重伝建地区手前のゴミ屋敷・境界が残る遊廓跡・明りが灯らない飲み屋横丁
フ・・・フジツウ???新年早々、ほんとくだらなくて申し訳ない。
この旅の計画を練っているとき最後の最後までどちらにしようかと迷ったのが、今回の角館と手前にある大曲でした。大曲にも遊廓が存在しており、場所についてもこの辺りであろうとあたりをつけていたのですが、さすがに一日で4つの町を巡るのは無理。ただでさえ薄っぺらいレポが無味無臭の白湯みたいになりそうですので、泣く泣く角館だけと相成りました。この判断、吉と出るか凶と出るか・・・まあ、大抵の場合、多少つまらなくても無理矢理にでも楽しいと脳内変換できてしまう便利な人間ですので、あまり心配はしていないのですが・・・。
みちのくの小京都と呼ばれ全国的にも有名な観光地ですし、黒板塀と枝垂桜が続く武家屋敷跡は重伝建地区にも指定されておりますので、ご存知の方も多いと思います。江戸時代、角館は秋田藩の支藩でした。町割りは北に位置する古城山に角館城を配し、城の麓の内町に家臣たち住まわせ、その南側の外町に町人をといった感じで典型的な城下町といった様相ですね。内町の現在が武家屋敷跡ということになります。町の南を雄物川の支流である玉川、西に桧木内川が流れる角館は物資の集散地として古くから栄えてきました。当時の隆盛を伺えるエピソードになりますが、雄物川の河口にある土崎港から、川を遡ってわざわざ遊びにやってくる連中がいたほどだったとか。土崎港にも遊廓や花街があったのですがね・・・そんなに夢中になる妓がいたのでしょうか。そんな角館でしたが、戊辰戦争で新政府側についたため周辺諸藩から攻められ危機に陥ります。しかし、町自体には奇跡的に戦火は及ばなかったようです。そのおかげであの武家屋敷跡を見ることができるということになるでしょうか。
『秋田県遊里史』によりますと、文化13年(1816)に遊女が徘徊して風紀が乱れると藩校の学者が殿様に進言しているそうで、町に遊女屋がきたのはこの頃ではないかと推定しています。時は飛びますが、昭和4年(1929)時点で、妓楼4軒、料理屋3軒が営業していたそうです。その3年後には妓楼2軒に減少、しかしその2軒も、不況のため1軒が廃業、もう1軒は風俗営業に転業し遊廓は消えてしまったそうです。昭和8年の公娼廃止を待たなかったみたいですね。以下の文章は上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』による角館の遊里の様子になります。『秋田県遊里史』とは少し内容が違うような気がするのですが、どちらが正しいのでしょうか。
『角館遊廓 秋田県角館町西勝楽町にあつて、奥羽線大曲駅で生保内線に乗換へ、角館駅で下車する。駅から西部へ約十丁、乗合自動車なら十銭、車賃三十銭。旧藩時代には、秋田との交通は雄物川、玉川の両水運を利用して居たので、角館は可成重要な地歩を占めて居た。従つて当時の町は非常に殷賑を極めたものである。遊廓は重に是等旅人、及船頭相手であつた。外海の土崎港に大船のつく季節には、此の地から遥々と玆迄遠征したものださうだ・・・場合に依つては、芸妓の代りに娼妓が役を勤める事がある。之は是の地の風変りな点で、独立した芸妓屋と言ふものはなく、大概妓楼に芸者も抱へられて居るからだ・・・美人が多いので評判写真制でもなく、又陰店制ともつかぬので、ともすると意外の散財をさせられる事もあるから、此の点は宜しく心得置くべしである・・・特有の民謡「仙北おばこ」がある。重なる楼名、竹屋、常磐屋、松屋本支店、梅屋等』
『角館は所謂「仙北の三勝」田沢湖、抱返渓、羽後駒ケ岳等探勝の関門といふべく、田沢湖畔には白浜にも潟尻にも芸妓は居ないから、仙北情調を味はふと云ふにはひ途先づ此の町に足を停めねばならぬ。秋田佐竹氏の支藩の置かれてあつた五千石の旧城下で、妓楼は比較的古くからあつたものの如く、約百年前の著「烏帽子親」に「茶屋お菊」の名が見えてゐる・・・専門の料理屋が出来たり、芸妓が現れたりしたのはつい十数年前からのことで、何と言つても未だ野趣満々だが、その気の置けない点が却つて旅の者には受がよいかも知れない。此処は芸娼妓併置制で、芸妓は皆妓楼に抱えられて居つて独立した芸妓屋は今の処未だ無く、その数も漸やく十名内外。それ故宴会などでお酌(芸妓)が不足の場合は警察の内諾を得て、娼妓が芸妓と伍して宴席に侍る。ここらが独特の角館気分と言はふか・・・』
この角館、平成18年(2006)に訪れております。以前に少し触れておりますが、前回唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったと後日知り、頭を抱えたアホがここにいるわけ。まあ、当時はこういったことにあまり興味はなかったですから・・・と強がってみても、自分のもってなさに唖然とするばかり。それよりも唖然としたのが7年ぶりの再訪ということ・・・当時からこのしょうもないブログは続いているわけでして、飽きっぽい自分からすれば、これは戦火を逃れた角館と同じくらい奇跡的なことなのではないかと思っている新年早々なのです。
註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅から町の中心までは少し距離があります。かなり陽が傾いております、急ぎましょう。途中にある廃館になってしまった平和劇場、前回全く変わっておりませんでした。そういえば、隣のラーメン屋も同じ状態だったような記憶が・・・。
飛びまして、此処が武家屋敷跡の入口。その門番のように佇む自転車屋兼みやげ物屋みたいな変なお店が・・・って、あれ?商売辞めちゃった!?店を閉めてからかなり時間が経過しているようでして、半ばゴミ屋敷然とした佇まい、そして周囲とのギャップがすごい。
だって、周囲はこんな感じですもの。
夕刻間近ということもあって、観光客の姿は疎ら。広い道幅のせいでしょうか、ちょっと異様な光景でした。
此処を再び訪れたのはコチラに寄るため、県指定文化財の青柳家住宅。実は此処に遊女の写真があるという噂を聞きつけまして・・・。
あるにはありましたが・・・コレ、吉原の遊女じゃん。見たことあるぞ。てっきり角館の遊女かと・・・またやっちゃった。
とんだ間違いで貴重な時間を費やしてしまった。次にやって来たのが遊廓があったとされる西勝楽町、現在も町名は健在です。おそらくこの通り沿いにそういったお店が並んでいたのだと思います。
途中にある薬師堂ではお祭りの準備でしょうか、鳶さんたちの手ですごい櫓みたいのが建設中。
コチラは割烹登喜和さん、かなり歴史がある建物とお見受けしましたが、結構直されているようでして、よく分からない・・・。
この部分はオリジナルでしょうか、凝った欄間がステキです。現代の軒燈が下っています。スポットですけどね(笑)
脇道に入りました。この通り、『赤線跡を歩く 完結編』によりますと、『不開(あかず)小路』と呼ばれているそうです。
料亭川竹さん、建物自体は新しくなっており遺構かどうかは判断できず。『全国遊廓案内』に竹屋とあるのが気になります。
不開小路を挟んで向かいにも料亭がありました。現在は残っておりませんが、『赤線跡を歩く』には料亭花笠という看板が写っております。
廃業されてしまったみたいですね。このシンプルなアーチ、好きなんですよねえ。照明の痕跡、お分かりになるでしょうか。どんなのがぶら下がっていたのでしょうね。
その先、不開小路を細い水路が横切っています。『赤線跡を歩く』によりますと、この水路からこっち側が遊廓の指定地だったそうです。水路が境界だったということになります。
通りに戻りました。右手の建物には18歳未満ウンヌンの札がありましたので、たぶん飲み屋さん関係だったのだと思います。
右の看板建築で通りはオシマイ。まあ、昭和初期に遊廓が無くなっていたとすれば納得の結果ですな。
近くにあるのが石造りの神殿にしか見えない伊保(いおや)商店さん。大正13年(1924)に建てられました。この迫力は現物を見て確認していただきたい逸品です。所謂荒物屋さん的なお店なのですが、商品に付けられたラベルが相変わらず面白いわけ。二階の窓に貼られたポスター?も意味不明だし。
このクマさんも7年前と変わらずと思ったら、ガオーが足されてた(笑)右上の『その場でできるおまる』ってなんぞ???
下新町で出会ったパーマ屋さん。腰のモザイクタイルが綺麗、扉に使われたリブ模様の型板ガラスも好きです。
近くにあるのが嘉永6年(1853)創業の安藤醸造さん、味噌と醤油の醸造元です。赤煉瓦の蔵が付属するお店は、明治24年(1909)に建てられました。
赤煉瓦の部分、実は蔵座敷、襖絵が見事です。特に右手のチビワンコがカワイイ。外人のカップルがWOW!!連発しながら写真撮りまくっておりました。この二人、山ほど醤油や味噌を買い込んでいたけど、あんな量どうするんだ???私も生醤油の小瓶とこの地方特産であるいぶりがっこを醤油に漬けたものを購入。生醤油は濃い目で刺身にピッタリ、漬物はお茶受けでポリポリしていたらあっというまに無くなってしまった。通販で取り寄せようかしら・・・。
通りを北上、上新町に出ました。なぜか幸せの黄色いハンカチ?がヒラヒラ・・・何コレ???
その先に冒頭画像の大門が現れます。所謂飲み屋横丁です。もちろん『フジツウ』じゃないと思います(爆)
まずは手前のちょっぴりカフェー風、定番の腰に鉄平石貼りです。
お次は全面青石風の鉄平石、豪華版です。これはいい佇まいですなあ。
ステンドグラスに見えますが、ステンドグラス風のフィルムが貼られています。古城って屋号もイイ。
前回、あの大門の向かいまで来ているはずなのですが、此処の存在に全く気付かなかった・・・。
大門の向かいには前回も紹介した謎の長屋風建築、元々は何だったのでしょう。結局謎は謎のまま・・・。
ゆっくりと日が暮れていきます。とっくに開店してもいい時間なのですが、いっこうにお店に明りは灯らないのでした。
以上、7年ぶりの角館再訪でした。この町もほとんど変わっていませんでしたね。さて、また2時間列車に揺られてベースキャンプの秋田市に戻ると致しましょう。次回から6日目、この旅の白眉でもある大館市を訪ねます。明日も始発なんだよなあ・・・。
フ・・・フジツウ???新年早々、ほんとくだらなくて申し訳ない。
この旅の計画を練っているとき最後の最後までどちらにしようかと迷ったのが、今回の角館と手前にある大曲でした。大曲にも遊廓が存在しており、場所についてもこの辺りであろうとあたりをつけていたのですが、さすがに一日で4つの町を巡るのは無理。ただでさえ薄っぺらいレポが無味無臭の白湯みたいになりそうですので、泣く泣く角館だけと相成りました。この判断、吉と出るか凶と出るか・・・まあ、大抵の場合、多少つまらなくても無理矢理にでも楽しいと脳内変換できてしまう便利な人間ですので、あまり心配はしていないのですが・・・。
みちのくの小京都と呼ばれ全国的にも有名な観光地ですし、黒板塀と枝垂桜が続く武家屋敷跡は重伝建地区にも指定されておりますので、ご存知の方も多いと思います。江戸時代、角館は秋田藩の支藩でした。町割りは北に位置する古城山に角館城を配し、城の麓の内町に家臣たち住まわせ、その南側の外町に町人をといった感じで典型的な城下町といった様相ですね。内町の現在が武家屋敷跡ということになります。町の南を雄物川の支流である玉川、西に桧木内川が流れる角館は物資の集散地として古くから栄えてきました。当時の隆盛を伺えるエピソードになりますが、雄物川の河口にある土崎港から、川を遡ってわざわざ遊びにやってくる連中がいたほどだったとか。土崎港にも遊廓や花街があったのですがね・・・そんなに夢中になる妓がいたのでしょうか。そんな角館でしたが、戊辰戦争で新政府側についたため周辺諸藩から攻められ危機に陥ります。しかし、町自体には奇跡的に戦火は及ばなかったようです。そのおかげであの武家屋敷跡を見ることができるということになるでしょうか。
『秋田県遊里史』によりますと、文化13年(1816)に遊女が徘徊して風紀が乱れると藩校の学者が殿様に進言しているそうで、町に遊女屋がきたのはこの頃ではないかと推定しています。時は飛びますが、昭和4年(1929)時点で、妓楼4軒、料理屋3軒が営業していたそうです。その3年後には妓楼2軒に減少、しかしその2軒も、不況のため1軒が廃業、もう1軒は風俗営業に転業し遊廓は消えてしまったそうです。昭和8年の公娼廃止を待たなかったみたいですね。以下の文章は上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』による角館の遊里の様子になります。『秋田県遊里史』とは少し内容が違うような気がするのですが、どちらが正しいのでしょうか。
『角館遊廓 秋田県角館町西勝楽町にあつて、奥羽線大曲駅で生保内線に乗換へ、角館駅で下車する。駅から西部へ約十丁、乗合自動車なら十銭、車賃三十銭。旧藩時代には、秋田との交通は雄物川、玉川の両水運を利用して居たので、角館は可成重要な地歩を占めて居た。従つて当時の町は非常に殷賑を極めたものである。遊廓は重に是等旅人、及船頭相手であつた。外海の土崎港に大船のつく季節には、此の地から遥々と玆迄遠征したものださうだ・・・場合に依つては、芸妓の代りに娼妓が役を勤める事がある。之は是の地の風変りな点で、独立した芸妓屋と言ふものはなく、大概妓楼に芸者も抱へられて居るからだ・・・美人が多いので評判写真制でもなく、又陰店制ともつかぬので、ともすると意外の散財をさせられる事もあるから、此の点は宜しく心得置くべしである・・・特有の民謡「仙北おばこ」がある。重なる楼名、竹屋、常磐屋、松屋本支店、梅屋等』
『角館は所謂「仙北の三勝」田沢湖、抱返渓、羽後駒ケ岳等探勝の関門といふべく、田沢湖畔には白浜にも潟尻にも芸妓は居ないから、仙北情調を味はふと云ふにはひ途先づ此の町に足を停めねばならぬ。秋田佐竹氏の支藩の置かれてあつた五千石の旧城下で、妓楼は比較的古くからあつたものの如く、約百年前の著「烏帽子親」に「茶屋お菊」の名が見えてゐる・・・専門の料理屋が出来たり、芸妓が現れたりしたのはつい十数年前からのことで、何と言つても未だ野趣満々だが、その気の置けない点が却つて旅の者には受がよいかも知れない。此処は芸娼妓併置制で、芸妓は皆妓楼に抱えられて居つて独立した芸妓屋は今の処未だ無く、その数も漸やく十名内外。それ故宴会などでお酌(芸妓)が不足の場合は警察の内諾を得て、娼妓が芸妓と伍して宴席に侍る。ここらが独特の角館気分と言はふか・・・』
この角館、平成18年(2006)に訪れております。以前に少し触れておりますが、前回唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったと後日知り、頭を抱えたアホがここにいるわけ。まあ、当時はこういったことにあまり興味はなかったですから・・・と強がってみても、自分のもってなさに唖然とするばかり。それよりも唖然としたのが7年ぶりの再訪ということ・・・当時からこのしょうもないブログは続いているわけでして、飽きっぽい自分からすれば、これは戦火を逃れた角館と同じくらい奇跡的なことなのではないかと思っている新年早々なのです。
註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅から町の中心までは少し距離があります。かなり陽が傾いております、急ぎましょう。途中にある廃館になってしまった平和劇場、前回全く変わっておりませんでした。そういえば、隣のラーメン屋も同じ状態だったような記憶が・・・。
飛びまして、此処が武家屋敷跡の入口。その門番のように佇む自転車屋兼みやげ物屋みたいな変なお店が・・・って、あれ?商売辞めちゃった!?店を閉めてからかなり時間が経過しているようでして、半ばゴミ屋敷然とした佇まい、そして周囲とのギャップがすごい。
だって、周囲はこんな感じですもの。
夕刻間近ということもあって、観光客の姿は疎ら。広い道幅のせいでしょうか、ちょっと異様な光景でした。
此処を再び訪れたのはコチラに寄るため、県指定文化財の青柳家住宅。実は此処に遊女の写真があるという噂を聞きつけまして・・・。
あるにはありましたが・・・コレ、吉原の遊女じゃん。見たことあるぞ。てっきり角館の遊女かと・・・またやっちゃった。
とんだ間違いで貴重な時間を費やしてしまった。次にやって来たのが遊廓があったとされる西勝楽町、現在も町名は健在です。おそらくこの通り沿いにそういったお店が並んでいたのだと思います。
途中にある薬師堂ではお祭りの準備でしょうか、鳶さんたちの手ですごい櫓みたいのが建設中。
コチラは割烹登喜和さん、かなり歴史がある建物とお見受けしましたが、結構直されているようでして、よく分からない・・・。
この部分はオリジナルでしょうか、凝った欄間がステキです。現代の軒燈が下っています。スポットですけどね(笑)
脇道に入りました。この通り、『赤線跡を歩く 完結編』によりますと、『不開(あかず)小路』と呼ばれているそうです。
料亭川竹さん、建物自体は新しくなっており遺構かどうかは判断できず。『全国遊廓案内』に竹屋とあるのが気になります。
不開小路を挟んで向かいにも料亭がありました。現在は残っておりませんが、『赤線跡を歩く』には料亭花笠という看板が写っております。
廃業されてしまったみたいですね。このシンプルなアーチ、好きなんですよねえ。照明の痕跡、お分かりになるでしょうか。どんなのがぶら下がっていたのでしょうね。
その先、不開小路を細い水路が横切っています。『赤線跡を歩く』によりますと、この水路からこっち側が遊廓の指定地だったそうです。水路が境界だったということになります。
通りに戻りました。右手の建物には18歳未満ウンヌンの札がありましたので、たぶん飲み屋さん関係だったのだと思います。
右の看板建築で通りはオシマイ。まあ、昭和初期に遊廓が無くなっていたとすれば納得の結果ですな。
近くにあるのが石造りの神殿にしか見えない伊保(いおや)商店さん。大正13年(1924)に建てられました。この迫力は現物を見て確認していただきたい逸品です。所謂荒物屋さん的なお店なのですが、商品に付けられたラベルが相変わらず面白いわけ。二階の窓に貼られたポスター?も意味不明だし。
このクマさんも7年前と変わらずと思ったら、ガオーが足されてた(笑)右上の『その場でできるおまる』ってなんぞ???
下新町で出会ったパーマ屋さん。腰のモザイクタイルが綺麗、扉に使われたリブ模様の型板ガラスも好きです。
近くにあるのが嘉永6年(1853)創業の安藤醸造さん、味噌と醤油の醸造元です。赤煉瓦の蔵が付属するお店は、明治24年(1909)に建てられました。
赤煉瓦の部分、実は蔵座敷、襖絵が見事です。特に右手のチビワンコがカワイイ。外人のカップルがWOW!!連発しながら写真撮りまくっておりました。この二人、山ほど醤油や味噌を買い込んでいたけど、あんな量どうするんだ???私も生醤油の小瓶とこの地方特産であるいぶりがっこを醤油に漬けたものを購入。生醤油は濃い目で刺身にピッタリ、漬物はお茶受けでポリポリしていたらあっというまに無くなってしまった。通販で取り寄せようかしら・・・。
通りを北上、上新町に出ました。なぜか幸せの黄色いハンカチ?がヒラヒラ・・・何コレ???
その先に冒頭画像の大門が現れます。所謂飲み屋横丁です。もちろん『フジツウ』じゃないと思います(爆)
まずは手前のちょっぴりカフェー風、定番の腰に鉄平石貼りです。
お次は全面青石風の鉄平石、豪華版です。これはいい佇まいですなあ。
ステンドグラスに見えますが、ステンドグラス風のフィルムが貼られています。古城って屋号もイイ。
前回、あの大門の向かいまで来ているはずなのですが、此処の存在に全く気付かなかった・・・。
大門の向かいには前回も紹介した謎の長屋風建築、元々は何だったのでしょう。結局謎は謎のまま・・・。
ゆっくりと日が暮れていきます。とっくに開店してもいい時間なのですが、いっこうにお店に明りは灯らないのでした。
以上、7年ぶりの角館再訪でした。この町もほとんど変わっていませんでしたね。さて、また2時間列車に揺られてベースキャンプの秋田市に戻ると致しましょう。次回から6日目、この旅の白眉でもある大館市を訪ねます。明日も始発なんだよなあ・・・。