。



    その先の変則のY地路、角にあるすし義さん脇の裏通りを入った先が目的の一画になります。



    左のサイディングに包まれた三階建て、天辺から瓦葺の寄棟屋根が顔を覗かせているの、お判りなるでしょうか?



    その玄関廻り、引き違い戸上の照明などちょっと普通のお宅には見えませんよね。どうやらコチラ、遺構の一つみたいです。サイディングを剥がすと、どんな姿が現れるのでしょう。



    三階建て脇の路地に入りました。此処、入っちゃって大丈夫なのでしょうか、曲がりくねって方向感覚がおかしくなりそう・・・。



    あれ?大した発見もないまま県道に出ちゃった・・・。



    グルリと迂回して、今度は裏通りの反対側から・・・駐車場の向こうに初音の文字、地図には旅館とあります。右隣には航空写真で特徴的な屋根をもつお宅を確認していたのですが、残念ながら更地になっておりました。



    これまた此処入っちゃって大丈夫なの?といった感じの路地の奥に初音さんの入口があります。



    判りにくいと思いますが、外壁は色褪せたべんがらっぽい赤色・・・また赤ですよ。どうなってんの、コレ。



    Y字路に戻って袋川沿いを行きますと、凝った造りのお宅が見えてきます。奥に橋が見えますが、その向こうは三河湾です。



    またまた赤なんだもの、思わず笑っちゃいましたよ。赤い塀と松の向こう、二階の手摺(赤)には透かし彫りが施されておりました。



    袋川対岸の通りもちょっと気になりました。いきなりという感じでうなぎ屋さんがありますし、お隣には・・・



    窓と格子戸の桟が凝っているお宅・・・塀にはいけばな茶道教室と書かれた看板がありました。以上が気になる一画なのですが、果たして此処が形原歓楽荘だったのでしょうか。前回の三谷町もそうだったのですが、色街跡というよりは花街跡といったほうがシックリくる感じですよね。



    近くのノコギリ屋根、海に近いせいかトタンの錆が凄みを感じさせるほどです。



    形原漁港近くで見つけました。手押しポンプがある小屋、何だろうと思いオープンになった引き戸の奥を覗いてみますと・・・



    ???



    近くの元商店だったかな・・・すでに商売はしておらず、店舗部分をガレージにしているようなのですが、中にモザイクタイル貼りの円柱がありました。



    その先に入口が二つある建物があります。そう、お風呂屋さんです。松乃湯さん、ご覧のとおりすでに退役済みと思われます。ファインダーを覗いていると、建物の脇からお爺ちゃんがヌッと現れて飛び上がるほど驚いた。此処は四年前に辞めちゃったよと言いながら、お爺ちゃんは向かいのお宅に入っていきました。



    入口脇の白い椿の中、さっきからチーチーという鳴き声が・・・覗いてみると声の正体はメジロでした。花の蜜が好物なんですよね。



    松乃湯さんの煙突、通りのこんな際に建っているわけ。当初の予定では此処で形原駅に戻って、もう一ヶ所の気になる一画を訪ねるつもりでしたが、時間的にかなり厳しい状況・・・仕方ないのでこのまま隣の西浦駅まで歩いてみることに致します。地図も持参していませんので、ここからは気ままなお散歩探索に変更。まあ、気ままといっても時間が押しております、急ぎましょう。



    三浦萬太郎と刻まれた像、何方様と思い調べてみましたらお医者さんみたいです。石像が建てられるほどの偉い方だったの?



    向かいにはポーチに市松模様のモザイクタイルが貼られた理容カベヤさん。お判りになるでしょうか、外壁の全面にもモザイクタイルが貼られていたようですが、後からペンキで塗り潰しちゃったみたい。柔らかな布地みたいなテクスチャーが面白いですが、塗る前の姿を見たかった。



    海沿いの裏通りを離れてダラダラとした坂を登っていきますと、ピンク下見板張りの洋館風のお宅が現れました。隣には純和風の門、亀甲積みの石垣が素晴らしい。



    最初はキネマと読んでしまい、こんな処に映画館が!?ととんでもない勘違いをしてしまったというのはここだけの話(笑)



    ちょっと行った処、名鉄蒲郡線の線路沿いに大きな工場が幾つか並んでいるのですが、それら全部がこんなノコギリ屋根なわけ。どうです、この過剰なまでのギザギザ。大好きな町、桐生にもこれだけの大規模な物件はもう残っていないですからね。



    コチラはカネヤ製網さん、このノコギリ屋根ではロープを造っているようです。蒲郡周辺で製造される繊維ロープは全国シェアの四割を占めるほどなんだとか。



    そんなこんなでなんとか間に合いました、無人駅の西浦駅に到着です。



    タイミングよくやって来た蒲郡行きの列車で戻ります。赤に始まり赤で終わるわけ・・・おあとがよろしいようで。

    なんだか終始赤ばかりが目についたような探索になってしまいましたね。レポにあるもう一ヶ所というのは、形原駅の一つ手前の三河鹿島駅から山側に入った処にある形原温泉。旅館数軒という小さな湯治場なのですが、なんでも芸妓見番が残っているらしいとのこと。こっちにしておけばよかったかもとちょっと後悔しております。というか、こっちが形原歓楽荘だったという可能性は???などなど、謎だけが深まったような東三河の日帰り強行探索は以上でオシマイ。

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    摩訶不思議な鉄道が走る町・歩道橋と看板建築二軒・溢れ出す玉石タイル

    貼り紙は確認できませんでした・・・と思ったら。


     群馬県を東西に横切るJR両毛線、地図をご覧になれば判りますが、前橋-桐生間の北側を頼りなさ気な細い線が走っているのを確認できるはずです。これが上毛電鉄上毛線、昭和3年(1928)に開業した比較的新しい鉄道です。当初は当時隆盛を誇っていた養蚕業目当てだったそうですが、養蚕が衰退するとそれに伴って鉄道も衰退、現在は超絶までとはいきませんが、かなりのローカル色の濃い路線というのが実態のようです。

     この上毛線、非常に興味深い路線なのです。普通、鉄道というか特にこういった私鉄の場合、JRの主要駅から分岐して別の主要駅に接続するというのが一般的な路線形態だと思います。分岐したのはいいけれど、途中で終点になっている路線も結構ありますが、これは私が大好物としている盲腸線ということになりますな。で、今回の上毛線、東西両側の基点となる駅がどこにも接続していないのです。まさに宙ぶらりん状態・・・東の基点西桐生駅はJR桐生駅まで400m、西の基点中央前橋駅はJR前橋駅まで1キロも離れているわけ。中間にある赤城駅で東武桐生線に接続しておりますが、両端が盲腸状態という摩訶不思議な鉄道なのです。ちゃんと調べたわけではありませんが、かなり珍しいものだと思います。状況が判りやすいよう路線図貼っておきます。水色が上毛線です。中央前橋駅とJR前橋駅が隣り合っているような表示になっておりますが、実際はかなり離れていますから。

     そんな不思議な路線の中ほどにあるのが大胡町。念のため読みは『おおご』です。うぃっしゅの人ではありませんぞ・・・毎回毎回ほんと申し訳ない。元々は単独の町でしたが、平成16年(2004)をもって前橋市に編入されています。町の北に大胡城址がありますので城下町だったのかなと思ったのですが、この城は元和2年(1616)に廃城になっているとのこと。特産である養蚕で栄えた在郷町ということになるのかもしれません。そんな町にも遊里は存在していました、たった一軒ですが・・・。昭和18年(1943)の群馬県警の統計には、お馴染乙種料理店1軒、酌婦1名とあります。これでは遊里と言ってしまってもいいものかという感じですな。それ以外では甲種料理店9軒、甲種料理店雇婦1名、芸奴屋3軒とのこと。以上のような感じですので、地図を眺めてもまったくピンとこないわけ。まあそれでもいいのです、上毛線に乗るための理由付けみたいなものですから。



    スタートは東の基点、西桐生駅から。このレポ、毎年恒例の桐生詣の続きとなっております。つい先日、今年の詣を済ませてきたのですが、相変わらず新たな発見がある面白い町であることを再認識致しました。それについてはまたの機会にでも・・・。この西桐生駅、お気に入りの駅舎の一つなのですが、チャリで乗り付けた女の子二人、そのまま中に入っていっちゃった・・・コラコラ。



    女の子を追いかけていくと、彼女達チャリを押して乗り込んじゃった・・・酷いフリで申し訳ない、上毛線は朝夕の通勤時間帯を除いて自転車持込OKなのです。サイクルトレインというヤツですな。利用客を少しでも増やそうという企業努力というわけ。オールステンレス車体の700形、元は京王3000系、嘗ては東京を走っていたものになります。



    30分ほどで大胡駅に到着。質素な造りの木造平屋建ての駅舎は、昭和3年の開業当時のまま、国の登録文化財に指定されています。駅舎だけでなく構内の木造車庫や変電所なども登録文化財です。予想どおりの駅前の光景、所謂眠そうな町の一つと指定しても宜しいかと。



    駅前から続く県道40号線を行きます。すぐに草ボウボウの水路を渡るのですが、岸辺に並んだお宅、跳ね出した部分を支える柱の貧弱さが怖い・・・。



    この県道、嘗ては日光方面への裏街道だったそうです。青いスチールサッシの理容永井さんは移転されたようです。



    県道沿いにはコレといった物件は見つからず、左折して脇道に入ります。



    ちょっと行ったところにあった廃屋、二重庇の入母屋屋根に高欄風手摺、料亭の類に見えないこともない?まあ、勝手な詮索はこれぐらいにしておきましょう。



    県道116号線に出ました。歩道橋の先、二軒の草臥れ果てた看板建築が並んでおりました。



    歩道橋からの光景・・・手前は石貼り風の目地が切られた左官仕上、奥には二階の窓上に貝殻みたいな不思議な装飾があります。



    外壁の廃れ具合が素晴らしいのですが、余命僅かといった雰囲気。裏に付属している小屋は既に崩壊しておりました。



    脇のトタンのやけっぱちぶりが凄まじいぞ(笑)



    国道40号線に戻って今度は右折、蕎麦屋や寿司屋などが並ぶ四つ角に出ました。



    なんと富士山を象った組子障子、ケヤキの玉杢?を使った引き戸も凝っていますねえ。これはもしかすると・・・



    残念、建具屋さんでした。それもかなり腕のたつ職人とみたぞ。



    この一画、地図上で唯一引っかかった場所なのですが、判断しずらい物件ばかり・・・



    と思っていたら、くすんだピンクの外壁を見つけました。



    そのファサード。腰に珍しい赤系の鉄平石、そして円形の造作。破風の丸太が普通のお宅ではないような気がするのですが、果たして・・・。



    町の東を南北に流れる荒砥川を渡った先で見つけたのが、シンプルな看板建築風の東湯なるお風呂屋さん。



    ご覧のとおり、退役してからかなり時間が経過している様子。安っぽい青タイルが堪りませんな。



    奥から溢れ出すような感じで貼られた玉石タイルが凄い。初めて見る色調なのはいいのですが、壁の青タイルと合わなすぎだろ(笑)



    それを突き破って咲くタンポポ、植物は逞しいですな。



    あ、奥に貼り紙がありました。



    荒砥川の橋の袂に建っておりました。御神燈と刻まれています。奥の煙突は東湯さんのです。



    さて、再び眠そうな町並みを巡って駅に戻ると致しましょう。



    ビカビカのオールステンレス車体好きなんですよ。運転席のアール窓もいいね。



    振り向くと、ホームの向こうに謎のジオラマ。

    以上、ちょっとしたミニレポ風になってしまった大胡町の探索でした。でも、以前から憧れていたローカル線に乗れただけも大収穫、車窓の景色は極めて退屈ですけどね(笑)このまま次の列車乗って西の基点である中央前橋駅に向かいます。三回目、五年ぶりの前橋市、花街跡の象徴ともいえる建物が跡形もなく消え失せていたとは・・・。

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    消え失せた花街跡の象徴・闇市由来の横丁建築・小品なれど逸品の看板建築

    この色調、意図したものではありません。またカメラがおかしくなっちゃった・・・。


     大胡駅から15分ほどで上毛電鉄上毛線の西の基点である中央前橋駅に到着です。前橋市のほぼ中心に位置する駅なのですが、前回記したように此処からJR前橋駅まで直線距離にして約1キロも離れているわけです。おそらく当初は町の中心に駅を設置すればいろいろと便利という感じだったのかもしれませんが、どうして前橋駅と接続しなかったのでしょうね。接続していれば現在のローカル線然とした雰囲気も多少は薄まっていたのかもしれません。一方のJR前橋駅はというと、県庁所在地とはとても思えないほどの駅前風景というのが面白いところだったりします。

      五年ぶり三回目になりますか・・・県内随一の規模を誇る花柳界が存在していたようですが、前回、前々回共大した収穫はありませんでした。お馴染乙種料理店にいたっては言わずもがなという感じでしたし。これは私の力不足ということもありますが、空襲の影響が大だったのかもしれません。終戦間際の昭和20年(1945)8月5日、B29爆撃機92機による大空襲で、市内の六割近くの家屋が被災しているそうです。一応昭和18年時点でのそういった関係のお店の数は以下のとおり・・・乙種料理店23軒、酌婦81名、甲種料理店19軒、甲種料理店雇婦60名、芸奴屋65軒、カフェー及バー20軒となっております。前回と前々回で町の雰囲気は大体判っているつもりですので、今回は上毛線乗りつぶしのおまけみたいな感じで緩~くいきたいと思います。

    註)前回と前々回をまとめたレポはコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



    オールステンレス車両が勢ぞろい。車両毎に運転席部分のカラーが違うのですね。



    駅の北側、城東町界隈に妖しいお店があるとかないとか。前回も訪れましたが、どうもいまいちピンとこないわけ。



    細い路地に面したノンさんは健在、向かいのMANILAさんは更地に変わっておりました。



    路地を抜けると両側から凄まじい色彩に挟まれます(笑)以前と全く変わっていない・・・。



    長屋形式の飲み屋さんだったようですが、どうしてこんな色にしちゃったんでしょう。まあ、飲み屋建築にどうしては禁句ですわな。



    お隣はこんなお店、ゆうさんじゃなくてすまぬ。



    広い通りを渡った先で見つけました。何かで駅近くの花園にそういった一画があったと見た記憶があるのですが・・・別の何かとごっちゃになっているかも。



    中央前橋駅脇を流れる広瀬川を渡って南側に出ました。広瀬川沿いで見つけた旅館鈴元さん、どちらというと仕事での長逗留向きといった感じですな。



    レポを書くためストリートビューでおさらいしますと、更地に変わっておりました。直後に解体されてしまったようです。



    振り返ると広瀬川の向こうに中央前橋駅、奥のビルに上毛電鉄の本社があります。



    近くにあるのが素っ気無い造りの成田湯さん。ネットの情報では現役のようなのですが、ひっそりと静まり返っておりました。定休日だったのかな???



    その先、更地脇に建つ物件に目が吸い寄せられます。



    影になっていて判らないと思いますが、格子の上、照明が組み込まれた看板には喜の川とエッチングで描かれておりました。手前は落ちちゃったテント製のキャノピー、最初は何かと思いましたよ。



    そしてちょっと行った処にあるのが、円窓が二つある飲み屋さんの成れの果て。お気に入りの物件、よかった健在でした。



    相変わらずのすんばらしい佇まいですが、五年前と比べてかなり熟成度が進んでおります。ご覧になるならお早めに(笑)



    それでは花柳界の中心だった思われる千代田四丁目、五丁目に向かいますか。



    左手のコインパーキングに建っていたのが、花街跡の象徴ともいえる見番の建物・・・ついに壊されちゃいましたか・・・。



    向かいの料亭小松さん、昭和24年(1949)の創業になります。



    最後の50セントなるお店の外壁が凄いことに・・・こう見えてもすき焼きのお店なんだとか。



    路地裏の割烹っぽいお店、那智愚の洗い出しに石臼がいいね。格子戸の独特なアールのついた部材、コレ何だかお判りになります???正解は水車の回る部分と言えば判るかな、実は私も最近知ったのですがね(笑)本物の古材かどうかは不明ですが。



    再び広瀬川方面に向かいます。途中でアーケードの架かった通りに出ました。弁天通り商店街です。



    アーケードの中ほどに呑龍飲食店街なる大門があるわけ。



    ちょっとワクワクしながら入っていきますと、こんな三角屋根が見えてきます。あら、名前が変わっているのはなぜ???



    正体は所謂横丁建築でした。とはいえ、ありがちな妖しい雰囲気は皆無、建物も新しいようですし。帰ってから調べてみましたら意外な事実を知ることになります。コチラ、元々は戦後の復員者のために設置された闇市みたいなマーケットだったそうです。それが火事で焼けてしまい、昭和58年(1983)に規模を縮小して再建したのが今の姿。昔の航空写真で確認しますと、現在のより大きい倉庫みたいな屋根がはっきりと写っておりました。その頃の姿見たかったなあ。なんでそんなに詳しいの?と思われるかもしれません・・・だってこの横丁建築、HPがあるんですもの。



    反対側にもちゃんと大門があるのですぞ。



    大門の向かいには創業60年という料亭金光さん、新しい建物ですがかなり立派。地元ではちょっと知られた高級店みたい。さきほどの見番向かいの小松さんもそうですが、戦後の創業ということは一度空襲で焼けているということなのかもしれません。



    近くの小料理店的なお店、側面に半円の窓が穿たれておりました。



    昭和8年(1933)に架けられた比刀根橋で広瀬川を渡ります。欄干の孔から見えた光景、河畔の柳並木が綺麗でした。



    その先でカメラに異変、こんなになっちゃった。以前にも発生した事案だ・・・まあ、そのうちに直ると思いますのでこのままいっちゃいます。



    素晴らしい佇まいのお店を見つけました。ホルモンやきそばが気になって仕方がないのですが・・・。食べログがこういうお店もカバーしていることにちょっと関心、書き込んでいる連中のグルメっぷりにはちょっとあれですけどね(笑)見たとおり地元密着のお店みたい、しかし肝心のホルモンやきそばは二人前から、しかも女将さんの気分次第なんだとか。



    お隣の黒いお宅が冒頭画像の場所、鮮やかなバラとのコントラストが強烈。



    ほら、直った・・・おまえそれでいいのかという感じですが。



    近くで円窓を発見、おそらくお医者さんだと思います。



    その先にはテーラー、なぜか看板がひっくり返っているわけ。



    少し北に入った処で見つけた小さな小さな看板建築、これが素晴らしいのです。



    段になったパラペット、羽目板が方向を変えて張られています。これまた段になった小庇の下には洒落た木製窓。腰には茶の縁取りに少し窯変したピンクのモザイクタイル。元床屋さんといった感じでしょうか。小品なれど逸品ですな、こういう発見は嬉しいなあ。



    すぐ向こうの四つ角に、すでに退役済みの小さなコインランドリーがあります。



    シンプルなホワイトボックスの一部を斜めに欠き込んで入口を造っているのですが、飛び出した異様に分厚い袖壁が面白い。貼られているタイルも面白いのです。



    初めて見る形状のモザイクタイルですな。特にアクセントに使われている一見すると石風のヤツ、傾きかけた太陽を反射して雲母みたいに光るのです。



    帰り道、適当にフラフラしておりましたら長~い赤煉瓦の倉庫が見えてきました。此処に出るんだ・・・コチラは前回も紹介した旧安田銀行担保倉庫、以前はほぼ放置プレイ状態だったと記憶しているのですが、アンティークの家具店が入っておりました。



    近くの柴田テントさん、和瓦葺きなのに洋館風という和洋折衷の建物です。扉の前に鬼瓦が・・・落ちちゃったみたいです。



    途中、こんな可愛らしい食堂を見つけました。もうやっていなさそうなのが残念。再びアーケードを抜けてJR前橋駅を目指します。でも、あと1キロあるんですよね。

    やはり五年ぶりとなると様々な変化があるものですね。以上、地味そうに見えて実は結構奥が深い前橋のブラブラ再々訪でした。

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    遺跡のような近代建築・チャブ屋街跡の自由の女神・屋号を引き継いだアパート

    ☆ファミリーが遊ぶ公園の向こうに古代遺跡?不思議な光景です。


     横浜市の南、東京湾にまるで異国人の鷲鼻のように突き出している半島にあるのが本牧。風光明媚な断崖などがありますから古くからの景勝地だったようです。鷲鼻だったかは知りませんが、黒船のペリーは此処を気に入ったのか、周辺の測量をして崖や岬の名付け親になっているそうです。ペリーの後にやって来たのが、これまた鷲鼻が結構いたんじゃないかと思われる進駐軍というわけ・・・ちょっと強引すぎましたね。本牧という地名の由来って諸説あるようですが、未だにこれといったものは判明していないのだとか。個人的には天皇家の御牧があったからという説を推したいかな・・・まあ、山あり谷ありの地形から牧場にぴったりだと思っただけなんですけどね。

     拙ブログ的に本牧ときますとチャブ屋になるわけです。その存在をご存知の方も多いと思います。まあ、この色街については様々な書籍が出版されておりますし、ブログやHPなどで、このいい加減なブログと比べ物にならないほど綿密な調査をされている方もいらっしゃいますので此処では多くを申しません。申し出し始めたら情報が多すぎてきりが無くなりそうですしね。一応断っておきますが、決して手抜きではありませんぞ。その代わりといっては何なのですが、今回はこんなもの作ってみました。


    毎度お馴染国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(整理番号:MKT637 コース番号:C8 写真番号:17 撮影年月日:1963/6/26を加工加筆)からの出典になります。売防法施行から5年経過しておりますが、おそらく界隈にほとんど変化はないと判断し、いちばん写りの良いのを使わせていただきました。海沿いを南北に走る海岸通りの東側にあったのが戦前までのチャブ屋街です。規則正しく建物が並んでおりますが、これらは進駐軍の住宅です。戦後、チャブ屋街は接収されて全てが潰され、ご覧のとおり跡形も無くなってしまいました。現在のイトーヨーカ堂本牧店辺りがそれだとされています。戦前の規模ですが、業者26軒に約200名の女給という名の私娼が活躍されていたそうです。あ、大事なことを忘れておりました。この色街、公許の遊里ではないのです。近隣に散在していた私娼を集めた私娼街だったのです。

    戦後、海岸通りの向かい、小港三丁目と本牧二丁目辺りに進駐軍の慰安所が設置されチャブ屋が復活します。ホテルと銘打ったネオン煌びやかな洋館が建ち並び、まさに不夜城といった趣だったようです。各地のそれとは違い、この色街は当時の写真が結構残っているんですよね。それから判断しますと、赤線の小さなカフェー建築とは全く違う豪華な造りがほとんどだったようですから、それらが居並ぶ様はさぞ壮観だったことでしょう。当初は進駐軍専用の色街でしたが、その後日本人もOKの赤線に移行して売防法が施行される昭和33年(1958)まで続くことになります。最盛期で業者約40軒、600名あまりの女性が働いていたそうです。航空写真の記号はネットで見つけた売防法施行直前の昭和32年(1957)の住宅地図から、チャブ屋と思われるお店を示したものになります。読みが怪しいのもありますし、場所は大体ですので、細かいツッコミは無しの方向でお願い致しますぞ。

    ア:スターホテル イ:ウィーン ウ:ワシントン エ:リドー オ:マスコット カ:アジア キ:レークランド ク:シルバーダラー ケ:ハワイ コ:リリー サ:エバーグリーン シ:レインボー ス:ホテルチェリー セ:ホテルグリーンランド ソ:ホテルメトロ タ:ホテルパシフィック チ:ホテルハーバーライト ツ:パークスロイヤル テ:ホテルニューオリエンタル ト:ホテルルビー ナ:セブンイレブン ニ:ホテルパラダイス ヌ:ホテルフジヤマ ネ:キングホテル ノ:ホテルフロリダ ハ:ホテルセントルイス ヒ:ニューレインボーホテル フ:パラマウントホテル ヘ:ホテル第二ダイヤ ホ:パリスホテル マ:フジホテル ミ:ダイヤホテル ム:ホテルアイボリイ メ:ヨコハマホテル モ:ホテルパーク ヤ:ホテルアストール ユ:ラッキーセブン ヨ:ゴールデンフォーザレー ラ:ローズホテル リ:ホテルモナコ

     この色街跡、遺構の類はほとんど残っていないと予め知っておりましたので、埋め合わせというわけではありませんが、近くの以前から見たかった近代建築を訪れてからチャブ屋街跡に向かうことに致します。あ、近くというのはちょっと違うかも・・・直線距離にして2.5キロも離れていますから。それから最後にオマケもありますのでお楽しみに・・・。

    註)計二回訪れております。各画像のキャプションに付けられた★は2013年9月、☆は2015年2月に撮影したことを表しています。



    ☆始まりはJR根岸線の山手駅。本牧へは東に向かうのですが、まずは西へ・・・高低差のある閑静な住宅街を抜けていきますと辿り着くのが根岸森林公園。広大な緑地の片隅に、古代遺跡のような三本の塔が並んだ廃墟があります。周りの長閑な雰囲気とのギャップが凄まじいわけ。



    ☆引きの絵のほうが判りやすいかな?名前は旧根岸競馬場一等馬見所と言います。昭和5年(1930)竣工、設計は米国の建築家J・H・モーガン。根岸競馬場(横浜競馬場)は慶応2年(1866)に設置された日本初の洋式競馬場になります。地図を見れば一目瞭然なのですが、この公園、見事な楕円形であることが判るはずです。競馬場跡をそのまま整備して公園にしているわけ。馬見所とは要するに観客のスタンドということですな。それの裏側になります。



    ☆塔部分のディテール、円窓の枠部分が月桂冠みたいな左官の装飾になっているのが判ると思います。



    ☆妻側の様子、斜めになった外壁の向こう側、段々になった観客席が並んでいるはずなのですが、それを見ることは不可能。私のすぐ背後には高いフェンス、その向こうは米軍根岸住宅の入口なのです。以前は塔の下辺りから鉄骨造の大きな屋根が伸びていたのですが、ボロボロでしたので撤去したようです。



    ☆根岸競馬場が閉鎖されたのは昭和17年(1942)、このスタンドは12年しか使われなかったことになります。平成21年(2009)に経産省の近代化産業遺産に指定されておりますが、ご覧のとおりの放置プレイ状態。市としても活用法を探っているようですが、さてどうなりますことやら。個人的にはこのまま朽ち果てて欲しいというのは言ってはいけないことでしょうか。



    ★二年前は逆のルート、本牧からの帰り道に訪れたのですが、途中で迷いに迷って(笑)着いたのは日没直前・・・。手前の円形の芝生広場では、何処かの大学の演劇部?が稽古中でした。



    ★手持ちではこれが限界ということでお許しくだされ。春から夏にかけては右側の塔がグリーンモンスターに変身します。コレのことを知ったのは10年以上前の廃墟ブーム真っ盛りの頃、内部を撮影したサイトも結構ありましたよね。考えてみると裏側が米軍施設だというのに、よくまあそんなリスクを犯して潜り込んだものだと感心・・・というよりは呆れているわけ。今やそのブームも何処という感じですけどね。その点、遊里跡探索はいいですぞ、ブームなんて絶対こないから(笑)



    ☆かなり空腹でしたのでお店を探したのですが、公園の周辺にはな~んにも無いわけ。石川町方面にかなり戻った処でようやく見つけた仙良庵さんで鴨南うどんをいただきました。美味しかったのですが、鴨の出汁のせいなのか、つゆが関東風とも関西風ともつかぬ不思議な風味でした。後で知ったのですが、かなり有名なお店みたいです。燃料補給しましたので本牧へ・・・と思ったら、目の前に深い谷が・・・。



    ☆谷というのは大袈裟ですが、かなりの高低差をこんな階段で下っていきます。高低差は大好物ですが、この辺りは戦後になってから開発された地域と思われますので町並み的にはいまいちですので、2.5キロを思いっきり端折って・・・



    ☆ハイ、いきなり本牧手前に到着。レトロな床屋さんの先に見えるのが本牧通りです。



    ★本牧通りから分岐する脇道で見つけた謎の千代崎□市場。正しくは千代崎町市場なんだそうで、所謂横丁建築の一種、どん詰まりの通路の両側にお店が並んでいたそうです。



    ★しかし、4年前に最後のお店が閉店し現在の寂しい姿になってしまいました。歴史を遡ると大正15年(1926)までいくという由緒正しきものなんだとか。往時は近所の奥様方で賑わったのでしょうね。



    ☆月嶋寿司さんの処で分岐していくのが、チャブ屋街の北側を流れている千代崎川、現在は暗渠になっています。



    ☆花見煎餅さんの鏝絵で描かれた屋号、訪れた二回ともシャッターが降りていたのが気になったのですが、日曜が定休日なんだそうです。



    ★チャブ屋街手前の脇道の光景、劇画調のフォントが昭和すぎて堪らないわけ。



    ★此処からチャブ屋街跡・・・本牧通りから脇道に入ると見えてくるのが、日の出型看板建築のスナックオリエントさん。嘗て此処にあったと思われるのが、前書き航空写真の『カ』のアジアなるお店、お隣が『キ』のオークランドになるはずです。現在はアパートのようですが、問題は当時の建物なのかどうか・・・ウーム、何とも判断の難しい物件です。



    ☆今年の様子・・・まあ、たった二年では変わるはずもないのですが、看板までも全く同じ場所・・・そういうことなのでしょう。



    ☆チャブ屋が並んでいたと思われる路地を抜けると、さきほどの暗渠になった千代崎川に出ます。手前の駐車場に建っていたと思われるのが『タ』のホテルパシフィック。その先に自由の女神の後ろ姿。



    ☆駐車場にはなぜかキャスター付の椅子が一脚。近所のお爺ちゃんが日向ぼっこでもするのでしょうか。



    ★自由の女神の正体は横浜ロイヤルホテルさん、界隈に残る唯一のホテルになります。嘗て此処にあったのが『ツ』のパークスローヤルになります。よく似た屋号ですが、何か関係があるのでしょうか。すましたニャンコと一緒に。



    ☆よくよく見たらロイヤ『レ』だった(笑)自由の女神とくると、よくインター脇に見えたりする派手なホテルを想像しがちですが、コチラはいたって普通のホテルですのでお間違いのないように。普通のホテルというのも変な表現ですけどね。



    ☆近くにあるのが長屋形式の飲み屋さんが入ったレトロな物件、一見すると鉄筋コンクリート造に見えますが、後ろの片流れ屋根を見えれば木造だということが判ると思います。手前の駐車場に建っていたのが『フ』のパラマウントホテル、このお店のことよく覚えておいてくださいね。



    ☆レトロに見えますが、おそらく界隈が色街としての終焉を向かえた後に建てられたものだと思います。



    ☆その先、『マ』のフジホテルなどが並んでいた通りの中ほどに、水色外壁のアパートがあります。此処には『モ』のホテルパークが建っていたのですが、地図を見てビックリ、このアパート、パーク荘というのです。どうやら屋号だけが引き継がれたようです。もちろん建物は当時のものではありません。



    ☆通りを抜けると再び千代崎川の暗渠、洗い出し風の左官仕上にアーチ窓が並ぶ退役済みと思われる床屋さんが面しています。



    ☆ポーチには市松模様のモザイクタイル、縁取りを兼ねた段鼻にはスクラッチタイル、ノンスリップ効果を狙ったのかな。



    ☆『リ』のホテルモナコがあった細い路地も探ってみたのですが、あったのはベコベコになったトタンだけでした。



    ★路地を抜けると屋根が欠けた白い廃屋。奥の平屋などは間違いなくチャブ屋が現役の頃からのものだと思われます。



    ★白い廃屋の玄関廻り、これが結構モダンだったりするわけ。以上が嘗て隆盛を極めたチャブ屋街の現在の姿、70年ほど前には米兵が大挙して押し寄せたとはとても思えないほど、静かな一画に変貌しておりました。でも、わずかながらですが独特な空気感は残っているような気がしましたよ。



    ☆帰りは本牧通りの南側を並行しているクネクネ道を辿っていきましょう。この通りも嘗ては川だったのではないでしょうか。途中にある平屋の看板建築、大切に使われているというのがよく判りますね。



    ★その先で左折すると山手駅までは真っ直ぐです。中ほどにあるのが、利休鼠っぽいタイルがモダンないなり湯さんです。正面じゃなくて両脇から入るというのが結構珍しいのではないでしょうか。黒湯の天然温泉に浸かれるそうです。



    ★近くで見つけたお稲荷さん、いなり湯さんの屋号の由来はコチラかもしれませんね。

    以上が嘗て隆盛を誇ったチャブ屋街跡の探索になりますが、遺構がほとんど残っていなくてちょっと物足りなかったでしょ?というわけで此処からはお約束したオマケになります。久しぶりになりますが、手元のカストリ雑誌に本牧チャブ屋街の記事がありましたのでそれを紹介したいと思います。舞台となっているのは、『フ』のパラマウントホテル、酷い印刷状態ですが、外観に加えて貴重な部屋と浴室の写真もありますよ。まあ、お暇だったら読んでくださいな。


    横浜の本牧ホテル街探訪-チャブ屋復活(読切ロマンス1954年2月号)

    懐しの本牧
    「どうです?本牧の茶ブ屋を探訪してくれませんか?」
     と、編集子に云われた私は、思わずニコリとした。若い頃は横浜に住んでいたので、本牧にはちよいちよい遊びに行ったものだ。ホテルの窓から海を眺めながら、彼女と語った懐しい思い出の街である。
     その本牧が復興したと聞きながら、貧乏閑なしで、今日迄行って見る機会のなかった私である。その私に「探訪せよ」とは、「無料ではない、いくらかやるぞ」ということだから、ニコリとしたわけだ。云うなれば、他人から日当を貰って、昔の恋人に会いに行く様なものだ。だから私は「ホイ来た善は急げ」と、時を移さず、国電に飛び乗って、横浜へ吹飛んだ。
     桜木町で下車して、本牧行きの市電に乗り、小港の停留所に降り立って、ホテルは何所と眺むれば、あったあった、元の場所に、ショウシャな洋館が立並んでいる。
    「あれが、ホテルですね?」
     と、通りかゝった娘さんに尋ねると以外にも怪げんな顔をして。
    「いゝえ、あれはアメリカの人達の住むハウスです」
     と笑って、二三丁手前の方を指さしながら、
    「そら、あそこに見えるでしょう、立派な洋館、あれが新しく出来たホテルです」
     位置が変ったのを知らなかった私は暫し立止って、昔の茶ブ屋街を瞼に描いて見た。
     人家の間に散在した懐しいあのホテルこのホテル、外人と手をつないで歩くアイノコ娘、塀を越して静かに流れて来るブルースのメロデイ―――
     思い出は果しなく続く。然し眼を開けば、静まり返った一面の外人住宅、あゝ有為転変の世なる哉。
     後を振返りつゝ電車通りをもどること二丁ばかり、「その寺の横丁を入って・・・」と人に教えられて右に曲ると、既に何々ホテルと大きく記された看板がいくつも見える。お嫁入りした恋人の住居を尋ねあてた様な気分である。胸をワクワクさせて歩くと、向うから黒人兵と仲良く手をつないだガールが、ガムをかみながらやって来る。左へ曲ると、もうホテル街の中心と見えて、一般の民家は一軒もなく、豪壮華麗な米式建築がズラリと建ち並んでいる。そうして、そこにもこゝにも、立派な自動車が停っている。通る人は、大抵アメリカの兵隊さんばかりだ。
    「丸でアメリカにでも来た様だ」
     いささか面喰ってともかくホテル街を一巡したが、「やア」と声をかけて入れる様なホテルは一軒もない。たまにガールらしい女に合っても、ウインクはおろか、見向きもしてくれない。「これが若し東京の新宿だったら・・・」と、不断はうるさく感じた「兄さん一寸・・・」の声が、なつかしくなった程、ここのガール達は、ツンとすましている。
    「日本人は駄目らしい」
     情ない気持になって、私はしょんぼり電車通りに出て行った。

    乾物屋さんの話
    「やア、田川さんじゃないか」
     声をかけられたので振向くと、四十過ぎの男がニヤニヤ笑っている。瞬間には気がつかなかったが、鼻の下にイボがあるのを見て、やっと思い出した。以前、西戸部に住んでいた頃、防空演習で知合った男である。当時は区役所に勤めていたが、今は本牧で乾物屋をやっているというので、
    「ホテルの探訪に来たのですが、一向にとりつく島がなくて・・・」と、窮状を訴えると、
    「ホテルのことだったら、私がよく知っています」
     と喫茶店に入って、色々と話してくれた。
     その話によると、二十五年頃からポツポツ建ち始めて、現在では五十軒ばかり、ガールの数は五百人くらいで、女学校卒業が半分以上も居るそうである。
     ビールは一本二五〇円、ウイスキーは一杯一〇〇円と云った相場。客筋は外人七割、日本人三割と云った割合で、米兵が横浜から移動した後も、殆んどこの割合は変らない。玉代は、ショウトが一〇〇〇円、一時間なら一五〇〇円、二時間なら二〇〇〇円という風に、一時間増す毎に五〇〇円宛高くなる。
     泊りは三五〇〇円夕方の五時頃からだと、四〇〇〇円、十二時以後だったら二五〇〇円位でも泊める場合もある。これが大体の標準だが、時と場合、交渉のしようによっては、もっと安く泊れることもある。
     食事は、客の希望により、オムレツ、ビフテキ、サンドウィッチ等を誂えて呉れるが、余り凝ったものは出来ない。一食一五〇円から三〇〇円位迄、客の注文に応じて安いのも高いのも出来る。
     ガールは、二食で一日一〇〇円の食事代の外は、室代も何もいらず、玉代を主人と折半して、一月二万円から十万円位の収入がある。その外に、サービス次第では、靴や洋服を、客から買って貰える場合もあるから、それ等の副収入を入れると、莫大な収入になるわけだが、親兄弟にせびられたり、浪費したりして、その割に貯金は出来ないらしい。
     客の中で、最も喜ばれるのは、朝鮮帰りの兵隊で、大抵五十万円位は持っている。ホテルでは、「朝鮮ボケ」と云っている。朝鮮から朝霞に帰って来ると、希望により、バスで横浜に輸送され、長者町の米軍宿舎RRセンターに収容され、ここからホテルへ来て泊るが、大抵三日や五日間は居続ける。何時死ぬか分らないので、金払いもよく、ポンと五日間の宿泊料を前払した上、ガールに色々買ってやるので、大いに歓迎されるわけだ。
     これに反して土地の兵隊は金を僅かしか持って居らず、月の半ば頃迄に大抵月給を使ってしまって、月末にはぐんと足が遠のくそうだから、日本人が行くなら、月末を狙うに限る。料金も負けてくれるそうだ。
    「まあ大体こんなところですよ。細いことは直接行って聞いて見て下さい」
     と云うのだが、「どうも気がひけて・・・」と頭をかくと、
    「なアに、ビールの一本も飲めば、酒場の満ママさんが話してくれますよ。なんなら紹介してあげましょうか?」
     と云う。私は早速紹介の名刺を貰って、又ノコノコとホテル街へ引返した。

    『パラマウント』ホテルで・・・

     紹介してくれたホテルは、「パラマウント」という一階建、比較的小さい構えなので、入るのに気楽である。扉を排してホールへ入ると、居る居る、洋装の美人がヅラリと椅子にかけていて、
    「いらっしゃいまし」
     と、愛想よく迎えてくれた。五時頃だったが、まだ客は一人も来ていなかったので、これ幸と、ママさんに名刺を出すと、
    「あら、あの方とお知合ですの。さア、どうぞ・・・」
     と、椅子をすゝめてくれる。昔とった杵ヅカというのか、入ってしまえば案外平気である。先ずビールを注文して、
    「日本人が入って来て、嫌われるかも知れませんが」
     と、皮肉を云うと、
    「あら、もうあなた、独立国になってアメリカの兵隊さんも、ぐっと減ったんですもの。日本人を嫌ったんでは、商売になりませんわ。この通り、今店に出たばかりのホヤホヤなんですのよ。どうぞ選りどり見どり、どれでもお好きな娘を恋人にしてあげて頂戴」
     よし来た、と行きたいところだが、今日はそのつもりで来たのではないから、
    「本当に綺麗な方ばかりですねえ」
     と、ニヤニヤしながら、順々に一人一人顔を見る。みんな朗かで、溌ラツとしている。然し、柄はみんな小柄である。外人相手なら、大柄に方が向くだろうに・・・と思っていると、ドヤドヤッと、兵隊の一団が入って来た。
    「ハロー」「カムイン」「グットナイト」等ガール達は、口々に挨拶して、俄かに活気ずく。宛も池の鯉が、餌を投げられた時の様である。ビールを飲むもの、踊るもの、抱き合ってキッスをするもの、探訪記者には有難い場景である。
     それも束の間、一人一人女をつれて奥へ入ったのだ。私は一人ぼっち、
    「ママさん、私はどうしてくれるのです?」
     と、冗談云うと、
    「お気の毒様、早く乗らなきゃ、ひとが乗るってね、ふゝゝゝゝ」
     と笑って、彼女は煙草を私にすゝめ
    「でもあなたは、泊る気はなかったのでしょう?」
    「どうして?」
    「お目が、そう云っていますもの」
    「へーえ」
    「長くやっていますと、一目見たばかり、ちゃんと分りますのよ」
     正に、道によってかしこしである。面白いと思って色々聞いて見る。
    「ガールさん、どんなタイプが好かれますか?」
    「そうね、矢張可愛い感じの娘でしょうね。でも、それだけでは駄目ね、ウイットがあって、朗かで、矢張一通り利巧でなくては・・・。それから、大柄の女は、絶対と云ってよい位、好かれませんねえ」
    「どういうわけでしょう?」
    「ふゝゝ、大方あのせいではないかしら」
     日本人、ずっと身体が小さいのだから、大柄でもよさそうなものだが・・・と、一寸不審に思う。
    「でもね、面も拙ければ愛嬌もないのに、とても好かれる娘もあるんですのよ。床惚れというわけなんでしょうかね」
    「成程。黒人はどう扱っています?」
    「黒人兵は、それ専門のホテルがありますから、そちらの方へ廻しています。でも、たまに水兵さんなんか、白と黒が一緒に来ることがありますの。その時は、いくらなんでも、白は内、黒は外と、節分の厄払い見たいなことも云えませんので、多い時は別ですけど、五人来て、一人だけ黒の場合なんかは、融通をきかしていますの。絶対にいやだと云う娘もありますが、中には同情して、いゝわ、あたしが引受けてあげるわ、という娘もありましてね」
    「成程。それでどうなんでしょう。今までの習慣では、客が一人の女と遊ぶと、次に来た時も、その女とでなければいけないということになっていた様ですが・・・」
    「それがいゝのでしょうが、相手が兵隊さんですからそんなわけに行きませんの。来る度毎に女を変えるお客さんもありましてね。五回も遊んだ女を振って、他の女に乗りかえる人だってありますものね。女は無論怒りますけど、お客さんの自由意志は、出来るだけ尊重する建前で居ますの。その代わり女の方だって、気に食わなければ、いやだと断ることもありますからね」
    「彼女達、非常に明朗に見えましたが、本牧では、どの女も、みんなあんなに明るいのでしょうか?」
    「皆さん、よくそんなにおっしゃって下さいますわね。その原因は色々あると思うんですけど、最も大きな原因は、公娼廃止によって、身分が自由になったことでしょうねえ。気に入らなければ、いつでも出て行ける、どこにだって行ける、隣のホテルだって行けるんですからね。それからもう一つは、お金持の国、自由の国のアメリカさん相手ですから、自然と朗かになったのだと思いますね。それに、このホテルは、規模が小さいだけに、まとまりがよく、みんな仲よくやっていますので、特に気持がおだやかなのかも知れませんわね」
    「何か特にモットーがありますか?」
    「はア、私のホテルでは、お客さんに家庭的な気分を与えるということに、特に努めて居ります」
     成程、そう云えば、ママさん自身に「母親」と云った様な暖か味が感ぜられる。

    ガールと語る

    「ガールさんの室を見たいのですが・・・」
     と、虫のいゝことを云うと、
    「丁度、玉はおろしたが、一寸出て来ると云って、昨夜も帰って来なかったお客さんがありますので、その娘の室をお目にかけましょう」
     と、親切なママさんは席を立った。五日間の宿泊料を前払して、途中外泊するとは解せないが、喧嘩でもして、多分モンキーハウスに打込まれたのであろう、とママさんは云う。
     彼女が、室の前に立って、扉をノックすると、ガールが出て来た。京マチ子型の美人である。ママさんがわけを話すと彼女は直ぐにOK、
    「どうぞお入りなさい」
     と、私の手をとる様にして、招じ入れた。
    「どうぞごゆっくり」
     ママさんが去ると、私は煙草に火をつけて、室の中を見廻した。広さは六畳位、壁によせてベッドが置いてあり枕机には、青磁の花瓶にカーネーションが活けてある。その真赤な色が、真白なベッドカバーと対照して、極めて印象的だ。ベッドと反対側の壁によせて、洋服ダンス、そして、その間に卓子と椅子二脚。これだけが、ホテルの備品で、あとの蓄音器とラジオと鏡台とは、ガールの私物だそうだ。
    「このホテルへ来て、どの位になります?」
    「そうね、そろそろ三年になりますね・・・」
    「三年も一ヶ所に居るのは、長い方ではないんですか?」
    「そうね。まア長い方でしょうね。でも、ホテルにはそんな人が沢山居ますのよ。居心地がいゝのね」
    「どんな点でしょう?」
    「ママさんがいゝ人だからね。あの方、私達に親切で、無理をさせないのよ。自分の家に居る様な気持で居られるのね。それにあの方、英語がペラペラでしょう。ですから兵隊さんと話しても、細かいことを呑みこませることが出来るの。それで、放っといたら帰ってしまうお客さんでも遊んで行くし、御機嫌を損ねた兵隊さんでも、直ぐ気持がほぐれますのよ。それが結局、お店のためにもなれば、私達のためにもなりますのね」
     ママさんとは、所謂遣手婆さんのことだが、このママさんというのは、まだ三十七八位の綺麗な女で、ホテルの支配人と云った地位にある様だ。その人が、こんなに評判がよいとなると、ホテルはさぞかし繁昌であろう。
    「外人を相手にすると、日本人はミミッチくて、面白くないでしょう?」
    「いゝえそんなこと。私は日本人の方が好きなんですのよ。金の点では、色々物を揃えてくれますから、外人の方が得ですけれど、矢張気持の方がね。でも、たまに日本人のお客さんと遊ぶと、なんだか勝手が違って・・・細い神経を使わなければならないでしょう、気持や言葉がよく分るだけに・・・。外人だと簡単にすみますものね」
     いつまでも話して見たかったが、「旦那」が帰って来ると拙いので、この辺で引上げた。
     ビール一本で、これだけの探訪が出来たのはもっけの幸い、若しあのまゝ帰っていたなら、なんて無愛想な本牧だろうと思ったに違いない。中へ入って見れば、どうしてどうして、仲々人情味あふれるばかり、さすがにやっぱり本牧だけあると、私は厚くママさんにお礼を云って帰った。


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    電飾付養生シートの一夜城!?・遊廓ではなく歓楽街?・ヒューム管製SL公園

    今時の子供って、こういうので喜ぶのでしょうか。


     今回からしばらくお付き合いいただくのは伊勢三重シリーズ。関東の人間だからというわけではないのですが、三重県のイメージってよく言うとミステリアス、悪く言うととても地味・・・県民の皆さんご免なさい。そのくせ松阪牛を筆頭に伊勢えび、はまぐり、伊勢うどん、赤福といった感じでとんでもないド派手な隠し玉を持っているわけです。あ、有名すぎて隠し玉になってないか、相変わらず食い意地ばかり張っていて申し訳ない。まあ、簡単に言えばよく判らない県ですな、訪れたのも初めてでしたし。でもそれのほうがかえって旅情を誘うというものです。

     そんな三重県の遊里ですが、お馴染『全国遊廓案内』を見ますと、規模の大小に係らず全ての町を網羅するような勢いで紹介されているのです。数にして25・・・どんな町にでも必ずそういった場所があったはずというのが持論ですが、まさしくそれを証明しているような状況なわけ。どうして三重県だけをそんなに熱心に調査したのかは判りませんが、今回はその中から主に県央から県北にかけての町をピックアップしてジックリ巡りたいと思います。

     初っ端は県のほぼ中央、志摩半島の付け根に位置する玉城町。元々は田丸町でしたが、昭和30年(1955)に東外城田村、有田村の一部と合併して誕生したのが現在の玉城町になります。町の中心の西、小高い丘の上には北畠親房、北畠顕信が築いたとされる田丸城がありました。明治維新の廃城令で天守閣は壊されてしまったようですが、石垣や外堀・内堀・空掘などが比較的良好な状態で保存されている城址になります。町中を伊勢本街道(参宮街道)・初瀬街道・熊野街道という三本の街道が通っていましたので、宿場という顔を持つ町でもあったようです。往時は相当賑わったようですから、遊里が存在しないわけありませんよね。

    『田丸町遊廓 三重県度会郡田丸町字田丸に在つて、関西線亀山駅より参宮線に乗換へ田丸駅で下車すれば西南へ約二丁の処である。田丸は久野丹波氏の城下で、熊野及参宮街道の宿場である。汽車の無い時分には旅行者で相当賑はつたと云ふ事だ。此処の貸座敷は今でも宿場に成つて居て、遊廓としての適用は無い。同業者が四軒あつて娼妓は二十人居るが、殆んど本県下の女計りである・・・貸座敷には山一楼、いろは楼、錦花楼、金波楼等がある。町には田丸城址、孔子廟等がある。「昔話の寒川村に、金がたまるの御殿様(寒川村は田丸の前名)汽車の窓から道者がのぞく、昔忘れぬ女郎花」』

     以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になりますが、お気付きになりましたでしょうか?そう、『遊廓としての適用は無い』という謎の一文です。お上の許可が下りなかったのか、届出をせずすっとぼけて営業していたのか・・・それでも遊廓と名乗っている摩訶不思議な状況なわけ。じゃあいったい何だったんだという話にもなるわけですが(笑)駅から西南へ二丁とのことですで、地図上でおそらくこの辺りだろうという感じで訪れたのですが、今回レポを記すためにおさらいをしてみるとこんなものを見つけたわけ。町の観光ガイドにしっかりと『旧歓楽街』と記されているではありませんか。全国遊廓案内の記述のこともあり、遊廓ではなく歓楽街と呼んでいるところに何か意味があるのではないかというのは考えすぎでしょうか・・・。



    今回のベースキャンプは津市に設置しました。前日の深夜にベースキャンプ入り、とても県庁所在地とは思えぬ(笑)駅前の光景に驚きながら早朝に発ち、JR紀勢本線で50分ほど、無人の田丸駅に到着です。木造駅舎の駅名看板が国鉄時代のまま、これで町の様子が何となく判るような気がします。



    線路沿いの通りを東へ進み、川にぶつかったら北に入ると県道717号線に出ます。これが嘗ての参宮街道、名前のとおりお伊勢参りの旅人が行き来した道です。往時は相当賑わったようですが、残念ながらそれを伝えるような家並みはあまり残っておりません。



    その中で一際目立っていたのが、押縁下見板が赤く塗られたコチラの商家。腰には美しい緑のスラッチタイルが貼られておりました。



    それの玄関廻り・・・斜めに突き出た隅木に持ち送りのような雲形の装飾がありますね。他の部材に比べて新しいような・・・オリジナルではないかもしれません。



    その先で旧街道は鉤形に曲がっています。途中にご自由にお使い下さいと記された井戸がありました。



    ちょっと行くと田丸城址の外堀にぶつかります。それを渡ると通りの脇にコレが鎮座しておりました。C58の414号機・・・嘗て参宮線にも同型機が走っていたそうですが、この414号機は昭和48年(1973)まで北海道を走っていたものになります。



    古くからの城下町ということで、町並みを期待していたのですがね・・・時間が余ってしまったので田丸城址にも寄っていきましょう。思っていた以上に石垣が見事でした。そこまで城址に思い入れがあるわけではありません。天守閣が残っていれば別なのですが、此処は壊されちゃったし・・・って・・・あ、あれぇ???



    正体は養生シートで出来た仮設みたいな天守閣でした。これなら一夜で完成しそうですな(笑)手前の金網ゲートもよく判らない・・・。



    眺めは素晴らしいですよ。でも、なんか電飾が付いているんですけど・・・。



    城址を後にして麓を走る県道530号線に出ました。嘗ての熊野街道になります。前方の踏切を渡った先が目的の場所のはず。



    踏切を渡るとすぐに旧熊野街道を示す道標があるはずです。矢印に従って此処で右折。



    道なりに進みますと気になる物件が見えてきます。



    入母屋屋根のお宅、なぜか玄関が二つありますね。隣には何かのお堂らしきものが並んでいます。



    このお宅、水路を渡ってアプローチするのです。



    更に進みますと現れるのがこの光景。ハイ、此処が『旧歓楽街』でございます。向かって右に二軒、左に一軒といった感じで遺構と思われる物件が並んでおります。



    出格子の下には御影石、とはいえ造り自体は大人しいですな。このあたりも正式な遊廓ではないということが関係しているのかもと思ったのですが如何でしょう。



    いちばん立派なのが黒い押縁下見板張りの物件、かなりの大店ですぞ。



    入口の欄間には組子のガラス障子が残っておりました。



    見上げるとシンプルな手摺がドーン、間口がかなりありますので迫力ありますぞ。



    こう見ると明らかに普通のお宅ではないというのが判るかと。



    大店の後ろには蔵が付属しています。



    近くにあるのが冒頭画像のヒューム管製のSLがある公園、客車が新幹線というのがポイント高いぞ。公園入口には村山龍平翁生誕之地なる碑が立っていました。村山龍平は朝日新聞の創業者、貴族院議員として有名な地元の名士、田丸城址内に記念館があります。『旧歓楽街』のすぐ裏手で生まれたことになりますな。ちゃんと調べたわけではありませんが、出生や育ちが遊里がらみの有名人って結構いますよね。松田優作、小泉純一郎、木の実ナナなどなど、中でも遊里の業みたいなものを全て背負っているかのようなとんでもない怪物がおります。そう、蛭子能収です(笑)

    町並みはちょっと残念でしたが、初っ端としてはまずまずだったのではないでしょうか。以上、小さな小さな城下町、玉城の探索でした。このまま隣町に移動、日本人だったら誰でも知っている神様がいらっしゃる町を時間が許すかぎり彷徨います。

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    神都は横丁建築の宝庫・人の魂を奪う遊廓!?・川沿いの趣きある町並み

    さすが神都、オフシーズンでも結構な賑わいでした。


     田丸駅からJR参宮線で10分ほど、伊勢市駅に到着です。お伊勢さん、大神宮さんと親しみを込めて呼ばれる神様の本拠地でございます。伊勢神宮ではなく単純に神宮と呼ぶのが正しいそうですな。おそらく日本で最も知名度がある神様だと思いますので、此処であれこれ記すのはやめておきます。書き出したらきりがありませんので、どうかご理解くださいませ。決して手抜きではありませんぞ。まあ、寺社関係にそこまで興味がわかないというのが正直なところだったりするわけ・・・言ってはいけないことかもしれませんが。

     別名神都とも呼ばれる伊勢市ですが、元々は宇治山田市だったというのはご存知の方も多いかと思います。昭和30年(1955)、周辺の町村との合併で誕生したのが伊勢市という名称になります。個人的には直球すぎる名前でかなり気に入らないわけ(笑)この町が神宮の門前町として古くから栄えてきたというのは言うまでもありません。ご存知のとおり神宮は20年に一度、式年遷宮という大祭が執り行われます。普段でも参拝客で賑わっておりますが、これが式年遷宮となるととんでもないことになります。2年前にこの大祭が行なわれましたので、凄まじい混雑の様子がニュースなどで紹介されていましたよね。町はこれによって一気に潤うわけです。もちろんその中には遊里が含まれていることになります。それについてはその2のほうでお話することしまして、とりあえず駅前に降り立ったわけですが、観光客の皆さんは徒歩5分ほどの外宮に真っ直ぐ向かうようです。しかし、このひねくれたブログです。真っ直ぐ向かうわけありませんがな・・・だって見つけちゃったのですもの。



    見つけちゃったというのが、伊勢駅前商店街なる横丁建築。こんなのあったら放っておけないでしょ。



    中はこんな感じ・・・飲み屋さんがほとんどのようですが、現役かどうか判断しずらいお店ばかり。



    円窓に手書きで屋号が描かれておりました。



    とても美しい玉石タイルを見つけましたよ。



    近所の方が普通に近道として通り抜けていきます。夜はどんな感じになるのでしょう、帰りにもう一度寄ってみましょうか。



    まだまだお伊勢さんには参りませんよ。今度は線路沿いの通りを南東に少し行きますと・・・



    ベージュの二丁掛風タイルに包まれた端正な近代建築が見えてきます。近鉄山田線の宇治山田駅舎、昭和6年(1931)竣工、設計は元鉄道省建築課長の久野節、国の登録文化財です。間口130mあまり、当時はまだ珍しい鉄筋コンクリート造の駅舎になります。



    エントランス廻りとそこから延びる二階の外壁は、クリーム色のテラコッタで装飾されているのですが、近付くとキャノピーが邪魔をして二階部分が見えなくなってしまうのがちょっと残念。



    中央コンコースは二層吹抜の見事な造りです。八角形のハイサイドライト、何かの花を模したと思われるシャンデリア、柱と梁が交差する部分のくり型装飾、シンプルでいてとても落着く空間になっております。



    一層上がったところにある臨時改札の待合スペース、初詣などのオンシーズンはコチラも使われるようです。椅子の色配置が妙に気に入ってしまったわけ。同じ二階には貴賓室もあることから判りますが、JR伊勢市駅(旧山田駅)よりはどちらかというとコチラが神都の表玄関という位置づけみたいですね。実際、近鉄線のほうが本数多いですし、運賃もお得ですから。



    外に出てもう一度外観を観察・・・パラペットにもテラコッタが使われ、笠木にはスパニッシュ瓦が乗っています。タイルに劣化や剥落がほとんど見られないのが素晴らしいなあ。嘗てペントハウスには市の消防本部が入っていて、火の見櫓代わりにしていたそうです。



    駅前に重厚な入母屋屋根、旅館か料亭と思ったら真珠の製造販売店でした。食べ物以外にもとんでもない隠し玉がありましたねえ(笑)



    そして、この駅前にも明倫商店街なる横丁建築があるのですぞ。



    まあ、どちらかというとアーケード街と言ったほうが正しいような気もしますが、細かいツッコミは無しの方向でお願い致しますぞ。以前はめいりん村と呼ばれていたようですが、名前が変わったみたい。



    シャッターが降りたままのお店も目立ちますが、お婆ちゃんのブティック的なお店はバリバリの現役でした。先には八百屋や魚屋などもありましたよ。



    グルリと回り込むともう一本の通路、この出口も駅前に面しています。



    コチラは飲食店関係が多いようです。屋根の造りが面白い、中央を走っているのは谷樋です。両側からの雨水を受けているということになりますが、できる限り谷樋は造らないというのが建築のセオリー。まあ、此処の場合は下が部屋ではありませんからいいんじゃないでしょうか。



    通路にはみ出した小さな居酒屋が妙に気になりました。



    明倫商店街の裏手にあるのが悲劇の大投手、沢村榮治の生家跡。出身が神都だったとは全く知りませんでした。小さい頃は野球少年でしたが、歳を重ねるに従って全く興味が無くなってしまいました。高校野球は好きなんですけどね、なんでだろう・・・。



    近くで見つけたひょろ長いお宅、中はどうなっているのでしょうね。



    いつまでも道草を食っていると神様に怒られそうですので、そろそろ外宮に向かうと致しましょう。



    外宮参道の手前で見つけたべんがら色、戸袋に矢羽根の造作があるのお判りなるでしょうか。しかし、表に回ってみるとコチラも真珠の宝飾店でした。



    外宮参道に面しているのが冒頭画像の旅館山田館さんです。豪壮な木造三階建て、別々の三棟が並んでいるように見えるのが面白い。



    山田館さんは大正初期の創業、昭和2年(1927)の増改築で現在の姿になりました。昔の写真を見ますと、以前は似たような造りの旅館が軒を連ねていたようです。現在の参道で往時を物語るのはコチラぐらい、貴重な建物だと思います。



    近寄ってみますと結構ガタがきているような・・・様々な法的規制がかかってくると思いますが、直せるところは直しておいたほうが宜しいのでは。



    外宮のすぐ手前、周囲の雰囲気から多少浮いているように見えるスパニッシュ瓦葺きの洋館があります。旧山田郵便局電話分室、大正12年(1923)竣工、設計は逓信建築で有名な吉田鉄郎。現在はフランス料理店ボンヴィヴァンさんになっております。山小屋風とでも申しましょうか、不思議な屋根の架構、端部には反りも入っております。その一方、窓の配置はドイツ表現主義を彷彿とさせるものがあったりして・・・まあ、簡単に申せばかなり好きな近代建築ということですよ。



    建物はコの字のプランになっております。珍しく事前にボンヴィヴァンさんチェック済みでして、お昼は此処でと決めてやって来たのです。しかし、正午になったばかりだというのに満席の表示・・・ほらね、馴れないことするとこういうことになるわけ。いつもの行き当たりばったりがお似合いか・・・自嘲しながら見回すと、目に飛び込んできたのが『豚捨』の文字。と、とんすて・・・正しくは『ぶたすて』だそうで、豚を飼っていた捨吉が食肉店を始めたからというのが屋号の由来になっているそうです。現在はその名のとおり豚は扱っておらず、伊勢和牛専門の地元ではちょっと知られたお店みたい。上牛丼を所望、目の前のオープンキッチンみたいな厨房で、一人前ずつ小さな鍋で作ってくれます。所謂焼き牛丼の一種、関東限定かもしれませんが、ほら東京チカラめしってありますでしょ。あれをイメージしていただければ宜しいかと、まあ肉の質は段違いですけどね。ちょっと量があれでしたが、おいしゅうございました。



    燃料補給できましたので外宮に参拝していきましょう。外宮の本体である豊受大神宮、鳥居の向こうは神様の領域、ご存知の方も多いと思いますが撮影禁止です。オフシーズンでこの人出、オンのときなんて絶対無理ですわ。



    東側の更地、2年前まではコチラに神様がいらっしゃったというわけです。式年遷宮の意義については様々な説があるようですが、建築技術の伝承という面からすれば非常に意味深いことだと思いますよ。

    その1はここまで、外宮の次に南の山側に入った古市の内宮に参拝するのが正しいお伊勢参りのルートなのですが、この普段から神も仏もないと信じている男はこのまま遊里跡探索に行ってしまうわけ・・・とんでもない奴でしょ(笑)まあ、内宮は古市の遊廓跡と二見浦の旅館街と合わせてまた次回ということでお許しくだされ。

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    新道(しんみち)裏手で謎の操舵輪に出会いました。


     『新古町三遊廓 三重県宇治山田市大世古町新道、一ノ木町、曾根町字新町に三ヶ町に存在するので三遊廓の称がある。関西線亀山駅より参宮線へ乗換へ山田駅へ下車すれば西へ約五丁、山田上口駅へ下車すれば東へ約五丁である。山田は大古の昔から飯盛女の盛んな処であつた事は、大神宮様の所在地であると云ふ事と共に有名であつた。人口は約五萬あつて神都としては日本随一である。然し如何に神都であるとは云つても土地の人のみでは貸座敷が二十四軒、娼妓が二百人と云ふ大所帯を何うしてもこなし得る筈は無い。此れは矢張全国から参詣にやつて来る「女ならでは世の明けぬ国」の人々が大勢で持ち合つて居るのだ。山田には新古市の外に古市遊廓と云ふ、昔から有名な遊廓がある。けれども新古市の方がめきめきと発展して、古市の方が反対に徐々に衰微の形を取りつつあるのは、一つには地の利を占めて居る事と、又一つには営業政策の宜しきを得た結果であらふ・・・』

     『全国遊廓案内』から始めさせていただきますが、最初の『新古町』というのはおそらく間違いかと。案内の中にもありますが、内宮近くの古市には古くからの遊廓がありましたので、それに対して『新古市』と名付けたというのが正しいと思われます。興味深いのが文中の『女ならでは世の明けぬ国』という表現です。これは古事記の『日の本は岩戸神楽の始より女ならでは夜が明けぬ国』にかけているのだと思います。ご存知の方も多いと思いますが、天岩戸に引きこもった天照大神を、天宇受賣命(アメノウズメ)の踊りで誘い出したというエピソードですな。要するに日本は女性がいないと始まらないと持ち上げているわけ・・・当り前のことですが遊里も女性がいないと始まらないですからね。日本を代表する神都ということもあって、こういう表現を用いているのだと思います。

     肝心の場所ですが、幸いなことに案内にある町名のいくつかは今も健在です。伊勢市駅の西300mにあるのが、外宮の別宮である月夜見宮。それの裏手、県道37号線とJR参宮線に挟まれた一画に遊廓があったようです。現在の一之木二丁目、大世古二丁目、曽弥二丁目辺りになるでしょうか。大正8年(1919)に発行された伊勢名所図絵にもこの辺りに『三遊廓』と表記されておりました。面白いのが図絵に付属している遊廓の説明文です。『北遊廓 新町、北町、新道の三遊廓にして『新古市』と称す。劇場は北町に帝国座あり、新町に新明座あり。不夜城の艶美、人の魂を奪ふ』・・・人の魂を奪うに思わず笑っちゃったのですが、よくよく考えると妙に納得してしまいました。この頃(大正時代)はどうだったか判りませんが、元々お伊勢参りは人生の一大イベントだったはずです。そりゃ、おのぼりさんが大挙して押し寄せて、魂奪われる者続出だったのではないでしょうか(笑)

     下調べ段階で気付いたのですが、戦後直後に撮影された航空写真が変なのです。建物が妙にスカスカ・・・これはもしかしてと思い調べてみますと、やはり空襲の被害でした。大規模なものは無かったようですが、終戦直前に何度も米軍機が飛来し、中心街の五割が被災しているそうです。これは神都までもが爆撃されたという厭戦感情を人々に知らしめるための作戦だったようです。もちろん神宮は標的から外れましたが、それでも目標から逸れた数発の爆弾が落ちているとか。この空襲で三遊廓は焼失してしまったと考えるのが正しいかと思われます。地図を見るかぎり、その後に行なわれた区画整理や道路拡幅で遊里の面影はほぼ皆無のようですが、それでも跡地は名残的な歓楽街になっているようです。名残だけでもいい、何か見つけられるといいのですがね。

     此処まで書いて重大な間違いに気付きました。三重県は廃娼県なのです。公娼廃止が実施されたのは昭和14年(1939)4月1日のこと。おそらく新古市の三遊廓もこの日をもって廃止になり、業者は料理屋や旅館に転業したのではないでしょうか。その後の空襲で遊廓跡は焼けてしまい、戦後になっても赤線という形では復活せず、跡地に現在の歓楽街が形成されたというのが正しいと思われます。



    外宮を後にして、本町の西側の路地に入ったのですが、いきなり現れたコレにはビックリ。



    かなり歴史がありそうな築地塀ではありませんか。内側のハーフティンバー風のお宅も気になります。



    路地を抜けると情報過多な喫茶ナナさん(笑)此処にやって来たのは、近くに伊勢うどんの名店があるというのを小耳に挟んだからなのですが・・・



    案の定、山口屋さんは長蛇の列でした。まあ、どこかで食えるだろうと思っていたら、結局この旅では食べられなかった・・・。



    近くの路地で見つけた木造総三階建ての謎物件。路地が狭くてあおりまくり、判りにくくて申し訳ない。



    おそらく元旅館だと思います。美しい瑠璃色の瓦、戸袋には左官の装飾があるのですが、袈裟を羽織った坊さんが並んでいるように見えませんか???手摺が洋風ですよね、コレ遺構などでもたまに見かけるものなのですが、個人的には子供の頃使っていた二段ベッドに見えて仕方がないわけ。判る人いるかな。



    近くにあるのが醤油と味噌の醸造元の糀屋さん。文化13年(1816)創業という老舗です。押縁下見板の外壁が壮観ですな。



    近くにも押縁下見板張りに立派な門を構えたお宅があります。東邸と刻まれた石碑が立っております。古今伝授の祖とされる東常緑関係のお宅みたいなのですが、詳細は不明です。



    門の棟瓦には波を模した装飾が施されています。



    近くにあるのが大豊和紙工業さん、明治32年(1899)創業、神宮をはじめとして全国の神社のお札などに使う和紙を製造している会社です。ちなみにコチラは裏口。



    裏口の門、アールデコの門柱に陶器製の『縦覧謝絶』の表示。古い工場などでたまに見かけるものですが、関係者以外立ち入り禁止と同じ意味で宜しいかと。



    近くの公園でまた出会ってしまった(笑)この地方独特のものかもしれませんな。



    工場敷地の角に建つ事務所兼和紙ギャラリー、大正期に建てられたもののようです。仕事柄、紙には興味があるのですが・・・残念、土日は休館でした。



    工場入口には堂々と神宮御用紙製造場と刻まれた碑が立っています。



    向かいの至って普通のお宅には謎のバッハホール・・・何コレ???



    巨木に囲まれた月夜見宮、隣では仮囲いの中で作業中・・・コチラのお宮も遷宮するのでしょうか。調べてもよく判らないのですが・・・。



    県道37号線を渡って、北側を並行するアーケード街に出ました。名前をしんみち商店街といいます。嘗ては裏手が遊廓だったため、呉服屋や化粧品を扱うお店が軒を連ねていたそうです。しかし、現在はご覧のような寂しい状態、観光コースから完全に外れているのが致命的なのでしょう。



    しんみち商店街裏手にあるのがさくら通り発展会、新古市遊廓の中心だったと思われます。現在は町いちばんの歓楽街、とはいえかなり寂れ気味というのは否めません。そこで見つけた元料亭っぽい妻入りの和風建築。



    歴史があるように見えますが、おそらく戦後に建てられたものだと思います。引き分け戸の右上には料理店の鑑札が残っておりました。まあ、私も画像を開いてから気付いたのですがね。



    その先に間口の広い看板建築・・・と思ったら、これが横丁建築だったというわけ。注目していただきたいのはその向こう。



    カフェー建築と決め付けるのにはちょっと無理があるでしょうか。まあ、とにかく変なお店なのです。



    通りに面した外壁には鉄平石による太陽?格子がありますが、内側に窓はなく、スモールサイズの太陽があるのです。



    外巾木のボツボツをよく見ましたら、これがビール瓶の底だったというわけ。



    そしてなんと言っても謎の操舵輪、左手のスチール製のグリルには自火報?が組み込まれているのが面白い。そして、なぜか入口だけは純和風という凝り具合(笑)飲み屋建築、此処に極まれりといった感じですな。



    それでは横丁建築を抜けて向こう側へ、妖しい感じは皆無かと思ったら・・・出ました、飲み屋さんではお馴染の気色悪いスタッコ・・・というよりはモルタル吹付と言ったほうが正しいかも。まあ、気色悪いことに変わりはないけど。



    通りから通りへ、結構入念に歩いてみたのですが、名残みたいなものは見つけられませんでした。まあ、戦前に遊廓が無くなっていたとすれば納得の結果ですよね。現地ではそのことをまだ知りませんでしたのでかなり疑問に思っていましたが・・・UPする前に気付いてよかった。その3で記しますが『全国花街めぐり』によりますと、新古市では芸妓さんもたくさん活躍されていたそうです。



    そんな中、いきなり現れたお城に思わず仰け反りましたわ。ジャズ喫茶城さん、そのまんまですがな(笑)



    見た目は古城ですが、もちろんそこまで歴史があるものではありません。数年前まで現役だったのというのが凄い。



    回り込むと後ろはコテコテの和風というのが面白いですね。右手に見えるのがしんみち商店街のアーケードになります。



    その先の交差点に面したビル。店子さんが全て飲み屋さんのソシアルビルなのですが、凄いですよ、コレ。遠めでも判りますが・・・



    ほら、外壁を彩るのはガラスモザイクタイルによる見事な壁画。コチラはフェニックスでしょうか。



    反対側は・・・み、みかん!?凄まじい色彩の氾濫にクラクラしてきた。所々補修してありますが、高い処のは諦めちゃったみたい(笑)

    その2はここまで、ご覧のとおり魂を奪われるような遺構には出会えませんでしたね。戦前に終わっていたと知っていれば違う行動を取っていたかもしれません。その3でも引き続き同じ一画をもう少しウロウロしてから、今度は駅の反対側、川沿いに残る物資の流通で栄えた古い町並みを、太陽と競争しながら彷徨います。

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    谷樋から漏れた水溜りに看板が写り込んでおりました。


     その2で記した新古市遊廓ですが、こんな素晴らしい資料がコチラのサイトにありました。その中の年表に昭和14年(1939)の公娼廃止後の様子が記されておりました。貸座敷は料理店に、娼妓は酌婦に転業とあります。この場合の酌婦とはいったいどういった職種だたのでしょうね。鑑札が廃止になり、給仕婦は白、酌婦は赤、芸妓は緑の証札を携帯することが義務付けられたそうです。芸妓が出てきますが、この遊廓、娼妓と芸妓が混在している遊里だったようです。公娼は廃止されましたが、芸妓まではお上も手は出せなかったはずです。その後は純粋な花街となったのか・・・また、酌婦はどういった位置づけだったのか、大人しくお酌だけをしていたとは到底思えないのですが・・・神都の遊里は謎だらけですな。花柳界の様子については『全国花街めぐり』からの抜粋を置いておきます。

     『新古市 芸妓置屋十七、妓楼にして芸妓置屋を兼業するもの四、芸妓一四三名。料理店約五十軒。主なる料亭 千秋楼、戸田屋、貞文、水月楼。右の内千秋楼は県下第一の広壮な建築で、家具計器にも贅をつくし、至極ゆつたりとした気分に富んでゐる、水月楼は常に勅使齋館に充てられ、戸田屋また貴族向きの家で多く大官連が宿泊する。以上はいづれも旅館兼業で、貞文はうなぎの蒲焼を名物としてゐる・・・』

     引き続き新古市をもう少しウロウロした後、今度は駅の反対側に行ってみましょう。市内を南北に流れる勢田川沿いに、嘗て物資の流通などで栄えた町並みが残っているそうです。空襲と区画整理の影響で中心街には古い町並みがほとんど残っておりませんので、これから向かう場所は嘗ての山田(伊勢)の姿を感じることができる貴重な処なのです。



    三つの町に分かれていたため、別名三遊廓と呼ばれていた新古市ですが、最後に訪れたのは嘗ての新町、現在の曽祢二丁目辺りがそれだったと思われます。そこでいきなりシャープなバルコニーを見つけてしまったわけ。



    四つ角に面したファサードはこんな感じ。アールを描く外壁・・・でも、カフェー建築とするにはちょっと無理があるかな?嘗てはこの辺りにも貸座敷が並んでいたようです。



    全景はこんな感じ、正面の四つ並んだ装飾の中途半端さが妙に気に入っております。



    シャープなバルコニーをもう一度・・・コレ、現代建築でもよく使われる手法でもあります。左の袖壁のタイル目地はもちろんニセモノです。



    お年寄りの日向ぼっこ用でしょうかね。その先に見えてきたのが・・・



    なんと、またもや横丁建築ではありませんか。宮町名店街なる小さな呑んべえ横丁でございます。



    入口廻りに貼られた玉石タイルがかなりの気色悪さ(笑)



    此処も谷樋なんだ。一軒のお店では早くもカラオケ全開でした。さて、そろそろ次の目的地に向かうと致しましょう。



    近鉄線の高架を潜って町の北側に出ました。これから向かうのは勢田川の水運で栄えた河崎、市場も開かれ嘗ては山田(伊勢)の台所とも呼ばれた町なのです。



    まず現れたのは袖壁に石貼り風の左官仕上があるお宅。一階の煉瓦、二階の鉄製の両開き雨戸から歴史があるものだと思うのですが、左のハーフティンバー風の部分は増築されたのでしょうか。何にせよ、とても大事に使われているというのがよく判りますね。



    少し行くと、防火壁を兼ねていると思われる凄い袖壁がドーン、その間を長屋門風の瓦屋根が繋いでいるという不思議な構成のテラスハウス風。奥には立派な土蔵があります。モナリザさんというカフェなのですが、元々は築150年という商家だったようです。



    界隈には切妻屋根の妻入り、押縁下見板張りの商家や蔵が軒を連ねています。この形式の家並みは全国的にみてもかなり珍しいそうですぞ。角に建つ道標には『左 すぐさんぐう(参宮)みち』『右 宮川道』と刻まれておりました。



    素晴らしい町並みですなあ。実は半信半疑だったのですが、これは大正解。



    明治中期に建てられたという河崎蔵さん、現在はカフェになっております。歩き疲れて此処で休憩、シフォンケーキおいしゅうございました。



    ちょっと休憩のつもりだったのですが、ノンビリしすぎちゃいました。外に出るとお日様がかなり傾いておりました。急ぎましょうとその先の広い通りを渡ろうとすると、コレが見えたわけ。



    ペントハウスをご覧下さい。スッと突き出した庇とそれを支える丸柱、そして回り込む開口部・・・かっこよすぎるでしょう。



    観光ガイドにもこの町並みのことは紹介されているのですが、観光客の姿はほとんど見かけませんでした。ちょっと勿体無い気がしますなあ。



    勢田川の河畔に嘗ての家並みの様子を再現した一画があります。以前はこんな感じで家々のギリギリまで川が迫っていたそうです。しかし、昭和49年(1976)の集中豪雨で発生した洪水で国による河川改修が始まります。河川拡幅と護岸整備によってその家並みは消え失せてしまいました。



    左の高い石塀の向こうにあるのが伊勢河崎商人館。江戸時代創業の酒問屋小川酒店を伊勢市が整備し、観光やまちづくりの拠点という位置づけを担った施設になります。



    残念ながら時間の関係で今回は覗き込むだけで我慢・・・。



    この辺り、町並みをアピールするかのように、通りがいい感じで出っ張ったり引っ込んだりしているのです。左の切妻屋根の向こう側がさきほどの嘗ての家並みを再現した一画になります。



    近くの川の駅なる施設に嘗ての家並みの写真が展示されていました。コレ、見たかったなあ。



    伊勢河崎商人館脇でこの素晴らしい三角屋根を見つけました。元は何だったのかはすぐに判りますよね???



    正式名称は知りませんが、お馴染のネジネジのクルクルが鏝絵によって表現されているわけ。シンプルなれど見事なデザイン、いちばんのお気に入りです。



    驚きはこれだけではありません。帰りは裏通りをショートカットして駅に向かったのですが、県道201号線沿いで見つけたコレには絶句。



    旅館星出館さん、創業は昭和元年(1926)ですが、建物の一部は大正期のものなんだとか。宿のHPには中庭に太鼓橋が架かっていたりして、大正期は別の業種だったのではないかと勘ぐりたくなるくらいの造りなのです。



    もっと驚いたのが料金、なんと普通のビジネスホテルと同じくらい・・・。まあ、HPの『通気性は良好ですが、機密性は良くありません』には妙に納得してしまいましたが(笑)今度来るときは此処に泊りたいなあ。



    星出館さん前から延びる通りを行きますと、見えてくるのが霊泉湯さん。富士山型の看板建築風のお風呂屋さんです。



    停まっている車から判りますが、近所の方でかなりの盛況ぶりみたいですな。『湯』と屋号はネオンサインになっているのですが、点いていないのは経費節減でしょうかね。かなり惹かれましたが、今日は予定がありますもので・・・。



    伊勢市駅前に戻って参りました。最初に訪れた伊勢駅商店街の夜の様子、全滅ではなかったのですね。灯りを見てちょっとホッとしましたよ。



    状況を説明致しますと、この仔は看板のお店の飼い猫みたいなのですが、悪さでもしたのか、お母さんに「まだ入れてやらないよ」と追い出されて途方に暮れているというわけ(笑)

    以上で神都伊勢市の探索はオシマイ。遊里関係は残念でしたが、河崎の町並みは思っていた以上に濃密で楽しめました。次回は内宮と古市、そして二見浦という感じでしょうか、まあ何時になるかは判りませんが。さて、今日は毎回恒例の精進落しと参りましょう。毎回毎回、何を落とすんだという感じですが、今回は正真正銘の精進落しと胸を張って断言しても宜しいのではないかと。でも、現代の神都は妙に健全でして、そういった場所がありませんので、ベースキャンプの津市に戻って落として参ります。もちろんレポはございません、あしからず。ではまた明日・・・。

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    神社脇の女王様・軍都の遊里は電停の前・非常に危険な横丁建築

    角を曲がるといきなりコレですから、そりゃ驚きますがな。


     ベースキャンプの津市から近鉄名古屋線で松阪方面へ三駅で久居に到着です。ちなみに読みは『ひさい』です。元々は久居町でしたが、平成18年(2006)の合併で現在は津市の一部になっています。江戸の頃は久居藩五万三千石の城下町・・・と言いたいところなのですが、実際は藤堂家が治めた津藩二十二万石の支藩という位置づけだったため、城の築造は許されていなかったそうです。陣屋町といったほうが正しいかもしれませんね。町中を伊賀街道から分岐し松阪の伊勢街道(参宮街道)に合流する奈良街道が通っていたため、往時はお伊勢参りの旅人で賑わったそうです。嘗てそんな町に存在したのが北新地遊廓になります。

     『久居町北新地遊廓 三重県一志郡久居町字北新地に在つて、関西線亀山駅から参宮線乗り阿漕駅から西へ約一里十丁あるが、阿漕駅から伊勢川口行きの電車に乗つて「久居萬町」で下車すれば直ぐだ。此処には宿場の遊女屋としては徳川時代から在つたものであるが、遊廓と成つて現在の個処に移転したのは明治四十三年六月である。目下貸座敷は七軒あつて娼妓は三十一人居り、殆んど本県下の女計りである・・・』

     以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になりますが、何を血迷ったのか当初は文中の『久居萬町』を現在の久居駅だと勝手に思い込んでしまったわけ。地図上の駅周辺を探してみたのですが、何も手がかりなし・・・再開発や区画整理で消え失せてしまったか、それならこの町は止めとくかと思ったところではたと気付きました。嘗て久居にはもう一つ鉄道が走っていたということを・・・。


     今回も国土地理院の航空写真(整理番号:USA コース番号:R203 写真番号:89 撮影年月日:1947/9/23を加工加筆)を使わせていただきました。久居駅まで赤点線の近鉄線と並行している青点線が、昭和18年(1943)まで現役だった中勢鉄道になります。軌間762ミリという軽便鉄道の一種だったそうです。久居駅から分岐した先を辿っていきますと、寺町の次の電停が『万町』、その真ん前には不自然極まる区画(紫点線)が飛び出しているのが判りますよね?おそらくコレが遊廓跡で間違いないと思われます。風紀上ウンヌンで町外れに移転させられたということなのでしょう。

     あ、そうそう、久居を語るうえで忘れてはならないのが、航空写真の久居駅の東側にひろがる緑点線です。嘗て此処に駐屯していたのが、大日本帝国陸軍歩兵第33連隊であります。久居にやってきたのは大正14年(1925)のこと、チチハルや南京などを転戦しますが、戦局厳しい昭和19年(1944)に移駐したのがかのレイテ島・・・最後は玉砕という悲劇が待っていたということになります。現在、跡地には陸上自衛隊第33普通科連隊が駐屯しているのですが、同じ『33』というのは何かの偶然なのでしょうか。久居は昔も今も軍都なのです。



    早朝の久居駅前、人影は皆無です。



    地図上での密集度はかなりのものでしたので、町並みを期待していたのですが、かなり残念な状態。それでも所々にこういった袖壁付平入りの町屋が残っておりました。



    航空写真の黄点線が野辺野神社。久居の以前の呼び名が野辺野、初代藩主である藤堂高通が『永久鎮居の安住の地』と願いを込めて名付けたのが久居という地名の始まりとされています。神社脇にこんな細い路地・・・突当りに特徴的な入口廻りがあるわけ。



    角を曲がるといきなり現れた女王に思わす仰け反りましたよ。予期せぬ呑んべえ横丁の出現だあ。それにしてもどんなお店なんだろう、巷にはSMバーなるものがあるようですが・・・こんなの一見さんにはハードル高すぎでしょ(笑)



    あけぼのさんの外壁は目がチカチカしそうな凄まじいショッキングパープル、凄いなコレ。向かいにはご縁さん、さきほどの女王さんもそうですが、此処変な屋号が多いのです。



    お次はあとごふんさん。以上、忽然と現れた謎の呑んべえ横丁でした。



    その先にあるのが旅籠町、名前のとおり嘗てはお宿が軒を連ねていたのでしょう。



    ポパイがチェリーを持っている・・・以前は様々なキャラクターがタバコの宣伝に一役かっていたというわけ。まあ、ポパイ自体がパイププカプカですから、昨今の嫌煙事情から考えると、かなり問題だらけのキャラですよねえ。



    旅籠町の裏手、この通りが嘗ての奈良街道になります。立派な門と塀、この辺りは往時を忍ばせる雰囲気が辛うじて残っておりました。



    そのまま旧奈良街道辿っていきましょう。



    頃合をみて、東側を並行している県道15号線に出ます。嘗ての中勢鉄道跡がこの県道になります。それの中町交差点附近が万町電停跡と思われます。すぐ近くに不自然な広い通りがあるわけでして、おそらくコレが嘗てのメインストリートではないかと・・・あ、中ほどのお宅に注目ですぞ。



    重厚な入母屋屋根と破風、綺麗に直してありますが、辛うじて面影が残っているような気がしませんか???



    横から見るとかなり奥行きがあることが判りますね。手前の駐車場にも何かが建っていたのではないかと。結局、遺構らしき物件はコレだけ・・・廃娼県ということも関係しているのだと思います。駅からかなり離れていますし、おそらく戦後になっても赤線としての復活は叶わなかったのではないでしょうか。



    謎の呑んべえ横丁近くに戻ってまいりました。そこで見つけた旅館ひのでやさん、微妙な感じですが、ネットでヒットしましたので現役っぽいです。



    玄関には料理店の鑑札が残っておりました。



    最後に訪れたのは、駅前の商業施設が入ったマンションの南側。



    駐車場を挟んで立つ二軒、実はコレ横丁建築なのです。まずは向かって右から・・・。



    横丁建築と言いましたが、建物の外側にも飲み屋さんが軒を連ねておりました。



    いい感じに廃れておりますが、現役という感じはあまりありませんな。



    それでは横丁にお邪魔しましょう。片側だけにお店が続くタイプになっております。入口廻りに貼られた特殊な形状のモザイクタイルが面白いなあ。



    ムーミンの彼女はノンノンじゃなくてスノークのお嬢さん、実はちゃんとした名前がないということを初めて知りました(笑)そんなことより、壁の鉄平石?すんごい色に塗っちゃったものです。



    ギルビーさんの二丁掛タイルによるカラーリング、いいねコレ。



    それではサビサビトタンのもう一軒へ、コチラは柳ヶ瀬通りというそうです。



    足を踏み入れようとしたところでストップ。判りにくいと思いますが、通路に単管足場が組まれてコンパネの天井が張られているわけ。どうやら実際の天井が崩壊寸前のようです。非常に危険ですのでこれ以上は無理・・・ご理解下さいませ。まあ、真似する方はいないと思いますが、何かあっても拙ブログは一切関知しませんので、宜しくお願い致しますぞ。



    行きでは気付かなかった町屋の妻側が凄いことになっておりました。

    ちょっと消化不良気味でしたが、以上で久居の探索はオシマイ。まあ、遊廓跡らしき一画が判明しただけでも十分ですよ。最後の横丁建築ですが、すぐ向こうを走る近鉄線を渡ると自衛隊の駐屯地なわけです。おそらく当初は彼ら目当てだったのかもしれませんが、今時の若い隊員はああいうお店では呑まないのでしょうねえ。次回は松阪、美味しいお肉を頂いたら、町の東西にあったという遊廓跡を訪ねます。

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