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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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秋田県 由利本荘市201308

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名付けて門柱の町・思案橋?の向こう側・水湧く対岸の造り酒屋

門柱というものにあまり注目したことはなかったのですが、その考え改めないとなりませんね。


 東北遊里跡巡礼の旅再開です。今回の由利本荘市から秋田県編が始まるのですが、二ヶ月ほど前、たまたま神田神保町のとある古書店で手に入れたのが佐藤清一郎著『秋田県遊里史』。その存在を知ってはいたのですが、実物を見るのは初めてでした。でも、よくよく調べてみましたら、この書籍、現在も出版元の無明舎のリストにあるではありませんか。てっきり廃刊になっているのかと・・・。コレ、秋田県に存在した遊里の歴史や背景などを綿密に調べ上げている素晴しいものでして、お馴染の『全国遊廓案内』に載っていない町のことも記してあるのです。要するに知られざる遊里的な場所があったということになるのかと。先に手に入れていれば旅のスケジュールも変わっていたんだろうなあ・・・。まあ、私のは現在も売られているのは違って、初版の箱付ハードカバーですから・・・と自分を慰めておきますよ。というわけで、秋田県編はこの『秋田県遊里史』からの情報も交えながらレポしていきたいと思います。

 前回の酒田市から日本海沿いを羽越本線で北上、秋田市とのほぼ中間に位置するのが由利本荘市であります。元々は本荘藩4万石の城下町でしたが、それよりも市内を流れる子吉川の河口港を利用した商業の町という性格のほうが強い町だったようです。越後、越中、大阪方面からの物資は、此処で川船に移されて子吉川を遡っていきました。『秋田県遊里史』によりますと、そんな船着き場の裏手に歓楽街が形成されることになります。時期は書いてありませんでしたが、料理屋11軒、貸座敷5軒、茶屋20軒ほどとあります。ここで言っている茶屋の意味がよく分かりませんが、所謂お茶して休憩する場所とは違うような気がします。中でも貸座敷が集まっていたのが子吉川左岸沿いの古雪町、此処が遊廓の指定地でした。遊廓だけでなく、古雪町の手前には明治中期に料亭街が形成され、芸妓50名ほどが活躍されていたそうです。大正7年(1918)には三業組合も結成されることになります。

 転機が訪れるのは大正11年(1922)のこと。長年の悲願だった鉄道、羽越本線が開通します。すると、船運は一気に衰退、それに伴い遊里も寂れていくことになります。娼妓の数を例にしますと、昭和元年(1926)4軒21名、同3年(1928)5軒23名、同8年(1933)4軒15名といった感じ・・・この昭和8年に遊廓業者は廃業・休業届けを提出、古雪遊廓は廃止となってしまうのでした。花柳界は細々とですが、存続していたようです。『秋田県遊里史』には『現在芸妓は10人』とあります。この『現在』というのは、おそらく書籍が出版された昭和58年(1983)のことを言っているのだと思います。30年前までは芸者さんがおられたわけです。その後の様子はよく分かりませんが、調べたかぎりでは花柳界も既に消え失せてしまったようです。以上が由利本荘市の遊里史になります。遊廓が戦前に無くなっていたというのはちょっと予想外でした。

 『本荘町古雪遊廓 秋田県由利郡本荘町に在つて、羽越線羽後本荘駅で下車すれば、西北約十六丁の地点に當つて居る。駅から乗合自動車の便もある。本荘町は日本海に面した子吉川口に在る港町で、明治維新前から諸国の商船が盛んに出入して居た為めに、町も随分古くから発展して居た。町の発展に伴つて遊廓も繁昌して居たもので、一時は同業者の数を二十数軒も数へた事がある。けれ共、町の発展の一面には私娼の跋扈が伴つて居たと云ふよりも、寧ろ私娼の方が繁昌して、益々公娼の区域を侵食して来た。現在貸座敷の軒数は四戸あつて、娼妓は二十三人居る・・・妓楼は、自由亭、藤亭、松芳楼、亀由楼の四軒。本荘追分「本荘名物焼山のわらび焼けば焼く程太くなるキタサ」』以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になります。貸座敷の数や屋号に多少の食い違いはありますが、『秋田県遊里史』の内容と概ね合致しているようです。この案内が書かれた直後、古雪遊廓は無くなってしまうわけです。それにしても本荘追分の歌詞、意味深だと思ってしまうのは私だけ???

 酒田駅から1時間ほどで羽後本荘駅に到着。とにかく腹が減った・・・何処か食事ができる処とキョロキョロしていると、一軒の食堂が目に飛び込んできました。あえてお店の名前は記しませんが、店頭の貼り紙に岩ガキ定食とあるではありませんか。カキ、大好物なのですよ〜。しかし、ここ数日、海がしけていて入荷していないという店主のつれない返事・・・サバの西京焼きならできるよとことなので、それを定食にして貰うことにしました。どうもお店の雰囲気がいまいちでしたので嫌な予感がしていたのですが、恐ろしいモノが出てきてしまった・・・。普通、西京焼きって味噌に漬け込んだのを焼くものですよね。コレ、サバの表面に塗りたくったのを焼いただけじゃん・・・焦げ焦げのバリバリ。ご飯は何だか饐えた匂いがしてるし、味噌汁は味噌をお湯で溶いただけみたいで出汁の風味は皆無。稲庭うどんも付いてきたのですが、これまた醤油を薄めただけみたいな汁に浮かんでいる氷が溶けて消え失せる寸前・・・生温い。おまけに箸休めのつもりなのか、金時豆のソラマメ版と言うのでしょうか、緑色の甘いお豆ありますよね。あれがなぜか小鉢にてんこ盛り(笑)育ちが分かっちゃいますけど、よほどのことが無い限り何でも旨い旨いと喜んでしまう単純な人間です。それが半分も食べられなかった・・・よくまあこんなのでお金を頂こうと思うものだと驚くやら呆れるやら・・・。謹んで今年のワーストワン外食に認定させていただきます。旅先でこれはきついよなあ。あえてお店の名前は記しませんが・・・。こんな目に遭ったのですから、それなりの成果が無いと折り合わないぞ。



そんなこんなで腹五分目で歩き出しました。文化交流館カダーレの裏手、涼しげな木立の向こうに上げ下げ窓のある洋館が現れます。



早川眼科医院さんです。入口のユニークな屋根形状、お分かりになるでしょうか。



裏尾崎町に入りました、脇道を覗くと飲み屋さんの看板、ちょっと寄っていきましょう。



ン?普通のお宅に見えますが・・・



二階に円形の造作を発見です。



ブリーズソレイユ風のルーバー、コレ好きなんですよねえ。外壁のくすんだピンクもいいなあ。



またお医者さん、明治45年(1912)に建てられた黒田医院さんです。看板がありませんでしたので現役ではないのかもしれません。この前の通りを真っ直ぐ行きますと、本荘城址である本荘公園に出ます。



寺社建築風の持送りが多用されています。破風には雲形の装飾、和洋折衷の不思議なデザインです。入口が半分潰されているのは、後から改修されたのだと思います。



夏空に白い下見板張りが映える美しい建物ですね。



こちらもお医者さん関係ではないかと、手元の乏しい資料では正体不明でした。お気付きになりました???さっきから立派な門柱が連続しているのを・・・。この町、門柱に注目ですぞ。



鋭角な三角屋根、これ以上近づけないのがもどかしい。



中町に出ました。この通りを西へ行くと遊廓があったとされる古雪町です。手前の洋品店、二階に辛うじて面影が残っておりますね。旧すみれ洋装店、明治27年(1894)に建てられました。大好物の昭和レトロな街灯と一緒に・・・。



下調べ段階で気付いたのですが、この通り、立派な旅館が並んでいるのです。まずは大正期創業という小松屋旅館さん。古風な門が目印、塀の造りが面白いですね。残念ながら建物自体は新しくなっておりました。



お隣は加藤旅館さん。こちらの門柱も立派、照明が組み込まれております。地図を見ますと近くにもう一軒、もしやと思って行ってみますと・・・



やっぱり(笑)こっちも凄いぞ。小園旅館さん、100年以上の歴史があるとのことです。この旅館群、『秋田県遊里史』に書かれていた料亭街の名残なのかもしれません。でも、屋号が全く一致しないんだよなあ・・・。



警察署の向かいにあるのが加藤医院さん、大正10年(1921)に建てられました。寄棟屋根から飛び出した円形のペディメントが特徴的です。外壁は石貼り風の左官仕上だったようですが、窯業系のサイディングに変わっていたのは残念でした。



緩やかなカーブを描いている通りの先が古雪町です。此処、『赤線跡を歩く 完結編』に載っていましたね。



古雪町手前にあるのが大店の割烹一よしさん、天保年間創業という老舗です。しかし、こちらも屋号が一致しない・・・。



もちろん門柱完備(笑)銘木+球形照明というシンプルな構成です。



向かいの奥まった処には料亭かもめさん、こちらは新しい建物でした。



かもめさんの裏手にある大法寺さん。遊廓との繋がりみたいなものを探してみましたが無駄足に終わりました。



この小橋を渡った先が古雪町、境界が水路になっているわけ。この橋、やっぱり当時は思案橋的な役割を果たしていたのでしょうか。



東西に細長い古雪町、中央を貫く通り沿いに貸座敷が並んでいたのではないかと想像していたのですが・・・な〜んにも見つからない。



脇道に大きな蔵が・・・残念、造り酒屋でした。秋田譽酒造さんです。



唯一気になったのがこのお宅。低い車止めみたいなフェンスが妙に凝っているわけ。



庭の片隅には日本庭園の痕跡みたいな庭石?が積み上げてあるし・・・。



その奥には小さな神様が祀られているわけです。ウーム、これだけでは何とも言えませんけどね。



通りの突当りにある子吉川漁港まで行ってみましたが結局収穫なし・・・。まあ、所詮は4軒しかなかった遊廓です。しかも赤線に移行することなく戦前に消え失せておりますから・・・と強がってみましたが、本音を言えば酷暑の中これはきつい・・・。

遊廓跡は諦めて次の目的地に向かいましょう。中町に戻って、子吉川を真新しい斜張橋で渡って対岸にある石脇地区が目的地なのですが、途中にある後町と日役町、『秋田県遊里史』には大正期にカフェーが開業したとあります。確かに数軒の飲み屋さんがありましたが、そういった感じのものは見かけなかったと記憶しております。知っていたらもっとじっくり探したのですがね。



石脇地区に一際目立つ美しい建物があります。明治35年(1902)創業の齋彌(さいとう)酒造店さんです。二階の入母屋屋根の洋館部分がいいなあ。背後が高台になっているため、仕込み蔵に高低差があります。いちばん高い処で汲み上げた湧水が、工程が進む度に低い場所に移っていき、最後にはお酒になるという面白い造りになっているそうです。



建てられた時期は不明みたいですが、国の登録文化財です。一部がギャラリーとして開放されているようです。



その先でこんなものを見つけました。湧水です。齋彌酒造店さんもこういった水を使って仕込んでいるのでしょう。コレ、飲めるのか・・・何も表示が無いのですが・・・。あまりの暑さに堪らず口に含んでみましたら・・・あら、美味しい。でも、良い子は真似しないように。



名無しの湧水の奥、坂を登った先にあるのが石脇公徳館。たぶん公民館みたいなものだと思いますが、ここにも門柱を確認です。



この通り、酒蔵だけでなく醤油味噌蔵もあるのです。明治3年(1870)創業のマルイチしょうゆみそ醸造元さんです。結構交通量の多い通りなのですが、店頭に車を停めて買いに来ているお客さんがおりました。



なんと、お隣も同業者、ヤマキチ味噌醤油醸造元さんです。何だか商売しずらそう(笑)



羽後本荘駅に戻って参りました。しかし、あの酷い昼食のせいで中途半端な空腹状態・・・ふと傍らのお肉屋さんを見ますと、『本荘ハムフライ』と書かれたのぼりが・・・。HPを見ても由来がよく分からなかったのですが(笑)どうやらこの町、この『ハムフライ』で町おこししているみたい。試しに購入・・・ウン、至って普通の見事なまでの『ハムカツ』でございました。それにしても、何で『ハムカツ』じゃなくて『ハムフライ』なの???

歩行距離9キロほど、あまり収穫のなかった由利本荘市の探索でした。このレポを書くためにグーグルの地図を開いたのですが、いつのまにかストリートビュー対応になっている・・・。試しに足を踏み入れなかった辺りを調べてみたのですが、残念な結果に終わりました。少し触れていますが、『赤線跡を歩く 完結編』のことです。この町のこと、一枚の写真しか載っていないのが以前から気になっていたのです。その理由が分かりました、著者の木村氏も発見できなかったのですね。次回から5日目、秋田市をベースキャンプにして周辺の町を巡ります。

秋田県 湯沢市201308その1

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武家屋敷の洋館・看板建築と秋田犬・遊廓跡の洋風手摺

本物のエメラルドは持っていませんが、この瓦の輝きも負けず劣らずでしたよ。


 東北遊里跡巡礼の旅五日目です。今日からは秋田市をベースキャンプにして周辺の町を巡ります。今までは宿泊する町が変わる度、重い荷物を転がしたり、途中の駅のロッカーに預けたりしないとならなかったわけです。やっと身軽になって移動できる・・・足取りも軽くといきたいところですが、相変わらず残暑が厳しいみたい。山形市でのこともありますので用心しながら行きましょう。本日は始発の奥羽本線に飛び乗って内陸部を目指します。山形県と県境を接する湯沢市を訪れた後、そのまま戻りながら横手市、仙北市角館(再訪)の順で探索致します。今回の旅、暑さも考慮してかなり余裕をもった計画にしていたのですが、この五日目がいちばんタイトなスケジュールになっております。いつも行き当たりばったりのアバウト人間ですから・・・こういうの苦手なんだよなあ。

 秋田県南部に位置する湯沢市、江戸時代の頃は佐竹家が治めた久保田藩20万石の城下町でした。城下町といっても、町の東端にあったとされる湯沢城は、一国一城令によってすぐに廃城になってしまうのですがね。奥州街道の脇往還である羽州街道が町を南北に貫いているため、物資の集積地としても栄えたようです。町の発展に寄与したのが慶長11年(1606)に発見された院内銀山です。普通、こういった鉱脈は幕府直轄のところがほとんどだったようですが、こちらは藩直営でしたので莫大な富を町にもたらしたとされています。これが湯沢の遊里隆盛の一翼を担ったというのは当然といえば当然のことなのでしょう。この院内銀山、細々とですが昭和29年(1954)まで採掘が続けられていたというのは驚きの事実でした。

 もう一つ、湯沢で忘れてはならないのが日本酒です。市内には大小たくさんの造り酒屋が点在しており、東北の灘と呼ばれるほどなんだとか。その歴史は古く、縄文時代後期のものされる酒器が発掘されているそうです。数ある造り酒屋の中でも全国的に有名なのが、『美酒爛漫♪』でお馴染の秋田銘醸さんになるでしょうか。ほとんどテレビを見なくなってしまったのですが、あのCM今も放映されているのでしょうか・・・。旨い酒、これも遊里には無くてはならない存在だと思うわけです。この町、遊里発展の条件がいろいろと揃っていたというある意味羨ましい処だったみたい(笑)あ、遊里に関しましては、その2のほうでお話致しますね。



駅前通りのアーケード、窮屈そうに押し込まれていた鳥居。奥には清水神社という小さな神様が祀られておりました。



地図には国道13号線に羽州街道と記されておりますが、並行している県道277号線が本物の旧街道になります。まずはそれを右折、しばらく行くと最初の造り酒屋が現れます。木村酒造店さん、元和元年(1615)創業というとんでもない老舗。湯沢で最も古い造り酒屋になります。



その先の交差点を過ぎると、この地方特有の切妻屋根に妻入の商家がちらほらと現れ始めます。やっと旧街道っぽい雰囲気になって参りました。



向かいにはこんな洋館、昭和5年(1930)に建てられた旧京山合名会社。カワイイ門柱もお見逃しないように。



旧街道から山側に入るとこんな黒板塀が現れます。この内町界隈、嘗ては城下の武家屋敷だったそうで、この塀はそれの名残とされています。



中にはこんな立派な門も見られますが、中のお宅のほとんどは新しくなっておりました。本日の最後に再訪致しますが、プチ角館みたいなものと考えていただければ宜しいかと。



更に山側へ・・・辺りは静かな静かな住宅街です。おや?前方に何か見えてきたぞ。



現れたのは石垣の上に建つ下見板張りの洋館。苔生した緩勾配の階段がいいなあ。門柱のてっぺんには小さな狛犬が乗っています。



外壁は塗り替えたばかりのようですし、窓は樹脂サッシに変えられているみたい・・・何だか新築物件にも見えますが、間違いなくかなり歴史のあるお宅だと思います。それだけ大事に使われているということなのでしょうね。



切通し状の坂道を下って旧街道に戻ります。



途中、こんな仕切りのある水路に出会いました。コレ、たまに見かけるのですが、どういう機能を果たしているのでしょう。灌漑用+生活用って感じ???



旧街道に戻って参りました。すぐにある建物に目が釘付け・・・。



昭和7年(1932)に建てられた山内家住宅、国の登録文化財です。嘗ては呉服屋を営んでいたそうです。外壁を真壁にすることで柱梁を露出させています。所謂和風ハーフティンバーとでも申しましょうか・・・まあ、そんなことより瓦のエメラルドグリーン、これ美しすぎるでしょう。



庇は出桁造り、垂木先端の腐食防止の板金キャップもちゃんと緑色なのがいいぞ。先日(11月)、期間限定で内部の一般公開があったそうです。何それ・・・相変わらずタイミングの悪い男・・・。



ちょっとさきほどの水路を辿ってみましょう。



水路に蔵にアサガオ、やっぱり水辺の光景はいいなあ。



一本杉の下には小さな神様、御囲地稲荷神社です。



御囲地、意味深な地名だと思いませんか???妾を囲うなんて言いますが、大旦那の二号さんの住まいがあったとか・・・絶対違うと思いますが(笑)



旧街道を引き返し、駅前通りを越えた先の脇道に入りますと、寄棟屋根に下見板張り、鎧戸が並んだ端正な洋館が現れます。県指定文化財の旧雄勝郡会議事堂、明治24年(1891)に建てられました。県内に残る唯一の明治時代の洋風役所建築です。



脇には小さな土蔵と、これまた小さな神様が祀られておりました。



裏通りを辿って北へ・・・この界隈の家並みの草臥れ具合、とてもいい感じでした。旧街道が拡幅されて整備が進んでおり、宿場の名残的な町並みがほとんど残っていないのが残念でした。裏通りのほうが面白いですよ、この町。



長大な黒板塀、左はいい感じに廃れたアパートです。



その先に巨大な爛漫の秋田銘醸さんの酒蔵があります。しかし、近代的な建物に変わっており、酒蔵というよりも工場といったほうが正しいなこりゃ。その近くに、一見するとちょっと野暮ったく見える建物があります。



昭和34年(1959)に建てられた四同舎(湯沢酒造会館)です。設計は異端の建築家こと白井晟一・・・といっても分からない人も多いかと思います。代表作を言えば分かるかな?麻布のノアビル、渋谷の区立松涛美術館、佐世保の親和銀行本店などなど、ピンときた方いるのではないでしょうか。私自身かなり影響を受けている人物です。学生時代、佐世保まで見に行きましたもの。



仙人みたいな風貌も相まってかなり強烈な人物なのですが、そのあたりのことを話し出すと止らなくなりますので、興味のある方はネットでどうぞ(笑)そんな彼の中期の作品になります。まあ、50年以上前の建物ですので、野暮ったく見えるのも仕方ないかな。でも、全体に漲る力強さは見事なもの。バルコニーに使われている孔明きブロック、ちょっと前に流行りましたね。建築デザインの流行って言葉は好きではないのですが、これもファッションと同じ、繰り返しなのです。



見所はエントランスの吹抜、この階段は素晴しいなあ。この秋田県、彼の初期から中期にかけての作品がかなり残っているのですが、ほとんどが辺鄙な場所ばかり・・・全部巡っていたら何日かかることやら。コチラ、使われている様子が皆無、先行きが気になる建物です。



旧街道出ると、山並みみたいな切妻屋根の連続に思わず仰け反りました。デ、デカイ・・・。



おまけに奥行きもとんでもない・・・。コチラ、次に紹介する造り酒屋の第二工場なのです。



それが明治7年(1874)創業の両関酒造さん。実物を見れば分かりますが、覆い被さってくるような迫力に圧倒されます。



土蔵が続いているのですが、広角レンズでも入りきらない(笑)



さて、そろそろ遊里跡に向かいましょう。途中、さきほどの巨大な第二工場の裏手を通ったのですが、土蔵を包むようにして木造の屋根が架けられているのがよく分かると思います。それにしても外壁のフレームが格好良すぎる・・・。湯沢って名に負う豪雪地ですよね。コレって雪囲いのためのもの???

前半はココまで・・・次回は遊里跡の路地裏で、ちょっとした迷路感覚を味わいます。白井晟一ですが、ちょうど今年は没後30年なんだよなあ・・・。

秋田県 湯沢市201308その2

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現地ではこれこそ!!という感じだったのですが・・・。


 『秋田県遊里史』によりますと、湯沢の花柳界の歴史は古く、明治初期にまで遡るそうです。場所は平清水新町(下新地)とのこと、たぶんこれは駅からほど近い現在の表町2丁目、4丁目辺りになるのではないかと思われます。この界隈にたくさんの料理店が軒を連ね、芸妓、酌婦等80名を数えたといいます。この隆盛はその1でお話した院内銀山のおかげなのでしょう。漁師もそうなのですが、こういった鉱夫って明日をも知らない命がけの仕事ですから、遊ぶときは相当派手だったのではないでしょうか。大正13年(1924)頃で、料理屋18軒、芸妓置屋11軒、芸妓22名、舞妓6名、娼妓6名、酌婦28名という記録が残っているそうです。

 これもその1でお話しましたが、酒どころの湯沢です。毎日蔵出しの芳醇な酒で酔客をもてなし喜ばれていたそうです。石川楼、千歳楼、湯沢倶楽部などでは月五石もの日本酒を消費していたといいますから驚きです。簡単に五石と言っておりますが、900リットルですからね。一日当たりでも30リットル・・・何なの、このうわばみ軍団(笑)また、上記の千歳屋にはロシア人のローラー、ドイツ人のアグネスという青い目の女性がいたというのです。ドイツ人なのにアグネスってピンとこないのですが・・・これって源氏名???現在も似たような風俗がございますが、どういった感じだったのでしょうか物凄く興味があるのですが・・・あ、そちら方面あまり詳しくありませんのであしからず。まあ、相変わらずのアホはほっといて、かなりユニークな遊里だったことは確かなようですね。

 『湯澤町遊廓 秋田県湯澤町字新地にあつて、鉄道は奥羽線湯澤駅で下車する。昔は佐竹氏の支城のあつた処っで、養蚕が盛んである。遊廓は貸座敷約三軒、娼妓は約十四五人居る・・・附近には湯の平温泉がある』以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。貸座敷3軒ですか・・・銀山の衰退とともに遊廓もといった感じなのでしょう。地図を眺めてみますと、JR奥羽本線と並行している国道13号線の平清水交差点から線路方面に入る通りに、『秋田県遊里史』にも載っているお店があるようです。おそらくこの界隈がそれだと思うのですが、遊廓独特の町割りみたいなものは一切見られないんだよなあ・・・。



表町に向かう途中にあったお宅、奥行きがかなりあります。外壁は石貼り風の目地が切られた左官系。



欄間の上のレリーフというか鏝絵がステキ。横に増築されたような感じで作業場みたいのがありましたので、左官屋さんなのかもしれません。外壁も欄間もご自分で施工されたのかも。



その先の飲み屋さんがなかなかの佇まい。



ちょっぴりトンガリハウス風の名月さん。北陸のかぐら建てみたいな屋根の構成が面白いなあ。



角を曲がると現れるのが、シルバー食堂さん。屋号はもちろんですが、建物がカッコよすぎるぞ。



元々は飲み屋さんではなかったのかもしれませんね。看板に『正一合の店』・・・この表示、噂には聞いておりましたが、こんな処で出会うとは(笑)



脇では暑さにやられたのか、秋田犬がグデーッとのびておりました。まだ午前中なのですが、私も日陰でこうなりたい気分です。



路地を振り返るとこんな感じ、全部飲み屋関係です。



路地を抜けると国道13号線。この大通り、両側には飲み屋関係しかないわけ。遊里の名残りといえばそれまでなんですが、ほとんどが退役済みということも相まってかなり異様な光景なのです。



その大通りから奥羽本線側に入りますと、ちょっと気になる家並みが現れます。



コの字型のプラン、妓楼などでよく見かけるパターンなわけです。直されすぎていて嘗ての姿が想像できない・・・。



近くにあるのが割烹の嬉し野さん、コチラは現役っぽい。かなり歴史がある建物のように見えるのですが、変なバルコニー?を後からくっ付けたみたいでファサードがカオス状態。



空き地の向こうには美しい料亭風のお宅?古いんだか新しいんだか全く判断できない・・・この界隈、おかしな建物ばかりなんですけど・・・。



極めつけがコチラ、冒頭画像の建物になります。



妙な違和感を覚えて近付いてみますと、手摺がなんとなく洋風。たまにですが遺構で見かける意匠ですよね。



妻側にはこんな窓があったりするわけ。発見したときは興奮しましたが、今になってじっくり見てみますと、違うような気もしてきた・・・どう思われます???



国道に戻るため、トタン屋敷裏のこんな路地を辿っていきますと・・・



仕舞いにはこんな状態・・・此処通っちゃっても大丈夫なの???前方のボロボロテント庇、地図には旅館福本とあります。



路地を抜けると、しもた屋風の廃屋がひっそりと佇んでおりました。



案の定、福本さんは退役済みでした。『秋田県遊里史』には、芸妓置屋ということで福本という屋号が記されています。転業されたのかもしれません。



どんな商売をされていたのでしょうか。



国道に戻って参りました。大通り沿いは依然として飲み屋さんの墓場と化しております。



ちょっと戻ると平清水交差点、此処を右折すると平清水新町商店街です。通りに特徴的な門を構える大店があります。『秋田県遊里史』にも出てくる料亭石川さんです。



文久3年(1863)創業の老舗です。伸びやかな入母屋屋根、連続する欄間が美しい。塀の向こうには唐破風があるみたいですね。



此処で毎晩30リットルの日本酒が飲み干されていたわけですね。



唐破風が見たいと覗き込んでみましたが、鉄骨で屋根が架けられていてよく分からん・・・。



そろそろ時間切れ、別の路地を辿って駅に戻ります。



私の背後では汲み取り屋さんが作業中、そういう場所なのですね。国道を渡った先にも路地が続いているみたいです。



目の前に現れたトタンの塊に唖然・・・いや、一応は建物の体を成しているようですが、崩壊寸前ですな。



言葉も無く見上げる私・・・背後のお宅の二階窓、そんな私を、コイツ何やってんだって表情でニャンコが見おろしておりました。



駅前通りに戻って参りました。名店街・・・所謂横丁建築です。こんなのあったんだ、全く気付かなかった。



妖しげな眼差しの女性が私を見つめておりました。コチラがいちごさん???

以上で酒どころ湯沢の探索はオシマイ。あの屍累々の飲み屋さんの列、900リットルという量を考えれば何となく納得してしまった私です。次回は酒の町からヤキソバの町へ(笑)まあ、それだけじゃないんですけどね。

秋田県 横手市201308

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華麗な変身を遂げた名旅館・墓地に面した下地窓・路地裏のトンガリ屋根

フラフラと迷い込んだ路地裏にて。


 前回の湯沢市と境界を接しているのが横手市です。この町も湯沢と同じく佐竹氏が治めた城下町になります。市内を大きく蛇行しながら流れる横手川、その向こう岸に築かれた横手城(朝倉城)の麓に町が整備されました。しかし、戊辰戦争で町の大半が焼失、現在の町並みのほとんどは明治以降のものみたいです。今回は時間の関係で訪れることができませんでしたが、羽黒町と上内町には武家屋敷の名残とされる黒板塀が続く通りが見られます。また、内陸の豪雪地ある横手で有名なのが『かまくら』、その歴史は古くおよそ400年前にまで遡るそうです。

 『秋田県遊里史』によりますと、平賀郡の中心地であった横手の遊里は、明治後期にはその基盤みたいなものが出来上がっていたようです。明治40年(1907)の『横手案内』には9軒の芸妓屋、8軒の料理屋があったと記されているそうです。その明治40年に遊廓がある馬口労町から出火した火事が大火になり移転問題が起きます。移転先と噂された馬場崎町では地元民の猛烈な反対運動発生し、結局はうやむやになってしまったようです。昭和4年(1929)頃から市内にはカフェーが続々と出現し、時代の変化を告げることになります。そして、昭和8年(1932)6月30日、横手遊廓の業者は廃業届けを提出し、料理屋などに転業してしまうのでした。先日の由利本荘の遊廓が消え失せたのも昭和8年・・・ウッカリしていたのですが、実はこの年公布されたのが『秋田県公娼廃止の決議』、これは群馬県、埼玉県に次ぐ早さなのです。しかしこの遊廓、戦後になるとちゃっかり赤線として復活しているあたりはさすが(笑)遊里の様子や規模については、以下の文献をご覧になっていただくとして、現在の四日町・大町が花街、中央町(旧馬口労町)が遊廓として宜しいかと思います。文献は上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』、『よるの女性街 全国案内版』になります。

 『横手町遊廓 秋田県平鹿郡横手町字馬口労町に在つて奥羽本線横手駅で下車すれば東へ約五丁、乗合自動車の便もある。横手町は元戸村氏の旧城下で、城跡は今公園に成つて居る。町の中央には横手川が流れて居て、蛇の崎橋では毎年御盆に花火を揚げる行事がある。田中町の天平寺には本多上野介父子の墓がある。此処の宿場が遊廓に成つたのは明治十五年で、現在貸座敷が八軒あつて娼妓は三十人居るが県下の女が多い・・・妓楼には、千歳、櫻家、恵比寿屋、岩秋家、旭家、明澤屋、新文字屋、大黒家等がある・・・』

 『横手の花街 停車場から東北約七町、「柳町」「四日町」の両街が即ちそれで並行的に隣り合ひ・・・二十一軒の芸妓屋が軒燈をつらねて花街らしい趣きを見せ、そこに七十余名の芸妓が居る・・・名物芸妓として、「蛇芸妓」で知られてる月の家の哲子を推さう、生来非常な蛇好きで、若い頃には蛇を懐中へ入れてお座敷へまかり出たなど致気の弱いお客を驚ろかせたものだった・・・阿櫻情調 阿櫻とは旧城名「朝倉」をもじつたもので横手花街の雅称であるが、阿櫻芸妓はすべて横手町を中心として育つたものばかり、他国からの移入品がないので、その容貌にも気質にも自から一種のローカル・カラアがある。田舎のこと故多少気の利かぬといふ欠点があつても、余り人ずれのしてない点、金のために不見轉をやらぬことなども手伝つて、どこか純真な心意気のほの見えるのがうれしい・・・馬喰町遊廓 柳町の南につづいた一廓で、千歳楼、大黒屋、櫻屋、恵比寿屋といふ四軒の妓楼があつて、二十五名の娼妓が居る。右の外尚ほ四軒あつたのだが廃業してしまひ、最近はなはだ不振の状態にある、遊廓としての歴史は相当古いのであるが、今日は最早特別の情調は認められぬ』

 『花柳界は柳町、四日町一帯で置屋一八軒、芸妓五九名。割に荒らされていない花柳界だけに、しんねこで遊ぶのにはもつてこい。いい旅館に入る。赤線は、柳町の南に続いた馬口労町。旧女郎部屋千歳、大黒など四軒を取巻き一〇軒ほど三五名』

 『蛇芸妓』には笑ってしまいました。宴の余興として、口から入れて鼻から出しちゃったりして・・・これじゃ見世物小屋ですな(笑)湯沢のロシア人、ドイツ人もそうですが、この地域の遊里にはユニークな女性が多かったのでしょうか。この横手、今回の旅の中で最も滞在時間が短くなっております。しかも昼食込み・・・まあ、食べるのはアレしかないのですがね。



時間が限られておりますので、ピンポイントで攻めますよ。その前に昼食・・・途中にあった石蔵を改修したかのような面白い造りの建物。ジックリ観察できないのがもどかしい。



四つ辻に建つのが、横手やきそば館ゆうさん。コチラ、昭和初期に建てられた看板建築を使っているそうです。隅に円形柱、二階にはアーチ窓が並んでいるそうなのですが、半ばモジャハウス状態でよく分からない・・・。



コチラ、B級グルメ界の重鎮みたいな存在ですよね。半熟の黄身だけを崩して、麺を潜らせて食べるのが正式な作法みたいですぞ。確かに旨いですけど、これだけ有名なってしまうと最早B級じゃないよなあ。



重鎮をかき込んで外に出ると、70年代風のレトロフューチャーなビル。カッコイイなあ。



荒物屋的な佐藤儀右エ門商店さん、明治中期に建てられたものとのこと。見世蔵って秋田県では結構珍しいそうです。



その先の通りが嘗ての羽州街道になります。爽やかな水色の下見板張りの洋館は、天昌堂高橋内科医院さん。手元の資料では詳細は不明でした。



こちらも詳細不明の出羽印刷さん。洋風手摺のバルコニーがオシャレな看板建築です。現役というのが嬉しいですね。



その先にド派手な洋館が現れます。大正15年(1926)に建てられた旧平源旅館さん。明治6年(1873)創業、数々の著名人や皇族などが宿泊した名旅館です。



明るいクリーム色のタイル、レリーフに柱型、そして縁起物の雷紋、何でもござれといった感じの建物ですね。脇の土蔵と合わせて国の登録文化財に指定されています。



平成20年(2008)に残念ながら閉館してしまうのですが、その後改修され昨年結婚式場として蘇りました。土蔵はチャペルになっているそうです。数奇な運命を歩んだ建物なのです。出窓がステキだなあ。



この界隈が花街の中心ではなかったかと・・・おそらく嘗ては芸者さんも出入りしていたのだと思います。



欄間に松葉の造作が残る元床屋さん。掲示板には国鉄労働組合・・・時代を感じさせます。



その先、脇を流れる横手川が大きく蛇行するのに合わせて通りもカーブしているのですが、そこに面したお宅が面白い造りなのです。



ちゃんと通りの曲線に合わせて建てられているわけ。なんだかカワイイ(笑)



またまた詳細不明の伊藤歯科医院さん。寄棟屋根にドイツ壁風の外壁の洋館です。昭和初期ぐらいの建物だと思います。



はす向かいにあるのが齋太薬局さん。所謂洋館付住宅の店舗版ということになりますかね。店舗になっている和の部分は明治30年(1897)、応接室などがある洋の部分は昭和初期に増築されました。国の登録文化財です。



洋の部分、円形のペディメントには、美しいスミレ色の花を模した照明が下っています。コチラ、現在は使われていないようですが、隣に新しいお店があります。



遊廓があったとされる旧馬口労町に向かう途中、妙な建物がチラリ・・・。しかし、そこになかなか辿り着けない・・・やっと全景が見える場所に行けたのですが、それはなんと墓地・・・。



何でしょう、このデカイ下地窓は・・・。それよりも外壁の平葺きトタンの質感が素晴しい。この黒、たぶん亜鉛めっき鋼板の酸化皮膜、いい色ですねえ。



この建物、表に回ってみると至って普通のお宅に見えるのですが・・・何だったのでしょうね。



市役所前にある旧馬口労町への入口。そんなに客引きが出るの???



嘗ての色街の現在、飲み屋が延々と続く歓楽街になっております。かといって、如何わしい感じはしませんね。



そもそも地図を眺めてみても、遊廓特有の町割りみたいな場所が見当たらないのです。



なかなかいい雰囲気だと思うのですが、ゆっくりしていられないのが残念です。



いつしかこんな路地裏に迷い込んでおりました。赤の色ガラスの扉、申し訳程度に貼られた鉄平石が面白い。



突然現れたエキセントリックなお店に呆然・・・何、このトンガリ具合(笑)



何寸勾配なんだ、この屋根・・・。これがカフェーの名残・・・じゃないよなあ。いやー、飲み屋さんのデザインの自由奔放さには毎回驚かされます。



とはいえ、現役のお店は少ないようですな。



路地が分岐、その先にはしもた屋風の建物が・・・ウーム、なんとも判断が難しい・・・。



路地を抜けると美しい窓がある建物に出くわしました。しかし、直されすぎていて、これまた前世が判断不能。それにしても『妖』ですか・・・一見さんにはハードル高すぎるでしょ。



ちょっと崩し気味で松を模しております。格子に竹が使われているのですが、折れているように見えるのは当初からのデザインみたい。その向こうには、精緻な組子のガラス障子があるようです。



残念ですがここで時間切れ。ジックリ歩けばもっと発見がありそうな遊廓跡でした。まあ、それなりに楽しめましたよ、ダンケダンケ。

滞在時間二時間半ほど、遺構らしき物件は発見に至らなかった横手の探索でした。次回は角館、七年ぶりの再会です。以前少しお話しましたが、七年前、唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったと後から知り絶句した町なんですよね。さて、どうなりますことやら・・・。

2013年総括・・・みたいなもの

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 今年の更新はこれが最後になります。現在進行中の東北遊里跡巡礼の旅ですが、来年も引き続きレポしていくつもりです。今後は角館 → 大館 → 能代 → 土崎港 → 秋田の順でUPしていくことになります。特に大館は見もの、遊廓跡もそうなのですが、その手前の寂れた飲み屋街にいたく感動した次第です。今から自分でハードル上げてどうするという感じですが・・・。このレポ、なんとか今年中には完了させたかったのですがね。相変わらずの気まぐれ、いい加減、無計画のアバウト人間ですので、どうかお許しくだされ。

 さて、今年最後ということで、2013年の総括といいますか、今後レポしていくであろうと思われる幾つかの町を紹介致します。実際は今年だけでなく、ここ数年のPCのHDDの中で熟成中のものも含まれていますけどね。まあ、細かいことは気にするなということでお願い致しますぞ。

 特に今年は、最近のマイブームである『知られざる遊里』的な場所を幾つか発見できたのではないかと自負しているのですが・・・。これが困ったもので、図書館などで調べてみても正体不明のままなんですよね。でも、間違いなく何かがあったと思うのですが、これこそがと断言できないところが心苦しい。まあ、間違っていたらご免なさいするしかないのですがね。

 以下の画像にはそんな町が幾つか含まれております。町の名前をイニシャルにして判断しにくい画像を選んでおりますが、地元の方が見れば一目瞭然かもしれませんね。まあ、相変わらず名所旧跡などはほっといたまま、変な場所ばかりをフラフラしているというのは分かっていただけるかと(笑)たぶん来年もこの路線は継続すると思います。人間、そう簡単には変われませんから・・・変わるつもりもありませんけど。

 それでは、よいお年をお迎えくださいませ。



N県I市 列車からも見える元カフェーの食堂、以前から憧れの存在でした。やっと訪れることができました。


C県A市 円窓がある旅館。果たして、知られざる遊里が存在したのでしょうか。


G県S町 大好物である終着駅の町。4年ぶりの再訪・・・何も変わっておりませんでした。


T都S区O 遊里とは関係のない町のようですが、魅力的な路地がいっぱい。もしかすると・・・。


I県I市 6年ぶりの再訪、残念なことに震災でレプリカの大門が倒壊してしまったそうです。


F県S市 前回、偶然発見した妖しげな路地は健在でした。4年ぶりの再訪になります。


T都N区N サブカルの聖地裏に残る謎の一画。以前の姿を知っておりますが、もっと早く撮りたかった。


K県Y市H 進駐軍がこぞって押し寄せた色街跡、面影はほとんど残っておりませんでした。


G県K市 毎年、詣でを欠かさない大好きな町、今年もちゃんと行ってきましたよ。


N県K市 前回、偶然出会った謎の飲み屋街が酷い有様に。遊廓跡も訪ねてきましたよ。


T都S区Y 居並ぶビルの底、僅かながらですが花街の面影が残っておりました。


K県K市H 色街跡から少し離れておりますが、凄まじいボロ横丁建築に唖然。


N県O市 眼前に現れた草臥れた飲み屋街、これが知られざる遊里跡なのでしょうか。


T都M区T 建設中の高層ビル、そんな足元に忘れ去れたような一画が残っておりました。


T都A市I 結構な規模の宿場町とのことですので、何かあるんじゃないかと思ったのですが・・・。


G県O市 再開発の計画がある町。この色街跡の行く末はどうなるのでしょうか。


S県O町 山一つ越えたところにある小さな町。そんな町にも知られざる遊里が存在したようです。


T県K市 遊廓跡だと思った場所が間違っていたわけ。改めて5年ぶりに再訪してきました。


K県F市 三度目になりますか・・・色街跡はゆっくりと姿を変えようとしているようでした。


T都S区S 街道筋にあった巨大遊廓跡を探してみましたが・・・。


Y県O市 いつもはスルーしていた町。でも、寄ってみるといろいろと発見できるものです。


N県S町 主要街道の宿場町。遊廓も存在したのですが、何だか風景を撮りに行ったような探索になってしまいました。


T都T区N 現在は閑静な住宅街ですが、花街の遺構が結構残っているのが意外でした。


T県S市K 特産物のせいでちょっと埃っぽい終着駅の町。嘗ては相当栄えていたのではないでしょうか。


N県C市 知られざる遊里発見か!?喜び勇んで訪れたのですが・・・。


T都K区M 大きなお寺がある町。花街が存在したようですが、この旅館も何かいわれがあるのかもしれません。


N県S市I 本物の大門が往時の場所に残っているという全国的にも珍しい町なのです。


C県U市 赤線があったというのですが、前回同様、またもやうやむやに・・・。


T都T区Z 戦災から逃れた町。遊里とは関係ありませんが、たまにはこういうのも宜しいかと。


K県S市S 現役の軍都、色街があったらしいのですが、それよりも廃線跡を辿るほうが楽しかった。


N県S市 前回、体調不良で撤退した町。大きな湖に面した温泉街、そこでギョッとする遺構に遭遇。


S県O町 5年ぶりになりますか・・・前回、怪しいと感じた一画が花街跡だったと知りました。


G県N市 河岸段丘上の町を再訪。やっぱりこの町はいろいろと面白い。


S県H市 なんとなく訪れた町。でも、行けば行ったで楽しめてしまうものです。


F県S市 震災で大きな被害がありました。一見するとそうでもないようですが、所々に傷跡が・・・。


T都H市 遊廓跡と現役花柳界がある町。中央線でバレバレですな(笑)


T県T市F 帰り道に何気なく寄った小さな町。裏通りで見つけたコレは何だろう・・・。


S県H市 今年最大の発見かも・・・。路地の角を曲がると、コレが・・・思わず身体が震えました。

秋田県 仙北市角館201308(再訪編)

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重伝建地区手前のゴミ屋敷・境界が残る遊廓跡・明りが灯らない飲み屋横丁

フ・・・フジツウ???新年早々、ほんとくだらなくて申し訳ない。


 この旅の計画を練っているとき最後の最後までどちらにしようかと迷ったのが、今回の角館と手前にある大曲でした。大曲にも遊廓が存在しており、場所についてもこの辺りであろうとあたりをつけていたのですが、さすがに一日で4つの町を巡るのは無理。ただでさえ薄っぺらいレポが無味無臭の白湯みたいになりそうですので、泣く泣く角館だけと相成りました。この判断、吉と出るか凶と出るか・・・まあ、大抵の場合、多少つまらなくても無理矢理にでも楽しいと脳内変換できてしまう便利な人間ですので、あまり心配はしていないのですが・・・。

 みちのくの小京都と呼ばれ全国的にも有名な観光地ですし、黒板塀と枝垂桜が続く武家屋敷跡は重伝建地区にも指定されておりますので、ご存知の方も多いと思います。江戸時代、角館は秋田藩の支藩でした。町割りは北に位置する古城山に角館城を配し、城の麓の内町に家臣たち住まわせ、その南側の外町に町人をといった感じで典型的な城下町といった様相ですね。内町の現在が武家屋敷跡ということになります。町の南を雄物川の支流である玉川、西に桧木内川が流れる角館は物資の集散地として古くから栄えてきました。当時の隆盛を伺えるエピソードになりますが、雄物川の河口にある土崎港から、川を遡ってわざわざ遊びにやってくる連中がいたほどだったとか。土崎港にも遊廓や花街があったのですがね・・・そんなに夢中になる妓がいたのでしょうか。そんな角館でしたが、戊辰戦争で新政府側についたため周辺諸藩から攻められ危機に陥ります。しかし、町自体には奇跡的に戦火は及ばなかったようです。そのおかげであの武家屋敷跡を見ることができるということになるでしょうか。

 『秋田県遊里史』によりますと、文化13年(1816)に遊女が徘徊して風紀が乱れると藩校の学者が殿様に進言しているそうで、町に遊女屋がきたのはこの頃ではないかと推定しています。時は飛びますが、昭和4年(1929)時点で、妓楼4軒、料理屋3軒が営業していたそうです。その3年後には妓楼2軒に減少、しかしその2軒も、不況のため1軒が廃業、もう1軒は風俗営業に転業し遊廓は消えてしまったそうです。昭和8年の公娼廃止を待たなかったみたいですね。以下の文章は上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』による角館の遊里の様子になります。『秋田県遊里史』とは少し内容が違うような気がするのですが、どちらが正しいのでしょうか。

 『角館遊廓 秋田県角館町西勝楽町にあつて、奥羽線大曲駅で生保内線に乗換へ、角館駅で下車する。駅から西部へ約十丁、乗合自動車なら十銭、車賃三十銭。旧藩時代には、秋田との交通は雄物川、玉川の両水運を利用して居たので、角館は可成重要な地歩を占めて居た。従つて当時の町は非常に殷賑を極めたものである。遊廓は重に是等旅人、及船頭相手であつた。外海の土崎港に大船のつく季節には、此の地から遥々と玆迄遠征したものださうだ・・・場合に依つては、芸妓の代りに娼妓が役を勤める事がある。之は是の地の風変りな点で、独立した芸妓屋と言ふものはなく、大概妓楼に芸者も抱へられて居るからだ・・・美人が多いので評判写真制でもなく、又陰店制ともつかぬので、ともすると意外の散財をさせられる事もあるから、此の点は宜しく心得置くべしである・・・特有の民謡「仙北おばこ」がある。重なる楼名、竹屋、常磐屋、松屋本支店、梅屋等』

 『角館は所謂「仙北の三勝」田沢湖、抱返渓、羽後駒ケ岳等探勝の関門といふべく、田沢湖畔には白浜にも潟尻にも芸妓は居ないから、仙北情調を味はふと云ふにはひ途先づ此の町に足を停めねばならぬ。秋田佐竹氏の支藩の置かれてあつた五千石の旧城下で、妓楼は比較的古くからあつたものの如く、約百年前の著「烏帽子親」に「茶屋お菊」の名が見えてゐる・・・専門の料理屋が出来たり、芸妓が現れたりしたのはつい十数年前からのことで、何と言つても未だ野趣満々だが、その気の置けない点が却つて旅の者には受がよいかも知れない。此処は芸娼妓併置制で、芸妓は皆妓楼に抱えられて居つて独立した芸妓屋は今の処未だ無く、その数も漸やく十名内外。それ故宴会などでお酌(芸妓)が不足の場合は警察の内諾を得て、娼妓が芸妓と伍して宴席に侍る。ここらが独特の角館気分と言はふか・・・』

 この角館、平成18年(2006)に訪れております。以前に少し触れておりますが、前回唯一歩かなかった通りが実は遊廓跡だったと後日知り、頭を抱えたアホがここにいるわけ。まあ、当時はこういったことにあまり興味はなかったですから・・・と強がってみても、自分のもってなさに唖然とするばかり。それよりも唖然としたのが7年ぶりの再訪ということ・・・当時からこのしょうもないブログは続いているわけでして、飽きっぽい自分からすれば、これは戦火を逃れた角館と同じくらい奇跡的なことなのではないかと思っている新年早々なのです。

註:前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



駅から町の中心までは少し距離があります。かなり陽が傾いております、急ぎましょう。途中にある廃館になってしまった平和劇場、前回全く変わっておりませんでした。そういえば、隣のラーメン屋も同じ状態だったような記憶が・・・。



飛びまして、此処が武家屋敷跡の入口。その門番のように佇む自転車屋兼みやげ物屋みたいな変なお店が・・・って、あれ?商売辞めちゃった!?店を閉めてからかなり時間が経過しているようでして、半ばゴミ屋敷然とした佇まい、そして周囲とのギャップがすごい。



だって、周囲はこんな感じですもの。



夕刻間近ということもあって、観光客の姿は疎ら。広い道幅のせいでしょうか、ちょっと異様な光景でした。



此処を再び訪れたのはコチラに寄るため、県指定文化財の青柳家住宅。実は此処に遊女の写真があるという噂を聞きつけまして・・・。



あるにはありましたが・・・コレ、吉原の遊女じゃん。見たことあるぞ。てっきり角館の遊女かと・・・またやっちゃった。



とんだ間違いで貴重な時間を費やしてしまった。次にやって来たのが遊廓があったとされる西勝楽町、現在も町名は健在です。おそらくこの通り沿いにそういったお店が並んでいたのだと思います。



途中にある薬師堂ではお祭りの準備でしょうか、鳶さんたちの手ですごい櫓みたいのが建設中。



コチラは割烹登喜和さん、かなり歴史がある建物とお見受けしましたが、結構直されているようでして、よく分からない・・・。



この部分はオリジナルでしょうか、凝った欄間がステキです。現代の軒燈が下っています。スポットですけどね(笑)



脇道に入りました。この通り、『赤線跡を歩く 完結編』によりますと、『不開(あかず)小路』と呼ばれているそうです。



料亭川竹さん、建物自体は新しくなっており遺構かどうかは判断できず。『全国遊廓案内』に竹屋とあるのが気になります。



不開小路を挟んで向かいにも料亭がありました。現在は残っておりませんが、『赤線跡を歩く』には料亭花笠という看板が写っております。



廃業されてしまったみたいですね。このシンプルなアーチ、好きなんですよねえ。照明の痕跡、お分かりになるでしょうか。どんなのがぶら下がっていたのでしょうね。



その先、不開小路を細い水路が横切っています。『赤線跡を歩く』によりますと、この水路からこっち側が遊廓の指定地だったそうです。水路が境界だったということになります。



通りに戻りました。右手の建物には18歳未満ウンヌンの札がありましたので、たぶん飲み屋さん関係だったのだと思います。



右の看板建築で通りはオシマイ。まあ、昭和初期に遊廓が無くなっていたとすれば納得の結果ですな。



近くにあるのが石造りの神殿にしか見えない伊保(いおや)商店さん。大正13年(1924)に建てられました。この迫力は現物を見て確認していただきたい逸品です。所謂荒物屋さん的なお店なのですが、商品に付けられたラベルが相変わらず面白いわけ。二階の窓に貼られたポスター?も意味不明だし。



このクマさんも7年前と変わらずと思ったら、ガオーが足されてた(笑)右上の『その場でできるおまる』ってなんぞ???



下新町で出会ったパーマ屋さん。腰のモザイクタイルが綺麗、扉に使われたリブ模様の型板ガラスも好きです。



近くにあるのが嘉永6年(1853)創業の安藤醸造さん、味噌と醤油の醸造元です。赤煉瓦の蔵が付属するお店は、明治24年(1909)に建てられました。



赤煉瓦の部分、実は蔵座敷、襖絵が見事です。特に右手のチビワンコがカワイイ。外人のカップルがWOW!!連発しながら写真撮りまくっておりました。この二人、山ほど醤油や味噌を買い込んでいたけど、あんな量どうするんだ???私も生醤油の小瓶とこの地方特産であるいぶりがっこを醤油に漬けたものを購入。生醤油は濃い目で刺身にピッタリ、漬物はお茶受けでポリポリしていたらあっというまに無くなってしまった。通販で取り寄せようかしら・・・。



通りを北上、上新町に出ました。なぜか幸せの黄色いハンカチ?がヒラヒラ・・・何コレ???



その先に冒頭画像の大門が現れます。所謂飲み屋横丁です。もちろん『フジツウ』じゃないと思います(爆)



まずは手前のちょっぴりカフェー風、定番の腰に鉄平石貼りです。



お次は全面青石風の鉄平石、豪華版です。これはいい佇まいですなあ。



ステンドグラスに見えますが、ステンドグラス風のフィルムが貼られています。古城って屋号もイイ。



前回、あの大門の向かいまで来ているはずなのですが、此処の存在に全く気付かなかった・・・。



大門の向かいには前回も紹介した謎の長屋風建築、元々は何だったのでしょう。結局謎は謎のまま・・・。



ゆっくりと日が暮れていきます。とっくに開店してもいい時間なのですが、いっこうにお店に明りは灯らないのでした。

以上、7年ぶりの角館再訪でした。この町もほとんど変わっていませんでしたね。さて、また2時間列車に揺られてベースキャンプの秋田市に戻ると致しましょう。次回から6日目、この旅の白眉でもある大館市を訪ねます。明日も始発なんだよなあ・・・。

秋田県 大館市201308その1

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板金細工の展示場・忽然と現れた飲み屋街・分断された遊廓跡

これは予想外の出会い・・・草臥れ具合が素晴しすぎてウットリです。


 東北遊里跡巡礼の旅も6日目、東北とは思えない異常な暑さのせいでかなり疲れが溜まってきておりますが、今日も始発列車かあ・・・。ガタゴト揺られてやってきたのが、秋田県北部、青森県と県境を接する大館市であります。町の中心は、出羽山地を源とする米代川と長木川が流れる大館盆地に位置しています。この盆地、相当古くから人々の暮らしがあったようでして、周辺には数多くの縄文時代の遺跡が発見されているそうです。江戸時代、この地を治めたのは、この東北の旅お馴染の佐竹氏。大館には佐竹西家が入城し、秋田藩の大館城下の町として繁栄していくことになります。

 遊里関係はその2でお話しするとして、下調べ段階で気付いたのですが、この大館、拙ブログで取り上げるような古い町並み的なものが全くといっていいほど残っていないのです。その原因は戊辰戦争・・・秋田藩の秋田軍と盛岡藩の南部軍が争った十二所の戦いと大館城攻城戦で、大館の町は徹底的に焼き尽くされ、残ったのは町屋29軒だけだったと言い伝えられています。その後も何度も大火に襲われたそうでして、その結果、近代建築的な建物もほとんど見られないというある意味異常事態・・・。空襲の戦災に遭った町以外で、それなりに歴史のある町としてはかなり珍しい部類になるのではないでしょうか。まあ、古い町並みも近代建築もいいですけど、そこからちょこっとずれた光景や建物を特に好む人間からすると、探索しがいのある町なのかもしれません。

 大館市の中心街は、奥羽本線大館駅から南へ2キロほど。どうしてこんなに離れた場所に町の名前を冠した駅があるのでしょうね。大館駅から分岐している花輪線東大館駅のほうが遊廓跡にも近いのです。しかし、花輪線は震災で大きな被害あり2011年4月に一度復旧しますが、この旅に出る二週間ほど前のゲリラ豪雨による土砂災害で再び全線不通・・・大館駅前が水浸しの湖みたいになっている画像をネットで見かけてかなり心配していたのです。果たして降り立った駅前広場、至って長閑な一地方都市の光景がひろがっておりました。



意外な発見だったのが駅前の町並み、味のある看板建築がいっぱい。



中でもお気に入りがコチラ、なんとなくカフェー的な面影があるような気がしませんか???リブ壁が当時の流行だったみたい、臭突がいいアクセントになっております。



パリの香りは皆無ですけどね(笑)



大館駅から分岐して東へ伸びる錆びた鉄路があります。旧小坂線・・・明治41年(1908)開業、遊里も含めて大館の発展に寄与してきた鉄道でしたが、平成6年(1994)に旅客営業停止。その後貨物専用線となりますが、それも平成21年(2009)をもって廃止となってしまいました。鉄関係、特に終着駅と廃線は大好物ですので大変興味があるのですが、終点の小坂まで22キロあまり・・・こりゃ無理だ。ちなみに終着駅のあった小坂にも嘗て遊廓がありました。



旧小坂線を渡って、県道2号線をトボトボとひたすら南へ・・・バスにすればよかったと後悔し始めた頃、やっと興味をひく建物が現れました。玉屋商店さん、柱型をパラペットから突出させた神殿風看板建築。くすんだ青のトタン雨戸が大変宜しい。



その先の大館橋で長木川を渡ると大館市の中心街です。この親柱、トーチカみたいですね(笑)



中心街に入っても微妙な家並みが続きますが、所々にこんなお店が見られます。こういうの好きなんですけど、新しいんだか古いんだか判断が難しいなあ。



かなり昔に店仕舞いしてしまったらしい、たぶん時計屋さん。ペントハウス状部分の時計、もちろん動いておりません。



市役所の近くに大館の中心街唯一の近代建築かもしれない櫻櫓館が・・・って、朝早くてまだ開門してないじゃん・・・またまたやっちゃった。ハイ、計画変更。今回は遊里跡だけということでお許しくだされ。



県道2号線に戻る途中、ビルとビルの間の細長い敷地に『ハチ公小径』という表示が・・・。あまり知られていませんが、ハチ公の故郷は大館なのです。コチラはどうやらイベントスペースらしいです。奥にプレハブ小屋みたいのが見えますが、一応屋台的な飲食店みたい・・・何だか中途半端な施設。ハチ公を使ってのまちおこしの一環なんでしょうけど、これじゃいかんでしょ。



県道2号線に面した金物屋さんの側面が凄いことに・・・まるで板金細工の展示場です。



亀甲、麻の葉、清海波などなど。銅板の張られた戸袋なんかで見られる日本伝統の文様ですが、コレの材料はトタン、しかも文様の一つ一つがデカイ(笑)かなりの迫力です。



四つ辻にカッコイイビルがありましたよ。いいですねえ、コレ。



70年代・・・いや、60年代といった感じでしょうか。モダンなんだか野暮ったいんだか、なんとも表現しようのない建物なのに、どうしてこんなに魅力的なのでしょう。コルビジェのロンシャンのポツ窓みたいのはオリジナル???



遊廓跡に向かうため近くの脇道へ・・・何このオモロイ造りの入口。真っ先に浮かんだ言葉が、なぜかマハラジャ(笑)そんなことより、前方に何か見えてきた・・・。



見事なまでに草臥れ果てた飲み屋街。これは正に不意打ち、下調べ段階では全く気付かなかった・・・。



すぐ先には遊廓跡があるわけでして、それを考える何となく納得の状況なのですが、この重苦しい空気・・・只者ではないとみた。



分岐するどん詰まりの路地にもお店が続いています。退役してからかなり時間が経過しているみたい、苔生しちゃってる。



車も入れないような細い路地が通りと並行しているのに気付きました。仲見世通り 裏小路!?どうやらさきほどの通りが仲見世通り、これから辿る路地が裏小路みたいです。裏手には大きなお寺が幾つか並んでいますので、これが仲見世の由来かもしれませんね。



もちろん此処もビッシリです。



簡略しすぎて青いミカンみたいになってしまったアジサイのイラストがステキ(笑)大館の飲み屋さんでよく見かけたのが左下のプレート。所謂18歳未満ウンヌンってやつなんですけど、ママさんの氏名が併記されているのがちょっと珍しいと思いました。



歯抜け状の更地越しに仲見世通りを望みます。外壁のモルタルの廃れ具合が最高レベルですな。



サビサビのブレース・・・バッテンのやつね・・・これがまたいい。



その先で裏小路は直角に曲がって仲見世通りに合流にしております。



無事仲見世通りに戻ってくることができました。



サンリオさんに許可・・・取っているわけないか・・・。

前半はここまで、試しに仲見世通りを検索してみましたら、いかにも胡散臭い掲示板がヒット。それによりますと、幾つかのお店は現役みたい、しかもステキなママさんがいらっしゃるらしいですぞ。その2では待望の遊廓跡を訪ねます。この旅、いちばんの遺構との出会いに感動させていただきました。

秋田県 大館市201308その2

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円窓のインパクトって強烈ですよねえ。


 『秋田県遊里史』によりますと、大館は馬の飼育が盛んだったそうです。馬の競市が開かれていたのが馬口労町、市には農民や商人が集まるので、料理屋や茶屋などが続々と新規参入、自然発生的に遊里が形成されることになります。明治7年(1874)5月に『貸座敷並娼妓芸妓取締規則』が公布され、大館でも貸座敷業が許されることになります。明治31年(1898)に県立大館尋常中学校(大館鳳鳴高校)が創立されると、馬喰町の遊里は強制的に片山新道の裏に移転させられます。人家のない寂しいところでしたが、たちまち豪壮な青楼が建ち並び、町名も新富町と改められました。主なお店は加賀谷楼、宮崎楼、広島楼、高橋楼、『新富亭』、北光楼、入口には黒の大門が構えられ、桜並木が続いていたそうです。

 大正8年(1919)5月27日に305戸を焼く大火が発生します。幸い遊廓地に被害はありませんでしたが、遊廓の移転問題が起きてしまいます。場所は地続きの畑でした。移転問題は難航しましたが、最終的には移転することになります。これが現在の遊廓跡として間違いないと思われます。昭和元年(1926)で業者6軒、同7年(1932)には4軒に減少、同8年(1933)には料理屋に転業し、娼妓9名は酌婦になったそうです。この転業は『秋田県公娼廃止の決議』によるものだと思います。料亭街に変わってしまった遊廓跡ですが、その後もまたもや大火に見舞われたり、戦争の影響などでゆっくりと衰退していくことになります。以上が大館に存在した遊廓の歴史になります。続いてはお馴染『全国遊廓案内』による大館の様子になります。

 『大館町遊廓 秋田県大館町にあつて、鉄道は奥羽線大館駅で下車する。大館からは小坂鉄道と秋田鉄道が岐れて居る。共に鉱山鉄道である・・・大館遊廓の貸座敷数は約七軒、娼妓四十人位居・・・元来が鉱山に働く人の多い事と景気不景気に非常に影響されて町が活気も出又消沈もする。十和田湖はモーターボートで約三時間位で一周出来る正に絶景である事は御承知の事と思ふ。「おばこ何ぼになる、此年暮せば十と七つ十七ぢあなあ、おばこなぞ、何しに花など咲かねとさ、咲けばナ美もなる咲かねば日陰の色紅葉、おばこナ何処さ行く、後の小山コさほなコ折りに」』

 秋田県では珍しいのではないかと思うのですが、この大館の遊廓跡、往時の町割りといいますか、所謂メインストリートが現在もはっきりと確認できるのです。地図を見ていただければ一目瞭然なのですが、花輪線東大館駅前から北へ延びる広い通りがあると思います。この通り、たぶん新しく造られたか拡幅されたのかは不明ですが、とにかく真新しいことだけは確かなのです。これを北へ辿って400mほど、幸町に入りますと・・・ほら、くっきりと遊廓特有の広い通りが横切っているのが確認できるはずです。あ、横切っているというのはちょっと違うかもしれませんね。嘗てのメインストリートを新しい通りが分断しちゃったといったほうが正しいですな。なかなかお目にかかれない光景だと思いますぞ。



東大館駅前から続く広い通りを北上・・・オオッ、見えてきた、見えてきた。まあ、実際はかなり遠くから確認できるんですけどね。左側は出来るかぎり見ないようにして・・・私、好物は最後までとっておくタイプなのです(笑)



向かって右のメインストリートからいきましょう。こう見ると、分断されているのがよく分かるのではないでしょうか。



いちばん手前にあるのが料亭柴田庵さん。詳細は不明ですが創業100年とのことですので、おそらく転業組の中の一つだと思います。建物は新しくなっており、風情的にはいまひとつ。



メインストリートの様子・・・見事な枝ぶりの桜並木が続いております。次回は開花時期に訪れたいものです。



突当りにあるが料亭北秋倶楽部さん。前書きにある新富亭の後の姿がコチラになります。



創業は明治26年(1893)という老舗。そしてかなりの大店です。残念ながらこちらも建物は新しいものでした。



塀の向こうに赤い屋根見えるのですが、別館でしょうか。庭木が邪魔して全景が分からない・・・。



Uターンして並行している路地へ・・・コチラも遺構でしょうか。全身にトタンを纏った入母屋造り、二階の連続する引き戸が気になります。



更地を挟んだお隣、コチラも正体不明。明らかなのは、遊廓時代にも存在していたはずということだけ。



その先に出窓が連続する不思議な建物があります。



こちら側も出窓がいっぱい。トタンとモルタルが半々というのも面白い。なぜか軒天はアールのついた近代建築風。現在はアパートでしょうか・・・まあ、要するに正体不明ということです。



近くにあるのが割烹末広さん、こじんまりとしたお店です。一応ネットでヒットしますが、現役かどうかは微妙な感じ。繊細な桟が入った二階の窓が美しいですね。ちょっと開いた玄関の引き戸、奥にある円形の造作が顔を覗かせておりました。



例の通りから見ますとこんな感じ。押縁下見板張りが綺麗。向こうに柴田庵さんが見えます。それではメインストリートの左側へ・・・。



最初に出会った見事な遺構、手前のカフェー風の居酒屋部分は増築されたのだと思います。コレ、いいなあ。



側面、例の通りに面した嘗ての坪庭。現在は夏草が我が物顔で茂るのみ・・・。



ついでですのでもう一方も。この側面、窓が少ないですよね。おそらく以前はお隣にも別の遺構があったのだと思います。それが例の通りを通すため壊されてしまい、見られたくない部分が露わになってしまったということなのでしょう。



蔦が這う門柱にシンプルなアーチ。アーチの片方は居酒屋部分に飲み込まれております。



反り屋根の破風、コレって何て呼べばいいのでしょう。そんなことより、見事な懸魚を観賞しましょうよ。これは素晴しいなあ。欄間と二階の窓もお忘れないように。



こちら側にも桜並木、メインストリートは突当りで右に曲がって続いておりました。



曲り角にも料亭があります。吉野屋さんです。現役かどうか・・・ウーン、どうなんでしょう。



コチラも庭木が邪魔をして全景がよく分からない・・・。



辛うじて見えた二階部分、分かりにくいと思いますが、手摺の透かし彫りは桜の花を象っているようです。状態が良好、何度か直されているのかもしれません。



向かいには割烹きらくさん。創業が昭和11年(1936)創業ですので、遊廓が廃止された後ということになりますね。お店自体は新しいものでした。



お隣には玉石が積まれたちょっと変わった塀が続いております。浮かした屋根が軽やかでいいですね。割烹濱屋さんです。看板もありませんし、ネットでもほとんど情報がありませんでしたので、すでに退役済みではないかと・・・。



赤い屋根の入母屋造り、とても雰囲気のある建物です。この遊廓跡で最も往時の面影を残しているお店ではないでしょうか。さて、そろそろ駅に戻りましょうか。でも、また単調な道を2キロを歩くのか・・・と思っていたら、タイミングよくバスが来た。



大館駅前に戻ってまいりました。次の列車までまだ時間がありますので食事ができる処をとフラフラしておりますと、お店ではなく廃業してしまったらしい映画館が・・・。『座』が落ちちゃっていますが、御成座といいます。騙し絵みたいなファサードが面白いですね。



ロビーには市松模様のタイルが使われていました。どうやら地元の有志が活用法を探っているみたい。不定期ですが、映写会なども開催されているようです。



なんてステキな造形なのでしょう。



大館駅に鶏めしという全国的に有名な駅弁があります。製造販売している花善というお店が駅前にあり、店内で鶏めし御膳という形で頂くことができます。この地方特産の曲げわっぱで供される鶏めし、甘く味付けした鶏の炊き込みご飯といえば分かりやすいでしょうか。画像は一番人気の特上鶏めし御膳、この上に特製、スペシャルというのがあるそう(笑)

その1で紹介した廃線になった小坂鉄道、以前は秋田鉄道だった花輪線、この両者、元々は鉱山のために敷かれた鉄道でした。これが大館の遊里繁栄の一因になったのでしょう。しかし、その鉱山も次々と閉山・・・一時期は秋田市に次ぐ県下第二の町だったようですが、それが信じられないほど町は寂れていました。そんな町にあの元遊廓の料亭街はあるわけです。町の現状を考えると、かなり特異な光景なのではないか・・・そんな複雑な想いがした大館の探索でした。遊廓跡も満足、お腹も満足ですので、次の目的地能代に向かうと致しましょう。

秋田県 能代市201308その1

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カワイイ白いパン屋さん・大火から逃れたはずなのに・色街跡に舞い降りた謎物体

加壽天似羅???一瞬、なんだか分からなかった。


 前回の大館市から奥羽本線で秋田市方面に戻り、途中の東能代駅で五能線に乗り換えて一駅で能代市に到着です。米代川河口に位置する能代は、古くから貿易港として栄えた商業の町でした。また、米代川の舟運を利用した秋田杉の集積地としても名をはせた町でもあります。多くの廻船問屋や木材問屋が建ち並び、その繁栄振りはかなりのものだったとされています。各地から多くの商人などが集まる町でしたので、彼らを追う様にして遊女が集まり自然発生的に遊里が形成されたようです。遊廓関係についてはその2でお話しますので、その1では花街についてのみ記したいと思います。

 『能代港は米代川の吐口の左岸に在つて、背後に砂丘を負ふてゐる態はちよつと新潟に似てゐる。港としては土崎と同様巳に時代から落伍した港であるが、米代川を筏で下してくる材木を集めて、今日は製材業に栄え、有名な秋田木材会社の如きも此町にある。曲げわつぱの大館と共に北秋田地方の二名邑で、能代春慶は昔から知られた名産であるが産額は甚だすくない。能代の花街と云ふは市街の中心地に近い柳町で、大小の料理店及び芸妓屋皆その附近に集中してゐる。現在芸妓屋二十六軒、芸妓五十八人(内半玉十八人)、料理屋十五軒・・・主なる料亭 金勇倶楽部と二葉を能代の代表的旗亭とし、共に柳町にある。金勇倶楽部最も大規模で本館別館に別れ、料理も器物も一頭地を抜いて居ると云はれるが、宴会向きの家で、二葉は庭園の清楚と座敷数の多いのを特徴としてゐる・・・花街名物 初秋の頃から当地方一般に行はれる「切たんぽ」云ふ土俗料理、それは御飯を潰して団子を作り、串に刺して焼いて蓮型に切り、鶏肉、牛蒡、茸、揚豆腐などと一緒に煮て食べる。一種の寄せ鍋のやうなもので、上戸にも下戸にも歓迎される』

 以上は『全国花街めぐり』による能代の花街の様子になります。文中の柳町は、現在も町名が残っております。この柳町、元々は芸妓・娼妓が混在していた遊里でしたが、明治45年(1912)に発生した大火で大半が焼け出されてしまいます。この大火を期に、遊廓業者は移転することになり、柳町は料亭と芸妓のみという純然たる花街として存続していくことになります。文中の金勇倶楽部さんは現在も『一応』健在・・・あくまでも『一応』ですけどね・・・。

 歩いていて気付いたのですが、この能代、古くからかなり栄えていた町だというのに、趣のある古い町並みが全くといっていいほど見当たらないのです。その原因は上記の大火にあると思われます。前回の大館と同じですね。特に昭和24年(1949)と同31年(1956)に発生したものは甚大でして、前者が2,238戸、後者が1,575戸の建物に被害が及んだそうです。当時の焼失区域図を眺めてみますと、市街地の六割ほどが焼けてしまったようです。きっと柳町も・・・と思ったら、これがなんと不幸中の幸いとでもいいますか、柳町と遊廓の移転先がある一画だけが奇跡的に被害が及ばなかったみたい。これはちょっと期待してもいいかも・・・。しかし、現実はそう甘くないのですよ。



駅前通りを西へ行けば柳町なのですが、まずは線路沿いの通りを北へ・・・。



少し行きますと、特徴的な塔が見えてきます。この独特な形状、どこかで見たことあるなあ。



日本聖公会能代キリスト教会、昭和7年(1932)に建てられました。外に飛び出した柱型でバットレスを表現しているのだと思います。



デカデカと糀!!



能登糀店さんです。製品に相当自信があるのでしょうね。此処で一人のお爺ちゃんに声をかけられました。最初は訛りが酷くてチンプンカンプン(笑)どうやら近くの神社に凄い大木があるから見て行けということみたい。ついでに遊里のことも訊ねてみました。まあ、これも聞き取るのに一苦労・・・簡単にまとめれば、何も残っていないぞ、芸者も『はがわ屋』も無くなっちまったとのこと。あ、『はがわ屋』についてはその2でお話しますね。最初の期待が脆くも崩れ去った瞬間でした。かなりショック。



遊里情報を教えていただいたので、言われたとおり参拝していきましょう。参道が五能線を跨いでいるのが日吉神社です。微笑ましい出来の蛇の絵が奉納されておりました。『何か発見できますように・・・』



お爺ちゃんが樹齢400年って言っていた大木ってコレかな???でも、案内板には樹齢260年のトチノキとあるのですが(笑)葉は元気に繁っておりますが、幹の大半が抉られた可哀想な姿・・・余生は長くないかも。



ご安心を、根元では二代目が育っておりました。



近くに見事な看板建築のお風呂屋さんがあります。巴湯さん、おそらく昭和初期ぐらいに建てられたものだと思います。



これぞ看板建築、素晴しい造りですなあ。巴の文字は茶のモザイクタイルで作られています。西洋のお城を模したようにも見えるのが面白いなあ。まだ14:00なのですが、気持ち良さそうにお婆ちゃんが出てきた・・・物凄く惹かれましたが、また汗だくになるから我慢我慢。



巴湯さんと同じ並びにある相澤商事さん。赤い三角屋根の可愛らしい建物です。



市役所の向かいに重厚な和風建築を見つけました。地図を見ますと竹内旅館とあります。



ぶっとい門柱は大好物の擬木、ランプみたいな照明がカワイイなあ。二重の庇、グルリと回る高欄風の手摺、一見すると料亭風にも見えるのですが、柳町からは少し離れているんだよなあ・・・。



もう一方の門柱はもっとぶっといぞ。門柱に嵌め込まれた表札、たぶん屋号が描かれていたのだと思いますが、読めないようシートが貼られているのです。どうやら廃業されてしまったみたい・・・残念ですね。



この建物、とあるブログには元廻船問屋のお店を改修したものとありました。それで納得、隆盛を誇った商業の町の遺構でもあったのです。



近くにあるのが冒頭画像の建物、エーワンベーカリーさんです。このお店、とってもカワイイのですよ。



二階の木製窓が引き戸じゃなくて開き戸というのが大変宜しいですなあ。創業が昭和7年(1932)とのことですので、お店もその当時のままなんだと思います。



レトロなショーケース、これがまたいい。後から画像を確認しましたら、あんパン50円!?デニッシュ40円!?みそパン35円!?などなど・・・なにこの価格破壊、買えばよかった。ところで、加壽天似羅・・・読めますか???



能代市役所第一庁舎・・・昭和24年に建てられたとのことですが、大火の影響は無かったのでしょうか。建物側を水下にするキャノピー、この頃の建物によく見られるものです。現役というのが素晴しいと思います。国の登録文化財です。



市役所裏手にあるのが能代市議会議事堂、昭和25年(1950)に建てられたこちらも国の登録文化財。こう見えても木造なのです。木造と聞くと、入口の石貼りの細い柱列がちょっと頼りなく見えてしまいますよね。



市役所の南側、桜並木に囲まれた広場があります。何だろうと思いましたら、こんな門が残っておりました。能代市立渟城第二小学校・・・平成19年(2007)まで小学校がありましたが、少子化などの影響で近隣の学校と合併し廃校になってしまったそうです。桜並木が見事ですので、このままほっとくのは勿体無いなあ。此処の南側が柳町になります。



小学校跡から南に伸びるのが稲荷小路、明治45年発生の大火は、此処が火元だったそうです。現在は静かな飲み屋街です。



分岐する路地に入りましたが、お爺ちゃんの言うとおり、花街的な面影はほとんど感じられません。



まあ、こういうのも好物なんですけどね。



稲荷小路がぶつかるのが柳町通り。この通り沿いが花街の中心だったのでしょう。



柳町通りから南に分岐しいているのが八幡神社への参道、奥に鳥居が見えますね。参道の左側にあるのが料亭魚松さん、右側には『全国花街めぐり』に金勇倶楽部と書かれている旧料亭金勇さんがあります。



昭和8年(1933)創業の魚松さん、お店は新しいものみたいですね。おそらくこの頃に作られたと思われる住宅地図を見つけたのですが、上記の二軒以外にもしお松、紫明館、都亭、ちょっと離れた西側に二葉といった感じで、この界隈に数軒の料亭が集まっていたようです。



問題は向かいの元金勇倶楽部の旧料亭金勇さん、なんか工事やっているのですが・・・。



結局入れず外から眺めるだけ・・・。明治23年(1890)創業、現在の建物は昭和12年(1937)に建て替えられたもの、国の登録文化財です。能代を代表する料亭でしたが『旧』とありますように、平成20年(2008)に廃業しています。その後市に寄贈され、現在は無料で見学できるみたいです。たぶんそのための工事だったみたい・・・相変わらずもっていない男です。

お爺ちゃんの言ったとおりでしたね。遺構と言えるのは二軒の料亭のみ、嘗ての隆盛はほとんど感じられなかった能代の花街跡でした。後半は花街と隣接していた遊廓跡を訪れます。多少でもいい、成果があるのといいのですが・・・。

秋田県 能代市201308その2

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いろいろと想像がふくらむ造形だと思いませんか。具体的には申しませんが・・・。


 古くから貿易港として栄えた能代、遊里に関してもかなりの歴史を誇っていたようです。『秋田県遊里史』によりますと、天保13年(1842)頃で遊女屋が8軒。安政年間で揚屋14軒、抱え遊女39名、芸者26名という記録が残っているそうです。明治45年(1912)に発生した大火後、風紀上の問題から遊廓の移転問題が起こります。すったもんだの末、大正元年に県令により、芸妓娼妓が混在していたその1でレポした柳町から西側の新柳町に移転が決まります。これによって柳町は花街、新柳町は遊廓といった感じで明確な区分けがされることになります。新柳町には吉原に倣って、東西の入口に黒門を構えていたそうです。大正2年(1913)時点で貸座敷27軒、娼妓120名とのこと、かなりの規模だと思います。しかし、この遊廓も昭和8年(1933)の公娼廃止をもって消え失せる運命にありました。その直前の規模は貸座敷6軒、娼妓19人という著しい衰退ぶりでした。

 『能代遊廓 秋田県能代港新柳町にあつて、鉄道は奥羽線機織駅で能代線に乗換え能代駅で下車する。能代港は、斉明天皇時代に有名な阿部此羅夫が、舟師百八十人を率ゐて、上陸したのは之の港であると言はれてゐる。従つて古くから日本海の良港として知られて居た処である。現在でも材木の集散地として有名であり、秋田木材会社の規模の莫大を見る時は、木材の能代たるを感ぜしむるに充分だ。遊廓は、妓楼約十二軒娼妓八十人位居り・・・娼妓は当地名物「秋田おばこ」が得意であるさうな』

 『新柳町に遊廓があり、その門前に方言「ハガワ屋」といふ私娼専門の料理店が二十八軒、そこに五六十名からの酌婦が居つて近在の兄ちやんやプロ客を相手に相当繁昌してゐるが、私娼窟のことは茲には書くまい。能代遊廓は随分古い歴史を有し、琴曲遊女など云つてなかなか有名なものであつたが、時勢には抗することが出来ず、一流の妓楼として知られた安宅楼の如きすら、昨年六月限り廃業して料理店と早変りした位で、遠からず其の跡を絶つだらうと言はれてゐる・・・』

 『市の中心柳町一帯に芸者屋二三軒あり芸妓は六八名。この街では芸者を呼ばずに、「はがわ屋」へ行く。のみ屋、おでん屋、そば屋など小料理屋の女が泊る。土地の言葉では「がわ屋」。新柳町界隈に四、五〇軒ある』

 上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』、『よるの女性街・全国案内版』による新柳町の様子です。その1で出会ったお爺ちゃんが言っていた『はがわ屋』が記されていますね。公娼は廃止になってしまったけど、柳町の芸者では物足らないし、懐具合も心配だし・・・そんな男達のためにこういったお店が繁昌していたのだと思います。所謂乙種料理店みたいなものではないかと。でもそうなりますと、一見してそれと判る外観じゃないんだろうなあ。何も残っていないぞとお爺ちゃんも言っていましたし、あまり期待し過ぎると痛い目に遭いそう。さきほどから遠くで雷様が怒ってる・・・ちゃっちゃと済ませましょう。



花街跡である柳町の西、能代街道(国道101号線)の向こう側が嘗ての新柳町。現在は西通町に町名が変わっています。



南北を貫く通り沿いには飲み屋さん続いています。これらが『はがわ屋』の名残なのでしょうか。通りが広いせいなのか、あまり如何わしい感じはしませんね。前方に見える松の木が気になりますが、それは後回しにしてその先を右折すると・・・。



こんなお店が現れます。実際の『はがわ屋』がどんなものだったのか全く分かりませんが、入口を隠すようにして植えられたヤツデが物凄く気になるわけです。



近くにもう一軒、二階のウィンドウクーラーが嵌った木製窓が凄くいいぞ。



お店を閉めてからかなり時間が経過しているようです。



通りを挟むようにして松の木が二本、まるで大門みたい。『赤線跡を歩く 完結編』には、往時は柳並木が続いていたとありました。左手のお店は料亭宮茂登さん、一応ネットでヒットはしますが、どうも微妙な感じ。ひっそりと静まり返っておりました。今度はその先を左折、すると衝撃(笑撃)の物件が現れるのです。



「ハア???」思わず声が出ちゃった。酒場まきさん、何処から飛来したのでしょうね。



ちゃんとてっぺんにポッチ状のトップライトがあるわけ。いっそのこと同じお店を二つ並べちゃえばよかったのに(笑)



近くには、こんなしもた屋風の建物もあったりします。何の商売をされていたのでしょう。



路地を抜けると冒頭画像の女王様がお出迎え。



曲線に曲線を重ねるという高度なテクニックをご覧下さい(笑)安っぽいタイルがこれまたいい。飲み屋建築の自由奔放さには、ほんと毎回驚かされますなあ。



平和通り・・・『ぬけられます』状の横丁建築も発見です。



片側だけにお店が並んでいるタイプ、風情は皆無ですな。



結局これというものは発見できず、通りを更に北へ・・・。二階が妙な造りのお宅、奥行きが凄いです。入口廻りの半分アーチとガラスブロックが気になるけど・・・違うだろうなあ。



やっぱり何もない・・・お爺ちゃん、貴方が正しかったようです。まあ、こうまで何も見つからないとある意味スッキリしますな。



あ、遂に降り出しちゃった。そろそろ戻ると致しましょう・・・。



柳通りを辿って駅に向かいます。県道205号線に出る手前にあるのがたっぺの坂。由来は江戸時代、この辺りに住んでいた田端多兵衛さんにあるそうです。



県道を渡った先で摩訶不思議な造りの看板建築を見つけました。



どうやら喫茶店だったみたい。屋根の感じからして、元々は倉庫か工場だったのではないでしょうか。それを店主が自ら改修したのでは・・・と思えるほど、意味不明なデザインですな。残念ながら現役ではないみたい・・・。



忘れていました。能代と言えば能代工業高校、バスケの町でしたね。駅のホームにはゴールもありますよ。



駅前の観光案内所の看板写真。白神山地でしょうか、それと花嫁さん???謎の構図だ。コレ、どこかで見た記憶があるんだよなあ・・・。修学旅行の土産物屋でこんな絵葉書売っていませんでしたっけ???

以上で能代の探索はオシマイ。大火から逃れたはずの遊里跡でしたが、何も発見できませんでしたね。唯一の遺構(旧料亭金勇)も見学できなかったし、前回の大館が素晴しかっただけにちょっと残念でした。



とっぷり日も暮れた頃、ベースキャンプの秋田市に戻って参りました。今日の夕食は春駒食堂さん。コチラ、秋田市民のソウルフードがいただけるお店です。



コレが秋田市民のソウルフードこと肉鍋。豚バラに豆腐、ゴボウやネギやタマネギなどなどを出汁の効いた醤油味のスープで煮込んだものと言えば分かりやすいでしょうか。何かに似ている・・・あ、コレ、薄味のスキヤキだ・・・実家のスキヤキは基本豚でしたので(笑)でも、これがどうしてソウルフードなのでしょう。

明日はこの旅の最終日、土崎港と秋田市内を巡ります。ここ数日は始発に飛び乗る毎日でしたが、明日はかなり余裕をもったスケジュール・・・ゆっくり眠れそう。というわけで、これから精進落しに行って参ります。実はこれがいちばん楽しみだったりして(笑)これから旧花街である川反の眩いネオンに消えます。もちろんレポはありません、あしからず・・・。

秋田県 秋田市土崎港201308

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色街向かいの真っ黒商家・色ガラス欄間のお風呂屋さん・ようやく見つけた名料亭の今

色ガラス製のガラスブロック、綺麗ですねえ。


 東北遊里跡巡礼の旅も七日目、ついに最終日を迎えました。明日からはまた日常に戻らないとならないわけ・・・帰りたくない(笑)そうもいきませんので、残り一日大いに楽しませてもらいましょう。とはいえ、今日も残暑が厳しいみたい。そして旅の恥はかき捨てとはよく言ったもので、昨晩はちょっとはじけすぎちゃったみたい・・・。それを予感していたわけではありませんが、今日はかなり余裕のあるスケジュールになっております。長旅の疲れもかなり溜まっていることですし、ノンビリいきましょうや。

 まずはベースキャンプにしている秋田市から奥羽本線で一駅の土崎港を訪ねます。雄物川の河口にひろがる古くからの港町、嘗ては秋田県第一の貿易港とされ、物資の集散地としても栄えてきたという歴史がある町でもあります。『秋田県遊里史』によりますと、遊里関係もかなり歴史があるようです。藩政期には裏通りに揚屋まがいの宿があり、浜女という私娼を抱えていたそうです。飯盛女みたいなものだと思います。文政4年(1821)に稲荷町や永覚町の揚屋が願い出て、新たに新柳町に遊廓を置くことが許されます。明治元年(1868)、久保田(秋田市)下米町の遊廓が大火で焼け、翌年に新柳町に移転させられることになります。一気に大所帯となった新柳町遊廓は隆盛を極めることになります。しかし、それもつかのまのこと、明治4年(1871)には久保田に遊廓がない不便さから、再び下米町に遊廓が設置され、移転組は元の場所に戻ってしまうことになります。

 新柳町が最も繁栄したのは明治の中期で、同25年(1892)以降、港に入る船が少なくなると町の景気は急速に後退していくことになります。土崎港は浜風が強く、度々大火が発生したのも要因の一つになっているのかもしれません。昭和4年(1929)になりますと、貸座敷4軒、娼妓10名という著しい衰退ぶりでした。一方、元々色街だった稲荷町は50名の酌婦が活躍しており盛況だったそうです。花柳界も頑張っていたようです。同時期で芸妓屋14、5軒、芸妓50名、内12、3名が舞妓とのこと、定期的に演舞会みたいなものを開催していたそうです。『秋田県遊里史』にその後ことは書かれていませんでしたが、おそらく数年後の公娼廃止をもって消え失せる運命にあったのだと思います。

 『土崎遊廓 秋田県土崎港新柳町にあつて、雄物川の河口に位し、鉄道は奥羽線土崎駅で下車する。駅から西へ約十五丁、車代五十銭市街の東南端の高台に一廓をなして居る此の遊廓は文政四年頃に初つたものであるが、火災の為に盛大だつた昔の観を失つて終つた・・・特殊の情緒は比較的古風な気分で、快活と、侠気と、情味に富み、非常に落着いて遊興出来るのが之の地の独特。岡本新内「せめて一夜の仮寝にも、妻と一言おはれたら、此の一念も晴れねきにどうした因果で片おもひ、いやがらしんやす顔みれば、わたしや愚痴ゆゑ尚かはい・・・」』

 『市街の中央部港寄の方に「稲荷町」(一名濱町)、南端に「新柳町」(一名新地)の二花街があつて土崎の方が古い歴史を有して居るのであるが、今日は酌婦専門の私娼窟の如くなつてしまつて甚だ振るはない。新柳町の花街は文政四年の創業で、数度の祝融に禍ひされて昔日の観無しと言はれるが、割烹店などにも大きな家があつて、土崎港の花街として恥づる所はない。新柳町 市街東南端の高台に位置を占めて自から一廓を成し環境のゴミゴミして居ない点がなかなか感じがよい。芸妓屋十五軒、芸妓四十五名(内十二名舞妓)。料理屋十五軒、待合無し。貸座敷四軒、娼妓十名・・・主なる料亭 武田亭、池鯉亭、酔月、嘉根佐・・・池鯉亭は名に負ふが如く庭園とお池の鯉に名あり、且包丁は当地随一との評がある・・・稲荷町 和船時代、土崎が秋田湊として繁昌した頃からの古い花街で、明治初年公娼を許され、更に芸妓などの居つた時代もあつたが、今日は面目を一変して私娼窟となり・・・料理店にそれぞれ酌婦を置いて居る。その数総で四十余人。埼玉、群馬地方の乙種料理店と同じもので、特に呼べば新柳町からハコもはひらぬことはないが、芸妓は稲荷町の料理店に呼ばれることを喜ばず、料理店の方でも芸妓を呼ぶことは歓迎せぬ』

 上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』による昭和初期の土崎港の様子でした。『赤線跡を歩く 完結編』にも遺構の類はほとんど残っていないとありましたので、あまり期待はしていなかったのですが、下調べ段階である事実を知ることになります。上記の文献にも載っている料亭が今も残っているというのです。当初は港町の風情みたいなものを感じられればそれでいいやという感じでしたので、俄然やる気がでてきちゃったというわけ。見つけられるといいのですが・・・。



現在時刻は9:00・・・いつもこれぐらいだと楽なんですけどね。この駅舎、昭和元年(1926)に建てられたものなのですが、変なリフォームされちゃっている。窓廻りの装飾はオリジナルみたいですが、この煉瓦風タイルはないよなあ。



カスベあります・・・ご存知カスベとはエイのこと。北海道や東北では一般的な食材みたい、煮付けにすると旨いとか。



その先に現れたお宅?に唖然・・・何コレ???



斜めに振られた入口と腰に貼られた鉄平石から飲み屋さん関係ではないかと思われるのですが・・・。これもカフェー建築の一種としてしまってもいいものか、悩むところです。



嘗ての稲荷町近くにやって参りました。国道7号線(船川街道)沿いに、真っ黒な商家?があります。『赤線跡を歩く 完結編』には、料亭だったと思われるとあります。



三重になった庇が凄いですね。妻側には特徴的な手摺が残っています。国道を挟んだ土崎港西3丁目が嘗ての稲荷町なのですが・・・な〜んにも残っておりません。ここまで何もないとある意味スッキリしますな。



コチラ、地図には美美美容院とあるのです(笑)そのまま建物の妻側に廻り込んでみますと・・・



・・・裏手に元飲み屋さんと思われる、廃れたお店が連なっておりました。手前が冒頭画像の場所になります。



いいですよねえ、この入口廻り。こういったものによく見られる色褪せたピンクの外壁、汚れのせいで茶になりつつありますけど・・・。新しめのドアだけが残念、と贅沢言っておきます。



袖壁にスリットが入っています。何だろうと思って表に回ってみましたら、藤政旅館とありました。既に現役ではないみたい。



並びには和風のお店もありますよ。この通りを抜けると稲荷町だったわけでして、こういうのも色街の特徴の一つだと思うわけです。



新柳町を目指してそのまま国道7号線を南へ・・・途中に映画にでもでてきそうな、おどろおどろしい廃墟が。表側に回ってみましたら、那波商店さんという文化4年(1807)創業の酒蔵のものでした。廃墟ではありません。



近くで見つけたたぶん元飲み屋さん。分かりにくいと思いますが、二階の手摺には松の透かし彫りがあります。



屋号は『あそこ』・・・なんて大胆な・・・。「ちょっとあそこに寄ってく?」「あそこって何処だよ」「あそこって言ったら、あそこしかないだろ」「あそこじゃ分からないだろ」キリがないのでこのあたりで(笑)



ポツリポツリと飲み屋さんがある裏通りを新柳町目指します。



やがて広い通りに出ます。新国道こと県道56号線です。左に行くと旧新柳町なのですが、その前に非常に目立つ看板建築を鑑賞していきますよ。



塩乃湯さん、残念ながら既に現役ではありません。左官によるハーフティンバーとでも申しておきましょうか、何とも表現しようのない、それでいてとても魅力的な意匠です。



気になるのが菱形の桟が入った欄間、緑と赤の色ガラスが使われています。上に照明の痕跡が残っていますね。下の庇は後から付けられたものだと思います。



通り沿いには飛び飛びですが、柳並木があります。新柳町を意識したものなのでしょうか。



近くで可愛らしい洋館を見つけましたよ。



コチラも左官によるハーフティンバー風、マンサード屋根というのがポイント高いわけです。いいなあコレ。



新柳町はこの通り(県道56号線)沿いにあったそうです。『赤線跡を歩く 完結編』には、もっと南側のジャスコがある一画がそうだったとあります。まあ、いずれにしろ何も残っていないということだけは共通しているのですがね。おそらくですが、通りの拡幅によって遺構は無くなってしまったのではないでしょうか。ちなみにこの先の秋田県調理師専門学校がある敷地には、嘗て大内という料亭があったそうです。この専門学校、経営している学校法人が大内学園、これも転業の一種でしょうか。



諦めて駅方面に戻ろうとすると、旧新柳町の外れで出会ったのがコチラ。小料理加茂川さん、小料理というわりにはお店が大きいような・・・。



入口には貸席とありますね。あ、奥に料理店の鑑札も発見です。初めて見るタイプのものだ。以前は別の業態だったのかもしれません。



改めて見ても小料理という規模ではないぞ(笑)まあ、何にせよこれはちょっと嬉しい出会いでした。



何もないと言ってしまいましたが、コレも遺構の一つとしてもいいのではないでしょうか。仕出し屋さんです。宙に浮く欄間とでも申しましょうか、面白い造りですなあ。



更に駅方面(北)に戻りますと、地元で旧電車通りと呼ばれている通りに出ます。その名のとおり、嘗て此処を秋田駅前から延びる市電が走っていたそうです。通りがちょっと広くなっているのが分かるでしょうか、停留所の跡なのです。



近くにあるのが旅館山水館さん。分かりにくいと思いますが、奥の壁は斜めに建物の中に食い込んでいるのです。レトロフューチャーなデザインが物凄くカッコイイなあ。この旅館の隣に目的の物件があるはず、事前の情報には青い屋根が目印とあるのですが・・・。



本当にあった!!実はコチラが『全国花街めぐり』にも載っている名料亭池鯉亭さんなのです。かなりの大店ですし、航空写真には奥に屋号の由来と思われる大きな池があるのが確認できました。



もちろん退役済みです。現在の主は?と入口を見ますと・・・東方之光秋田センター???地図にはエム・オー・エー東日本販売???何のこっちゃ。帰ってから判明したのですが、エム・オー・エー → MOA!?なんと、あの世界救世教関連の施設になっていたという衝撃の事実が・・・。まあ、コチラの団体はあまりきな臭い噂はないようですが、私も熱海にあるMOA美術館に行ったことがありますし。もちろん純粋に建物と収蔵品を見に行っただけですぞ。



伸びやかで美しい入母屋造りの部分はおそらく大広間なのでしょう。集会とかやるのにはもってこいの空間だよなあ。『赤線跡を歩く』によりますと、池鯉亭が廃業したのは昭和49年(1974)だったそうです。同時に芸妓連も解散になったとのことですので、コチラは土崎港の遊里の最後の砦みたいな存在だったのかもしれません。

名料亭から新興宗教の施設、こんな華麗?な変身を誰が想像したでしょう。現地では分かりませんでしたが、帰ってからその事実を知りひっくり返りそうになった土崎港の探索でした。次回はこの旅最後の探索、秋田市街を遊里の痕跡を探して彷徨います。

秋田県 秋田市201308その1

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これじゃ宿泊できませんがな・花街跡近くの赤煉瓦・どん詰まりの飲み屋横丁

常磐町近くで見つけたコチラは何だったのでしょう。


 さて、長々とレポして参りました東北遊里跡巡礼の旅も、ようやく最終回となりました。最後に訪れたのは、嘗て佐竹氏の本拠地だった40万石の城下町、秋田市であります。今回の旅のベースキャンプという重要な役割を果たしてくれた町でもあります。『秋田県遊里史』によりますと、久保田(秋田市)に遊里が形成されたのは江戸時代中期以降か末期だったそうです。場所は下米二丁目、現在の大町一丁目の西端辺りとされています。隣接するように南北に長く伸びる寺町があるわけでして、此処でも宗教と遊里の不思議な関係が見られたようです。明治元年(1868)8月に発生した大火で下米町は全焼してしまいます。大火後、お上は再建を許さず、前回レポした土崎港の新柳町に吸収合併させられてしまうのです。これによって大所帯になった新柳町はたちまち大繁昌、それをお上が羨ましく思ったかどうかは知りませんが、再び下米町が遊廓地として復活することになります。大小20軒近くの揚屋が軒を連ね、中には3、40人もの娼妓を抱えているお店もあったそうです。当時の隆盛が忍ばれますね。

 試練が訪れるのは明治19年(1886)のこと、再び発生した大火で遊廓地は全焼の憂き目に・・・その後、同地での再建を申出ましたが知事の許可はなかなか下りませんでした。ようやく諸問題が解決したのは明治27年(1894)、寺町を挟んだ西側の南鉄砲町に移転が決まります。下米町からは二、三丁という近場でした。俗に『常磐町』と呼ばれ、昭和元年時点で75名の娼妓が働いていたそうです。しかし、またもや大火が遊廓を襲います。昭和3年(1928)に発生したそれで2、3軒を残して遊廓はほぼ全滅・・・幸い同じ場所での再建が許されますが、数年後には公娼廃止になってしまうわけです。貸座敷業者は一斉に料理屋に転業したそうです。この常磐町、戦後も赤線として続いていたようですので、公娼廃止から戦後までの間、十数年はどういった業態だったのでしょう。やはり乙種料理店みたいなものがひっそりと営業していたのではないか・・・そう妄想すると楽しいわけです。以下は、上から『全国遊廓案内』『全国花街めぐり』による昭和初期、『よるの女性街 全国案内版』による戦後の様子になります。

 『秋田市常磐遊廓 秋田県秋田市保戸野鉄砲町に在つて、奥羽線秋田駅で下車して約十二丁の処に在る。秋田は佐竹氏の旧城下で、両羽第一の都会である。市の中央を旭川が貫通して内町外町の二つに分けて居る。内町は官街、学校、兵営で、外町は賑やかな商家である。八丈織羽二重、金銀細工、秋田蕗、蕗砂糖等の産物がある。県庁、兵営、秋田鉱山専門学校等があり、旧城下の千秋公園は、東北各市の公園中で最も首位を占めるものだ。秋田には美人が多い。元市内下末町二丁目に在つた遊廓が、明治廿一年に現在の個処に移転されたもので、目下貸座敷が十軒あり、娼妓は六十人居る。何れも秋田県の女計りである・・・妓楼には、白根楼、世界楼、新し屋、蕾楼、松屋、伊勢楼、櫻屋、新開楼、栗田楼、松月楼等がある。秋田里謡に名物を唄つた物がある。「秋田名物男鹿づりコ、能代春慶、檜山ナツトー、大館曲げわつぱ」』

 『常磐町遊廓 秋田市から土崎港に通ずる場末の裏町なる南鉄砲町に一廓を成し、略称して「南廓」。距離は秋田駅から約十八町・・・秋田市唯一の遊廓で、東は寺町に接し北は土崎街道の花笠町に併行し、西南は寺内村八橋田圃。寝ちよツて小田の蛙の泣き声が聞こえるといふ色街である。秋田音頭の唄に“一丁目小路の腐れナノハは、必ず買ふごて無ア、三百取られて、揚句の果には鼻までもンがれたあ”と今に囃されて居る通り、明治二十年迄は市内米町に在つたもので、ナノハは娼妓の異名である。但此唄は尚ほ謡はれるが「ナノハ」という名称は今日は最早殆んど使用されて居らぬ。現在の妓楼十二軒、娼妓約七十人。此市の遊廓としては甚だ小規模で衰運に陥りつつある。主なる妓楼 世界楼、白根屋、時田楼』

 『〈赤線〉昔の常磐町遊廓。略して、“みなみ”ここも二五軒ほどのお寒さ。【親切らん】美人は多いが一体に冷い。町端れの保戸野南鉄砲町にある。市電では表鉄砲町下車』



前回の土崎港から戻ってきました。長旅の疲れがかなり・・・相変わらず残暑も厳しいし、正直言ってあまりテンションは上がっておりません。まあ、ノンビリいきましょうや。駅の西口にあるのが千秋公園、嘗ての久保田城址です。外堀?の睡蓮が満開、とても綺麗でした。



千秋公園に寄ってみましたが、暑さのため途中で断念・・・なんかだだっ広い芝生広場ばかりなんだもの。これは内堀でしょうか、ちょっと木陰で休ませてください。



そのまま常磐町を目指します。途中で見つけた一風変わった看板建築。通りのカーブに合わせたらL字プランになっちゃったという感じですかね。



オモチャの積み木みたいな装飾がカワイイですね。



旭川を渡った先にあるのが高砂堂さん、明治27年(1894)創業の老舗和菓子店です。お店は大正7年(1918)に建てられた国の登録文化財、市内では珍しいと思われる見世蔵です。寄棟屋根の棟に屋号の鏝絵が見られます。



近くにあるのが旧金子家住宅、江戸時代は質屋、明治に入ると呉服屋を営んでいた商家でした。現在の建物は大火後の明治20年(1887)に建てられたもの。平成8年(1996)に市に寄贈され、現在は背後に見える秋田市民俗芸能伝承館の一部となっており内部も見学できます。この地方の典型的な商家の造りだと思います。チラと写っておりますが、秋田市の民俗芸能といえば竿燈まつりですよね。しかし、民俗芸能より空腹が優先という私・・・近くのそば一という蕎麦屋さんで遅い昼食、後で知ったのですが結構有名なお店だったみたい。



とりあえず満たされましたので先を急ぎましょう。この通り、地元で鉄砲町通りと呼ばれているのですが、私が立っている側が嘗て常磐町だったとされる旧南鉄砲町の現旭北栄町。コチラは後ほど紹介しますが、問題は向かい側の保戸野鉄砲町なのです。



微妙な感じの看板建築の間、駐車場の奥を覗くとこんな古ぼけた建物が・・・。残念ながらこれ以上の接近は困難。結局正体不明・・・何だったのでしょう。



一本裏通りに入ったところで見つけたのが冒頭画像のお宅。一部がサイディングで包まれていましたが、奥に高欄風の手摺が残っているのお分かりになります???コチラもかなり歴史のある建物だと思います。



同じ建物の反対側・・・こっちはいい感じに草臥れた押縁下見板張り。目と鼻の先が遊廓跡ですから、気にならないというほうが可笑しいわけです。



辺りにはこんなお宅も残っておりました。秋田市を歩いて気付いたのは、歴史ある城下町だというのに、これといった古い町並みが全く残っていないのです。空襲の影響なのかなとも思ったのですが、前回の土崎港は終戦間近の8月14日に米軍最後とされる大空襲がありましたが、秋田市の中心に焼夷弾は投下されなかったようです。そうなると、前書きにもある頻繁に発生したらしい大火が原因なのでしょうか。それにしては無さ過ぎるよなあ・・・。



近くにある勝平神社、何か遊廓との繋がりを・・・無駄足に終わりました。



常磐町と呼ばれた旧南鉄砲町こと旭北栄町・・・町内を東西に貫く通り、これが嘗てのメインストリートだったのでしょうか。左手の空き地、『赤線跡を歩く 完結編』にはいわくあり気な旅館が写っていたのですが、草むらの中に焼け焦げた残骸が・・・。



その先には入母屋破風がある旅館森山さん、当初は此処をベースキャンプにしようかと思っていたわけ。でも、駅から此処まで結構距離があるんですよね。重いキャリーバッグを転がしていくのが面倒で、結局駅前のホテルにしちゃったのですが・・・。ん?なんか様子が変だぞ。



なんと、解体工事が始まっているではありませんか。これじゃ泊れませんよね。もしかすると転業旅館だったのかもしれないのに・・・。これまた『赤線跡を歩く』に載っている、向かいのしもた屋風の建物も消え失せ駐車場に変わっておりました。



森山旅館さん裏の細い路地で見つけたこんな窓。赤線時代のものかも・・・と思ったのですが、地図を見ますと床屋さんだったみたい。以上、県庁所在地の遊廓跡としてはかなり淋しい結果に終わった常磐町でした。



花街跡に向かう途中で見つけたもうやっていないと思われるアダルトショップ。このイラストの作者誰だっけ・・・。



山王大通り沿いで数奇屋造りの美しい塀に出会いました。料亭志田屋さんです。



明治9年(1876)創業、以前は別の場所にあったようです。嘗てはこれから向かう花街跡の芸者さん達も出入りしていました。竿燈まつりの際は、二階の建具を取外し即席の特等席でご覧になれるそうですぞ。



山王大通りを右折、赤れんが通りに入りました。通りの名の由来と思われるのがコチラ。秋田市立赤れんが郷土館こと旧秋田銀行本店です。



明治45年(1912)に建てられた国の重文です。銅板葺きの寄棟屋根、隅から立ち上がるルネッサンス風の塔が特徴的。一階は白の磁器質タイル、二階が赤煉瓦、コントラストが美しい近代建築なのですが、正面の並木が物凄く邪魔(笑)



見所は何と言っても嘗ての出納室。バルコニー状の回廊が取り囲む吹抜空間、天井の石膏による装飾が素晴しいなあ。



カウンターはオニックス?腰は蛇紋岩ですね。高価な石がふんだんに使われております。



首が痛くなるまで見上げておりました。



出納室には暖炉までも!?それしても見事な修復の腕です。職人さんに感謝。



こちらは頭取室、腰板や天井板、内部の建具は総ケヤキ造り、重厚な空間です。



石膏の装飾があるゲートを潜って二階へ・・・。



階段の天井のデザイン、大変宜しいと思います。



手摺のディテールです。階段の踏み面、蹴込み共大理石が使われています。豪華にすりゃいいってものではありませんが、こういった建物にはお似合いですよね。



二階の貴賓室、こちらにも暖炉があります。



最後に出納室を上から見下ろします。この建物、一見の価値有りだと思いますぞ。古い町並みもそうですが、秋田市はこういった近代建築もあまり残っていないのです。何でだろう・・・。

前半はここまで。遊廓跡は残念でした。後半では川反(かわばた)と呼ばれた文字通り川沿いの花街跡を訪ねます。

秋田県 秋田市201308その2

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どん詰まりの飲み屋横丁で出会いました。


 秋田市内を北から南に貫流し、秋田運河を介して雄物川に注いでいるのが旭川。嘗ては久保田城西側の外堀の役目も兼ねていました。『秋田県遊里史』によりますと、旭川右岸沿いに花街が形成されたのは明治19年(1886)に発生した俵屋火事の後になります。その1の前書きにある下米二丁目にあった遊里も焼け野原になった大火のことです。これによって遊廓は旧南鉄砲町、花街は川端(川反)三、四丁目に移転することになります。それまでは娼妓、芸妓が混在した遊里だったわけですね。当時の川端は人家もまばらな寂しい所だったそうです。そんな場所に料理屋や芸妓置屋が建ち並び、一大花柳界が形成されます。明治44年(1911)時点で芸妓屋17軒、芸妓一種48名、芸妓二種20名という記録が残っています。芸妓二種というのはたぶん舞妓さんのことではないでしょうか。

 大正末期から昭和初期にかけてが川反の最盛期だったのではないでしょうか。芸妓数が200名に達したといいます。しかし、その後に戦争に突入するわけでして、花街は次第に寂れていくことになります。防火上支障になるとして、旭川沿いの柳並木も切り倒されてしまったそうです。戦後、世の中が落着いてくると川反も復活を果たしますが、おそらく日本国中に存在した花街と同様にゆっくりと衰退していったのだと思います。『秋田県遊里史』にそのあたりことは書かれていませんでした。調べたかぎりでは、すでに現役の芸者さんもいらっしゃらないようですし・・・と書こうと思ったら、こんなニュースを見つけてしまったのです。一週間ほど前の記事です。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news/20140214-OYT8T01308.htm
 秋田「芸妓」復活を かつて秋田市の繁華街の夜を彩った芸妓(げいぎ)を復活させようと、秋田商工会議所のメンバーら観光関係者が、芸妓をプロデュースする新会社設立へ向けて動いている。近く発案者の元企画会社社員成田千夏さん(25)を含めて会合を持ち、参加企業・団体の出資比率などを調整する。早ければ今秋の「第29回国民文化祭・あきた2014」でのお披露目を目指している。芸妓復活の動きは、地元での起業を目指していた成田さんが、かつての芸妓文化を知ったことがきっかけだった。成田さんは新たに「秋田舞妓(まいこ)」の名称を考案し、観光関係者を中心に芸妓復活への協力を呼びかけたところ、「観光の起爆剤」としての期待から、商工会議所は昨年12月、検討委員会を設置し、成田さんの企画に乗った。成田さんによると、設立する会社では、社員として雇った女性に日本舞踊、茶道、書道の稽古を積ませる構想だという。県外からの観光客を視野に、芸事だけでなく、秋田のご当地検定講習といった地元の知識も習得させる予定だ。秋田の花柳文化に詳しい黒川一男氏の著書「川反いまむかし―紅燈柳影抄」などによると、秋田の芸妓は明治時代には既に存在していた。土崎地区の高級料亭「池鯉(ちり)亭」(1974年廃業)などで妍(けん)を競っていたという。また現在も北東北地方一の繁華街として知られる川反地区では、大正から戦前期には置屋だけで40〜50軒に上るほどのにぎわいを見せ、芸妓数は150人前後だったとみられる。戦中期、料亭が軒並み取り壊しの憂き目にあいながらも再起。1955年を過ぎた頃、戦後の最盛期を迎えたというが、高度経済成長に伴い、宴会形式が洋風に変化し、さらに後継者不足も相まって芸妓文化は衰退した。92年の芸妓数は10人まで激減し、10年ほど前には現役の芸妓は一人もいなくなったとされている。衰退した地方の芸妓文化を守るため、社員として芸妓を雇う会社組織は全国的には先例が見られる。1987年、新潟の「古町芸妓」の育成・派遣をする全国初の株式会社「柳都(りゅうと)振興」(新潟市、中野進社長)、96年には「山形芸妓(やまがた舞子)」の文化を継承する「山形伝統芸能振興株式会社」(山形市、平井康博社長)が設立されている。「秋田美人」の名称は、川反の芸妓の人気投票に由来するとの説もあり、成田さんは「秋田美人を超える美人はいない。『これが秋田美人だ』という舞妓を育てて産業化し、秋田を元気にしたい」と抱負を語っている。

 上記のURLの記事ですが、既に読めなくなってる・・・読売さん、消すの早すぎるでしょう。保存しておいてよかった。やはり花街は10年ほど前に消え失せていたようです。花柳界の復活・・・これも町おこしの一種なのでしょう。例として新潟市と山形市が挙げられていましたが、長野県の諏訪市でも同じようなことしていますよね。レポの前に言ってしまうのも何なのですが、嘗ての花街の今・・・見事なまでに寂れた歓楽街ですから。県庁所在地のものとしてはちょっと寂しい印象でしたので・・・。この企画、うまくいくといいですね。最後に往時の様子を記しておきます。上から『全国花街めぐり』『よるの女性街 全国案内版』になります。

 『秋田の花街は即ち「川端」其の名声は遠く三都に迄も響いてゐる。市内川端三丁目から同五丁目に至る間、旭川の岸に芸妓屋、料亭等軒を並へた一廓がそれ・・・現在芸妓屋 四十二軒。芸妓 大小併せて百九十四人。料理屋約三十軒・・・主なる料理店 土手長町の秋田倶楽部を第一として、川端五丁目の大和、同四丁目の壽、稲本、富貴亭、中野亭、あさひ亭、田中町の松華亭、志田亭など・・・秋田美人の特色と川端情調 新潟から庄内平野、由利の海岸を経て秋田に至り、更に津軽地方に通ずる一大美人系がある。所謂日本美人系なるもので、その間多少厚薄あるを免れ難しとするも兎に角此の地帯一円は美人に富む、就中新潟と秋田が光つて見える・・・色白で皮膚は滑らかで、頭髪が美くしい、此の辺までは略同一であるが、新潟美人の如く唇は厚くない、そして口辺にこぼるるばかりの愛嬌を湛へてゐる・・・が、悪く言へば口元の締りが足りないので、顔面全体を弛緩させて見える惧れがないでもない。性質は至つてしとやかで、東京風のお侠な面白い芸妓は稀といふよりか殆んど発見し得ないが、座持はなかなか上手で、新潟芸妓に比べれば多少情熱的な所がある。且つ所謂「面食ひ」で、男振りに依つて客を気嫌ひするの風があるらしい。一旦惚れ込めば情合は甚だ濃厚なのである』

 『大都市のくせに道路行政も悪く、色里情緒は全然ない。〈芸妓〉川反三丁目から五丁目に至る旭川の岸に軒を並べた料亭、芸妓屋、戦前は置屋四二軒、芸妓一四九名の世帯で大黒屋の玉蝶、露香、力弥などの名妓を出したが目下は四〇ほどに縮少された。売れつ子は市子、初代、すみ子など』



花街跡は前回の赤れんが館から目と鼻の先にあります。



このすずらん通りを抜けた先がそれだと思うのですが・・・まあ、昨晩もこの界隈をフラフラしていたのですけどね。



すずらん通りを抜けると旭川と並行している川反通りに出ます。おそらくこの通り沿いが花街の中心だったと思われます。すぐに趣のある塀が現われます。



大正7年(1918)創業の老舗料亭濱乃家さんです。庭木が元気すぎて、建物が新しいんだか古いんだか、よく分からない・・・。



その先に花街時代の遺構と思われる三階建てが残っています。現在は中華料理店、このミスマッチ感が面白い。この並びの裏を旭川が流れています。後で気付いたのですが、旭川のこと一枚も写真に収めていなかった。



和服に割烹着っていいですよねえ。この絵は微妙ですけど・・・。



長屋形式の飲み屋さんが二軒、路地を挟んで向き合っておりました。冒頭画像の場所になります。



名前をかっぱ小路といいます。どん詰まりで行き止まりみたい、残念、この飲み屋横丁『ぬけられません』。



この子、なつさんところの飼い猫みたいです。



お次は不思議な名前のみきょう小路。嘗ては左側にも飲み屋さんがギッシリ並んでいたのだと思います。



これはいい草臥れっぷりですね。



ここにもどん詰まりがありましたよ。



行き止まりの様子、『灯』の看板がお気に入りです。



近くのソシアルビルが凄い・・・何だコレ!?



脇道はこんな状態・・・花街の名残みたいなものは全くといっていいほど残っていないのです。まあ、これはこれで素晴しいとは思いますけど・・・。



名残は残っていませんが・・・並行する赤れんが通りにはこんな大門があります。左手の秋田銀行秋田支店、それなりに歴史がありそうな建物なのですが、調べてみても詳細が分かりませんでした。



大門の脇には風俗店の無料案内所。こんな感じの界隈ですが、夜でも比較的落着いた感じでしたよ。とても県内随一の歓楽街とは思えませんでした。落着いている=寂れているということなのかもしれません。



川反通りに戻って南へ・・・横町通りを渡ると大人のお風呂屋さん街、7、8軒ほどのお店が集まっているようです。昨晩も同じ呼び込みのお爺ちゃんに声掛けられたのですが・・・本人は覚えていなかったみたい(笑)その先、今度はラブホが数軒・・・それを抜けるとこんな立派な蔵が現れます。この町並みの変化はある意味劇的だったりするわけ。蔵は新政酒造さんのもの、さきほどの大門に銘柄がありましたね。嘉永5年(1852)創業という老舗酒蔵です。



その先で橋を渡って旭川の左岸へ、有楽町通りを駅方面に戻ります。途中、こんなものを見つけました。秋田パンテオン、いつ頃廃業されたのかは分かりませんが、最盛期この界隈には10館以上もの映画館があったそうです。



近くにこんなお店があります。奥はこれまたどん詰まりの路地になっているみたい。



床屋さんみたいな木製の突き出し窓が連続しています。これがいい。突当りは旭川です。



旭川の向こうは花街跡ですからね。こういう場所が残っていても不思議ではありませんよね。



脇道で見つけたお店が滅茶苦茶カッコイイ。



雁行する出窓にバタフライ屋根、秋田市ってそれなりに雪降るのですよね???こんな屋根にしちゃって大丈夫なのかなあ。



ここで完全に電池切れ・・・もう歩きたくない。まあ、ほとんど収穫はありませんでしたし、何よりも暑さに完敗です。まだ帰りの新幹線までかなり時間がありますが、後はお茶したり、千秋公園の向かいにある県立美術館に寄ったりして時間を潰したいと思います。

秋田駅のコンコースで帰りの新幹線を待ちながら、ぼんやりしていますと、行き交う人々の中に浴衣姿の女性が結構混じっているのに気付きました。ちょうどこの日は、有名な大曲の花火大会開催日だったというわけです。帰りのスーパーこまちの車窓からも観ることができたのですが、夏の終わりを告げるそれを見上げながら、明日から戻ってくる日常のことを考えると・・・複雑なんだよなあ・・・。

以上をもちまして、長々とお送りしてきた東北遊里跡巡礼の旅はオシマイ、お付き合いありがとうございました。収穫ウンヌンよりも、異常とも思える残暑に終始苦しめられた探索になってしまいましたね。東北がこんな状態とすると・・・残りは北海道しかないじゃん・・・。

東京都 八王子市201304(再訪編)

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私も好きです中央線・消え失せた緑の怪物・未舗装路地のサイケなダイヤ

新緑の季節ということもあって蔦がとても綺麗だったのですがね・・・。


 4年ぶりの八王子です。当初このレポは後回しといいますか、まあ気が向いたときにでもと思っていたのです。今回再訪した理由もたまたま野暮用ついでといった感じでしたし・・・。しかし今年の1月、この町にある変化が起きたということで緊急レポを掲載いたします。八王子は甲州街道の宿場町、機業地として栄えた町。現役の花柳界が存在し、都内唯一とされる遊廓時代の遺構が残る町でもあります。手抜きで申し訳ないのですが、そのあたりについては前回のレポをご覧頂けたら幸いです。以下は前回載せられなかった『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。

 『八王子町田町遊廓 東京府八王子市田町にあつて、八王子駅西北八丁位の地点にあつて自動車なら五十銭電車なら高尾行市電で郵便局前に下車、西へ約四丁位ある賃六銭。明治初年には甲州街道にある宿場であつて、飯盛女が娼妓の様な役を演じて居つたのであるが、明治卅年頃八王子の大火に見舞はれ見る影もない姿になつた。それ以後八王子の発展が止まつたと言はれて居る。此大災の後に現在の土地に集つて遊廓を成した物である。現在貸座敷十四軒、娼妓約百人居つて居稼制で、写真又は陰店を張つて居る。娼妓は東北人が相当居る様であるが、戸籍面では東京人が大部分である様だ・・・附近には八幡神社、高尾山、城山城址、多摩御陵があり東京近郊の最適当のピクニツクの場所である・・・』

註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



駅前ビルの隙間が『ぬけられます』状態になっていました。此処を抜けますと・・・



・・・旭町と三崎町。かなりの規模の歓楽街がひろがっています。看板には『るんるん横丁』・・・そういった雰囲気ではないのですがね。



適当にフラフラしていたら都道160号線(野猿街道)に出てしまった。目的地はこっちではないのですが、まあ急ぐ探索ではありませんので。JRの線路を跨ぐ陸橋からの光景です。



ちょっと戻ったところで見つけたエリザベスさんがいい佇まい。



安っぽいタイルアーチと鉢植えの競演、壁のガス燈風の照明がこれまたいい。



中町の西側と南町の東側が嘗ての花街・・・というか、現役なんですけどね。此処の手前で和服姿の女性を見かけました。見番の方に向かっていましたので、たぶん芸者さんだと思います。かなりのベテランでしたが・・・。



外壁がいい感じに草臥れているのは花の家さん。たぶん待合だったのではないでしょうか。手前の右、ミカドとあるソシアルビルのこっち側、現在は駐車場ですが、嘗て此処には藤の湯というお風呂屋さんがありました。



分かりにくいと思いますが、突当りに屋号が描かれた雪洞型の照明があります。現役なのでしょうか。



向かいには前回も紹介した待合松ヶ枝さん。高い黒板塀のせいで中の様子は窺えません。



近くにあるのが八王子三業組合事務所、所謂見番です。黒板塀に妙なポスターが・・・。



『中央線が好きだ。』よく分かりませんが、私も好きですよ〜。手前の三味線を手にした方は、芸者置屋ゆき乃恵の女将であり現役芸者の恵姐さんです。八王子花柳界の中心人物です。



その先にも黒板塀があります。お食事処のすゞ香さん、恵姐さんのお店です。ポスターの撮影場所は此処ですね。



この一画、『八王子花街・黒塀通り』と名付けられていまして、東京都の江戸東京・まちなみ情緒回生事業で整備されています。



八王子芸者は現在18名ほどが活躍されているそうです。新規も随時受付されているそうですぞ。



こちらがゆき乃恵さん。この路地を抜けると、目抜き通りのユーロードです。



ゆき乃恵さんの玄関廻り、たぶん元々は待合か料亭だったのだと思います。



それでは現役花街を抜けて遊廓跡に向かいましょう。



ユーロードと甲州街道を渡ります。前方の提灯がいっぱい下がっているのが『全国遊廓案内』にも出てくる八幡神社、その前の通りをひたすら北へ・・・。



旅館八百福さんが見えてきたらそこが田町遊廓跡です。



八百福さん、すでに現役ではないようです。遊廓との関係は不明なのですが、こんな扇形の窓があったり・・・。



格子戸の奥には妙な造形の欄間があったりするわけ。どういった関係だったのでしょう。



どう見ても不自然と思える広い通りが東西に続いています。往時の区画がはっきりと確認できるわけです。都内では貴重なものだと思いますよ。そのメインストリート沿いに遊廓時代の遺構が残っています。コチラは前回と変わらず。



素っ気無い造りですが、軒燈だけが往時を物語っています。ポリカの波板の向こう、手摺に何か造作が残っているようにも見えるのですが、此処からでは判断できませんでした。



もう一軒。コチラも軒燈が残っていますね。雨戸の向こう側が物凄く気になるわけです。



板塀には屋号と思われる透かし彫りがあるのですが・・・読めない。



裏手の様子・・・コチラも素っ気無い造りですよね。直された結果こうなったのか、往時はもっと派手な意匠が炸裂していたのか・・・。



問題はコチラ、冒頭画像の物件です。妓楼ではなく旅館だったらしいのですが、間違いなく遊廓時代からの生き残りのはずなのです。お化け屋敷然とした佇まいですが、それに拍車をかけているのが庭木のモミ?こっちのほうがお化けっぽいかも。



4月ですのでまだこんな状態ですが、もう少しするとモジャハウスどころかグリーンモンスターになっちゃうそうです。あ、蔦のことね。



お化け屋敷と言ってしまいましたが、どうも廃屋ではないみたいなのです。庭が綺麗ですし、前回の際は下屋の屋根に梯子が立てられていました。定期的に手入れがされているようです。で、問題はここから・・・コチラ、先日(1/17)に火事で焼けちゃったのです。コメントしていただいた方の情報で知ったのですが・・・結局、妓楼だったのか旅館だったのか、こういったものって正体不明のまま消え失せる運命なのかもしれませんね。関連ニュースを探してみましたが見つかりませんでした。

便利な時代になったと言ってしまっていいものかあれなのですが、最後の様子がYou TubeにUPされていました。かなりショッキングな動画かも・・・閲覧注意です。
http://www.youtube.com/watch?v=0fECklMSkDw
http://www.youtube.com/watch?v=wUEKhXtcaoQ



駅に戻る途中、こんなお店を見つけました。八王子芸者御用達ですかね。



お次はレトロな写真館、現役です。



地元の名店、とんかつ鈴本さんで昼食、美味しかったです。



近くのイタリアン、古いお店をリフォームして使っているようですが、ピンク玉石タイルって珍しいのではないでしょうか。



その先、甲州街道に抜ける未舗装の路地は以前のまま。



サイケなダイヤ型の窓も変わっておりませんでした。

以上で八王子(再訪編)緊急レポはオシマイ。要因は様々ですが、遊里跡というものはゆっくりとそして確実に消え失せる運命みたいです。まだまだ寒い日が続きます。くれぐれも火の元用心しましょう。

長野県 埴科郡坂城町201311

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飯盛女由来の遊廓跡・£遊びは止めましょう・千曲川を跨ぐコンクリートアーチ

ほんの僅かですが宿場の面影、感じることができました。


 今回からお届けするのは久しぶりの信州長野シリーズ。最近のマイブームである『知られざる遊里』を発見か!?なんてものも織り交ぜながらレポしていきたいと思います。まずは長野県のほぼ中央部に位置する坂城町から・・・有力豪族である村上氏発祥の地であり、旧北国街道の宿場として栄えた町でした。当時は坂城ではなく坂木宿と呼ばれていました。この地に宿場が置かれたのは慶長8年(1603)のこと、旧北国街道では最も古く、そして随一の規模を誇った宿場でした。最盛期には100軒を越す旅籠が並んでいたそうです。

 旅籠とくれば飯盛女・・・万治3年(1660)に新町と大門町、その後宝永年間(1704〜1710)に立町と横町にも飯盛女を置くことが許されます。これは権堂村(長野市)と並ぶ早さだったそうで、それだけこの宿場が重要だったという証拠なのかもしれません。これが後の遊廓の由来になったというのは言うまでもありません。しかし、明治に入り宿場が使命を終え、続いて信越線が開通すると町は一気に寂れていくことになります。現在は町というよりも山あいの静かな集落といった印象・・・隆盛を誇った宿場の面影も何処という感じみたい。まあ、それでも僅かながら残ってはいるようですので、それらを探しながらフラフラ彷徨ってみましょうか。以下は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。

 『坂城町遊廓 長野県埴科郡坂城町字坂城新地に在つて、信越線坂城駅から半丁と距つて居ない。坂城は千曲川の沿岸に在つて「岩鼻や茲処にも月の友一人」と芭蕉が詠じた処があつて、殊に「横吹」の勝地や、笄の渡場附近が風光優美である。昔は御天領の地で、宿場女郎の時代には、娼家が六十戸もあつて、素晴らしい発展振りだつたが、明治十二年に現在の個所に移転を命ぜられ、集娼制に成つてからは急に淋れて、現在は貸座敷が七軒あつて、娼妓は五十人居る。娼妓は全部居ぎ制で送り込みはやらない・・・内芸妓が居て、頻りと土地の民謡を宣伝して居る。殊に芝居踊りが評判だ。安価で、純で、のんびりした処である。坂城音頭「坂城ヨイトコ信州一よ、雲の降るのに花が咲く」ヨイヨイヨイヨイヨイトサア「坂城ヨイトコ千曲の流れ、鮎の名物河鹿鳴く」ヨイヨイヨイヨイヨイトサア』



初めて『週末パス』なるフリーパスを利用してみました。土日の二日間、¥8,500で普通列車が乗り放題ってやつなのですが、私のような途中駅でそれなりに滞在してしまう人間にとっては元を取るのが相当大変なんですよね。コレ、乗り鉄以外使いこなせないよなあなどと思いながら東京から五時間半、ようやく坂城駅に到着です。



まずは坂木宿のことを知るために駅前通り(県道339号線)を真っ直ぐ、この通り自体が旧北国街道になります。すぐに独特な長屋門が見えてきます。旧本陣の宮原家住宅、現在は坂木宿ふるさと歴史館という施設になっています。この門は江戸後期に建てられたものだそうです。



門を潜ると母屋があります。こちらは昭和4年(1929)に建てられました。



入母屋造り三階建ての立派なものです。



坂木宿のジオラマが展示されていました。青点線が旧北国街道、白点線がしなの鉄道、?現在地(本陣跡)、?坂城駅、?横町、?立町、?大門町、?新町、?坂城神社、?大英寺、?千曲川、?坂木陣屋跡になります。面白いのが旧北国街道の線形、なんでこんなに曲り角があるのでしょうね。そんなことより重要なのは遊廓のこと、前書きの『全国遊廓案内』に旅籠の飯盛女が明治になって一廓に集められたとあります。その場所とは横町の陣屋跡附近、?の処なのです。駅の真ん前なんだ・・・これだけ交通の便の良い遊里も珍しいのではないでしょうか。とりあえずそこに行ってみましょう。



来た道を戻って駅前へ、横町はこんな感じ。もちろんこの通り(県道160号線)も旧北国街道になります。



旧街道は横町通りとも呼ばれ当時の目抜き通りだったはず、そういった場所に面して貸座敷が並んでいたとは思えない・・・となると、此処しかない。地図を見ますと、旧街道としなの鉄道に挟まれた一画、駅前広場面して陣屋があったようですが、そこから妙な通りが延びているのです。この路地を抜けた先がそれなのですが・・・。



通りに出る前にこんな手摺が現れた。軒もそうなのですが、かなり出が大きい。バルコニー並みですな。



その全景、なんとも判断しずらい建物です。明らかなのは、遊廓があった頃には存在していたであろうということだけ。



結局、通りにこれこそと断定できるようなものは発見できませんでした。



妙な通りと言った理由はコレ。突当りがこんな状態、丁字路になっていて両側に分岐しているのは細い路地、広い幅員は此処でバッサリ終わっているのです。メインストリートだったのかも・・・。



突き当りには歴史がありそうな石垣の上にお城の狭間みたいな孔がポツリポツリ。コレ、塀ではなくて、どうやら蔵みたい。



そのまま片方の路地を辿っていくとこんな光景が現れます。写っている土蔵は横町通りに面した商家のものです。



横町通りに戻ってきました。宿場時代を忍ばせるのはこの土蔵ぐらいでしょうか。



念のため横町通りの北側も探索してみましたが収穫はありませんでした。まあ、これはこれで好きなんですけどね。



横町通りの終点にある西宮神社、向かいのたぶん宿場時代からのものと思われる商家?が凄い。元々は茅葺屋根だったと思われます。



旧本陣宮原家住宅前の通りに戻って今度は山の方(北)へ・・・ようやく元宿場に相応しい町並みが現れ始めましたよ。



鏝絵のとおりコチラは坂田家住宅、嘗ては名主を務めていたそうです。越し屋根と棟瓦が美しいですね。



向かいにはきっちりとリフォームされたお宅、大切にされているようです。三階建てに見えますが、此処は長野県、おそらく最上階はお蚕さんの部屋だと思われます。卯建もお見逃しないように。



日名沢川を渡ると大門町、山に向かう緩やかな登り坂が続いています。宿場の面影がいちばん残っている場所ではないでしょうか。



元旅籠が混じっているのかは分かりませんが、もしかするとどれかで飯盛女が・・・そう考えると感慨深いものがありますなあ。



それにしても手前のお宅、円窓がデカイ(笑)



卯建、門、板塀、瓦・・・織り成す構成美です。



連続する格子戸が壮観なのは山浦家住宅、これに唐破風でもあったらまさに妓楼そのものですな。コチラにもお蚕さんの部屋があるようです。奥の赤い屋根は元茅葺屋根だと思われます。



その先で旧北国街道は左折、新町に入ります。此処で暫し旧街道とはお別れ、真っ直ぐ山に向かいます。



通りをこんな鳥居が跨いでいます。突当りにある坂城神社の参道でもあるのです。



坂城神社・・・創建は定かではないようですが、白鳳2年(673)に本殿が奉納されたと伝えられています。現在の拝殿は武田信玄が寄進したものだとか。境内にはなぜか相撲の土俵が・・・。



坂城神社の脇にはこんな崩れ掛けの門が残っています。奥にある大英寺のものなのですが・・・。



なぞの注意書きが・・・『シンナーポンド遊びはやめましょう』新しいFXか外国為替か、はたまた今話題のビットコインか・・・まあ、FXもビットコインも書いている本人は全く分からないのですがね。いずれにしろポンド遊びはいけません。



大英寺・・・下調べの段階で地図を眺めていますと、池の向こうにお寺があることに気付きました。面白い光景が見られるんじゃないかとノコノコやって来たのですが・・・想像とはかなりかけ離れていた・・・うまくいかないものですね。



本堂は最近になって建て替えたみたい。嘗てのものと思われる鯱・・・というよりもお寺ですので鴟尾と言ったほうが正しいかな・・・が飾られておりました。『ポンド遊び』のところに戻って引き返そうと思っていると、坂城神社裏手の山道を下ってきた山ガールと呼ぶにはかなり失礼かと思われるお姉様二人組(笑)に声を掛けられました。この先に見晴らしの良い場所があるとのこと。それではせっかくなので・・・。



これがとんでもない急坂・・・ヒイヒイ言いながら登りきった先の光景。ちょっと煙っていましたが、坂城町を一面に見渡すことができました。紅葉は終わりを迎えていましたが、ケヤキの大木が見事でした。右端に大きく蛇行する水面が見えますが、あれが千曲川です。



その千曲川を跨いでいるコレがこれから向かう場所。息が整わないまま手持ちで300ミリ、これが限界です。



戻る途中、坂城神社脇の玉垣に、隣町の遊廓の名前が刻まれていることに気付きました。右には妓楼の屋号もありますね。上田市は二度訪れておりますが、未だに遊廓の場所がはっきりしていなんだよなあ。



旧北国街道に戻り、今度は新町に入りました。妙に広い幅員・・・最初に地図を見たとき此処が遊廓跡か!?と思いっきり勘違いしたのは内緒の話。



旧街道は駅方面に戻るように再び直角に左折、その先の四つ辻にコレが建っています。善光寺常夜灯、たぶん善光寺参りの旅人のための道標だったのでしょう。明りが点きっぱなしなんですけど・・・。此処で旧北国街道とはお別れ。



しなの鉄道を渡って千曲川を目指します。



山の紅葉は終わりかけでしたが、コチラは今が盛り。



坂城神社裏手の高台から見えたのがコレ、昭和橋といいます。昭和12年(1937)竣工、設計は長野県道路技師の中島武。全長500メートル、9つのアーチで千曲川を跨いでいます。鉄骨造によるこういった連続アーチ橋はよく見かけますが、鉄筋コンクリート造でこの規模はかなり珍しいと思います。平成14年に土木学会の選奨土木遺産に選定されています。



もちろん現役ですが、乗用車のすれ違いがやっという幅員です。鉄筋コンクリート造にしたのは、戦争による鋼材不足という時代背景があったようです。補修の跡が目立ちますが、荒々しいコンクリートの質感が堪りませんなあ。



最後に駅前の居酒屋で坂城町の郷土料理おしぼりうどんをいただきました。ねずみ大根という辛〜い大根をおろした絞り汁で食べるうどんです。付属される味噌で辛さを調整します。長野県には同じ方法で食べる蕎麦もありますよね。辛いの大の苦手でして、戦々恐々で口にしたのですが・・・あら意外、これ結構いけます。一口目は盛大に噎せましたけど・・・。

以上で旧北国街道最大の宿場町だった坂城の探索はオシマイ。次回は6年ぶりの小諸をつるべ落としの太陽と競争しながら彷徨います。文献に載っていない遊廓跡を訪れ歓喜、赤線跡かも!?という一画の惨状に絶句という忙しいものですが・・・。


長野県 小諸市201311(再訪編) その1

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巨匠の佳作・川っぺりのドライフラワーと廃屋・色街跡?謎の一画の惨状

古からそこに置かれていたように見えるのです。


 しなの鉄道で約30分、小諸に到着です。6年ぶりになりますか・・・前回は隣町の上田とセットだったのですが、レンズにトラブルが発生してしまい、サブの魚眼レンズを使うしかなくなってしまったのです。魚眼レンズってアクセントにはいいかもしれませんが、こういったものにフルで使うものではないとつくづく思い知らされました。冷たい雨にも降られて中途半端な探索になってしまい、いつかリベンジしたいと思っておりました。遊里の場所も分かりませんでしたしね。あ、当時はこういったものにはそこまで興味は無かったなあ・・・。

 小諸市は牧野氏が治めた城下町、旧北国街道の宿場町、周辺からの物資が集まる商業の町、といった感じで三つの顔を持つ町でした。小諸藩の藩都でもありましたからそれなりに栄えていたのだと思います。でも、遊里に関する記述などがほとんど見つからない不思議な町なのです。宿場でしたから、前回の坂城と同様に飯盛女も間違いなく置いていたはずなのですがね。ちなみに手前の旧中山道から分岐する追分宿には飯盛女の証文などが残っているそうです。その飯盛女由来の遊里が形成されたはずだと睨んでいたのですが・・・。こういった所謂悪所って町にとっては黒歴史と考えられることもあるのではないか・・・町はそのことを意図的に隠しているのではないか・・・というのは勘ぐりすぎですね(笑)まあ、結論から言えば公許の遊里は存在しなかったということになるのだと思います。これはマイブームの『知られざる遊里』ということになるのかと。存在していればの話ですぞ。ですので、いつもの『全国遊廓案内』や『全国花街めぐり』といった文献の抜粋はございません、あしからず。

註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



駅前広場脇に前回は無かった公園ができていましたが、コチラ健在。レトロなお店、レストランさかいさん。一階の土産物屋は現役ですが、二階のレストランはもうやっていないのです。此処入りたかったなあ。



このお店、松本英子著『謎のあの店』第一巻に『レストランむかい』の名で出てきます。



小諸駅のホーム脇に赤煉瓦の小屋が残っています。客室などのランプの灯油を保管していた油庫です。明治42年(1909)に建てられました。



地下道でしなの鉄道を潜ると小諸城址、現在は懐古園という公園として整備されています。入口を兼ねているのは小諸城三の門です。明和3年(1766)に建てられた国の重文です。



懐古園には入らず脇の通りを奥へ行くと、グネグネとうねるスタッコ仕上の外壁が見えてきます。小諸市立小山敬三美術館、昭和50年(1975)竣工、小山敬三は小諸出身の洋画家です。



設計は村野藤吾、巨匠と呼ばれている方ですのでご存知の方も多いかと。古代遺跡というか・・・岩船でしたっけ?山頂に謎の巨岩が!?みたいな・・・あれが最初に思い浮かびました。



今や設計はほぼ100%CADですが、私はギリギリ手書き世代。このフリーハンド的な曲線の苦労よく分かるわけです。気に入っているのが軽やかな屋根というか、建物全体を覆っているわけではないので笠木といったほうが正しいですね。ちょっと浮かした感じが大変宜しい。



個人的には京都宝ヶ池プリンスホテルと大阪なんば新歌舞伎座が傑作だと思っていますので、コチラはそこまでいっていないかな・・・佳作ということで。近代建築や名も無き看板建築には簡単に感動してしまう人間ですが、現代建築にはちょっと辛口なのです(笑)



敷地は小諸城址の一部になっているようでして、背後は崖に面しています。千曲川を望むことができました。



旧北国街道(県道40号線)に出ました。しなの鉄道の高架脇の高台に建つ謎の洋館、これ以上の詳細は分かりませんが、次に紹介する旧本陣と同じ敷地にあるのかもしれません。



コチラが国の重文、旧小諸宿本陣問屋。前回も紹介しましたね。江戸後期のものと伝えられています。妻入りの豪壮な造りですなあ。旧北国街道は加賀百万石の前田の殿様も参勤交代で通った街道、それらに対応できる本陣が必要だったわけです。



その先にあるのが粂屋・旧脇本陣、こちらも江戸後期のものみたいです。脇本陣ですので、大名の宿泊がない場合は一般の旅人も泊まれたはずです。中庭の奥には上客用の美しい造りの離れがあるそうです。見てみたいなあ。



桧皮葺の屋根付き看板、看板自体はありませんけどね。



小諸城址の大手門を忘れていた・・・前回のときは補修工事か何かで足場が組まれていて見られなかったのです。三の門と同じく国の重文、慶長17年(1612)に建てられました。この大手門と三の門との間をしなの鉄道が通っているわけ、結構珍しい状況なのではないでしょうか。



大手門を抜けたら駅前に戻ってしまった。背後がさきほどのレストランさかいさんです。右側の看板建築、変だと思いませんか???こちら側の壁が傾いているのです。二階のサッシ上端が段々になっているのお分かりになります???建物自体が傾いているわけではなく、最初からこの状態だったようなのですが・・・何だコレ。



向かいの登喜和食堂さんが素晴らしい佇まい。しかも現役!?



駅前のゴチャゴチャした一画に、前回足を踏み入れなかった通りがあることに気付きました。



地図にも載っていないこんな路地があったりして、これはめっけものだとホクホクしていたら、背後から声をかけられました。振り向くと渋い和服姿のお母さん、私が邪魔だったみたい・・・。



お母さんに遊廓のことを教えていただきました。お母さんは遊廓ではなく芸者さんがいた、料理屋なんかもあったと仰っていましたが、ちょっとあやふやな部分も・・・場所は成就寺の門前とのこと・・・これが『知られざる遊里』なのでしょうか。とにかく行ってみましょう。



と、その前に・・・。



前回偶然見つけた国道141号線沿いにあるどん詰まりの飲み屋街に寄っていきましょう。手前の一見カフェー風のパーマ屋さんは健在。



この窓には気付かなかった。



店子は変わっているようですが、雰囲気は以前のままでした。



何処で撮ったのか全く覚えていない一枚、たぶん旧北国街道に戻る途中だと思います。



旧北国街道に戻ってきました。本町二丁目と三丁目、この界隈がいちばん古い町並みが残っていると思います。とはいえ、ジックリ巡っている時間がないのが残念。萬屋骨董店さん・・・元々は小諸銀行だった建物を使っています。明治十年代後半に建てられたものだそうで、国の登録文化財です。



向かいは結城屋大塚味噌醤油店、奥の平入りの母屋は江戸後期、手前の袖蔵は明治に建てられたものだそうです。



その先にある見世蔵風のギャラリーつたやさん、元々は旅籠時代から300年続いた旅館だったそうです。遊廓があったらしい成就寺へは左に入ります。



つたやさん裏手に続く土蔵、この土蔵なりに行くと成就寺なのですが、この通りの名前が大門小路、そして左に行くのが祇園坂・・・いろいろと想像が膨らむ名前ではありませんか。



しかし、大門小路沿いにはコレといったものは発見できず・・・奥に小さく見えるのが成就寺の山門です。



一瞬、遊里アンテナが反応を示したのですが・・・違ったみたい。



強いていえばコチラの袖卯建のある土蔵風のお宅・・・いや、これも違うような気がする。



そうこう迷っているうちに成就寺の門前に着いちゃった。ふと視線を動かすと気になる物件が・・・トタンサイディングで直されていますが、かなり歴史がありそう。



なんと、破風の部分が『ぬけられます』状態。これは面白い。



そのままグルリと回り込んでL字型のプランになっているようですね。



庇にはこんな雲形の持ち送りも残っていました。だからといって遺構だとは断定できないわけ・・・難しいなあ。



通りを挟んだ隣にもこんな物件が・・・もしかしてって場所に来るとみんなソレに見えちゃう、困ったものですね。結局、そうだったのか違うのか・・・正直言って遊里跡特有の空気みたいなものはあまり感じられませんでした。

その1はここまで、ちなみに祇園坂とありましたが、あれは坂の先の建速神社で行なわれる祇園祭からきているみたいです。なんだか中途半端な結果になっちゃいましたが、小諸にはもう一ヶ所興味深い場所があるのです。再訪したのも実はそこが目的だったりするわけです。でも、急がないと日が暮れそう。続きはその2にて・・・。

長野県 小諸市201311(再訪編) その2

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一応残ってはいたのですがね・・・。


 この前書きに書くことが全く思いつかない・・・これは困った。何かしら遊里関係の資料でもあればそれでお茶を濁すこともできるのですが、この町に関してはそれは不可能なわけ。とりあえず町の印象でも記しておきましょうか。紅葉は散り始めていたのですが、小諸城址である懐古園は観光客で賑わっていました。しかし、駅の反対側、旧北国街道に出るとそれが一変します。観光客どころか人影さえもまばら、車の通行量はかなりのものなのですが、単に通過するだけの町と化しているわけです。本陣と脇本陣が残っている宿場ってかなり貴重ですし、往時の町並みだってそれなりに残っている・・・そして、そこから一本脇道に入ってみると結構面白い光景が見られる町。地方都市ではよくみられるパターンだと思うのですが、役所などももっとこっち推ししてもいいのではないか・・・というのはあくまでも建前。まあ、今のままでいてくれると私のような人間は嬉しいと思うわけです。小諸にお越しの際は懐古園だけでなく駅の反対側もブラブラされることオススメ致しますぞ。

註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



遊廓跡?を後にして、旧北国街道に戻ろうしたところで近くに前回も訪れた川が流れていることを思い出しました。それが中沢川、嘗てはかなりの暴れ川だったと書こうと思ったら・・・。



何だコレ!?川っぺりが凄い状態。どうやら廃屋のようですが、よくまあこんなところに建てたものです。でも、こういう場所に住むの憧れちゃうんだよなあ。



対岸の空き地?カスミ草のドライフラワーみたいなポワポワした謎の植物に一面覆われているのです。



そのポワポワ越しの光景。何棟かに分かれていると思ったのですが、全部繋がっているようですね。川面に跳ね出した木製バルコニーがいいなあ。



橋を渡るとタバコの販売カウンター。足元には面白い形状のモザイクタイル。この販売カウンター、古い商店でよく見られますが、全体の形状は似たようなのが多いですよね。由来みたいなものってあるのでしょうか。



同じお宅の通りに面した部分、かなり複雑な造りになっているみたい。木製扉がいい味出しています。



そのまま流れに沿って行きますとこんな東屋が現れます。洗い場でしょうか、どうやら崖側から湧水が出ていたみたい。枯れてしまったのか、もう使われていないようです。



旧北国街道に戻ってきました。いかん、急がないと本当に日が暮れそう・・・。望楼が乗っているのは柳茂商店さん、明治20年(1887)頃のものとされているのですが、その頃に看板建築ってあったっけ???どうやら通りの拡幅で建物の前面が削られた結果、今の姿になったそうです。



延宝2年(1674)創業の山吹味噌酢久商店さん、信州味噌って関東の人間にとってはいちばん馴染み深いものですよね。その1で紹介した小山敬三の生家でもあります。



荒町二丁目交差点に面しているのが前回も紹介した謎の建物。あ、右のやつね。



まあ、その際はカフェー建築だとか勝手なことほざいていたのですが、この度正体が判明致しました。有難いことに説明板が掛けられていたのですよ。



『昭和のはじめのカフェバーで、お店の名前は銀座会館(ミルクホール)といいました。第二次世界大戦前には、夜には近所の若い人たちが当時の流行の服を着て集まっては、蓄音機で音楽を聞いたり、タンゴなどのダンスを踊っていたそうです・・・第二次世界大戦の後は、アメリカ兵がきたりしていましたが、1950〜51年ごろ店を閉めたようです』あら、やっぱりカフェー建築ではありませんか。斜めハンドルは嘘つかないということですな(笑)



アーチ窓がお気に入りです。



カフェー建築より謎だったのが、菱形の装飾が特徴的なお隣のコチラ。蔵かオフィスか・・・コチラも正体判明したかも!?



脇に回り込んでみるとこんな窓が顔を覗かせていました。三方を閉じた壁に囲まれている住宅といった感じでしょうか。それにしてもこの菱形は強烈だなあ。



交差点に戻ってもう一方の洋館・・・明治初期に建てられたという山崎長兵衛商店さん。銀座会館同様、窓廻りのデザインが大変宜しいと思います。



更に旧街道を行きますと、美しい邸宅が見えてきます。小山家住宅、江戸初期400年以上前に建てられたもので、当時は庄屋だったそうです。東日本に現存する最も古い民家の一つとされています。しかも今も普通に住まわれているというのが凄いですね。ですので見学は不可能、外から眺めるだけにしましょう。



その先を左折、小諸ゆかりの俳人高浜虚子の旧宅があるのです。途中になぜか手押しポンプと火消し半纏・・・謎の展示だ。



これが虚子の旧宅、虚子庵です。質素な造りです。虚子は戦火から逃れるため小諸に疎開、昭和19年9月〜22年10月まで此処で過ごしたそうです。



再び旧街道に戻って、前回も辿った薬師小道へ・・・無くなっている・・・。細い路地沿いに土蔵が続くとても雰囲気のある場所だったのですが、駐車場に変わっておりました。



残っていたのは出口の一軒だけ・・・。



薬師小道を抜けると鶴巻、目的の場所がある一画です。町名を冠しているお風呂屋さん、鶴巻の湯さんです。確か前回の際は現役だったと記憶しているのですが、残念な状態で私の再訪を迎えてくれました。



残された見事な扁額だけが往時を物語っておりました。



鶴巻の湯さん周辺が、噂によりますと色街だったらしいのです。花街だったのか赤線だったのか、遊里の種類は不明ですが・・・。でも、その1で紹介した成就寺門前よりそういった匂いみたいなものは強いような気がするのです。



歯抜け状の更地を挟むような感じで飲み屋さんが集まっているのですが、そのほとんどは退役済み。唯一明りが灯っていたのがじょんがらさん、早くもカラオケ全開でした(笑)



向かいの大店は日本料理音羽さん、披露宴もできる料亭です。



更に奥へ・・・一気に寂れた雰囲気に・・・ほら、見えてきましたよ。



路地に沿って続く廃墟と化した飲み屋横丁、前回これに偶然出会ったときは思わず息を呑みましたよ。そのときと何一つ変わっていない・・・あ、手前にもう一軒あったのですが無くなっていましたね。



この草臥れたピンクが堪らんわけです。



此処で飲み屋横丁は鉤型に曲がり路地から離れてしまうのです。この素晴らしい佇まいのお店の入口廻りは土・・・雨になったら大変ですね、なんて呑気に言っている場合じゃない。扉上の青い照明には営業中の文字、どうして青なのでしょう。これが『知られざる遊里』=『青線』の証拠だったりして・・・あ、根拠はありませんので、あしからず。さきほどから妙なシルバーの物体が写り込んでいますが、引きの絵にすると状況がわかります。



冷蔵庫、シンク、コールドテーブルなどの業務用厨房機器。事務用机に灯油タンクなどなど。此処、以前は単なる空き地だったのですよ。半ばゴミ捨て場と化していたのです。これには違う意味で息を呑みましたわ。



ゴミ捨て場と言ってしまいましたが、どちらかというと破産物件などから売れそうなものを引き揚げてきたのだけれど、置く場所に困って放置プレイという感じに見えるのですが、如何でしょう。まさか・・・盗品ってことはないよなあ。



あ、此処にも手押しポンプ(笑)これなら高く売れそうな気がするのですが・・・。以上、謎の一画の惨状でした。



遂に日が暮れてしまいました。夕焼けは綺麗なのですが、西から台風並みの低気圧が接近中・・・雨だけは勘弁して。

以上で小諸の再訪編はオシマイ。遊里は存在したのか、結局分からず仕舞いで終わってしまいました。まあ、それでも別にいいのです。それ以外でも楽しめましたから。次回は岩村田、おそらく全国でもこれだけ良好な状態で残っているのは唯一と思われるあるものを探します。見つかるかどうか・・・それより天候が心配です。

長野県 佐久市岩村田201311

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全国唯一の遺構かも・懸造りのお稲荷さん・名無しの謎銭湯

トンネルを抜けるとそこは大門だった・・・実際は逆の状況なんですけどね。


 小諸でJR小海線に乗り換えて20分ほどで岩村田に到着、今日はこの町で一泊します。宿は正長元年(1428)創業というとんでもない老舗の佐久ホテルさん。老舗ではありますが、私が利用するのですからそこまで高級な宿ではありませんぞ(笑)建物も当時のものではありませんしね。佐久名物の鯉料理発祥のお店でして、鯉こくが旨かったですし、宿名物の甘茶、初体験でしたが不思議な味でした。そんな老舗が残っているということからも分かりますが、岩村田は旧中山道の宿場でした。本陣などは置かれなかったようですが、佐久甲州街道や日影新道などが分岐する交通の要衝でしたので、善光寺参りや商人の旅人で賑わったそうです。間違いなく旅籠には飯盛女が置かれていたのでしょう。それが後の遊廓の由来になったのだと思います。以下はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。

 『岩村田町遊廓 長野県岩村田町に在つて、佐久線岩村田駅で下車する。貸座敷は目下十軒あつて、娼妓は約五六十人居るが、新潟県の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎ制、送り込みはやらない。遊興は廻し花制で、通し花は取らない。費用は御定りが二円で、本部屋は三円五十銭位からである。此れで各台の物が付いて一泊出来る』

 相変わらず案内と銘打ちながら案内になっていない案内ですな・・・案内を連発してしまいましたが、これじゃ場所が分からないと思うでしょ?ご安心を、国土地理院『国土変遷アーカイブ』の戦後すぐ米軍が撮った航空写真を見ますと、町の東の外れを流れる湯川の畔、現在の花園町ですね。そこに陸上競技のトラックというか、縦長の五角形の不思議な区画を見つけることができるはずです。これが遊廓跡なのです。この時点で建物は残っていないようですが、周囲の並木と思われる物体は確認できます。場所が場所だけに戦前に廃止されちゃったのでしょうか。この航空写真、転載禁止ですので文章で説明させていただきました。気になる方はサイトの岩村田周辺を探ってみてください。

 問題はここから・・・なんだ建物は残っていないのかよ・・・とお嘆きの貴兄に朗報ですぞ。この遊廓跡、全国でも此処だけと思われる遺構が残っているのです。まあ、同じようなものは確認されているようですし、拙ブログでも幾つか紹介してきました。しかし、これだけ立派で、これだけ完全なものは知る限り此処だけのはず・・・だと思う。間違っていましたらご免なさい。近くには面白い造りのお稲荷さんもあるようですから、ついでにお参りしていきましょう。



おはようございます。外はまだこんな感じ、西から台風並みの低気圧が接近していまして、いつ降り出してもおかしくない雲行き。今日はスケジュールが詰まっております。どうも嫌な予感が・・・。



この通りが遊廓跡へと続く道。往時はこれ一本だけだったようですので、此処を様々な想いを抱いた男達が行き来していたわけ。そう考えると感慨深いものがありますな。



小高い丘が見えてきたら遊廓跡はすぐそこ。丘の中腹に赤い屋根が見えますが、あれが面白い造りのお稲荷さん、紹介は後ほど。



はい、こちらが全国唯一の遺構です。お分かりになります???そう、遊廓の入口を守っていた大門です。あまりにも普通に道端に建っていましたのでちょっと拍子抜け、しかも今やゴミの集積場所ですから(笑)見事に現代の風景に馴染んじゃってる・・・。まあ、それをぬきにしてもこれだけ完全なものって本当に貴重だと思いますよ。奥の通りは県道44号線、往時は存在しなかった道です。



面白いのが背面に刻まれた文字。こういうのって遊廓設置に尽力した人物の名前が刻まれるのが普通だと思うのですが・・・明治四十一年一月起工、明治四十一年八月落成、矢ヶ崎雲濤 設計、土工 小○伊八、鐵工 友野鵜三郎、石工 小嶋○二(○は判読できず)・・・なんと設計者と施工者が記されているのです。鐵工とありますから、往時は何かしら鉄製の装飾も付いていたのではないでしょうか。それにしても随分とのんびりした工期ですな(笑)



大門を抜けるとこんな建物があります。現在は公民館として使われているようですが、妙に気になっていたのです。佐久ホテルさんのブログを見ていましたら此処のことが書かれておりました。なんとコチラ、花柳病、所謂梅毒や淋病などに罹った娼妓を隔離していた病棟なんだそうです。これは驚きの事実だ・・・。これも遺構の一つかと、建物としての遺構も存在していましたね。



県道44号線のトンネルを潜った先が嘗ての遊廓跡、残念ながら現在は花園団地という公営住宅に変わっております。念のため一巡りしてみましたが、な〜んにも発見できませんでした。



佐久ホテルさんのブログに遊廓の成り立ちも記されてありました。この地に遊廓が置かれたのは明治22年(1889)のこと、前回の小諸で少し触れた追分宿が鉄道開通で寂れ、そこの娼妓たちが移ってきて形成されたものなんだそうです。たぶん岩村田の飯盛女を由来とする女性も強制的にこの地に集められたのではないでしょうか。遊廓が存在していたのは昭和15年(1940)までだったそうで、これで航空写真の状況が納得。ちなみに大門に刻まれていた矢ヶ崎さん、この方は遊廓の業者の代表者だったみたいです。



遊廓跡の脇を流れる湯川、向こう岸の丘に奇妙な赤い屋根がへばりつくようにして続いています。鼻顔稲荷神社です。『はなづら』と読みます。



跳ね出した木組みの上に建物が乗る所謂懸造りです。清水寺と同じですね。気になるのが手前の『こいとかもの家』・・・鴨は分かりますが、鯉は住めないじゃん(笑)



鼻顔橋からの光景、手前がかぐら殿、奥の懸造りが本殿なのですが、面白いのが真ん中の建物。コレ、実はボート小屋、嘗て湯川ではボート遊びができたというのです。可能だったのかは分かりませんが、娼妓を連れてのボート遊びなんて粋なことができたのかもしれませんね。



振り返ると遊廓跡、団地のある辺りがそれになります。



鼻顔稲荷神社は永禄年間に創建、400年の歴史があり、京都伏見稲荷から勧請されたものだそうです。この辺りの紅葉も散る寸前でした。



鳥居の続く急坂を登っていくと懸造りの部分に出ます。『鼻顔』という不思議な名前、どうやら古い地名が由来みたいです。



中に入るとのぼりがズラリ、なんだこのキッチュな空間は・・・。



突当りの朱塗り格子の奥、崖に半分めり込むような形でご神体が置かれていました。



そこからの光景・・・建物のボロさ具合も相まってかなりの高度感を味わえます。奥の橋が鼻顔橋です。



『今、流行 東京スカイツリーパスタ』巷ではそんなものが流行っているのですか、知らなかった・・・。



来た道を戻る途中、脇道で見つけた凄い造りのお宅。まるでお城みたい。



そのまま脇道を進んでいきますと、空き地に面した建物の向こうに特徴的な煙突が見えてきました。



お風呂屋さんであることに間違いないようなのですが、随分とアッサリした造りですな。見た感じ既に現役ではないと思います。不思議なのは大和町入浴券と記された券売機の存在、どんなシステムだったのでしょう。大和町はこの辺りの町名なのですが、町営の公衆浴場ってこと???此処、地図にも明記されていませんし、ネットでもヒットしないのです・・・謎の銭湯ですな。



木の葉のタイルがカワイイ。



佐久ホテルさんの近くに戻ってきました。行きのとき気になっていた元飲み屋さん、入口を覗いてみますと・・・。



なんと、ハイボールが二桁・・・コレ、いつ頃の物価なのでしょう。レモンジース・・・これまた謎の飲み物だ。



列車までまだ時間があります。もう少し寄り道していきましょう。



崩れかけの蔵の奥、『ぬけられます』状態の向こうが旧中山道です。



隣はもじゃハウス、放置された蔦のボリュームが凄いことになっております。



なんだろうと思って覗いてみますと・・・喫茶店でした。



これが旧中山道(県道9号線)、残念ながら宿場の名残みたいなものは見つけられませんでした。



しかし、なぜかこういうものは見つけてしまうのです。半ば横丁建築と化した飲み屋街です。



思っていた以上に奥行きがありますぞ。



中にはカフェー風のお店も・・・窓の配置が絶妙、素っ気無いドアもいいですね。



いつ頃から此処にあるのでしょう、歴史を感じさせる飲み屋街です。



突き当りには共同便所、すぐ横には居酒屋の入口。なんか嫌だなあ(笑)



旧街道を渡って西側へ、そろそろ駅に向かいましょうか。



途中にある好楽センター、横丁建築の一種としても宜しいかと。



外観もそうですが中も昭和で時が止まっておりました。



通路は途中でL字型に曲がっていてそのまま『ぬけられます』



昨晩、宿に向かう途中此処を見つけたのですが、一軒だけ明りが灯っていましたよ。ところでニュースナックってなんぞ???

何気なく岩村田駅前に設置された案内地図を見ましたら、見所ということで『遊廓大門の跡』と表示されているではありませんか。さらには『鯉と鴨の家』も(笑)役所的には観光名所という位置づけなのでしょうか・・・こうやって表示されているかぎりは壊されないんじゃないかと少し楽観したのですが、甘いですかね?まあ、とにかく貴重なものですので大切にしてほしいなあ。以上で岩村田はオシマイ、このまま小海線で小淵沢に出て中央線沿いの町を訪ねます。知られざる遊里を発見か!?ということで、今回の旅でいちばん楽しみにしていた町なのですが・・・アチャー、ついに降り出しちゃった・・・。

長野県 茅野市201311

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せせらぎ脇の飲み屋街・富士山と帆掛舟を象った窓・特産物貯蔵専用蔵

お天道様には勝てません・・・。


 いきなりですが、グーグルのストリートビュー(以下SV)ご存知ですよね?・・・って、まあ知らない方はいらっしゃらないと思いますが、便利な世の中になったものだと感心するわけです。自宅にいながら世界中の町をフラフラ彷徨うことができちゃいますからね。でも、コレ私の中では禁じ手の一つとして軽く封印しているのです。あくまでも軽〜くね(笑)やっぱり文献やネットなどの乏しい情報と地図だけを手掛かりにこの辺りかな?と予想していざ現地へ・・・オオッ、本当にあった!!この展開が理想、感動も大きいですしね。たまにその封印を解いてしまうことがあります。ちょっと前にレポした名古屋がそれでした。一日に何ヶ所もピンポイントで訪れないとならなかったからというのが理由というか言い訳でして、下調べ段階で遺構はSVで全てチェックしてありました。でもね、いまひとつ感動できないわけ、あそこの遺構は皆レベル高いはずなのに・・・。当然かもしれません、次の角を曲がればあるって分かっているんですもの。出来る限りSVにはお世話にならないよう心掛けているのですが、名古屋とは違う理由で封印を解いてしまうことがあります。全くそういった情報が見当たらない町です。そんな時抜く伝家の宝刀がSVというわけ。

 甲府〜諏訪間のJR中央本線沿い・・・甲府と諏訪には遊廓が存在していましたが、距離にして約60キロ、この間にそういった情報が皆無なのです。今回訪れた茅野以外にも甲斐、韮崎、北杜といった感じで市が連なっており、嘗てそれらを甲州街道が繋いでいました。それなりの町には必ず存在していたはずというのが持論ですので、何かあるんじゃないかと以前から不思議に思っていたのですが、ほんと何も見つからない。何なのでしょうね、コレ。町中を旧甲州街道が貫いている茅野市、てっきり宿場町だと思っていたのですがどうやらそうではないみたい。町の北に位置する永明寺山には武田方の上原城がありましたので、城下町と言いたいところなのですが、山城だったせいかそういった特徴も地図上では見当たらない・・・妙な町なのです。信州ということで、古くから養蚕が盛んだったということだけは分かりました・・・あ、そうそう、もう一つこの地方特有の特産物がありまして、それを貯蔵した立派な蔵が残っています。とりあえず目的地として蔵を押さえたのはいいのですが、残りの情報は皆無・・・そこで最後の手段、伝家の宝刀を抜いてみましたら・・・見つけちゃったのですよ。町の南を流れる上川の畔にそれはありました。

 前々回の小諸から小淵沢までを繋いでいるのがJR小海線、日本一高い場所を走る鉄道として有名ですが、通しで乗ったのは初めてでした。西から台風並みの低気圧が接近しており、残念ながら八ヶ岳は望めませんでしたが雨に煙るカラマツの紅葉は綺麗でした。しかし、この雨が曲者、次第に激しくなってきて遂には小淵沢の手前で列車がストップ、これで30分のロス。これでは小淵沢で乗り換えるつもりだった列車に間に合わない。車掌さん曰く、次に来る特急あずさに乗っていいとのことなのですが、それがいっこうに来ないわけ・・・これでさらに1時間のロス。当初は諏訪湖畔の岡谷を訪れ、帰りに茅野に寄るつもりでした。結構ギチギチのスケジュールでして、このままではどっちも中途半端になってしまうことは確実・・・天候も考慮して今回は泣く泣く茅野だけということにさせてください。



茅野駅西口の蕎麦屋で雨宿り、小降りになったところを見計らって出発。まあ、行けるところまで行ってみましょうや。SVで見つけた一画は駅から5分ほど、町の南を流れる上川の畔にあります。



こんな感じで飲み屋さんが現れ始めます。



普通のお宅?にもこんな窓があったりします。その先の脇道に入りますと・・・。



せせらぎに沿って小さな飲み屋街が形成されているわけ。これは面白い。



おかげさま・・・カワイイですね。



振り返るとこんな感じ・・・左手の建物の造りが妙に気になるので裏手に回ってみます。



かなり複雑な造りになっているようです。



二階にはこんな窓、いったい何だったのでしょうね。ちなみにSVで発見したのはこれではありませんよ。



旧甲州街道(県道197号線)を渡ると、これまた複雑な造りのお店が現れます。物干し台付きですぞ。



寿司と書かれた看板がありますが・・・



どうやら割烹だったみたい、とっくの昔に退役されているようです。



お隣は見越しの松が見事なお宅、こちらも気になる存在です。



その先には車寄せ風の屋根付きポーチがあるお宅。全体は和風なのに左官による石貼り風の外壁、擬洋風建築にも見える不思議な造りです。



この廃屋の先にSVで見つけた物件があるはずなのですが・・・。ちなみに奥に見える上川と並行している比較的新しい通り、戦後すぐに撮影された航空写真には写っておりません。



な、無い・・・無くなってる・・・。此処があったからこそ、この町に決めたのに・・・。



悔しいのでSVの画像貼っておきます。分かりますか?富士山と帆掛舟を象った窓、こんなの見たことないでしょ?これを見つけたときはまさに鳥肌モノだったのに・・・。SVが撮影されたのが2012年5月とのこと、一年半までは確実に存在していたのです。嗚呼、ショック。



また雨が激しくなってきた、以上のこともあってテンションガタ落ちですわ。旧甲州街道に戻って上川を渡ります。対岸の宮川地区に前書きにある特産物の蔵がたくさん残っているそうです。



上川沿いに建つ古いお宅、窓の桟がSV画像と酷似しているのですが。手前の出っ張った部分に臭突、昔の便所って感じですね。



此処にもせせらぎ、雨に濡れた石垣の苔が綺麗です。特産物の製造には清らかな水が重要な役目を果たすのです。



男子美容専科・・・カットモデルのイラストが渋すぎるぞ。



これが特産物の蔵かどうかは判断できませんでした。



しかし、風化具合は最高レベルですな。



その先にあるのが三輪神社。由来などは不明ですが、創建は天平年間まで遡るようです。手前が拝殿、奥が本殿でしょうか。その間を渡り廊下が繋いでいるという面白い造りになっております。諏訪地方ということで御柱が立ててありました。



まるで舞台ですね。神楽が舞われたりしたのではないでしょうか。



三輪神社の向かいに三層の蔵があります。信州ですので繭蔵といきたいところなのですが、コチラは寒天蔵。夜間冷え込み、適度な降雪があり、清らかな水が手に入る諏訪地方は寒天作りに適した地なのです。その歴史は天保年間まで遡ります。



近くにもう一棟、なんとコチラは四層ですぞ。



それにしても海の産物であるモサモサした天草が遠く離れた山あいの町に運ばれて、あの透明なプルプルに変身するわけです。誰が思いついたのでしょう、先人は偉大ですなあ。



あ、こっちにも・・・先程のもそうなのですが結構ガタがきているように見えるのです。現役なのでしょうか。



蔵の向こう側に出てみるとこんな感じ、どうやら住宅部分と蔵が一体になっているみたいです。



ふと目に留まった物件、妙に気になり近付いてみますと・・・



松の湯・・・なんとこれがお風呂屋さん。もちろん現役ではないと思いますが、随分とこじんまりとした造りです。



隣には窓の桟が美しいお宅?地図には板金屋さんとあります。



妻側はこんな感じ、庭木が元気すぎて全体が捉えられないのが残念。



また四層の寒天蔵、コチラがいちばん立派ではないでしょうか。大正初期に建てられたものだそうです。



ますます雨が激しくなってきた、もう靴の中までグッショリです。予定では此処から直線距離で3キロほどの拙ブログではお馴染の藤森照信設計の神長官守矢史料館を訪ねるつもりでしたが、そんな気力はどこからも湧いてこないのでした。退くも勇気ということで無念の撤退です。



目的が達成されなかったというわけで寒天のヤケ喰い(笑)個人的には寒天より求肥が好きだったりします。

目的の物件は消え失せているわ、雨に祟られるわで散々な探索になってしまいました。消え失せていたアレ、どう見ても普通のお宅とは思えないのです。やはり『知られざる遊里』は存在した・・・かもしれない茅野の探索でした。

茨城県 常陸大宮市玉川村201404

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よくぞ残っていてくれました・軒燈かと思いきや・シーリングセンターと裸電球

震災が追い討ちをかけたようです。


 なんとか嵐のような年度末を無事乗り切ることができました。今年度は特にしんどかったあ・・・まあ、こんなところでお話しても何なので詳細は省略しますが、簡単に申せば多忙のため暫く探索に行けなかったわけです。もうストレス溜まりまくりですわ。正月にちょこっと遠出したきりですもの。気が付くといつのまにか春だものなあ。そのわりにはブログの更新頻繁だったじゃねえかと思われるかもしれませんが、あれの実態は一種の現実逃避だったりするわけ(笑)そんなこんなでとりあえず峠は越えましたので以前から注目していた場所を訪ねて参りました。拙ブログでは大変貴重な撮りたてホヤホヤのレポですぞ。

 以前から注目していた場所というのが『女の線区』ことJR水郡線沿いの町。水郡線は文字通り茨城県水戸市と福島県郡山市を結ぶ非電化のローカル線ですが、どういうわけか沿線の町々に遊里が存在しているのです。それが理由で『女の線区』と呼ばれていたのでしょうが、その名付け親というのが度々紹介している『よるの女性街 全国案内版』になります。

 『常陸太田 水郡線は女の線区で水戸から入れば、まずしよつぱなが上菅谷宿でここは赤線一一軒に三八名。続くは気働車で一八分の常陸太田の東三丁目にも約一〇軒、四八名いる。瓜連・静 上菅谷から二つ目の瓜連にも古い赤線が七軒、二四名。隣駅の静にも二軒、九名。その二つ先の玉川村駅にも四軒、一七名、と列んでいる。袋田 沿線で唯一つの湯治場のせいか、通し湯ながらなかなかの繁昌。芸者みたいなのが二〇名。ほかに赤線が三軒ある。このほか郡山までの赤線所在地だけ示しても常陸大子、磐城棚倉、磐城石川と続く盛況ぶり』

 常陸太田は上菅谷から分岐する枝線の終点ですし、二度レポを掲載しておりますので今回の候補から外しています。水戸−郡山間に存在する駅数は37、そのうちの8つの駅周辺に遊里が存在していたことになるわけです。何でしょうこの密集ぶり・・・大都市や有名観光地(強いて言えば袋田の滝ぐらいですかね)があるわけでもないのに不思議ですよね。しかもこれらの町、遊里関係の情報がほぼゼロなのです。まあ、これがこの地域に惹かれたいちばんの理由でもあるのですが。さすがに8つ全部を一時間に一本程度のローカル線で巡るのは無理がありまですので今回は玉川村・常陸大子・磐城塙・磐城石川をピックアップさせていただきました。磐城塙は『よるの女性街・・・』には載っていませんが、どうしても見ておきたい物件がありまして、無理矢理スケジュールにぶっ込んじゃいました。

 さて、初っ端は玉川村、現在は常陸大宮市の一部になっておりますが、名前のとおり元々は独立した村でした。村に赤線が存在していた・・・これは驚きの事実ではないかと思うわけです。行ってみれば分かりますが、まさに山あいの集落としか表現しようのない場所ですから。湯治場とかいうのでしたらまだ納得はできるのですが、そういった場所でもないのです。往時はまだまだ車なんて普及していなかった時代のはず、男達はわざわざ鉄道で通いつめたのでしょうか。それだけ夢中にさせる妓がいたのでしょうか。存在価値や由来なども含めて謎ばかりの遊里跡なのですが、コチラ、業界(笑)でも結構有名な遺構が残っております。既に廃屋でしたので消え失せる前に訪れたいと常日頃思っておりました。果たしてまだ残っているのでしょうか。

 前夜のうちに水戸入り、その足で奈良屋町の赤線跡を訪れてみましたが、前回(2011)からあまり変化は無いようでした。ただ、てっきり退役済みかと思っていた『まりも』さんに煌々と明りが灯っていたのには驚かされました。それ以外にも現役の飲み屋さんが結構ありまして日中のうらぶれた雰囲気とはちょっと違って見えました。そんなことよりとにかく寒い!!真冬並みの低気圧が関東から東北までを覆っており冷たい雨がシトシト。水戸の桜はちょうど見頃だったのですが、これは花冷えってレベルじゃねえぞ。ほんと洒落にならない冷え込みです。雨は夜更けすぎには上がるようですが、明日は今日以上の寒さみたい・・・。翌朝、寒さに震えながら郡山行きの始発に乗り込み約40分で玉川村駅に到着。途中には赤線が存在したという上菅谷・瓜連・静があるのですが、『赤線跡を歩く』には何も残っていないとありましたのでリストから外しました。木村氏を信じて(笑)まあ、地図を見てもピンときませんでしたしね。



列車から降りたのは当然のように私だけ、もちろん乗り込む人もおりません。次の列車まで1時間、たぶん20分もあれば済んでしまう探索なのです。残りの時間どうしようと思いながら駅を出ますと、唖然・・・何も無い!?いや、あった。喫茶店の成れの果て、なぜか入口がたくさんあるのです。



向かいには『赤線跡を歩く』にも載っている謎のお店?があります。これも遺構なのでしょうか、平屋というのが妙に引っかかるのです。見上げると桧皮葺!?かと思ったら、金属の平葺が吹っ飛んで下地の野地板が露わになっていただけでした。



凝った桟が入った建具、腰には板金による麻の葉模様・・・なんだか統一感のない入口廻りですな。



傍らには竪樋からの雨水を受ける土管?防火水槽代わりにしていたのでしょう。それに屋号らしきものが刻まれています。花○屋・・・二文字目がどうしても解読できない。



短い駅前通りの突当りを左折すると問題の遺構があるはずなのですが・・・よかった、まだ残っていましたよ。



残ってはいましたが、酷い有様です。崩壊寸前、かなり危険な状態だぞこりゃ。長らく廃屋状態だったようですので、いろいろとガタがきていたのでしょう。そこに震災が追い討ちをかけたのだと思われます。



通りに面した部分には左官による石貼り風の目地が切られた洋風の下屋が附属しています。こっち側もボロボロです。



椿の赤が毒々しい色に見えてしまうのはなぜでしょう。



側面には不自然な大穴。人為的なものに思えてしまうのですが・・・。



そして縁起物の雷紋、妙にクッキリと残っております。



重厚な造りはいいのですが、長閑なローケーションのせいでしょうか、どうも遺構に見えてこないのです。まるで久しぶりに田舎のお婆ちゃん家に来たような、とでも申しましょうか・・・おかしな感覚です。



そんな感覚もコレを見た途端、全て吹っ飛びましたわ。うわ、こりゃ酷い・・・風に揺れる裸電球が哀しいなあ。冷静になって観察して気付いたのですが、不思議なことに遺構に相応しい華美な装飾が全く見られないのです。広縁に囲まれた続き間の和室、まさに田舎のお屋敷だよなあ。本当に遺構なのか・・・また混乱してきた。



深い軒の出と出桁造り、かなり立派な部材を使っているようです。あ、軒燈が下がっているではありませんか、なんだやっぱり遺構じゃん。しかし、よくよく見ましたら、なんとこれがスズメバチの巣(爆)活動時期じゃなくてよかった。



ドアの額(ガラスが入っている部分ね)からレンズだけを突っ込んでみましたら、こんな光景が・・・お人形さん、恐い・・・。手前にはカウンターらしきものが写っているような気がするのですが、如何でしょう。



お隣の窓の桟がちょっと気になりました。



帰りに花○屋さんの窓のガラスが外れた部分にも突っ込んでみました。石膏製シーリングセンターから下がる裸電球、奥の小窓は何でしょう。そして一段上がったところ、雨戸が閉め切りになっている部分ですね。ガラス障子の桟が凄いことになっております。どちらかというとこっちのほうが遺構に相応しいような・・・コレ、カフェーっぽいと思いません???にしては狭すぎるか・・・ウーム、ますます混乱。



釈然としないまま駅に戻りました。次の列車までまだ30分もあるんですよね・・・。

以上、残っていてくれたのは嬉しいのですが、謎だけが深まった玉川村の探索でした。遺構とされるお屋敷、ご覧のとおりいつ倒壊してもおかしくない状態です。中にまで入ろうという猛者はいないと思いますが、何かあっても当ブログは一切関知しませんのでくれぐれもお願い致しますぞ。次回は常陸大子、この町も素性がよく分からない町。まあ、そのほうが探索し甲斐があるってものです。
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