此処でも発見例の街灯・往時を語るのは柳の巨木のみ・河畔のトタン看板建築
古びたお宅の前から河畔に建つトタン建築を望みます。
今回は松戸市、知り合いの何人かがこの町に住んでおりますが、有数のベッドタウンですよね。なんでも昭和45年(1970)で20万人だった人口が、平成22年(2010)には48万人に激増しているそうですからこれはかなりのもの。江戸川を渡れば東京ですし、生活環境もまずまず、若いファミリーが暮らすのにはもってこいの町というのが私のイメージ。そんな松戸ですが、嘗ては西を流れる江戸川の舟運と五街道に準ずる水戸街道の宿場として栄えた町でした。後に紹介する『全国遊廓案内』にも出てきますが、遊廓形成の由来となったのが宿場の飯盛女とされています。大正8年(1919)になりますと軍隊がやってきます。駅東側の高台に大日本帝国陸軍工兵学校が開校、松戸は軍都という一面もあった町ということになりますね。軍都に遊里、必要不可欠・・・と書いたところで気付いたのですが、兵隊見習いに遊里って必要だったのでしょうか。以下の案内文は上から『全国遊廓案内』、『よるの女性街・全国案内版』になります。
『松戸町遊廓 千葉県東葛飾郡松戸町字平潟に在つて、常磐線松戸駅へ下車して西北へ約五丁の処に在る。東京府と千葉県との境に在る町で、江戸川の川岸に臨んだ濱街道の要路に成つて居り、水陸の便が善い。松戸の相模台には競馬場があり、県農事試験場があり、又日本唯一の園芸学校もある。川岸は魚釣りには善い場所がある。寛永年間には沢山の飯盛女が居たものだつたが、今日の遊廓は其の後身である。目下貸座敷が十三軒あつて、娼妓は百五十人いるが、秋田県、山形県の女が多い・・・娼楼には、喜楽楼、第一鶴宝来楼、第二鶴宝来楼、蓬莱楼、若松、濱名家、叶家、福田屋、百年、鈴金、三井家、第二九十九、一元等がある・・・「松戸女郎衆はいかりか網か、登り下りの船とめる」』
『町端れに古い遊廓が三軒、江戸川堤の夕色に浮き出ている。そんな灯ともし頃から一五〇〇円OK。千葉、茨城のタフな女が二二名。普通の泊りでもお安く七〇〇円、桜の季節は特に風情がある』
とりあえず昼食ということで駅の西口の出たのですが、フランチャイズ店ばかり・・・。好みのお店を物色していると、こんな激セマ呑ん兵衛横丁に出会ってしまったわけ。VABAR’s BARにとっても惹かれるのですが(笑)
こりゃすごい・・・通路の巾が三尺ほどしかないぞ。
ようやく見つけた中華竹琳さんで昼食、所謂ヌーベルシノワ的な小洒落たお店。確かに旨いけど・・・量がね・・・。なんとか燃料補給できましたので遊廓跡に向かいましょう。駅西口から延びる通りを真っ直ぐ行くと江戸川の堤にぶつかります。そこが遊廓跡への入口、嘗ては大門があったそうな。
近くにある来迎寺さん。娼妓のお墓があるそうなのですが、最近になって本堂を建て替えたようでして見つかりませんでした。
向かいには境内がちょっと荒れ気味の水神宮という小さな神様。手洗い鉢に九十九楼と刻まれておりました。
嘗て貸座敷が並んでいた通りに戻りました。そこでこの子にメンチ切られたわけ。遊里跡のニャンコって、皆人相(ニャン相?)が悪いのはなぜなんでしょうね(笑)しかし、問題はニャンコではありません。画像を開いてから気付いたのですが、左にある街灯・・・というか、正確には街灯の柱ですね。横須賀市安浦、四谷荒木町にも残っているコンクリート製の例のヤツです。ちょっと前、山梨県のとある町でも発見したのですが、あれと同じだ。何てこった、現地では全く気付かなかった・・・ニャンコにやられましたわ。
建物ではありませんが、唯一の遺構と思われるのがこの柳。往時は通りに沿って柳並木が続いていたそうですが、残っているのはこの一本だけ。手前の電柱には『平潟』と書かれたプレートが残っていました。
巨木と言ってしまっても差し支えないほどの立派なものです。清清しい五月の風に揺れる葉の下には幼稚園の送迎バスが打ち捨てられておりました。
遊廓跡の裏手を流れる樋古根川、往時は水面を妖しく照らす軒燈が並んでいたのかもしれませんね。
あまりにも遊廓跡がアッサリ終わってしまったので宿場跡もフラフラしていきましょう。駅側にちょっと戻ると県道5号線(流山街道)に出ます。これが旧水戸街道です。ポツリポツリと出桁造りの商家が見られますが、残念なことに面影はあまり残っておりません。
途中、坂川を春雨橋という趣のある名前の橋で渡ります。河畔のこんもりと繁る木々の向こうに瓦屋根が見えますね。
旧街道に面した部分はこんな感じ。コチラも商家だったみたいですね。
銅板張りの看板建築もありましたよ。緑青がいい塩梅。その先のY字路で県道5号線とはお別れ、右に行きますと・・・
平屋建てと思われるトタン張りの看板建築が続いておりました。このスカーンと抜けた感じが堪りません。
シンプル・・・それしか浮かんでこない・・・。
脇に回ってみると・・・平屋だと思っていたのはなんと二階建てだったというわけ。裏を流れるのはさきほどの坂川です。
近くの路地裏で見つけた謎の松戸学園。試しに検索したら『まつど学園』なるイメクラ情報がわんさと出てきちゃったんですけど(笑)
路地を抜けるとさきほどお別れした県道5号線、此処に出るんだ。
坂川に架かっているのが小山樋門橋。橋と呼ばれておりますが、水門の役目も兼ねていた土木施設です。三連のアーチが連なる赤煉瓦造、明治31年(1898)に造られました。アーチの手前、縦に溝があるのが分かるでしょうか。あそこに板を差し込んで水量を調整していたのだと思います。その独特な形状から、地元ではめがね橋と呼ばれているそうです。
線路を潜り常盤線の東側に出ました。東京寄りの高台に広大な緑に埋もれるようにして見事な邸宅がデーンと構えております。明治17年(1884)に建てられた国の重文、戸定邸であります。
施主は水戸藩最後の藩主徳川昭武、将軍徳川慶喜の実弟ですね。コチラは彼の別邸だったそうです。
徳川家の住居で公開されているのは此処だけなんだとか。杉柾目の柱が見事、相当贅沢な建材使っているのでしょう。
住むということに徹した控え目な意匠が気に入りました。
コチラは湯殿、小さな浴槽がカワイイですね。
最後に訪れたのは駅のすぐ脇にある松戸中央公園。公園入口に建つ門柱、実はコレが前書きにもある陸軍工兵学校の正門なのです。奥に見える小屋は歩哨哨舎、要するに歩哨の詰所ですね。正門は大正9年(1920)、歩哨哨舎は昭和2年(1927)〜10年(1935)に建てられたものとされています。
松戸が軍都であったということを伝える貴重な遺構です。
以上で松戸の探索はオシマイ。遊里関係はサッパリでしたが、多少軍オタ入っている人間としては楽しめたんじゃないでしょうか・・・と自分に言い聞かせております。
古びたお宅の前から河畔に建つトタン建築を望みます。
今回は松戸市、知り合いの何人かがこの町に住んでおりますが、有数のベッドタウンですよね。なんでも昭和45年(1970)で20万人だった人口が、平成22年(2010)には48万人に激増しているそうですからこれはかなりのもの。江戸川を渡れば東京ですし、生活環境もまずまず、若いファミリーが暮らすのにはもってこいの町というのが私のイメージ。そんな松戸ですが、嘗ては西を流れる江戸川の舟運と五街道に準ずる水戸街道の宿場として栄えた町でした。後に紹介する『全国遊廓案内』にも出てきますが、遊廓形成の由来となったのが宿場の飯盛女とされています。大正8年(1919)になりますと軍隊がやってきます。駅東側の高台に大日本帝国陸軍工兵学校が開校、松戸は軍都という一面もあった町ということになりますね。軍都に遊里、必要不可欠・・・と書いたところで気付いたのですが、兵隊見習いに遊里って必要だったのでしょうか。以下の案内文は上から『全国遊廓案内』、『よるの女性街・全国案内版』になります。
『松戸町遊廓 千葉県東葛飾郡松戸町字平潟に在つて、常磐線松戸駅へ下車して西北へ約五丁の処に在る。東京府と千葉県との境に在る町で、江戸川の川岸に臨んだ濱街道の要路に成つて居り、水陸の便が善い。松戸の相模台には競馬場があり、県農事試験場があり、又日本唯一の園芸学校もある。川岸は魚釣りには善い場所がある。寛永年間には沢山の飯盛女が居たものだつたが、今日の遊廓は其の後身である。目下貸座敷が十三軒あつて、娼妓は百五十人いるが、秋田県、山形県の女が多い・・・娼楼には、喜楽楼、第一鶴宝来楼、第二鶴宝来楼、蓬莱楼、若松、濱名家、叶家、福田屋、百年、鈴金、三井家、第二九十九、一元等がある・・・「松戸女郎衆はいかりか網か、登り下りの船とめる」』
『町端れに古い遊廓が三軒、江戸川堤の夕色に浮き出ている。そんな灯ともし頃から一五〇〇円OK。千葉、茨城のタフな女が二二名。普通の泊りでもお安く七〇〇円、桜の季節は特に風情がある』
とりあえず昼食ということで駅の西口の出たのですが、フランチャイズ店ばかり・・・。好みのお店を物色していると、こんな激セマ呑ん兵衛横丁に出会ってしまったわけ。VABAR’s BARにとっても惹かれるのですが(笑)
こりゃすごい・・・通路の巾が三尺ほどしかないぞ。
ようやく見つけた中華竹琳さんで昼食、所謂ヌーベルシノワ的な小洒落たお店。確かに旨いけど・・・量がね・・・。なんとか燃料補給できましたので遊廓跡に向かいましょう。駅西口から延びる通りを真っ直ぐ行くと江戸川の堤にぶつかります。そこが遊廓跡への入口、嘗ては大門があったそうな。
近くにある来迎寺さん。娼妓のお墓があるそうなのですが、最近になって本堂を建て替えたようでして見つかりませんでした。
向かいには境内がちょっと荒れ気味の水神宮という小さな神様。手洗い鉢に九十九楼と刻まれておりました。
嘗て貸座敷が並んでいた通りに戻りました。そこでこの子にメンチ切られたわけ。遊里跡のニャンコって、皆人相(ニャン相?)が悪いのはなぜなんでしょうね(笑)しかし、問題はニャンコではありません。画像を開いてから気付いたのですが、左にある街灯・・・というか、正確には街灯の柱ですね。横須賀市安浦、四谷荒木町にも残っているコンクリート製の例のヤツです。ちょっと前、山梨県のとある町でも発見したのですが、あれと同じだ。何てこった、現地では全く気付かなかった・・・ニャンコにやられましたわ。
建物ではありませんが、唯一の遺構と思われるのがこの柳。往時は通りに沿って柳並木が続いていたそうですが、残っているのはこの一本だけ。手前の電柱には『平潟』と書かれたプレートが残っていました。
巨木と言ってしまっても差し支えないほどの立派なものです。清清しい五月の風に揺れる葉の下には幼稚園の送迎バスが打ち捨てられておりました。
遊廓跡の裏手を流れる樋古根川、往時は水面を妖しく照らす軒燈が並んでいたのかもしれませんね。
あまりにも遊廓跡がアッサリ終わってしまったので宿場跡もフラフラしていきましょう。駅側にちょっと戻ると県道5号線(流山街道)に出ます。これが旧水戸街道です。ポツリポツリと出桁造りの商家が見られますが、残念なことに面影はあまり残っておりません。
途中、坂川を春雨橋という趣のある名前の橋で渡ります。河畔のこんもりと繁る木々の向こうに瓦屋根が見えますね。
旧街道に面した部分はこんな感じ。コチラも商家だったみたいですね。
銅板張りの看板建築もありましたよ。緑青がいい塩梅。その先のY字路で県道5号線とはお別れ、右に行きますと・・・
平屋建てと思われるトタン張りの看板建築が続いておりました。このスカーンと抜けた感じが堪りません。
シンプル・・・それしか浮かんでこない・・・。
脇に回ってみると・・・平屋だと思っていたのはなんと二階建てだったというわけ。裏を流れるのはさきほどの坂川です。
近くの路地裏で見つけた謎の松戸学園。試しに検索したら『まつど学園』なるイメクラ情報がわんさと出てきちゃったんですけど(笑)
路地を抜けるとさきほどお別れした県道5号線、此処に出るんだ。
坂川に架かっているのが小山樋門橋。橋と呼ばれておりますが、水門の役目も兼ねていた土木施設です。三連のアーチが連なる赤煉瓦造、明治31年(1898)に造られました。アーチの手前、縦に溝があるのが分かるでしょうか。あそこに板を差し込んで水量を調整していたのだと思います。その独特な形状から、地元ではめがね橋と呼ばれているそうです。
線路を潜り常盤線の東側に出ました。東京寄りの高台に広大な緑に埋もれるようにして見事な邸宅がデーンと構えております。明治17年(1884)に建てられた国の重文、戸定邸であります。
施主は水戸藩最後の藩主徳川昭武、将軍徳川慶喜の実弟ですね。コチラは彼の別邸だったそうです。
徳川家の住居で公開されているのは此処だけなんだとか。杉柾目の柱が見事、相当贅沢な建材使っているのでしょう。
住むということに徹した控え目な意匠が気に入りました。
コチラは湯殿、小さな浴槽がカワイイですね。
最後に訪れたのは駅のすぐ脇にある松戸中央公園。公園入口に建つ門柱、実はコレが前書きにもある陸軍工兵学校の正門なのです。奥に見える小屋は歩哨哨舎、要するに歩哨の詰所ですね。正門は大正9年(1920)、歩哨哨舎は昭和2年(1927)〜10年(1935)に建てられたものとされています。
松戸が軍都であったということを伝える貴重な遺構です。
以上で松戸の探索はオシマイ。遊里関係はサッパリでしたが、多少軍オタ入っている人間としては楽しめたんじゃないでしょうか・・・と自分に言い聞かせております。