本当に見つかっちゃった・・・ちょっと感動・・・。
『鶴岡遊廓は山形県東田川郡鶴岡市にあつて、鉄道ならば羽越線鶴岡駅で下車する。従来迄此の町には鉄道がなく、大鳥川を利用して通交して居たのであるが、最近羽越線が敷かれてから著しく発展した町である。目下遊廓の貸座敷数は六軒娼妓約三十人位居る』
お馴染『全国遊廓案内』によるこれから訪れる遊廓の紹介でした。これだけじゃ何処にあったのか全く分かりませんよね、相変わらずの不親切ぶり、どうにかしてくれよ・・・と80年前の書物に文句言っても始まりませんので↓の地図をご覧下さい。
コレ、大正15年(1926)に出版されたものになります。地図の右上から斜めに延びているのが、その1のレポで最後に紹介した鶴岡ホテルがある通りになります。南下していくとぶつかる通りを右折、この辺りが遊廓の入口だったみたいですね。幅員がちょっぴり拡がっているのがお分かりになりますでしょうか。現在は本町2丁目の一部になっておりますが、当時は七日町と呼ばれていました。遊廓と表示があるのですが、分かりにくいので赤丸を付けさせていただきました。おそらくこの通り沿いに貸座敷が並んでいたのだと思います。地図には旅館やその他の業種のお店も記されていますので、一廓を成していたのではないということになりますね。
注目していただきたいのがその下・・・青丸の部分です。なんと『遊廓移転敷地』と記されているのです。まあ、遊廓が移転するというのは別に珍しいことではありませんが、此処の場合はその時期が特殊だと思うわけです。『全国遊廓案内』が出版されたのは昭和5年(1930)、上の地図は大正15年です。そこから推定すると、『全国遊廓案内』に書かれているのは七日町にあった遊廓、その後に移転したと思われます。昭和になってから移転って結構珍しいですよね。どういった理由からなのでしょうね・・・。いやいや、まてよ・・・まだ移転したと判明したわけではないぞと現在の地図を眺めてみますと・・・オオッ、あった、ありました。↑の地図の場所からはちょこっとずれておりますが、もっと西側の内川の畔、明らかに周囲から浮いている街区を発見です。南北に長い長方形、嘗てのメインストリートと思われる通りもはっきりと確認できます。とりあえず旧七日町を訪ねてからこの移転先?にも行ってみることに致しましょう。
その1からの続き・・・鶴岡ホテル前の通りを真っ直ぐ南へ・・・やがてこの通りにぶつかります。目印は豚丼のぶーちゃん、ここを右折します。地元では七日町通りと呼ばれているようです。
しばらく行くと見えてくるのがコレ・・・こりゃすごい!!割烹の三浦屋さんです。破風に円窓に欄間に下地窓・・・折り重なるようにして迫る和の造作をご堪能ください。
玄関の破風には見事な鶴の懸魚、暖簾もすごいですなあ。ただ、現役ではなさそうなのが残念です。
お城みたいにも見えますよね。実はコチラ、先日こんなことをやっていたそうです。内部見たかったなあ。記事によりますと、竣工が昭和13年(1938)とのことですので、遊廓が移転した後に建てられたとするとしっくりくるわけです。
通りを挟んだ向かいにある薬局がちょっと気になる造りなのです。
虫籠窓風の格子に二階の出窓・・・ウーム、単なる商家には見えないのですが・・・。
裏通りにあった小さなお店、たぶんサンヨーの特約店だったと思うのですが・・・
看板はそのままに飲み屋さんになっちゃったみたい。今やサノですけどね(笑)
飲み屋さんが居並ぶ長屋風建築、全て空き店舗でした。抜けると七日町通りに戻るのですが、移転した遊廓跡へはこの通りを更に南へ・・・。
近くの龍蔵寺で見つけた鶴の彫り物です。
こんな通りをあと1キロほど・・・国交省の航空写真で確認してみたところ、この辺り、60年代までは一面の田んぼだったようです。
やがて二車線の通りにぶつかります。此処を右折、双葉町に入りました。あ、前方に何か見えてきた・・・。
本当に残っていた・・・。まあ、遊廓特有の区画が確認できればめっけものだと思っておりましたので、これはまさに不意打ち。暫し呆然ですわ。
かなりの大店だと思います。二階の連続する窓が壮観ですなあ。
お売りします・・・試しに不動産屋さんのHPを調べてみましたら、売り地ということで掲載されておりました。建物は使用に耐えないという判断なのでしょう。もしかすると、前歴も含めてということなのかもしれませんね。土地230坪ほど家屋込みで2,000万だそうです。東京では考えられないお値打ち物件、どこかのお金持ちさん是非ともお願い致しますぞ。そして、見学させてください(笑)
嘗てのメインストリート、ちゃんと桜並木が残っているのに驚かされます。これを見て、此処で間違いないと確信致しました。
遊廓跡南東の角にあるのが宗吾神社。右隅の石碑に注目、『金野小冶君功労碑』とあります。何々・・・難しくて途中で解読諦めてしまった・・・判明した範囲になりますが、どうやらこの金野さん、遊廓移転に関わった方みたいです。県令で双葉町に移転が決まったのが大正13年とのこと、それから10年にわたって金野さんは尽力されたそうです。大正13年・・・前出の地図は大正15年、史実的には合致するわけです。問題は『全国遊廓案内』、あれはどっちの遊廓のことを書いたものなのでしょう。
神社近くで見つけた絶品のサビサビトタン物件、遺構かどうかは微妙な感じ。
その先の焼き杉の下見板張り物件も同じ、明らかに遊廓が現役だった頃には存在していたはずなのですが・・・果たして・・・。
『お売りします』の向かい・・・こちらも立派ですよ。見越しの松が見事すぎて全景が分かりません。天辺に飾られているのは注連縄?何かのお守りみたいですね。
外壁を塗り替え屋根も葺き替えているようです。大切にされているようですね。
この塀、いいですよねえ。
こう見ると、こちらもかなりの大店だったというのが分かるかと思います。現在は更地になっていますが、地図にはお隣にアパートの表記が・・・規模的もおそらくそうだったのではないかと思うのですが、ちょっと遅かったみたい・・・。
その1で紹介した鶴岡ホテル近くに戻って参りました。県道47号線で内川を渡って鶴岡城址方面に向かいます。左に見える蔦に飲み込まれようとしているのは、閉館してしまった映画館です。
廃城になってしまった鶴岡城に天守閣は残っておりません。現在は公園として整備されています。内堀の畔に赤い屋根が目を引く洋館があります。
大正天皇即位を記念して大正4年(1915)に建てられた大宝館。以前は市立図書館として使われていましたが、現在は郷土資料館的な展示施設になっているようです。外壁の塗り替えが済んだばかりのようです。
城址近くにも赤い屋根があります。こちらはとんがり帽子ですけどね。美しい白亜の教会、国の重文の鶴岡カトリック教会天主堂、明治36年(1906)に建てられました。コチラを設計したのが、明治期の教会建築の多くを手掛けたパピノ神父です。ロマネスク様式の美しい外観ですが、是非ともご覧になっていただきたいのは内部・・・。
どうです、素晴しいでしょう。優美なアーチを描く高いリブヴォールト天井が美しいですなあ。この教会の造りをバジリカ型三廊式と呼ぶそうです。さすが重文、日本を代表する教会建築と言えるのではないでしょうか。パイプ椅子がちょっと残念ですけどね(笑)
祭壇の左側にチラと写っているのが、世界的にも珍しいとされている黒いマリア像。帰ってから知った事実ですので画像はありません。でも、なんで黒だと珍しいの???
立派な寺社仏閣もそうですが、こういった処って私のような煩悩の塊みたいな人間にとっては居心地が悪くて仕方がないわけ(笑)
歩行距離は13キロか、結構歩きましたね。まだ幾つか見ておきたい建物があったのですが、昨日のこともありますのでここまでとさせてください。何よりも建物としての遺構が見られたというのは収穫でした。それでは今日の宿泊地である酒田に向かうと致しましょう。以上、鶴岡の探索でした。