お店の裏にまたお店、不思議な一画でした。
田辺ゆかりの著名人として真っ先に頭に浮かぶのは、やはり南方熊楠になるでしょうか。田辺市出身かと思っていたのですが、正しくは和歌山市生まれで、後に田辺を気に入り永住することになります。様々な逸話が残る偉人というよりは、この人の場合はそれを遥かに凌駕した怪人と呼んだほうが正しいような気がします。個人的には菌類学者としての活動、特に粘菌関係に明るかったそうですが、私もあの生き物とは思えない造形にとても惹かれます。
熊楠が田辺に居を構えたのは明治37年(1904)のこと、二年後に田辺名所の一つである闘鶏神社宮司の娘松枝と結婚するのですが、式を挙げたのが田辺新地の南側に位置する田辺城(錦水城)跡にあった錦水館なる料亭?でした。まあ、この時点では田辺新地はまだできていませんけどね。とんでもない大酒呑みだった熊楠ですが、もちろん田辺新地には足繁く通っていたそうです。こんな怪人と対峙する芸者さんはさぞかし大変だったことでしょう。裏を返せば、相手ができる優秀な芸者さんがいたということになるのかもしれませんな。そんな熊楠の旧宅が今も残っているそうですので、それを訪ねながら路地裏などを時間の許すかぎりブラブラしたいと思います。
田辺新地の南の外れでこの旅最初のニャンコに遭遇。何が気になるのか、前方をじーっと見つめたままで全然こっちを向いてくれない・・・。
更地越しに見る田辺新地です。
すぐ近く、会津川左岸の河口に面して小さな公園があり、一部にこんな石垣が残っています。コチラが前書きにある田辺城の遺構になります。城と言ってはいますが、田辺藩は紀州藩の支藩的な扱いでしたので、一国一城の令により天守を造ることができず、実態は領主の館といった感じだったようです。
この石垣が残る構造物、田辺城の水門とのことなのですが、どれがそれなのかよく分かりませんでした。
公園の脇にある公民館、名前を錦水会館といいます。名前だけが引き継がれたのかな。
路地をウロウロしながら田辺新地の東側に出ました。今度は錦水旅館さんですか、残念ながら現在休業中みたいです。
一本向こうの通りにあるのが、中央に簡略化されたギリシャ神殿が張り付いたようなシンメトリーなファサードの白亜の洋館。昭和24年(1949)に建てられた旧田辺警察署、昭和29年(1954)には市の図書館、昭和38年(1963)からは中部公民館といった感じで数奇な運命を歩んだ建物なのです。
サイディングのように見えますが、釘の頭が見えましたので木の羽目板だと思います。まあ、本当のちゃんとした羽目板は釘の頭は見えませんけどね。現在はララ・ロカルさんなるカフェ+ベーカリーみたいなお店として余生を送っています。お昼は此処でもいいかなと思っていたのですが、なんと定休日・・・。
お昼のお店も物色しながら行きましょう。近くにあるのが池田写真館さん。この弧を描く豪快な破風は以前のお店から移したものかなあ。でも、このアンバランスさがかえってステキ。
遠くからも目立っていた蔵が並ぶ物凄い豪邸、地図には田辺酒造(名)とありますので合名会社ということですよね。しかし、どう見ても酒蔵とするには土蔵が小さすぎるし、煙突も見当たりません。門には『再来荘』とあるのですが、結局正体不明のまま。
宣伝頑張りすぎな、明治13年(1880)創業、醤油と味噌の小山安吉醸造元さん。コレ、風が吹いたら五月蝿そう。
ちょっと駅方向に戻った処にあるのが南方熊楠顕彰館、同敷地内に熊楠の旧宅があります。左の板塀の向こうがそれなのですが、ブハッ、なんと休館日。ゆっくり見学したかったので、平日に訪れたのがかえって大失敗、思いっきり予定が狂ってしまった。さきほどのララ・ロカルさんで嫌な予感がしていたんだよなあ。仕方ない、ブラブラできる時間が増えたとポジティブな方向にもっていきましょうや。
近くで出会った下見板張りの洋館付住宅の一種がなかなかオツな造りでした。
土蔵みたいに漆喰でアールが付けられた軒天に、松を象ったと思われる孔が並んでいるわけ。おそらく天井裏の換気孔だと思われます。こんなの初めて見ましたよ。
どんな町にもなぜか必ず存在する金光教の教会、門柱の文字に目が点。性金也・・・せ、性は金なり!?ウーム、妙に納得。もちろん違う意味だと思いますけど。
今にも崩れそうな築地塀と真新しい虫籠窓が並ぶ塀が向き合っておりました。
県道29号線に出る手前に可愛らしい洋館が残っています。昭和3年(1918)に建てられた旧木津医院さん。三角屋根に細かい桟が入った両開き窓が並んでいるハーフティンバー風です。
このちょっぴり跳ね出した部分が凄くいい、窓下の装飾もステキですね。現在は雑貨店として余生を送っているようです。
退役済みと思われる旅館紀伊国屋さん。入母屋破風の平瓦の小口が積み重なっている部分がとても綺麗。
その先の路地に入りますと、マンサードと半切妻がミックスされたような鮮やかな朱色の洋瓦が見えてきます。屋根から突き出したドーマー窓が豪快ですねえ。
大正末期に建てられたとされる旧長井邸、屋根の色から地元では赤別荘と呼ばれています。でも、こう見ると朱色というよりは橙色ですな、葺き替えたのかもしれません。コチラもハーフティンバー風のドイツ壁の外壁、暖炉の煙突が絶妙な位置にあります。今も個人のお宅として現役、手前の朱色の塀と一緒に。
南方熊楠顕彰館に寄れなかった時間を利用して、前書きにもある闘鶏神社に寄っていきましょう。允恭天皇8年(419)に熊野本宮大社から勧請されたと伝わる歴史ある神様、地元では権現さんと呼ばれ親しまれています。源平合戦の際、かの熊野水軍も此処で源氏につくか平氏につくかを占ったそうです。拝殿の後ろに四棟の本殿が並んでおり、それぞれに違う神様が祀られているわけ。塀の向こうは神域ということで、普段は入れないみたい。
神社南側の広場にクスノキの物凄い巨木がドーン。何も表示がないので樹齢などは分かりませんでした。
神社参道脇に小さなお堂が並んでいる一画があります。奥には大福院なるお寺があるようですが、手前の石碑に注目です。
弁慶誕生之地と刻まれているわけ。かの武蔵坊弁慶は田辺生まれというのが定説とされているそうですが、そもそも本当に実在した人物なのかというのは諸説様々、謎ばかりというのが実態らしいですな。ちなみに闘鶏神社には、君主である義経の横笛なんてものも奉納されているそうです。果たして真偽のほどは・・・。
まだ時間がありますので、今度は駅前通りを挟んだ味小路の反対側へ・・・コチラにもゴチャゴチャとした一画があるようですので。
こんな細い路地を適当にブラブラ、個人的はとても楽しいのですよ。
ニャンコってこういう狭っ苦しい処大好物ですよねえ。
屋根の並びが気に入っております。
駅前通りから続く弁慶通り沿い、とある中華料理店脇の細い細い路地の突当りに看板がチラリ・・・入っていくと現れたのがこんな光景。
路地はそこから直角に曲がって続いておりました。手前のお店、これは珍しい、竹を模したボーダータイルかと思ったら・・・本物でしたわ。
路そして路地は再び直角に曲がっており、そこが冒頭画像の場所。背後はすぐに弁慶通り、お店二軒の周囲をグルリと路地が取り囲んでいたというわけ。
結局目ぼしいお店の発見には至らず、行きのとき味小路で見かけた割烹銀ちろ本店さんの暖簾を潜りました。一人なのに個室に案内されちゃったと思ったら、全室そうだったみたい。どういうわけか和歌山県とくると鰹というのが頭にありまして、むしょうに戻り鰹が食いたいというわけでタタキの定食を所望。量がちょっと物足りなかったけど、おいしゅうございました。
カフェ&パブなのに巣菜句(スナック)とはこれ如何に。歯抜けのバージボードが哀しい。
後半はちょっとグダグダになってしまいましたね。その1でも述べましたが、田辺新地のあの雪洞型の街灯が現役ならば、夜にもう一度訪れてみたいものです。次に訪れるのは、営業距離たった2.7キロという、大好物の超絶ローカル盲腸線がガタゴト走る町。以前から気になっていた町でもあるのですが、ようやく訪れることができました。