拡幅されていた宿場跡・静かな湖畔の遊廓跡・中腹の巨大ラブレター
豪壮な五層楼の本陣、見たかったです。
前回の上野原市と県境を挟んで隣り合っているのが相模原市。区政が布かれた自治体だというのを知らなかったというのはここだけの話、随分と大きな市なのですね。相模原市の西の外れにあるのが相模湖、前回ちょっと記した桂川(神奈川県側では相模川)を堰き止めて造った人造湖になります。その湖畔にあるのが吉野の集落、嘗ては甲州街道10番目の宿場でした。もちろん、江戸時代に相模湖は存在しておりませんので当時は河岸段丘の崖上にあったということになりますか。往時の規模は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒とのこと、小さな宿場だったようです。小規模だったとはいえ宿場に遊里有りです。以下は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。
『吉野町吉野遊廓 神奈川県津久井郡吉野町字吉野に在つて、中央線与瀬駅で下車すれば西へ約一里の処に位して居る。乗合自動車の便があつて、大房商店前で下車すれば宜しい。賃五十銭。吉野は甲州街道の古い宿場で、安政四年時分には旅館兼遊女屋が十八軒もあつて、町も相当に繁華したものであるが、鉄道が開設され次いで明治三十六年には現在の個所に遊廓と成つて移転してからは急に淋れて、現在では貸座敷がたつた三軒に減少し、娼妓も十三人しか居なく成つた・・・娼妓は神奈川県東京府等の女が多い。妓楼は柴田楼、常盤楼、中山楼の三軒である』
往時で旅籠3軒だったのに旅籠兼遊女屋が18軒・・・何だかつじつまが合わないんですけど。もうこれは宿場というより町全体が遊廓といった感じだったのではないのかと・・・もし貴方が旅人だったら素通りできますか?(笑)まあ、以上のちぐはぐな事柄は置いといて、以下は宿場跡の資料館の方に伺った話です。遊女屋は6軒あったそうです。しかし、明治29年(1896)に発生した大火で集落は壊滅。その後、遊廓は崖下の川岸に移転することになります。しかし、資料館の方もはっきりとした場所までは判らないとのこと。この遊廓、細々とですが売防法施行まで継続、その時点で3軒だったそうです。移転時期、その後の規模などは『全国遊廓案内』と合致していますね。この遊廓跡なのですが、移転当時は川岸だったのが戦後相模湖の完成によって湖畔になってしまうわけです。湖畔の遊廓ってかなり珍しいんじゃないでしょうか。
『全国遊廓案内』には与瀬駅とありますが、これは現在の相模湖駅のことになります。私は手前の藤野駅で下車、吉野は両駅の中間に位置しています。駅前の元旅館と思われるお宅、戸袋に鏝絵で屋号が描かれています。
コチラも駅前にあった古い商店を使った休憩所?こういうのちょっと苦手・・・。
相模湖に沿って走る国道20号線が嘗ての甲州街道なのですが、歩道が無いのにダンプやトラックがビュンビュン、かなり危険なので脇道を行くことにします。途中にある藤野中学校の校門ではこんな門番が挨拶してくれました。
頃合をみて旧街道に戻ります。相模湖の入り江を渡ると吉野宿跡の入口です。
入口に建つ庚申塚・・・気付いたのですが、どうやら通りが拡幅されたばかりのようです。この時点では湖畔に移転していたという事実を知りませんでしたので、こりゃ遺構の類は無理だなという諦めの境地でしたね。
家並みの中ほどにあるのが吉野宿ふじや。嘗ては旅籠だったそうですが、大火で焼けてしまいこの建物は明治30年(1897)以降に建て替えたものになります。現在は吉野宿の歴史を伝える資料館として余生を送っています。道路拡幅に伴い曳家で動かしたそうです。此処で前書きにあるお話を伺いました。
コレ、明治10年(1877)頃の宿場の様子を示したジオラマになります。クリックして頂くと遊女屋の位置が分かります。写ってはいませんが、手前にも紅葉楼というお店がありました。合わせて6軒ということになります。
在りし日の本陣、正しくは吉野十朗右衛門宅の姿、なんと木造5階建てですぞ。小さな宿場には勿体無いほどの逸品でございます。現在はというと・・・
袖蔵のみが残るだけ・・・。それでは遊廓跡を探すと致しましょう。
近くにある相模湖大橋、その袂から見下ろした光景。手前のシルバー屋根のお宅が気になりましたが、よく見ると昔からの農家といった感じの造り、これじゃないと思います。奥の変なのは釣り船屋さんです。
湖畔に降りて探してみるとこんな石垣を見つけたわけ。
僅かに入口の痕跡が残っているのお分かりになります???帰ってから航空写真を見てみますと、60年代まで特徴的な大きな屋根が手前に1軒、奥に2軒並んでいるのを確認致しました。おそらく此処で間違いないと思います。
振り返ってみるとこんな感じ。どんな建物だったのかは皆目検討がつきませんが、二階の手摺に物憂げに寄りかかった娼妓も同じ光景を見ていたと考えると感慨深いものがありますな。当時との違いは行き来するバス釣りのボートだけ・・・。
相模湖大橋からの眺め・・・画面中央にコンクリートの基礎みたいなものがありますね。嘗てあそこには勝瀬橋という吊橋が架かっておりました。老朽化で架け替えとなったのが現在の相模湖大橋というわけです。面白いのは勝瀬橋を渡った先、派手な看板で判ると思いますがラブホがあるのです。それも3軒・・・これは何かの偶然でしょうか。画像の左隅、対岸に見えるこれまた派手な建物です。実はこれまたラブホ、しかも廃墟なのです。業界でも結構有名な物件だったりするわけ。
藤野駅に戻って参りました。駅前から南の方角を見ると、山の中腹に巨大なラブレターがあるのです。中央高速や列車の車窓からも見えますのでお気付きの方も多いと思います。
通称緑のラブレター・・・横26m、縦16mあるそうです。緑に侵食されているように見えますが、あれは手の形です。造形作家高橋政行氏の作品、昭和60年(1985)、相模原市と合併する前の藤野町の依頼で造ったものになります。それから約30年、近くで見るとボロボロなんだとか。こういうのは遠くから眺めるにかぎりますな。
以上、湖畔にあった小さな遊里跡でした。遊廓にラブホに有名廃墟・・・お手軽な観光地というイメージの相模湖にも様々な暗部があるわけです。
豪壮な五層楼の本陣、見たかったです。
前回の上野原市と県境を挟んで隣り合っているのが相模原市。区政が布かれた自治体だというのを知らなかったというのはここだけの話、随分と大きな市なのですね。相模原市の西の外れにあるのが相模湖、前回ちょっと記した桂川(神奈川県側では相模川)を堰き止めて造った人造湖になります。その湖畔にあるのが吉野の集落、嘗ては甲州街道10番目の宿場でした。もちろん、江戸時代に相模湖は存在しておりませんので当時は河岸段丘の崖上にあったということになりますか。往時の規模は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒とのこと、小さな宿場だったようです。小規模だったとはいえ宿場に遊里有りです。以下は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。
『吉野町吉野遊廓 神奈川県津久井郡吉野町字吉野に在つて、中央線与瀬駅で下車すれば西へ約一里の処に位して居る。乗合自動車の便があつて、大房商店前で下車すれば宜しい。賃五十銭。吉野は甲州街道の古い宿場で、安政四年時分には旅館兼遊女屋が十八軒もあつて、町も相当に繁華したものであるが、鉄道が開設され次いで明治三十六年には現在の個所に遊廓と成つて移転してからは急に淋れて、現在では貸座敷がたつた三軒に減少し、娼妓も十三人しか居なく成つた・・・娼妓は神奈川県東京府等の女が多い。妓楼は柴田楼、常盤楼、中山楼の三軒である』
往時で旅籠3軒だったのに旅籠兼遊女屋が18軒・・・何だかつじつまが合わないんですけど。もうこれは宿場というより町全体が遊廓といった感じだったのではないのかと・・・もし貴方が旅人だったら素通りできますか?(笑)まあ、以上のちぐはぐな事柄は置いといて、以下は宿場跡の資料館の方に伺った話です。遊女屋は6軒あったそうです。しかし、明治29年(1896)に発生した大火で集落は壊滅。その後、遊廓は崖下の川岸に移転することになります。しかし、資料館の方もはっきりとした場所までは判らないとのこと。この遊廓、細々とですが売防法施行まで継続、その時点で3軒だったそうです。移転時期、その後の規模などは『全国遊廓案内』と合致していますね。この遊廓跡なのですが、移転当時は川岸だったのが戦後相模湖の完成によって湖畔になってしまうわけです。湖畔の遊廓ってかなり珍しいんじゃないでしょうか。
『全国遊廓案内』には与瀬駅とありますが、これは現在の相模湖駅のことになります。私は手前の藤野駅で下車、吉野は両駅の中間に位置しています。駅前の元旅館と思われるお宅、戸袋に鏝絵で屋号が描かれています。
コチラも駅前にあった古い商店を使った休憩所?こういうのちょっと苦手・・・。
相模湖に沿って走る国道20号線が嘗ての甲州街道なのですが、歩道が無いのにダンプやトラックがビュンビュン、かなり危険なので脇道を行くことにします。途中にある藤野中学校の校門ではこんな門番が挨拶してくれました。
頃合をみて旧街道に戻ります。相模湖の入り江を渡ると吉野宿跡の入口です。
入口に建つ庚申塚・・・気付いたのですが、どうやら通りが拡幅されたばかりのようです。この時点では湖畔に移転していたという事実を知りませんでしたので、こりゃ遺構の類は無理だなという諦めの境地でしたね。
家並みの中ほどにあるのが吉野宿ふじや。嘗ては旅籠だったそうですが、大火で焼けてしまいこの建物は明治30年(1897)以降に建て替えたものになります。現在は吉野宿の歴史を伝える資料館として余生を送っています。道路拡幅に伴い曳家で動かしたそうです。此処で前書きにあるお話を伺いました。
コレ、明治10年(1877)頃の宿場の様子を示したジオラマになります。クリックして頂くと遊女屋の位置が分かります。写ってはいませんが、手前にも紅葉楼というお店がありました。合わせて6軒ということになります。
在りし日の本陣、正しくは吉野十朗右衛門宅の姿、なんと木造5階建てですぞ。小さな宿場には勿体無いほどの逸品でございます。現在はというと・・・
袖蔵のみが残るだけ・・・。それでは遊廓跡を探すと致しましょう。
近くにある相模湖大橋、その袂から見下ろした光景。手前のシルバー屋根のお宅が気になりましたが、よく見ると昔からの農家といった感じの造り、これじゃないと思います。奥の変なのは釣り船屋さんです。
湖畔に降りて探してみるとこんな石垣を見つけたわけ。
僅かに入口の痕跡が残っているのお分かりになります???帰ってから航空写真を見てみますと、60年代まで特徴的な大きな屋根が手前に1軒、奥に2軒並んでいるのを確認致しました。おそらく此処で間違いないと思います。
振り返ってみるとこんな感じ。どんな建物だったのかは皆目検討がつきませんが、二階の手摺に物憂げに寄りかかった娼妓も同じ光景を見ていたと考えると感慨深いものがありますな。当時との違いは行き来するバス釣りのボートだけ・・・。
相模湖大橋からの眺め・・・画面中央にコンクリートの基礎みたいなものがありますね。嘗てあそこには勝瀬橋という吊橋が架かっておりました。老朽化で架け替えとなったのが現在の相模湖大橋というわけです。面白いのは勝瀬橋を渡った先、派手な看板で判ると思いますがラブホがあるのです。それも3軒・・・これは何かの偶然でしょうか。画像の左隅、対岸に見えるこれまた派手な建物です。実はこれまたラブホ、しかも廃墟なのです。業界でも結構有名な物件だったりするわけ。
藤野駅に戻って参りました。駅前から南の方角を見ると、山の中腹に巨大なラブレターがあるのです。中央高速や列車の車窓からも見えますのでお気付きの方も多いと思います。
通称緑のラブレター・・・横26m、縦16mあるそうです。緑に侵食されているように見えますが、あれは手の形です。造形作家高橋政行氏の作品、昭和60年(1985)、相模原市と合併する前の藤野町の依頼で造ったものになります。それから約30年、近くで見るとボロボロなんだとか。こういうのは遠くから眺めるにかぎりますな。
以上、湖畔にあった小さな遊里跡でした。遊廓にラブホに有名廃墟・・・お手軽な観光地というイメージの相模湖にも様々な暗部があるわけです。