驟雨に濡れる遊廓跡・謎の料亭割烹街の正体は・水路から路地へ路地から水路へ
市の花を模した街灯、気に入っちゃいました。
今回からは越後新潟シリーズ、2年半ぶりになりますか。ちょっと前のレポの中で今後超絶多忙ための更新が滞ると記しました。実はこの状態は5月から延々と続いているわけです。何となく先が見えてきたのが9月になってから、それまでの4ヶ月間は探索にも行けないという惨状ですから、そりゃあもう酷いものです。一応ブログの更新は継続していましたが、あれは書き溜めていた在庫があったから、今やスッカラカンですから。合間をみて出掛けられるようにはなりましたが、そんな状態でフラフラしてもいまひとつ楽しめないわけ。かといってストレスは溜まるばかり・・・そして遂には爆発・・・あ、爆発といっても自爆だから被害者は私だけですので(笑)もうあかん!!何処か行く!!超特急で計画を策定、始発の超特急に飛び乗ったのでした。
初っ端は新潟県北部に位置する胎内市中条です。元々は中条町でしたが、平成17年(2005)に黒川村との合併で誕生したのが胎内市になります。胎内って珍しい響きですよね。これは市内を流れる胎内川が由来となっているのですが、その語源はアイヌ語の清い川『テイ・ナイ』或いは泥の川『トイ・ナイ』からきているそうです。新潟市沼垂(ぬったり)もそうでしたが、越後は蝦夷といろいろと繋がりの深い地ですよね。さて、この中条ですが、江戸の頃は南の新発田、北の村上という城下町の中間に位置する宿場町だったようです。3と8がつく日には市も立っていたそうですので、物資の集積地でもあったわけです。
『中條町遊廓 新潟県北蒲原郡中條町に在つて、羽越線中條駅で下車すれば約二丁も無い処であるから、何も乗物に乗る必要は無い。此の町は別に取り立てて云ふ程の事は無いが、米、麦、梨等の農産物が相当に出るので、此の地方の町としては相当の重きをなして居る。尚此の町をして有名たらしめたものは、中條町遊廓の遊興費の低廉な事を興つて力あるとさへ人々は噂さして居る。現在此の遊廓に貸座敷が十二軒あつて、娼妓が全部で五十一人居る・・・』
以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。こう言っては何なのですが、特徴の乏しい町に結構な規模の遊廓が存在していたというのがちょっと意外でした。肝心の場所ですが、地図を見ますと西栄町にどういうわけか料亭や割烹が集まっているのです。当初はこの辺りなのかなと当たりをつけていたのですが、ネットの情報によりますと逆側の新栄町にあったと知るに至りました。戦後すぐに撮影された航空写真で確認しますと、確かに町の区割から不自然に飛び出した通りに沿って家並みが続いているのが判ります。とはいえ、上から見た感じではありがちな造りみたいなものは見当たらないような・・・。まあ、とりあえず此処を訪ねてみましょうか。
中条駅に着いた途端、物凄い豪雨。雨雲レーダーを見ると中条上空にだけ雨雲があるんですけど・・・これは不吉だ。暫しの雨宿りの後歩き出しました。駅前通りを真っ直ぐ、本町の交差点を右折すると遊廓の入口です。ブライダル会館ぬのかわさんの看板がステキ。
残念ながら名残みたいなものは残っておりません。しいて言えばこんな飲み屋さんになるのでしょうか。この遊廓、戦前で無くなっていたのかもしれませんね。
コチラも名残と言えるのかもしれません。現役という感じではありませんでしたが・・・。この先でメインストリートは真新しい通りにぶつかって終わっておりました。
メインストリートに並行している裏通りも探ってみましたが収穫は皆無。
名無しの小さな神様もありましたがこれまた収穫無し。中条の飛び出し坊やは女の子です。
反対側の裏通りにあった飲み屋さん、明らかに新しい建物ですな。遊廓跡を諦めまして本町の交差点に戻り今度は左折、料亭や割烹がある西栄町を目指します。
途中の路地裏にも割烹がありました。三嶋屋さんです。
旧道と思われる通りを行きますと道幅が急激に広がっているわけ。一目で最近になって拡幅されたものと判るのですが、初めて地図を見たときは此処が遊廓跡に間違いないと思い込んでしまったというのはここだけの話(笑)左は神田醸造所さん、醤油の蔵元です。
右の通りに入ると見事な土蔵が残っています。文政7年(1824)創業の荒惣さん。現在は文具店ですが、創業当時は両替商兼質屋だったそうです。
その先に重厚な入母屋造りが見えてきます。料亭南都屋さん、かなりの大店ですな。
コチラも創業は江戸末期、その頃は魚屋だったそうですが、明治になって料理屋に転業されたそうです。現在の建物は昭和8年(1933)頃に建て替えたものになります。ここにきて再び雨が激しくなってきた・・・。
近くのガレージをお借りしてまた雨宿り、スケジュールが詰まっております。これ以上は勘弁して・・・。
近くにあるのが明治3年(1870)創業の割烹丸市さん。これまた見事な造りだ。
創業当時からの建物かは判りませんが、玄関部分が立派すぎて後ろの母屋が見えません。この辺りコチラ以外にも数軒の割烹があるわけ、謎の一画なのです。
中条で気に入ったのがこの街灯。市の花がチューリップとことですので、それをモチーフにしているのだと思います。まあ、チューリップは下向いて咲かないだろとは思いますが(笑)草臥れた黒のトタンとの組み合わせが絶妙。
熊野若宮神社の脇を水路が流れています。水路沿いに建つお宅がとてもいい感じなのです。
雨のせいで水が濁っているのはご愛嬌。やっぱり川っぺりっていいですなあ。
そのまま水路を辿っていきますと、一軒の飲み屋さんを見つけました。お店の脇に回り込んでみますと・・・
こんなリブ壁の連続が現れます。こういった建物に付き物の色褪せたピンクが堪りません。
適当に裏路地をクネクネ、ちょっと広い通りに出ました。下見板張りの先の鳥居は伏見稲荷社天満宮です。
旧道に戻りました。この町、私好みの近代建築などが一切無いのです。それなりに歴史もあるはずなのに、不思議といえば不思議。まあ、とりあえず時間の許す限り行けるところまで行ってみましょう。
旧道が直角に曲がる突当りある大輪寺さん。山門の先、参道の途中に鐘楼門があるのです。珍しい伽藍ですよね。此処で時間切れ、再び路地を通って駅に戻ります。
路地に入るとすぐに水路に出会いました。洗い場の跡みたいなものも確認できますね。かなり歴史あるものかもしれません。
この路地を選んで大正解!!
一度別れたはずの水路に再び合流、この裏路地巡り結構楽しめました。
行きのときは気付かなかったこんなお店が駅前にありました。
全てが昭和で止まっているようです。町も含めて・・・。
以上で驟雨に邪魔された中条の探索はオシマイ。遊廓跡よりも気になったのが謎の料亭割烹街、調べてみましたらこんな動画を見つけました。舞っているのは新潟市古町の芸妓衆ですが、やっぱり嘗ては花柳界が存在していたのです。今回の旅、こんな知られざる遊里的なケースが結構出てきます。期待して貰って宜しいかと。次回は鮭の町、村上です。
市の花を模した街灯、気に入っちゃいました。
今回からは越後新潟シリーズ、2年半ぶりになりますか。ちょっと前のレポの中で今後超絶多忙ための更新が滞ると記しました。実はこの状態は5月から延々と続いているわけです。何となく先が見えてきたのが9月になってから、それまでの4ヶ月間は探索にも行けないという惨状ですから、そりゃあもう酷いものです。一応ブログの更新は継続していましたが、あれは書き溜めていた在庫があったから、今やスッカラカンですから。合間をみて出掛けられるようにはなりましたが、そんな状態でフラフラしてもいまひとつ楽しめないわけ。かといってストレスは溜まるばかり・・・そして遂には爆発・・・あ、爆発といっても自爆だから被害者は私だけですので(笑)もうあかん!!何処か行く!!超特急で計画を策定、始発の超特急に飛び乗ったのでした。
初っ端は新潟県北部に位置する胎内市中条です。元々は中条町でしたが、平成17年(2005)に黒川村との合併で誕生したのが胎内市になります。胎内って珍しい響きですよね。これは市内を流れる胎内川が由来となっているのですが、その語源はアイヌ語の清い川『テイ・ナイ』或いは泥の川『トイ・ナイ』からきているそうです。新潟市沼垂(ぬったり)もそうでしたが、越後は蝦夷といろいろと繋がりの深い地ですよね。さて、この中条ですが、江戸の頃は南の新発田、北の村上という城下町の中間に位置する宿場町だったようです。3と8がつく日には市も立っていたそうですので、物資の集積地でもあったわけです。
『中條町遊廓 新潟県北蒲原郡中條町に在つて、羽越線中條駅で下車すれば約二丁も無い処であるから、何も乗物に乗る必要は無い。此の町は別に取り立てて云ふ程の事は無いが、米、麦、梨等の農産物が相当に出るので、此の地方の町としては相当の重きをなして居る。尚此の町をして有名たらしめたものは、中條町遊廓の遊興費の低廉な事を興つて力あるとさへ人々は噂さして居る。現在此の遊廓に貸座敷が十二軒あつて、娼妓が全部で五十一人居る・・・』
以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。こう言っては何なのですが、特徴の乏しい町に結構な規模の遊廓が存在していたというのがちょっと意外でした。肝心の場所ですが、地図を見ますと西栄町にどういうわけか料亭や割烹が集まっているのです。当初はこの辺りなのかなと当たりをつけていたのですが、ネットの情報によりますと逆側の新栄町にあったと知るに至りました。戦後すぐに撮影された航空写真で確認しますと、確かに町の区割から不自然に飛び出した通りに沿って家並みが続いているのが判ります。とはいえ、上から見た感じではありがちな造りみたいなものは見当たらないような・・・。まあ、とりあえず此処を訪ねてみましょうか。
中条駅に着いた途端、物凄い豪雨。雨雲レーダーを見ると中条上空にだけ雨雲があるんですけど・・・これは不吉だ。暫しの雨宿りの後歩き出しました。駅前通りを真っ直ぐ、本町の交差点を右折すると遊廓の入口です。ブライダル会館ぬのかわさんの看板がステキ。
残念ながら名残みたいなものは残っておりません。しいて言えばこんな飲み屋さんになるのでしょうか。この遊廓、戦前で無くなっていたのかもしれませんね。
コチラも名残と言えるのかもしれません。現役という感じではありませんでしたが・・・。この先でメインストリートは真新しい通りにぶつかって終わっておりました。
メインストリートに並行している裏通りも探ってみましたが収穫は皆無。
名無しの小さな神様もありましたがこれまた収穫無し。中条の飛び出し坊やは女の子です。
反対側の裏通りにあった飲み屋さん、明らかに新しい建物ですな。遊廓跡を諦めまして本町の交差点に戻り今度は左折、料亭や割烹がある西栄町を目指します。
途中の路地裏にも割烹がありました。三嶋屋さんです。
旧道と思われる通りを行きますと道幅が急激に広がっているわけ。一目で最近になって拡幅されたものと判るのですが、初めて地図を見たときは此処が遊廓跡に間違いないと思い込んでしまったというのはここだけの話(笑)左は神田醸造所さん、醤油の蔵元です。
右の通りに入ると見事な土蔵が残っています。文政7年(1824)創業の荒惣さん。現在は文具店ですが、創業当時は両替商兼質屋だったそうです。
その先に重厚な入母屋造りが見えてきます。料亭南都屋さん、かなりの大店ですな。
コチラも創業は江戸末期、その頃は魚屋だったそうですが、明治になって料理屋に転業されたそうです。現在の建物は昭和8年(1933)頃に建て替えたものになります。ここにきて再び雨が激しくなってきた・・・。
近くのガレージをお借りしてまた雨宿り、スケジュールが詰まっております。これ以上は勘弁して・・・。
近くにあるのが明治3年(1870)創業の割烹丸市さん。これまた見事な造りだ。
創業当時からの建物かは判りませんが、玄関部分が立派すぎて後ろの母屋が見えません。この辺りコチラ以外にも数軒の割烹があるわけ、謎の一画なのです。
中条で気に入ったのがこの街灯。市の花がチューリップとことですので、それをモチーフにしているのだと思います。まあ、チューリップは下向いて咲かないだろとは思いますが(笑)草臥れた黒のトタンとの組み合わせが絶妙。
熊野若宮神社の脇を水路が流れています。水路沿いに建つお宅がとてもいい感じなのです。
雨のせいで水が濁っているのはご愛嬌。やっぱり川っぺりっていいですなあ。
そのまま水路を辿っていきますと、一軒の飲み屋さんを見つけました。お店の脇に回り込んでみますと・・・
こんなリブ壁の連続が現れます。こういった建物に付き物の色褪せたピンクが堪りません。
適当に裏路地をクネクネ、ちょっと広い通りに出ました。下見板張りの先の鳥居は伏見稲荷社天満宮です。
旧道に戻りました。この町、私好みの近代建築などが一切無いのです。それなりに歴史もあるはずなのに、不思議といえば不思議。まあ、とりあえず時間の許す限り行けるところまで行ってみましょう。
旧道が直角に曲がる突当りある大輪寺さん。山門の先、参道の途中に鐘楼門があるのです。珍しい伽藍ですよね。此処で時間切れ、再び路地を通って駅に戻ります。
路地に入るとすぐに水路に出会いました。洗い場の跡みたいなものも確認できますね。かなり歴史あるものかもしれません。
この路地を選んで大正解!!
一度別れたはずの水路に再び合流、この裏路地巡り結構楽しめました。
行きのときは気付かなかったこんなお店が駅前にありました。
全てが昭和で止まっているようです。町も含めて・・・。
以上で驟雨に邪魔された中条の探索はオシマイ。遊廓跡よりも気になったのが謎の料亭割烹街、調べてみましたらこんな動画を見つけました。舞っているのは新潟市古町の芸妓衆ですが、やっぱり嘗ては花柳界が存在していたのです。今回の旅、こんな知られざる遊里的なケースが結構出てきます。期待して貰って宜しいかと。次回は鮭の町、村上です。