遊廓跡近くのガラス玉・往時を伝える巨大料亭・日本一の大地主のお宅
市内随一のナイトスポット、新旧が向かい合っているわけ。
東北遊里跡巡礼の旅4日目、古くから日本海有数の商港として栄えてきた酒田市から始めさせていただきます。最上川河口にひろがる酒田港は、江戸時代に蝦夷から大阪に向かう西回り航路(北前船)が開拓されると一気に賑わうことになります。加えて最上川の舟運もありましたから物資の集散地としての隆盛はかなりのものだったようです。それらの商いで富を成した大商人に数多く現れるのですが、彼ら有力商人が結成したのが三十六人衆です。所謂自治組織で、お侍なんかより力があったとされています。中でも有名なのが本間家、日本一の大地主と呼ばれたとんでもない豪商であります。一時期には3,000町の土地に2,500人の小作人を有していたとか・・・。そう言われても私のような庶民には何のことやら全く想像できない世界ですよね。それだけの町ですのでかなりの町並みが・・・って期待しちゃうのですが、この酒田、残念なことに明治27年(1894)に発生した庄内地震と昭和51年(1976)の酒田大火のせいでほとんど残っていないのです・・・。
『酒田町遊廓は山形県飽海郡酒田町字新町に在つて、羽越線酒田駅で下車すれば西へ数丁、乗合自動車は新町で下車する。酒田港は和船万能時代には有名な港だった。庄内平野は勿論、遠くは米沢置賜方面の産物を最上川の水運に依つて一手に引受けて、一大荷物の集散地であつた。今は玆が起点と成つて鉄道が四方に敷かれたので昔程では無く成つたが、依然として交通上の要路である事を失はない。有名な大地主本間氏の根拠地で、別邸の庭園等は可成豪壮を極めたものである。「本間様には及びも無いが、せめて成り度や殿様に」と云ふ里謡がある程だ。遊廓も昔から殷賑して、今町、船場町、高野濱の三ヶ所に在つたものであるが、明治二十七年の大震災後に三ヶ所全部合併して今日に至つたものである。現在貸座敷が三十一軒あつて娼妓は約百人居るが、秋田県及山形県の女が多い・・・娼楼は小川屋、門真楼、福田楼、常磐家、藤美屋、緑屋、越後谷、群芳楼、櫻屋、吾妻家、松村屋、本五楼、柿崎屋、吉田屋、出島屋、西村屋、明園楼、藤屋、下総屋、喜楽亭、海望楼・・・おばこ節の本場・・・』
以上は『全国遊廓案内』による酒田の紹介になります。この町を訪れるのは実に7年振り、思い返してみますと、前回はこの遊廓跡の一歩手前まで行っているのです。相変わらずのもってなさ・・・頭を抱えたくなりますな。まあ、当時はこういったものにあまり興味はなかったから・・・と言い訳をしつつ自分を慰めておきますよ。案内文には駅から西へ数丁とありますが、実際はもっともっと距離があります。今回は長旅なので仕方ないのですが、スーツケースを転がしながらヘイコラ一時間・・・夕刻に遊廓跡近くの若浦屋旅館さんに到着。食事は美味しいしお風呂はデカイし・・・それよりも何よりも洗濯ができたのが嬉しい(笑)酔い覚ましに外に出たのですが見事なまでに真っ暗、人影も皆無・・・遊廓跡も真っ暗・・・ライトアップぐらいしているだろうと山居倉庫まで歩いたのですがこれまた真っ暗・・・ならば有名な立ち飲み屋と思ったのですが、真っ暗で分からない・・・そんなこんなで酒田の夜はふけていくのでした。なんなのコレ!?
註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
今日も暑くなりそうなのでちょっとズル、旅館のチャリをお借りすることに。近くにあるのが謎の四層洋館。前回、此処までは来たのです。裏手のお宅の角を曲がると遊廓跡だったなんて全く知らなかったわけ。ちなみに右の急坂を登っていくと日和山公園です。
よかった、入口脇に嵌め込まれた紫のガラス玉は無事でした。綺麗ですねえ。
向かいにあるのが割烹よしのやさん、ランチは結構お手軽みたいです。
角を曲がると遊廓があったとされる通りです。謎の洋館があるお宅の塀、何かいわく有り気なんだよなあ・・・。
遊廓といっても此処の場合、独特な町割りみたいなものは見られません。一見するといたって普通の住宅街のようにも見えますが、通りの中ほどに数軒の旅館が並んでいます。そのうちの一軒、松美屋さんの屋根の破風に注目です。
鏝絵で海望楼・・・『全国遊廓案内』にも載っているお店です。たぶん転業されたんだと思います。実は最初は此処に泊ろうと思っていたのですが、なぜか電話が繋がらなかった・・・。
脇道で見つけたお宅、腰というか巾木に美しいタイルが使われておりました。
脇道を抜けると日和山ホテル、見た目は完全に旅館(笑)スダレのせいで造りがよく分からん。遊廓跡は以上、残念ながら遺構の類はほとんど残っていないみたいです。
日和山公園の東側で見つけた粋な塀に洋風の門、只者ではない雰囲気がプンプン。恐る恐る覗き込んでみますと・・・
夏草が生い茂るお化け屋敷でした。洋館付住宅の一種だと思います。
奥の高台にあるのが海運寺、麓の参道沿いは寂れた歓楽街、前回と全く変わっていないことに驚かされます。
お気に入りの飲み屋建築、これも以前のまま・・・。
時が止まっている一画です。
近くに異様を誇る和風建築があります。山王くらぶ・・・嘗ては酒田を代表する料亭でしたが平成11年(1999)に休業、平成17年(2005)に市へ寄贈されます。その後改修され、華やかだった料亭文化を伝える施設として平成20年(2008)にオープンしました。精緻な格子にスリガラスの欄間、釣鐘形と円形の造作、扇形の窓、賑やかな外観ですね。国の登録文化財です。
まだ開館時間ではなかったのですが、指を咥えて眺めている私の哀れな姿を不憫に思ったのか、綺麗なお姉さんが入れてくださいました。
あ、そうそう忘れていた。向かいにあるのが冒頭画像の白ばらさん、なんとコチラ、東北地方唯一の現役グランドキャバレーなんですって。寂れた真っ暗な歓楽街、此処だけに煌々と明かりが灯っておりました。
山王くらぶの内部・・・床の間の掛け軸にあるとおり夢二の間と呼ばれています。実際、竹久夢二は三度も酒田を訪れており、山王くらぶを常宿としていたそうです。で、毎回泊っていたのがこの部屋になります。
これはオリジナルなのでしょうか、まるで和風パーティションみたいな踏込の入口ですね。洋風に無理矢理和風を押し込んだみたい、面白いなあ。
入ると天井は高いけど薄暗い座敷。何となく正体が分かったでしょ???
こんな一室で和服が似合う妙齢の女性としっぽりしたいものですなあ(爆)
地袋に施されていた螺鈿細工です。
はい、この分厚い漆喰塗りの扉で分かりましたね。こちらは蔵座敷なのでした。
広縁の障子のデザイン、これいいなあ。書院の組子も見事です。
円窓がある階段を登って二階へ・・・
二階には大広間が二つ、片方には所狭しと酒田特有の縁起物である傘福が飾られています。
飾り物それぞれに意味があるみたいです。でもこの傘福、いわれがはっきりしていないんだとか・・・。
もう一つの大広間は人形作家辻村寿三郎の展示室になっており撮影禁止でした。そりゃもう見事なものでしたが、なんでジュサブローなの???酒田と何か縁でもあるのでしょうか。
あ、これも残ってた・・・どうしても★の配置が気になってしまう(笑)
前半はここまで、山王くらぶを紹介してしまいましたが、酒田の花柳界についてはその2のほうでお話したいと思います。
市内随一のナイトスポット、新旧が向かい合っているわけ。
東北遊里跡巡礼の旅4日目、古くから日本海有数の商港として栄えてきた酒田市から始めさせていただきます。最上川河口にひろがる酒田港は、江戸時代に蝦夷から大阪に向かう西回り航路(北前船)が開拓されると一気に賑わうことになります。加えて最上川の舟運もありましたから物資の集散地としての隆盛はかなりのものだったようです。それらの商いで富を成した大商人に数多く現れるのですが、彼ら有力商人が結成したのが三十六人衆です。所謂自治組織で、お侍なんかより力があったとされています。中でも有名なのが本間家、日本一の大地主と呼ばれたとんでもない豪商であります。一時期には3,000町の土地に2,500人の小作人を有していたとか・・・。そう言われても私のような庶民には何のことやら全く想像できない世界ですよね。それだけの町ですのでかなりの町並みが・・・って期待しちゃうのですが、この酒田、残念なことに明治27年(1894)に発生した庄内地震と昭和51年(1976)の酒田大火のせいでほとんど残っていないのです・・・。
『酒田町遊廓は山形県飽海郡酒田町字新町に在つて、羽越線酒田駅で下車すれば西へ数丁、乗合自動車は新町で下車する。酒田港は和船万能時代には有名な港だった。庄内平野は勿論、遠くは米沢置賜方面の産物を最上川の水運に依つて一手に引受けて、一大荷物の集散地であつた。今は玆が起点と成つて鉄道が四方に敷かれたので昔程では無く成つたが、依然として交通上の要路である事を失はない。有名な大地主本間氏の根拠地で、別邸の庭園等は可成豪壮を極めたものである。「本間様には及びも無いが、せめて成り度や殿様に」と云ふ里謡がある程だ。遊廓も昔から殷賑して、今町、船場町、高野濱の三ヶ所に在つたものであるが、明治二十七年の大震災後に三ヶ所全部合併して今日に至つたものである。現在貸座敷が三十一軒あつて娼妓は約百人居るが、秋田県及山形県の女が多い・・・娼楼は小川屋、門真楼、福田楼、常磐家、藤美屋、緑屋、越後谷、群芳楼、櫻屋、吾妻家、松村屋、本五楼、柿崎屋、吉田屋、出島屋、西村屋、明園楼、藤屋、下総屋、喜楽亭、海望楼・・・おばこ節の本場・・・』
以上は『全国遊廓案内』による酒田の紹介になります。この町を訪れるのは実に7年振り、思い返してみますと、前回はこの遊廓跡の一歩手前まで行っているのです。相変わらずのもってなさ・・・頭を抱えたくなりますな。まあ、当時はこういったものにあまり興味はなかったから・・・と言い訳をしつつ自分を慰めておきますよ。案内文には駅から西へ数丁とありますが、実際はもっともっと距離があります。今回は長旅なので仕方ないのですが、スーツケースを転がしながらヘイコラ一時間・・・夕刻に遊廓跡近くの若浦屋旅館さんに到着。食事は美味しいしお風呂はデカイし・・・それよりも何よりも洗濯ができたのが嬉しい(笑)酔い覚ましに外に出たのですが見事なまでに真っ暗、人影も皆無・・・遊廓跡も真っ暗・・・ライトアップぐらいしているだろうと山居倉庫まで歩いたのですがこれまた真っ暗・・・ならば有名な立ち飲み屋と思ったのですが、真っ暗で分からない・・・そんなこんなで酒田の夜はふけていくのでした。なんなのコレ!?
註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
今日も暑くなりそうなのでちょっとズル、旅館のチャリをお借りすることに。近くにあるのが謎の四層洋館。前回、此処までは来たのです。裏手のお宅の角を曲がると遊廓跡だったなんて全く知らなかったわけ。ちなみに右の急坂を登っていくと日和山公園です。
よかった、入口脇に嵌め込まれた紫のガラス玉は無事でした。綺麗ですねえ。
向かいにあるのが割烹よしのやさん、ランチは結構お手軽みたいです。
角を曲がると遊廓があったとされる通りです。謎の洋館があるお宅の塀、何かいわく有り気なんだよなあ・・・。
遊廓といっても此処の場合、独特な町割りみたいなものは見られません。一見するといたって普通の住宅街のようにも見えますが、通りの中ほどに数軒の旅館が並んでいます。そのうちの一軒、松美屋さんの屋根の破風に注目です。
鏝絵で海望楼・・・『全国遊廓案内』にも載っているお店です。たぶん転業されたんだと思います。実は最初は此処に泊ろうと思っていたのですが、なぜか電話が繋がらなかった・・・。
脇道で見つけたお宅、腰というか巾木に美しいタイルが使われておりました。
脇道を抜けると日和山ホテル、見た目は完全に旅館(笑)スダレのせいで造りがよく分からん。遊廓跡は以上、残念ながら遺構の類はほとんど残っていないみたいです。
日和山公園の東側で見つけた粋な塀に洋風の門、只者ではない雰囲気がプンプン。恐る恐る覗き込んでみますと・・・
夏草が生い茂るお化け屋敷でした。洋館付住宅の一種だと思います。
奥の高台にあるのが海運寺、麓の参道沿いは寂れた歓楽街、前回と全く変わっていないことに驚かされます。
お気に入りの飲み屋建築、これも以前のまま・・・。
時が止まっている一画です。
近くに異様を誇る和風建築があります。山王くらぶ・・・嘗ては酒田を代表する料亭でしたが平成11年(1999)に休業、平成17年(2005)に市へ寄贈されます。その後改修され、華やかだった料亭文化を伝える施設として平成20年(2008)にオープンしました。精緻な格子にスリガラスの欄間、釣鐘形と円形の造作、扇形の窓、賑やかな外観ですね。国の登録文化財です。
まだ開館時間ではなかったのですが、指を咥えて眺めている私の哀れな姿を不憫に思ったのか、綺麗なお姉さんが入れてくださいました。
あ、そうそう忘れていた。向かいにあるのが冒頭画像の白ばらさん、なんとコチラ、東北地方唯一の現役グランドキャバレーなんですって。寂れた真っ暗な歓楽街、此処だけに煌々と明かりが灯っておりました。
山王くらぶの内部・・・床の間の掛け軸にあるとおり夢二の間と呼ばれています。実際、竹久夢二は三度も酒田を訪れており、山王くらぶを常宿としていたそうです。で、毎回泊っていたのがこの部屋になります。
これはオリジナルなのでしょうか、まるで和風パーティションみたいな踏込の入口ですね。洋風に無理矢理和風を押し込んだみたい、面白いなあ。
入ると天井は高いけど薄暗い座敷。何となく正体が分かったでしょ???
こんな一室で和服が似合う妙齢の女性としっぽりしたいものですなあ(爆)
地袋に施されていた螺鈿細工です。
はい、この分厚い漆喰塗りの扉で分かりましたね。こちらは蔵座敷なのでした。
広縁の障子のデザイン、これいいなあ。書院の組子も見事です。
円窓がある階段を登って二階へ・・・
二階には大広間が二つ、片方には所狭しと酒田特有の縁起物である傘福が飾られています。
飾り物それぞれに意味があるみたいです。でもこの傘福、いわれがはっきりしていないんだとか・・・。
もう一つの大広間は人形作家辻村寿三郎の展示室になっており撮影禁止でした。そりゃもう見事なものでしたが、なんでジュサブローなの???酒田と何か縁でもあるのでしょうか。
あ、これも残ってた・・・どうしても★の配置が気になってしまう(笑)
前半はここまで、山王くらぶを紹介してしまいましたが、酒田の花柳界についてはその2のほうでお話したいと思います。