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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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和歌山県 御坊市201510 その1

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超絶ローカル盲腸線が走る町・本瓦が連なる家並み・カラフルな板金で包まれた割烹

これが駅の南口だなんて信じられます?


 紀伊田辺駅からJR紀勢本線で和歌山方面に戻ること45分ほどで御坊駅に到着です。和歌山県の中部に位置する御坊市ですが、この駅が町の表玄関というわけではありません。町の中心に出るためには此処で乗り換えないとなりません。その列車は御坊駅の外れにある0番線ホームで、重々しいアイドリングの音を響かせながら待っておりました。単行の気動車キテツ2形、元々は兵庫県の北条線を走っていた車両になります。これが超絶ローカル線の紀州鉄道線、長年憧れていた大好物の盲腸線であります。路線距離たったの2.7キロ、日本一短い鉄道という情報がありますが、西日本一というのが正しいようです。ちなみに日本一は千葉県を走る芝山鉄道で、路線距離は2.2キロとなっております。ただし、芝山鉄道は始発の東成田駅と終点の芝山千代田駅を単純に結んでいるだけですし、京成本線に乗り入れもしていますので、これを単独路線としてしまうのはちょっと無理があるかも。一方の完全な単独路線の紀州鉄道線は2.7キロの間に駅が三つもあるわけ。学問駅と紀伊御坊駅の間など300mほどしかありませんから、まるでちんちん電車並みですよね。

 紀州鉄道線の前身である御坊臨港鉄道が開通したのは昭和6年(1931)のこと、紀勢本線御坊駅と御坊の中心街とを結ぶというのが主な目的でした。当初は御坊-御坊町(現紀伊御坊)間でしたが、その後町の南を流れる日高川のすぐ手前の日高川駅まで延伸されます。それでも全長3.4キロですから、いかに短い路線であるかというのがよく分かると思います。こんな感じのマイナーな地方の私鉄ですので、戦後のモータリゼーションであっというまにジリ貧に陥ります。JRの路線だったらとっくの昔に廃止されていたのではないでしょうか。

 そんな小さなローカル線がなぜ今も生き残っているのか・・・その理由は昭和48年(1973)にこの路線を買収した会社にあります。紀州鉄道と名乗ってはいますが、この会社、本社は東京にあるのです。しかも本業は不動産売買やリゾート開発なのです。そんな会社が、なぜ遠く離れた小さな赤字路線を買収したのか・・・簡単に申せばネームバリューということになるのでしょうか。よく聞くでしょ、東急不動産、阪急不動産といった感じで、まあこの場合、不動産業は鉄道事業の傘下になるのでしょうけど。日本独特のものだと思いますが、鉄道事業というブランド力は偉大であり、それだけ信頼のおけるものということらしいです。そのブランドを維持するためだけに、この小さな鉄道は今日もガタゴト走っているわけ。実際は地元の方の貴重な足でしょうし、その存在は私のような人間や鉄ちゃんにとっても有難いこと。今や稀有な存在だと思いますので、紀州鉄道さんにはこれからもなんとか維持してほしいと切に願うばかりです。

 御坊駅を出た単行列車は、すぐにJRのレールに別れを告げて南下していきます。速度メーターを見ていましたら、30キロより先に針は動きませんでした。ママチャリでも追い抜けそうな速度なわけ。しかも、古い車体のせいなのか、はたまた歪んだレールのせいなのか、左右にグリングリンと激しくローリング、一瞬脱線するかと思いましたよ。そんなスリリングな列車の旅もたった8分でオシマイ、終点の西御坊駅に到着です。この駅もこれまた凄かった・・・。あ、紀州鉄道線のことで夢中になっていた・・・町のことはその2のほうでお話し致しますね。



掘っ立て小屋というのはちょっと失礼か、まあよく分からん造りの無人の駅舎なのです、コレ。折り返し運転を待つキテツ2形、結構新しいように見えますが、昭和60年(1985)製、30年前の車両です。



車止めの先にもレールは続いていますが、前書きにある日高川駅は既に存在しておりません。西御坊-日高川間0.7キロは平成元年(1989)に廃止されてしまいました。



異様に天井の低い待合室、私の背後に通りに面した北向きのメインの出入口があるので、コチラは南口ということでいいのかな?それにしても凄いなこりゃ。



キツキツの南口を抜けますと、正面に痩せ細った下見板張りとサビサビトタンのお宅が待ち受けておりました。



そのお宅の脇を永遠に列車が走らないレールが嘗ての終着駅まで続いています。廃線跡は辿りませんが、とりあえず日高川駅跡を目指します。



南口正面のお宅のロケーション素晴らしい、なんと川に面していたわけ。少し跳ね出した部分のつっかえ棒みたいのが妙に気になる。



今度はちゃんとメインの北口から出て通りを東へ・・・テント地が張られていたと思われるサビサビフレームの先に大門が見えてきました。カーブミラーで一文字隠れておりますが松原通り商店街です。



大門の処を右折すると、退役済みと思われるお店にアイスカクテルの表示。子供の頃、カップのアイスで、ケーキみたいなデコレーションで飾られているのありましたよね。真っ赤な偽物チェリーのゼリーが乗っていたような・・・私にとってはハレの日のアイスでした。アレってコレのことじゃなかったっけ?と思い調べてみたのですが、結局正体不明・・・謎の食べ物だ。近畿地方限定でしょうか。



少し行きますと、突然通りの幅員が大きく拡がります。もしかして!?と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そういった雰囲気は皆無ですのであしからず。でも、戦後すぐの航空写真でも同じ状態であることが確認できるわけ。まあ、謎の通りであることには変わりませんが・・・。



謎の通りに面して古びた赤煉瓦の塀が残っています。案内板には終戦間際の空襲の痕跡が残る塀とあります。案内板の下辺り、三ヶ所ほどの黒い部分がソレだと思われます。太平洋に突き出した紀伊半島沿岸の町は格好の攻撃目標でした。B29による大規模なものというより、空母から飛び立った戦闘機や攻撃機による低空の機銃掃射やロケット弾によってかなりの被害が発生しているのです。



謎の広い通りを抜けると重厚な土蔵造りの町屋がチラホラ現れ始めます。虫籠窓にベンガラっぽい格子・・・ちょっとおかしいと思いませんか。普通、これらって通りに面して設けられるものだと思うのですが、なんでだろう。



しばらく行きますと、西御坊駅から伸びる錆びたレールが合流、その先が旧日高川駅跡です。未だに残る嘗ての終着駅のホームが雑草に埋もれようとしておりました。



適当に路地を選びながら戻ります。とあるお宅の玄関先に凄い葉っぱ、鉢植えの里芋でしょうか。



路地を抜けるとこんな趣のある塀がお出迎え。違い菱風の孔が面白いなあ。



分かりにくいと思いますが、コチラ、ニコイチの長屋風になっているわけ。和風コートハウスだなこりゃ。



同じ通りに面していたお店。画像を開いてから気付いたのですが、扉の上に風俗営業(料理店)の鑑札が残っておりました。



昭和初期に建てられたとされる巽邸さん。所謂洋館付住宅の一種としても宜しいかと。ただ、洋館付住宅というのは洋館部分、大抵この部分は応接間というのが多いのですが、平屋というのが一般的。こういった総二階というのは結構珍しいのではないでしょうか。



近くの立派な塀を構えたお宅、木製門扉の錆びた金具がとてもステキ。そして、何よりも上から飛び出した角刈りみたいな庭木が凄い。以上、恥ずかしがりやのお宅でした。



近くの空地は疎らなコスモス畑と化しておりました。



元禄元年(1688)創業という老舗の味噌と蔵元である堀河屋野村さん。創業当時は廻船問屋だったそうです。白っぽく退色した本瓦と糸屋格子の出格子が美しい店舗兼主屋は江戸後期に建てられたものとされ、国の登録文化財に指定されています。右に行くとさきほどの謎の広い通りです。



同じ並びにあるコチラはお住まいでしょうか。円形の造作に設けられた井桁の格子が面白い。



その先の路地に入りますと、こんな赤煉瓦の塀が現れ驚かされます。巾木に割り肌の石積み、アーチに加えコーナーにもアールが使われています。明治初期のものだそうです。



瓦が乗った天辺のディテール。このデザインが独特、ノコギリ状の装飾積みは結構見られるものですが、その下に特殊な形状の役物を一枚かますことによって陰影の深い表情になっているわけ。



西御坊駅裏を流れていた川に再会、下川というそうです。やっぱり川っぺりの光景はいいなあ。



最初に出てきた大門がある松原通りに戻って参りました。軒を連ねる町屋、手前から三軒目の袖壁に注目です。



写りが悪くて申し訳ない。鷲か鷹か、精緻な鏝絵が残っているわけ。反対側にも同じようなのがあります。一応ガラスでカバーされているのですが、かなり状態が悪いのが気がかりです。



松原通りがぶつかるのが県道176号線、町の目抜き通りの櫃一つかと。左手の軒下にオダレが下がった真っ黒な町屋は界隈で最古のもの、江戸中期に建てられたとされています。向かいの堀河屋又兵衛さんは林業を営んでいたそうです。江戸末期に建てられた主屋と昭和5年(1930)頃建てられた袖蔵とも国の登録文化財です。



江戸中期竣工の町屋・・・脇から見る本瓦葺きの屋根がとっても美しい。東日本ではお寺以外ではまず見られませんからねえ。大事に住まわれているというのがよく分かります。



グルリと回って県道176号線の東を並行している通りに出ました。この東町界隈に古い町屋などが集中しています。まずは寛政9年(1797)創業の岸野酒造本家さん、外壁の漆喰がいい感じに剥げ落ちて、下地の荒壁か中壁が露わになっているお店は大正期に建てられたものになります。



お隣の造りが妙に気になる・・・私は旅館か料理店系に見えたのですが、如何でしょう。



高欄風とまではいきませんが、りゃんこになった手摺子のシンプルさがいいね。あ、りゃんこというのは互い違いとか、位置をずらすという意味ね。欄間上の照明の文字は『真妻屋』と読めるのですが。試しに検索してみたら・・・やっぱり元旅館でした。



角に蔵を構えているのは志賀屋川瀬家さん。建物の詳細は不明ですが、ろうそくの問屋だったそうです。江戸の頃、生ろうそくはこの地域の重要な産物だったとか。



脇の路地の光景、蔵の雨戸には緑青が浮き出ておりました。



お隣の町屋・・・出格子にオダレ、棟の鬼瓦も立派、コチラもかなり歴史があるものだと思われます。



妻壁に謎の記号、新手のモダンアートですな。まあ、補修したのだと思いますけど。軒丸瓦の連続がステキ。軒天の漆喰による波形は、垂木を塗りこめて腐食から守っているわけ、お城などでよく見られるものです。デザインは機能に従うというわけです。



その先にお城の天守のようなお堂が見えてきます。本願寺日高別院の太鼓楼、文政年間に建てられたというのはいいのですが、門が固く閉ざされており境内に入れないわけ。どうやら境内に幼稚園があるからみたい。この日は平日でしたので、休日だったら違う状況なのかも。このお寺が御坊の町の形成に重要な役割を果たしているのですが、そのあたりのことはその2でお話し致します。



さらに進むと見えてくるのが旧華岡医院さん、玄関引違い戸の菱形の桟が目印。華岡と聞いてピンときた方はかなり鋭い、ちょっと誉めちゃう。世界初の全身麻酔手術を成功させた華岡青洲の子孫が開いていた医院です。医者の血って脈々と受け継がれるものなんですねえ。ちなみに青洲は和歌山県紀の川市の出身になります。



向かいにはこんな銅像、青洲のかと思ったら小竹岩楠なる方のでした。日高電灯・日高川水力電気を設立し、白浜温泉の海中源泉を掘り当てた御坊出身の名士だそうです。



その先には材木商を営んでいたという旧中川邸さん・・・って、手元の資料で見たものより綺麗になっているんですけど・・・しかもカフェなんて看板も出ているし、全く知らなかったぞ。ちょうどよかった、お茶したいと思っていたところ・・・ブハッ、また休みですかあ。前回の田辺もそうでしたが、祝日の振り替えだったようで、こういった施設が軒並み休みなわけ、初日からこんなんでは先が思いやられますなあ。



裏の通りに面したファサード、でっぷりとした豊満な土蔵も旧中川邸のもの。主屋のほうは二重に軒が回る豪華な造り、昭和初期に建てられたものとのことでした。

前半は此処まで・・・こんなノンビリとした雰囲気の御坊ですが、後半ではそんな町にも艶っぽい一画があることを証明したいと思います。遊里跡なのかということは、ご覧になった各自で判断してくださいな。個人的には間違いなく何かがあったと思っていますけどね。そして、これには前出の本願寺日高別院が深く関わっているのではと勝手に推察しているわけ。

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