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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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東京都 文京区中湯島(湯島天神)200905・201210・201305

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天神様の門前の花柳界・路地裏に現われた黒板塀・現役の復興小学校

★夜の天神様、小さく写っておりますが、こんな時間だというのにうら若き女性が一人で参拝・・・なんだか怖い・・・。


 前回の不忍『池の端』に続きますのは、すぐ目と鼻の先、隣接する高台に位置する湯島天神の門前にひろがっていた花街跡を訪ねます。菅原道真公を祀る学問の神様、そして梅の名所として広く知られる天神様、初めて訪れたのは高校受験を控えた正月でした。国立競技場でアメフトのライスボールを友人と観戦した帰りに寄ったんだよなあ・・・当時もそうでしたが、未だにアメフトのルールを理解していないんですよね(笑)そのおかげか、私の努力の賜物か、はたまた単に運が良かっただけなのかは分かりませんが、何とか第一志望に合格することができたわけです。まあ、その頃から普段は無神論者なのに、苦しいときの何とやらという都合のいい人間というのは一貫しておりますが・・・。『全国花街めぐり』による昭和初期の様子からどうぞ。

 『昔、ころびの本場 菅公を祀る湯島神社を中心に起つた花街で、余り古いことは知らない寛政時代にはすでに若干の芸妓が居つたらしく「ころび芸妓」の名府内に喧伝されて居つたところから察すれば、発展家ぞろひであつたと見える。「ころんだら食はふふとついてゆく、芸妓の母のおくり狼」などといふ狂歌さへ出来てゐた。池の端の花街と殆んど接してゐるだけに常に池の端に圧されてゐる気味がある。しかし池の端が水に望んで独特の風趣を有せるに対して、ここは天神の台地を舞台として下町の夜の灯の海を一目に見おろし、忍ヶ丘の翠色を一望に収むる趣き、また甚だ捨てがたいものがある・・・』

 当時で芸妓置屋59軒、芸妓120名、料理屋15軒、待合31軒とのことですので、規模的には中くらいの花街だったようです。天神様から南に伸びる参道沿い、三組坂上辺りまでが嘗ての花街だったと思われます。『東京 花街・粋な街』によりますと、元々は界隈にあった訳ありカップルの密会用の出会い茶屋と、三大メッカでもあった陰間茶屋が由来とされているみたいです。それで上記の『ころび芸妓の本場』と呼ばれたのかもしれませんね。一応説明しておきますが『転び芸者』とは、本業としての芸事はもちろんですが、場合によっては娼妓にもなる芸妓ということです。客からしたら、理想的な女性なんじゃないかと思うのですが(笑)あ、もちろん現代の芸者さんは『ころびません』ので、くれぐれもお馬鹿な言動は謹んでくださいよ。

 幸いにもこの界隈は空襲の被害から逃れることができました。しかし、どこの花街も同様ですが、ゆっくりと衰退していくことになります。昭和34年(1959)には11軒あった料亭が、昭和47年(1972)には3軒、同52年(1977)で2軒・・・天神様の鳥居の向かいに見番があったそうですが、その頃には三業組合も解散し江戸時代から続いた花柳界は消え失せてしまうのでした。

註)各画像のキャプションに付けられた☆は2009年5月、★は2012年10月、◆は2013年5月に撮影されたことを示しています。



☆前回の続きになります。春日通りの南を並行する通り、この辺りが『池の端』の南端。通りの向かいには銅板張りの看板建築。引き分けの雨戸が珍しいと思いました。亀甲模様が綺麗ですね。



◆同じ並びにあるのがCaféシャルマンさん。絶妙な位置にあるステンドグラス、ストライプの目地の所々に貼られているのは大理石、このシンプルなファサードが妙に気に入ってしまったわけ。やっていなかったのが残念。



◆シャルマンさんの隣に校門があります。台東区立黒門小学校・・・あ、この辺りはまだ台東区なんだ・・・えーと、細かいツッコミはなしの方向で(笑)



◆黒門小学校の現校舎が建てられたのは昭和5年(1930)、所謂復興小学校です。復興小学校とは・・・関東大震災で倒壊・焼失した校舎を、帝都復興事業の一環として建設し直したものをいいます。鉄筋コンクリート造、先進的な設備、革新的な意匠等、当時としては最先端を行く建物でした。現在23区内に20校ほど残っておりますが、此処のように今も学校として現役なのは数えるほど・・・貴重な存在なのです。



◆昇降口廻りはアールデコです。



◆なんといっても表現主義的デザインのモダンな3階の窓が目を引きますよね。アーチというよりもオニギリに近いですけど(笑)戦後になると、標準設計なる画一的な基準が定められ、どれも似たような校舎が大量生産されるようになります。以前、そういった校舎の改修や耐震補強に結構携わったことがあるのですが、子供たちはこんな校舎でいいのかな?楽しいのかな?・・・と思うこと度々でした。まあ、私もそんな校舎で学んできた一人なんですけどね・・・。



☆近くの路地裏に凄い三階建てが・・・明らかに後から上に乗っけていますな。それにしても盛りすぎ(笑)



☆シンプルな看板建築のオフィス、それの角を隅切って造った入口。見上げるとこんなオシャレな軒天。こういうの大好きです。



☆東京メトロ千代田線が通る都道452号線に面して、いい感じに廃れた長屋形式の看板建築商店が並んでいます。レリーフがステキです。



☆すぐ背後にはタワーマンションが迫っております。



☆こちらは一色菓子店さん、もうやっていないみたい。いちばん上のがダミーに見えてしまうアーチ窓の並びが面白いですね。それでは通りを渡って天神様に向かうと致しましょう。



☆天神様のある高台の麓、空襲を逃れたと思われるお宅とラブホ・・・もしかすると、出会い茶屋や陰間茶屋の名残なのかもしれません。



☆近くにはこんなバラックみたいな三階建て・・・。



☆この日は天神様の例大祭でした。



☆近くのポケットパークの木陰では、祭りなど我関せずといった感じでニッカボッカ姿の職人さんが昼寝中・・・気持ち良さそう。



☆天神様の境内へ登る女坂の下にこの謎のお宅?があります。古びた押縁下見板張りの純和風建築です。



☆花街と関係あるのか不明ですが、『東京 花街・粋な街』によりますと、劇作家の久保田万太郎が此処にしばらく住んでいたそうです。



★夜の様子・・・今は空き家みたいですね。



☆例大祭の境内、屋台でいっぱいでした。



◆関係ない日でも出ているみたいですけど(笑)参拝を済ませたら、参道沿いにあったとされる花街の痕跡を探しましょう。



☆その前に・・・天神様がある高台の高低差がよく分かるのがこの実盛坂。かなりのものでしょ。



◆鳥居から続く通りに戻ってきましたよ。右はがまぐちやさんという喫茶店、戸袋の鏝絵・・・コレとそっくりなのを新小岩で見ているのですが・・・同じ職人さん???問題は左、かなり直されているようですが、雰囲気残っていると思いません???



◆脇の路地に入ると、界隈唯一の現役料亭である満川さんがあります。昭和23年(1948)創業の老舗、花街の盛衰を見守ってきたお店なんでしょうね。うどんすきが名物らしいです。



◆・・・路地を抜けると立派な黒板塀が現れましたぞ。佇まいは明らかに遺構そのものに見えるのですが・・・如何でしょう。



◆このアングルがお気に入りです。



◆タタキはごろた石の洗い出し、これ歩きにくいんですよね。表札には『杵屋』とあります。試しに検索してみたら意外な結果が・・・なんとコチラ、長唄のお師匠さんらしいです。花街跡の長唄師匠・・・遺構とするにはちょっと無理があるよなあ。



◆別の路地で見つけたお宅、角の出格子がいいですねえ。置屋さんではないかと・・・どうして?と聞かれても、なんとなく・・・としか答えられないのですが(笑)でも、2階の窓の位置が普通のお宅とは違うんですよ。



◆奥のお宅の造りも気になりませんか???トリコロールの旗が見えますが、現在は仏料理店みたいです。この界隈、こういった大人の隠れ家的なお店がたくさんあります。



◆次の目的地に向かうため三組坂上の先へ・・・すぐに出会ったのがコチラ。これも窓の配置が妙だなあ。そのうえ全ての窓に小庇をつけたものだから、更にカオスに・・・かといって破綻寸前でギリギリ留まっている・・・まあ、簡単に言えばカッコイイということです(笑)



◆正体は不明ですが、もしかするとこの辺りまで花街がひろがっていたのかもしれませんね。



◆気に入ったのが反対側の窓の配置・・・ちょっとしたアートですな。いいでしょコレ。



◆向かいのお宅もちょっと変、入母屋造りの一見すると料亭風・・・に見えなくもないわけ。地図には壷屋工場とあります。壷屋って最中で有名な和菓子屋さん、湯島天神の近くに総本店があったはず。此処で作っているわけ???



◆表札には湯島新花町と旧町名が・・・それにしてもいい雰囲気ですな。

実はレポのためにいろいろと調べ物をしていましたら、料亭満川さんの近くにまだ遺構らしきものが幾つか残っているという事実を知ってしまったわけ・・・相変わらず杜撰で申し訳ない。いずれ再訪しないとならないみたいです。このまま少し南へ行きますと、次回の神田明神下の花街跡に出るはずです。

山形県 米沢市201306 その1

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東北最大の規模を誇る酒蔵・絶品の看板建築を求めて・遊廓跡に唯一残る転業旅館?

コレが見たいがために米沢に来たようなものなのです。


 更新が滞っておりますが、一応生きておりますよ。いろいろと立て込んでおりまして・・・というのも現在の私、所謂サラリーマン状態なのです。知り合いの事務所の担当が病気で倒れてしまい、以前勤めていた事務所の上司であった所長に泣きつかれ、残務処理のクローザーとして絶賛?登板中。ですので、毎日定時の電車に乗り込み、混雑の中でもみくちゃになっている中の一人というわけ。まさか再びこの世界に戻ってきてしまうとは(笑)帰りは遅いし・・・土日は自分ところの仕事・・・その他野暮用が山積み・・・もちろん探索なんて行けやしない。そろそろ禁断症状も限界、このままだとヤバイと思っていたところ、一月半ぶりに時間をつくることができました。

 さて、何処に行きましょうか・・・急に決まったので、相変わらず下調べは杜撰そのものですぞ。とりあえず以前から気になっていた福島県二本松市を押えておいて・・・あと一ヶ所、此処も気になっていた桑折町にしようかな・・・などとブツブツ言いながら地図を眺めておりますと、目に飛び込んできたのが米沢の文字。そうか此処があったか!!まあ正直なところ、遊里跡ウンヌンよりも米沢牛というブランドに惹かれたというのはここだけの話だったりします(笑)前夜の下調べだけでは足りず、新幹線の中でもずーっと地図とネットを睨めっこ・・・この探索、大丈夫かいな・・・。あ、このレポ、拙ブログでは非常に稀な撮って翌日出しの出来立てホカホカ状態でお届けいたしますぞ。

 遊里関係はその2で記させていただくとして、まずは米沢市のことから・・・直江兼続が治めた米沢藩15万石の城下町として栄華を誇った町ですが、江戸中期になりますと、全国の諸藩同様に財政破綻寸前まで追い込まれることになります。主な原因は越後上杉家から続く200万石を越える家臣団を一度もリストラしなかったからだったとか・・・体裁と面子がそうさせたそうですが、現代でもよく聞かれる話ですよね。一時は幕府から領地没収寸前までいったそうですが、それを救ったのが『なせば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』の上杉鷹山。彼の古い体質の撤廃や優秀な若手の抜擢などによって米沢藩は奇跡の復活を遂げることになります。まあ、『なせば成る』で物事がうまくいけば世の中平和なんでしょうけど・・・そうはいかないのが世の常、とか思ってしまう私はひねくれているのでしょうか。

 町の特徴はと言いますと、鷹山を奉った上杉神社がある米沢城址を中心に整然とした区画がひろがる、まさに典型的な城下町の様相。ただ気になるのは、城下町というわりには古い町並み的な密集地帯が全く見られらないこと。通りの幅員も妙に広いし、私好みの路地も無さそう・・・。実は米沢は、大正6年(1917)と大正8年(1919)と二度にわたって発生した大火によって市街地の大部分が灰燼に帰しているのです。現在の町並みの殆んどはその後に再興されたものと思われます。通りが広いのも延焼を防ぐ手立てとして大火後に拡幅したのかもしれませんね。こんな感じですので町並み的にはあまり期待しないほうが良さそう・・・ただ、この町には以前から拝見したかった建物があるのです。絶品の看板建築なのですが、まだ残っていてくれるといいなあ。



米沢駅に降り立つとまさに梅雨の晴れ間、今日一日もってくれるといいのですが・・・。駅前に竜宮城!?こちらは昭和12年(1937)竣工のホテルおとわ本館(旧音羽屋旅館)、国の登録文化財です。入母屋に鯱、釣鐘窓、西洋風の柱型・・・摩訶不思議な和洋折衷の建物です。こう見えても鉄筋コンクリート造です。



着工は昭和2年、なんと竣工まで10年!?何があったのでしょう・・・職人泣かせの凝りまくりだったりして(笑)中が見てみたいですね。



駅から上杉神社のある町の中心まで西へ1.5キロほど・・・途中で出会ったキカイダーみたいな看板建築(笑)風に揺れるカーテンがいい感じ。



脇の空き地ではお婆ちゃんが草むしり中。コレ、お婆ちゃん家???



古びた路線バスの車庫、停留所看板の墓場がありました。



その先で最上川を渡ります。川向うが嘗ての米沢城下になります。土手に桜並木が見えますが、その向うがその2でお話しする福田遊廓跡、最後に訪れます。何か収穫があるといいのですが・・・。



???



城下を東西に貫く八谷街道(国道121号線)、真っ直ぐ行くと米沢城址なのですが、途中で左折。こちらのお宅も大火後に建てられたのでしょうか。



前方に豪壮な土蔵が見えてきました。海鼠壁に使われた平瓦の色がいいなあ。



これは美しい・・・こちらは東光の酒蔵、慶長2年(1597)創業の小嶋総本店の酒蔵を資料館として公開しています。本当の酒蔵は別ということ?1200坪の敷地に500坪の建物、中でも140坪の土蔵の仕込蔵は東北一の広さを誇っているそうです。



時間の都合で見学できなかった・・・残念。



八谷街道に戻る途中に見えてくるのが大正11年(1922)に建てられた米沢織物歴史資料館(旧米沢織物組合本館)です。米沢は機業地でもありました。草木染めの米沢織を奨励したのも上杉鷹山です。



妻壁に美しい朝顔と椿のステンドグラスが残っておりました。



隣にあるのが九里学園高校。昭和10年(1935)に建てられた下見板張りの見事な木造校舎が今も現役です。正面は桜の木が邪魔だし、校内には入れないし・・・こんなアングルでしか撮れませんでした。



近くにあった割烹東家さん、かなりの大店です。明治10年(1877)創業の老舗なんだとか。雪国でよく見かける、土蔵の窓を守る二重皮膜のカーテンウォールとでも申しましょうか、コレ好きなんですよね。正式名称はあるのでしょうか。



八谷街道沿いで見つけた美しいお宅です。



米沢城址に到着、鯉が泳いでいるのは嘗ての内堀、外堀もあったのですが埋められてしまったようです。



上杉神社は意外というか、当然というか、いかにもこじんまりとして質素な造り。しかし、参拝客の姿は絶えません。



お参りを済ませたら城址の南側へ・・・塀に謎のお手洗の表示。何このにじり口みたいな戸(笑)



塀の向こうにあるのが旧上杉伯爵邸、米沢城二の丸に建てられた上杉家十四代茂憲伯爵邸。明治29年(1896)竣工の初代は大正8年の大火で焼失、現在のは大正14年(1925)に再建された二代目になります。さすがは上杉家、こりゃ凄いわ。



あ、国の登録文化財ですよ。現在は米沢の名産を使ったお座敷レストランになっているみたい。ちょっと早いのですが此処にしようかな・・・米沢牛、米沢牛♪入口のメニューを見ますと・・・た、高っ!!ハイハイ、私にゃ庶民的なお店がお似合いですよ。



米沢牛にふられ・・・今度は城址の北側の丸の内、再び八谷街道に出ました。ほら、見えてきましたよ。



昭和4年(1929)に建てられた岡崎写真館さん。是非とも見たかったのがコレになります。円形の回転窓に小窓が連なる出窓・・・何でしょう、このアバンギャルド・・・かっこよすぎでしょう。



当時のままなのかはわかりませんが、単純に塗りたくっただけみたいなドイツ壁風の外壁の質感が素晴しいなあ。後から造ったと思われる窓台もカワイイなあ。しっくり馴染んでいるのも不思議(笑)



そして館名の独特なフォント・・・テッペンの出っ張りはカメラのレンズだったりして(笑)いやー、来て良かった。で、地図を見ていて気付いたのですが、この並びに妙に引っかかる物件があるのです。行き止まりの細い通り沿いに小さな建物がビッシリ・・・これはもしかして・・・。



ブハッ、あけぼの小路!!まさかの横丁建築の出現です。



おそるおそる、ちょっとお邪魔しますよ。なぜか車庫代わりになっておりますが・・・。



ひゃあ、こりゃ凄い・・・崩壊寸前ですな。



植物も侵食し始めておりますし・・・現役なのかなあ。



夜の姿が見てみたい・・・。



久々のドアマニアです。それにしても本当にあったとは・・・こういう発見は嬉しいなあ。

前半はここまで、後半では中央の小さな歓楽街を彷徨った後、最上川沿いの福田遊廓跡を訪ねます。結果は如何に・・・お楽しみに。

山形県 米沢市201306 その2

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中央の小さな歓楽街で見かけた光景です。


 『米澤市福田遊廓 山形県米澤市相生町に在つて、奥羽本線米澤駅で下車すれば西へ約六丁の位置に在る。旧上杉氏の城下で公園には鷹山公を奉つた上杉神社がある。鷹山公が製糸業を奨励し出して以来、米澤織の産地として天下に其の名の届かない処は無い。従つて織物の好況不況は直に遊廓にも影響する処と見て差閊えは無からう。宿場から現在の遊廓に移転したのは、明治十九年の五月で、当時は僅々五軒の同業者に過ぎなかったが、其の後漸次に増加して大正六年五月廿二日の大火災当時には既に十一軒に成つて居た。其後復興して現在営業続けて居る家は八軒あつて、娼妓は約三十五人居る。殆んどが同県下の女と少数の福島県の女とである・・・妓楼は丸喜楼、甘水楼、新芳楼、昌平楼、朝日楼、武蔵楼、住の江楼、東陽楼等がある。』

 以上は『全国遊廓案内』によるこれから向かう福田遊廓跡の昭和初期の様子になります。幸いにも相生町は現在も存在しておりまして、地図を見ますと一目瞭然、明らかに不自然な広い通りが残っているのを確認できると思います。米沢城がまだ健在の頃の古地図を見ますと、相生町の西は東寺町というお寺がズラリと並ぶ寺町でした。一方、相生町には何の表示もないのです。要するに当時は町ではなかったということになります。田畑か野原か・・・そこを新たに開発して形成された遊廓ということになるでしょうか。移転の理由は間違いなく風紀上の問題、如何わしいものは町の外れへということなのでしょう・・・まあ、何処も同じですな。



城北2丁目にも趣のある写真館があります。昭和初期に建てられたらしい相馬写真館さんです。おそらく鉄筋コンクリート造、方形屋根にオシャレなツートンカラー、△の小庇が面白いですね。『成人式おめでとう』・・・えーと、今6月なんですけど・・・。



陶器の表札がいいですね。



近くにあるのが日本基督教団米沢教会、可愛らしい小さな教会です。年代は不明ですが、おそらくこちらも大火後に再建されたものだと思います。残念ながら外壁が大嫌いなサイディングに替えられておりました。



米沢でよく見かけたのがこの『餅店』の文字、要するに和菓子屋さんのことなのですが、『餅は餅屋』の由来はこれなんだとか・・・嘘です(爆)



その先の家具屋さんのポツ窓がカッコイイ!!



中央にやって参りました。米沢随一の歓楽街とのことなのですが・・・思いっきり寂れております。まあ、私好みではあるんですけどね。



プレスリーが目印のKENTO’Sさんの入口はコチラ。



???



コンピュータを全面に押し出しておりました(笑)



近くに米沢では珍しい飲み屋さんがビッシリ集まった一画があります。その中を水路が流れておりまして、どんな光景なのか楽しみにしていたのですが・・・。



ウーム、ちょっとどころかかなり想像と違っていた・・・残念。



夜はどんな感じになるのでしょうね。



八谷街道の手前にあった激渋の喫茶店。物凄く惹かれますが・・・此処じゃ食べられないよね、米沢牛・・・。



八谷街道に戻ってきました。あとは遊廓跡を訪ねるだけ・・・ン?何この卑猥な造形(笑)どうやらこちら米沢出身の鈴木晋という画家の私設?美術館みたい。



一部がステキな看板建築になっております。こちらも大火後に建てられたものでしょうね。



傍らを流れる水路が建物を貫通しておりました。こういうの好きなんですよね〜。



行きに渡ってきた最上川の橋の袂、右手に見える湯殿山と刻まれた石碑が遊廓跡への目印です。それにしてもどうして湯殿山???



少し行きますと・・・お分かりになります?通りの幅員が不自然にひろがっておりますね。此処が入口だと思われます。



右手の市営住宅の前には名残の桜並木が数本残っていたそうなのですが・・・何も見当たりません。



法徳寺というお寺の駐車場の向こう、反りの美しい入母屋の屋根が・・・よかった、残っていてくれました。



通りに面している部分は大幅に直されているようですが、当時はかなりの大店だったのではないでしょうか。



妻側に残る往時の面影、ほんと屋根が綺麗だなあ。額入障子もいい感じです。



戸袋には菊屋旅館、転業されたのだと思います。何も見つからなかったらどうしようと思っていましたので、これで一安心。



距離にして150mほどでしょうか、通りの巾が狭まります。その先にあった小さな神様、遊廓との繋がりは不明です。



神様よりも気になったのが、向かいのアパート福寿荘。面影が残っているような気がするのですが・・・如何でしょう。



米沢駅前に戻ってきました。さてさて、米沢牛、米沢牛♪・・・なんと、ピックアップしてあった名物牛をリーズナブルにいただけるお店は満員・・・とはいえノンビリ待ってもいられない。福島方面に戻る奥羽本線の普通列車は一日たった6本、次を逃すと4時間後・・・この奥羽本線、ほぼ山形新幹線専用になっちゃってるんですね。で、見つけたの駅前通りからちょっと外れたところにあった焼肉みよしさん、上カルビ定食をいただきました。時間があれば独り焼肉したかったのですがね。さすがは米沢牛、旨い・・・でも、こういう霜降の肉って、オッサンにはこれぐらいの量で十分だなと・・・これ以上だともたれそう思ったりして(笑)

以上、米沢の探索でした。ネットで大火のことが書かれた新聞の記事を見つけました。大正6年の大火で福田遊廓は全滅しているそうです。ですので、あの遺構と思われる元旅館はその後に建てられたということになりますね。次回は以前から気になっていた二本松をフラフラ彷徨います。この町も遊廓特有の不自然な通りが確認できるところです。それ以外の遺構が発見できるといいのですが・・・。

福島県 二本松市201306

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切通しを越えた先・古井戸が残る遊廓跡・此処でも発見謎の三業組合

これまたハードルの高そうな飲み屋街ですなあ。


 米沢を出た奥羽本線の普通列車は、見渡す限りの目に染み入るような深い緑の中を進んでいきます。行きの車内ではギリギリまで下調べのためスマホと睨めっこだったので車窓の風景には全く気がつかなかった・・・50分ほどで福島に到着、東北本線に乗り換えて20分、福島市と郡山市のほぼ中間に位置する二本松駅に降り立ちました。丹羽氏が治めた二本松藩10万石の城下町、町中を旧奥州街道が貫く静かな地方都市です。二本松城の通称である霞ヶ城公園で毎年10月に開催される菊人形祭りは日本最大の規模を誇っているとか。この二本松城、戊辰戦争であえなく落城、二本松少年隊という悲劇があった地でもあります。そんな町にも嘗て遊廓が存在しておりました。

 『二本松大原遊廓 福島県二本松町大原にあつて、東北線二本松駅で下車すれば、駅より東北約十五丁位の所にある遊廓だ。乗合自動車の便があり、根崎角で下車すればすぐである。娼楼は総計二軒あり娼妓は拾二人位居て居稼ぎ制全部写真制ではなく、陰店制で遊びは全部東京式の廻し制に成つて居る・・・芸妓を呼べば玉代一時間五十銭である。妓楼は、新亀楼、吉村楼の二軒だ。』

 お馴染『全国遊廓案内』からの抜粋になります。東北へ十五丁、根崎角をキーワードに地図を眺めておりますと、幸いにも根崎という町名が今も健在でした。距離的にも合っているようです。附近をじっくり観察してみますと・・・あった、ありました!!明らかに不自然な幅員がある通り・・・おそらく此処で間違いないと思います。ただちょっと気になることが一つ・・・その場所までの道程なのです。山一つ越えないといけないみたい(笑)正確には切通しだと思うのですが、地図を見るかぎりは・・・。いずれしろ登り下りは覚悟しないといけないようです。久しぶりの探索でしたので、前回の米沢でかなり足にきちゃってます・・・大丈夫かいな。そのうえ今にも降り出しそうな怪しい雲行き・・・急ぎましょう。



駅前通りを進みますと、すぐに東北本線と並行している県道355号線に出ます。これが嘗ての奥州街道。旧街道に面した商家にコレが・・・竿燈祭りとかがありますから、たぶん『がんばれ東北』って意味なんじゃないかと・・・事実、除染作業をしている人の姿も見かけました。此処も被災地なのですね。



旧奥州街道を東へ・・・最初に出会うのが、のぼりみたいな看板が目印の御菓師玉嶋屋さん、創業は文化文政時代まで遡るという老舗の和菓子屋さんです。名物は羊羹、帰りに玉羊羹・・・水風船に羊羹が入ったやつ・・・を購入、甘さ控えめでおいしゅうございました。大正8年(1919)に建てられた銅板葺きの建物は国の登録文化材です。



途中の脇道でステキな写真館に出会いました。昭和11年(1936)に建てられたヒラタテ写真館さんです。パラペットの雷紋、角の重なった円柱みたいな装飾、右手すぐは旧奥州街道・・・そこから見られることを意識しているのだと思います。バリバリの現役というのが嬉しいじゃないですか。赤テントがちょっと残念ですけどね(笑)



別の脇道・・・ドット絵みたいなお宅がありましたとさ。



こ、これは・・・思わず絶句。突き出したリブ、アーチ窓、屋号の配置・・・かっこよすぎだろ・・・。



しかも一部が『ぬけられます』状態・・・こういう発見は嬉しいなあ。



その先で左折、緩やかに登っている県道129号線に入ります。この坂道、地元では亀谷坂と呼ばれているようなのですが・・・実は帰りに東側の別の坂道を辿るのですが、そこも亀谷坂なんだとか・・・で、どちらかが旧奥州街道のはずなのですが、それもはっきりしない・・・。



坂は思っていたほどの勾配ではありませんでした。ホッとしたのも束の間・・・こりゃ、すげえ・・・現れた物凄い切通しに驚かされます。これで山を越えていきますよ。



切通しを抜けた先は郭内・・・『郭』とくると黙っていられませんが(笑)郭は郭でも、こちらは城郭の意味かと・・・すぐ西には二本松城址である霞ヶ城公園があるわけ。



立派な建物、市民ホールか公民館かと思いましたら、これが大七酒造!?なんと酒蔵でした。物凄い違和感・・・。



その先にあるのが『根崎』の交差点、南を向きますとこういう状況。気になる一画は右の通りを入った先にあるはずです。



不自然に幅員がひろがった通りが奥の山に向かって緩やかな登り勾配で伸びておりました。並木の名残かもしれない桜の下には古井戸!?そして石碑には『大原』の文字・・・この一文も刻まれておりました。『大原 丹羽氏による町割り以前は、二本柳(旧安達町)まで人家ひとつない広野であったので「大原」、その中心の山を大原山(現愛宕山)と称していたという。明治35年から昭和16年まで、大原遊郭として栄えた』・・・大当たりです。



何という私の眼力・・・これはちょっと自慢してもいいのでは(笑)でも、見渡したかぎり遺構らしきものは皆無・・・残っていたのは桜並木と蔵が一棟だけ。まあ、元々二軒しかなかった遊廓ですから・・・。



あ、こんな凄い枝ぶりの松も・・・間違いなく往時からのものですね。昭和16年までということは、戦争が始まって閉鎖、戦後赤線として復活できなかったということなのでしょう。周りのロケーションを見て何となく納得(笑)



距離にして100mほどでしょうか、山にぶつかってメインストリートは終わっておりました。その先には鳥居と苔生した階段が延々・・・地図を見ますと、山頂に社らしきものがあるようですが、そこまで登る気力はございません。



よくよく考えてみますと、二軒しかなかった遊廓にこんな立派なメインストリート必要なのでしょうか。明治、大正頃はもっともっと賑わっていた遊里なのかもしれませんね。



脇に入ったところにある本久寺、ほどよくというもの変ですが、いい感じに荒れております。左の斜面に見事な枝垂れ桜がありますよ。



メインストリートから分岐する脇道に切妻の破風がズラリ・・・遺構ではなく単なる長屋だと思うのですが、不思議な光景でした。



二軒の間には古びた石畳が残っておりました。草臥れた下見板張りの質感が堪りませんなあ。



???



根崎の交差点に戻ってそのまま鯉川を渡り、旧奥州街道を更に東へ進むと嘗ての宿場であった油井です。高村智恵子の生家があるのですが、町並み的にはいまいちみたいですのでこの辺りで裏道を辿って戻ることに致します。



巨大な土蔵が現れました。なぜか有料駐車場との表示・・・これが車庫なの???



長屋門みたいな入口もありました。土壁は落書きでいっぱい、相々傘なんて久しぶりに見ましたよ(笑)



左のベンガラ色の格子は国田屋醸造さん、安永5年(1777)創業という醤油味噌の醸造元です。そして向かいには名も無き看板建築。木が邪魔で全景が分からないのが残念。



その先にはトタン梱包物件、おそらく元は茅葺屋根だったのだと思います。こんな髪型の人いますよね(笑)



それではもう一つの切通しを抜けて駅方面に戻りますよ。これがかなりの上り坂・・・ヒイヒイ・・・気付いたのですが、通りの両側には家具店がいっぱい。二本松の名産は家具なんだそうです。300年の伝統を誇っているそうですが、このご時勢です。見事なまでの閑古鳥状態でした・・・。



行きのと似たような切通しを抜けると、今度は膝がカクカク言いそうな急な下り坂・・・散々歩いた後のこれはきつい。駅から続く県道355号線に出る手前、土蔵、お宅、土蔵、お宅・・・不思議な連続。



そのまま県道355号線を渡り、県道と東北本線に挟まれた細い通りを駅へと向かいます。地図を見ますと、どうやら歓楽街らしきものがあるっぽい・・・ちょっと期待しているわけ。



これが大正解!!



米沢にこういった路地が皆無だったので、正直ものすごく嬉しい(笑)



・・・だって、想像どおりに寂れていたから。



こんな美しい飲み屋建築も・・・二階のカーテンがエロすぎますな。



そして現れた若葉通り・・・冒頭画像は反対側、旧奥州街道に面した入口です。看板はこんなんですが、中の飲み屋さんは至って普通でした。現役かどうかは果てしなく微妙でしたけど・・・。



元カフェー!?なんて一瞬思ってしまうものも・・・たぶん違うでしょうけど。でも、戦後再開できなかった大原遊廓の代わりとして、青っぽいお店があったとしても不思議ではないのでは。



問題はこの『二本松三業組合』・・・実はこれと全く同じものを隣町である本宮市で見ているのです。両者ともいくら調べて情報がほとんどありません。思うに以前は純然たる花柳界が存在していたのではないでしょうか。まあ、それなりの町には必ずおられましたからね、芸者さん。で、時代の流れで花柳界は無くなったけど、似たような接待する商売、まあ実態は全然違いますけど(笑)・・・である飲み屋さんの組合に名前だけが引き継がれた、と・・・間違っていたらご免なさい。



近くで見つけた謎の洋館、生い茂った庭木のせいでこんな感じでしか寄れませんでした。



後姿はバッチリなんですけどね・・・気になるなあ。



向かいにはコレですから、垂れた汚れの跡もデザインの一部ですな(笑)



駅前広場の手前にある二葉旅館さんです。



これは良い雰囲気、このまま泊ってしまいたい・・・。あ、ついに降り出した・・・さて、現実に戻って帰ると致します。

僅かな資料と地図、これだけで遊里跡の場所を推定する・・・そして大当たり。このしょうもない趣味の醍醐味だったりするわけです。建造物としての遺構は確認できませんでしたけど、久々でしたので良いストレス発散になりました。以上、二本松の探索でした。

東京都 大田区蒲田200905・201305

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玉石タイルがある路地・駅前歓楽街の最後・アパートだらけ嘗ての二業地

◆このラブホ、今頃は存在していないかもしれません・・・。


 先日、5月6月は都内の遊里強化月間と自信満々に宣言致しました。多忙のため中断しちゃいましたので、7月もそれは継続ということでお願い致しますぞ。とりあえず偽サラリーマン生活からは脱出できましたが、忙しいのは相変わらずなんですけど・・・というか、そういったことを抜きにしてもこの常軌を逸した猛暑、探索なんて行っていられないわけです。途中でぶっ倒れること確実・・・今夏は日中の探索は諦め、夜に切り替えようかなどと検討中です。でも、夜の遊里跡ってどうなんでしょう、なんだかその周りの名残かもしれない飲み屋さんの赤提灯が気になって仕方がなかったりして(笑)ともかくいきなりでしたので、身体がついていけていない方も多いかと思います。皆さんくれぐれもご自愛くださいませ。

 今回は蒲田です。JR蒲田駅前の民間ビルをそのまま使った区役所には仕事で足繁く通ったことがあります。あまり良い思い出ではありませんが(笑)上村敏彦著『東京 花街・粋な街』によりますと、大正10年(1921)に地元の宮城某という人物が八幡神社近くの所有地に芸妓屋の設置を願い出ます。その頃の蒲田は多くの大規模工場が進出、松竹キネマ蒲田撮影所が誕生といった感じで非常に賑わっていたそうです。おそらくそれ目当てだったと思うのですが、なかなか警察の許可は下りませんでした。ようやく二業地の許可が出たのが昭和2年(1927)4月のこと、東京に存在した花街としてはかなり新興の部類に入るかと思います。指定地は京急蒲田駅の南、環八通りの向こう側、現在の南蒲田二丁目になります。地図を見ますと、環八とテクノポートカマタに挟まれた一画に、往時のままと思われる整然とした区画があるのが分かるはずです。この蒲田新地と呼ばれた花街、昭和7年(1932)時点で芸妓屋24軒、待合12軒、芸妓大が70名、小が9名という記録が残っています。空襲で新地は焼失しますが、戦後になって復活します。昭和25年(1950)で料亭・待合が19軒あったそうですが、その後はゆっくりと衰退・・・いつ頃軒燈が消えたのかは不明ですが、今では遺構の類もほとんど残っていないとか・・・。

 実はこの花街よりも気になる場所があるのです。それが京急蒲田駅西口にひろがるいい感じ鄙びた歓楽街、地元では柳通りと呼ばれています。ふと思ったのですが、一大工業地帯であった蒲田、若い工員も多かったはずです。彼らが遊ぶ場所が必要・・・果たして花街で満足したでしょうか。確かな資料があるわけではないので大きな声では言えませんが、この柳通り、赤か青かは分かりませんが、嘗てそういったお店が存在した・・・という記述をネットで見かけたわけです。行ってみれば分かるのですが、確かにそんな雰囲気が感じられる場所なのです。あ、行ってみれば分かると言ってしまいましたが、この歓楽街、今はもう見られないかも・・・。去年でしたっけ、京急の高架化工事が完了しましたよね。それに伴うものだと思うのですが、この歓楽街の大部分を含む駅の西口一帯の再開発事業が始まるというのです。最後の姿を見届けようと駆けつけたのですが、結果は如何に・・・。

註)各画像のキャプションの◆は2009年5月、◇は2013年5月に撮影したことを示しています。



◇JR蒲田駅から歩き始めました。京急蒲田駅へは東口なのですが西口へ・・・気になるものが見えたものですから・・・。それがコレ、東京工科大学蒲田キャンパス、なんだかインチキ新興宗教の本部みたい・・・。



◇そのままJRの線路潜って京急蒲田駅を目指します。途中の路地を覗くと・・・なんと、成田アキラ(笑)懐かしい・・・昔、テレクラはよく見かけましたよね。こちらは所謂デートクラブ、会費を払って会員になると女性を紹介してもらえるわけ、その後は・・・まあ、大人同士なんですからご自由にということみたい。ハッ、なんでこんなことを一生懸命調べているのでしょうか・・・。



◇そのまま路地を進むと中途半端な神殿みたいなラブホが現れます。突当りは呑川です。



◇呑川沿い建つコチラ・・・1階の庇というか、コレ、シャッターケースなんですけど・・・。



◇玉石タイルがビッシリ・・・蛇の鱗みたいですね。光線の塩梅でしょうけど、ヌメッとした質感までソックリですな。



◇そうかと思えば、別の路地で見つけたビル・・・分かりにくいと思いますが、なんと外壁全部が玉石タイル貼り。こっちはブルーチーズみたい(笑)本来は床に使うタイルなんですけどね。



◇京急蒲田駅の手前にアーケードの架かった商店街が現れます。そこで見つけたのが、貸席京浜クラブ???かなり歴史があるように見えますね。嘗ては蒲田新地の芸者さんが此処まで出張されていたとか・・・と勝手に妄想させていただきました。このまま真っ直ぐ行くと駅に出ちゃいますので、適当なところで左へ・・・。



◇すると、このゲートが現れます。拙ブログ的に申しますと、所謂大門という奴ですな。



◇このコインパーキング、2台分しかないのです。



◇歓楽街と言いましたが、そこまでの妖しい雰囲気はありませんよ。飲み屋さんだけですよね、こういうテントの使い方するの、面白いなあ。



◇北側を流れる呑川沿いにも大門があります。



◇ン?あ、あれは・・・。



◇アチャー、間に合わなかった・・・。仮囲いの向こう側が再開発の範囲ということです。内側の建物は全部壊されちゃうというわけ。もちろんこのラブホも・・・。



◇この飲み屋さんは再開発の範囲からはギリギリ外れていましたが、その前からこんな状態だったみたいですね。



◆これが在りし日の姿・・・ヘルスに小料理屋、遠景にさきほどのラブホ。確かに赤か青か・・・嘗てはそういったお店が存在していたとしても不思議ではないのでは。



◆こんなカフェー風のお店もあったんですけどねえ。分かりにくいと思いますが、入口のボロボロ庇、ピンクと水色の市松模様のタイル貼りです。



◆結構良さげな雰囲気のお店があった記憶があるのです。仕方がないことなのでしょうけど、こういった場所って絶対必要だと思うんですよね・・・。



◇当然、駅に面した側もこんな状態でした。



◆右が当時は絶賛工事中だった京急の高架部分です。4年なんてあっというまですね。



◇その高架を潜って蒲田新地跡へ向かいましょう。



◇蒲田新地跡は駅から500mほど、最初に現れるのが全身サビサビトタンの小さなアパート、地図を見ていて気になったのが此処の名前。



◇一力荘っていうんです。花街跡にお似合いだと思いません?もしかすると・・・。



◇その先に嘗ての見番だったとされている建物があります。入母屋屋根の立派なものです。一見するとお風呂屋さんにも見えますね。現在は会計事務所になっています。



◆左はうなぎにてんぷら、そしてどういうわけかコスタリカ料理も食べられるという不思議なお店なんだとか(笑)この界隈、右のような出窓がいっぱいあるアパートが沢山あるのです。どうしてでしょう。



◇NTT柱に残る二業の文字。



◇元料亭か元待合か、おそらく遺構だと思われるお宅。高い塀に囲まれています。



◆かなり複雑な造りであることが分かるかと思います。



◆何処で撮ったのか全く覚えていない一枚。襖屋さん、奥に置かれた黄色のリヤカーがいい感じ。



◆『東京 花街・粋な街』で待合の雰囲気が漂うと紹介されていた建物。現在は町内会倉庫になっています。そういった雰囲気、私はあまり感じ取れませんでした。



◆とにかくこの一画アパートだらけ、明らかに花街時代には存在していたと思われるものも多数・・・もしかすると遺構をリフォームして使っているところもあるのかも知れませんね。



◇しかし、これこそが・・・と断定できるものがなかなか見つからない・・・などと思っていましたら・・・。



◇こんなのが現れて一気に脱力・・・そろそろ戻ります。



◇駅前にある大田区産業プラザPio、設計は類設計室、竣工は平成7年(1995)のいかにも金かかってんぞって公共建築、今はこういったのを建てるのは至難の業。

以上、駅前歓楽街の最後に立ち会った蒲田の探索でした。次回は大井、ISUZU本社の向かいに存在した花街跡を訪ねます。

東京都 品川区南大井201305

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階段を下ると飲み屋街・一時期慰安施設だった花街・もしかしたら元芸者さん!?

花街跡からISUZU本社を望みます。もの凄い対比ですな。


 前回の蒲田から一駅戻ると大森、今回はJR大森駅と並行して走る京急の大森海岸駅に挟まれたところに存在した花街跡を訪ねます。名前を大井三業地といいます。すぐ近くに大森海岸三業地なんてものもありますが、それについてはまた別の機会にでも・・・。『東京 花街・粋な街』によりますと、平和島競艇場やしながわ水族館がある辺りが嘗ての海岸線だったそうで、そこが明治24年(1891)頃に海水浴場として整備されると、お手軽な行楽地として一気に賑わうことになります。それを目当てにした料亭などが次々と新規出店・・・これが花街形成の由来となったようです。昭和4年(1929)時点で芸妓置屋が42軒、芸妓の数は不明ですが200名はいたのではないかと推定されています。戦前までが大井三業地の最盛期だったそうで、戦争が始まると一時営業を停止しますが、幸いにも空襲の被害は軽微だったそうです。

 戦争が終わり一安心、さあ再開だと思っていたところ、なんとこの花街、GHQからRAA(特殊慰安施設協会)の慰安施設に指定されてしまうのです。都内では向島・福生・調布・立川など25ヶ所に設置されたそうですが、これを性の防波堤として一般婦女子を守ろうとしたわけです。花街関係者にとってはまさに晴天の霹靂・・・一方の業者にとっては千載一遇のチャンスだったのでしょうけど。その施設に使われたのが料亭小町園、開店が終戦直後の8月27日だったそうですから、とんでもなく素早い対応ですよね。それだけ切羽詰っていたということなのかもしれません。そんな慰安施設も僅か半年後には性病蔓延で『off limits』の印が掲げられあえなく閉鎖・・・。不思議なのがこのRAAの慰安施設、ほとんどが同じ末路なんですよね。遊廓が性病蔓延で閉鎖なんて聞いたことありません。まあ、定期的に検査を受けていた娼妓とは違って、そんな暇も無いほどの悲惨な状況だったのでしょう。で、この施設で働いていた女性ですが、まさに用済みといった感じで何の保障も無いまま放り出されることになります。彼女達の行き着く先はパンパン・・・そして赤線、青線・・・酷い話ですよね。

 そんなこんながありましたが、復活した大井三業地、戦後の最盛期は昭和30年代前半だったそうで35軒の料亭があったそうです。その後はゆっくりと衰退・・・昭和52年(1977)で12軒ですが、同56年(1981)には3軒に激減しています。そして、昭和60年代初めには終焉を迎えたということになっています。以上が大井三業地の概要になります・・・が、訪ねた後に知ったという毎度のパターンで申し訳ないのですが(笑)この花街、まだ終焉というわけではないみたい・・・現役の芸者さんが頑張っておられるそうです。3軒の置屋に約15名の芸者さんが活躍されているそうです。まあ、置屋といっても、隣に座って、お酌して、笑っていればいいコンパニオン派遣の類いだろと思われるかもしれませんが、正真正銘の芸ができる芸者さんですぞ。中には映画やCMに出ておられる姐さんもいて驚かされました。HPもありますので、興味のある方は探してみたら如何でしょう。



JR大森駅、大井三業地へは東口なのですが西口へ・・・改札を出ると線路と並行して走る池上通り(都道421号線)に出ます。目前には嘗ての海岸線と思われる崖が迫っています。これを登ればその先は山王、言わずと知れた高級住宅街。そちらに興味はありませんので、近くの階段を下りますよ。



階段を下りると飲み屋さんがいっぱい、山王小路飲食店街といいます。JRの線路と池上通りに挟まれた狭〜い一画にこんなところがあるなんて・・・面白いなあ。此処、池上通りから階段を下りないと辿り着けないのです。



真昼間だからでしょうか、あまり如何わしい雰囲気はありません。中にはこんなカフェー風のお店もあったりします。



お店のむこうは線路なんですよね。



もちろん帰りは登りです。呑み助にはちと辛いかも(笑)・・・以上、谷底にある不思議な飲み屋街でした。



池上通りを蒲田方面へ・・・線路の向う側に行きたいのです。脇に入った路地が緑一色、両側のお店?工場?同じ会社のものみたいで、従業員が行き来しやすいようテントのキャノピーを両方から出しちゃったみたい。



この路地の雰囲気はなかなかのものでした。



路地を抜けると・・・オッ、踏切を発見です。



踏切を渡ったら正面のお宅の2階窓に注目ですぞ。



この三兄弟だか三姉妹だか知りませんが、電車が通過するとクイッ、カラスが横切ってもクイッ・・・シンクロした動きが可愛くって暫く観察しておりました。やがて左の子が私に気付き硬直・・・このような状況に(笑)



踏切を渡った先は大森北4丁目・・・この界隈、大井三業地と同じく空襲の被害から逃れることができたようでして、古くからの住宅街の名残が僅かながら残っているとのこと。そこで見つけたスクラッチタイル貼りに縦長の上げ下げ窓が並んだ洋館。



詳細は不明ですが、築70年ほど、以前は司法書士事務所だったそうです。現在は手打蕎麦しのはらとのこと、ちょうど空腹ですのでと表のメニューを拝見・・・結構なお値段ですなあ・・・他をあたりますわ・・・。



近くにあるのが日本キリスト教会大森教会。折板構造の講堂は昭和34年(1959)竣工、設計は山口文象。



この界隈、食事できるところが無さそうですので、一旦大森駅方面に戻ります。駅の手前、線路沿いで見つけた飲み屋街。いい感じです。



よくよく見ましたら、『街』ではなく一棟の建物になっているみたい。所謂ソシアルビルの一種かと。



大森飲食街ビルというそうです。空きテナントが無さそう、今時珍しい状態ですよね。近くの洋食屋でメンチカツ定食・・・これがいまいち、さっきの蕎麦屋にしておけばよかった・・・。



昼食後、戻ってまいりました大森北4丁目。いきなり美しい洋館が現れましたよ。



青の洋瓦、出窓、軒天のアール、並んだ2軒とも全く同じ意匠というのが面白いですね。これでもかといった感じで棕櫚の木が乱立、異国情調満点のお宅です。



路地で見つけた昭和としか表現しようのないアパート。



入口の框戸のガラスが無い・・・中を覗いてみると、裸電球が一個・・・現役なのでしょうか。



所々にこういった石畳の袋小路が見受けられます。昔からの区画がそのまま残っているということだと思います。



こちらのお宅は半切妻屋根の和洋折衷、塀のせいで全体が分かりません。



路地裏は緑がいっぱい、いいなあこういうの。実はこの大森北4丁目を訪ねた理由がありまして、横須賀の安浦や四谷の荒木町でも見られたコンクリート製のレトロな街灯が此処にも残っているという情報を小耳に挟んだわけです。まあ、結局は見つからなかったのですがね。さて、そろそろ大井三業地跡に向かうと致しましょう。



再び駅前に戻ってまいりました。南口にそびえるのが大森ベルポート、ISUZUの本社が入っています。このタワーの南側、通りを挟んだ向こうが大井三業地跡になります。



マンションに挟まれて窮屈そう・・・『東京 花街・粋な街』にも載っていた遺構と思われる廃屋が残っておりました。料亭か或いは待合か・・・そんなことはどうでもよくなるぐらいの状態、崩壊寸前です。



右の門の奥を覗くとこんな状態・・・アパートでしょうか、不思議な造りになっています。



この門は奥にある茶道と華道の教室のものなのですが、アプローチの飛び石といい、もしかすると遺構の一つかも・・・考えすぎでしょうか。



現在はマンションですが、嘗てこの場所に大井三業地見番がありました。



近くにあった老舗っぽい蕎麦屋の布恒更科さん、後から知ったのですが結構有名なお店みたいです。



この界隈で最も遺構らしいのが入船さん、こう見えても洋食屋です。『東京 花街・粋な街』によりますと、嘗ては料亭だったとあるのですが・・・。



このお店、個室のお座敷でもいただけるんだそうですぞ。



外に飛び出した丸柱がモダンですねえ。たまたまなのか、この日はお休みでした。



ショーケースに飾られた嘗ての姿を撮影しておりますと、隣に人の気配・・・顔を上げると、可愛らしいお婆ちゃん。この近くにお住いなんだそうで、いろいろと教えてくださいました。往時から残っているのは、この入船さんとさきほどの布恒更科さんだけなんだそうです。此処(入船さん)は元料亭ですよね?と問うと、昔から洋食屋だったとのこと。帰ってから調べると、確かに大正13年(1924)創業とあります。でも、建物はどう見ても料亭だよなあ。あ、お婆ちゃんの話に戻りますが、三業地跡の東を走る第一京浜沿いにも料亭や置屋がズラリと並んでいたそうですが、全部マンションに変わってしまったとのこと。ちなみにこの並びあったのが一時期慰安施設に使われた料亭小町園になります。あまりにも詳しいので、もしかしたら元芸者さん?と尋ねると、「年寄りをからかうんじゃないよ」って怒られちゃった(笑)でも、このお婆ちゃん、ちゃきちゃきの江戸っ子風、若い頃はさぞかし・・・って雰囲気なのです。本人は否定しましたが、私の中では間違いなく元芸者さんということにさせていただきます。



入船さん裏手の光景、現在はアパートになっているようですが・・・特に手前の建物、これも遺構???



規模からいって元置屋さんでしょうか・・・先に見つけていればお婆ちゃんに聞けたのになあ。



近くで見つけたトリッキーな蔦、なぜか真っ先にブラックジャックが思い浮かんでしまったのですが・・・。

以上、元芸者さん!?に出会った・・・かもしれない大井三業地跡でした。お婆ちゃん、間違っていましたらご免なさい。

福島県 会津若松市201308(再訪編)その1

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6年ぶりに再会した遊廓跡・消滅寸前の楽天地・謎のお風呂屋さんとバラック飲み屋群

造りはどう見てもあれですよね。


 久しぶりにガッツリ休暇が取れましたので、以前から計画していた東北を巡って参りました。福島→山形→秋田の順で15の町を彷徨ってきたのですが、その印象を一言で表現すると・・・『ひたすら暑い』まあ、ある意味『熱い』でも間違ってはいないのですがね。ほら、普通思うじゃないですか、関東より多少は涼しいんじゃないかって・・・。直前の天気予報では、今夏の異常な猛暑もお盆過ぎれば何とかなんて言っていたはず、それがいつのまにかあと二週間に変わっており嫌な予感が・・・案の定、東京よりも気温が高い町があったりして終始ヘロヘロのグダグダの探索になってしまったわけです。ある町では生命の危機というのは大袈裟かもしれませんが、かなりヤバイ状態に陥ってしまうなど散々な目に遭ってしまうのですが、それ以外でもいろいろと愉しませていただきましたからあまり文句は言いませんよ。おそらくこの一連のレポで今年は終わってしまいそうですので、ごゆるりとお付き合いくださったら幸いです。文句は言わないと宣言したそばから何なのですが、帰ってきた途端気温が平年並みかよ・・・もう一週間ずらせば良かったかも・・・。

 ギリギリまで仕事に追われ、得体の知れない何かから逃げるようにして(笑)最終の新幹線で郡山に入りボロホテル泊、翌日の磐越西線始発で向かったのは会津若松、2007年に訪れておりますので6年ぶりになりますね。果たして、降り立った会津若松駅はハンサムウーマンこと八重の桜一色・・・とはいえ、私見ていないんですよね。ここ数年、テレビというものから遠ざかっていますので・・・見るのはスカパーのサッカー中継とBSの水紀行や酒場紀行みたいなものばかり、ああいった光景に飢えているのかもしれません。そんなことはどうでもいいので、とりあえずは『全国遊廓案内』による昭和初期の会津若松の様子から始めましょう。

 『若松市遊廓は福島県若松市見磐町に在つて、磐越西線若松駅で下車し駅から西南へ約十丁の処に在つて、タクシーは一台五十銭である。維新前迄は保科氏の城下で、明治戊辰の役には、全天下の敵を鶴ヶ城の一孤城に引受けて、悉く悲愴な最後を遂げた。戦ひは敗けても最後迄戦つた会津武士の魂が喜しい。白虎隊の飯盛山に於ける壮烈な最期は、明治維新史を飾る唯一の花でなければならない。町からは、会津塗、会津焼、蝋燭、人参、織物等が出来る。散娼制が集娼制に成つたのは、明治三十年頃で、現在は貸座敷が拾軒あつて、娼妓が約五十人居る・・・附近には鶴ヶ城址、飯盛山、東山温泉等がある。妓楼は山田楼、松風楼、菊勢楼、角八楼、常磐楼、新小松楼、吉田楼、泉楼、小和楼等がある』(文中では見磐町とありますが、磐見町が正しいと思われます)


 どうやら八重の桜の中での戊辰戦争は終わってしまったようですが、それによって会津若松の町の大半は灰燼に帰してしまうわけです。それまでの町の様子は不明ですが、古地図で見るかぎりはかなりの規模の城下町です。遊女屋の類も間違いなく存在していたはずです。それら全ても焼けてしまったのでしょう。明治維新が達成され町の復興が始まると、大勢の人夫たちが集まってきます。当然、彼ら目当ての私娼みたいなものもあちこちに現れたはず・・・。町が落ち着きを取り戻すと風紀上の問題で彼女たちが問題になり『全国遊廓案内』にあるように、それらを一ヶ所に集めて形成されたのが磐見町遊廓ということになるのではないでしょうか。あくまでも私の想像ですので、間違っておりましたらご免なさい。

 大正15年(1926)当時の会津若松の地図です。会津線鉄道というのは現在のJR只見線、線路と交差している通りは国道252号線、地元では七日町通りと呼ばれています。当時の目抜き通りだと思われます。現在、踏切近くには七日町駅があるのですが、駅が設置されたのは昭和9年(1934)ですので地図には描かれておりません。大きくカーブを描く線路の内側に磐見町遊廓とはっきり表記されています。位置的に言えば、当時の町外れということになるでしょうか、やはり悪所はこういった場所に追いやられてしまうのですね。現在も特徴的な区画がはっきり確認できる遊廓跡になります。とりあえず此処を訪ねた後、前回偶然発見した妖しげな一画を再訪してみることに致します。

註:前回のレポはコチラコチラコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



会津若松駅から只見線で一駅の七日町駅で下車。駅を出た途端、頭を殴られたような猛烈な日差し・・・これは浴びてはいけないものだ、先が思いやられますなあ。駅前にある阿弥陀寺さん、本堂脇に特徴的な三層楼があります。



御三階(ごさんかい)、明治3年(1870)にこちらに移築されましたが、元々は鶴ヶ城の一部でした。本丸北東の石垣の上に建っていたそうです。外観は三層ですが内部は四層、三階に上る梯子は上から降ろす仕組みになっており、密談などに使われたのではないかとされています。戊辰戦争で焼失してしまった鶴ヶ城の貴重な遺構ということになります。



境内には新撰組孤高の剣士、斉藤一の墓があります。隊士の中では数少ない生涯を全うした一人、謎の多い人物だったみたいですね。



遊廓跡手前の路地にある旅館やなぎ屋さんは健在、全く変わっていない姿にちょっとビックリ。



路地を抜けるといきなり視界がひろがります。見事なまでのメインストリートの出現です。



メインストリートの西端にあるのが、冒頭画像の建物。一応、荒木呉服店という看板が玄関に掲げられているのですが・・・どう見ても元はアレですよねえ・・・。



前回訪れた際は店先にまで洋服が並べられていたのですが、商売辞めちゃったのかなあ。



荒れ気味の庭には、ちょっと派手目な石灯籠が残っておりました。



裏の空き地にポツンと残る笠間稲荷神社、前回は物置同然で可哀想な状態だったのですが綺麗に整備されておりました。こちら、さきほどの荒木呉服店さんの屋敷社なんだそうで、商売繁盛を願って遊廓の娼妓たちも参拝していたそうです。傍らに並ぶ石碑には遊廓や貸座敷といった文字が数多く見受けられます。



メインストリートに戻りました。もう一軒の気になる物件がコチラ、ものすごい奥行き、玄関が二ヶ所ありますね。現在はアパートでしょうか。



粋な窓と高欄風手摺が気になりますが、かなり直されており遺構かどうかは微妙な感じ。



こちらも・・・全体のフォルムはまさにそれなんですけどね。架構(骨組)だけ残してリフォームしたのかもしれません。松の木の前には短い板塀が残っているのが妙に気になりました。



七日町通りに戻って東へ・・・ここからは近代建築巡り、たくさんありすぎて全部紹介できません、どうかご理解を。最初は池田種苗店さん、建てられた時期は不明ですが、おそらく昭和初期ぐらいかと思われます。レリーフと窓台の透かし彫りのモチーフはなぜか蕪、これが何ともいえずカワイイのですよ。



大正15年(1926)に建てられた旧塚原呉服店本店(バンダイスポーツ七日町店)、柱型が突き出したパラペット、頂部の銅製の装飾、レリーフ、目地のバランス、どれを取っても一級品の近代建築です。これを設計施工したのが一人の棟梁っていうんだから大したものです。あ、大工が手掛けていますからもちろん木造ですよ。



中でも出色なのが、このロゴ。センス良すぎでしょう。



脇道の光景、見世蔵が続いていました。じっくり探索できないのが残念です。



黒のモルタル欠き落とし風の外壁が珍しいのはレオ氏家南蛮館、元は洋品店だったみたいです。会津若松ゆかりの戦国武将、蒲生氏家の資料館です。なんでレオなんだろうと思いましたら、彼はキリシタンで洗礼名がレオンなんだそうです。窓の色ガラスはオリジナルではないみたい。



こちらはさきほどの塚原呉服店の2号店、昭和2年(1927)に建てられました。現在も洋品店として現役です。デパートメントストアに百貨店、往時はさぞかしハイカラだったことでしょう。ファサードの大部分がステンレス?の平葺きに変わっておりましたが、オリジナルの姿を見てみたいものです。



側面の文章が泣かせますなあ。



手前は大正2年(1912)に建てられた白木屋漆器店、奥は昭和4年(1929)に建てられた旧第四銀行会津支店。七日町通りを代表する町並みです。



窓台や軒に使われた連続する持ち送りというかブラケット風の装飾が面白いですね。目地が横のみですので非常にスマートに見える洋館です。寄棟屋根から覗くドーマー窓がカワイイ。これも棟梁による作品です。



裏側も手抜きなし、さすがです。あ、目地は無いか(笑)



奥の母屋?に抜ける通路、変な三角形の出っ張りがありますが、おそらく階段の裏側。これ、計算外だったんじゃないかな。



一方のギリシャ神殿風、イオニア式の柱列、エンタシスのついた柱のプロポーションがちょっとポッチャリ気味(笑)現在はゼネコンのオフィスになっています。



見上げると、此処は日本!?大袈裟でしょうか。



その先の変則交差点に建つのが旧郡山商業銀行若松支店、大正10年(1921)に建てられました。頂部のレリーフが見事です。煉瓦積みに見えますがタイル貼りです。現在はイタリアンのお店になっているようです。



交差点を右折・・・会津若松ゆかりの偉人にあやかって野口英世青春通りと呼ばれています。前方に黒漆喰の重厚な商家が見えてきました。



大正3年(1914)に建てられた福西本店、元々は綿問屋だったそうですが現在は会津地方の名品を扱った土産物屋になっているみたい。



奥にも土蔵がいっぱい、壮観ですなあ。



その先に黒の玉石塀に囲まれた面白い物件があります。



昭和10年(1935)に建てられた旧黒河内医院、寄棟にマンサードに入母屋、面白い組み合わせですね。でも、現在は使われていない様子・・・ご安心を、近くに新しい建物がありました。



向かいの路地に入ると、ドピンクのビルの先に円形の造作があるお宅が蔦に飲み込まれようとしておりました。実はこの先に面白そうな一画がありそうなのですよ。



なんと、いきなり大門が現れた・・・でも、潜った先には駐車場しかないのですが・・・。



本体は駐車場脇にありました。あるにはありましたが、このちんまりとした規模・・・立派な大門との落差が(笑)



現役なのでしょうか、見た感じ微妙です。



佇まいはかなりのものだと思うのですがね。



距離にして20mほど、あっというまに駐車場に抜けてしまいました。



以上、偶然発見した小さな小さな飲み屋横丁でした。

その1はここまで、その2ではこれまた前回偶然発見した楽天地というディープな飲み屋横丁を目指します。その変貌ぶりに驚かされました。それにしてもアッチー・・・。

福島県 会津若松市201308(再訪編)その2

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そういえばFELIXってモデルは黒ニャンコでしたね。


 その1で紹介した磐見町遊廓なのですが、その後の様子が全く分からないのです。戦後になって赤線に移行したのか、遺構とメインストリートだけを残して消え失せてしまったのか・・・手元の資料だけではチンプンカンプン。それ以前に赤線自体が市内に存在していたのか、それさえも分からないわけです。あ、それから花街についてもですね。今回は訪れませんでしたけど、市街地東方の山あいに位置する東山温泉には昔から枕芸者がいたとか、赤線が存在したという記録もあるのです。この東山温泉、現在も現役の芸者さんが20名ほど頑張っておられるそうですぞ。このように近くの温泉地にはそれなりに遊里の存在を裏付ける資料が残っているのですが、肝心の市内にはそれが無い・・・どうしてなんでしょう。

 いくら調べても分からない・・・こうなったら勝手に妄想しちゃえ。当初の色街といえば磐見町だったのでしょうが、どうやらその後は栄町に料亭などが新規出店し、歓楽街としての中心はそちらに移っていったみたいです。それに大きな役割を果たしたのかもしれないのが、明治41年(1908)会津若松に駐屯することになった日本帝国陸軍歩兵第65連隊でした。現在の市立第二中学校附近が駐屯地だったようです。会津若松は軍都という一面もあったということになりますね。その北西に栄町は位置しているわけでして、やっぱり兵隊さんが遊ぶ場所必要ですものね。今も料亭や割烹が数軒見受けられますので、間違いなく芸者さんも多数活躍されていたことでしょう。妖しげなカフェーみたいなお店もあったかもしれません。それらが後の『赤』か『青』かは分かりませんが、そういったものに変わっていったのではないでしょうか。それらの名残がこれから再会する楽天地なのかもしれません。

註:前回のレポはコチラコチラコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



楽天地を訪れる前にこちらに寄っていきましょう。此処も前回偶然出会ったのですが、まるで倉庫か工場をそのまま転用したかのような謎の長屋建築とでも申しましょうか・・・まあ、とにかくご覧下さい。



店子のほとんどが飲み屋さん、でも現役のお店は少ないみたい。



てっぺんに嘗ての建物名があるのが分かります???コレ、なんと木製(笑)一部が解読できました『SHOKAI』たぶん商会だと思われます。謎の建物の前身は何かの会社ということみたいですな。



こちら側からだと屋根の形状がよく分かると思います。屋根裏部屋があるみたいですね。それにしても素晴らしい佇まいですなあ。



反対側へ・・・何だか勝手に増築しちゃったって雰囲気(笑)



床屋さんと思いきや、このクルクルする奴、青がありませんよね。ピーコックさんの正体は何でしょう。割れたガラスを止めるパッチみたいなの、初めて実物を見ましたよ。漫画の世界だけかと思ってた(笑)



この旅初めて遭遇したニャンコ。この子、お母さんだと思うのですが、子供たちが安全地帯に逃げるまでこうして私の注意を引きつけているのです。健気だなあ。



以上、何となく正体が判明したような謎物件でした。



近くにあるのが日本基督教団若松栄町教会。明治44年(1911)に建てられた国の登録文化財です。設計は拙ブログお馴染のヴォーリズと伝わっているのですが、はっきりとしたことは分からないみたい。此処は前回中まで入りましたのでアッサリ済ませますよ。



会津若松市役所、昭和12年(1937)に建てられました。望楼風のペントハウスはどういった用途だったのでしょうね。全体の雰囲気はちょっと権威主義といった感じで妙な圧迫感を感じる建物です。



市役所先の交差点を左折・・・こんなのあったっけ?真新しいソシアルビルが並ぶ間、こんなところ入っちゃって大丈夫なの?と不安に思うくらいの薄暗い路地を辿っていきますと・・・ほら、見えてきましたよ。



楽天地入口を守る大門です。潜った先でクランクしていて先が見通せないのがポイント高いわけ。ハワイさんはおそらく大人のサロンかと・・・以前は一応現役ぽかったのですがね。若かりし小池栄子穣、この頃はこんな姿をバンバン見せてくれていましたよね。今じゃ無理だろうなあ。色褪せた写真が哀愁を誘います。



クランクを抜けると、味のある飲み屋さんが両側にズラリ・・・のはずだったのですが・・・



地図を眺めていたときに感じた嫌な予感が的中してしまいました。大半が壊され駐車場に変貌しておりました。変な造りの旅館も無くなってしまった・・・。



前回、おっかなびっくり踏み込んだ、入り組んだ袋小路突当りのお店も露わになっちゃっているし・・・。



此処、いずれは消滅しちゃうのでしょうか・・・。



先程の交差点に戻り直進・・・気になるピンクがチラと見えたのですよ。



ブハッ、ミスロマン風呂!!所謂大人のお風呂屋さんでしょうか。にしては、規模が小さいような・・・あ、そういった方面、私詳しくありませんので悪しからず(爆)



福島県だと小名浜が有名ですが、会津若松にも特殊浴場の許可地域があったのでしょうか。



曲り角の先に非常に惹かれる光景があるのですが、楽しみは後に取っておくということで・・・。はす向かいには半ば廃墟と化した旅館か料亭が蔦に飲み込まれようとしておりました。



後ろに続く別館?の窓には円形の造作。その先には巨大な・・・カ、カニ!?



残念ながらコレ、動きまへん(笑)



近くにあるのが昭和4年(1929)創業の割烹萬花楼さん、かなりの大店です。お店自体はは新しいもののようですね。



ミスロマン風呂に戻ってきました。円形部分は螺旋階段でしょうか。変わった石が使われていますね、抗火石かな。あ、コレ、元はカフェーだったとするとシックリくるような・・・まあ、妄想はこれくらいにしておいて、角を曲がりますと・・・。



バラックみたいな小さな飲み屋さんがズラリ、これは壮観ですなあ。ゾロの看板が不釣合いなほどカッコイイ。



奥行き一間もありません。中はどうなってるんだろう・・・なぜだか分かりませんが、ドリフのコント、もしもシリーズが頭に浮かんでしまった(笑)



看板はあんなに立派なのに、このドアはないんじゃない?しかも夷路って・・・やけっぱちにもほどがあるぞ。



いくつかのお店には簡易料理店の鑑札が残っておりました。コレ、福島県の町で何度か見かけたことがあります。



ルビーさんの隣は共同便所です。



前述の楽天地にも驚かされましたが、こっちも負けず劣らずの佇まい。どうしてこういう一画が形成されたのか、激しく気になります。



地図を見ますと、裏手には池の表示があるのです。おそらく奥にある割烹のものだと思うのですが、すでに埋立てられ駐車場に変わっておりました。



謎のバラック飲み屋街の先で出会ったのが冒頭画像の黒ニャンコ。この猛暑、黒の毛皮はさぞかししんどいことでしょう。



その先には出窓が並ぶ不思議な造りの旅館皆よし荘さん、現役かどうかは微妙な感じです。



路地を抜けると看板建築の逸品が現れます。うなぎと鯉料理のあら池さん、詳細は不明ですが、たぶん昭和初期の竣工だと思われます。アールデコの装飾にスクラッチタイル、そして和のモチーフ、破綻ギリギリで留まっているというか、不思議な魅力がある物件です。このまま会津若松駅に向かいましょう。



こちらは竹細工の竹藤さん、創業は寛永元年(1642)という老舗。軒が低く押えられた平入りの商店部分は天保12年(1841)に建てられたもので、城下最古の建築物とされています。唯一、戊辰戦争の戦火から逃れた建物ということにもなるかと。



お次は昭和3年(1928)に建てられた旧会津実業信用組合。寄棟屋根に左官による石貼り風の目地が切られた洋館です。目立つのが半円の破風みたいなペディメント、円形の部分には何かのレリーフがあったようなのですが、どうしちゃったのでしょう。



路地裏で見つけた平屋建ての邸宅、門柱が立派です。



たぶん後から浴室を増築したのではないでしょうか。しかし、なぜにこんな色に(笑)

以上、なんだか飲み屋街巡りみたいになってしまった会津若松の再訪編でした。ここまでの歩行距離8キロほど、まだ午前中だというのに汗だくのヘロヘロ・・・。次に向かったのはお隣の喜多方、前回は激しい雨に祟られろくな探索ができなかったのです。やっとちゃんとしたレポをお届けすることができそうです。(笑)

福島県 喜多方市201308(再訪編)

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蔵の町の遊廓跡・洋食盛皿肉鍋丼類中華麺・無名のお店も旨いよ

マーケット横丁出口のとんかつ栄さん、ソースカツ丼の名店だったそうです。


 会津若松と米沢を結んでいた米沢街道の宿場町だった喜多方、物資の集積地として古くから栄えてきた商業の町です。商業の他にも良質の米と湧水が豊富だったため、酒に味噌に醤油といった感じで醸造業が発展してきた町でもあります。明治に入りますと、それに製糸業も加わることになります。これらに共通するのが蔵、当初は商品の熟成、保管に使われていたのですが、いつしか富の象徴に・・・蔵を建てて一人前というのが喜多方の常識になってしまったとか・・・つくづくこの町出身じゃなくてよかったと思うわけです(笑)全てがそういった理由かどうかは分かりませんが、市内には現在も2500棟余りの土蔵が残っているとのこと。何処とは申しませんが、ちょっと蔵が続く通りがあるだけで蔵の町って名乗っちゃうところがありますが、此処は正真正銘の蔵の町です。

 『喜多方町遊廓は福島県喜多方町に在つて、磐越西線喜多方駅で下車する。喜多方は若松市に次ぐ繁華地で、米穀の産出が多い。附近には熱塩温泉があつて、示現寺ち云ふ曹洞宗の名刹がある。浅草公園に銅像のある慈善家「瓜生岩子」は此の熱塩の出身である。貸座敷は六軒、娼妓は約三十人居る』

 『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。この喜多方、前回の会津若松同様に2007年に訪れております。その際は、酷い豪雨に祟られてしまいろくに探索できなかったのです。当時は遊里というものに大して興味はなかったのですが、曖昧な記憶を呼び起こしながら足取りを振り返ってみると、遊廓跡だと全く気付かず一廓の隅をちょこっとかすめて通り過ぎていたみたい。後日、秋田県の角館も再訪するのですが、前回唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったという驚愕の事実を知ることに・・・なんでしょう、このもってなさ(笑)

 肝心の遊廓跡ですが、『全国遊廓案内』の文からは何処にあったのか全く分からないですよね。相変わらず案内になっていないぞとブツブツ言いたいところですが、ご安心を、地図を見れば一目瞭然です。市役所の西側、市内を南北に流れる田付川沿いに明らかに不自然なL字型の広い通りが確認できると思います。通り沿いには旅館や割烹が数軒、おそらく此処で間違いないはずです。美味しそうなラーメン屋を探しながら彷徨ってみることに致しましょう。今回、雨の心配は皆無なのですが、依然として凄まじい暑さ・・・初日だというのに早くもバテ気味なんですけど・・・。



とりあえず駅前通りを真っ直ぐ行きましょう。途中にあるのがシンプルなファサードの文化湯さん。前回訪れた際は『しばらく休みます』という貼り紙があったのです。看板も無くなっているし、復活できなかったんだ・・・このときはそう思ったのですが、真実は違っておりました。一度は復活されたそうなのですが、震災でボイラーがやられてしまい跡継ぎもいないため廃業されたとのこと。見事なペンキ絵があるそうなのですが、もう見られないのですね・・・。



少し行ったところで左に入ると安勝寺さん、応永29年(1422)創建という古刹。珍しい土蔵造りの本堂は、明治13年(1880)に起きた大火で焼失したものを再建したものになります。蔵の町に相応しいものだと思いますが、寺社建築って深い出の軒に並ぶ垂木が見所の一つだったりします。そこがのっぺらぼう・・・ものすごい違和感(笑)



駅前通りを渡って町の中心へ・・・途中、通りのカーブに合わせたようなお宅があります。あ、此処は覚えているぞ。



その先にあるのが旧滝沢医院、現在は整骨院になっています。面白い屋根の組み合わせですね。バルコニーは後から造ったものだと思います。Tは滝沢の頭文字でしょうか。



お次は寛政2年(1790)創業の大和川酒造さん。いきなりでも酒蔵の見学が可能みたいです。



仕込みで使っていると思われる湧水が滾々と・・・汗まみれの顔をジャブジャブ、生き返りますわ〜。



嘗ての目抜き通りと思われる中央通り(県道21号線)に出ました。土蔵造りの商家が並ぶ中にあるのが明治3年(1870)創業の吉の川酒造店さん。目印は酒瓶に酒は吉の川と書かれたネオン、これが灯っているのを見てみたい。



煉瓦塀に溶岩を組み合わせた庭園がお気に入り、いいなあコレ。



ご存知、蔵の町はラーメンの町、ちょうどお腹もペコちゃんですので良さげなお店も探しながら行きましょう。



心なしか観光地化が進んでいるような気がする中央通りはアッサリと済ませ、路地に入りますと現れるのが南小路、飲み屋さんが集合した所謂ソシアルビルです。前回は此処で暫く雨宿りしていたっけ。



ヒイイッ、2階は蜘蛛の巣だらけ・・・現役なのでしょうか。



近くにあるのが御清水稲荷神社、名前のとおり境内に湧水が湧いています。



巨大な雪洞もそうですが、女性像はどちら様???



隣にあるのが、かの坂内食堂さん。物凄い行列に一瞬何が起きたかと・・・。並ぶのに飽きたのか、おチビちゃんが境内で遊んでおりました。



坂内食堂さんの向かいにはお城みたいな三階建て、元は旅館だったみたいです。写っておりませんが、向かいの行列、たぶん100名くらいはいるでしょうか、この炎天下・・・ご苦労様です。飽くなき美味への追求、尊敬致します。私?・・・絶対無理!!



その先の路地を覗くと大門!?袋小路の飲み屋街でした。目と鼻の先は遊廓跡ですので、名残の一つといえるのではないでしょうか。



何軒かは現役のようですが、大半はこんな状態でした。



そんな中に優れたデザインが転がっていたります。



煙突に湯気抜きの越し屋根、燃料と思われる廃材の山・・・間違いなくお風呂屋さんだと思うのですが、地図にはなぜか白山米穀店???よくよく見ますと、脇のドアに『白山湯 女湯』の表示・・・えーと、男湯は???



男湯はコチラからどうぞ、最初は女湯専門かと(笑)お米屋さんと兼業ですか、面白い造りですねえ。残念ながら2008年頃に廃業されてしまったそうです。



中央通り出口に建つのが濱町食堂さん、前回いたく気に入った物件になります。



6年前と全く同じ姿で待っていてくれました。コレ、絶対旨いお店でしょ。現役だったら間違いなく此処にしたのに・・・。



近くにあるのがマーケット横丁、細い路地の両側に小さなお店がズラリ・・・入口近くには飲み屋さん、ちょっと期待したのですが・・・



ちょっと幅員がひろがりましたが、居並ぶお店で現役なのはラーメン屋だけみたい。抜けるとさきほどの中央通りなのですが、なんだか風情もいまひとつですのでこのまま戻ります。



お店が決まらず坂内食堂さんがある通りに戻ってきてしまいました。ふと、通りの突当りのお店に目が止ります。見た目はごく普通の町の中華屋さんといった佇まい。喜多屋さん・・・暖簾を潜ってみると客の入りは七割ほど。ラーメンを所望・・・魚介系のダシが効いたスープ、ちょっと醤油が尖っている!?でも、これくらいのほうが汗ダラダラかいた身体の塩分補給にはちょうどいいかも(笑)他のお店を食べ比べたわけでもありませんし、ラーメンに詳しいわけでもありませんが・・・旨いよ〜、コレ。こちらのお店、老麺会という喜多方ラーメンの協会?には加盟していないそうです。行列とは無縁でも美味しいお店はあるということですな。あ、ちなみに画像は大盛りです。



さて、燃料満タンになりましたので遊廓跡を目指しますよ。その手前で見つけた光景・・・ボタン屋さん、衣服のボタン専門店ではなく文具店みたい、紛らわしい(笑)



向かいには不思議な破風をもつオモイデハウスさん・・・元々何だったのかは不明ですが、現在はギャラリーとして貸し出されているみたいです。



ヒマワリ一つで夏!!って光景になりますよね。強烈なキャラクターだなあ。



遊廓跡手前に続く廃れた飲み屋さん、此処で一杯ひっかけてという感じだったのでしょうか。



あ、この曲がりくねった水路も覚えてる・・・やっぱり、前回は遊廓跡の角っこをかすめただけなんだ。



冒頭の文章どおり旅館や割烹が数軒・・・あるにはありましたが、全て新しい建物に変わっておりました。



脇道でもう一つの大門を発見です。



この路地抜けますと、坂内食堂さんの前に出ます。



辛うじて往時の姿を残しているのかな?というのがこちらのお宅、以前は割烹でした。板塀だけが華やかし頃を物語っているようです。



これが嘗てのメインストリートのはず・・・あら、此処にも大行列。坂内食堂さんと並ぶ喜多方ラーメンの二大巨頭とされているまこと食堂さんです。その数50名ほど、ラーメン食う前にぶっ倒れないといいのですが・・・。向かいのビルは割烹新丁子屋さん。



遊廓時代のものかもしれない看板が掲げられておりました。



田付川を渡って市内に残るもう一ヶ所の蔵が居並ぶ通りへ・・・ほら、見えてきましたよ。理由は不明ですが、この界隈赤い瓦が乗った土蔵ばかりなのです。



おたづき蔵通りと呼ばれています。嘗ての米沢街道になります。



あまりの暑さに堪らず土蔵をリフォームしたカフェに飛び込み休憩。豆まるさん・・・隣の金忠さんという創業180年を誇る味噌蔵の直営店だそうです。いただいた味噌ソフトクリームが旨いのなんのって、疲れた身体に優しい甘さが染み込んでいく〜。これで駅まで戻る気力が復活です。



駅に帰ってくると異常事態発生・・・二時間以上前に到着しているはずのSLばんえつ物語が、故障でまだ来ていないというのです。私はその次に来る鈍行に乗るつもり・・・青春18きっぷですので・・・だったのですが、さて困った・・・。ここで駅員さんから天のお言葉、次の列車がいつになるか分からないから、もうすぐ到着するばんえつ物語に乗っちゃっていいよ。ワハハハ、ラッキー!!果たしてやって来たばんえつ物語・・・SLじゃありませんでした(爆)引っ張るSLが故障したから遅れていたわけですから、これは仕方ない・・・だって・・・



この客車一両、独占ですから!!(笑)乗車手帳も貰えちゃうし。でも、たった一駅なんですけどね。

以上、いろいろ楽しめた喜多方の再訪編でした。歩行距離、会津若松と同じく8キロですが、暑さのせいでいつもよりヘトヘト・・・これから郡山に戻って荷物をピックアップして山形に向かいます。こりゃ到着は夜中だな・・・ということで次回からは山形編、お楽しみに。

山形県 西村山郡大江町左沢201308

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最上川望む盲腸線終着駅・フォントがカワイイ洋品店・絵葉書の松?が残る遊廓跡

小さな神様の先が遊廓跡だとふんでいたのですがね・・・事実は違っていたようです。


 二日目、山形編スタートです。まずは『左沢』から・・・いきなりですが、皆さんコレ読めますか???正解は『あてらざわ』、初見で読める人ってたぶんいないんじゃないでしょうか。左沢は山形市の北西、日本三大急流の一つである最上川の中流域、クネクネと蛇行する流れに削られた河岸段丘に町の中心があります。古くから最上川の上流と下流とを繋ぐ物流の要衝だったそうです。この町に乗り入れているのが北山形駅を基点としているJR左沢線、大好物の盲腸線であります。その終着駅が左沢、しかも嘗ては遊廓が存在していたとくれば、これは訪れないわけにはいきませんよね。

 『東澤遊廓は山形県東置賜郡左澤町にあつて、鉄道に依る時は奥羽線赤澤駅で長井線に乗換へ、左澤駅で下車する。現在遊廓の貸座敷数は約四軒、娼妓は約十四五人居て、全部本県の女。店は写真制もあり陰店制もある。御定りは二円五十銭で一泊が出来、酒肴付である。本部屋は無い。当地は機業地帯なので、花街は相当繁昌して居る。』

 以上は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になりますが、下川耿史・林宏樹著『遊郭をみる』にもっと詳しい記述がありました。江戸時代から最上川の舟運で栄えてきた左沢でしたので、毎月多くの市が立っていました。特に賑わったのが8月25日から開かれた馬市、毎回60〜70軒もの屋台が軒を連ねていたそうです。その中にはバクチ屋や遊女屋なんてものが混じっていたそうですが、お上からは黙認状態だったとか・・・。この遊女屋が遊廓の始まりとされています。明治30年(1897)に町の45パーセントが焼失する大火が発生、これを期に元屋敷という場所に遊女屋を集めて形成されたのが上記の遊廓ということになります。幸いにも元屋敷という地名は現在も残っております。駅の東の外れ、最上川が大きくUの字を描きながらカーブする左岸辺りがそうみたいです。しかし、地図を見たかぎりでは遊廓特有の区画みたいなものは皆無・・・。残りの手がかりは『遊郭をみる』に掲載されていた絵葉書だけ、貸座敷と思われる家並みの背後に写る山・・・たぶん町を見おろす展望台がある楯山だと思うのですが、これと似たような光景を探してみましょうか。

 あ、そうそう、この左沢ですが、今年の3月に国の『重要文化的景観』に選定されたそうです。通りに祝選定というノボリが出ていたので気付いたのですが、最初は拙ブログでお馴染の『重要伝統的建造物群保存地区』かと・・・というわりには、それに相応しい町並みが見当たらない(失礼)完全に混同しておりました。重伝建地区は町並みや建物限定というミニマムな範囲ですが、重要文化的景観は文化財保護法第二条第1項第五号の『人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの』という一文を根拠に選定されているのでもっともっと広範囲になります。今回の左沢の場合も正式名称は『最上川の流通・往来及び左沢町場の景観』ですので、最上川流域も含まれているのです。まあ、いずれにしろ山形県では初の選定ですので、これを売りにしてもっと観光客を誘致できたらいいですね。

 高校生を満載して走り出した2両編成の左沢線始発列車、手前の寒河江で彼らが下車してしまうと車内には私を含めて4、5人・・・。寒河江にも遊廓があったようですが、どうもいまひとつピンとこなかったので今回は見送らせていただきました。楯山の下を貫くトンネルを抜けると、いきなり車窓に大きく蛇行する最上川が現れます。終点の左沢駅はすぐそこです。あれ?そういえば遊廓があったとされる元屋敷を通ってきたはずなのですが、それらしきものが全く見当たらなかったような・・・微かな不安を覚えながら歩き出しました。今日も刺すような陽射し・・・昨日の会津若松や喜多方より明らかに暑いんですけど(笑)北上しているのに、どうなってんのコレ???



町役場の向かいにある菊池写真館さん、以前のお店の一部が残されておりました。どんな建物だったのでしょうね。



脇道で見つけた土蔵が附属したお宅、欄間が独特ですなあ。



あ、円窓も発見です。



元町通り・・・おそらく町の目抜き通りかと。町並みというほどではありませんが、古い商家が続いておりました。二軒目の近代建築風、金融機関だったようなのですが、何処かに移転しちゃったのでしょうか。看板がのっぺらぼう。



キャノピーの照明にアシナガバチの巣、朝から元気に飛び回っていて接近不可能(笑)



原町で見つけた看板建築の洋品店、二階の装飾に目がいきがちですが、角にアールのついたガラスが嵌ったショーウィンドウがステキですねえ。でも、注目してほしいのは左に突き出した下屋部分・・・



構造上は効いていないと思われる細い鉄柱、小口にだけ貼られたモザイクタイル、レトロな框ドア、見事な構成美。問題はその上・・・



なにこの少女文字(笑)特に『品』の丸まり具合・・・カ、カワイイ。屋号が違うのはどうしてなんでしょうね。



その先の交差点を左折すると原町通り、往時の姿がいちばん感じられる通りだと思います。ほら、前方に豪壮なお屋敷が見えてきましたよ。



こりゃすごい!!脇の出っ張った雲か波みたいな装飾が面白いなあ。腰にはちょっと変わった質感の煉瓦が積まれています。こちら、嘗ては造り酒屋だったそうです。



見事な松に重厚な門、塀にも同じ煉瓦が使われています。瓦の色が独特だなあ。



向かいのお屋敷も立派なのですが・・・



庇が重すぎてへたっちゃってる・・・鉄柱で補強してありました。



町のランドマークともいえるのが旧最上橋、昭和15年(1940)に架橋されました。構造分類でいうと鉄筋コンクリート造3径間連続アーチ橋ということになるでしょうか。土木学界の推奨土木遺産に選定されている美しい橋です。バルコニー付きのレトロな欄干がステキなのですが、これちょっと低いような・・・かなりの高度感を味わえたのは私が高所恐怖症だから?(笑)鏡のように静かな川面、この辺り、急流で知られる最上川の中でも最も流れが緩やかな場所なんだそうです。



画面右から伸びているのが展望台がある楯山、河畔に入母屋の赤い屋根があるのがお分かりになりますでしょうか?その奥辺りが、遊廓があったとされる元屋敷、これからそちらに向かいます。何か発見できるといいのですが・・・。



○に塩、元問屋さんでしょうか。舟運で塩も運ばれていたはず、それの名残かもしれませんね。



その先に冒頭画像の小さな神様があります。駒竹稲荷大明神社です。奥に見える山並みが『遊郭をみる』の絵葉書のものとよく似ている・・・てっきりこの辺りが遊廓の入口かと思いこんでしまったわけです。ちなみにこの神様、遊廓との繋がりみたいな証拠は発見に至らず。



しかし、これぞ遺構といった物件はいっこうに見当たりません。此処じゃないのかなあ・・・。



そうこうしているうちに今度は小さな橋が・・・これはもしかすると思案橋!?その先にはあてらざわ温泉湯元旅館だと!?これはかなり期待しても良い状況なのでは・・・。



妄想はあっという間に砕け散りました。何も発見できず、最上川に出ちゃった・・・どうやら此処ではなかったようです。立派な石碑、川を行き来した船頭たちも口ずさんでいたのでしょうか。この最上川舟唄、大江町のHPによりますと、世界三大舟唄の一つなんだとか・・・誰が決めたんや・・・。



ちょっと頭を整理するために河畔に出ました。さきほど旧最上橋から見えた赤い入母屋屋根の正体は湯元旅館さんの宴会場?でした。跳ね出したテラスの下、流木が見えますが、旅に出る二週間ほど前、この地域を襲ったゲリラ豪雨で最上川が氾濫寸前・・・左沢線も一時運休するなどかなり心配する状況でした。大きな被害は無かったようですね。



これが旧最上橋。どうです、なかなかのものでしょ???穏やかな流れ・・・嘗ては荷物を満載した和船が行き来していたのでしょう。ちなみにちょっと上流に行きますと、有名なロケ地があります。雪景色の最上川、酒田の米問屋へ奉公に出される少女が乗った筏、それを見送るしかない母・・・そう、日本中、いや世界中を号泣させた『おしん』のあのシーンが撮られた場所です。



地図を眺めていて気付きました。さきほど辿ってきた通りと並行して走っている左沢線の向こう側・・・そっちにも気になる通りがあるのです。あ、此処の山並みほうが『遊郭をみる』の絵葉書に近いかも・・・。帰ってから気付いたのですが、左端の松に注目!!絵葉書にも似たような枝ぶりが写っているのですよ。植えたばかりみたいで細いですけどね。絵葉書の写真がいつ撮影されたのかは不明ですが、それが成長したと考えれば納得なのですが・・・。



もっと決定的だったのが左のお宅です。とあるブログで、背後の高台から最上川方向を写した写真を見つけたのですが、中庭を囲むように複雑な屋根が・・・明らかに普通のお宅の造りじゃない・・・。探索時は手前のガレージに騙されて素通りしてしまったわけ。写ってはいませんが、右側には左沢線の小高い築堤があります。行きの車内からは反対側の最上川沿いの光景ばかりに注目していて、こちら側に全く気付かなかった・・・。



ですから、この時点では怪しいと思いつつも決定的な証拠が見つけられず、半信半疑のままウロウロするだけ・・・。



もっと奥に入りますと、こんな塀に囲まれたお宅もあったりして、ますます混乱してしまうのです。



帰り道で出会った立派なお宅。一瞬、オオッとなりましたが、明らかに新しいですよね(笑)



お地蔵さんがある路地が駅への近道みたいです。

以上、曖昧なまま終わってしまった左沢の探索でした。気になる遊廓跡ですが、レポを書くにあたっていろいろ調べていましたら、こんなものが・・・。コレ、国交省の東北地方整備局山形河川国道事務所がまとめた資料みたいなのですが、地図にはっきりと『くるわ』と表記されています。最後に訪れた通りが遊廓跡で間違いないと思います。相変わらずの下調べの杜撰さを反省しつつ、自分の勘に自画自賛しているという複雑な心境です(笑)

歩行距離5キロほど、小さな町ですので2時間もあれば一通り巡れてしまいます。それでも早くもヘロヘロ、午前中だというのに駅舎に併設された町の交流施設でソフトクリームをペロペロ・・・ほんとこの暑さどうにかして!!と叫びたい私です。このまま左沢線で戻って、山形市を探索するのですが・・・あんなことになるなんて・・・。

山形県 山形市201308その1

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手作り写真館とピンク映画館・戦災に遭わなかった遊廓・飲み屋続く現役花街/b>

焼けなかったとのことですので、かなり期待していたのですがね・・・。


 前回の左沢から盲腸線に揺られること45分ほど、山形市に戻ってまいりました。冷房の効いた車内から一歩も出たくないのですが(笑)2006年に市の外れにある名勝山寺を訪れたのですが、市内は完全にスルー。当時は遊里関係にはさほど興味はありませんでした・・・というか、遊里が存在していたこと自体知りませんでしたから・・・とまあ、言い訳はこれぐらいにしておいて、お馴染『全国遊廓案内』から始めさせていただきます。

 『山形市遊廓は山形県山形市小姓町に在つて、奥羽線山形駅で下車すれば東方へ約六丁北山形駅で下車すれば東方へ約十二丁の地点である。何れの駅からも乗合自動車の便があつて、遊廓入口停留所迄の賃金は十銭である。当市には県庁あり、旅団あり、高等学校もあつて県下第一の都会である。漆器、のし梅の産地として有名だ。此処から西北へ約三里程の地点には、有名な奇勝山寺があつて自動車の便がある。宿場から遊廓に改まつたのは明治十七年であるが、明治二十七年の大火には一軒残らず類焼して終つた。だが忽ちにして復興し、素晴らしい大厦高楼が軒を連らねて一大遊廓が建設せられて現在に至つたものである。数年前迄は二十二軒あつたのであるが、財界不況のあほりを食つて大店が三軒共討死したのは一寸淋しいが、其れでも未だ十九軒残つて居て、盛んに気勢を揚げて居る。娼妓は全部で百九十一人居て、一部秋田県人の他は全部山形県の女性である』

 山形市は関ヶ原の戦で東軍につき、山形藩を57万石の大大名にのし上げた最上義光が治めた城下町。彼の居城である山形城は、平城としては日本最大の規模を誇っていたそうです。広大な城郭を中心にして格子状の町割がひろがる典型的な城下町というのが特徴になるでしょうか。東に蔵王連峰、西に月山・朝日連峰を望む風光明媚な町は、平成元年に『小京都』の仲間入りをしています。遊廓があったとされる小姓町は現在も健在でして、地図を見ればすぐに分かると思いますが、途中でクランクしているメインストリートらしき通りもしっかり残っているようです。ちなみにこの小姓町、嘗てはお殿様の警護役であった小姓衆の武家屋敷が並んでいたそうです。

 『全国遊廓案内』の文面から察すると、かなり隆盛を極めた遊廓だったようです。この遊廓、戦後になっても赤線として継続していくことになります。『よるの女性街・全国案内版』によりますと、焼けない街なので典型的な遊廓が小姓町に45軒、177名、情の深い女が多いとあります。この『焼けない』というのは空襲の被害が無かったということになります。東北地方の県庁所在地で空襲に遭わなかったのは山形市だけとのことなのですが、盛岡市や秋田市もそうだという話もあるみたい・・・まあ、諸説入り乱れておりますが、とにかく山形市が空襲を受けなかったのは正しいみたいです。『全国遊廓案内』に『旅団あり』とありますが、これは山形城址に駐屯していた大日本帝国陸軍歩兵第32連隊のことだと思います。軍都という一面もあった山形市ですが、なぜ空襲されなかったのか・・・これについては米軍に聞かないとわかりませんけど・・・。そんなことより重要なのは焼けなかったのならば・・・と当然思いますよね?しかし、ネットの情報や『赤線跡を歩く』を読み返してみても、そのあたりのことがどうも芳しくないわけです。まあ、とにかく行ってみるしかないようです。



駅前にひろがる歓楽街の誘惑に負けず、真っ直ぐ遊廓跡を目指しますよ。



恵美さんの出窓がステキすぎるのですが・・・。



国道112号線に出ました。嘗ての羽州街道になります。旧街道沿いにあるのが山形まるごと館 紅の蔵・・・元々は山形名産である紅花を扱う商家だったそうです。



現在は土蔵が幾つも並ぶ広大な屋敷をリフォームして、飲食店や観光案内所として使われています。山形市の観光拠点として位置づけられているようです。



往時を物語る蔵座敷が残っていました。扉の分厚さが凄いですよ。



まあ、中は薄暗い普通の和室ですな。悪さをして此処に閉じ込められたら怖いでしょうね(笑)



此処のカフェで昼食、ジャンボなハンバーグで猛暑に打ち勝て・・・たらいいのですが。



レトロな型板ガラス、人研ぎの流し、マジョリカ風タイル・・・オリジナルではないと思いますが、トイレの造りが独特です。



舞妓は〜ん、山形市は現役の花柳界が今も残っている町でもあります。それにつきましてはその2のほうで・・・。個人的嗜好になりますが、皆さんレベル高いですよ。反射が酷くて申し訳ない。



同じ旧羽州街道沿いで見つけた何とも表現しようのない珍妙物件、元お医者さんでしょうか。



その先には蔵造りの商家、丸太中村近江屋さんです。明治27年(1894)に発生した山形市南大火直後に建てられたものだそうです。2階妻側窓庇の装飾が見事です。



立派な門柱が現れました。吉池小児科皮膚科医院さんです。



ゴシック風の教会に間違えそうな医院部分は大正元年(1912)に建てられました。今も現役というのが素晴しいと思います。



その先の脇道に入りますと、美しい洋館が見えてきます。大正10年(1921)に建てられた旧西村写真館さんです。お隣が気になりますが(笑)後ほど。



見所は何といっても玄関廻り。跳ね出した2階の破風と、その下に吊られたバージボードよ呼ばれる装飾です。



驚いたことにコチラ、当主とその父親が建築廃材を利用して、自分達で設計施工しちゃったというのです。カメラマン兼、建築家兼、大工ですか・・・器用すぎるにもほどがあるぞ(笑)しかし、残念なことに平成7年に廃業されてしまったそうです。



気になるお隣ですが、ご覧のとおりのピンク映画館だと思われます。案の定、ハッテンバとして有名だったとか・・・でも、今はもう・・・。



そのまま東に向かいますと、拡幅されたばかりと思われる真新しい通りにぶつかります。渡った先が小姓町、おそらく此処が遊廓の入口だったと思われます。



ピンコロ石が敷かれた嘗てのメインストリート、現在は石だたみロマンロード21という意味不明な名前に・・・居並ぶのは鄙びた飲み屋さんばかり。柳の木は往時のものかもしれませんね。



脇道に入っても同じ状態・・・奥の派手目なお店は大人のサロン、この界隈唯一の風俗店みたいです。



メインストリートの中ほどを通りが横切っているのですが、その角に面した入母屋屋根おお店が妙に気になる・・・明らかに往時から存在していたものだと思うのですが・・・。



明確に遺構と言えるのが、メインストリートがクランクしている部分に建つドーマー窓があるコチラ。現在は山形県生活衛生会館という、床屋や美容室、クリーニング店、各種飲食店などの営業指導や融資受付などをしている法人ですが、嘗ては遊廓の娼妓が定期的に性病の検査を受けていた所謂検梅所だったそうです。



大火後、メインストリート南側の通りにも貸座敷が並ぶようになったとのこと・・・行ってみると旅館が一軒だけ残っておりました。



その先には東前稲荷神社・・・沿革を紹介する案内板に遊廓のことが記されておりました。『城主秋元涼朝の文政四年(1821)城下の宿屋に遊女を置きたき申出あり、発展のため許可す。明治十七年より同三十年頃まで、市内の貸座敷業者が集結し、小姓町遊廓となり、明治、大正、昭和と、六十年間にわたって歓楽街として繁栄せり。』



それ以外、遊廓との繋がりを示すものは発見できず・・・。なぜか境内の中央を水路が横切っております。



近くの路地裏、古びた板塀が・・・これも遊廓時代からのものだと思うのですがねえ。



突当りのフェンスの向こう側、庭園の名残でしょうか???



路地が急激に狭まり、私有地と主張・・・こういったのも遊里跡でよく見かける光景です。以上、焼けなかったにしてはちと寂しい小姓町遊廓跡でした。やっぱり予想どおりの結果でしたね、覚悟していたとはいえちょっと残念です。



さきほどの拡幅された新しい通りに戻り北へ、市内随一の歓楽街である七日町を目指しましょう。途中の脇道にあるのが旧市島鉄砲火薬店、昭和2年(1927)に建てられた国の登録文化財です。店舗としては山形市内初の鉄筋コンクリート造の建物なんだとか。アンバランスだなあと思っていましたら、切妻屋根は後から乗せられたものみたいです。



七日町の手前で謎物件に遭遇・・・飲み屋さんが並ぶ長屋が付属した元映画館?と思ったのですが・・・



どうやら違うみたい・・・規模からすると、ダンスホール或いはキャバレー的な処だったのではないかと想像させていただいたのですが、如何でしょう。



並んでいる飲み屋さんもなかなかの佇まいです。脇に回ってみますと・・・



森洋品店さん???コチラ、どうやらデザイナーさんのアトリエ兼店舗みたい。



裏側のサビサビトタンにウットリ、これは素晴しい。通りに散らばった養生鋼板とゴムシートがアートしておりますな。森洋品店さん処の小窓の向こうに何か毛玉みたいなものが・・・



こ、この毛玉動くぞ(笑)起こしちゃってご免ね。それにしてもこの子、随分と立派な耳ですね。

その1はここまで・・・遊廓跡は残念でした。もう少し何かあるんじゃないと思っていたのですがね。まあ、全部猛暑のせいにしちゃいましょう。とりあえずここまでは順調だったのですが、これ以降暑さでグズグズになっていくわけです。そして、あんなことに・・・。

山形県 山形市201308その2

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うまいこと舞妓さんが通りかかればと・・・いくら待っても来ませんでした。


 さて、これから訪れる七日町ですが、その名のとおり毎月七のつく日に市が開かれていたそうです。古くから人々が集まる町だったわけです。この界隈が市内随一の歓楽街に成長するのに大きな役割を果たしたのが、明治9年(1876)創業の老舗料亭である千歳館さん。きっかけとなったのが明治44年(1911)に発生した山形市北大火、全焼してしまったお店を現在地に再建したのが大正4年(1915)のこと・・・当時は一面に桑畑がひろがっていたそうです。時を同じにして料理店や芸妓置屋を誘致したそうですが、これが花柳界形成の礎となったようです。昭和に入りますと、近くにある県庁の政治家や役人、その1でお話した兵隊さんなどが頻繁に足を運ぶようになります。また、近くには映画館が乱立するようになり一大不夜城が形成されるに至ります。当時の様子は『全国花街めぐり』から・・・。

 『山形市は県庁所在地で兵営もあるし、人口は五万六千、東北六県の中では仙台・青森に次で兎にも角にも三番目に位する大都で、その周囲には広大な最上平野を控えて居ながら、どうもパツとせぬ市街である。派手なところがない。善くいへば素朴、わるく言へば野暮である。従つて遊びの方面なども極めて不粋らしく、これといふ情調も見出せないが兎に角書くだけは書いては置かう。市の繁華区は旅籠町、七日町、横町附近で、料理屋なども此の七日町界隈にもつとも多い、元来ここには専門の芸妓屋はなく、すべて芸妓は料理屋の抱え制度で、大抵の料理屋に二三名づつ内芸妓が置いてある、但し客の招きに応じてどこの料理屋へでも出向く。故に強て花街なるものを求むるとすれば「七日町」であらう。遊廓は「小姓町遊廓」と称し、別に一廓をなして大小約四十軒の貸座敷があつて、ここにも若干の抱芸妓が居る。現在芸妓約百五十名。主なる料理店──四山楼。中山。千歳楼。主なる貸座敷──新芳。大金。長しま楼・・・特種の歌踊とてもなく、流行唄やお定りの小唄の外は「おばこ」などをうたつて居る』

 ぱっとしない町、無粋で情調もない、とにかく書くだけは書いておこうって・・・この著者の松川二郎氏って時々酷いこと平気で言うんだよなあ。何か嫌な思いでもしたのでしょうか、ぼられたとか(笑)実際そうだったのかはわかりませんが、軒を連ねる料理店、芸妓置屋、待合の中にはガラス張りの温室植物園!?にパターゴルフ場!?なんて変わりものも並んでいたそうで、これだけで当時の隆盛が伺えると思います。戦後も花街は継続、『よるの女性街・全国案内版』によりますと、映画館の並ぶ旭座裏に芸妓76名、丸顔だが美人が多いとあります。その後の様子は不明ですが、何処の花街も同様に時代の流れでゆっくりと衰退していったのでしょう。しかしこの花柳界、ギリギリのところで踏ん張っております。現在も6名の芸者さんが頑張っているそうです。彼女たちの育成枠として市も協力しているのが、その1でも少し紹介した『やまがた舞子』ということになりますね。



七日町を訪れる前にちょっと休憩・・・したいのですが、お店が皆満員・・・この暑さですものね。『水の町屋七日町御殿堰』という嘗て城下町を流れていた用水路を復元した商業施設にあった古井戸、山形市は伏流水が豊富な処なのでこういった井戸が沢山見られたそうです。


ようやく一息つけました。近くで見つけたのが旧丁字屋洋品店、大正14年(1925)に建てられました。現在は七日町二郵便局として余生を送っています。



同じ並びにある書店、なんとオニックス!?もちろんニセモノ(笑)メラミン化粧合板・・・ちょっと違いますが、デコラといえば分かりやすいかな?普通、外壁には使わないんですけどね。



脇道にあるのが『全国花街めぐり』にも出てくる料亭四山楼さん、明治24年(1891)創業の老舗です。屋号の名付け親は伊藤博文なんだとか。敷居高そう・・・。



小姓町遊廓跡から辿ってきた通りに戻ってまいりました。ウハッ、樽を潜って入店ですか・・・工夫をした甲斐はなかったようです・・・。



その先に元料亭ではないかと思われる物件が現れます。脇を覗くと水路が、円窓も発見です。



そのファサード、現在は居酒屋になっているようです。



また立派な料亭です。こちらはのゝ村さん、明治6年(1873)創業です。美しいアプローチです。敷居の高さも相当なもの(笑)



交差点に面しているのが旧旭座、前身は明治初期にできた芝居小屋でした。現在の建物は昭和30年(1955)のもの。長い間、娯楽の殿堂として市民に親しまれてきましたが、2007年に閉館・・・。規則正しく並ぶポツ窓、好きなんですよねえ。気になったのが出入りしている工事業者・・・調べてみましたら、コチラ解体されちゃうそうです。嘗て栄華を誇った七日町のランドマーク的建物だったと思うのですが、ほんと残念ですね。



その先に鮮やかな水色の建物が現われます。こちらが料亭千歳館さん、お店のHPには鹿鳴館調とあるのですが・・・ウーム、どうなんでしょう、これは(笑)



這い回るハーフティンバー風のボーダー、それが二重になった軒下でプッツリ切れて寺社建築風の持送りに変化、その軒も一部唐破風みたいだし・・・所謂擬洋風建築の一種になるんだと思うのですが、何とも表現しようのない建物ですなあ。とにかくハイカラなことだけは確かです。



気に入ったのが建物の角を隅切って造られた勝手口?このタイル貼りの柱いいなあ。あ、忘れていました、国の登録文化財です。



千歳館さん脇に大門です。この界隈の飲み屋街、花小路と呼ばれています。



潜った先の路地に入ると、見渡す限り飲み屋、飲み屋、飲み屋・・・。



路地沿いはそうでもなかったのですが、袋小路に入ると、まるでグラデーションのようにゆっくりと場末っぽくなっていくのが面白いなあ。



仕舞いにはこんな状況に・・・。



この看板が気に入りました。麦とろ食べたい・・・。



別の路地・・・ママさん、日本人じゃないのかな???文章が(笑)



モザイクタイルのポーチはパーマ屋さん、前方に見えるのは・・・



円と四角の下地窓がある冒頭画像の建物、元料亭でしょうか。どうやら商売はされていない様子。



勝手口?脇の横スリットの開口がステキ。こういった用途の建物に時折見られる造作ですが、コレ好きなんですよねえ。舞妓さんが来ませんので、さらに細い路地を奥へ・・・。



その先にも料理店らしき建物、2階出窓下のアールが面白い。



角を曲がったら行き止まりでした。そこにも何かいわくあり気な建物が・・・。



長いこと人が通っていないようですね。



こちらは反対側、千歳館さんの裏手辺り・・・だったと思う、で見つけました。庭が夏草に覆われており正体不明。以上が七日町になりますが、山形市にはまだまだ魅力的な近代建築が残っております。引き続きそちらを・・・といきたいのですが著しくモチベーション下がっております。原因はもちろんこの異常な暑さ・・・とにかく行けるところまで行ってみましょうか。



なんだか吸い込まれそうな入口廻りですね。



長〜いお店に出会いました。細谷牛肉店さん、明治38年(1905)創業という老舗、昭和天皇が来県した際には牛肉を献上されたそうです。



長〜い建物の反対側はすき焼きのお店だったようですが、現在は使われていないみたい。お隣には木造4階建て!?という驚くべき構造の仙台屋旅館さんがあるのですが、酷い写真に・・・こんなところにも猛暑の影響か・・・。



その先にあるのが山形市立第一小学校、思いっきり煽ってみたら、帝政ロシアのアヴァンギャルドポスターみたいになってしまった・・・ウム、これはこれで良い。



昭和2年(1927)竣工、県下初の鉄筋コンクリート造の校舎になります。さきほど帝政ロシアと言いましたが、どちらかというとドイツ表現主義のほうが正しいかと思われます。校舎にしては象徴的な建物に見えますが、それもそのはず、当初は勧業博覧会の会場として使われたそうです。国の登録文化財です。

もうヘロヘロ・・・昇降口のポーチで暫しの休息・・・まだまだ見たい建物があるぞと思いながら立ち上がろうとした瞬間です。経験したこともない立ちくらみでストンと尻餅・・・な、なんだ、いったい何が起こったんだ!?再び立ち上がりましたが、今度は指先がプルプルと痙攣し始めた・・・これ、ヤバイでしょ。辺りを見回しても休憩できそうな場所がない・・・。通りかかったタクシーを捕まえて駅前に戻り、フラフラと這うようしてカフェへ・・・そこから記憶が飛びます・・・。

気がつくと一時間半ほど経過・・・どうやら熱中症寸前だったみたい。この山形市の後、お隣の上山市のかみのやま温泉を訪れるつもりでした。遊廓跡らしき場所も判明していましたし、80円で入湯できる共同浴場で汗を流すというプランだったのですが、それは諦めないとならないみたいです。この日の山形市の最高気温37度、東京は35度・・・どういうことやねん!!もう少し休んだら、次の目的地である新庄に向かうことにします。歩行距離9キロ・・・以上、かなり不本意な探索になってしまった山形市でした。あ、そうえいば大好物ののし梅買うの忘れてた・・・。

山形県 新庄市201308

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移転されなかった?遊廓・闇市起源のレトロ飲み屋街・急行とナース!?

こういった薄暗くて狭苦しい場所に潜り込むの大好きなんですよね。


 ハイ、東北遊里跡巡礼の旅3日目でございます。昨日は山形市で大変な目に遭ってしまったわけですが、その後這うようにして何とかかんとか辿り着いたのが山形県北東部に位置する新庄市、この町も2006年に訪れております。厳密には再訪になるのですが、前回は列車の乗り継ぎ時間を利用して1時間ほどブラブラしただけでした。ちゃんと探索するのは今回が初めてということになりますね。ですので、あえて再訪編とはしておりません。どうかご理解くださいませ。

 新庄は中世に築かれた鵜沼城こと新庄城の城下町ということになりますが、当時はもっと北に位置する真室川周辺が軍事的に重要な地域でした。そこから外れた新庄は小さな豪族や領主が群雄割拠する複雑な地だったようです。そのせいなのか分かりませんが、どうもいまいち掴みどころのない町なのです。主な名産は養蚕・製糸・木材とのことなのですが、これらは日本の地方都市全てに当て嵌まることだよなあ・・・。城下町のわりには趣のある町並みが残っているわけでもないし・・・あえて言うならば、新庄駅で奥の細道最上川ラインこと陸羽西線が分岐しますので交通の要衝ということになるでしょうか。まあ、とにかく特徴の乏しい町というのが第一印象でした。まるで足繁く通った北関東の町を見ているみたい・・・あ、一応断っておきますが、これは私的には誉め言葉ですぞ(笑)そんな町にも遊廓が存在しておりました。

 『新庄遊廓は山形県最上郡新庄町字萬場町に在つて、萬場町遊廓とも云つてゐる。奥羽線新庄駅で下車して北へ約十二丁の処にある。乗合自動車の便があるから、萬場町停留場で下車すれば宜しい。名は遊廓と云ふ事には成つて居るが、事実上に於ては未だ国道に沿ふた宿場に成つて居る。遠からず完全な遊廓と成る事だらう。新庄は奥羽線と小牛田線との交叉駅で、奥羽地方に於ける交通の要路である。人口約三万、市政が施かれるのも必らず近い将来に在る事だらう。貸座敷は現在七軒あつて、娼妓は全部で二十八人居る・・・本場丈けに「おばこ節」も盛んであるが、里謡に新庄節と云ふのがある。「花の萬場町上れば下る。鉄のわらじもたまりやせぬ」「さばね山越え舟形越えて、逢ひに来たぞや萬場町に」妓楼は福寿楼、千年楼、常磐楼、立花楼、伊勢屋、松川楼、恵比良楼の七軒だ』

 以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。幸い現在も万場町は存在しております。文中に国道に沿った宿場とありますが、たぶんこれは万場町を貫いている県道308号線(旧羽州街道)のことではないか・・・と旅に出る前はそう予想していたのですが、今回それを裏付ける証言を得ることができました。それを聞いたのは、とある飲み屋街の薄暗い居酒屋。この飲み屋街、前回偶然出くわしたのですが、その佇まいが昭和まる出しで素晴しいのなんのって・・・7年ぶりになりますが、何一つ変わっていないことに驚かされました。コレ系がお好きな方なら堪らん場所なんじゃないでしょうか。これも合わせてレポしていきますよ。



前日の猛暑から一転、夜半から降り出した激しい雨、明け方になってようやく小降りになりましたが依然としてシトシト・・・。今夏は全国でゲリラ豪雨が暴れ回りましたよね。この旅でも心配していたのですが、幸いなことに降られたのは新庄だけでした。



早朝の駅前、人っ子一人おりませぬ。駅前通りを進みますとアーケードの架かった通りにぶつかります。これが嘗ての羽州街道、右折しておそらく宿場だったと思われる通りを真っ直ぐ北へ・・・しばらく進みますと奇妙な建物が見えてきます。



大正5年(1916)に建てられた旧楯岡銀行、その後は質店として使われていたそうです。



たぶん屋根は後から乗せられたものだと思います。ウーム、それにしても何とも表現しようのない様式ですなあ。すぐ近くには遊廓の入口があるわけでして、此処に質草を預けて通いつめた男もいたりして・・・。



通りを挟んだ向かいにはレトロな旅館。三笑旅館さんです。



その先を右折すると万場町です。この通りも旧羽州街道、地元では万場町通りと呼ばれています。この通り沿いに妓楼が並んでいたそうです。『全国遊廓案内』にあるとおり、一廓を成していたわけではなく、宿場の家並みに混じっていたようです。遊女屋がそのまま残ったという感じでしょうか。風紀上の問題などから移転させられるのが通例ですから、全国的にみても珍しい遊里だと思います。



脇道に入りますと、この看板が見えてきます。



割烹つたやさん、明治24年(1891)創業とのことです。立派なお店ですが、遊廓との繋がりは如何に・・・。



万場町通りに戻りました。素っ気無い看板建築のお店、地図を見ますと竹本旅館とあります。すでに退役済みみたいです。



奥を覗きますとこんな状態・・・何となくですが、面影が残っているような気がしません???



その先、二軒の古い町屋が並んでいます。とりあえず手前は置いといて、奥の土蔵造りの店蔵は新庄信用金庫万場町支店。たぶん以前は何か別の商店だったのではないでしょうか。



問題は手前、切妻屋根妻入りの町屋、お隣の秋田県ではもっと豪壮なものを見ることができますが、この新庄辺りからチラホラ見かけるようになります。アールのついた破風が美しいですが、遺構ではないでしょうね。



あらら、通りを抜けたら川に出ちゃった・・・結局、これこそと断言できるような物件は発見には至りませんでした。あのお爺ちゃんの言ったとおり・・・あ、お爺ちゃんというのは、例の飲み屋街で万場町遊廓のことをお聞きした方のことね。先には何も無さそうですので裏道を辿って戻ります。



その裏道で出会った納豆屋さん、なんだか凄く旨そうなんですけど・・・。



立派な門柱はさきほどの竹本旅館さんのもの。



大幅に直されているようですが、入母屋の破風だけはオリジナルではないでしょうか。こうして見るとやっぱり怪しいぞ・・・。



それ以外収穫なし・・・お気付きでしょうか、今回の東北の旅、ここまで建物としての間違いなく遺構と断言できる物件には出会っていないんですよね。まあ、本人は大いに楽しんでおりますから・・・と言いたいところですが、本音を言っちゃうと、ちょっと物足りない(笑)



万場町通り入口に戻ってまいりました。近くにある市神社、こちら元々は『全国遊廓案内』にも載っている松川楼にあったのを移したものなんだそうです。一応遺構と言えるもの残っていましたね。



そのまま裏道を辿ります。何かの配管が跨いでいるのはキッコーセン醤油醸造さんのもの。前から思っていたのですが、醤油の蔵元ってキッコー○○という屋号のところ多いですよね。どうしてなんでしょう。



駅の手前にある若葉町に入りました。前方のビル、窓の形状と配置、色も合わせて物凄く気色悪い・・・。



水路際に建つお宅には・・・



粋な窓が穿たれておりました。組子障子がいいですなあ。



その先に異様を誇るのが例の飲み屋街、あけぼの町飲食店街であります。前回、これがいきなり現れたときは言葉を失いましたよ。目を引くのがなぜか『ぬけられない』大門、なんでも巷ではゲートと呼ばれているらしいですな(すっ呆け)コレ、たぶん許可が下りなかったんだと思います。一般的に道路上に建築物や工作物を建てる場合、確認申請の前に許可申請というものが必要になります。例えば高速道路の料金所やデパートの渡り廊下などになるでしょうか。まあ、それが下りなかったおかげでこの特異な光景が形成されたわけでして・・・いいのか悪いのか・・・もちろん私は好きですけどね。



そんな難しいことはどうでもいいですよね。昭和レトロな飲み屋街を堪能致しましょう。こんな三階建てがズラリと並んでいるんですもの。今時こんな電飾、まずお目にかかれないよなあ。残念ながらコチラ、夜になっても点灯しませんでした。



今回のドアマニア物件、ステキすぎる・・・。



夜来香さんもいいなあ・・・隣の曙町消防部に注目。自警団的な消防組織があったみたいですな。まあ、こんな状態ですから、一度火が出たらオシマイでしょうなあ。



トタン路地・・・こんなの見たら入らないわけにはいきませんがな。この先が冒頭画像の場所、袋小路の行き止まり、小さな広場になっていて共同の便所があります。大部分のお店にはトイレがないみたいです。



そういえば此処の成り立ちをお話していませんでしたね。起源は戦後の闇市にあるようです。空襲に備えて強制疎開させられた店主たちが戦後になって開いていた露店・・・昭和29年(1954)になると、道路占有などの問題から露店の撤去命令が出されます。その代替地とされたのが此処、当初は日用品や衣料品など生活必需品のお店も混じっていたようですが、いつしか飲み屋さんばかりに・・・。最初に思いませんでしたか???此処は『赤』なのか『青』なのかって・・・私もそうでした(笑)昭和29年ということは4年後には売防法が施行されてしまうわけ、そういった場所ではないということです。



そういった場所ではないと分かっていても、こういった光景を見てしまうと、いろいろと妄想してしまうわけ・・・。



素晴しい密集具合・・・見た感じ七割くらいのお店が現役と思われます。



またこんな路地を見つけてしまった・・・引き寄せられるようにしてフラフラと奥へ・・・。



ここも行き止まりの先に広場・・・トタンサイディングじゃなければなあと思うのは贅沢でしょうか。



突然ですが、ここでレポは前日に戻ります。山形市から熱中症寸前で駅前のホテルに辿り着いた私、シャワーを浴びて少し休んだらかなり回復してきた・・・ならば軽い精進落しを兼ねてちょっくら偵察に・・・げんきんなものですな。その前に腹ごしらえ、驚いたことにこの新庄、駅前に食事ができるようなお店が一切見当たらない。ようやく見つけたのが急行食堂・・・なぜに急行、特急じゃいかんのでしょうか。しかもお隣がナース倶楽部、所謂大人のサロンです。煌々と灯るピンクの照明の下、呼び込みのオッチャンが頑張っております。この珍妙な光景を見て気に入っちゃいました、新庄のこと(笑)



この急行食堂、実は結構有名なお店みたいです。新庄名物の一つとして鶏モツがあるのですが、それを使ったトリモツラーメンや激辛の地獄ラーメンがオススメとのこと。辛いのがダメな私は味噌味の天国ラーメン、優しい味ですが優しすぎてよく分からない・・・。家庭の手作りみたいな餃子は美味しかったですよ。



夜のあけぼの町飲食店街、街灯が少ないせいなのか日が落ちると辺りは真っ暗・・・そんな中、此処だけがまるで不夜城のように浮かび上がっておりました。



向かいでは山車の製作真っ最中、数日後に開催される新庄祭りに使われるものみたいです。この新庄祭り、250年ほどの歴史があるそうで、絢爛豪華な山車の行列は国の重文に指定されています。東北の夏祭りは熱いですよねえ。



ボケボケで申し訳ない。呑んだ後ですのでどうかお許しくだされ。今回悟りました『呑んだら撮るな、撮るなら呑むな』って・・・。



前述のお爺ちゃんと出会ったのがこの居酒屋。まあ、私が入店した時点でかなりできあがっておりましたし、独特の方言が会話の邪魔をするわけ(笑)暗号みたいな話を総合しますと、お爺ちゃんはこの新庄出身、でも産まれたのは戦争突入寸前なので遊廓のことはよく分からない。お爺ちゃんの父親の話によると、子供の頃はあそこ(万場町)に行ってはいけないと言われていた。戦後は旅館街になった、20年くらい前までは当時の建物が残っていたが、現在は何もない。此処(あけぼの町飲食店街)はそういう妖しいお店はなかったぞ(笑)私も結構早いピッチでしたので、かなり怪しい部分があるかもしれません。間違っていたらご免なさい。お爺ちゃん、聞いてもいないエロい話までいろいろとありがとうね(爆)



キャロルさん・・・マスターが魚の仲買人をしているそうで、新鮮な魚介類をやれ食えそれ食えと凄まじい大盛りで出してくれることで有名なんだそうです。しかも全品600円!?残念なことに一見さんは難しいみたい・・・というか独りで入るお店じゃないですな。あんな量一人じゃ無理だわ。



いつまでもこのままでいてほしい、まるで天然記念物みたいな飲み屋街でした。

歩行距離6キロほど・・・遊廓ウンヌンよりもレトロ飲み屋街の話に終始してしまった新庄の探索でした。でも、こういった系が好きな方なら必見の場所だとオススメしておきますぞ。陸羽西線に乗った私、今度は日本海側を目指します。次回は鶴岡、待望の建物としての遺構に遭遇です。

山形県 鶴岡市201308その1

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レトロなソシアルビルの前身は・昭和になって移転した遊廓・美しき白亜の教会

中ほどに変な空中ドアがありますよね。コレ、たぶん嘗ての搬入口だと思います。


 庄内平野のほぼ中央に位置し、東に出羽三山、北に鳥海山を望む鶴岡市。鎌倉時代に大宝寺城が築かれたのが町の始まりのようです。大宝寺城というのは後の鶴岡城のことです。当時は小さな豪族が覇権を争う動乱の地だったようですが、それを平定したのがかの上杉景勝。同時にお城の改修を行ないますが、それを指揮したのが愛と義の人、直江兼続です。兼続は築城の名手でもあったようですね。江戸時代になりますと最上義光が治める山形藩の領地となりますが、後に最上家はお家騒動で改易の憂き目に・・・。山形藩も分割されてしまいます。鶴岡は庄内藩十四万石の城下町として再出発するのですが、新たな藩主として入城したのが徳川四天王の一人である酒井忠次の孫、忠勝。以降、約250年にわたって酒井家が鶴岡を治めていくことになります。しかし、その後に起きた戊辰戦争で庄内藩は幕府側につきましたので鶴岡城は廃城になってしまうわけです。

 鶴岡の遊里につきましてはその2でお話するとして、2006年に東北を旅した際もこの鶴岡を訪れる予定でした。しかし、お隣の酒田で雷様の逆鱗に触れてしまい移動できませんでした。そういえば行きも大変だったなあ・・・余目から酒田に向かう途中、豪雨で列車がストップ、酒田に到着したのが深夜だったし。そして今回・・・小雨ぱらつく新庄を発車した奥の細道最上川ラインこと陸羽西線、最上川の流れに沿うようにして走るなかなか風光明媚な路線です。定刻に余目に到着、ここで羽越本線に乗り換えるのですが、なんと前日の豪雨の影響で運休・・・次の列車は一時間半後・・・まさに歴史は繰り返すですな。この地域との相性は最悪みたい・・・まあ、急ぐ旅ではありませんから、ゆっくりと食事でもしていきましょう。



驚いたことに駅前には食堂が二軒も(笑)私と同じく列車に乗れなかった人たちが後から続々と押し寄せて小さなお店はあっというまに満員御礼。此処の肉野菜いため定食が旨いのなんのって、米どころの庄内だからでしょうか。何気なく頼んだのですがこれにはビックリ。一幸食堂さん、ごちそうさまでした。まだたっぷりと時間がありますので駅前をブラブラ・・・近くで見つけた円窓があるお宅です。



それでもまだまだ時間がたっぷり・・・駅の待合室でぼーっと待ちぼうけ。まあ、たまにはこういうのもいいものです。



ようやくやってきた列車に乗り込み15分ほどで鶴岡に到着。駅前に巨大な倉庫があります。JA全農山形鶴岡倉庫、コレどこかで見たことありませんか???そう、お隣の酒田にある観光名所としても有名な山居倉庫にソックリですよね。あ、酒田もこの後に再訪しますよ。



駅前通りを真っ直ぐ1キロほど、山王日枝神社がある交差点を右折すると山王町。この辺りからが嘗ての中心街になるようです。神社の向かいにあるのが明治6年(1873)創業の寛明堂写真館さん、現在のお店は昭和4年(1929)に建てられました。



スクラッチタイルに軒先の星形装飾、目を引くのが八角形の窓、格子もオシャレです。それにしても昔の写真館って皆ステキですよね。花形職業だったんだろうなあ・・・。



地元では山王通りと呼ばれています。いい感じに鄙びた商店街です。



ベーカリーの木村屋さん。画像を開いてから気付いたのですが、建物の背後から立ち上がるダイヤ型の突起物はなんでしょう???



そして昭和6年(1931)に建てられた洋品店のギンヨー827さん。ヨーロピアンにもアメリカンにも見える・・・強いて言えば洋風看板建築でしょうか、摩訶不思議なデザインです。



アチャー、やっちまったなあ(笑)



向かいにはサビサビトタン三階建て、これはいいなあ。



サビサビトタンから見る『こうでねいと』。すぐ脇を流れるのが内川、嘗てこの辺りに船着き場があったそうです。そこから舟で日本海沿いを酒田に向かったのがかの松尾芭蕉、鶴岡では『めづらしや山をいで羽の初茄子』という句を残しています。



内川を渡るとアーケードが架かった商店街、本町に入りました。



とあるビルの車路、小さな水族館になっておりました。



薬局に掲げられていたレリーフ。ああ、恵比寿さんねと納得・・・しかし妙な違和感・・・見直してみると・・・ぶ、豚さん!?何だコレ???



脇道に入ると光景が一変、廃れた飲み屋街が現れました。



コレ、間違いなくモデルは岩下志麻姐さんでんがな。ある夜眠れずテレビをつけたらやっていたのが『極妻シリーズ』一挙放送。一本目はよく出来てると思うのですが、以降なんであんなに駄作が増産されたのでしょう。まあ、姐さんの艶やかな和服姿をウットリと愛でるだけのものと割り切って鑑賞するものですな、あれは。



その先に冒頭画像の謎物件があります。倉庫か体育館みたいに見えますが、元々は鶴岡銀映という映画館だったそうです。閉館後改修→ソシアルビルという華麗な変身を遂げたわけですが、かなり珍しいケースなんじゃないでしょうか。



嘗てはこの辺りにもぎりの窓口があったのでしょうか。



残念ながら映画館としての名残は全くと言っていいほど残っておりませんでした。



一歩奥へ進むと漆黒の闇・・・ほんと手探りじゃないと進めない・・・。基本ヘタレですので、これ以上は勘弁して・・・。なんか変なもの写っていませんよね???



見た感じですが、現役のお店はほとんど残っていないようです。階段が苔生しちゃってるし・・・すごいなこりゃ。



向かいの山茶花さん、この玄関マット、いつから敷きっぱなしなんだろう・・・グレーチングと一体化(笑)



こう見ると元映画館というのが納得できますよね。しかし、手前にも似たような建物が・・・



あれ!?こっちがそうなの???まあ、そんな些細なことはどうでもいいと思うような光景が振り返るとひろがっておりますよ。



でました『ぬけられます』(笑)飲み屋、下見板張り、サビトタン・・・これは素晴しい。



『ぬけられます』部分を見上げるとコレが・・・。たぶん鏑矢だと思うのですが、同じようなのを北関東や信州の民家で見かけたことがあります。魔除け的なものなのでしょう。



今度は宙に浮く花嫁が現れた!?紋屋さんとのことで納得したのですが、これも凄い光景ですな。夜、光ったりするのでしょうか。



西側を並行している通りにあるのが鶴岡ホテル、詳細は不明ですが明治中期に建てられたものだそうです。



一時期、進駐軍が利用したこともあったそうです。洋風の食堂があるのですが、当時はダンスホールだったとか。看板の『JAPANESE STYLE』はその名残かもしれませんね。もちろん現役、此処泊りたかったなあ。

前半はここまで、鶴岡ホテル前の通りを行きますと遊廓があった七日町なのですが、それにつきましては次回のお楽しみということで。これがまた数奇な運命を辿った遊廓なのですよ。

山形県 鶴岡市201308その2

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本当に見つかっちゃった・・・ちょっと感動・・・。


 『鶴岡遊廓は山形県東田川郡鶴岡市にあつて、鉄道ならば羽越線鶴岡駅で下車する。従来迄此の町には鉄道がなく、大鳥川を利用して通交して居たのであるが、最近羽越線が敷かれてから著しく発展した町である。目下遊廓の貸座敷数は六軒娼妓約三十人位居る』

 お馴染『全国遊廓案内』によるこれから訪れる遊廓の紹介でした。これだけじゃ何処にあったのか全く分かりませんよね、相変わらずの不親切ぶり、どうにかしてくれよ・・・と80年前の書物に文句言っても始まりませんので↓の地図をご覧下さい。

 コレ、大正15年(1926)に出版されたものになります。地図の右上から斜めに延びているのが、その1のレポで最後に紹介した鶴岡ホテルがある通りになります。南下していくとぶつかる通りを右折、この辺りが遊廓の入口だったみたいですね。幅員がちょっぴり拡がっているのがお分かりになりますでしょうか。現在は本町2丁目の一部になっておりますが、当時は七日町と呼ばれていました。遊廓と表示があるのですが、分かりにくいので赤丸を付けさせていただきました。おそらくこの通り沿いに貸座敷が並んでいたのだと思います。地図には旅館やその他の業種のお店も記されていますので、一廓を成していたのではないということになりますね。

 注目していただきたいのがその下・・・青丸の部分です。なんと『遊廓移転敷地』と記されているのです。まあ、遊廓が移転するというのは別に珍しいことではありませんが、此処の場合はその時期が特殊だと思うわけです。『全国遊廓案内』が出版されたのは昭和5年(1930)、上の地図は大正15年です。そこから推定すると、『全国遊廓案内』に書かれているのは七日町にあった遊廓、その後に移転したと思われます。昭和になってから移転って結構珍しいですよね。どういった理由からなのでしょうね・・・。いやいや、まてよ・・・まだ移転したと判明したわけではないぞと現在の地図を眺めてみますと・・・オオッ、あった、ありました。↑の地図の場所からはちょこっとずれておりますが、もっと西側の内川の畔、明らかに周囲から浮いている街区を発見です。南北に長い長方形、嘗てのメインストリートと思われる通りもはっきりと確認できます。とりあえず旧七日町を訪ねてからこの移転先?にも行ってみることに致しましょう。



その1からの続き・・・鶴岡ホテル前の通りを真っ直ぐ南へ・・・やがてこの通りにぶつかります。目印は豚丼のぶーちゃん、ここを右折します。地元では七日町通りと呼ばれているようです。



しばらく行くと見えてくるのがコレ・・・こりゃすごい!!割烹の三浦屋さんです。破風に円窓に欄間に下地窓・・・折り重なるようにして迫る和の造作をご堪能ください。



玄関の破風には見事な鶴の懸魚、暖簾もすごいですなあ。ただ、現役ではなさそうなのが残念です。



お城みたいにも見えますよね。実はコチラ、先日こんなことをやっていたそうです。内部見たかったなあ。記事によりますと、竣工が昭和13年(1938)とのことですので、遊廓が移転した後に建てられたとするとしっくりくるわけです。



通りを挟んだ向かいにある薬局がちょっと気になる造りなのです。



虫籠窓風の格子に二階の出窓・・・ウーム、単なる商家には見えないのですが・・・。



裏通りにあった小さなお店、たぶんサンヨーの特約店だったと思うのですが・・・



看板はそのままに飲み屋さんになっちゃったみたい。今やサノですけどね(笑)



飲み屋さんが居並ぶ長屋風建築、全て空き店舗でした。抜けると七日町通りに戻るのですが、移転した遊廓跡へはこの通りを更に南へ・・・。



近くの龍蔵寺で見つけた鶴の彫り物です。



こんな通りをあと1キロほど・・・国交省の航空写真で確認してみたところ、この辺り、60年代までは一面の田んぼだったようです。



やがて二車線の通りにぶつかります。此処を右折、双葉町に入りました。あ、前方に何か見えてきた・・・。



本当に残っていた・・・。まあ、遊廓特有の区画が確認できればめっけものだと思っておりましたので、これはまさに不意打ち。暫し呆然ですわ。



かなりの大店だと思います。二階の連続する窓が壮観ですなあ。



お売りします・・・試しに不動産屋さんのHPを調べてみましたら、売り地ということで掲載されておりました。建物は使用に耐えないという判断なのでしょう。もしかすると、前歴も含めてということなのかもしれませんね。土地230坪ほど家屋込みで2,000万だそうです。東京では考えられないお値打ち物件、どこかのお金持ちさん是非ともお願い致しますぞ。そして、見学させてください(笑)



嘗てのメインストリート、ちゃんと桜並木が残っているのに驚かされます。これを見て、此処で間違いないと確信致しました。



遊廓跡南東の角にあるのが宗吾神社。右隅の石碑に注目、『金野小冶君功労碑』とあります。何々・・・難しくて途中で解読諦めてしまった・・・判明した範囲になりますが、どうやらこの金野さん、遊廓移転に関わった方みたいです。県令で双葉町に移転が決まったのが大正13年とのこと、それから10年にわたって金野さんは尽力されたそうです。大正13年・・・前出の地図は大正15年、史実的には合致するわけです。問題は『全国遊廓案内』、あれはどっちの遊廓のことを書いたものなのでしょう。



神社近くで見つけた絶品のサビサビトタン物件、遺構かどうかは微妙な感じ。



その先の焼き杉の下見板張り物件も同じ、明らかに遊廓が現役だった頃には存在していたはずなのですが・・・果たして・・・。



『お売りします』の向かい・・・こちらも立派ですよ。見越しの松が見事すぎて全景が分かりません。天辺に飾られているのは注連縄?何かのお守りみたいですね。



外壁を塗り替え屋根も葺き替えているようです。大切にされているようですね。



この塀、いいですよねえ。



こう見ると、こちらもかなりの大店だったというのが分かるかと思います。現在は更地になっていますが、地図にはお隣にアパートの表記が・・・規模的もおそらくそうだったのではないかと思うのですが、ちょっと遅かったみたい・・・。



その1で紹介した鶴岡ホテル近くに戻って参りました。県道47号線で内川を渡って鶴岡城址方面に向かいます。左に見える蔦に飲み込まれようとしているのは、閉館してしまった映画館です。



廃城になってしまった鶴岡城に天守閣は残っておりません。現在は公園として整備されています。内堀の畔に赤い屋根が目を引く洋館があります。



大正天皇即位を記念して大正4年(1915)に建てられた大宝館。以前は市立図書館として使われていましたが、現在は郷土資料館的な展示施設になっているようです。外壁の塗り替えが済んだばかりのようです。



城址近くにも赤い屋根があります。こちらはとんがり帽子ですけどね。美しい白亜の教会、国の重文の鶴岡カトリック教会天主堂、明治36年(1906)に建てられました。コチラを設計したのが、明治期の教会建築の多くを手掛けたパピノ神父です。ロマネスク様式の美しい外観ですが、是非ともご覧になっていただきたいのは内部・・・。



どうです、素晴しいでしょう。優美なアーチを描く高いリブヴォールト天井が美しいですなあ。この教会の造りをバジリカ型三廊式と呼ぶそうです。さすが重文、日本を代表する教会建築と言えるのではないでしょうか。パイプ椅子がちょっと残念ですけどね(笑)



祭壇の左側にチラと写っているのが、世界的にも珍しいとされている黒いマリア像。帰ってから知った事実ですので画像はありません。でも、なんで黒だと珍しいの???



立派な寺社仏閣もそうですが、こういった処って私のような煩悩の塊みたいな人間にとっては居心地が悪くて仕方がないわけ(笑)

歩行距離は13キロか、結構歩きましたね。まだ幾つか見ておきたい建物があったのですが、昨日のこともありますのでここまでとさせてください。何よりも建物としての遺構が見られたというのは収穫でした。それでは今日の宿泊地である酒田に向かうと致しましょう。以上、鶴岡の探索でした。


告知 海へ

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毎年恒例の、そして待ちに待ったneonこと大倉ひとみさんの秋の個展が10月15日(火)から開催されます。今回のテーマは『海へ To the Bay』とのこと・・・まあ、テーマどおりの内容だと思うのですが、実は私もよく把握しておりません。ひとみさんのブログをご覧になればその製作過程が分かるのですが、あえて今回はそれをしておりません。理由は新鮮な気落ちで作品と向き合いたいから・・・。ですので、いつも以上に楽しみだったりします。

詳細については上の画像をクリックしていただくか、ひとみさんのブログまでどうぞ。あ、そうそう、ギャラリーの場所が移っていますのでくれぐれもご注意くださいね。一族郎党、老若男女、お隣近所、お誘い合わせのうえジャンジャン、バリバリ訪れてくれると私は信じておるぞ!!

◆大倉ひとみブログ『N的画譚』 http://neontica.blog51.fc2.com/
◆ギャラリーツープラス       http://www.two-plus.com/sora/

山形県 酒田市201308(再訪編)その1

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遊廓跡近くのガラス玉・往時を伝える巨大料亭・日本一の大地主のお宅

市内随一のナイトスポット、新旧が向かい合っているわけ。


 東北遊里跡巡礼の旅4日目、古くから日本海有数の商港として栄えてきた酒田市から始めさせていただきます。最上川河口にひろがる酒田港は、江戸時代に蝦夷から大阪に向かう西回り航路(北前船)が開拓されると一気に賑わうことになります。加えて最上川の舟運もありましたから物資の集散地としての隆盛はかなりのものだったようです。それらの商いで富を成した大商人に数多く現れるのですが、彼ら有力商人が結成したのが三十六人衆です。所謂自治組織で、お侍なんかより力があったとされています。中でも有名なのが本間家、日本一の大地主と呼ばれたとんでもない豪商であります。一時期には3,000町の土地に2,500人の小作人を有していたとか・・・。そう言われても私のような庶民には何のことやら全く想像できない世界ですよね。それだけの町ですのでかなりの町並みが・・・って期待しちゃうのですが、この酒田、残念なことに明治27年(1894)に発生した庄内地震と昭和51年(1976)の酒田大火のせいでほとんど残っていないのです・・・。

 『酒田町遊廓は山形県飽海郡酒田町字新町に在つて、羽越線酒田駅で下車すれば西へ数丁、乗合自動車は新町で下車する。酒田港は和船万能時代には有名な港だった。庄内平野は勿論、遠くは米沢置賜方面の産物を最上川の水運に依つて一手に引受けて、一大荷物の集散地であつた。今は玆が起点と成つて鉄道が四方に敷かれたので昔程では無く成つたが、依然として交通上の要路である事を失はない。有名な大地主本間氏の根拠地で、別邸の庭園等は可成豪壮を極めたものである。「本間様には及びも無いが、せめて成り度や殿様に」と云ふ里謡がある程だ。遊廓も昔から殷賑して、今町、船場町、高野濱の三ヶ所に在つたものであるが、明治二十七年の大震災後に三ヶ所全部合併して今日に至つたものである。現在貸座敷が三十一軒あつて娼妓は約百人居るが、秋田県及山形県の女が多い・・・娼楼は小川屋、門真楼、福田楼、常磐家、藤美屋、緑屋、越後谷、群芳楼、櫻屋、吾妻家、松村屋、本五楼、柿崎屋、吉田屋、出島屋、西村屋、明園楼、藤屋、下総屋、喜楽亭、海望楼・・・おばこ節の本場・・・』

 以上は『全国遊廓案内』による酒田の紹介になります。この町を訪れるのは実に7年振り、思い返してみますと、前回はこの遊廓跡の一歩手前まで行っているのです。相変わらずのもってなさ・・・頭を抱えたくなりますな。まあ、当時はこういったものにあまり興味はなかったから・・・と言い訳をしつつ自分を慰めておきますよ。案内文には駅から西へ数丁とありますが、実際はもっともっと距離があります。今回は長旅なので仕方ないのですが、スーツケースを転がしながらヘイコラ一時間・・・夕刻に遊廓跡近くの若浦屋旅館さんに到着。食事は美味しいしお風呂はデカイし・・・それよりも何よりも洗濯ができたのが嬉しい(笑)酔い覚ましに外に出たのですが見事なまでに真っ暗、人影も皆無・・・遊廓跡も真っ暗・・・ライトアップぐらいしているだろうと山居倉庫まで歩いたのですがこれまた真っ暗・・・ならば有名な立ち飲み屋と思ったのですが、真っ暗で分からない・・・そんなこんなで酒田の夜はふけていくのでした。なんなのコレ!?

註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



今日も暑くなりそうなのでちょっとズル、旅館のチャリをお借りすることに。近くにあるのが謎の四層洋館。前回、此処までは来たのです。裏手のお宅の角を曲がると遊廓跡だったなんて全く知らなかったわけ。ちなみに右の急坂を登っていくと日和山公園です。



よかった、入口脇に嵌め込まれた紫のガラス玉は無事でした。綺麗ですねえ。



向かいにあるのが割烹よしのやさん、ランチは結構お手軽みたいです。



角を曲がると遊廓があったとされる通りです。謎の洋館があるお宅の塀、何かいわく有り気なんだよなあ・・・。



遊廓といっても此処の場合、独特な町割りみたいなものは見られません。一見するといたって普通の住宅街のようにも見えますが、通りの中ほどに数軒の旅館が並んでいます。そのうちの一軒、松美屋さんの屋根の破風に注目です。



鏝絵で海望楼・・・『全国遊廓案内』にも載っているお店です。たぶん転業されたんだと思います。実は最初は此処に泊ろうと思っていたのですが、なぜか電話が繋がらなかった・・・。



脇道で見つけたお宅、腰というか巾木に美しいタイルが使われておりました。



脇道を抜けると日和山ホテル、見た目は完全に旅館(笑)スダレのせいで造りがよく分からん。遊廓跡は以上、残念ながら遺構の類はほとんど残っていないみたいです。



日和山公園の東側で見つけた粋な塀に洋風の門、只者ではない雰囲気がプンプン。恐る恐る覗き込んでみますと・・・



夏草が生い茂るお化け屋敷でした。洋館付住宅の一種だと思います。



奥の高台にあるのが海運寺、麓の参道沿いは寂れた歓楽街、前回と全く変わっていないことに驚かされます。



お気に入りの飲み屋建築、これも以前のまま・・・。



時が止まっている一画です。



近くに異様を誇る和風建築があります。山王くらぶ・・・嘗ては酒田を代表する料亭でしたが平成11年(1999)に休業、平成17年(2005)に市へ寄贈されます。その後改修され、華やかだった料亭文化を伝える施設として平成20年(2008)にオープンしました。精緻な格子にスリガラスの欄間、釣鐘形と円形の造作、扇形の窓、賑やかな外観ですね。国の登録文化財です。



まだ開館時間ではなかったのですが、指を咥えて眺めている私の哀れな姿を不憫に思ったのか、綺麗なお姉さんが入れてくださいました。



あ、そうそう忘れていた。向かいにあるのが冒頭画像の白ばらさん、なんとコチラ、東北地方唯一の現役グランドキャバレーなんですって。寂れた真っ暗な歓楽街、此処だけに煌々と明かりが灯っておりました。



山王くらぶの内部・・・床の間の掛け軸にあるとおり夢二の間と呼ばれています。実際、竹久夢二は三度も酒田を訪れており、山王くらぶを常宿としていたそうです。で、毎回泊っていたのがこの部屋になります。



これはオリジナルなのでしょうか、まるで和風パーティションみたいな踏込の入口ですね。洋風に無理矢理和風を押し込んだみたい、面白いなあ。



入ると天井は高いけど薄暗い座敷。何となく正体が分かったでしょ???



こんな一室で和服が似合う妙齢の女性としっぽりしたいものですなあ(爆)



地袋に施されていた螺鈿細工です。



はい、この分厚い漆喰塗りの扉で分かりましたね。こちらは蔵座敷なのでした。



広縁の障子のデザイン、これいいなあ。書院の組子も見事です。



円窓がある階段を登って二階へ・・・



二階には大広間が二つ、片方には所狭しと酒田特有の縁起物である傘福が飾られています。



飾り物それぞれに意味があるみたいです。でもこの傘福、いわれがはっきりしていないんだとか・・・。



もう一つの大広間は人形作家辻村寿三郎の展示室になっており撮影禁止でした。そりゃもう見事なものでしたが、なんでジュサブローなの???酒田と何か縁でもあるのでしょうか。



あ、これも残ってた・・・どうしても★の配置が気になってしまう(笑)

前半はここまで、山王くらぶを紹介してしまいましたが、酒田の花柳界についてはその2のほうでお話したいと思います。

山形県 酒田市201308(再訪編)その2

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この娘たちの踊り、見られませんでした。


 『「花の今町、もみぢの新地、すずみ臺町、かすみの出町、沖をながむる日和山」酒田名所を詠んだ庄内民謡「いざや巻」の小唄。日和山公園は市街の西北端にある高さ三十米突ばかりの砂丘で、市街の瓦鱗および最上川口から日本海を一目に見晴らして眺望頗ぶる開闊、芭蕉翁の「温海山や吹浦かけて夕すずみ」の名句も此の丘上あたりの吟かとおもはれる・・・日和山公園の下もみぢの「新地」は即ち遊廓で、門を入れば青楼庇を接し、紅燈を連ねて、昼尚ほ弦歌の声湧くがごとくなる歌吹境。が、要するにここは娼妓地帯で、市内に散在する大料理店はそれぞれ内芸妓を抱えている。芸妓の数常に百十名内外、人口二萬五六千の町であつて、人口三萬二千を擁する鶴岡市に比して五六名か十名位は多い、そこが即ち酒田の酒田たる所以で、川村端軒が此地に倉庫を建てて貢米を大阪に直輸する大廻り小廻りの航路を開いて以来、奥羽の商権を握つて繁栄した地、その繁栄振は西鶴の一代男などにも描かれて、新潟に劣らぬ「色の港」であつた・・・特有の歌踊 「おばこ節」及びこれに伴ふ踊。但し秋田市附近のや「神代おばこ」とは少し節がちがふので、私たちは「庄内おばこ」として之を区別してゐる。「おばこ此の頃見えね、風邪でも引いたかやと案ずられ、コバエテコバエテ♪ 風邪も引かねども、親達やきンびしぐで籠の鳥、コバエテコバエテ♪」「酒田荒町で、染屋のうらにて狐啼く、コバエテコバエテ♪ 狐なんと啼く、浅黄がうすとてコンと啼く。コバエテコバエテ♪」「おばこ××好きで、花染の腰巻などまくづりあげて、コバエテコバエテ♪ 人に見つけられ、ひきづり眼で引きわかれ。コバエテコバエテ♪」その他性的で露骨な歌詞が多いが、その点が野趣に富む「おばこ」の面白い点だともいへる。おばこは十七八の処女の意、「コバエテ」は「来ば好いて」の訛りらしく思われる・・・』

 『全国花街めぐり』による酒田の花街の様子になります。かなりの隆盛を誇った町ですので華やかな花柳界が存在していたようですね。その後の様子は不明ですが、おそらく日本全国に存在した花街同様、ゆっくりと衰退していったのだと思います。それの象徴ともいえるのがその1で紹介した山王くらぶになるのではないでしょうか。でも、僅かながらですが残っております。それが冒頭画像の酒田舞娘なのですが、それについてはレポの中でお話していきたいと思います。↑でおばこ節のことが書かれてありますが、神代おばこ(秋田市)、庄内おばこ(酒田市)以外にも米沢おばこというのもあるらしく、地域によってそれぞれ節も歌詞も違うみたいですね。それにしても処女なのに××好きとはこれ如何に・・・あれ?もしかして私、××のこと勘違いしている!?

註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



日吉町のほぼ真ん中にやってきました。鮮やかなべんがら色に塗られた塀が目印なのが相馬楼さん、江戸時代から続く老舗料亭、『全国花街めぐり』にもでてくるお店です。現在の建物は庄内地震の後に建てられたもの、国の登録文化財です。まだ開館時間じゃなくて入れなかった・・・。



現在は料亭というよりも観光施設的なものになっているみたいです。酒田にゆかりが深い竹久夢二の美術館なんてものが併設されています。此処で食事をしながら鑑賞できるのが酒田舞娘の踊り、もちろん庄内おばこもレパートリーの一つとなっています。でも彼女たち、京都の所謂半玉さんとはちょっと違うみたい、置屋に所属しているわけではなく、この相馬楼さんの社員なんだそうです。舞妓ではなく舞娘と名乗っているのにもそのあたりのことがあるのかもしれませんね。でも華やかだった花柳界を伝える唯一の存在ですから頑張ってほしいものです。



隣にあるのが料亭香梅咲さん、重厚な門が目印です。嘉永7年(1854)創業、こちらは今も現役バリバリのお店です。



打ち水がされた石畳が涼しげでいいですねえ。こちら、天皇陛下をお迎えしたこともあるそうです。名店ですな。



二つの料亭の間はいい感じの路地になっております。



ここだけは涼しくて良かったのですがね・・・。



近くにあるのが久村酒屋さん、こちらも慶応3年(1867)創業の老舗。夜になると久村の酒場という名居酒屋に変身します。昨晩探していたのがこのお店、途中で面倒くさくなって止めちゃったのですが、此処にあったんだ・・・。



次に訪れたのが前回もレポした山居倉庫、酒田随一の観光名所ではないでしょうか。昨晩も訪れております・・・真っ暗で何も分からなかったけど(笑)



明治26年(1893)、酒田米穀取引所の倉庫として建てられました。現在もJAの倉庫として現役です。切妻屋根が12個連続する様は壮観ですなあ。よく見ると屋根が二重になっているのが分かるかと思います。これは断熱と通風を考慮した納まり、所謂置き屋根の一種になります。



裏手にはケヤキの巨木がズラリ、こちらは遮光と防風のためのもの。当時はエアコンなんてありませんでしたから、穀物を如何にして良い状態で保存するか・・・先人はいろいろと知恵を絞ったわけです。



町中に戻ってまいりました。二番町にあるのがその1で紹介した日本一の大地主と呼ばれた豪商本間家の旧本邸。見事な長屋門の向かいには別館お店という不思議な名前の建物。『おみせ』ではなく『おたな』と読みます。その名のとおり嘗ては本間家のお店だったそうです。



長屋門を潜って美しい白砂が敷かれたアプローチを辿っていきますと・・・こんな光景が見えてきます。



こ、これは・・・建物よりも松が気になって仕方がない。この物凄い松は樹齢400年とのこと、伏龍の松と呼ばれています。



肝心の明和5年(1768)に建てられたという旧本邸ですが・・・実は中には入りませんでした。だって入館料が700円・・・先を急ぐのでということにさせてください(笑)



次の目的地に向かう途中出会ったモダンな建物。住宅?商店?・・・正体不明でした。



国指定史跡の旧鐙屋(あぶみや)、微妙な出来の少女像がお出迎え(笑)此処、現在公開中の映画版『おしん』のロケで使われたそうです。おしんの奉公先である加賀屋という設定です。



鐙屋は酒田を代表する廻船問屋でした。建物は弘化2年(1845)に発生した大火の後に建てられたものと伝わっています。正直言ってしまうと、此処を訪れたのはとにかく涼みたかったから・・・真夏の土間ってヒンヤリしてていいですよねえ。この土間、通り庭と呼ばれており、家人のメイン動線でした。



こんな感じの座敷が10余り、通り庭に沿って並んでいます。各部の造作は至って地味でした。



さすが豪商、いいもの食ってますな(笑)



日和山公園裏の新地に移転する前に遊廓があったとされる船場町、当時の名残は全くといっていいほど残っておりません。長大な黒板塀は酒田酒造さんのもの。



ウハッ!!Hairに反応してしまう私はおかしいのでしょうか。



こちらも船場町で見つけた不思議な造りの商家?です。



松を象った造作、普通こういうのって通りに向けるものだと思うのですが・・・。



日和山公園に向かう急坂、ヒイヒイ言いながらチャリを押し登っていくと・・・ほら、見えてきた。



前回も紹介した割烹小幡さん、そのときは既に商売を辞めており廃屋状態でした。その後、看板がありますとおり映画『おくりびと』の中で、主人公モックンが再就職するNKエージェンシーのオフィスとして使われ一躍脚光を浴びることになります。私もたまたま映画館で観ており、スクリーンにコレが現れたときは驚きました。



当時のセットが残されており見学ができますよ。ファンには堪らんのではないでしょうか。まあ、他ではあまり見られない独特な建物です。ただほおっておくのは勿体無い、こういう余生も有りなのではないでしょうか。



日和山公園を下って、最上川河口の酒田港に行ってみようかな・・・。



酒田港には酒田駅から伸びる貨物引込線が枝分かれして無数に走っています。その上をディーゼル機関車がゆっくりと行ったり来たり・・・なんだか長閑な光景でした。どうもいまいち気が進まないので此処で帰ることに致します。理由?とにかく暑いから・・・中途半端なレポで申し訳ない。

以上、7年ぶりの酒田再訪編でした。何しろぶっ倒れそうになった山形市並みの暑さでしたので、このあたりでお許しくだされ。また一時間スーツケースを転がす気にもなれませんので、タクシーを呼んでもらうことにします。次回からは秋田県編、実はこれが東北遊里跡巡礼の旅のメインディッシュだったりします。かな〜り濃ゆ〜い光景もあったりするかも!?乞うご期待。

東京都 武蔵野市201309・三鷹市201311

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林の中にあった色街・溶岩塀と謎欄干手摺・消え失せた横丁建築

林の痕跡は見つかりませんでした。林立する看板がその面影ということにしておきましょう。


 東北遊里跡巡礼の旅はちょっとお休みさせていただくとして、今回は東京に存在したマイナーな遊里を幾つか紹介したいと思います。まあ、こういったものにメジャーもマイナーもないと思うのですが・・・。JR中央本線が東西を貫くこのエリア、都内でも指折りのベッドタウンですよね。なぜか知り合いも結構住んでいるわけでして、やっぱり武蔵野の面影が残る自然豊かな環境が子育てにも適しているということなのでしょうか。そんなファミリーが行き来する町にも嘗て遊里がありました。名前を『三鷹八丁特飲街』とか『武蔵八丁特飲街』と呼ばれていたそうです。三鷹なのか武蔵野なのかはっきりしてほしいところですが(笑)実際、三鷹駅は武蔵野市と三鷹市の境界にあるわけでして、北口を出ると武蔵野市、南口を出ると三鷹市なのです。恥ずかしながら今回初めて知った事実なんですけど・・・。

 上村敏彦著『花街・色街・艶な街 色街編』によりますと、それがあったのは三鷹駅北口を出て徒歩5分ほどの中町二丁目、北口ですので武蔵野市ということになりますね。昭和25年(1950)、その一画約160坪を買い取ったのは洲崎、新宿、八王子でその手の商いをしていた業者でした。当時は各地でこういった新興の色街が出現していた頃で、戦争で負けてから形成されたということから、俗に『ポツダム特飲街』と呼ばれたそうです。歴史のある遊廓とは違うわけです。所謂青線の一種として問題ないと思われます。業者はそこに8軒の木造のお店を建てて商売を始めます。どのお店にも5、6人の女性が住み込みで働いていたそうですので、総計40人ほどになりますか・・・これには別の説がありまして、後述するある文献には14軒と記されております。八丁通りに面した二階建ての見番以外は全て平屋建てだったそうです。そういえば近くの立川市の赤線も平屋のお店が主だったそうですからこのエリアの流行りだったのでしょうか。ちょっと気になったのが見番の存在、特飲街に見番って必要なのでしょうか。

 興味をひいたのはその環境、なんと林の中にあったというのです。武蔵野らしいといえばそれまでなんですけど、かなり珍しい色街だったのではないでしょうか。ちなみに戦後直後の昭和21年(1946)に米軍が撮影した航空写真を確認してみますと・・・オオッ、今回訪れた場所辺りに木々らしきものが結構広範囲に散らばっているっぽい・・・本当だったみたいです。でも、こんなものがいきなり出現されたら近隣の住人は堪りません。まさに青天の霹靂ですよね。その結果、婦人団体やPTAが中心になって大規模な撤廃運動が繰り広げられることになります。このことは武蔵野市の年表にも『昭和25年 八丁特飲街の撤去運動起きる』と記されております。こういったことって役所からすれば黒歴史ではないかと思うのですが・・・武蔵野市の英断、私は評価致しますぞ(笑)撤廃運動は起きましたが、たぶん業者たちはのらりくらりと追及をかわしていたのでしょう。しかし、数年後には売防法が成立してしまうわけです。そりゃ国の法律には勝てませんがな・・・売防法の施行前の昭和32年(1958)12月に廃業宣言して忽然と消えてしまうのでした。この色街、言ってみれば戦後のドサクサの中で咲いた徒花みたいなものだったのでしょうね。



三鷹駅北口を出て右折、少し進みますと見えてくるのがちょっと面白い造りのこのお店。どうやらお寿司屋さんだったみたい。この交差点を左折します。



すぐにコチラが現れます。たぶんお隣の建物が壊された結果、見られたくない恥ずかしい部分が露わになってしまったのでしょう。



洋瓦一枚分の小庇が気になりますが、どう見ても平屋じゃありませんよね。



その先、行き止まりの路地に沿って飲み屋さんが並んでいます。此処が冒頭画像の場所。



爽やかな秋晴れのせいでしょうか、あまり如何わしい雰囲気はありませんな。



どん詰まりの様子、こういう場所って落ち着くわ〜。



『花街・色街・艶な街 色街編』に当時のお店の屋号が載っておりましたので照らし合わせてみましたが・・・無駄足でした・・・。



この路地、途中で北側を並行する通りに『ぬけられます』



その通りが前書きにもある八丁通り。珍しい塀に注目、コレ溶岩を積み上げて石垣風に見せているんだと思います。塀の先に見えるお宅にも注目ですぞ。



橋の欄干みたいな不思議な手摺ですなあ。コチラ、巷では旧見番ではないか囁かれているとか、いないとか・・・。それが正しいとなりますと、八丁通りを挟んで向かい合うさきほどの路地の飲み屋さん辺りが嘗ての特飲街ということになるわけです。それにしても特飲街の見番というのがどうもしっくりこない・・・どんな役割だったのでしょうね。



旧見番?の裏手にある長屋風の建物、腰に定番の鉄平石です。たぶんコチラも飲み屋さんだったのでしょう。



色褪せていますが、以前はべんがら色だったのかもしれません。でも、二階建て・・・。



反対側には既に現役ではなさそうですが、こんな床屋さんが残っています。コチラは平屋・・・気になりますが、決定的な証拠の発見には至らず残念です。



近くの裏通りで見つけたお宅、まあ平屋だからという理由だけなんですけど(笑)



以上が瞬く間に消え失せた特飲街跡の探索になりますが、余りにもミニレポすぎますので続きがございます。

つい先日、たまたまですが、仕事の打合せで三鷹市に行く機会があったわけです。そういえば駅の南側ってどうなっているんだろう・・・何気なくストリートビューを眺めておりますと、見つけちゃったのですよ。大好物の横丁建築を・・・。



くどいようですが、南口を出ましたので今回は三鷹市ということになります。南口にはビルばかり・・・。



そんなビルの中、埋もれるようにしてこんなバラック造の飲み屋さんがポツンと残っておりました。



目的の横丁建築ですが・・・マンションの建設真っ最中・・・嗚呼、遅かった・・・。



東京だから仕方ないと諦めもつくのですが、特に今年は地方都市でもこういった状況に遭うこと多いんだよなあ・・・。



もっと南に行ったところで見つけた崩壊寸前のトンガリハウス、これはいい!!



今は誰も住んでいないみたい・・・。



その先に椅子専門の製作所、これは渋いなあ。張替・修理とありますが、新しいのは作っていないのかなあ。



羽目板張りのお宅もありました。いい草臥れ具合です。



こんな横丁も見つけましたよ。行き止まりではなく、奥で曲がっていて別の通りに出られます。



雰囲気は微妙でした。それでは、打合せに向かいます。仕事前だったのかよ!!

ウーム、これでもまだ物足りないとお嘆きの貴兄に朗報がございます。それが前書きにもある『ある文献』です。以前、遊里読本のカテゴリーで『カストリ雑誌に於ける遊里』なるものを紹介しました。それと同じ『読切ロマンス 1953年10月号』に三鷹八丁特飲街の様子が載っていましたので、それをそのまま載せちゃいます。私の下手糞な文章なんかより、よ〜く雰囲気が伝わってくると思いますが、所詮はカストリ雑誌です。眉唾で読んでいただいたほうが賢明ですぞ。

註)以下の文章ですが、かなりドギツイ表現、人権的に問題がありそうな部分があります。そういったのが苦手な方はお読みにならないほうが宜しいかと思います。


三 鷹

『女は男を慰めるものヨ』

 中央線三鷹駅前には、武蔵野詩人の国木田独歩の碑がある。独歩によつて描かれた武蔵野の面影は、戦後になつて、つぎからつぎへと失われつつある。
 自然公園井之頭も、文人墨客の足は絶えて、恋を語るアベック連れの密会の地となり、附近には温泉マークのついた旅館と、ジャズと嬌笑に明ける飲食店がめつきり増えてきた。
 三鷹駅を降りて、電車の進んできた方向に逆行し、はじめての踏切を越え賑やかな商店街を抜けると、前方にこんもりした林が見える。
 麦畑にひらく武蔵野には、けつして珍しくない森であり、林だが、この林だけはチョイトほかの林とちがうのである。
 何故ならば、緑樹に囲まれていながら林の中を、世の人は赤線地帯と呼んでいるからだ。
 三鷹八丁特飲街十四軒の店と、五十人の春婦が、生い茂る籬境に、幽遠の地武蔵野と、はつきり一線を画してどろどろの愛欲の褥に、肉体の門を惜しみなく与える桃源境なのである。
 嘗て、池上特飲街が問題となり、ついに握り潰しになつたように、いま地元では、市の教育委員、小学校のPTA連中が、この赤線地帯撤廃の狼煙をあげている。しかし世論は、池上問題のとくほど、この三鷹八丁特飲街に深い関心を示していないようである。一部市議の間では、特飲街存続は、土地の繁栄上必要欠くべからざるものであると、堂々公言する者もあると云う。
 何れにせよ、赤ならぬ緑の籬のなかには、夜空を染めるボンボリの灯も艶かしく、若い男女の愉しげな笑いが、夜の更けるも知らず疼くような欲情にのたうち、渦を巻いているのである。
 平屋建の店ばかりだが、なかには小粋な垣を囲らせたものもあり、たいしたこともあるまいと、店に入つてみると、喫茶室から奥まで廊下がつづき、その両側に部屋が並んでいる。ドアをあけると、箪笥や鏡台まで揃つていて何と云うことはない。アパート住いの新婚夫婦の部屋と云った感じ。
 そこがめいめいに女達の部屋となつていて、そこではじめて靴を脱いで、座敷に上るわけだ。
 ここの女の特色は、丸の内や有楽町界隅の、オフィス・ガールに、ちょっと凝つた服を着させ、こつてりと化粧をほどこし、素人に色つぽさをふりかけたという、都会的な、明るい女が圧倒的に多い。
 会社の女事務員に目をつけて、何とかして温泉へでも連れ出そうと云う、よからぬ野心が出たときには、そんな罪なことは止めて、三鷹八丁へ出張遊ばすことである。必らずや、会社の女事務員そつくりの女が、一人や、二人は居る筈である。(もつとも、ヨルバイトの女事務員もあるそうな)
 三度通つて、四回目なら、千円でOK泊めてくれるという。肥料臭い武蔵野だが、この籬の囲いの中だけは、モダンで明るい、熟れるような女の匂いが、ぷんぷん漂つている。
「教育上よろしくないのはわかるけど人間の性欲の緩衝地帯の役目を果しているこの土地を、何でもかんでも潰そうと力んでいる男達て、きつとチャタレー夫人の旦那様みたいな男ね」
 T店の女の子が、われわれに笑つて言つた。
 自らを、男性の性の緩衝地帯と呼ぶ彼女達の知性には、近頃流行の男女同権思想はないのかモダンに装つている女にも、旧い型の表現がしみこんでいる三鷹の街である。

東京都 大田区武蔵新田201305

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スーパー裏の色街跡・モダンデザインの遺構・住宅街の謎メインストリート

謎のメインストリート、正体は意外なものでした。


 JR蒲田駅から東急多摩川線に乗り換えて二つ目にあるのが武蔵新田、『しんでん』じゃなくて『にった』ですのでお間違いのないように。『しんでん』の場合は新しく開拓された土地に付けられることが多いようですが、此処の場合は駅近くにある新田義貞を祀っている新田神社が由来になっているんだと思います。『花街・色街・艶な街 色街編』によりますと、そんな町に色街が形成されたのは、なんと終戦の一ヶ月前だったそうです。当時、周辺に集中していた軍需工場に勤務する作業員の慰労施設という位置づけだったとのことですが、よくまあこんな切羽詰った時期に造らんでもと思うのですが・・・。業者のほとんどはお店を造船所の寮として接収されてしまい、移転先を探していた洲崎遊廓の人間でした。戦後になりますと、RAA(特殊慰安施設協会)の進駐軍慰安所に指定されますが、案の定半年でOFF LIMITSの憂き目に・・・。その後は新田楽天地という名の赤線に指定され、京浜工業地帯に勤める工員たちで大いに賑わうようになります。『三つのアパートに屯する三八軒と独立家屋五軒を合せて三三軒、一三五人。京浜工業地帯の付帯施設みたいなもので、家屋は仲々キレイ。至つて自由で映画くらいは誘える。遊び五〇〇円、泊りは一五〇〇円くらい』以上は『よるの女性街・全国案内版』による最盛期の様子になります。かなりの隆盛を誇っていたようですが、数年後に施行される売防法によって廃業に追い込まれてしまうわけです。

 この赤線跡、数年前に一度訪れております。それの画像データなのですが、クラッシュしてしまった先代のPCの中にまだ残っているはず。うっかりサルベージするのを忘れていた・・・再びそうするにはまた出張サービスを呼ばないとならないわけ。しかし、出張料だけでいきなり5,000円ですからね(笑)だったらもう一度訪れちゃったほうが安上がりということですな。案の定というか当然というか、この界隈、前回訪れたときと何一つ変わっていないのでした。



駅近くにある森の湯さん。入母屋の破風には鶴の鏝絵があります。見難くて申し訳ない。



向かいには渋いおもちゃ屋さん。このゲーム筐体、駄菓子屋なんかによく置いてありましたよね。



突当りに見えるのがマルエツ、赤線はこのスーパーの裏手にあったそうです。



残念ながら面影はほとんと確認できません・・・ですが、手前のアパート、幾つも入口があるのが妙に気になるわけです。当時のお店は既存のアパートをそのまま使っていたとのことですので。



その先の路地に入りますと、唯一の遺構と思われる建物が残っております。



このパラペット部分の小庇をそのまま縦の袖壁として伸ばすデザイン、現代建築でもよく使われる手法であります。



その先、変な出っ張り敷地のある四つ辻、右手には『赤線跡を歩く』にも載っている遺構らしいアパートがあったのですが、真新しいタイル貼りのアパートに建替えられてしまいました。ちなみに往時の姿はストリートビューで確認できますぞ。

以上で武蔵新田のレポはオシマイ・・・といきたいところなのですが、あまりにもアッサリしすぎているよなあ。かといって近くにこれといった近代建築や面白そうな町並みが見当たらないなあと思いながら地図を眺めていましたら・・・見つけてしまったのですよ。下の地図をご覧下さい。

赤線があったとされる界隈とは線路を挟んだ反対側、環八通りの向こうに特徴的な区画があるのが分かるでしょうか。赤の点線の範囲です。中央に明らかに不自然な通りがありますよね???こ、これは、メインストリート!?もしかして知られざる遊里の発見か!?とにかく行ってみましょう。



確かに中央が植栽帯になった通りがありました。これは間違いなく・・・と言いたいところですが、両側に並ぶのはどう見ても普通の住宅・・・。



帰ってから判明したことなのですが、嘗て赤の点線範囲には慶応大学のグラウンドがあったそうです。青の範囲は野球場だったそうで、早慶戦が頻繁に行なわれていたとか。それが廃止後、宅地に開発されたということみたいです。それにしてもこのメインストリートもどき、紛らわしすぎるぞ。



終点には顔みたいなお宅がありましたとさ。まあ、東京にこれだけの規模の知られざる遊里なんてあるわけないよなあ・・・。

相変わらずの中身の無いグダグダに終始してしまいましたので、お詫びの記しに今回もカストリ雑誌による武蔵新田の様子を紹介したいと思います。出典は前回と同じ『読切ロマンス 1953年10月号』からになります。

註)以下の文章ですが、かなりドギツイ表現、人権的に問題がありそうな部分があります。そういったのが苦手な方はお読みにならないほうが宜しいかと思います。


武蔵新田

『顔は不細工でも肉体はええわ』

 国電蒲田駅から、東急目蒲線に乗り替えて、お芝居で名高い矢口を過ぎれば、そのつきが武蔵新田駅である。
 めざす、武蔵新田の色街は、駅から歩るいてわずか二、三分。新田楽天地のアーチ灯が、夜空を明るく彩つている。
 ここの特色は、一軒の大きな店━━━店と云つてもアパートのようなものだがそのなかに、二十七軒の店が、それぞれ商売をしているという、集団的売春の家である。
 このほかにも、五軒の店が、あるが、色街と云うより、色店と云つた方がぴつたりあてはまる。異色ある赤線地帯である。
 肉体を売る女達はざつと百三十人。一人が一言しやべつても百三十言葉になるんだから、そのうるさいこと。おまけに、一つ屋根の下に陣を張つて、キンキン声をはりあげて客を狙うのだから、イヤハヤ、たいした騒ぎである。
「ね、チョイトお兄さん!口あけよ。一発頼むわよ!」
「ちよつと!いいじやないの!接吻だけで逃げるなんて卑怯よ」
「あたし欲情してンのよ!ね、何とかしてちようだい!」
「ああ!ぎゆッと、抱かれたいわ」
「〇〇〇なんか使わないわョ!ね、どうなの!」
 この嬌声が、まるで機関銃の玉のように、どッと、ぶつかつてくるのだから、気の弱い男だつたら、一歩入つた途端に、フラフラとしてしまう。
 だが、楽天地開設以来、いまだ嘗て卒倒した客はいないそうである。やはりあふれる精力を発散させようという男は、すべてが逞しく出来ているらしい。
「おとなしくなんかしていたら、毎晩お茶を引かなければならないヮ」
 と黒いドレスの女が、荒んだ口調で云う。
 客種は附近が工場地帯だけいに、油の匂いがしみついた、若い工員が圧倒的に多いそうである。
 あまり札ビラは切らない。
 女と遊ぶエチケットも、甘い情緒にひたろうとする意欲も持たない。
 ベルトの騒音と、モーターの唸りに麻痺された、太々しい神経で、ただ性欲のハケ口を求めるために蝟集する客である。
 全身を媚と肉欲の臭いにくねらせても、それだけでもまだ物足りない。オッパイをさわらせたり、太腿のチラチラ戦術でも駄目。ぎわッと掴まえて離さない、強引な『ひつぱり』の力が女になかつたら駄目だそうである。
「だから、ここの女の子、みんな荒れているわよ。肉体派なんてとこじやないわ。肉体そのものズバリを突つつけていかなかつたら、とてもお客なんか引けないわよ」
 水の滴るような美人なんか必要でないそうだ。ぶよぶよした脂肪の塊りであれば、結構商売になるんだと云うから、まつたく、情欲の街という言葉がぴつたりするところである。
「ここで働いている女、やつぱりもとは女工さんだつた女が多い?」
「女工上りなんかすくないわね。千葉茨城、それから、もつとずつと北へ行つて、東北から来ている女が多いんじやないかしら?」
「誰かの紹介でくるの?」
「まあね。だけど、ほかの土地で働いていて、噂を聞いて住み替える女も居るんじやない」
「ここなら美人でなくても商売が出来るからつて?」
「失礼しちやうわね。そんなに馬鹿にしたもんじやないわ。ずーと、見て廻つてごらんなさい。踏める女だつているわよ」
 女はツンと口をとんがらかした。
 百円札が七、八枚あれば泊れると云う。
「朝は早いわよ。あたい達はもつと睡つていたいんだけど、お客が工員でしよう。工場は朝が早いから、さつさと起きて顔を洗つているの。サービスのつもりで、もつとゆつくり、なんてお世辞を言おうもんなら、そいつは有難え、こつちへ来な、なんて。立つたまま、さあ、こいと云わんばかり。ガツガツしているつたらありやしない」
 そのガツガツしている若い工員に、昼飯用の握り飯を用意しておいて、玄関でそつと手に握らせてやり女もあると云う。
 女達には流れがあるが、客種は十年一日の如く、いつも機械油の匂いをぷんぷんさせた、工員諸君であるところに、武蔵新田に赤線地帯としての安定性があるのだと、附近の喫茶店の親爺がわれわれに語つた。
 共産党ではないが『土地のお兄さんから愛される楽天地』というスローガンの下に結集しているような赤線地帯である。
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