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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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和歌山県 田辺市201510 その1

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実は反対側にも大門が!?・『ぬけられます』の先には・松を象った換気孔

塀の向こうからも雪洞型の街灯がこんにちは。


 今回からしばらくお付き合いいただくのは紀州和歌山シリーズ。遅い遅い夏休みをようやく取ることができまして、まるでどこかの局のアナウンサーみたいですな。ベースキャンプを和歌山市に定め、主に紀北から紀中の町を相変わらずの体でブラブラ彷徨って参りました。

 歴史ある紀州徳川家のお膝元、世界遺産の高野山に熊野古道、そして山海の美味満載といった感じで観光的には魅力いっぱいの和歌山県ですが、これが遊里関係となりますとてんでいけません。あ、これは魅力がないという意味ではありませんよ、情報が少ないという意味ですのでくれぐれもお間違いのないように。そもそも和歌山県にはお上が定めた遊廓が少なかったみたいなのです。昭和14年(1939)の『和歌山県令規類集』に、明治39年(1906)に定められた『娼妓貸座敷免許地域』という項目がありまして、そこには白崎村・大島村・新宮町といった感じでなぜか三ヶ所しか記されていないわけ。ちなみにお馴染『全国遊廓案内』になりますと、新宮町と大島村の二ヶ所に減ってしまうという謎データ、ナニコレ。

 しかしです、毎度の杜撰な下調べによりますと、上記以外の町にもそういった場所が存在したらしいということが次第に判明してくるわけ。ちゃんと名前も付けられている処もあったりして、和歌山市にはそれの名残とされる色街が今も存続しているとか、いないとか。此処はご存知の方も多いかと思います。まあ、そこでえらい目に遭っちゃうんですけどね。話は戻りますが、そうなると上記の三ヶ所以外は何だったのかということになってくるわけです。まさか私娼街というわけではないでしょうし。とりあえず以下のレポを見ていただければ、間違いなく何かがあったということだけは分かっていただけるのではないかと思います。

 初っ端は県の中南部に位置する田辺市、近畿地方でいちばん広い市なんだとか。歴史的には田辺藩約四万石の城下町ということになるでしょうか。しかしこの田辺藩、幕府からは正式な藩として認められていませんでした。なんといってもこの辺りは暴れん坊将軍を輩出した御大紀伊徳川家が治める地、紀州藩の支藩的な扱いだったようです。江戸側に位置していますので、前衛の砦的な軍事上重要な町だったのではないでしょうか。明治維新後、ようやく正式な藩として認められますが、すぐに廃藩置県で廃止になってしまうというちょっと可哀想な藩でもあります。中心街を熊野街道が貫いていましたので、宿場という役割も果たしていたのでしょう。いまひとつ分からないのですが、熊野街道=熊野古道で宜しいのですよね?そして、熊野古道の熊野大社周辺の、石畳の山道部分のみが世界遺産に認定されているということで宜しいのですよね?街道関係って名称が様々だったり、ルートが結構違っていたりして毎回迷うんですけど、どうしてなんでしょう、此処で聞いてどうするといった感じですが。

 そんな田辺市に存在した・・・といいますか、今も存在しているのが田辺新地。数年前までは現役の芸者さんがいらっしゃったようですので、現在進行形とさせていただきました。一応置屋さんがあるようなのですが、現状がよく分からないのが残念ではあります。芸者さんとありますように、遊廓ではなく純粋な花街とするのが正しい一画になります。大正9年(1920)に、町中に散在していた料亭などを現在地に集めて形成されたとされています。分かったのはそれくらい、元遊廓だったという噂もあるようですが、現地を訪れた印象ではそれは違うような気がします。では遊廓は存在しなかったのか・・・いくら調べても分からないわけ。そんな類の一画があってもおかしくないと思うのですがね。田辺以降の町もそうなのですが、ほぼ頭の中の妄想と現地での印象のみで偉そうに語っておりますので、あれでしたらこの前書きはすっ飛ばしてもいっこうに構いませんので。退役済みなのか現役なのか、よく分からない花街を訪ねた後、田辺が生んだ偉人たちゆかりの地を訪れたいと思います。



和歌山市からJR紀勢本線鈍行で二時間ほど、紀伊田辺駅に到着です。この駅舎は昭和6年(1931)に建てられたそうですが、屋根が葺き替えられており、藤城清治の影絵風イラストが個人的にはちょっと残念。



駅前の南西にひろがっているのが『味小路』なる歓楽街。歓楽街とはいっても、そこまで妖しい雰囲気はありません。地方都市らしからず現役のお店も多そうだったのが意外。



唯一妖しかったのが、マミー美容室さんの看板。



えーと、初めてなんですけど・・・。



このイラスト、どこかで見た記憶があるんですけど思い出せない。モデルは故オスカー・ピーターソン?



味小路を抜けるといい感じに眠そうな町並み。一目で気に入っちゃった。



その先に現れたのがニュー青柳さん、今にも反り返そうな痩せ細った羽目板、『ニュー』のフォントがいいなあ。緑に見えますが実際は黄の色ガラス、あまり見かけないサイズの大判タイルが珍しい。



横から見るとこんなペラペラなのです。



田辺飲食業組合員章・・・扉の上にはこんなのが残っておりました。



この蛇腹になっていて上げ下げできる可動式のテント庇大好物なのです。特にフリルのところなんかがね。



近くの路地裏には正体不明の立派な邸宅、角を曲がるとこういうのがいきなり現れるものだから油断できません。



現在は商店街と化している旧熊野街道に出ました。丁字路に地元では道分け石と呼ばれている道標が立っています。大阪方面から来ますと、街道は此処で山側に入り熊野本宮大社を目指す中返路と海沿いを行き新宮を目指す大返路とに分岐しているわけ。交通の要衝だったということですな。



すぐに旧街道から離れ脇道に入りますと、道端にこんな看板が下がっておりました。会津町なる町名は見当たらず、地元の方にだけに通用する名前みたい。幸通りとありますように、嘗ては商店街だったようですが、既に寂れ果てており面影は皆無でした。



グルリと回って再び旧熊野街道に戻って参りました。ふと見ると、ステンレスに包まれた袖壁にポピーが咲き乱れておりました。ちゃんと確認しませんでしたが、絵ではなくてカッティングシートだと思います。



旧熊野街道と交差する県道29号線沿いに建つ、純喫茶オアシスさんがお気に入り。此処、時間があれば寄りたかったなあ。



県道29号線を南下、県道210号線に出る一本手前の通りに入ります。角に両側に円柱を構えた平屋の看板建築があります。『なんば』とありますが、正しくは『なんば焼』、田辺名物の一つで焼き蒲鉾の一種になります。大阪の難波ではなく、元々は南蛮焼だったみたい。



その先にも同じくなんば焼の老舗、慶応元年(1865)創業のたな梅さんがあります。この通りにはなんば焼を扱うお店が数軒並んでおり、地元ではかまぼこ通りと呼ばれています。



県道210号線に面した隅田湯さん、通りが拡幅されているようですので往時の姿ではないと思いますが、盛り上がるように貼られた鉄平石が凄い。裏手が田辺新地ですので、おそらく芸者さんも通ったお風呂屋さんなのでしょう。



少し行きますと、町の西を流れる会津川にぶつかります。すぐ下流は太平洋です。



ちょっと戻って右に入る脇道が田辺新地への入口・・・すぐに現れる謎のちろりん村。その脇、通りの両側に橋の親柱みたいな物体があるの分かるでしょうか。



裏側にはスチールの切文字、上下二文字が欠けているようですが、おそらく『昭和十年三月架○』で間違いないかと、最後の一文字が分かりませんけどね。コレって大門の基礎じゃないでしょうか。あ、拙ブログ的に大門というのは、遊里跡や妖しげな呑ん兵衛横丁などの入口に建つゲートの類も含みますのでくれぐれもお願い致しますぞ。実はこの田辺新地、反対側にも大門がありましたので、コチラ側にあったとしてもおかしくないと思うのですが如何でしょう。



大門跡?を振り返ります。早くも雰囲気のある建物が現れ始めましたよ。



新しいもののようですが、塀には扇を象った虫籠窓風の孔。その先の看板にはモータプール。以前から地図を眺めていて気になっていたのですが、このモータープールって表現、関西周辺だけで見られるものですよね。



その先にあるのが創業100年という割烹のあしべ本店さん。お店のインターネット初期のまんまみたいな(失礼)味わい深いHPに載っている、名物という鯖の棒寿司が滅茶苦茶旨そう。そんなことより、お店の土手っ腹にぽっかりと開いた穴が気になりますよねえ。



その前に手前の煙草の販売カウンターを観察していきましょう。分かりにくいと思いますが、たばこの表示も所謂絵タイルなのです。時折見かけるものですが、当時はこういう既製品があったのだと思います。



やはり穴の正体は『ぬけられます』状のトンネルでした。抜けた先には看板が見えるではありませんか。



此処入っちゃって大丈夫なの?といった感じでおそるおそる足を進めますと、こんな奥まった処にも割烹があったというわけ。やす多さん、一応ネットでもヒットしますので現役だと思います。



振り返って『ぬけられます』部分を望みます。こんな路地を芸者さんが行き来していたのでしょうか、絵になっただろうなあ。以上、隠れ家みたいなお店でした。



通りに戻ってあしべ本店さんのとっても賑やかなエントランス廻り。



二階には円形の造作、ガラスの向こうには六芒星っぽい装飾があるのが見て取れます。界隈には、田辺新地と記された雪洞型の街灯が点在しており、雰囲気を盛り上げるのに一役買っています。コレ、今も明りが灯るのでしょうか。



その先を左折しますと、それぞれに玄関がある長屋風の物件、一部がバルコニー付のビルみたいになっているのが面白い。しかし、タイルの感じからしてそれほど歴史があるものではないような気がします。元置屋さんではないかと。



ちょっと行くとこんな一画に出ます。此処に建っていたというのがもう一つの大門、しかし残念ながら二年前に火災で焼けてしまいました。往時の姿をコチラで見ることができます。



未だに残る火災の傷跡です。



近くにも玄関が並ぶ長屋風の建物、やっぱり料亭系というよりは置屋さんっぽいですよね。



端っこには銘木を使った袖壁が残っておりました。



あしべ本店さんが面する通りの向こう側の路地で見つけたお宅、まるで襖みたいな引き違い戸、引き手が片塵落しそのもので使いづらそう。奥の欄間には組子も見えますね。



焼けた大門の南側の通り、此処にも雪洞型の街灯が続いておりました。奥の建物の軒下照明には・・・



初の家とあります。その下には風俗営業(料理屋)の鑑札が残っておりました。

以上が田辺新地の現在、あしべ本店さんのような現役のお店もありますが、花街として現役なのかと問われると、なんとも微妙な状態であるように見えました。あの雪洞型の街灯が現役ならば、夜にもう一度訪れてみたいですね。前半は此処まで、後半は散在する近代建築などを鑑賞しながら、面白そうな場所を探したいと思います。

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