インター脇の遊廓跡・フラードームの図書館・嘗ての町のランドマーク
ここまで草臥れ果てた国の登録文化財も珍しいのでは。
県民の方々には申し訳ないのですが、自分の中で遊里不毛の地と勝手に呼んでいるのが山梨県。ちゃんとしたという表現は変かもしれませんが、甲府の穴切遊廓ぐらいしかそういったものが存在しなかったみたいですので。それ以外となると、間違いなく何かがあったと思われる大好きな町富士吉田、そして点在する温泉地に小さな色街があったとか無かったとか・・・こんな感じですからね。まあ、山ばかりという地理的不利な面もあるのかもしれませんが、嘗ては甲州街道が貫いていたという事実もあるわけでして、どうも釈然としないんだよなあ。
そんな山梨県ですが、お馴染『全国遊廓案内』に甲府と共に記されているのが今回の上野原。県の東の端っこ、東京都と神奈川県に接している町ですが、嘗ては甲州街道の宿場として賑わった処でした。往時で本陣1、脇本陣2、旅籠20を数えたそうですから結構な規模だと思います。遊廓形成の由来がこの宿場なのかは不明ですが、おそらく各旅籠には飯盛女が控えていたのでしょう。そんな隆盛を誇った宿場でしたが、中央本線と中央自動車道の開通によって一気に寂れていくことになります。
『上野原町遊廓 山梨県上野原町字関山に在つて、中央線上野原駅で下車する。上野原は高燥の地に在つて、空気が善い。夏でも比較的涼しいので避暑地には善い処だ。町並びに附近一帯が機業の盛んな処である。附近には東京電燈の発電所がある。貸座敷は目下三軒あつて、娼妓は二十人程居る。附近の女が多い・・・』
この遊廓跡、結構珍しい場所にあるのです。戦後すぐ米軍が撮影した航空写真を見ますと、上野原駅のすぐ北側、一面の田畑がひろがる中に不自然な集落があるのが分かります。よく見ると特徴的な三軒の大きな屋根が・・・『全国遊廓案内』の記述と合致しているわけです。これが遊廓跡なのですが、航空写真を年代順に見ていくと面白いのです。昭和44年(1969)に中央自動車道の相模湖-河口湖間が開通し、遊廓跡のすぐ北側を車がビュンビュン走ることに。これで鉄道と高速に挟まれたことになりますね。これでも十分に面白いのですが、平成元年(1989)に今度は上野原ICが新設され、料金所からの取付道にグルリと囲まれてしまうのです。インター脇の遊廓跡、興味深いロケーションではないでしょうか。
河岸段丘の底にあるJR上野原駅。遊廓跡に行くためには急な坂道を登らねばなりません。途中にはどういう目的で建てられたのかは分かりませんが、旅館が数軒。全て廃屋と化しておりました。
振り返ると桂川、この急坂を造り出した張本人です。少し下流には相模湖があります。
高速への取付道を渡り、こんな切通しのダラダラ坂道をヒイヒイ言いながら登りきった先が遊廓跡の入口です。
此処が遊廓の入口だったと思われます。航空写真で確認しますと、左の建物辺りに貸座敷が一軒あったようです。
左に分岐する嘗てのメインストリートを行きますと旅館中屋さん。航空写真には此処にも一軒あったみたい。転業されたとみるのが正しいのかな?
メインストリートの突当りには大鷲神社。これで遊廓跡の探索はオシマイ・・・って、これではレポになりませんので、宿場跡も訪ねることに致しましょう。
宿場跡へは高速を橋で跨いで500mほど、単調な家並み続く通りをしばらく行きますと国道20号線にぶつかります。これが嘗ての甲州街道になります。
すぐに見つけたくすんだシルバートタン平葺きに包まれたお宅。奥に行きますと・・・
煙突がお辞儀してご挨拶・・・いかん、これでは不完全燃焼を起こしてしまうぞ。しかし、よく見ると底が抜けてた(笑)
旧街道沿いの光景・・・ポツリポツリと往時を物語る見世蔵などが見られますが、全体的にはいまひとつの風情。お隣の八百屋さんは良いんだけどネ。
八百屋さんの向かいには鳥居、奥にある牛倉神社のものです。
神社手前にある立派な破風を構えたお宅。かなり歴史があるのものだと思うのですが、正体不明です。
神社脇にある一見カフェー風に見えないこともない建物、地図には雀荘とあるのですが・・・。
このトンガリ具合が堪らんわけ。
その先には割烹。この一画、ちょっぴり艶っぽい雰囲気なのです。
旧街道に戻ると、今度はGSの廃墟。住まい部分?奥のお宅の造りが面白いですねえ。
上野原の名物が酒饅頭、旧街道沿いにも何軒か見られます。中でも人気なのがコチラの永井酒饅頭店さん。おかかに高菜なんて変わり物もありますが、ノーマルなつぶ餡を頂きました。一個80円、素朴な甘さだあ、美味しゅうございました。
少し行くと飲み屋さんが並ぶ長屋風の建物が見えてきます。それの脇を入っていきますと、古びた門が見えてくるはずです。
これが上野原宿本陣跡。門自体はしっかりしているようなのですが、なぜか両側の塀だけがボロボロ・・・。
内側には明治天皇が巡行の際宿泊した行在所が残っていたそうですが、昭和22年(1947)に焼失してしまいました。
再び旧街道に戻りました。三井屋さんは何を営んでいたのでしょう。
宿場跡の外れに残る赤い屋根の古い商家。ちなみに此処から三つ先の犬目宿、つげ義春著『貧困旅行記』の猫町紀行のモデルになった場所です。
どうやら赤い屋根の正体は薬局だったようです。此処で旧街道とはお別れ、右折して山側に入ります。
今回は珍しく時間に余裕があるため図書館で遊廓のことを調べようと思ったのですが、驚いたのが図書館の構造。コレ、フラードームではありませんか。フラードームとは、米国の建築家・思想家・詩人というマルチな顔を持つバックミンスター・フラー博士が発明した建物の構造形式になります。当時(1947)はごつい柱や梁を用いた構造がまだまだ主流でしたが、このフラードームは細い部材で二種類の三角形を作り、それを交互に繋ぎ合せることで大空間を作り出すという画期的なものでした。世界中で大流行しましたが、日本ではあまり流行りませんでしたね。これに代わるのがバブルの頃流行した東京ドームなどで見られる膜構造になりますか。
それにしてもこんな処でフラードームに出会うとは・・・ちょっと感動したのはいいのですが、遊廓関係の収穫は皆無・・・。図書館の前に建つ洋館風のお宅?車庫の上は物干し場です。
近くの市立上野原小学校の校庭に巨木がそびえています。上野原の大ケヤキ、推定樹齢800年以上だそうです。
小学校の向かいに月見が池というため池があります。ちょっと一休みのつもりで寄ったのですが、岸辺の石碑にこう刻まれていました。『ため池百選』・・・農水省で選定しているそうなのですが、こんな百選もあるんですねえ(笑)
帰りは旧街道と並行している裏道を・・・是非とも見ておきたい物件があるのです。露わになった小舞の先、くすんだ黄色の外壁がそれになります。
旧大正館・・・名前のとおり大正13年(1924)に建てられた映画館です。横に連続する窓と円柱がモダンですね。しかし側面は崩壊しているし、元は何色だったのか想像できないほどの凄まじい退色っぷり・・・こんな状態でも国の登録文化財なんですよね。
昭和63年(1988)まで現役だったそうです。現在は倉庫ということなのですが、こりゃ相当長いこと放置プレイされておりますぞ。
突き出したもぎりの窓口がお気に入りです。
外から直に映写室に入れるって珍しいのではないでしょうか。こんな惨状でも嘗ては町のランドマークだったのでしょうね。
駅に向かう途中、砂利敷きの脇道に古びた長屋?が並んでいるのに気付きました。
誰も住んでいないみたい・・・此処ではどんな暮らしがあったのでしょうね。
以上、遊廓跡や宿場跡探しのはずが、いつのまにかフラードームが全部持っていってしまった上野原の探索でした。次回は隣町、湖畔にあったという遊廓跡を探します。
ここまで草臥れ果てた国の登録文化財も珍しいのでは。
県民の方々には申し訳ないのですが、自分の中で遊里不毛の地と勝手に呼んでいるのが山梨県。ちゃんとしたという表現は変かもしれませんが、甲府の穴切遊廓ぐらいしかそういったものが存在しなかったみたいですので。それ以外となると、間違いなく何かがあったと思われる大好きな町富士吉田、そして点在する温泉地に小さな色街があったとか無かったとか・・・こんな感じですからね。まあ、山ばかりという地理的不利な面もあるのかもしれませんが、嘗ては甲州街道が貫いていたという事実もあるわけでして、どうも釈然としないんだよなあ。
そんな山梨県ですが、お馴染『全国遊廓案内』に甲府と共に記されているのが今回の上野原。県の東の端っこ、東京都と神奈川県に接している町ですが、嘗ては甲州街道の宿場として賑わった処でした。往時で本陣1、脇本陣2、旅籠20を数えたそうですから結構な規模だと思います。遊廓形成の由来がこの宿場なのかは不明ですが、おそらく各旅籠には飯盛女が控えていたのでしょう。そんな隆盛を誇った宿場でしたが、中央本線と中央自動車道の開通によって一気に寂れていくことになります。
『上野原町遊廓 山梨県上野原町字関山に在つて、中央線上野原駅で下車する。上野原は高燥の地に在つて、空気が善い。夏でも比較的涼しいので避暑地には善い処だ。町並びに附近一帯が機業の盛んな処である。附近には東京電燈の発電所がある。貸座敷は目下三軒あつて、娼妓は二十人程居る。附近の女が多い・・・』
この遊廓跡、結構珍しい場所にあるのです。戦後すぐ米軍が撮影した航空写真を見ますと、上野原駅のすぐ北側、一面の田畑がひろがる中に不自然な集落があるのが分かります。よく見ると特徴的な三軒の大きな屋根が・・・『全国遊廓案内』の記述と合致しているわけです。これが遊廓跡なのですが、航空写真を年代順に見ていくと面白いのです。昭和44年(1969)に中央自動車道の相模湖-河口湖間が開通し、遊廓跡のすぐ北側を車がビュンビュン走ることに。これで鉄道と高速に挟まれたことになりますね。これでも十分に面白いのですが、平成元年(1989)に今度は上野原ICが新設され、料金所からの取付道にグルリと囲まれてしまうのです。インター脇の遊廓跡、興味深いロケーションではないでしょうか。
河岸段丘の底にあるJR上野原駅。遊廓跡に行くためには急な坂道を登らねばなりません。途中にはどういう目的で建てられたのかは分かりませんが、旅館が数軒。全て廃屋と化しておりました。
振り返ると桂川、この急坂を造り出した張本人です。少し下流には相模湖があります。
高速への取付道を渡り、こんな切通しのダラダラ坂道をヒイヒイ言いながら登りきった先が遊廓跡の入口です。
此処が遊廓の入口だったと思われます。航空写真で確認しますと、左の建物辺りに貸座敷が一軒あったようです。
左に分岐する嘗てのメインストリートを行きますと旅館中屋さん。航空写真には此処にも一軒あったみたい。転業されたとみるのが正しいのかな?
メインストリートの突当りには大鷲神社。これで遊廓跡の探索はオシマイ・・・って、これではレポになりませんので、宿場跡も訪ねることに致しましょう。
宿場跡へは高速を橋で跨いで500mほど、単調な家並み続く通りをしばらく行きますと国道20号線にぶつかります。これが嘗ての甲州街道になります。
すぐに見つけたくすんだシルバートタン平葺きに包まれたお宅。奥に行きますと・・・
煙突がお辞儀してご挨拶・・・いかん、これでは不完全燃焼を起こしてしまうぞ。しかし、よく見ると底が抜けてた(笑)
旧街道沿いの光景・・・ポツリポツリと往時を物語る見世蔵などが見られますが、全体的にはいまひとつの風情。お隣の八百屋さんは良いんだけどネ。
八百屋さんの向かいには鳥居、奥にある牛倉神社のものです。
神社手前にある立派な破風を構えたお宅。かなり歴史があるのものだと思うのですが、正体不明です。
神社脇にある一見カフェー風に見えないこともない建物、地図には雀荘とあるのですが・・・。
このトンガリ具合が堪らんわけ。
その先には割烹。この一画、ちょっぴり艶っぽい雰囲気なのです。
旧街道に戻ると、今度はGSの廃墟。住まい部分?奥のお宅の造りが面白いですねえ。
上野原の名物が酒饅頭、旧街道沿いにも何軒か見られます。中でも人気なのがコチラの永井酒饅頭店さん。おかかに高菜なんて変わり物もありますが、ノーマルなつぶ餡を頂きました。一個80円、素朴な甘さだあ、美味しゅうございました。
少し行くと飲み屋さんが並ぶ長屋風の建物が見えてきます。それの脇を入っていきますと、古びた門が見えてくるはずです。
これが上野原宿本陣跡。門自体はしっかりしているようなのですが、なぜか両側の塀だけがボロボロ・・・。
内側には明治天皇が巡行の際宿泊した行在所が残っていたそうですが、昭和22年(1947)に焼失してしまいました。
再び旧街道に戻りました。三井屋さんは何を営んでいたのでしょう。
宿場跡の外れに残る赤い屋根の古い商家。ちなみに此処から三つ先の犬目宿、つげ義春著『貧困旅行記』の猫町紀行のモデルになった場所です。
どうやら赤い屋根の正体は薬局だったようです。此処で旧街道とはお別れ、右折して山側に入ります。
今回は珍しく時間に余裕があるため図書館で遊廓のことを調べようと思ったのですが、驚いたのが図書館の構造。コレ、フラードームではありませんか。フラードームとは、米国の建築家・思想家・詩人というマルチな顔を持つバックミンスター・フラー博士が発明した建物の構造形式になります。当時(1947)はごつい柱や梁を用いた構造がまだまだ主流でしたが、このフラードームは細い部材で二種類の三角形を作り、それを交互に繋ぎ合せることで大空間を作り出すという画期的なものでした。世界中で大流行しましたが、日本ではあまり流行りませんでしたね。これに代わるのがバブルの頃流行した東京ドームなどで見られる膜構造になりますか。
それにしてもこんな処でフラードームに出会うとは・・・ちょっと感動したのはいいのですが、遊廓関係の収穫は皆無・・・。図書館の前に建つ洋館風のお宅?車庫の上は物干し場です。
近くの市立上野原小学校の校庭に巨木がそびえています。上野原の大ケヤキ、推定樹齢800年以上だそうです。
小学校の向かいに月見が池というため池があります。ちょっと一休みのつもりで寄ったのですが、岸辺の石碑にこう刻まれていました。『ため池百選』・・・農水省で選定しているそうなのですが、こんな百選もあるんですねえ(笑)
帰りは旧街道と並行している裏道を・・・是非とも見ておきたい物件があるのです。露わになった小舞の先、くすんだ黄色の外壁がそれになります。
旧大正館・・・名前のとおり大正13年(1924)に建てられた映画館です。横に連続する窓と円柱がモダンですね。しかし側面は崩壊しているし、元は何色だったのか想像できないほどの凄まじい退色っぷり・・・こんな状態でも国の登録文化財なんですよね。
昭和63年(1988)まで現役だったそうです。現在は倉庫ということなのですが、こりゃ相当長いこと放置プレイされておりますぞ。
突き出したもぎりの窓口がお気に入りです。
外から直に映写室に入れるって珍しいのではないでしょうか。こんな惨状でも嘗ては町のランドマークだったのでしょうね。
駅に向かう途中、砂利敷きの脇道に古びた長屋?が並んでいるのに気付きました。
誰も住んでいないみたい・・・此処ではどんな暮らしがあったのでしょうね。
以上、遊廓跡や宿場跡探しのはずが、いつのまにかフラードームが全部持っていってしまった上野原の探索でした。次回は隣町、湖畔にあったという遊廓跡を探します。