華麗な変身を遂げた名旅館・墓地に面した下地窓・路地裏のトンガリ屋根
フラフラと迷い込んだ路地裏にて。
前回の湯沢市と境界を接しているのが横手市です。この町も湯沢と同じく佐竹氏が治めた城下町になります。市内を大きく蛇行しながら流れる横手川、その向こう岸に築かれた横手城(朝倉城)の麓に町が整備されました。しかし、戊辰戦争で町の大半が焼失、現在の町並みのほとんどは明治以降のものみたいです。今回は時間の関係で訪れることができませんでしたが、羽黒町と上内町には武家屋敷の名残とされる黒板塀が続く通りが見られます。また、内陸の豪雪地ある横手で有名なのが『かまくら』、その歴史は古くおよそ400年前にまで遡るそうです。
『秋田県遊里史』によりますと、平賀郡の中心地であった横手の遊里は、明治後期にはその基盤みたいなものが出来上がっていたようです。明治40年(1907)の『横手案内』には9軒の芸妓屋、8軒の料理屋があったと記されているそうです。その明治40年に遊廓がある馬口労町から出火した火事が大火になり移転問題が起きます。移転先と噂された馬場崎町では地元民の猛烈な反対運動発生し、結局はうやむやになってしまったようです。昭和4年(1929)頃から市内にはカフェーが続々と出現し、時代の変化を告げることになります。そして、昭和8年(1932)6月30日、横手遊廓の業者は廃業届けを提出し、料理屋などに転業してしまうのでした。先日の由利本荘の遊廓が消え失せたのも昭和8年・・・ウッカリしていたのですが、実はこの年公布されたのが『秋田県公娼廃止の決議』、これは群馬県、埼玉県に次ぐ早さなのです。しかしこの遊廓、戦後になるとちゃっかり赤線として復活しているあたりはさすが(笑)遊里の様子や規模については、以下の文献をご覧になっていただくとして、現在の四日町・大町が花街、中央町(旧馬口労町)が遊廓として宜しいかと思います。文献は上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』、『よるの女性街 全国案内版』になります。
『横手町遊廓 秋田県平鹿郡横手町字馬口労町に在つて奥羽本線横手駅で下車すれば東へ約五丁、乗合自動車の便もある。横手町は元戸村氏の旧城下で、城跡は今公園に成つて居る。町の中央には横手川が流れて居て、蛇の崎橋では毎年御盆に花火を揚げる行事がある。田中町の天平寺には本多上野介父子の墓がある。此処の宿場が遊廓に成つたのは明治十五年で、現在貸座敷が八軒あつて娼妓は三十人居るが県下の女が多い・・・妓楼には、千歳、櫻家、恵比寿屋、岩秋家、旭家、明澤屋、新文字屋、大黒家等がある・・・』
『横手の花街 停車場から東北約七町、「柳町」「四日町」の両街が即ちそれで並行的に隣り合ひ・・・二十一軒の芸妓屋が軒燈をつらねて花街らしい趣きを見せ、そこに七十余名の芸妓が居る・・・名物芸妓として、「蛇芸妓」で知られてる月の家の哲子を推さう、生来非常な蛇好きで、若い頃には蛇を懐中へ入れてお座敷へまかり出たなど致気の弱いお客を驚ろかせたものだった・・・阿櫻情調 阿櫻とは旧城名「朝倉」をもじつたもので横手花街の雅称であるが、阿櫻芸妓はすべて横手町を中心として育つたものばかり、他国からの移入品がないので、その容貌にも気質にも自から一種のローカル・カラアがある。田舎のこと故多少気の利かぬといふ欠点があつても、余り人ずれのしてない点、金のために不見轉をやらぬことなども手伝つて、どこか純真な心意気のほの見えるのがうれしい・・・馬喰町遊廓 柳町の南につづいた一廓で、千歳楼、大黒屋、櫻屋、恵比寿屋といふ四軒の妓楼があつて、二十五名の娼妓が居る。右の外尚ほ四軒あつたのだが廃業してしまひ、最近はなはだ不振の状態にある、遊廓としての歴史は相当古いのであるが、今日は最早特別の情調は認められぬ』
『花柳界は柳町、四日町一帯で置屋一八軒、芸妓五九名。割に荒らされていない花柳界だけに、しんねこで遊ぶのにはもつてこい。いい旅館に入る。赤線は、柳町の南に続いた馬口労町。旧女郎部屋千歳、大黒など四軒を取巻き一〇軒ほど三五名』
『蛇芸妓』には笑ってしまいました。宴の余興として、口から入れて鼻から出しちゃったりして・・・これじゃ見世物小屋ですな(笑)湯沢のロシア人、ドイツ人もそうですが、この地域の遊里にはユニークな女性が多かったのでしょうか。この横手、今回の旅の中で最も滞在時間が短くなっております。しかも昼食込み・・・まあ、食べるのはアレしかないのですがね。
時間が限られておりますので、ピンポイントで攻めますよ。その前に昼食・・・途中にあった石蔵を改修したかのような面白い造りの建物。ジックリ観察できないのがもどかしい。
四つ辻に建つのが、横手やきそば館ゆうさん。コチラ、昭和初期に建てられた看板建築を使っているそうです。隅に円形柱、二階にはアーチ窓が並んでいるそうなのですが、半ばモジャハウス状態でよく分からない・・・。
コチラ、B級グルメ界の重鎮みたいな存在ですよね。半熟の黄身だけを崩して、麺を潜らせて食べるのが正式な作法みたいですぞ。確かに旨いですけど、これだけ有名なってしまうと最早B級じゃないよなあ。
重鎮をかき込んで外に出ると、70年代風のレトロフューチャーなビル。カッコイイなあ。
荒物屋的な佐藤儀右エ門商店さん、明治中期に建てられたものとのこと。見世蔵って秋田県では結構珍しいそうです。
その先の通りが嘗ての羽州街道になります。爽やかな水色の下見板張りの洋館は、天昌堂高橋内科医院さん。手元の資料では詳細は不明でした。
こちらも詳細不明の出羽印刷さん。洋風手摺のバルコニーがオシャレな看板建築です。現役というのが嬉しいですね。
その先にド派手な洋館が現れます。大正15年(1926)に建てられた旧平源旅館さん。明治6年(1873)創業、数々の著名人や皇族などが宿泊した名旅館です。
明るいクリーム色のタイル、レリーフに柱型、そして縁起物の雷紋、何でもござれといった感じの建物ですね。脇の土蔵と合わせて国の登録文化財に指定されています。
平成20年(2008)に残念ながら閉館してしまうのですが、その後改修され昨年結婚式場として蘇りました。土蔵はチャペルになっているそうです。数奇な運命を歩んだ建物なのです。出窓がステキだなあ。
この界隈が花街の中心ではなかったかと・・・おそらく嘗ては芸者さんも出入りしていたのだと思います。
欄間に松葉の造作が残る元床屋さん。掲示板には国鉄労働組合・・・時代を感じさせます。
その先、脇を流れる横手川が大きく蛇行するのに合わせて通りもカーブしているのですが、そこに面したお宅が面白い造りなのです。
ちゃんと通りの曲線に合わせて建てられているわけ。なんだかカワイイ(笑)
またまた詳細不明の伊藤歯科医院さん。寄棟屋根にドイツ壁風の外壁の洋館です。昭和初期ぐらいの建物だと思います。
はす向かいにあるのが齋太薬局さん。所謂洋館付住宅の店舗版ということになりますかね。店舗になっている和の部分は明治30年(1897)、応接室などがある洋の部分は昭和初期に増築されました。国の登録文化財です。
洋の部分、円形のペディメントには、美しいスミレ色の花を模した照明が下っています。コチラ、現在は使われていないようですが、隣に新しいお店があります。
遊廓があったとされる旧馬口労町に向かう途中、妙な建物がチラリ・・・。しかし、そこになかなか辿り着けない・・・やっと全景が見える場所に行けたのですが、それはなんと墓地・・・。
何でしょう、このデカイ下地窓は・・・。それよりも外壁の平葺きトタンの質感が素晴しい。この黒、たぶん亜鉛めっき鋼板の酸化皮膜、いい色ですねえ。
この建物、表に回ってみると至って普通のお宅に見えるのですが・・・何だったのでしょうね。
市役所前にある旧馬口労町への入口。そんなに客引きが出るの???
嘗ての色街の現在、飲み屋が延々と続く歓楽街になっております。かといって、如何わしい感じはしませんね。
そもそも地図を眺めてみても、遊廓特有の町割りみたいな場所が見当たらないのです。
なかなかいい雰囲気だと思うのですが、ゆっくりしていられないのが残念です。
いつしかこんな路地裏に迷い込んでおりました。赤の色ガラスの扉、申し訳程度に貼られた鉄平石が面白い。
突然現れたエキセントリックなお店に呆然・・・何、このトンガリ具合(笑)
何寸勾配なんだ、この屋根・・・。これがカフェーの名残・・・じゃないよなあ。いやー、飲み屋さんのデザインの自由奔放さには毎回驚かされます。
とはいえ、現役のお店は少ないようですな。
路地が分岐、その先にはしもた屋風の建物が・・・ウーム、なんとも判断が難しい・・・。
路地を抜けると美しい窓がある建物に出くわしました。しかし、直されすぎていて、これまた前世が判断不能。それにしても『妖』ですか・・・一見さんにはハードル高すぎるでしょ。
ちょっと崩し気味で松を模しております。格子に竹が使われているのですが、折れているように見えるのは当初からのデザインみたい。その向こうには、精緻な組子のガラス障子があるようです。
残念ですがここで時間切れ。ジックリ歩けばもっと発見がありそうな遊廓跡でした。まあ、それなりに楽しめましたよ、ダンケダンケ。
滞在時間二時間半ほど、遺構らしき物件は発見に至らなかった横手の探索でした。次回は角館、七年ぶりの再会です。以前少しお話しましたが、七年前、唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったと後から知り絶句した町なんですよね。さて、どうなりますことやら・・・。
フラフラと迷い込んだ路地裏にて。
前回の湯沢市と境界を接しているのが横手市です。この町も湯沢と同じく佐竹氏が治めた城下町になります。市内を大きく蛇行しながら流れる横手川、その向こう岸に築かれた横手城(朝倉城)の麓に町が整備されました。しかし、戊辰戦争で町の大半が焼失、現在の町並みのほとんどは明治以降のものみたいです。今回は時間の関係で訪れることができませんでしたが、羽黒町と上内町には武家屋敷の名残とされる黒板塀が続く通りが見られます。また、内陸の豪雪地ある横手で有名なのが『かまくら』、その歴史は古くおよそ400年前にまで遡るそうです。
『秋田県遊里史』によりますと、平賀郡の中心地であった横手の遊里は、明治後期にはその基盤みたいなものが出来上がっていたようです。明治40年(1907)の『横手案内』には9軒の芸妓屋、8軒の料理屋があったと記されているそうです。その明治40年に遊廓がある馬口労町から出火した火事が大火になり移転問題が起きます。移転先と噂された馬場崎町では地元民の猛烈な反対運動発生し、結局はうやむやになってしまったようです。昭和4年(1929)頃から市内にはカフェーが続々と出現し、時代の変化を告げることになります。そして、昭和8年(1932)6月30日、横手遊廓の業者は廃業届けを提出し、料理屋などに転業してしまうのでした。先日の由利本荘の遊廓が消え失せたのも昭和8年・・・ウッカリしていたのですが、実はこの年公布されたのが『秋田県公娼廃止の決議』、これは群馬県、埼玉県に次ぐ早さなのです。しかしこの遊廓、戦後になるとちゃっかり赤線として復活しているあたりはさすが(笑)遊里の様子や規模については、以下の文献をご覧になっていただくとして、現在の四日町・大町が花街、中央町(旧馬口労町)が遊廓として宜しいかと思います。文献は上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』、『よるの女性街 全国案内版』になります。
『横手町遊廓 秋田県平鹿郡横手町字馬口労町に在つて奥羽本線横手駅で下車すれば東へ約五丁、乗合自動車の便もある。横手町は元戸村氏の旧城下で、城跡は今公園に成つて居る。町の中央には横手川が流れて居て、蛇の崎橋では毎年御盆に花火を揚げる行事がある。田中町の天平寺には本多上野介父子の墓がある。此処の宿場が遊廓に成つたのは明治十五年で、現在貸座敷が八軒あつて娼妓は三十人居るが県下の女が多い・・・妓楼には、千歳、櫻家、恵比寿屋、岩秋家、旭家、明澤屋、新文字屋、大黒家等がある・・・』
『横手の花街 停車場から東北約七町、「柳町」「四日町」の両街が即ちそれで並行的に隣り合ひ・・・二十一軒の芸妓屋が軒燈をつらねて花街らしい趣きを見せ、そこに七十余名の芸妓が居る・・・名物芸妓として、「蛇芸妓」で知られてる月の家の哲子を推さう、生来非常な蛇好きで、若い頃には蛇を懐中へ入れてお座敷へまかり出たなど致気の弱いお客を驚ろかせたものだった・・・阿櫻情調 阿櫻とは旧城名「朝倉」をもじつたもので横手花街の雅称であるが、阿櫻芸妓はすべて横手町を中心として育つたものばかり、他国からの移入品がないので、その容貌にも気質にも自から一種のローカル・カラアがある。田舎のこと故多少気の利かぬといふ欠点があつても、余り人ずれのしてない点、金のために不見轉をやらぬことなども手伝つて、どこか純真な心意気のほの見えるのがうれしい・・・馬喰町遊廓 柳町の南につづいた一廓で、千歳楼、大黒屋、櫻屋、恵比寿屋といふ四軒の妓楼があつて、二十五名の娼妓が居る。右の外尚ほ四軒あつたのだが廃業してしまひ、最近はなはだ不振の状態にある、遊廓としての歴史は相当古いのであるが、今日は最早特別の情調は認められぬ』
『花柳界は柳町、四日町一帯で置屋一八軒、芸妓五九名。割に荒らされていない花柳界だけに、しんねこで遊ぶのにはもつてこい。いい旅館に入る。赤線は、柳町の南に続いた馬口労町。旧女郎部屋千歳、大黒など四軒を取巻き一〇軒ほど三五名』
『蛇芸妓』には笑ってしまいました。宴の余興として、口から入れて鼻から出しちゃったりして・・・これじゃ見世物小屋ですな(笑)湯沢のロシア人、ドイツ人もそうですが、この地域の遊里にはユニークな女性が多かったのでしょうか。この横手、今回の旅の中で最も滞在時間が短くなっております。しかも昼食込み・・・まあ、食べるのはアレしかないのですがね。
時間が限られておりますので、ピンポイントで攻めますよ。その前に昼食・・・途中にあった石蔵を改修したかのような面白い造りの建物。ジックリ観察できないのがもどかしい。
四つ辻に建つのが、横手やきそば館ゆうさん。コチラ、昭和初期に建てられた看板建築を使っているそうです。隅に円形柱、二階にはアーチ窓が並んでいるそうなのですが、半ばモジャハウス状態でよく分からない・・・。
コチラ、B級グルメ界の重鎮みたいな存在ですよね。半熟の黄身だけを崩して、麺を潜らせて食べるのが正式な作法みたいですぞ。確かに旨いですけど、これだけ有名なってしまうと最早B級じゃないよなあ。
重鎮をかき込んで外に出ると、70年代風のレトロフューチャーなビル。カッコイイなあ。
荒物屋的な佐藤儀右エ門商店さん、明治中期に建てられたものとのこと。見世蔵って秋田県では結構珍しいそうです。
その先の通りが嘗ての羽州街道になります。爽やかな水色の下見板張りの洋館は、天昌堂高橋内科医院さん。手元の資料では詳細は不明でした。
こちらも詳細不明の出羽印刷さん。洋風手摺のバルコニーがオシャレな看板建築です。現役というのが嬉しいですね。
その先にド派手な洋館が現れます。大正15年(1926)に建てられた旧平源旅館さん。明治6年(1873)創業、数々の著名人や皇族などが宿泊した名旅館です。
明るいクリーム色のタイル、レリーフに柱型、そして縁起物の雷紋、何でもござれといった感じの建物ですね。脇の土蔵と合わせて国の登録文化財に指定されています。
平成20年(2008)に残念ながら閉館してしまうのですが、その後改修され昨年結婚式場として蘇りました。土蔵はチャペルになっているそうです。数奇な運命を歩んだ建物なのです。出窓がステキだなあ。
この界隈が花街の中心ではなかったかと・・・おそらく嘗ては芸者さんも出入りしていたのだと思います。
欄間に松葉の造作が残る元床屋さん。掲示板には国鉄労働組合・・・時代を感じさせます。
その先、脇を流れる横手川が大きく蛇行するのに合わせて通りもカーブしているのですが、そこに面したお宅が面白い造りなのです。
ちゃんと通りの曲線に合わせて建てられているわけ。なんだかカワイイ(笑)
またまた詳細不明の伊藤歯科医院さん。寄棟屋根にドイツ壁風の外壁の洋館です。昭和初期ぐらいの建物だと思います。
はす向かいにあるのが齋太薬局さん。所謂洋館付住宅の店舗版ということになりますかね。店舗になっている和の部分は明治30年(1897)、応接室などがある洋の部分は昭和初期に増築されました。国の登録文化財です。
洋の部分、円形のペディメントには、美しいスミレ色の花を模した照明が下っています。コチラ、現在は使われていないようですが、隣に新しいお店があります。
遊廓があったとされる旧馬口労町に向かう途中、妙な建物がチラリ・・・。しかし、そこになかなか辿り着けない・・・やっと全景が見える場所に行けたのですが、それはなんと墓地・・・。
何でしょう、このデカイ下地窓は・・・。それよりも外壁の平葺きトタンの質感が素晴しい。この黒、たぶん亜鉛めっき鋼板の酸化皮膜、いい色ですねえ。
この建物、表に回ってみると至って普通のお宅に見えるのですが・・・何だったのでしょうね。
市役所前にある旧馬口労町への入口。そんなに客引きが出るの???
嘗ての色街の現在、飲み屋が延々と続く歓楽街になっております。かといって、如何わしい感じはしませんね。
そもそも地図を眺めてみても、遊廓特有の町割りみたいな場所が見当たらないのです。
なかなかいい雰囲気だと思うのですが、ゆっくりしていられないのが残念です。
いつしかこんな路地裏に迷い込んでおりました。赤の色ガラスの扉、申し訳程度に貼られた鉄平石が面白い。
突然現れたエキセントリックなお店に呆然・・・何、このトンガリ具合(笑)
何寸勾配なんだ、この屋根・・・。これがカフェーの名残・・・じゃないよなあ。いやー、飲み屋さんのデザインの自由奔放さには毎回驚かされます。
とはいえ、現役のお店は少ないようですな。
路地が分岐、その先にはしもた屋風の建物が・・・ウーム、なんとも判断が難しい・・・。
路地を抜けると美しい窓がある建物に出くわしました。しかし、直されすぎていて、これまた前世が判断不能。それにしても『妖』ですか・・・一見さんにはハードル高すぎるでしょ。
ちょっと崩し気味で松を模しております。格子に竹が使われているのですが、折れているように見えるのは当初からのデザインみたい。その向こうには、精緻な組子のガラス障子があるようです。
残念ですがここで時間切れ。ジックリ歩けばもっと発見がありそうな遊廓跡でした。まあ、それなりに楽しめましたよ、ダンケダンケ。
滞在時間二時間半ほど、遺構らしき物件は発見に至らなかった横手の探索でした。次回は角館、七年ぶりの再会です。以前少しお話しましたが、七年前、唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったと後から知り絶句した町なんですよね。さて、どうなりますことやら・・・。