典型的な終着駅の町・日本料理必需品発祥の地・遊女の墓?と謎の歴女集団!?
そんな名店だとは露知らず・・・。
いきなり私事であれなのですが、今後拙ブログの更新がかなり不規則になると思われます。理由は超絶多忙のため・・・つい先日、合間を縫って中距離の町をチョコチョコっと探索してきましたが、これが実に四ヶ月ぶりという惨状ですから笑っちゃいます。いや、暢気に笑ってはいられないのですがね・・・。実際、そんな状況でフラフラしていてもいまいち楽しくないというのが正直なところなのです。おそらく今年いっぱいはこんな状況が続くと思います。更新を一日千秋の想いでお待ちの方・・・そんな奴はいないですって?知ってるよ(笑)とにかくこんな状況ですので、何卒お取り計らいのこと宜しくお願い致しますぞ。
ちょっと間が空いちゃいましたが、松戸市の次に訪れたのは隣町の流山市。先日、アド街で特集されていましたね。毎度のことになりますが、この町も大した下調べもないまま訪れておりましたので大変参考になりました。今回はその情報も盛り込みながらレポしていきたいと思います。この流山、松戸と同じく町の西を流れる江戸川の舟運で栄えた町だったみたい、それから新撰組別れの地・・・まあ、相変わらずの杜撰な下調べで知った予備知識はそんな程度なわけ。そんな程度なのになぜ訪れたのか!?理由は『流鉄』こと流山線の存在にあります。JR常盤線の馬橋駅から分岐している第三セクターの私鉄なのですが、大好物の盲腸線なのですよ。江戸川の向こうは東京というか、正確には埼玉県三郷市なのですが、そんな処を駅数たった5つしかないローカル線がガタゴト走っているという事実に以前から気になっておりました。まあ、もう一つ目的があるんですけどね。それについては追々レポの中で・・・。馬橋駅から12分で流山駅に到着、その駅前はいかにもローカル線の終着駅然としていて妙に安心したのはなぜでしょう。あ、忘れておりましたが、一応遊里情報もありますよ。
『流鉄』のあかぎ号、丸いライトがお気に入り。何処かで見たようなと思った方おられるのではないでしょうか。この車両、元は西武新101系・・・そう、嘗ては東京を走っていたのです。流山線の前身は大正5年(1916)に開業した流山軽便鉄道になります。
流山駅舎、サイディングで化粧されており古いんだか新しいんだかよく分からない。駅前には商店が数軒、歴史がありそうな建物も皆無、おまけに人影も皆無・・・と思ったらおりました、外国人だけど(笑)ウム、これぞ東京近郊の終着駅に相応しいと妙に納得。
駅前通りを真っ直ぐ行くと、地元で流山広小路と呼ばれている通りにぶつかります。これが嘗ての流山街道になります。旧街道に面しているのがアド街にも出てきた丁字屋さん。大正12年(1923)に建てられた足袋屋さんだったそうです。現在はイタリアンのお店として余生を送っております。典型的な関東の出桁造りの商家、見所は二階戸袋の銅板細工かな。
お隣には持ち送り状の装飾が並ぶ洋館、現在は蔵日和さんというベーカリー+カフェになっています。調べてみましたらこの建物、やっぱり前身はお医者さんだったそうです。
その先には呉服商の新川屋さん、此処もアド街で紹介されていましたね。重厚な黒漆喰の見世蔵は明治23年(1890)に建てられた国の登録文化財です。
戻って丁字屋さんの左隣、コチラは矢葉喜という割烹だったそうなのですが、門柱が大好物の擬木じゃありませんか。
その先の路地に入ると目的の閻魔堂があるのですが・・・って、お堂の前で新撰組の陣羽織姿の女の子集団が舞っているのですが・・・な、何コレ???近くにいた顔役?らしい男性に尋ねて納得、正解は後ほど。此処を訪れた目的はコレ、金子市之丞なる人物のお墓なのですが、別名流山のねずみ小僧と呼ばれているのです。市之丞は流山の出身、生家は醸造業だったそうですがあれこれあって勘当、盗賊に転業します。盗んだ金品を貧しい人々に配ったので義賊という当時のヒーローだったとか。そんな市之丞でしたがついに大阪でお縄頂戴・・・文化10年(1831)、小塚原の刑場であえなく獄門・・・。この墓石、実は初代じゃないそうです。お隣の松戸市に松戸競輪があるわけ、これを聞いてピンときた方いるのでは???そう、ギャンブラー達がゲン担ぎのお守りとして削って持ち帰ってしまうため何度か造り直しているそうです。森の石松なども同じ目に遭っているみたいですね。私も毎週totoを購入していますので入念に手を合わせたのですが・・・今のところ効果はありませぬ(笑)
実は市之丞のお墓が目的ではありません。それは隣にあるこの小さな墓石、コチラは市之丞が贔屓にしていた遊女三千歳のもの。何処の遊廓の遊女だったのだろうと考えておりましたら、男性から意外な一言が・・・。実はこの墓石、市之丞の妹のという説があるんだとか・・・エエーッですよね。
お堂の閻魔様、ベーッと舌を出しているのは珍しいものなんだとか。嘘つくと舌引っこ抜くぞ!!って意味なのでしょうかね。
依然として舞い続ける陣羽織集団、彼女たちは北総新撰組のご歴々。アド街でもちょっと紹介されていましたね。要するに新撰組大好きな歴女の皆さんです。ブログを拝見しましたが、あそこまでやるとは大したものです。ウーム、歴女の世界・・・深すぎるぞ。
閻魔堂の近くにある近藤勇陣屋跡。観光マップにも載っている有名な場所なのですが、さきほどの男性曰く、陣屋自体はかなり広範囲だったそうで此処限定で語られることに少し違和感があるんだとか。しかも、この土蔵は別の場所にあったのを移築したものだと聞くと・・・エエーッですよね。
適当にフラフラしていたらトタン塀が続く路地に迷い込んでしまいました。
路地を抜けると再び旧街道、二軒の商家がお出迎え。両方ともアド街に出てきました。
手前は明治22年(1889)に建てられた元乾物屋さんを万華鏡ギャラリーとして使っています。当日は休みだったみたい。二階の銅板製の扉がいいね。
そして冒頭画像の清水屋本店さん、明治35年(1902)創業の老舗和菓子屋さんです。アド街で写っていましたが、店内に建つ漆喰塗り?の白い円柱が気になるわけ。最中も美味しそうだったし、入ればよかった。
旧街道を少し行きますと広大なプラント風工場が見えてきます。キッコーマン万上みりん醸造工場です。流山は白みりんの発祥の地、欠かせない調味料ですから発見されなかったら日本料理は今頃どうなっていたでしょう。まあ、別の誰かが見つけていたでしょうけど。
さらに江戸川沿いを松戸方面に辿りますが、微妙な町並みが続くだけ・・・旧街道の面影は皆無です。
途中にあった完璧な窒息物件、杢目の合板が恐さに拍車をかけております。
此処もアド街に出てきました、一茶双樹記念館です。小林一茶とみりん醸造家五代目秋元三左衛門の親交を記念した資料館です。敷地は秋元本家跡で写っている建物は安政時代の母屋らしいです。閉館時間ピッタリに到着、係の方が雨戸を閉めておりました・・・残念。
近くにあるのが赤城神社。アド街では1000年前に起こった大洪水で、江戸川の上流にある赤城山の一部がこの地に流れ着き神社の杜になったとありました。その珍説が納得できるほどこの一画だけがポッコリと不自然に盛り上がっているのです。
狛犬は何となくライオン風、威厳ゼロですな。
そのまま江戸川の堤に出ましょう。こんな光景が見えるはずです。嘗て此処に架かっていたのが旧流山橋、それの橋脚基礎になります。昭和10年(1935)に開通した立派なものだったそうですが、橋桁が低く江戸川が増水すると度々通行止めになってしまったとか。そんな状態だったため600m下流に架橋された現在の流山橋(県道6号線)に取って代わられることに、昭和40年(1965)のことでした。
橋が架かる前は渡し舟だったそうです。
では鰭ヶ崎駅から帰ります。駅の近くで見つけました。上がパーマ屋で下が床屋、こういうのってありそうで実はなかなか無いんじゃないでしょうか。
そうそう、大事なことを忘れておりました。肝心の遊里ですが、閻魔堂の男性によりますと、芸者さんはおられたそうです。しかし、遊廓のような色街は無かったとのこと、遊ぶためには前回レポした松戸の平潟遊廓までわざわざ通っていたそうです。これは松戸が栄えていた証拠といえるかもしれませんね。以上、終着駅がある町、流山の探索でした。
そんな名店だとは露知らず・・・。
いきなり私事であれなのですが、今後拙ブログの更新がかなり不規則になると思われます。理由は超絶多忙のため・・・つい先日、合間を縫って中距離の町をチョコチョコっと探索してきましたが、これが実に四ヶ月ぶりという惨状ですから笑っちゃいます。いや、暢気に笑ってはいられないのですがね・・・。実際、そんな状況でフラフラしていてもいまいち楽しくないというのが正直なところなのです。おそらく今年いっぱいはこんな状況が続くと思います。更新を一日千秋の想いでお待ちの方・・・そんな奴はいないですって?知ってるよ(笑)とにかくこんな状況ですので、何卒お取り計らいのこと宜しくお願い致しますぞ。
ちょっと間が空いちゃいましたが、松戸市の次に訪れたのは隣町の流山市。先日、アド街で特集されていましたね。毎度のことになりますが、この町も大した下調べもないまま訪れておりましたので大変参考になりました。今回はその情報も盛り込みながらレポしていきたいと思います。この流山、松戸と同じく町の西を流れる江戸川の舟運で栄えた町だったみたい、それから新撰組別れの地・・・まあ、相変わらずの杜撰な下調べで知った予備知識はそんな程度なわけ。そんな程度なのになぜ訪れたのか!?理由は『流鉄』こと流山線の存在にあります。JR常盤線の馬橋駅から分岐している第三セクターの私鉄なのですが、大好物の盲腸線なのですよ。江戸川の向こうは東京というか、正確には埼玉県三郷市なのですが、そんな処を駅数たった5つしかないローカル線がガタゴト走っているという事実に以前から気になっておりました。まあ、もう一つ目的があるんですけどね。それについては追々レポの中で・・・。馬橋駅から12分で流山駅に到着、その駅前はいかにもローカル線の終着駅然としていて妙に安心したのはなぜでしょう。あ、忘れておりましたが、一応遊里情報もありますよ。
『流鉄』のあかぎ号、丸いライトがお気に入り。何処かで見たようなと思った方おられるのではないでしょうか。この車両、元は西武新101系・・・そう、嘗ては東京を走っていたのです。流山線の前身は大正5年(1916)に開業した流山軽便鉄道になります。
流山駅舎、サイディングで化粧されており古いんだか新しいんだかよく分からない。駅前には商店が数軒、歴史がありそうな建物も皆無、おまけに人影も皆無・・・と思ったらおりました、外国人だけど(笑)ウム、これぞ東京近郊の終着駅に相応しいと妙に納得。
駅前通りを真っ直ぐ行くと、地元で流山広小路と呼ばれている通りにぶつかります。これが嘗ての流山街道になります。旧街道に面しているのがアド街にも出てきた丁字屋さん。大正12年(1923)に建てられた足袋屋さんだったそうです。現在はイタリアンのお店として余生を送っております。典型的な関東の出桁造りの商家、見所は二階戸袋の銅板細工かな。
お隣には持ち送り状の装飾が並ぶ洋館、現在は蔵日和さんというベーカリー+カフェになっています。調べてみましたらこの建物、やっぱり前身はお医者さんだったそうです。
その先には呉服商の新川屋さん、此処もアド街で紹介されていましたね。重厚な黒漆喰の見世蔵は明治23年(1890)に建てられた国の登録文化財です。
戻って丁字屋さんの左隣、コチラは矢葉喜という割烹だったそうなのですが、門柱が大好物の擬木じゃありませんか。
その先の路地に入ると目的の閻魔堂があるのですが・・・って、お堂の前で新撰組の陣羽織姿の女の子集団が舞っているのですが・・・な、何コレ???近くにいた顔役?らしい男性に尋ねて納得、正解は後ほど。此処を訪れた目的はコレ、金子市之丞なる人物のお墓なのですが、別名流山のねずみ小僧と呼ばれているのです。市之丞は流山の出身、生家は醸造業だったそうですがあれこれあって勘当、盗賊に転業します。盗んだ金品を貧しい人々に配ったので義賊という当時のヒーローだったとか。そんな市之丞でしたがついに大阪でお縄頂戴・・・文化10年(1831)、小塚原の刑場であえなく獄門・・・。この墓石、実は初代じゃないそうです。お隣の松戸市に松戸競輪があるわけ、これを聞いてピンときた方いるのでは???そう、ギャンブラー達がゲン担ぎのお守りとして削って持ち帰ってしまうため何度か造り直しているそうです。森の石松なども同じ目に遭っているみたいですね。私も毎週totoを購入していますので入念に手を合わせたのですが・・・今のところ効果はありませぬ(笑)
実は市之丞のお墓が目的ではありません。それは隣にあるこの小さな墓石、コチラは市之丞が贔屓にしていた遊女三千歳のもの。何処の遊廓の遊女だったのだろうと考えておりましたら、男性から意外な一言が・・・。実はこの墓石、市之丞の妹のという説があるんだとか・・・エエーッですよね。
お堂の閻魔様、ベーッと舌を出しているのは珍しいものなんだとか。嘘つくと舌引っこ抜くぞ!!って意味なのでしょうかね。
依然として舞い続ける陣羽織集団、彼女たちは北総新撰組のご歴々。アド街でもちょっと紹介されていましたね。要するに新撰組大好きな歴女の皆さんです。ブログを拝見しましたが、あそこまでやるとは大したものです。ウーム、歴女の世界・・・深すぎるぞ。
閻魔堂の近くにある近藤勇陣屋跡。観光マップにも載っている有名な場所なのですが、さきほどの男性曰く、陣屋自体はかなり広範囲だったそうで此処限定で語られることに少し違和感があるんだとか。しかも、この土蔵は別の場所にあったのを移築したものだと聞くと・・・エエーッですよね。
適当にフラフラしていたらトタン塀が続く路地に迷い込んでしまいました。
路地を抜けると再び旧街道、二軒の商家がお出迎え。両方ともアド街に出てきました。
手前は明治22年(1889)に建てられた元乾物屋さんを万華鏡ギャラリーとして使っています。当日は休みだったみたい。二階の銅板製の扉がいいね。
そして冒頭画像の清水屋本店さん、明治35年(1902)創業の老舗和菓子屋さんです。アド街で写っていましたが、店内に建つ漆喰塗り?の白い円柱が気になるわけ。最中も美味しそうだったし、入ればよかった。
旧街道を少し行きますと広大なプラント風工場が見えてきます。キッコーマン万上みりん醸造工場です。流山は白みりんの発祥の地、欠かせない調味料ですから発見されなかったら日本料理は今頃どうなっていたでしょう。まあ、別の誰かが見つけていたでしょうけど。
さらに江戸川沿いを松戸方面に辿りますが、微妙な町並みが続くだけ・・・旧街道の面影は皆無です。
途中にあった完璧な窒息物件、杢目の合板が恐さに拍車をかけております。
此処もアド街に出てきました、一茶双樹記念館です。小林一茶とみりん醸造家五代目秋元三左衛門の親交を記念した資料館です。敷地は秋元本家跡で写っている建物は安政時代の母屋らしいです。閉館時間ピッタリに到着、係の方が雨戸を閉めておりました・・・残念。
近くにあるのが赤城神社。アド街では1000年前に起こった大洪水で、江戸川の上流にある赤城山の一部がこの地に流れ着き神社の杜になったとありました。その珍説が納得できるほどこの一画だけがポッコリと不自然に盛り上がっているのです。
狛犬は何となくライオン風、威厳ゼロですな。
そのまま江戸川の堤に出ましょう。こんな光景が見えるはずです。嘗て此処に架かっていたのが旧流山橋、それの橋脚基礎になります。昭和10年(1935)に開通した立派なものだったそうですが、橋桁が低く江戸川が増水すると度々通行止めになってしまったとか。そんな状態だったため600m下流に架橋された現在の流山橋(県道6号線)に取って代わられることに、昭和40年(1965)のことでした。
橋が架かる前は渡し舟だったそうです。
では鰭ヶ崎駅から帰ります。駅の近くで見つけました。上がパーマ屋で下が床屋、こういうのってありそうで実はなかなか無いんじゃないでしょうか。
そうそう、大事なことを忘れておりました。肝心の遊里ですが、閻魔堂の男性によりますと、芸者さんはおられたそうです。しかし、遊廓のような色街は無かったとのこと、遊ぶためには前回レポした松戸の平潟遊廓までわざわざ通っていたそうです。これは松戸が栄えていた証拠といえるかもしれませんね。以上、終着駅がある町、流山の探索でした。