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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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茨城県 久慈郡大子町201404

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地方都市お馴染の学校・鑑札はあったのですが・豪快すぎる物干し場

残念なことにまだお腹空いていないんだよなあ。


 玉川村駅を出たJR水郡線は大きく蛇行する久慈川に付かず離れずしながら長閑な風景の中を走り、40分ほどで常陸大子駅に到着です。福島県との県境に位置する大子町は、周囲を低山に囲まれた静かな町。中世の頃は佐竹氏の領地だったようですが、いまひとつその素性がよく分からない町なのです。おそらく自然発生的に集落が形成され、それが町へと発展していった在郷町と言ってしまって差し支えないと思われます。それには久慈川の舟運も一役かっていたのではないでしょうか。まあ、分からないことばかりなのですが、あまり目的も定めずブラブラする人間にとってはまさにお誂えの町だったりするわけ。予備知識ほぼゼロ、勘だけに頼った状態での偶然の出会い、これがあるからこのしょうもない趣味やめられない。勘が外れると悲惨ですけどね(笑)この町、地図を見たときピンときました、面白そうだって。情報が少ない町ですので早々に始めさせていただきます。



鮮やかな赤い屋根が印象的な常陸大子駅、なんでも以前はオレンジだったとか。どうして真っ赤っかにしたのでしょうね。大子町の中心は駅の東側、久慈川まで続く三本の通りに沿ってひろがっています。



駅前広場に展示されていたC12の187号機。昭和45年(1970)まで水郡線を走っていたものだそうです。状態は良さそうですが、雨露をしのぐ上屋が無いのが気になります。



三本の通りのうちまずはいちばん南側の通りから探ってみます。



脇道で窮屈そうに収まっていた鳥居、鹿嶋神社です。



クリーニング屋さんの外壁に描かれていました。漫画のキャラ???最近のは全く分からん。



地方都市でお馴染の学校がこの町にもありました。大子服装学院です。なぜ服装学院が地方都市に多いのか、この謎未だに解けていないのです。どなたか正解を教えてください。昭和初期といった感じでしょうか、美しい建物です。



ド、ドレメ式ってなんぞ???調べてみましたら、洋服の型紙の描き方なんだそうです。此処で一人のお爺ちゃんと目が合って挨拶、ついでに赤線のことを訊ねてみました。あるにはあったらしいのですが、中央通り辺りだったかなあ、いや違ったかなあ・・・なんとも心許ない回答。よくよく聞いてみましたら、中心街から10キロほど山に入ったところで生まれ育ったそうで、実は駅周辺のことはよく知らないとのこと・・・オイッってツッコミそうになりましたわ(笑)



これは面白い、美しい欄間ですねえ。



久慈川を渡る橋の袂にあるのが割烹千石さん。お店の情報がほとんど見つかりませんので歴史があるものなのか、それさえも分かりませんでした。



お爺ちゃんが仰っていた中央通りに入りました。趣のある建物が連なっております。



特に擬洋風建築にも見えるコチラが興味深い、持送りみたいな装飾が連続しております。



その並びの一軒に料理店の鑑札が・・・コレがそうなのでしょうか。



その先に冒頭画像の黒いお店、菊水さんがあります。現在は蕎麦屋になっておりますが、以前は飲み屋さんだったみたい。こっちのほうがそれっぽく感じられるのですが、入口が二ヶ所もあるし。如何でしょう。手打ち蕎麦、物凄く惹かれたのですが、まだ9時なんですよね。



コチラはお医者さんでしょうか、既に現役ではないみたい。もちろん円形の装飾は後から付けられたものだと思います。



旅館北條館さん、以前は宿として機能していたようでしたが、現在は食事だけみたいです。それでうなぎと書かれた暖簾が下がっていたのですね。



コチラにも料理店の鑑札が残っております。



駅前に戻って三本目の通り(本町通り)へ、堂々とした屋号を掲げる井坂本店さん、和菓子屋さんです。鮮やかな黄緑のモザイクタイルが使われています。



背後に迫る高台の中腹にカワイイ石蔵がありました。



タバコ屋さんでしょうか、窓の桟がオシャレですなあ。



そしてこの照明がいい。



果物野菜のウチダさん、横から見ると分かるのですが、古い町屋のファサードだけを後から貼り付けるようにして改修したみたい。コレ、滅茶苦茶カッコイイ!!



同じく古い町屋を改修したDaigo café・・・元々は築100年の呉服屋でした。本日は貸切だそうです。



いきなりロンシャン!?側面に何やら柱型の装飾が見えますよね。ファサードが気になるのですが、高級ブティックと書かれたテントで見えない・・・隙間を覗き込んでみましたが真っ暗・・・残念。



県道28号線に出る丁字路に印象的な塔を構えた近代建築があります。



大正6年(1917)に建てられた旧大子銀行本店。現在は街かど美術館なるものに変わって余生を送っています。どうやら町の施設ではなく個人の美術館みたいです。しかし、いちばん嫌いなサイディングに全面包まれており、ちょっと残念な状態でした。以前の姿が知りたいです。



近くにある立派な黒漆喰の店蔵、地図にはレトロ館だいごとあるのですが、どういうわけか違うお店になっているようでした。



そのまま県道28号線を少し行ってみます。庭の向こうは久慈川です。土手には桜並木がありますが、ちょっと早かったみたい。いつのまに桜前線を追い越しちゃいました。



これは面白い、門の奥に見える母屋は純和風なのです。洋風長屋門とでも呼んでおきましょうか。



高台に登る途中にある謎の豪邸、玄関の破風に見事な鳳凰?の懸魚が睨みを効かせております。



本町通りに抜けるこんな路地を見つけました。名無しの小さな神様の脇を下っていきます。



遊里跡ウンヌンとは全く関係ないと思いますが、こういう発見はとても嬉しいわけです。



駅前に戻りました。まだ少し時間がありますので福島方面に伸びる国道461号線(大子バイパス)をちょっと探ってみました。このタイプのコンクリート擁壁、日本全国で見られますが、景観的に宜しくないという方多いと思います。私は結構好きなんですよね、このメカニックな感じが。ちなみに私が立っている場所は製材所の廃墟です。



その擁壁の上で洗濯物がヒラヒラ・・・何だコレ???



崖にめり込むような形で一軒の食堂が・・・コチラの物干し場みたいです。最近のマイブームである物干し場ですが、こんな豪快なの初めてです(笑)



最後に高台からの光景です。左手に常陸大子駅の赤い屋根が見えます。

大子町には全国的に有名な名所である袋田の滝があります。私も行きたかったのですが、あえて今回のリストから外しました。あくまでも遊里跡探索が第一!!と言い切ったのはいいのですが今になってちょっと後悔しているわけ。まあ、赤線跡はよく分からなかったけど結構楽しめましたからよしと致しましょう。次回から福島県、大子町以上に情報の少ない塙町にお邪魔します。ところで『塙』って読めます???

福島県 東白川郡塙町201404

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所謂眠そうな町・逸品の看板建築床屋さん・華道と茶道そして校倉造り!?

この跳ね出し具合が堪らんわけです。


 再びJR水郡線に揺られることちょうど30分、磐城塙駅に到着です。そうだ、前回の問題の解答を発表しておきますね。『塙』は『はなわ』と読みます。私?もちろん読めなかった・・・お恥ずかしい・・・。読めなかったということは、この町の存在を知らなかったということにもなるわけです。周囲に幾つか山城がありまして、戦国時代は動乱の地だったようです。その後は佐竹氏の領地となりますが、享保年間に天領となり代官所が置かれることになります。簡単ではありますが以上が町史になります。まあ、前回の大子町同様いまひとつ正体が掴みにくい町なんですよね。

 大子町以上に情報が少ない町ですので頼りになるのは地図だけ。しかし、これが大問題・・・グーグルマップを開いてみてください。幾ら拡大しても建物の形が表示されない地域が結構あることに気付くと思います。山奥や海沿いといった僻地に多いのですが、塙町もこれに当て嵌まるわけです。コレ、困るんですよね。どんな町なのか全く分からないんだもの。間口が狭くて奥行きのある建物が密集している・・・これは古くからの町並みか!?飲み屋さん密集、大きな旅館や料亭もあるぞ・・・これは何かの跡なのではないか!?といった感じである程度目的地を限定できるのですが、今回はそれが出来ないわけ。グーグルさん、何とかして貰えないでしょうか。重要施設の図面を流出させている場合じゃないでしょ・・・と文句を垂れつつも最後はストリートビュー(SV)の甘い囁きに屈してしまう私(笑)まあ、SVもカバーしているのは町のほんの一部なんですけどね。そこである建物を発見するのですが、アングルが悪すぎる・・・。まあ、SVの愚痴を言っても始まらないので、実物を見にノコノコやって来たというわけです。



駅を出るとこんな感じ。この通りと並行している国道118号線沿いが町の中心みたいです。名誉のために申し上げておきますが、シャッター通りではありませんよ。営業しているお店のほうが多いです。ただし、人影は皆無、ひっそりと静まり返っております。まるで大好きな写真家武田花の『眠そうな町』みたい・・・。



最初に出会ったのが溝井商事さん、どうやら麺類を製造している会社みたい。寄棟屋根に下見板張り、SVにはいい感じに末枯れた姿で写っていましたが、最近になって外壁を塗り替えたようです。



お隣は東白商事さん、江戸の頃は呉服屋や両替商を営んでいた老舗なんだそうです。こちらも下見板張りに上げ下げ窓の洋館風、破風廻りの装飾が面白いです。



脇に回り込むとビックリ・・・風見鶏の乗った望楼風の物体は何でしょう。溝井商事さんと合わせて明治末期に建てられたものだとか。



出羽神社と記された扁額が掲げられた鳥居を潜っていきますと・・・



せせらぎが流れる水郡線の踏切に出ちゃいました。この先に羽黒山城という城址があるそうなのですが、完全な山道・・・退き返すしかないようです。



通りに戻って、今度は立派な旅館が現れた。味の宿こと白洋旅館さん、どうやらうなぎが名物みたいです。うなぎよりも私は向かいの『貝化石もなか』が激しく気になる・・・。



半切妻屋根の端正なデザインのお宅、こういうのかなり好みですよ。以前はお医者さんだったのではないでしょうか。



双子のような看板建築、右はちょっと傾いちゃっておりますが(笑)服飾学校と並んで地方都市でよく見かけるのがテーラーです。



その先に目的の物件が見えてきました。黄色のがそれになります。



勝床さん、トリコロールのクルクルで分かると思いますが床屋さんです。如何でしょうこの跳ね出し具合、見事なものでしょう?



気に入ったのでもう一枚。コレが目的で途中下車したのです。無くなっていたらどうしようかと・・・最近そういうことが多発しておりまして、とにかく良かった。



跳ね出した部分、中はどうなっているんだろう。なにはともあれ、久々の逸品でございました。



そのまま脇道を辿っていきますと、窓という窓全部がベニヤで密閉された謎の洋館が現れます。窓がない下見板張りの外壁が鎧戸に見えてしまうのが不思議。



隣の平屋のお宅と繋がっているのですが、何だったのでしょうね。この密閉ぶりにちょっと恐怖を覚えました。奥の赤い屋根が勝床さんです。



通りに戻って更に南へ・・・手前の土蔵、両脇の柱型に黒のモザイクタイルが使われていました。



久慈川の支流、川上川を渡った先にも町並みは続いていました。ご丁寧にもパーマ(笑)



しかし、振り返ってみると、コチラも上げ下げ窓が規則正しく並ぶ洋館風。パーマと物干し台は後から増築したみたいです。



その先に格子、板塀、赤い屋根のなかなか雰囲気のあるお宅があります。



華道小原流の家元でした。



戻って川上川沿いの脇道へ・・・校倉造りの謎のお宅を発見。もしかして!?と思って近寄ってみますと・・・



なんと、今度は表千家の教授ですって(笑)



適当にフラフラしていたら勝床さんのある脇道に出てしまいました。コチラのお宅、以前は飲み屋さんでもやっていたのでしょうか。



食事処を探している最中に見つけました。福助ってミシンも作っていたのですか???迷った揚句暖簾を潜ったみよし食堂さん、キャベツの代わりが白菜というタンメン、おいしゅうございました。



矢印の方向に和さんはありませんでした。どんな町にもこういった一画、必要だと思うわけです。磐城塙駅はちょっと面白い造り、町の図書館も併設されていますので次の列車を待つ間、遊里関係を調べてみましたが見事に空振り・・・というか町の史料が少なすぎる、もうちょっと充実できないものでしょうかね。

あ、そうそう、前書きでグーグルマップに文句言いましたが訂正させてください。グーグルマップの元データはゼンリンさんの住宅地図なんですよね。私も探索の際は同社のいつもNAVI PC版を出力して持参しています。地図上に記入しやすいものですから、仕事でも重宝してます。スマホの地図なんて建物の形が判明できるまで拡大すると、ほんと狭い範囲になってしまうわけ。アナログだと言われようが、やっぱり扱いやすい紙ベースの地図がいちばん、折り畳んでポケットに突っ込めますしね。とにかくゼンリンさんがデータのUPをしないかぎり、グーグルマップにも反映されないということみたいです。早くして欲しいなあ、こっちは年会費払っているんだぞ。結局愚痴になってしまいましたが、以上、地図に頼らなくても楽しめた塙町の探索でした。次回はいちばん楽しみにしていた石川町、期待してもらってもいいかも・・・お楽しみに。

福島県 石川郡石川町201404 その1

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猫屋敷と化した老舗旅館・大門思案橋完備の裏町・思わず二度見した遺構!?

名も無き近代建築が堪らなく愛おしい・・・。


 またまた『女の線区』ことJR水郡線に揺られること30分、磐城石川駅に到着です。福島県中通り南部に位置する石川町、康平6年(1063)、源(石川)有光がこの地に土着、石川城を築き町の基盤が形成されます。その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉に領地を没収されるまで500年もの間、石川一族がこの地を支配していたそうです。以上のことから城下町という括りで問題ないと思われるのですが、前回の塙町同様情報が極めて少ない町であることに変わりはありません。

 特産とされているのが鉱物です。町の東側が変成岩帯、西側が花崗岩帯といった感じで二つの異なる岩盤がぶつかることから、水晶・柘榴石といった希少な鉱物が産出されるそうです。滋賀県田ノ上山、岐阜県苗木地方と並び日本三大鉱物産地と呼ばれているとか。驚くことに、希少な鉱物の中にはウランも含まれていたそうで、太平洋戦争中、日本帝国陸軍の元で原爆研究が行われていたというのはあまり知られていない事実ではないでしょうか。石川町から北東60キロには福島第一原子力発電所が位置しているわけでして、何か因果みたいなものを感じてしまうのには微妙な距離でしょうかね。

 肝心なのは遊里、『よるの女性街 全国案内版』には赤線が存在したとありますが、場所までは相変わらず明記されておりません。下調べの段階でも遊里関係の情報は皆無、そうなると頼りになるのは地図だけ。幸いにも今回は町の様子が分かるまで、そして建物の形が分かるまで拡大することができます。あ、グーグルマップというか、ゼンリンの地図のことね。言っている意味の訳は前回の塙町を参照してくだされ。町の中心は駅前を横切る県道40号線を北上した先にあるみたい。ジックリと地図を眺めると、南町の県道と今出川に挟まれた一画がどうやら飲み屋街になっているようです。しかし、遊里特有の町割りみたいなものは確認できませんでしたが、とりあえず此処を目標にしてフラフラ彷徨ってみることにしましょう。



町の中心までは2キロほど。結構距離がありますが、今日は前半飛ばしましたのでかなり時間の余裕があります。まあ、ノンビリ行きましょうや。駅前に建つ看板建築の洋品店、大森の『森』の字がレリーフになっていました。たぶん元々は呉服屋さんだったのではないでしょうか。



バス停の前には歪みまくっているお宅。これでは引き戸は開きませんな。



切妻屋根に石貼り風の目地が切られた端正な洋館。矢吹医院とありますが、地図には表記されておりません。既に現役ではないのでしょう。



その先、通りのカーブに合わせて建つ入母屋屋根のお宅がステキ。縦長のプロポーションと回り込む連窓が妙に気に入ってしまいました。



今出川を渡った先には変わった造作が付いた窓があるお宅、まるで忍び返しみたいですね。お隣には上げ下げ窓が規則正しく並んだ洋館があります。



洋館のファサード、旭日旗風の欄間とメダイヨン。住宅というよりも何かの会社のオフィスだったと思われます。



古びた門が残っているとおり、駐車場には嘗て何かが建っていたようです。桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿、ことわざどおりですな。



その先の丁字路に冒頭画像のお店があります。名も無きと言いましたが、ちゃんと屋号がありますよ。坂路酒店さんです。



回り込むと全然違う表情が現れます。アールを多用したモダンなデザインです。



向かいにはなぜか狛犬。背後は今出川、何も無いのですが・・・。どうやら川の対岸の山に石都々古和気神社という社があります。ちゃんと調べませんでしたが、たぶんそこのものだと思われます。



前回の塙町同様、この町でも跳ね出した床屋を見つけましたよ。鏝絵によるフォントがいいなあ。残念ながらもうやっていないみたい・・・。背後は学法石川高校、甲子園でもお馴染の古豪ですね。



嘗ては商家だったと思われる重厚な造りの町屋です。真新しい薬局の看板に物凄い違和感。



看板建築の呉服店、現在はお婆ちゃんのブティックです(笑)



お隣には庭木に隠れるようにしてこんな洋館が。コチラもお医者さんっぽいですね。



二階の窓が美しいのは江名屋米店さんです。



その先にまるで旅籠みたいな立派な旅館が現れます。町いちばんの老舗らしい、緑屋旅館さんです。しかし、様子が変・・・言い方が悪いのですが、まるで夜逃げ、もしくはゴミ屋敷みたいな様相・・・。戸が開け放たれているのですが、人の気配は皆無。代わりにニャンコが出入りしてる・・・。



後述する民俗資料館の方の話ですと、嘗ては数々の著名人も宿泊した名旅館だったそうですが、没落したとのこと・・・それ以上詳しく話してくれませんでしたが、何があったのでしょう。ネットの情報では2010年頃までは現役だったようです。



通りは再び今出橋で今出川を渡るのですが、その手前にこんな物件があります。一瞬、もしや!?と反応したのですが、完全な早とちり。どうやらコチラも旅館だったみたい。入母屋の破風がある部分、現在は駐車場になっていますが、あそこが玄関だったのでしょう。帰りに喫茶店に寄ってみましたが、至って普通すぎてコメントに困るお店でした(笑)



その先で通りは県道14号線(御斉所街道)と交わります。この交差点附近が町の中心だと思われます。



交差点を左折すると見えてくるのが創業百有余年という老舗割烹の高田屋さん。うなぎが名物です。



入口には料理店の鑑札が残っておりました。



三芦橋で今出川の支流北須川を渡ります。土手には桜並木が続いているのですが、やっぱりタイミング合わなかった・・・。



北須川沿いにあるのが石川町立歴史民俗資料館。民俗資料館と言いつつも、展示されているのは町特産の鉱物関係ばかり、まるでそれの博物館状態。係の方も鉱物ばかりで申し訳ないって恐縮してました(笑)でも嫌いじゃないですよ。カットされた宝石となるとあれですが、柘榴石の原石なんかはとても魅力的ですから。その方に遊里関係のお話を伺うことができました。それにつきましてはその2のほうで・・・。



近くでこんな物件を見つけました。十字架がありますよね。コチラ、日本基督教団石川伝道所とのこと・・・教会ではないようですが、何をする施設なのでしょう。



それでは少し戻って係の方から聞いた場所に向かいましょう。

前半はここまで。まあ、自慢じゃありませんけど、係の方から聞いた場所と私が最初に怪しいと睨んだ場所が一致していたわけです。繰り返しますが、自慢じゃありませんよ(笑)場所が確定できたら、次は遺構の発見です。こう偉そうに言っているということは・・・さて、どうなるでしょう。

福島県 石川郡石川町201404 その2

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前回の塙町に続いてまたもや素晴らしい跳ね出し具合、首が痛くなるまで見上げておりました。


 民俗資料館での聞き取り結果をまとめてみました。まず遊里が存在したのかですが、町史などにそういったことは一切記載されていないとのこと。これが意図的なものなのかは不明ですが、文献には残っていないようです。町史を拝見しようと思ったのですが、先客が熱心に読みふけっていましたので自分では調べられませんでした。しかし、係の方曰く、どんな町にでもそういった場所ってあったはずですよねという意外なお言葉。なんと、私と全く同じ考えではありませんか。

 彼は慎重に言葉を選びながら教えてくれました。南町の県道40号線と今出川に挟まれた一画、その1で紹介した割烹高田屋さんの裏手辺りですね。嘗ての町名は旭町だったそうですが、此処が『裏町』と呼ばれていたと言うのです。そう、私が最初地図を眺めたときに怪しいと睨んだ一画と完全に一致していたというわけです。また、この一画の外れにあるのが猫屋敷と化していた緑屋旅館さん、コチラは最初から純粋な旅館だったそうですが以前は芸者さんが出入りしていたそうです。でも、此処が赤線だったのかは分からないとのこと。石川町名産の鉱物のことなら幾らでも答えられるんですけどねえって恐縮されちゃった・・・いえいえ、それだけ聞ければ十分ですよ。あとは現地調査で確認させていただきます。お任せを・・・。



『裏町』を訪れる前に県道14号線(御斉所街道)沿いをちょっと探索。しんまち調剤薬局さんはシンメトリーな看板建築、てっぺんのヘキサゴンの部分には何が嵌っていたのでしょう。



通り沿いはいい意味で眠そう・・・手前のお店、てっきり元は映画館かと。どうやら違ったみたい。



スタジオみずのさんに展示されていた大形カメラ、コレ何判???銀塩関係は疎くて分かりません。



コレいいなあ。大谷石造の看板建築ですぞ。てっぺんには雲形、窓の両側にはオーダーの一種でしょうか。赤い雨戸もオシャレだなあ。テナント募集中とのこと、状態は良好だと思います。どなたか如何???



通りと並行して流れる今出川沿いを戻ります。まず現れるのが何となく料亭風の謎のお宅。グルリと回り込む高欄風の窓台、ポーチの柱にはモザイクタイルが使われています。



お隣には美しい窓が連続する物件。航空写真を見ますと、その1で紹介した割烹高田屋さんの真裏、どうやら繋がっているみたい。別館って感じでしょうか。



玄関脇には円形の造作、分かりにくくて申し訳ない。



なんと、その先に大門が現れた!?『元気のでるまち 飲みさきらっし!』



しかもこの大門、思案橋まで附属しているではありませんか。この橋を渡った先が嘗ての『裏町』ということになります。大門に思案橋・・・遊里の条件が揃っているということになるわけ・・・と無理矢理盛り上げてみましたが、これで何も発見できなかったら物凄く恥ずかしいな・・・。



河畔の光景・・・草臥れたお宅が続いておりました。流れが濁っているのは前日の雨のせいだと思います。



そのうちの一軒、『思案橋』の袂に佇む昭和軒さん。歴史がある中華屋さんでよく見ますよね、肉丼って。いつも気になるのですが、一度もオーダーしたことがない・・・どんな料理なのでしょう。



どん詰まりの脇道の奥にあったお宅、これ以上接近できないのがもどかしい。



何となく雰囲気は感じられるのですがね・・・。



飲食店街とはいえ、お店はポツリポツリ・・・現役もほんの僅かといった感じです。



コンクリート平板の飛び石の先に鳥居が見えました。地図には旭稲荷神社とあります。何か痕跡が発見できるかも・・・。



ほ、本当にあった!!読めますか?『昭和三年旧八月朔日建立 石川料理屋組合一同』と刻まれています。とりあえずホッと一息、何も見つからなかったらほんとどうしようと思っていましたから。更に発見があるよう入念に参拝したのですが、なんと効き目がすぐに発動しちゃうんですよねえ・・・。



まず状況を説明させてください。私は画面の左手から歩いてきます。最初に視界に飛び込んできたのは右の居酒屋さんの水車、こういうのあるあるって喜んでいたのです。次に左の物件に気付くわけ。引っ込んだ位置にあったので正面に来るまで分からなかったのです。その瞬間、絵に描いたような二度見・・・そして第一声『で・・・出たあああ』ってお化けかっ(笑)



いやー、ありましたねえ。驚いたのが深い軒の出、二階部分が跳ね出しているためアンバランスに思えるほどです。コレ、明らかに赤線時代以前からのものですよね。公許のものかどうかは不明ですが、やはり遊廓由来の遊里だったのかもしれません。



出桁造り、まだまだしっかりしています。玄関の欄間には美しい組子が入っていたのですが、酷いブレブレ写真・・・唯一の心残りです。



奥には斜めになった格子と窓、中はどうなっているんだろう。



近くにあったお店?妙に惹きつけられたのですが、直されすぎていて以前の姿が分かりません。



あ、此処に出るんだ・・・土蔵は緑屋旅館さんのものなのですが、まだニャンコがいる・・・しかも数増えているし(笑)



実はこっち側にも大門があるんですよねえ。



しかも隣は緑屋旅館さん、実はその1の時点で大門の存在判明しておりました。別に隠していたわけではなく、レポの流れで自然にそうなってしまった・・・と言い訳しておきます。あ、大門の電飾が瞬き始めた、そろそろお暇の時間のようです。



今出川に架かっていた木橋。古いものではないようですが、何か由来があるのでしょうか。



情報が皆無・・・唯一の手がかりである地図上で場所を予想・・・地元の方の証言・・・そして場所が一致・・・遂に遺構?を発見。久々に理想的な流れ、そして充実した探索になりました。



郡山に向かう車窓、凄絶な夕焼けが始まりました。ファインダーを覗いていると突然闖入してきた福島県警・・・これはこれで面白いので載せちゃいます。

以上で石川町の探索はオシマイ。情報の少ない町を地図と勘だけに頼って彷徨うのは楽しいと改めて知ることになりました。まあ、町の選択を誤ると悲惨ですけどね(笑)今日はこのまま郡山に一泊します。一泊するのはいいのですが、実は明日がノープランなんですよね。何処に行こうかな・・・。

告知 幻燈街2014

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毎年恒例のneonこと大倉ひとみさんの個展『幻燈街2014』が開催されます。期間は5月28日(水)〜6月1日(日)までとなっております。いつも秋じゃなかったっけ?ちょっと早いんじゃない?と思われる方がいらっしゃるかもしれません。実は場所が東京ではないのです。関西の皆さんに朗報です。なんと今回は京都ですぞ。日本最古の公許の遊里とされている島原(嶋原)遊廓、そこの築250年の揚屋を改修した『きんせ旅館』さんが会場になります。業界ではつとに知られた有名な遺構でございます。

3年前に同じタイトルの個展をされていますので、今回の『2014』はそれの続きということになるのでしょうか。ひとみさんのブログを拝見しましたが、真っ先に浮かんだのが原点回帰と言葉でした。ですので、遊里関係の物件がモチーフになっている絵が多いようです。A県N市N区Oの路地裏に佇むBAR、C県K市のレディースサークル、K県U市の遊廓跡の謎のくすんだピンクといった感じでどこかのしょうもないブログで見かけたような物件があるかも!?また、K県Y市Yの群青色タイル、T都S区Tのバルコニーといった既にこの世に存在しない物件も鮮やかな色彩で蘇っておりますよ。

あ、そうそう、関東の方にも朗報があるんですよ。東京でも9月に同じ個展が開催されます。今回の展示に加えてプラスアルファがあるようですので、今回を逃した方は是非ともこちらにお越しくださいませ。

考えてみますと、遺構の空間で遺構の絵が鑑賞できるというわけですよね。これは滅多にない体験だよなあ。日時限定のようですが、ひとみさんも常駐されるようです。いくら居てもぶぶ漬けを勧められることはないと思いますぞ。気が済むまでご鑑賞おくれやす〜。

詳しくは上のDMの画像をクリックしていただくか、ひとみさんのブログまでどうぞ。

◆大倉ひとみブログ『N的画譚』 http://neontica.blog51.fc2.com/
◆きんせ旅館 http://www.kinse-kyoto.com/

福島県 いわき市201404(再訪編)

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四つ辻向こうの遊廓跡・震災で消えた近代建築・廃墟裏の桜と謎の銅像

ノープランでもなんとかなるものですな。


 『女の線区』ことJR水郡線の旅も郡山でオシマイ。この総延長150キロもあるローカル線を水戸から乗り倒すのって乗り鉄以外では結構珍しいのではないでしょうか。今日は郡山に一泊するのですが、実は明日の予定が真っ白、ノープランなのです。急遽思い立った旅でしたので、二日目まで手が回らなかったわけ。ホテルのPCでプランを練るつもりなのですが、その前に腹ごしらえと駅を出た途端とんでもない寒気に襲われビックリ。おまけに冷たい氷雨も降り出しちゃうし、もうすぐ桜が開花するというのにどうなっているのでしょうね。赤線跡近くで見つけたホルモン大豊さんで燃料補給、塩ホルモンって初体験でしたがなかなかイケますな。ホロ酔い加減で店を出たのですが、あまりの寒さのせいでホテルに着くまでにすっかり醒めちゃった(笑)

 ロビーのPCをお借りしてプランの検討・・・幾つかの案は頭の中にありました。福島市を再訪して、その先の以前から気になっている桑折町を訪ねる案・・・帰りがちょっとしんどいか、却下。帰りルートの途中にある須賀川市と白河市を再訪する案・・・去年の今頃に行っているため却下。そうだ、三春町を再訪しようか、でもまだ滝桜咲いていないしなあ・・・と地図と睨めっこしながら腕組みしていたのですが、ある町の存在に気付きました。三春町を通るJR磐越東線の終点であるいわき市です。7年ぶりになりますか、当時はこういったもの(遊里跡)に目覚めたばかり、遊廓跡とされる界隈をおっかなびっくり歩いてみたのですが何も発見できなかったなあ。もう一度ちゃんと確認してみようか・・・というわけで7年ぶりにいわき市を再訪することに決定。隣町の湯本も再訪して、時間が余ったら前回行けなかった小名浜を訪れるというプランです。まあ、あまり時間を気にせず流れに任せて漂う感じでいきたいと思います。

 『平五色町遊廓 福島県石城郡平町字五色町に在つて、常磐線平駅下車東へ約十二丁の地点に当つて居る。人力車賃約五十銭。本遊廓は明治四十年に設立されたもので、現在は貸座敷が六軒、娼妓が四十八人居る。娼妓は全部居稼制で、東京式の廻し制に成つて居る。店は大抵陰店である。御定りは甲三円、乙二円六十銭で、本部屋の御定りは五円である。此れで酒肴が皆附く事に成つて居る。遊興税は全額の八分五厘である。芸妓を呼べば一時間玉代が一円である。炭山が近い丈けに炭坑節が盛んであり、盆には磐城盆踊りが盛大である。妓楼は、小泉楼、新甲子楼、栄楼、大豆楼、住吉楼、萬歳楼の六軒』

 以上は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。平とありますが昭和41年(1966)の周辺町村との合併で誕生したのが現在のいわき市の姿、それまでは平市でした。五色町は現在も存在しています。距離方角共『全国遊廓案内』の内容と合致していますのでこの界隈にあったはずなのです。前回も此処を歩いたのですが何も収穫はありませんでした。まあ、当時は駆け出しでしたから・・・今の私は違うのだよと言えるような状況になるといいのですがね。とりあえず地図を出力させて貰ってポイントを手書きで書き込み即席の探索マップを作成。まあ、これがあればなんとかなるでしょう。

 翌朝、凍えるような寒さの中、郡山駅を出た磐越東線。三春を過ぎた辺りから車窓の風景が一変します。なんと、一面の雪景色。昨晩の氷雨が雪に変わったようです。乗客の皆さんは至って普段どおりでしたが、4月の雪ってこの辺りでは普通のことなのですかね。水墨画のような風景はいわき市手前で消えてしまいましたが、一時間半の列車の旅が退屈せず楽しめました。降り立ったいわき駅前、いわき市立図書館という強力な援軍が待っておりました。何か遊里に関する書物をと軽い気持ち入ったのですが、そこで見つけたのが下の地図(クリックで拡大します)。

 記憶が曖昧で申し訳ないのですが、コレ、確か大正7年(1918)に発行されたものだったかな。赤丸にハッキリと『五色町遊廓』と記されています。現代の地図と照らし合わせてみますと、町を東西に貫く国道6号線の五色町交差点附近がそれになるようです。でも、此処って前回も訪れたよなあ、何も見つからなかったのですが・・・。国道6号線は戦後になって開通したようですので、道路の造成で消え失せてしまったのでしょうか。まあ、そのあたりのことを再確認しに行きましょう。

註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



駅の近くで出会ったかなり奥行きのある大谷石造の蔵。何を貯蔵していたのかは分かりませんが、現在は飲食店が店子さんになっているようです。



その先に見事な造りの商家が現れます。元禄13年(1700)創業の旧諸橋金物店釜屋さん、築年代ははっきりしないようですが100年は経っているとのこと。左は重厚な銅板貼りの見世蔵、右には防火の袖壁が突き出した焼き過ぎ煉瓦蔵。その間を何となくロマネスク風の洋館が繋いでいるという豪華版。



分厚い袖壁をご覧下さい。こりゃ凄いわ。



現在は見世蔵が美容室、煉瓦蔵がバー、洋館がカフェといった感じで第二の人生を歩んでおります。



五色町手前の鎌田町で見つけたお宅の門がステキ。



前書きの地図をご覧下さい。遊廓の手前、夏井川に架かる鎌田橋という橋がありますね。この橋は今も健在です。もちろん当時のものではないと思いますが。車は通行できない歩道橋です。



橋の袂に河原子地蔵堂という小さな祠があります。別名首切り地蔵という恐ろしい名前が・・・元文3年(1738)に発生した一揆、後日捕らえられた代表者が近くの鎌田河原で斬首されたそうです。それを供養するために建立されたものとのこと。哀しい歴史があったのですね。



遊廓跡と思われる五色町交差点の手前、何か名残みたいなものをとフラフラしてみましたが、何とも判断が難しい物件ばかり。



此処が五色町交差点、案の定な〜んにもありません。やはり国道造成と共に消えてしまったか・・・このときはそう思ったのですが、帰ってから航空写真などで調べてみましたら間違っておりました。どうやら交差点の向こう側(南側)が遊廓跡だったようです。仕方なく禁じ手であるストリートビューでも確認してみましたが、結局収穫はありませんでした。うまくいかないものですな。



駅の近くに戻って参りました。そこで見つけた『ヤングサロン たいらっ娘』・・・これは珍しい、Aカップの女の子専門店ですか。まあ、嗜好というものは人それぞれですからねえ(すっとぼけ)もちろん『たいら』は『平』のこと・・・のはず(笑)



近くには前回偶然出会った白銀小路という飲み屋横丁。



以前は随分と寂れた感じでしたが、現在は夜明け市場という震災復興のシンボル的な場所になっているようです。いわき市は東日本大震災で甚大な被害が発生しています。主に津波によるものだと思いますが、400名を超える方が亡くなっている被災地なのです。



7年前はこんな様子、えらい変わりようですな。



駅前通りを渡って平二町目と三町目へ・・・ビルとビルの間が更地になっていますね。



嘗て此処にはこんな近代建築が建っていました。ナカヤ洋服店さんです。無くなった理由はもうお分かりだと思いますが、震災で何かしらダメージを受けたようです。いわき市では震度6弱を観測しています。



残念だったのは近くのコチラも消え失せていたこと。昭和初期竣工とされる中野洋服店さん、お隣の瓦葺の堀薬局さんと共に駐車場に変わっておりました。この独特な鐘楼風の塔、もう一度見たかったです。



市立図書館が入るショッピングセンター裏手にある看板建築は無事。コレ、色分けされていますが、一棟なんだと思います。前回のときは足場が組まれており、ちょうど外壁の塗り替えの真っ最中でした。帰りに此処の並びにある洋風食堂ヴォン・アッペティートさんで昼食、お野菜たっぷりの牛の煮込みおいしゅうございました。



その裏手の田町はお店が連なる飲み屋街、かなりの規模です。



その中にこんなものが・・・最初はもしかすると検番!?と思ったのですが・・・



どうやら純粋な舞踊の稽古場みたい。でも、これだけの歓楽街です。芸者さんがいても不思議ではないですよね。



前回の様子はあまり覚えていないのですが、更地が増えているような気がします。これも震災の影響なのでしょうか。



良さげなお店ですね。



相変わらず飲み屋建築は面白いなあと思いながら見上げた空、半端ない電線量に唖然。



この飲み屋街、もっと西に続いているのに気付きました。平れんが通りというそうです。



変なゲートがある焼肉屋さんが目を引きますが、問題はお隣のお店。



『サムライ』ってかっこよすぎでしょう。でもなんか笑っちゃう(笑)



通りは次第に寂しくなってきて、仕舞いにはこんな廃墟が待ち構えておりました。



廃墟裏手の更地、ほころび始めた桜の根元に何かあるようですよ。



近寄ってみるとこれが銅像、『鷹寄千代女史像』とのこと・・・えーと、どちら様???ネットでも一切ヒットしなかったのですが・・・。



明治10年(1877)創業の割烹谷口楼さん。建物は新しいものですが、昭和63年まで使っていたという三階建てのお店が素晴らしいのなんのって。気になる方はお店のHPでどうぞ。コレ見たかったなあ。



向かいには何となく気になる造りのお店が二軒。界隈には谷口楼さん以外にも割烹が数軒あるわけでして、花街とはいかなかったのかもしれませんが、それに近いものがあったのではないでしょうか。



近くにある平看護家政婦紹介所、変形の入母屋屋根と軒下の装飾が面白いです。



此処だったんだ・・・前回も訪れた昭和な模型店、いいじまホビーさん。建物もレトロフューチャーだったのには気付きませんでした。



その先の飲み屋さんが入った長屋風の看板建築、頂部に装飾が残っておりました。



前回の写真を見直しておりましたら、何処で撮ったのか全く覚えていない一枚を見つけました。もしかしたらコチラも既に・・・。それにしてもこの頃の写真の色合い、今のより断然好みなんですけど・・・。

以上でいわき市の再訪編はオシマイ。結局、遊廓跡は跡形も無く消え失せていたという残念な結果に終わりました。まあ、そう毎回毎回うまく事が運ぶわけありませんよね。次回は隣町の湯本、この町も前回訪れております。目的は何と言ってもあの芝居小屋・・・しかし、過酷な現実が私を待ちうけているのでした。

福島県 いわき市湯本201404(再訪編)

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直前まで現役だった横丁建築・妓楼風元ストリップ劇場・嗚呼三凾座よお前もか

風で捲れる赤テント、踊り子さんもこんなのをヒラヒラさせていたのでしょうね。


 いわき駅からJR常磐線で水戸方面に戻ること二駅で湯本駅に到着、嘗ては湯本町でしたが現在はいわき市の一部になっています。この町もいわき市同様7年前に訪れております。湯本の名のとおり、此処は古くからの温泉地。諸説あるようですが、起源は奈良時代まで遡るそうで日本三古湯の一つとされているそうです。他の二つは道後温泉と有馬温泉ですので、世間の認知度からするとかなり劣勢だと思います。これは静かな湯治場であるという意味ですので、くれぐれも誤解なさらぬように(笑)実際のところ、若干寂れ気味であるということは否めません。まあ、拙ブログ的には有難い町なのですがね。

 湯本のもう一つの顔が炭鉱の町。福島県富岡町から茨城県日立市まで広範囲に広がっているのが常磐炭田です。発見されたのが戊辰戦争直後、首都圏に近い炭山として注目されましたが、硫黄分が多くあまり品質は良くなかったようです。それでも昭和51年(1976)に閉山となるまで採掘は続けられました。湯本周辺でも数多くの抗道が掘られ、現在も廃墟マニア垂涎の遺構が点在している地でもあります。戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を見ますと、駅の東側に膨大な数の炭鉱住宅と思われる建物が規則正しく並んでいるのが分かります。古くからの温泉に隆盛を誇った炭鉱・・・遊里が必要とされる条件が揃っているわけです。もちろん、この町にも存在していましたよ。以下は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。

 『湯本町遊廓 福島県石城郡湯本町に在つて、鉄道は常磐線湯本駅で下車する。湯本は元温泉場として有名な処だつたが、近年は温泉場としてよりも、炭山の一中心地として知られて来た。其れは温泉の湧出量が減り、温度も下つたからであるが、一つには抗夫其他鉱山関係者の出入が多く、界隈一帯の歓楽境と成つたからであらう。附近には磐城炭鉱、入山炭鉱、大日本炭鉱等があつて、駅の附近等は、殆んど石炭の山脈の様に成つてゐる。貸座敷は五軒程あるが、私娼からどしどしと其の領分を侵食されつつある形だ・・・』

 私娼が勢力を拡大していたようですが、それにしてもたった五軒というのはちょっと寂しいような気がするのです。温泉に炭鉱と盛りだくさんなのにね。前夜、ホテルのPCで地図を眺めたかぎりでは、遊廓特有の区画みたいなものは見つけられませんでした。帰ってから昔の航空写真でも確認してみましたがやっぱり空振り・・・いったい何処にあったのでしょうね。なんだか始める前から結果が判明しちゃっておりますが、今回は下調べなしのノープランの旅ですのでご理解くださいませ。実は最初から遊里跡目当てではないのです。この町を選んだのは、あの郷愁を誘う芝居小屋に再会したいから。しかし、彼は思いもしなかった姿で私の前に現れたのでした。

註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



駅を出て右へ・・・前回は歩かなかった一画を探ってみましたが収穫なし。こりゃあかん、すぐさまUターン、温泉街を目指しましょう。



途中にある『カラオケねるとん』・・・バブルの頃からこのまんまなんだろうなあ。



常磐線を跨ぐ県道14号線(御斉所街道)の陸橋下で見つけた毒々しい赤で彩られた元飲み屋さんと思われる物件。アーチ窓が並んでいます。



この赤、まるで場末バーのベテランママさんのルージュみたい・・・。扉上のプラスチッキーな照明がカワイイ。



照明繋がりになりますが、この町、レトロな街灯にも注目ですぞ。



お隣の羽が舞う型板ガラス、これがまたイイ。このデザインは初見です。



常磐線と並行する通りを北へ・・・分岐している路地を覗いてみました。



現役のお店は少ないようですな。



この通りに温泉宿は少ないようですが、湯治客はおろか人影さえも皆無・・・。



途中の分岐する路地に足を踏み入れた途端、7年前の記憶が鮮やかに蘇ってきました。此処、訪れている・・・。



所謂横丁建築です。前回のレポには此処がストリップ劇場だったと書いているのですが、はて?どうしてそう言ったのか全然覚えていない、たぶん間違っています。それにしても酷い状態です。東日本大震災で受けた損傷だと思われます。



こんな状態です。さすがに現役のお店はと覗き込んでみますと、めだかさんの貼り紙に気がつきました。



閉店のお知らせなのですが、なんとほんの一週間前まで現役だったとは・・・。



どうやらめだかさんが最後のお店だったようです。37年間、お疲れ様でした。



近くのビル、なぜか外壁を亀がよじ登っておりました(笑)



地元で温泉通りと呼ばれている通りに出ました。何となくですが兄弟みたいに見える看板建築の奥、重厚な瓦屋根が顔を覗かせています。あ、此処も覚えている・・・。



寺亀醸造元さん、味噌と醤油の蔵元です。



7年前の様子、この時点で既に現役ではなかったと記憶しています。手前の土蔵は無くなっておりました。



そして今回、土蔵跡の奥、お分かりになるでしょうか。赤煉瓦の煙突が倒壊しておりました。これも震災によるものでしょう。



別角度から・・・窓の向こうが青空・・・倒壊した煙突が屋根を突き破ってしまいました。あれから3年間、そのまま放置されているようです。



温泉通りに戻って更に北へ・・・しばらく行くと見えてくるのが冒頭画像の赤テント、いわきミュージックさんです。ライブハウスとありますが、元ストリップ劇場です。まあ、ストリップもライブですからね(笑)ネットの情報では、10年ぐらい前までは現役だったようです。赤テントに目が行ってしまいますが、急勾配の入母屋屋根にも注目です。コレ、元々は妓楼だった・・・と妄想すると楽しいわけです。そもそも前身は何だったのでしょう。



塞がれたもぎりの窓口には色褪せた造花の薔薇・・・。閉館後はレンタルスペースと余生を送っていたようですが、もう使われていないみたい・・・。



いわきミュージックさん脇の路地を辿っていったら常磐線にぶつかってしまった。そこで出会った一部が石蔵になっている珍しい造りのお宅です。



今度は山側の裏通りへ・・・此処でも昭和レトロな街灯を発見、カワイイですね。



近くにはこんな欄間があるお宅があったりするのですが、どうもピンとこないわけ。



果たして遊廓は何処にあったのでしょう。仕方がない、遊廓跡は諦めて当初の目的である芝居小屋を目指しましょう。



温泉通りに出て駅方面に戻ります。途中には両サイドにボーダー状の装飾が残る看板建築があります。コチラのほうが元ストリップ劇場っぽいですな(笑)



全く覚えていないのですが、7年前も写真に収めておりました。



お隣にも看板建築の商店があります。おや?裏手の造りが面白いですよ。



洗い出し風の左官仕上のベランダ、コレってもしかして・・・違うよなあ。



その先の山側に入る路地の突当りに目的の・・・って、な、無い!!綺麗さっぱり更地になっちゃってる・・・。近くでお子さんと遊んでいた若奥さんに尋ねたところ、去年の6月に解体されてしまったとのこと。此処があったからこそこの町を再訪したのに・・・そりゃないよ・・・。



在りし日の姿を載せておきます。これが目的の芝居小屋、三凾座です。『さはこざ』だと思っていたのですが、『みはこざ』とも呼ばれていたようです。建てられたのは明治30年代、当初は芝居小屋でしたが大正時代に映画館に改修されます。炭鉱が閉山された6年後の昭和57年(1982)まで現役だったそうです。湯本の盛衰を見守ってきた建物なのです。7年前に訪れた直後に国の登録文化財に指定されたと聞き、これで暫くは大丈夫だと思っていたのですが、震災にやられてしまいました。ファサードに大きな被害はなかったようですが、裏手の屋根が崩壊するなど大きなダメージ受けたのが解体の理由のようです。有志の方が活用法を探っている最中の出来事でした。またこの世から大好きな建物が消えてしまいました。



嗚呼、ショックと思いながら適当にフラフラ・・・あら、また見覚えのある場所に出ましたよ。



だるまさんとすみれさん、覚えておりますよ。



7年前はこんな感じ、突き当りの下見板張りのお店は無くなっておりました。この路地、とてもいい雰囲気なのです。



近くにあるのが共同浴場の『さはこの湯』、パンフには江戸末期の建物様式を再現とあるのですが、こんな妓楼があったとしてもおかしくないと思えるような造りになっております。まあ、外観はそんな感じですが、中はいまいちなんですけどね(笑)浴室もあまり広くないし。でも、230円で源泉かけ流しですから、近くの宿の立寄り湯などに比べたら大変お徳だと思いますぞ。

1時間ほどゆっくり湯に浸かり全身フニャフニャ状態、缶ビールを呑んだら三凾座のこともあって完全にオシマイモード(笑)もう何もする気が起きません。これでお暇させていただきます。また小名浜に行けなかった・・・。以上でノープランの旅はオシマイ、たまにはこういうのもいいですね。

千葉県 千葉市201404

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大人の風呂屋街の招きニャンコ・花街の僅かな残り香・モノレールが貫通する遊廓跡

早朝の大人の風呂屋街、とても静かです・・・。


 今回は千葉県の県庁所在地です。千葉という地名は平安時代中期に書かれた和名類聚抄に『下総国千葉郡千葉郷』と記されているそうです。古くから千葉と呼ばれていたわけですな。現在は典型的なベッドタウンといった様相の千葉市ですが、嘗ては有数の軍都でした。主に帝国陸軍関係の施設が多かったようですが、野戦砲兵学校に戦車学校、兵器廠などなど。更には鉄道連隊、津田沼から軍用線が延びていたそうです。変わったところでは、唯一米国本土を爆撃した風船爆弾を飛ばした気球連隊なんてものも駐屯していました。兵隊さんのいるところに遊里有りです。もちろん、この町にも存在していましたよ。当時の様子は上から『全国遊廓案内』、『よるの女性街・全国案内版』になります。

 『千葉市遊廓 千葉県庁の所在地であつて鉄道に依る時は総武線千葉駅にて下車すれば自動車の便がある。昔は千葉城主の城下として相当繁華であつたが天正年間千葉氏亡びてから、次第に衰へた。但し明治時代に至つて県庁を置かれ行政上の中心となつたので、官公衛歯科大学校等設けられるにつれ、次第に遊廓も発展し現在では約十軒八十人位の娼妓が居る・・・附近の名勝、千葉神社、大日寺、来迎寺、千葉寺等猫鼻台(亥鼻台の間違いと思われます)は駅から東南十五町袖ヶ浦を眼下に見下し風光絶佳である。又海水浴場では登戸が有名である』

 『芸妓は一〇〇名、ここの花代はかわつていて料亭ではお約束一〇〇円、時間三五〇円で四五〇円、次時から一五〇円。旅館に入るとお約束一〇〇円、時間四〇〇円で五〇〇円になり、次時から二〇〇円増。赤線は一〇軒で二五名。平均八〇〇円で泊める』

 相変わらずなのですが、何処にあったのか全く記されていない、案内になっていないわけです。『よるの女性街』に至っては費用の話に終始しているし(笑)遊廓だけでなく花街も存在していたのですが、それについてはある程度の情報があり場所も特定することができました。しかし、遊廓は完全にお手上げ状態、困ったなあと腕組みしているとはたと思いつきました。千葉県民の貴兄でしたらご存知だと思いますが、現代の遊廓とも言える栄町です。そう、大人のお風呂屋さん街の存在です。遊廓から赤線、そして風呂屋街と変遷していった例は全国にありますよね。しかし、地図を見てもいまひとつ・・・困った揚句禁断のストリービューにも手を出してしまいましたが、やはりピンと来ない。此処じゃないの???そんなこんなでこの町については後回しにしていたのです。

 それが解決したのがつい先日のこと・・・ウィキペディアで千葉市を開いてみてください。1930年頃の千葉市周辺の地図があると思います。総武本線と並行している京成電車の『しんちば』駅の右下辺りに『新地』と表記されています。念のため、よく利用させて頂いている京都にある『国際日本文化研究センター』のサイトでも確認してみました。データベースから所蔵地図に飛んで千葉県を検索してください。昭和12年(1937)に発行された『千葉市新地図』が見つかると思います。やはり同じ場所に『新地遊廓』と記されています。どうやら此処で間違いないようです。栄町側ばかりに注目していたら実は反対側だったというわけ、またやっちゃった・・・。この『日文研』のデータベース、明治から昭和にかけての古地図データが豊富でして大変便利なのです。しかも拡大縮小できてしまうというスグレモノ。各地の図書館や資料館などのサイトでも古地図が閲覧できたりしますが、いきなり江戸時代まで遡っちゃうのが多いのが難点。遊里を探すという目的からするとこれはあまり有り難くない(笑)その頃のを見てもチンプンカンプンですしね。

 場所は判明しましたが、遺構が残っているのかがいちばん肝心なところ。何しろ軍都だった千葉市は終戦間際の大空襲で、中心街の70%が焦土と化しているからです。終戦直後に米軍が撮影した航空写真には・・・オオッ、周囲の家屋とは全く違う大きな黒い屋根が密集しているのがハッキリ写っております。どうやら海側は空襲から逃れられたようです。順に年代を追って見ていきますと、どうやら70年代後半までは何かしら遺構と言えるものが残っていたようです。しかし、1979年(昭和54)に撮影された航空写真を見ますと状況が一変します。すっかり消え失せている・・・それどころか道路の位置自体が変わっているわけです。これは大規模な区画整理と再開発によるものだと思われます。まあ、駅に近い場所ですから仕方ないのでしょうが・・・などと地図と写真を見てああだこうだ言っていても始まりません。もしかすると何か痕跡くらいは・・・と淡い期待を抱いて早朝の総武線に乗り込んだのでした。



JR千葉駅を出るとまず目に飛び込んでくるのが物凄い鉄骨の架構、千葉モノレールです。レールから車体を吊る懸垂式というやつですな。高所恐怖症の私のような人間にはちと辛い乗物かも。レールの分岐部分、とんでもないことになっております。まるでピタゴラスイッチみたい(笑)カーブの先が栄町です。



早朝の栄町、現在時刻は6:00です。お店が開店する前にちょっとお邪魔させてください。



あんみつ姫・・・必ずありますよね、お城を模したお店。装飾に葵の御紋らしきものが使われているのですがいいのでしょうか。まあ、微妙に変えているんでしょうけど。



中央に植栽がある広場みたいな処に出ました。お風呂屋さん以外にも廃れきった飲み屋さんが並んでおります。左のアラビア館さんではボーイさんが忙しそうに出入りしていました。物凄く惹かれますが、私には遊里跡を探すという重要な任務があるのだ(爆)書いていて空しくなってきた・・・。



廃墟と化した飲み屋さんを覗いてみるとこんな酷い状態。奥には浮世絵風の女性の絵が飾られています。



アラビア館さんの招きニャンコ。実際にゴロニャンして客引きしてくれたりして(笑)私にはしてくれなかったけど・・・。



なんと金泉さんにも。この仔もゴロニャンしてくれない・・・金が無いのバレていたようです。



結構な数の飲み屋さんが並んでいるのですが、現役のお店は少ないようですね。



お風呂屋さん街を抜けて栄町の東隣の院内一丁目へ・・・そこで寄棟屋根の洋館風の物件を見つけました。外壁のモルタルの廃れ具合が最高レベルですな。



千葉県中華料理環境衛生同業組合とのことなのですが、華僑の方の組合みたいです。



その先の並びがなかなかステキ、いいでしょコレ。



近くで見つけた料亭風の物件。シャッター上の看板に鳥の絵が描かれています。



ご覧のとおり、とっくの昔に退役されているようです。



素晴らしい雰囲気ですなあ。現役だったら行ってみたいお店です。



千葉駅方面に戻って国道14号線(佐倉街道)を渡った先、中央三丁目界隈が嘗ての花街だったそうです。当時は蓮池と呼ばれていました。前書きの『よる女性街』に記されているのは此処のことだと思います。



パルコの先の路地裏、奥の二階建ては割烹はるのやさん。詳細は不明ですがおそらく遺構の一つだと思います。



表通りに面したはるのやさんの玄関廻り。窓の少ない造りが妙に気になります。



はるのやさんの物干し台、脇では黒ニャンコが凝固中(笑)



近くの路地、看板建築風の変わったお店を見つけました。ミタカ寿司さんです。手前もそうですが奥の高欄風の手摺部分が気になります。



お隣には板塀を構えたお宅。元置屋さんだったりすると嬉しいのですが、そうはうまく物事はいかないのでしょうね。



路地を抜けると、正面にコレが・・・元飲み屋さんだと思います。鉄板の腰に鉄平石、ショーケースの展示物の並びがいい味出しております。



別の路地、照明に蓮池と書かれているのは丸万寿司さん。花街が現役の頃から此処でお店を構えているそうです。お店のHPに花街のことが書かれてあります。



地図には丸万寿司さんの向かいに割烹早坂とあるのですが・・・なんと解体の真っ最中でした。



路地を抜けたところで見つけたお店の造りがちょっと面白いのです。



床屋さんかパーマ屋さんだったのではないのかと。でも、入口が二ヶ所というのが不思議です。グレーがかった水色のモザイクタイルが使われています。



国道126号線沿いにあるのが千葉市中央区役所。嘗てこの地に建っていたのが旧川崎銀行千葉支店、昭和2年(1927)竣工、設計は矢部又吉。あ、過去形は間違いですね、この近代建築、今もこの場所に建っているのですもの。近代建築なんて見えないじゃんと思われるかもしれませんが、もっと近付けば分かるはずです。



イオニア式のオーダーが見えますが、あの部分が旧川崎銀行千葉支店です。手前の丸柱は後から建てられた区役所部分になります。簡単に説明すると、以前の建物を包み込むようにして建物を上空に増築したと言えば分かりやすいでしょうか。その場所に建っていた近代建築のファサードだけを、新しいビルの外壁にペタッと貼り付けたのを見たことはありませんか?あれとは違って既存の建物には出来る限り手を加えていないのです。鞘堂方式といいます。あ、いちばん分かりやすい喩えが浮かびました。中尊寺金色堂、お堂(金色堂)をお堂で覆っていますよね、あれと同じ考え方です。しかし、様々な理由があったと思うのですが、とにかく丸柱が物凄く邪魔・・・この一言に尽きる。



更に南へ・・・市内を東西に流れる都川を渡ります。川沿いには寄棟屋根に出桁造りの商家が残っておりました。背後に見えるビルは千葉県庁です。



旧道っぽい細い通りを抜けて国道126号線から続く大通りに出ました。何かの気配を感じて振り返るとコレが・・・感想は言わないでおきます・・・。



大通りから覗き込むと突当りに十字架が見えるはずです。



日本基督教団千葉教会、明治28年(1895)に建てられました。設計はドイツ人建築家のリヒャルト・ゼール。千葉市には空襲のせいでこういった近代建築が殆んど残っていないのです。貴重な物件といえるでしょう。早朝ということで中が見られなかったのが残念です。



そろそろ遊廓跡に向かいましょうか。都川沿いを行き、JR外房線と京成千原線の高架を潜ったら線路沿いを千葉駅方面へ。



国道4号線(千葉街道)に出たら左折、そごうを通り過ぎると千葉モノレールが合流します。その先、登戸二丁目交差点でモノレールが再び国道から離れていきます。交差点の両側、神殿風の建物と奥の駐車場辺りが遊廓跡なのです。ちなみに神殿風の建物はウェディングドレス専門店、なんだか不思議な取り合わせですな。



遊廓跡と思われる界隈を一通り歩いてみましたが徒労に終わりました。



このモノレール、遊廓跡を貫通していることになります。それにしてもコレ、高所恐怖症の私にとってはちょっとしたアトラクションですな(笑)



一廓の東の外れで見つけた天満宮、何か無いかと探してみましたが全滅。記念之碑なるものをよくよく見ましたら、この神様、平成2年にこの地に移転したものなんだとか・・・ワハハ・・・。

遊廓跡から南西に300mほど、国道357号線(湾岸道路)が走っています。嘗てはこの辺りが海岸線でした。往時は妓楼の二階三階から海が望めたのではないでしょうか。今やそれも埋立てによって遥か彼方に遠ざかってしまいました。ちょっと寂しいですが、都市化の波に埋もれてしまった遊里ということなるのでしょうね。以上で千葉市の探索はオシマイ。

千葉県 君津市久留里201404

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名水湧く小さな城下町・アーチと円と鑑札と・細くて長〜い横丁建築

円形の部分には妖しげなステンドグラスが嵌っていた・・・と妄想すると楽しいわけ。


 千葉市の後、木更津市を再々訪致しました。そして以前から場所が不明だった遊廓跡をようやく現地確認することができました。これも貴重な情報をコメントしてくださった方のおかげです。その様子については後日ゆっくりレポしたいと思います。さて、木更津駅に戻って参りました。駅の路線図をご覧下さい。木更津駅を起点にして東に向かう路線が見つかると思います。それがJR久留里線、千葉県民の方はご存知だと思いますが、他県の方で知っているというのは結構珍しいのではないでしょうか。この路線、大好物である盲腸線なのですよ。千葉県内を走るJR路線の中では唯一の非電化路線でもあります。以前から気になる存在でしたが、沿線に遊里と関係がある町が無さそうでしたので手付かずのままでした。

 重要なこと忘れておりましたが読みは『くるり』です。何だか妙に軽いノリの読みですな(笑)ちなみに同名バンドとは全く関係ないと思います。現在は君津市の一部になっておりますが、昭和19年(1944)までは久留里町でした。特徴としてまず挙げられるのが、町の西を流れる小櫃川が造り出した河岸段丘上に町の中心があるということになるでしょうか。河岸段丘の町って面白いところが多いのです。嘗ては黒田氏が治めた久留里藩三万石の城下町でした。町の南東に位置する山に久留里城があり、再建されたものですが天守閣が見られるそうです。また、定期的に市が開かれていたようでして『久留里市場』という町名が今も残っています。町の中心は久留里線と並行している国道410号線(久留里街道)沿いになるでしょうか、約600mにわたって家並みが続いているようです。下調べの段階では遊里に関する情報は皆無でした。城下町に市場・・・遊里が存在する条件が揃っているように思えるのですがね。ですので、今回は気ままなまちあるきといった感じで歩き出したのですが、そういうときに限って発見しちゃうのですよねえ・・・。



木更津駅を出た二輌編成の気動車は、長閑すぎる風景の中をノンビリ走り45分ほどで久留里駅に到着。実は久留里線は此処が終点ではなく、三駅先の上総亀山駅までレールが延びております。盲腸線マニアのくせに終着駅を訪れないとは何事だと思われるかもしれませんが、終点には亀山湖というダム湖があるだけなのですもの。今回はこれでお許しくだされ。久留里駅の開業は大正元年(1912)、木造駅舎は当時のものかもしれません。



広々とした駅前広場は最近になって整備されたものみたい。まず目に飛び込んできたのは左の洋館風の建物です。



クルリ運送という運送屋さんの社屋みたいです。建てられたのは昭和初期といった感じでしょうか。軒裏に持送り風の装飾が並んでいます。アルミサッシに変わっておりますが、以前は上げ下げ窓だったのではないでしょうか。外壁のトタン風サイディングがまことに残念。



短い駅前通りを抜けますと、線路と並行している国道410号線に出ます。町の目抜き通りになります。そして、丁字路には久留里城を模した大門があるわけ、凄いなこりゃ(笑)とりあえず大門側は置いといて私は左折しますよ。



すぐに駐車場に面した崩壊寸前のトタン建築が現れます。何だコレは!?と思いながら駐車場を横切っていきますと、駅前広場から続く線路と国道に挟まれた通りに出てしまいました。



そこに冒頭画像の物件がひっそりと佇んでおりました。最初は単なる廃屋かと思ったのですが、妙な違和感を覚えたわけ。



モルタル掻き落としの外壁にボーダー状の装飾、それが入口のアーチに合わせて優雅な弧を描いているところがお気に入り。取って付けたようなシャープなキャノピーとの対比が面白いですね。そして、塞がれている謎の円形部分・・・何だったのでしょう。



両開きの木製框扉、斜めハンドルだったら完璧だったのに。扉には『元固』で合っているでしょうか、それ以降が判読不能です。



そして『風俗営業(料理店)』の鑑札。千葉県で時折見られるタイプ、( )内が業態によってバーとかカフエーといった感じで変わります。ここで言うところの料理店とはいったい何を指しているのでしょう。現在の風営法に照らし合わせると『二号営業:待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興または飲食をさせる営業』というのがあります。待合とありますが、芸者さんが出入りする料亭・割烹も同じだと思います。客の隣に座ってお酌はOKなのですが、ダンスはダメなのです。ダンスがOKなのは一号営業になります。キャバレーなどがこれに当て嵌まります。それから判断すると、コチラ、料理店というよりもカフェーに近いような気がするのですが・・・如何でしょう。



あちこちで見かけるのが土管を重ねたような謎の物体。お宅の庭先などにニョキニョキ生えております。正体については後ほど・・・。



県の土木事務所の敷地内にありました。以前の庁舎でしょうか。



久留里市場(下町)交差点、此処で家並みが途切れます。交差点脇にはくるり庵といううどん屋さん。いい感じに鄙びておりますなあ。カレーうどん450円!?に物凄く惹かれましたが、木更津で頂いたあさり尽くしに謎のヤキソバがまだ未消化・・・我慢しますわ。



近くの浮戸神社、GS脇にあるという不思議なロケーションです。この神様、実は元々は仏様だったのです。当初は延命寺というお寺だったのですが、慶応年間に起きた廃仏毀釈騒ぎを恐れた町人が、本尊だった不動明王を日本武尊を祭主とする神社として届出て毀釈を逃れたのだそうです。



大門に戻って参りました。今度は潜った先を探ってみます。



最初に現れるのが明治元年(1868)に建てられたという木村屋金物店さん。土蔵造りの見世蔵、石蔵風に見えますがあれは左官による目地です。このレトロな家並みの中では最古参だと思います。



棟瓦が美しいですね。下屋の屋根は銅板の瓦棒葺きのようです。軽トラで乗りつけた老夫婦が農具を品定め中でした。



その先、お化けみたいな庭木があるのは・・・



吉崎酒造さん、寛永元年(1624)創業という老舗の酒蔵です。奥に見える橙色の三角屋根が気になります。



向かいにあるのが割烹旅館の山徳さん、かなりの大店です。



こちらも幕末創業という老舗なのです。



一軒置いた先にも金物屋があります。明治15年(1882)に建てられた紙屋金物店さんです。金物屋なのに紙屋とはこれ如何に(笑)見事な鬼瓦が載っておりますよ。



その先には明治36年(1903)に建てられた藤本屋商店さん。黒文字ようじとありますが、久留里の名産みたいです。



邸宅の立派な門の脇にあるのがニョキニョキ土管の正体・・・そう井戸なのです。この辺りは太平洋側に位置する清澄山系からの伏流水が豊富なところなんだそうです。この井戸、『上総堀り』と呼ばれる工法で掘られておりまして、名前のとおり君津市が発祥とされています。現在も井戸採掘の代表的なものとして受け継がれている工法でもあります。その技術自体が国の重文にも指定されているのです。



この清らかな水、ポンプアップしているのではありません。自噴しているのです。伏流水の水圧を利用して自然に噴き出しているわけ。数ある井戸の中には750mの深さまで掘っているのがあるとか!?この井戸群は平成の名水百選にも選定されています。では一口・・・嗚呼、うめえ。



脇道を線路方面に下っていきますと、萎れかけの椿の向こうに煙突が見えてきます。



こちらも酒蔵、享保元年(1716)創業の藤平酒造さんです。名水あるところに酒蔵ありですな。



裏道を駅方面へ・・・さきほど紹介した割烹旅館山徳さんの裏口を見つけました。鉄平石の上に銘木が立つという変わった門柱脇には、内照式の看板が残っておりました。



ここでも鑑札を発見です。嘗ては芸者さんが出入りしていたのかもしれませんね。



近くの小さな溜池の上では遅咲きの八重桜が満開でしたよ。



線路を潜って小櫃川に出る通りで見つけた謎物件、敷地に高低差があり写っているのは二階部分になります。



アプローチの階段がまるで舞台装置みたい(笑)登りきった入口廻りも興味深い造りになっているわけ。果たして正体は???トタンサイディングを引っ剥がせば分かるような気がするのです。



これが町のある河岸段丘を造った張本人、トロッとした流れです。試しにこの小櫃川を地図と航空写真で遡ってみてください。とんでもない蛇行が見られます。かなり複雑な地形を流れているわけ、千葉県の山間部を流れる川にこういうの多いですよね。本物かどうかは分かりませんが川廻しの痕跡らしきものも確認できます。



駅前広場に戻って参りました。そこで広場に面したコチラを発見。みゆき通り商店街・・・これは間違いなく横丁建築だ。それにしても細い・・・こんなの初めてです。



片側のみにお店があるタイプです。飲み屋さんらしき痕跡がありましたが、そのほとんどにはシャッターが降りたまま・・・。



そんな中、唯一現役だったのは中華の喜楽飯店さん。いやはや、それにしても物凄いロケーションですなあ。こんな感じですが地元では結構有名なお店みたいです。とんねるずの番組にも出たようで入口に写真がありました。



で、この横丁建築の出口はといいますと・・・木村屋金物店さんの真ん前なのでした。

ノンビリ気ままなまちあるきかと思ったら・・・鑑札のある謎物件に美味しい名水に激狭横丁建築といった感じで、強烈なしっぺ返しを食らったような久留里の探索でした。遊里の情報が無いからと舐めてかかるとえらい目に遭うわけです・・・良い教訓になりましたよ(笑)

東京都 台東区根岸201206 その1

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飲み屋の裏手は異界・柳並木向かいの花街跡・女の園に変身した元料亭

この一画の裏手は魑魅魍魎が跋扈する異界なのです。


 今回は台東区根岸です。花柳界が存在していたのですが、そちら関係の情報はその2でお話するとして、まずはその手前のことから始めさせていただきます。JR鶯谷駅と都道319号線(言問通り)に挟まれた細長い一画・・・そう、魅惑のラブホテル密集地帯のことです。全国各地にこういった場所がありますが、以前からその沿革などが気になっていました。渋谷円山町のように遊里が由来となっている処もありますが、鶯谷の場合にはそういったものは無かったはずだよなあと思っていましたら、こんな記事を見つけました。

 要約しますと、ラブホテルの前身は所謂連れ込み旅館・・・って、これは皆さんご存知ですよね。遊里由来となると、売防法施行後業者が転業して連れ込み旅館経営というケースが多いようです。鶯谷の場合はちょっと変わっています。元々この一画は商店街だったようです。戦後になって各地に現れ始めた連れ込み旅館の繁昌振りを見た商店主が「なんか流行っているからやってみよう」と転業したのが始まりなんだとか。お隣がそうならうちもうちもという感じで続々新規出店、その結果あの密集地帯が形成されたわけ。「なんか流行っているから・・・」それだけの理由で転業してしまう、いやはや昔の人は商魂逞しいですなあ。

 実は私、こういったものにちょっぴり詳しかったりします。あ、勘違いしないでください。仕事上でということですぞ(笑)25年ほど前になりますか、駆け出しの頃ラブホテルの計画にちょこっと関わったことがあるのです。計画自体はすぐにポシャっちゃいましたけど・・・。現在のはシティホテル並みの仕様とデザインのところが多いですが、当時はド派手で奇抜というのがまだまだ主流でした。ベッドなど備品も特殊なものが殆んどですから、それ専門のメーカーがあるわけです。分厚いカタログを開くと回転ベッドや謎の椅子(爆)などが幅を利かせている時代でした。個人的には綺麗なシティホテル風のより、連れ込み旅館の影を引きずる場末風が好みだったりします。まあ、現在のはよく知りませんけど(すっとぼけ)



起点は上野駅、駅前ロータリーの角っこにある黒猫館さん。以前は普通のアダルトショップだったと記憶しているのですが、いつのまにか『男推し』に・・・。



線路と国道4号線(昭和通り)に挟まれた一画を鶯谷駅へ向かいます。途中にあった飲み屋横丁、抜けると昭和通りです。男の酒場 狼の館・・・後で知ったのですが、コチラも『男推し』のお店なんだとか。



上野恩賜公園は古くからのハッテン場ですし、近くにはオークラ劇場、上野駅13番線ホームのトイレなんてものもありますよね。上野って駅周辺自体が『男推し』エリアでもあるわけです。そして、ちょっと行くと巨大ラブホ街、その先には花街跡・・・こう考えると東京ってつくづくおかしな都市だと思うわけです。



線路沿いをしばらく行きますと・・・



やがて通りは車も入れない路地になってしまいます。突当りに見えてくるのが鶯谷駅南口にある跨線橋です。



その下を潜りますと冒頭画像の場所に出ます。



階段を登って線路を渡ると鶯谷駅南口です。吉原の大人の風呂屋街へは、南口までお店の送迎車で迎いに来てもらうと便利・・・らしいです。



橋の袂の小さな飲み屋街、ファサードはこんな感じですが、線路側から見るとバラックっぽいのが気になるのです。この裏手にひろがっているのが巨大ラブホ街、男女の欲望渦巻く異界なのです。ちょっと前までは『たちんぼ』さんが昼間から客引きしていたのですが、今も立っているのでしょうか。おっと、あまり長居するとボロが出そうですので花街跡に向かうとしましょう。この一画の角にある焼き鳥のささのやさん、何度か通いましたがリーズナブルな美味しいお店です。



言問通りを少し上野駅方面に戻って根岸一丁目交差点を左折、金杉通り(うぐいす通り)に入りました。通りの左側は数少ない戦災から逃れることができた一画でして、所々にこういった戦前からの看板建築や町屋などを見ることができます。



黒漆喰の重厚な見世蔵も残っていましたよ。コチラは蒲鉾屋さんだったようです。



お隣には出桁造りの提灯の五十嵐さん、明治9年(1876)創業の老舗です。



途中の脇道を覗くと突当りにこんな端正な看板建築、何だったのでしょう。帰りはこの裏道を辿ってみることにします。



独特な看板建築が現れました。鈴木食品工業さんです。業務用のドレッシングやソースを製造している会社なんだそうで、創業は安政年間まで遡るという老舗なのです。



二階部分、洗い出し風の左官仕上に腰には茶の小口タイルかな?何よりもパラペットから突き出した柱型と円形部分が目を引きます。



後から塗り替えたのだと思いますが、突き出し窓でしょうか鮮やかな青のスチールサッシがいいですね。



通りを挟んだ向かいにはそばの甲州屋さん、屋号が鏝絵で描かれています。こちらの外壁も左官による洗い出し風仕上、オシャレなストライプ模様です。



その先の交差点、左折している通りが花街跡へと導いてくれるはず。目印は角に建つお好み焼きのぽんたさんです。



柳通り・・・その名のとおり柳並木が続いています。この通り、三業地の許可が下りた頃は細い路地だったそうで、現在の幅員に拡げられた昭和12年(1937)に柳が植えられ柳通りと呼ばれるようになりました。それにしては樹高が低いような・・・おそらく空襲で焼かれ、戦後になって再び植えられたものだと思います。梅雨時のジメジメした中、風にゆれる柳の葉に頬を撫ぜられながら歩くというのはよいものですな。



駐車場の向こうにサビサビトタン、これはいい。



柳通りの北側、根岸四丁目2〜6番が嘗ての花街でした。往時のままと思われるどん詰まりの石畳が残っておりました。



分岐する路地にあった高勢調理部と書かれている看板建築。料亭の厨房という意味でしょうか。



確かに続きの部分は何となくそれっぽい雰囲気があるような、ないような・・・。でもこの屋号、手元の資料には載っていないのです。



通りに戻って、車止めの角材が立っている別の路地を覗き込むと、奥に何かあるようですぞ。

前半はここまで。後半では迷路のような路地裏を巡り遺構を探します。これが思っていた以上に収穫がありまして、かなり楽しむことができました。帰りに選んだ裏道も面白かったですよ。お楽しみに。

東京都 台東区根岸201206 その2

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珍しい箱型の瓦には狛犬が乗っていたみたい。でもコレ、もう見ることができないのです。


 上村敏彦著『東京花街・粋な街』によりますと、根岸に三業地の許可が下りたのは大正10年(1921)のことでした。江戸の頃から続く伝統的な花街ではなく、新興勢力の部類に入るということで問題ないと思われます。元々は三河松平家の屋敷跡だったそうで、そこの2,000坪が指定地として開発されます。当時、周辺には後述する『御行の松』以外名所らしいものがない寂しい場所だったようです。地図をご覧になれば分かると思いますが、近くの上野不忍池には『池の端』という一大花街がありましたし、東に600mほど行きますと御大『新吉原』がデーンと構えているわけ。そんな巨大遊里の近くにある地味な遊里というのが最初のイメージでした。実際そんな雰囲気だったようで、粋人が好む大人の隠れ家的な遊び場だったそうです。

 昭和2年(1927)時点で置屋42軒、芸妓約100名、半玉12、3名という記録が残っているそうです。戦争が始まり昭和19年(1944)になると花街は一時閉鎖という憂き目に・・・さらに空襲で一帯に被害が発生します。どんな状態だったのかと思い、終戦直後に米軍が撮影した航空写真で確認してみました。確かに被害はあったようですが、一面焼け野原という感じではなく所々に戦災を逃れた建物が残っているように見えます。興味深いのは『柳通り』を挟んだ向かい側(現在の根岸三丁目、花街があったのは四丁目)が見事なまでに戦災から逃れていること。これはもしかすると柳並木が防火帯の役目を果たした・・・なんてことはないでしょうけど。

 戦後、花街は復活します。その後の料亭と芸妓の数の推移は以下のとおりです。昭和27、8年(1952、1953)料亭30軒、芸妓百数十名 → 昭和32年(1957)料亭28軒 → 昭和41年(1966)料亭20軒、芸妓70名 → 昭和51年(1976)料亭12軒、芸妓三十数名 → 昭和56年(1981)料亭9軒。どこの花街も同じですが、ゆっくりと衰退していったようです。『東京花街・粋な街』には、現在営業している料亭は『杉田』『福井』『増田』の三軒だけとあります。しかし、以下のレポをご覧になれば分かると思いますが、完全に『跡』と断言しても間違っていないかと。いつ頃消滅したのかは不明ですが・・・。その三軒のうちの一軒ですが、驚くべき変身を遂げていたのです。これは女性の皆さん必見ですぞ(笑)



前回からの続き・・・角材の車止めがある路地を覗き込むと、まず目に飛び込んでくるのがコチラ。いきなりラスボスが出現といった感じですな(笑)



すんばらしい手摺に注目ですぞ。拙ブログで度々高欄風、高欄風と馬鹿みたいに連呼しておりますが、これぞまさしく本物の高欄手摺。小口が腐食防止の銅板で包まれているのお分かりになります?小憎らしいことやっておりますなあ。



その全景、外壁の草臥れっぷりがいいですね。雰囲気からして戦災から逃れたものではないかと。



その先にも・・・入口廻りの意匠が秀逸なのです。



切妻の破風と円形の造作、おそらく山(富士山?)と満月を表しているのだと思います。風流ですなあ、こういうの大好きです。



その全景、かなり複雑な造りです。さきほどの部分は勝手口みたいですね。現在はアパートとして余生を送っているようです。



お隣、溶岩を積み上げた塀の先に雁行する外壁。冒頭画像の物件になります。



料亭すぎ田さん、前書きにある現役の『杉田』とはコチラのことだと思います。しかし、この時点(2012)で既に退役済みといった感じでした。今回レポを書くにあたって地図で確認してみましたら、なぜか建物の形が消えているのです。嫌な予感・・・禁断のストリートビューに切り替えてみましたら・・・案の定、建売住宅の基礎工事の真っ最中、今頃は新しい家主の生活が始まっていることでしょう。もうこの姿を見ることはできないのです。



界隈は迷路のような路地がクネクネ、その中に遺構と思われるものがチラホラ。コチラの洗い出し風左官仕上に群青色の洋瓦が乗った小庇がある物件もそうではないかと。お隣の真新しいアパートみたいな物件に注目、こう見えても元料亭なのです。



料亭時代の屋号は『福井』、コチラも前書きにあるお店だと思います。現在は『上野RYOTEI福井』、なんと女性専用のシェアハウスなのです。料亭から女の園へ、なんという華麗な変身・・・そして素晴らしい活用法だと思うわけです。同じような物件を新宿十二社の花街跡を再訪した際に見たことがあります。前回は連れ込み旅館だった物件がシェアハウスに変わっていました。それは待合→連れ込み旅館→シェアハウスという山あり谷ありの歴史でしたが(笑)贅沢を言わせてもらえば、もう少し往時の雰囲気を残してリフォームして欲しかった。取り扱っている不動産屋のLINK貼っておきます。建物のPLANや写真も見られます。朗報です、ちょうど空き室があるそうですよ〜。



一階の一部は小料理屋になっています。この玄関廻りはいい雰囲気、往時のままなのでしょうか。



別の路地にも・・・料亭だったのか置屋だったのかは分かりませんが、どう見ても普通のお宅には見えませんな。



花街跡の東の外れ、奥まった場所の庭木の上に古びた入母屋屋根がちらと顔を覗かせていました。そして、手前にはおでんと書かれた看板。



元気な庭木のせいで全景が捉えられない・・・。おでんの『根岸 満寿多』さん、前書きの『増田』は此処のことだと思われます。こっちは料亭からおでん屋へ、美味しい変身です(笑)中は個室が並ぶ料亭時代のままみたい、個室おでんって珍しいのではないでしょうか。まさに隠れ家的なお店ですな。



近隣唯一の名所とされる『御行の松』を目指します。途中にあったお宅、アプローチの石灯篭に石畳、玄関の袖壁には下地窓・・・コチラもそうなのでしょうか。



『御行の松(おぎょうのまつ)』は西蔵院不動堂の境内にあります。いや、あったというのが正しいかもしれません。初代は枯れちゃったから・・・。別名根岸の大松とも呼ばれ、江戸の頃から人々に親しまれ、数々の浮世絵などにも描かれた名木でした。高さ14m、幹廻り4mあまり、大正15年(1926)に天然記念物に指定されます。その当時で樹齢350年だったそうですが、直後に枯死・・・まあ、大往生ということになるのでしょうか。



幹の一部が展示されています。隣では昭和51年(1976)に植えられた三代目がスクスク生育中です。



正直言うと此処を訪れたのは『松』が目的ではありません(笑)目的は不動堂の玉垣、『根岸三業会』とクッキリ描かれております。文字部分のエメラルドグリーンって初見です。



羽二重だんごさんもありましたよ。



さて、帰りは金杉通りと並行している裏道を辿っていきましょう。この通りは戦災から逃れた根岸三丁目を貫いています。途中にあったヤバすぎる廃屋、これは危険だ。



少し行くと通りからちょっと引っ込んだ場所に妖しげな木造建築。手前にはネオン管で旅館と描かれた看板(見事なまでのブレブレで撮影失敗・・・)が立っているのです。はて、この辺りは花街ではないはず・・・。此処、ちょうどラブホ街と花街跡との中間に位置しているわけ、もしかすると連れ込み旅館の成れの果てかもしれません。



その先の路地に入ってみますと、どうやら先はどん詰まりみたい。



どん詰まりで古びた町屋が向かい合っておりました。右の『そら塾』はギャラリーです。



このまま行くとラブホ街に突入しちゃいますので、適当に裏路地を迂回していきましょう。ドクダミって名前に似合わない可憐な花を咲かせますよね。



右の石畳を行ったらこれがまたどん詰まり・・・。



迷いながらも何とか辿り着いたのはラブホ街の西の外れ、左は線路、頭上の跨線橋は言問通りです。



線路沿いにあるのが『旅館志ほ原』さん、ぶっちゃけ連れ込み旅館で間違いないと思います。電車からもバッチリ見えますのでお気付きの方も多いかと。庭木が元気すぎて入口が分からない・・・もし、この状態で現役だとしたら・・・あなたどうします?(笑)『東京花街・粋な街』に、根岸の芸妓の出先として鶯谷『志保原』とあるのです。此処のことかもしれません。



テレビ付というのを売り文句にすることができた時代の料金ですな。

以上で根岸の花街跡の探索はオシマイ。近年まで現役だったとはいえ、これだけ遺構が残っているのはかなり貴重な場所だと思います。時間の関係でゆっくりできませんでしたが、次回は戦災を逃れた区域をジックリ巡りたいですね。

長野県 伊那市201312 その1

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車窓から見つけた扇窓・謎のレッドカーペット・風呂屋の最後に立ち会った日

4年越しの再会に感無量。


 ちょっと前に信州シリーズをレポしましたが、それの続きみたいなものになります。その際は坂城 → 小諸(再訪) → 岩村田 → 茅野の順で巡ったのですが、天候悪化のため訪れることができなかったのが岡谷です。まあ、遊里の情報のない町でしたので、そのうちに寄れるだろうと思っていたのですが、去年の暮れの押し詰まった日、突然ポッカリと予定が空いてしまったわけ。それなら行くかということで急遽ゴタゴタと計画を策定、いつもこんな感じですな(笑)そんなこんなで始まりました、周辺の町を合わせて一泊二日のノンビリ旅です。

 最初の町は長野県のほぼ中央に位置する伊那市です。実はこの町、私にとって曰く付きの町なのです。4年前(2009)に伊那市の南に位置する飯田市を訪ねた帰りのことです。夏の盛りの探索でもうヘロヘロ、列車のボックスシートに横たわり、缶ビールを片手に明日からまた仕事か・・・などと考えながら外の風景をボンヤリ眺めていたときです。伊那市駅を出て次第に速度を増すJR飯田線・・・次の瞬間、車窓に特徴的な扇型の窓が通り過ぎていくのが見えたのです。なんだ!?と思い身を乗り出すと、川沿いに建つ古ぼけた押縁下見板張りらしき建物が遠ざかって一瞬にして視界から消失しました。これがどうしても気になり、帰ってから調べてみましたら意外な素性が判明したのです。なんと元カフェーの食堂だというのです。カフェーと聞いたら黙っていられませんがな。とはいえこの辺り興味を惹かれる町が少ないのです。あ、遊里跡的な意味でですよ。何かのついでに訪れることができたらと思っていたのですが、1年、2年と先送りにしているうちに半ば忘れていたわけ。今回岡谷を訪れることなりその存在を思い出したという体たらく・・・というか、まだ残っているのでしょうか。ちょっと心配しながら岡谷駅で飯田線に乗り換えて45分、伊那市駅の手前にさしかかると・・・よかった、まだ残っておりましたよ。



典型的な地方都市の元気のない駅前の光景、パチンコGENKIもやっていないみたい。



GENKIの脇に興味深い一画が残っておりました。路地の奥、お店が連なる長屋風の建物です。



一部にはこげ茶の渋いモザイクタイルが使われています。



コチラは明らかに元飲み屋さんかと思われます。VISAに物凄い違和感(笑)



色褪せているのにカラフルという相反する状態・・・なのにどうしてこんなにステキなのでしょう。



そして見上げると深緑一色、剥げ落ち具合が最高レベル・・・なんなの此処!?



駅を出た途端これですからね。この先を期待しないではいられない状態なわけ。実際、期待していいかもしれませんぞ。



深緑の領域を出て線路と並行している通りを行きますと、かなり歴史のありそうな物件が現われます。外壁の羽目板の劣化具合が見事。たぶん商店だったの思うのですが・・・



証拠としてショーケースが残っているのですが、なぜか思いっきり不整形。何屋さんだったのでしょう。



華道と茶道のお師匠さんも兼業されていたようです。



その先に目的の物件が見えてきましたよ。



こちらが元カフェーの食堂、クロネコさんです。もう屋号からして堪らんでしょ?下手糞な写真では分からないと思いますが、建物の各部が目で見て分かるほど歪みまくっているわけ。これは相当ガタきていますぞ。



目を引くのが四角と円を組み合わせたオシャレな造作。入口上の円形もそうでしたが、漆喰が新しいようです。直されたばかりなのかな。



飯田線から見えるのがこちら側のファサード。一階部分の淡い緑がいいね。



車窓から見えたのがこの扇型の窓、此処に辿り着くまで4年かかってしまいました。淡々とレポしておりますが、実は物凄く感動しているのですぞ。



入口廻り、なぜか小さな桧皮葺きの庇があるのです。その下に鮮やかな藍染めの暖簾、メインは蕎麦とうどんのようですね。奥の踏切が飯田線です。



そして謎の装飾、和ロウソクに海老の尻尾にしか見えないのですが・・・。でも、この意味不明こそが元カフェーの証拠って感じがするのです。



床屋風の洋風窓、内倒しと突き出しがごっちゃになっているみたい。これもカフェー時代のままなのかもしれません。庇の先端には、荒々しいテクスチャのリブ状の左官仕上も残っておりました。では、店内へどうぞ・・・。



お昼時間をかなり過ぎていましたので客は私一人。お店の方に断って撮影させていただきました。まず目についたのが円柱、明らかに不自然な位置に建っているのお分かりになるでしょうか。カフェー時代は今とは違ったプランだったと思われます。



天井は洋風の格天井、これが思いっきりへたっちゃっているわけ。どうやら二階部分はもう使われていないようです。



奥の小上がりには炬燵、此処でも食事ができるそうです。



メニューは豊富、メインの蕎麦とうどん以外にも洋食やこの地方名物のソースカツ丼もいただけます。



これもカフェー時代の遺構かと、この小窓どんな役目を果たしていたのでしょうね。



窓際の席に着くと、床が窓に向かって強烈に傾いているわけ。このまま食事したら胃袋の片側だけが満腹になりそう(笑)傾き具合をお茶の水面で表現しようと思ったのですが、うまくいかないものですな。クロネコと描かれた箸箱、コレ欲しい。



注文したのはオムライス。想像どおり、これ以上無いほどの正統派が出てきて一安心。これでフワフワとかトロトロとか出てきたら嫌だものなあ。お味のほうも正統派、間違いなく万人が好む美味しさでした。箸休めの野沢菜もいいね。こんな感じですが、とても落着く空間なのですよ。



長年憧れていたお店を辞して踏切の反対側へ、正式な町名ではないようですが地元では錦町と呼ばれている一画へ。



派手なタイルで彩られたスナック。最初は『田園』だと思って、長閑な屋号だと笑ったのですが、よく見ると『園』ではないですよね。何て読むのでしょう。



この錦町、最初地図を見たとき怪しいと睨んだ一画なのですが、何とも判断の難しい物件ばかり。どうもピンとこないなあと思っていましたら・・・



なんと、いきなり『新地』が現れた!?

その1はココまで。次回『新地』の正体が明らかに・・・まあ、それ以外にも興味深い場所が続々と出てきます。この伊那市、想像以上に面白い町だったということが次第に判明していくわけ。そして肝心の遊里は・・・。

長野県 伊那市201312 その2

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此処はハリウッド?それともカンヌ?看板らしきものがありますが、見なかったことにしてくださいませ。


 伊那市についてざっくりと・・・江戸の頃この地を治めていたのは3万石の大名高遠藩、市内の中心から東へ10キロほど行った山あいに高遠城址があります。麓の高遠の町には、往時を忍ばせる町並みがそれなりに残っているそうです。当時はこの城下町が中心でしたので、現在の市街地が形成されたのは鉄道の開通以降と思われます。それは明治45年(1912)のこと、もちろん当時はJRではなく伊那電車軌道という私鉄でした。伊那町駅(現在の伊那市駅)が開業し、同時に町にも電気が引かれました。これが町の発展に寄与したというのは言うまでもありません。ただ、それまでの町の様子がよく分からないわけ。後から知ったのですが、駅から西へ500mほど行った処に伊那部宿がありました。伊那街道(三州街道)、所謂塩の道というやつですな。伊那の語源とされている宿場なのですが、今回の探索ではそれを知らず一歩手前で引き返していたという体たらく・・・これも杜撰な下調べのせい、お恥ずかしいかぎりです。

 鉄道が開通する前は伊那部宿周辺が町の中心だったのではないかと思われます。宿場とくれば飯盛女と言いたいところなのですが、この町遊里関係の情報が皆無なのです。今回はノンビリ旅ですので探索の途中、図書館に寄って小一時間ほど調べてみたのですが空振りに終わりました。しかし、レポをご覧になればお分かりになると思いますが、何かがあったのではないかという一画が続々と出てきます。その1で紹介した『クロネコ』さんもそのうちの一つになりますね。まあ、断言できる証拠は何もありませんので、そのあたりのことは各自の判断にお任せ致します。ただ、そういうことは抜きしても、面白そうな場所を探しながらフラフラ彷徨うのにはうってつけの町なのですよ。



前回からの続き・・・いきなり現れた『新地』の正体は長屋形式の呑んべえ横丁でした。まあ、これは予想できた方多いのではないでしょうか。



中途半端な年代物、そして素っ気無い造り・・・でもこういうの結構好きです。



奥には共同便所、綺麗に掃除されている・・・いや、今や使う人もいないからこの状態なのかもしれません。



どん詰まりは線路です。



近くの市立図書館で遊里関係の情報を仕入れようとしましたが惨敗・・・もうこうなったら地図上の気になる場所を残らず探ってみるしかない。まずは同じ錦町にあるコチラ。



レトロな映画館、旭座さんです。両側に赤い屋根の塔状部分、その間を柱型が櫛状に立ち上がる独特な看板建築で繋いでいるというシンメトリーな構成美・・・はいいのですが、後から塔の前に増築しちゃったものだから、現在はちょっと悲惨な状況なわけ。勿体無いなあ。



隙間に顔を突っ込んで塔を見上げてみましたが・・・よく分からない。



今は使われていませんが、モギリの窓口はモダンな円形です。この映画館、前身は明治時代創業の芝居小屋だったそうで、現在の建物は大正2年(1913)に建てられたものになります。今や貴重な存在ですよね。軽々しいことは言えませんが、頑張ってほしいなあ。



裏手に回りますと旭座2さんがあります。こういう場合、片方はピンク専門ということが結構あるのですが・・・ご安心を、こっちは子供向け専門みたい、青い猫型ロボットが絶賛上映中でした。



近くで見つけた土蔵が付属したお宅、脇を流れる水路には古そうな石垣が残っておりました。



振り返るとまた土蔵、こっちは海鼠壁に美しい鏝絵付の豪華版。奥に見えるのがさきほどの『新地』です。古びたアパートにしか見えませんな(笑)



妙に気に入ってしまった光景。特に左のお宅の段々になった部分、右のトタン平葺きもいいね。



線路を渡って駅の北側へ・・・県道146号線沿い、地元では通り町と呼ばれている一画の光景、見事な看板建築が続いております。



壮観でしょ?これだけ連続しているのは珍しいと思いますぞ。この看板建築群は大正8年(1919)に発生した大火後に建てられたものとされています。皆さんそれぞれ素晴らしいと思いますが、特に私は左から二軒目、窓が中心からずれているのが気に入っています。



そのお気に入りとは吉田理容館さん。中央が盛り上がった艶のある黒の『座布団』タイルが使われています。角にはアクセントとして赤のネジネジ状ボーダータイル、これが効いているわけ。天井が高いのお分かりになるでしょうか。ストライプ模様の型板ガラス(コレ好き)の向こうでは、女将さんが洗髪中でした。



あれれ?駅前に戻ってしまった。奥に小さく見えるのが伊那市駅です。その手前、建物の間に何やら赤い物体が見えるのですが・・・。



それが冒頭画像の場所、建物の間の細い細い通路に謎のレッドカーペット。何だろうと恐る恐る辿っていきますと・・・。



これがなんと雀荘・・・物凄い場所にありますなあ。メトロって屋号もよく分からん。



実は入口に看板があったりして・・・これも盛り上げるため。まあ、ヤラセではなく演出ということでお許しくだされ(笑)



駅前広場を通り過ぎると角が丸まった理容カラキさん。此処で再び線路を渡ります。あちこち忙しいレポで申し訳ない。



踏切の先には漆戸醸造さん。大正4年(1915)創業の酒蔵です。



その先で見つけた洋館付住宅の洋館部分。色使いがカワイイです。



はす向かいには、これまた角が丸まった建物。おそらく何かのオフィスかと・・・井桁風の窓台の格子が面白いです。



理容カラキさんの処に戻って線路と県道146号線に挟まれた通りを南西へ・・・清酒井の頭はさきほどの漆戸醸造さんの銘柄です。彼方に見える山並みは中央アルプス、完全に冬山の様相です。



頃合をみて今度は県道の北側を並行している通りへ・・・伊那名食鍋焼城ってなんぞ???



この通りもいい感じに鄙びているのですが、きりがありませんのでここいらで戻りますよ。



伊那合同庁舎隣りにあるのが伊那市創造館、元々は昭和5年(1930)に建てられた上伊那図書館でした。ボーダー状に使われているタイルは、地元高遠で焼かれたものです。



近くにある複雑な造りの清水耳鼻咽喉科医院さん。真っ白で綺麗に直されているので分かりにくいのですが、たぶんかなり歴史のある建物だと思います。その背後の高台に対照的な真っ黒なシルエットが・・・あれは何だろう・・・。

その2はココまで、なんと今回はその3があるのです。それだけ楽しめた町という証拠でもあります。その3ではシルエットの正体が判明、そして町の歴史を知る施設の最後に偶然立ち会ってしまうわけ。もう少しだけお付き合いくださいね。

長野県 伊那市201312 その3

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結局、此処に戻ってきてしまいました。


 フラフラしていて気付いたのですが、この伊那市、飲み屋関係のお店が異常と思えるほど目につくのです。地図を見ていただければ一目瞭然、町の規模からして明らかに変ですから。どちらというと退役済みの処のほうが圧倒的に多いような気がしますが・・・。帰ってからも記憶の隅っこに引っかかっていたのですが、先日その理由が判明したかもしれません。以前勤めていた事務所の先輩というか、駆け出しの頃いちばんお世話になった人なのですが、たまたまその人と電話で話しているときに思い出したのです。彼の出身地はこの伊那市だったということに・・・。

 疑問に思っていた飲み屋さんのことを尋ねてみますと、意外な回答が返ってきました。伊那市は東に南アルプス、西に中央アルプスといった感じで日本を代表する急峻な山脈に挟まれた町。また、町を南北に貫いて流れている天竜川、嘗ては相当な暴れ川として有名だったそうです。戦後になって始まったのがダムや発電所の建設ラッシュ、そして天竜川の治水工事です。町にはゼネコンの支店や作業員のための飯場が並ぶことになります。それに合わせて彼ら目当ての飲み屋が乱立、言い方が悪いかもしれませんが、何もない処ですので仕事が終われば呑むしかないですものね。公共事業の遺構ともいえる飲み屋群、その中には妖しげなお店も混じっていたのではと考えるのも拙ブログ的には当然なのですが、彼曰くそういったことは聞いたことがないとのこと。本当なのでしょうか・・・。



前回からの続き・・・シルエットの正体は古ぼけたお宅?でした。それよりも驚いたのは段々畑みたいな玉石積みの石垣です。



かなりの歴史を感じさせる石垣です。建物も凄い、外壁の板が痩せ細って紙みたいにペラペラ、反り返っております。見晴らしだけは良さそうですけどね。



石垣を越えるとこんな通りに出ます。この時は知らなかったのですが、このまま進むと伊那部宿跡に出るわけ。これは旧街道なのかもしれません。



此処ではどんな暮らしがあったのでしょうね・・・。



東に戻って駅前通りである県道202号線を渡った先、忽然と地図にも載っていない水路が現れます。左の建物、入口上の照明には小料理の文字。



水路に架かる太鼓橋、ちょっと勾配が緩いですけどね。奥のダイヤ型の孔があるブロック塀、よく見るとかなりグロ、なんかこっち見てるし(笑)



近くの料亭風のお店、松喜さん?で合っているでしょうか。ネットでは一切ヒットしませんでしたが・・・。屋号が描かれている看板はサルノコシカケ、縁起物ですね。この一画、何となく花街跡的な雰囲気が感じられるのです。



さきほどの太鼓橋が架かっていた建物、引きの画にするとこんな感じ。そう、お風呂屋さんなのですよ。



菊の湯さんです。こげ茶のタイルで縁取られたちょっと変わった建物です。



ここもサルノコシカケの看板、漆かカシューでも塗った上に金文字で逆さクラゲが描かれています。驚いたのは下の貼り紙『12月29日をもって営業を終了・・・』なんと、あと一週間ほどで廃業されてしまうというのです。これも何かの縁、帰りに寄らせてもらいましょうか。



菊の湯さんの向かいには旅館花月さん、いかにもな屋号だと思いません?



近くにはこんなに立派な割烹だるまさん。これ以外にも旅館や割烹が数軒あるわけでして、気にならないほうがおかしいわけです。



ローメン・・・そういえばこの町の名物でしたね。



菊の湯さん近くの路地、この雰囲気が凄く気に入っています。此処で菊の湯帰りのお母さんに声をかけられました。どうやら銭湯マニアと間違えられたみたい(笑)いいお湯だから絶対入っていきなさいよって命令されちゃった・・・そこまで言われたら入らずにいられませんがな。



適当に彷徨っていましたら割烹だるまさんの処に戻ってしまった。だるまさんの建物の一部、なぜが水路の上まで張り出しているのです。



裏には小橋、親柱には『昭和六年四月竣工』と刻まれておりました。そのまま通りを行きますと天竜川の支流である小沢川に出ます。河畔にあるのが・・・



その1で紹介したクロネコさん、スタート地点に戻ってきちゃった。



対岸にはパラダイスもあるのですぞ。ほぼ廃墟ですけど・・・。これも公共事業の遺構なのでしょう。



洋館風の橋場歯科医院さん・・・のはずなのですが、いつのまにか居酒屋に転業されたようです。地図を見ますと、此処から次の伊那北駅まで線路と天竜川に挟まれた一画に飲み屋さんがビッシリ・・・今度は此処を探ってみましょう。



すぐにイカす看板を発見、長谷川町子先生はご存知なのでしょうか(笑)



お次は入舟有楽街、小さな小さなアーケード街です。居並ぶお店のほとんどは飲食店、この時間でも明りが灯っていない・・・そういうことなのでしょう。



その先には延々と飲み屋さんが続きますが、求めている色街的な雰囲気はあまり感じられません。現役のお店も少ないようですが、コチラは間違いなく現役。信州で山積みのカキの殻、何だか不思議な光景。



ドキッとしたのが黒真珠さん、居酒屋っぽいのに妙に艶っぽい屋号だなと思いましたら、入口の上にバーの鑑札が残っておりました。元々は違う業態だったのかもしれませんね。脇をこれまた地図に載っていない水路が流れています。



同じ水路沿いにあった何となくカフェーっぽい造りの飲み屋さんの成れの果て。水路を渡ってアプローチします。右のお店にもバーの鑑札が残っていたような・・・記憶が曖昧で申し訳ない。



そこで出会ったゴージャスさん。この仔、人懐っこいのは嬉しいのですが、落ち着きがなくて全然こっち向いてくれない・・・。



いきなり現れた銀座に思わず仰け反りましたわ(笑)



全国各地に様々な『銀座』が存在していますが、おそらくいちばん通りが短いのが此処ではないかと。素晴らしい雰囲気ですが、此処もひっそりと静まり返っております。



反対側にも所謂大門がありますよ。背後は国道153号線、天竜川の土手になります。



伊那北駅の近くまでやって参りました。依然として中央ホテルはやっていないし、他のお店にも明かりは灯っていないわけ。もちろん人影も皆無・・・今日が土曜だからと思いたいです。



やっぱり最後はクロネコさんにご登場願いましょう。それでは菊の湯さんに浸かってから岡谷市に戻りますか。

次の列車を気にしながらでしたので、ほぼカラスの行水状態でしたがラドンの効果なのか身体がポカポカになりました。銭湯に関してはそこまで詳しいわけではありませんが、浴室は改修されてそれなりに新しくなっているようでした。番台に座っている優しそうな女将さんに挨拶したかったのですが、常連さんと会話中でしたのでそのまま辞させていただきました。

今回のレポを書くにあたって調べてみましたら、幾つかの興味深い事柄を知ることになりました。菊の湯さん廃業の理由はやはり人手不足と燃料の高騰、4年前に御主人を亡くしてから女将さんが中心となって切り盛りされてきましたが、限界だったということなのでしょう。

廃業する一年前には二階の大広間での『貸席』業務も終わらせていたそうです。この『貸席』というのが気になります。よく健康センターなどで爺ちゃん婆ちゃんがカラオケに興じている、あの大広間とは違うようです。隣にあった料亭を買い取り『貸席』業務を始めたそうですから、おそらく料亭が所有していた許可というか資格を引き継いだということなのだと思います。お風呂に宴会、まさに町の社交場だったわけです。もしかすると芸者さんも出入りしていたのかもしれません。大広間以外にも池のある中庭なんてものもあるそうで、列車を一本遅らせてでもお話伺えばよかったと激しく後悔しているわけ。最後の『貸席』の様子を見つけましたのでLINK貼っておきます。こうして昭和10年(1935)創業、伊那市唯一のお風呂屋さんは79年続いた歴史の幕を閉じたわけです。これが現実だとはいえやっぱり寂しいですよね。

帰りの車窓、4年前は扇型の窓が見えたのですが、今回はなんと冬の花火!?たぶん花火業者が試し打ちをしていたのではないかと思っているのですが、線路のすぐ脇で打ち上げているのでこれが大迫力。列車の揺れに身を任せ、間隔をおいて一発一発確認しているように打ち上がる大輪の花を見上げながら、元カフェーも映画館も銭湯も全て幻だったのではないか・・・そんな思いにかられた伊那市の探索でした。

長野県 岡谷市201312 その1

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昭和レトロなパチンコ屋・味噌蔵裏の呑んべえ横丁・遺跡みたいなタンク跡

真っ赤なアーチ、これもカフェー建築の一種・・・なのかも。


 諏訪湖の西岸に位置する岡谷市、江戸の頃は平野村と呼ばれていました。現在の市街地の北を旧中山道が通っていましたが、当時は下諏訪宿と塩尻宿の間を繋ぐ寒村だったそうで、単なる通り過ぎるだけの場所だったようです。そんな寒村が激変するのは明治に入ってからになります。イタリアとフランスの技術を取り入れた製糸工場が進出し一気に活気付くことになります。村から町を経ないでいきなり市になったそうですから、当時の隆盛を伺えるエピソードの一つではないでしょうか。明治44年(1911)時点で、輸出生糸の出荷上位10社のうち6社が岡谷の企業だったそうです。シルクの生糸は当時の主要輸出品ですから、ある意味岡谷は日本経済を支えていた町でもあるわけです。

 しかし、何処でも同じですが製糸業はゆっくりと衰退していくことになります。それに変わって進出してきたのが精密機械工業、これには諏訪湖の水が大きな役割を果たしていたのでしょう。カメラ関係ではヤシカの本社工場がありました。その様子は『東洋のスイス』と称されているそうです。これにはちょっとした逸話がありまして、実はお隣の諏訪市も『東洋のスイス』と呼ばれているそうなのです。こっちこそが本物の『東洋のスイス』だと譲らず、また諏訪地域の中心都市の座を巡って争っているそうで、両市の仲は最悪なんだとか、本当ですかね(笑)

 以上のことから分かりますように、この岡谷市、歴史ある町ではないわけです。変な喩えですが、突如頭角を現した新参者みたいな町です。古くからの城下町や宿場町でしたら遊里の類が存在していたとしてもおかしくないのですが、事前の杜撰な下調べではそれらの情報は皆無でした。でも、嘗ては日本経済を牽引していた町ですから、何かあるんじゃないかと思っているのですが・・・まあ、とにかく地図上の匂う場所を巡ってみることに致しましょう。



目が覚めてビックリ、一面白銀の世界。これが困ったもので、積もるならしっかり積もってくれたほうがまだ歩きやすいのですが、薄皮一枚がへばり付いている状態のためツルッツル、用心して行きましょう。



宿の近くにある岡谷浴場さん、シンプルな造りです。おそらくかなり直されているのだと思います。



その先に立派な蔵が現れます。豊島屋さんという酒蔵のもの。昭和24年(1949)設立という新興の酒蔵ですが、前身は慶応3年(1867)創業の絹糸販売の商家なんだそうです。



はす向かいにも・・・こっちは三階建てですぞ。金上?繭倉庫、明治時代に建てられたとされています。昭和初期、岡谷にはこういった繭蔵が100棟余り建ち並んでいました。経済通産省の近代化産業遺産に登録されています。



だだっ広い駐車場みたいな処にポツンと建っているのは旧山一林組製糸事務所。大正10年(1921)竣工、寄棟屋根から突き出したドーマー屋根、外壁は煉瓦風タイルに大きめの上げ下げ窓が並ぶシンメトリーな構成です。山一林組は県内5工場、県外4工場を擁していたという岡谷を代表する製糸工場でした。戦後すぐの航空写真を見ますと、この事務所裏手に広大な工場棟と思われる建物が規則正しく並んでいるのが確認できます。現在は機織り体験などができる施設になっているようです。



昭和2年(1927)此処で発生したのが『あゝ野麦峠』にも出てくる『山一争議』です。1300名もの女工さんが起こしたストライキ、ほんと酷い扱いだったみたいですからね。結局女工さんたちは敗れてしまうのですが、彼女たちがいたからこそ日本の近代化が進んだという側面もあるわけです。ブラック企業ってこの頃からあったのですね。



車寄せ風キャノピーを支える柱は大好物の擬木です。



同じ敷地にある守衛所、事務所と合わせて国の登録文化財に指定されています。



内部の様子・・・長らく使われていないみたいですな。



イルフプラザから北東に延びる通り、これが嘗ての目抜き通りだと思われます。



脇道にあった中華屋さんの成れの果て。トタンの鮮やかな青がステキ。



テントで隠れておりますが、内側には何やら装飾がチラチラ・・・でも覗けない。



その先に昭和レトロなパチンコ屋。間違いなく手で弾いていた頃のものですな。



窓には謎の看板?コレ、内照式なのでしょうか、明りが灯った姿見てみたいですね。



こんな電飾、今や絶滅寸前だよなあ。ネオンも灯ることはないのでしょうね。



お隣は男爵とMay Queen・・・何このジャガイモ祭り(笑)



モザイクタイルで彩られたサスキチさんの外壁。一般的に現代のモザイクタイルは、工場で30センチ角の紙のシートに並べられた状態で現場に送られてきます。壁に貼った後、表面を濡らすとシートだけが剥がれるわけ。小さなタイルを一個一個貼らないで済むということですな。まあ、これは模様ではなく一色のタイル貼る場合なのですが、此処の場合は模様のシートを作ってそれを繰り返しているのかと思ったのですが・・・。クリックして拡大してみてください。模様ごとに微妙に違っているのがお分かりになるでしょうか。一個一個貼っているわけ・・・何という手間・・・。タイルばかりに気をとられていましたが、科学模型ってなんぞ???



目抜き通りの北側に入りますと、雰囲気がちょっと艶っぽくなります。間口の狭い千房さん・・・



ドアにはバーの鑑札が残っておりました。



その先に冒頭画像の真っ赤なアーチがあります。こう見ると後から造ったようにも思えるのですが、最初からこの姿であって欲しい・・・というのは私の願望です。



お隣には変な位置にメダイヨン風の装飾が残る看板建築。看板でばれちゃっておりますが、こう見えても割烹なのです。



寿々喜亭さん、洋館付割烹とでも言っておきましょうか。ネットでも一応ヒットするのですが、現役という感じはあまりしませんでした。この一画、コチラ以外にも数軒の割烹が並んでいるのです。もしかすると・・・。



塀の向こうからこんな欄間が顔を覗かせておりました。



さらに裏道へ・・・コチラはとっくの昔に退役済みと思われるテーラー。



その先には反り屋根が重なる珍しい物件、岡谷聖バルナバ教会です。昭和3年(1928)に建てられました。最近になって外壁を改修されたみたいです。



近くで見つけた半ば廃屋と化している物件、みや本荘とありますのでアパートだと思うのですが・・・。



玄関に雲を模していると思われる装飾、コレ遺構でも時折見られるものなのですが、果たして・・・。



路地に二軒の飲食店、手前は蕎麦屋、奥はうなぎ屋でしょうか。諏訪湖に面した岡谷はうなぎが名物なのです。



手前の好乃家さんには料理店の鑑札、引き戸の格子が美しい。



うな勝さんの外壁が面白いことになっております。まるで迷彩柄みたい(笑)コレ、鉄平石に見えるかもしれませんが、なんとタイルなのです。にしては随分と大判のような・・・標準品にこんなのないよなあ。特注かもしれません。



円形の造作も・・・分かりにくくて申し訳ない。路地抜けると県道14号線(岡谷街道)に出ます。



県道を下諏訪方面に少し行きますと、交差点に面しているかなり大きな近代建築が見えてきます。昭和11年(1936)に建てられた旧岡谷市役所庁舎です。市役所として昭和62年(1987)まで使われていましたが、現在は市の消防本部になっています。キャノピーの櫛状の装飾が特徴的な重厚な建物です。



傍らにはカイゼル髭を生やした老人の銅像。この方は製糸業で財を成した尾澤福太郎、この庁舎は彼が市に寄贈したものなのです。これも製糸業が隆盛を誇っていたという証ですな。

その1はここまで。情報の少ない町ですので、その2でも本能に従って心の趣くまま、地図上の匂う場所を彷徨います。

長野県 岡谷市201312 その2

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塞がれた菱形の下地窓、ご丁寧にも立派な庇が付いているのが面白いですね。


 下の画像は後ほど紹介する物件の脇に立てられていた案内板なのですが・・・というかしっかり丸山タンクって出ちゃっていますな(笑)

 コレ、昭和11年(1936)に発行された大日本職業明細図の岡谷駅周辺になります。この大日本職業明細図、大正から昭和初期にかけて東京交通社が出版した所謂当時の住宅地図と思っていただけたら宜しいかと。訳の分からん江戸時代の古地図とは違って、街区の形が現在のものとあまり違っていない町が多いので探索の際に便利なんですよね。もちろん遊里の情報もしっかり載っています。存在していればね。でも、なかなか手にいれることができない・・・財布に余裕があるとき、一枚また一枚とお岩のようにチマチマ購入しているのですが、結構値が張るのが困ったもの。国立国会図書館でも閲覧できますが、なぜかネットでは状態が悪いとかで見ることができないのです。早急なデジタルデータ化をと切に望んでいるわけ。

 この岡谷の地図、ジックリ睨めっこしてみましたが、妖しげな場所みたいなものは見つけられませんでした。その1で紹介した割烹が集まっている一画は新屋敷と呼ばれていたみたい。そんな程度の情報しか得られませんでしたので、やはりこの町には無かったのかもしれませんね。まあ、それはそれで一向に構いません。楽しむ方法はたくさんありますから。



旧市役所を通り過ぎ、引き続き県道14号線(岡谷街道)を辿ります。脇道に煙突と土蔵、コチラは高橋醸造さん。醤油の蔵元です。



お次は高天酒造さん、明治4年(1871)創業、かなり立派な酒蔵です。



お店の裏手、見事な蔵が並んでおります。



近くの小口正八幡宮の向かいにギョッとする物件を発見。どうやら歯医者さんの住宅部分のようなのですが、何なのこの欄間。



ここいらで駅方面に戻ります。コチラも歯医者さん、何となくですがキース・ヘリング的なグリル(格子)が連続しているわけ。



おやきはナス味噌がいちばん、餡子とかは邪道ですな。



途中で出会った下見板張りの洋館、トンガリ屋根の車寄せキャノピーが目印。詳細は分かりませんでした。



駅の近くに戻ってきました。スポルト岡谷の裏手、澄み切った冬空に一際目立つ真っ白な煙突が屹立しています。サスキチ味噌さんです。



創業は文化年間とのことですが、この場所、明治の頃は製糸工場だったそうで、当時はそこの醸造部門という位置づけでした。製糸だけでなく手広く商売していたということなのでしょう。



近くの喜久地旅館さん、現役です。地図上で気になっていた存在だったのですが、どうやら違っていたみたいですな。



サスキチ味噌さんの南側に、歯抜け状の更地が目立つ、廃れきった呑んべえ横丁があります。



此処も地図上で気になっていた一画なのですが、後で戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を確認してみますと、畑か更地か・・・建物が確認できないわけ。その後に形成されたものだと思います。もちろん大日本職業明細図にも載っておりません。



端っこのお店にはバーの鑑札が残っておりました。



ダイヤに斜めライン、このドアいいね。



おそらく現役のお店は存在していないと思われる一画です。これも隆盛を誇った製糸業の名残なのでしょうか。注目していただきたいのは右の建物。



舞踊研究所とありますが、コチラも元々は飲み屋さんだと思います。舞踊ということは、もしかすると見番・・・ということはないよなあ。正統派の物干し台が大変宜しいと思います。



三角屋根の煙突がカワイイ。更地が目立ちますが、ちょっと前の航空写真にはビッシリと建物が写っていますので、さぞかし壮観だったのではないでしょうか。



並行する通りも同じような状況。こっちはハートが並ぶドア。



隣には粋な透かし彫りが残っておりましたよ。



でもこの並び、裏から見ると完全にバラック状態・・・。



イルフプラザの向かい、商店の間の此処入っちゃってもいいの?と思うような坂道を雪に足を取られながら登っていきますと、高台のてっぺんに古代遺跡のような円形の構造物が現れます。前書きに出てくる丸山タンク跡です。



造られたのは大正3年(1914)、ちょうど百年前になりますね。製糸業には清らかな水がたくさん必要になります。このタンクは近くの天竜川からポンプアップした水を貯留し、此処から各製糸工場に分配していたものになります。



直径12mの赤煉瓦の内側にコンクリートの二重円があります。赤煉瓦の厚さは60cmもあるのです。これは要するにタンクの基礎ということになります。



どんなタンクが乗っていたのでしょうね。



私の不審な行動は全部この仔に監視されていたみたい(笑)



タンク跡脇のお宅、この先は急な階段しかないのです。よくまあこんな不便な場所に建てたものですな。タンクが現役の頃は、管理人が常駐していたそうですのでそれの名残かもしれません。燈台守ならぬタンク守、それも人生なのですね。



線路を渡って駅の南側へ・・・少し行きますと諏訪湖に出ます。コチラは釜口水門、もちろん水門も大好物。此処から流れ出しているのが天竜川、源が諏訪湖だったとは今回初めて知りました。



あと少しすると湖面が氷結して神様が渡る様子が見られるわけです。



湖畔に不思議な造りの三階建てがあります。



何となくお城風なのは旧山二信州館。詳細は不明ですが、大製糸家のお宅だったそうです。妙にバランスの悪い建物です。



駅前に戻って見落としていた物件へ・・・それが翠川医院さん。昭和6年(1931)に建てられた素晴らしい造りの洋館です。下見板張り、ドーマー屋根、そして居並ぶ欄間付の両開き窓が美しいですね。もちろん現役、大切にされているようです。



建物もそうですが、私は松皮菱が穿たれた塀がお気に入りです。



最後に訪れたのは国の重文の旧林家住宅。明治8年(1875)創業の大製糸家の旧宅なのですが・・・ブハッ、なんと冬季休業中、いちばん見たかった物件なのに・・・またやっちゃった・・・。背後のとんでもない橋は長野自動車道岡谷高架橋。現場打ちのコンクリート造橋だというに、地面からの高さ約50m、いちばん飛んでいるスパン(柱と柱の間隔)約150mという化け物(笑)もちろんプレストレスコンクリートですけどね。凄まじい新旧の対比とでも言っておきましょうか。珍風景だなこりゃ。



金唐革紙が貼られた部屋やくもの巣を模した欄間なんてものがあるそうなのですが、指を咥えて外から眺めるしかない私・・・空しい・・・。

しまらないラストで申し訳ない、指を咥えていても仕方がないので次の町に向かうと致しましょう。次は岡谷市と『東洋のスイス』の座を争っている諏訪市を再訪致します。前回は体調不良で無念の撤退となってしまったのですが、どうやら今回は大丈夫そうです。

長野県 諏訪市201312(再訪編) その1

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表と裏の顔が違う遺構?・川沿いの謎洋館の正体は・一見さんでも入浴可です

ポケットだからカンガルーということみたい。


 岡谷駅から10分ほどで上諏訪駅に到着、5年ぶりの諏訪市です。前回は突然の発熱のため途中でリタイヤしたんだよなあ。どうやら今回は大丈夫そうですが、明け方降った雪のせいか八ヶ岳方面から吹き降ろしてくる風が冷たいのなんのって。この町が温泉地で良かった、帰りに何処かに浸かって温まっていくことにしましょうか。

 諏訪湖の湖畔にひろがる諏訪市は、諏訪大社の門前町、旧甲州街道の宿場町、浮城高島城があった城下町、そして温泉といった感じで古くから多くの人々で賑わった町。そんな処ですので遊廓に花街と大人が遊ぶ場所には事欠かない町でもありました。花街は未だに現役ですからね。まあ、遊里関係はその2でお話するとして、これ以上書くことが思いつきませんので早速始めさせていただきます。その前に腹ごしらえ・・・町が名物にしようと推しているみそ天丼なるものを頂いたのですが・・・ウーム、私は普通の天丼のほうがいいや。

註)前回のレポはコチラコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



まずは駅前から中央本線と並行している国道20号線を北へ・・・以前から気になっていた物件が線路脇にあるのですよ。最初に現れたのは元旅館と思われる木造三階建て。



その先の建物に挟まれた更地の状況、名のあるアーティストの作品に違いない(笑)



ちょっと寄り道、水路が流れる脇道へ、いい感じに鄙びた旅館があったものですから。



水路の向こう側、来た来た!!遊んで遊んで!!と煩かった仔。そこじゃ無理だろ(笑)



旅館の円形の造作。この旅館宝屋さん、4年前に廃業されていたそうです・・・。



国道に戻ってもう少し行きます。線路沿いに続く廃屋の群れ、手前の物干し台があるお宅、サッシが凄いことになっております。まるで戦時中。



踏切の脇にあるのが目的の物件、お気付きの方も多いのではないでしょうか。



コレ、間違いなく提灯ですよね。どういった理由からなのでしょうか、縁起物といえば縁起物なのかもしれませんが。



裏路地をクネクネしながら駅方面へ・・・路地を抜けた途端現れたコレに思わず声が洩れました。これは想定外の出会いだ。



なんて愛らしい洋館。ドアには金文字で梅香荘、類ではありませんが、斜めハンドルがポイント高いです。アパートなのでしょうか。でも、前身はお医者さんっぽいですよね。住人の方が羨ましい。



なぜかお隣のお宅も似たような意匠でまとめられているのが不思議。



再びこんないい雰囲気の路地を辿りながら駅方面に戻りますよ。



駅の手前にちょっと場末っぽい匂いがする一画があります。お店のほとんどはとっくの昔に退役済みのようですが。



雀のお宿さんは『ぬけられます』状態。



近くに冒頭画像のポケットさんがあります。



モルタルの劣化具合が素晴らしすぎますな。



こんな場所でも温泉がかけ流し状態。この辺り、ちょっと掘ればすぐに出てくるのでしょうね。



駅前を通り過ぎ、今度は南へ・・・四つ辻の角、オーダー様式不明のエンタシスのついた柱が並んでいるのは大正14年(1925)に建てられた旧長野農工銀行上諏訪支店。現在は予備校として余生を送っています。この先に看板建築の逸品が並んでいるのですが、前回も紹介していますので今回は端折らせていただきます。



前回紹介できなかったのがコチラ。魚安という食堂だったのですが店仕舞いしちゃったみたい・・・。窓の桟が美しいですね。



裏通りに大迫力の看板建築があります。前回も紹介した白作さん、昭和5年(1930)に建てられた呉服屋さん。相変わらずの過剰なまでの凄まじいギザギザ具合に圧倒されますな。



確か白作さんの裏手に、細い路地に囲まれた小さな呑んべえ横丁があったはず・・・良かった、まだ残っておりましたよ。



スタッコって古代ギリシアの頃からある左官仕上なのですが、日本のジメジメとした気候には合っていないと思うのです。皆、こんな感じで気色悪くなっちゃう。



気色悪いといえばこんなお店も。なんだか変な霊が引き寄せられそう(笑)



此処も前回紹介した場所、線路沿いの緩やかなカーブを描く通りに沿ってバラックみたいな建物が並んでいるのです。歯抜け状になっていますが、前回はあそこにも似たようなものが続いていました。今回、此処の意外な事実を知ることになります。



なんとこの建物群、水路の上に建っていたのです。『よるの女性街・全国案内板』には『赤線は踏切周辺に三〇軒、一五〇名』とあります。此処のすぐ向こうには踏切があるわけでして、もしかすると・・・。



その踏切を渡ると大手、今も現役の花街です。此処も前回紹介しましたのでアッサリ済ませますよ。



昭和初期に建てられた元歯医者さんの洋館を使っている見番は以前と変わらず。



前回(2008)の頃は花街衰退に危機感をもった人々が、芸者を育成する学校をこの見番に開設したのですが、その後の様子がよく分からないのです。ネットのニュースには『新入生』として小学生!?やOL4名が入校とあったのですが、その後順調だといいのですが。それにしても小学生ですか、所謂半玉さんということになるのでしょうか。



昼間の花街はとても静かです。



花街に似つかない横丁もあったりします。

前半はここまで、後半では前回勘違いしていた遊廓跡を訪ねた後、隠れ湯的な共同浴場に浸かって癒されます。

長野県 諏訪市201312(再訪編) その2

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後ろのマンション、5年前は工事の真っ最中でした。


 『上諏訪町衣之渡遊廓 長野県諏訪郡上諏訪町字衣之渡に在つて、中央線上諏訪駅の南方約三丁の地点に当つて居り、駅からは直通の大通りが貫通しているので交通としては甚だ便利である。此の遊廓は明治の初年に初めて設置されたもので、私娼、飯盛女の進化したものであるとされて居る。現在娼楼は八軒あつて、娼妓は三十人居る・・・此の遊廓は比較的都会人が出入して居るにも拘らず、純朴で暴利を貪る様な事は無いらしい。娼妓は一枚鑑札ではあるが、大抵土地つ子が多いので、岡谷小唄、スケート節、伊那節、木曽節の一くさり位は口づさむ筈である。町には芸妓も居るので呼ぶ事が出来る・・・妓楼は、牡丹楼、高島楼、鳳来楼、新鳳来楼、日埜出楼、長登楼、新泉楼、旭楼の八軒』

 今回は『全国遊廓案内』から始めさせていただきます。5年前のレポをご覧になれば分かるのですが、私、何を血迷ったのか現役の花街である大手を遊廓跡だと断言しちゃっているわけ。コレ、間違っておりますのでこの場をもちまして訂正させていただきます。そもそも衣之渡を『ころものわたし』と誤読していた時点でおかしかったみたい。諏訪湖に渡し舟があって、その船着き場近くに遊廓が設置されたのではないかと勝手に妄想を膨らませていたというのが事の真相・・・お恥ずかしいかぎりです。ちなみに衣之渡は『えのど』と読みます。普通読めないでしょ、こんなの(笑)

 『全国遊廓案内』には駅から直通の大通りが貫通とありますが、この大通りというのが上諏訪駅西口から南に延びる並木通りのことだと思います。地図上で通りを辿っていきますと、大手の花街をかすめてその先の衣之渡川にぶつかる手前で右折しているのですが、此処からその先の駐車場辺りまでが遊廓だったと思われます。戦後すぐに米軍が撮影した航空写真には、なんとなくゴチャゴチャっとした一画が写っているような、いないような・・・。嘗てこの辺りは衣之渡郭と呼ばれていました。少し南に行った処にある高島城の一部だったのです。『郭』から『廓』へ・・・お城の一部に遊里が設置される、これは結構珍しい状況なのではないでしょうか。

註)前回のレポはコチラコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



大手の花街を抜けて県道50号線に出ました。手前の塀に囲まれているのは旅館現代さん、前回の写真を確認してみますと看板が無くなっておりました。そういうことみたいです。



その先には、前回入口に閉館致しますという貼り紙があった片山写真館さん。ショーケースにはまだ写真が飾られていました。



片山写真館さんの裏手に廻りますと風景が一変します。此処も前回訪れている妖しげな一画になります。露わになった小舞って生理的に無理。



艶っぽい窓がある物件も健在。地図を見て分かったのですが、どうやらコチラさきほどの旅館現代さんの裏口みたいです。



渡り廊下だと騒いでいた部分も引っ込んだ単なる勝手口でした。



まあ、そんなことはどうでもよくなるくらいこの窓はステキですけどね。



並木通りに出ました。庭木が邪魔してうまく撮れませんでしたが、大正11年(1922)に建てられた青木医院さんです。入口はコチラとありましたので現役のはず。



その先の駐車場が嘗ての衣之渡郭、その片隅にこの廃屋がポツンと佇んでいます。近くには小さなお稲荷さんも残っておりました。



なんだかその1で紹介した線路脇の提灯お宅みたいな造作がありますね。ご覧のとおりコチラ側は明らかに『和』ですよね。しかし、反対側に廻ってみますと・・・



表情がガラリと変わるわけ。この豹変ぶりには呆気にとられましたわ。縦長の欄間付窓が規則正しく並ぶ『洋』・・・なぜか玄関が二ヶ所、そして何よりも右のひょろ長く突き出した部分、何でしょうコレ???



こう見るとお分かりになるかと思いますが、たぶんこっち側にも建物が続いていたのだと思います。それにしては中途半端な壊し方、何があったのでしょうね。



ガラス障子には水墨画風のエッチング、これは面白い。遺構と断言したいところなのですが、よくよく考えてみますとこの物件、玄関が利用客の主要動線のはずの並木通り方向からそっぽを向いているわけ。遺構であればそういったことはないはずなのですが果たして・・・。判明しているのは間違いなく遊廓時代からの生き残りだということだけ。



衣之渡川沿いを少し戻ります。この写真をチェックしていてあることに気付きました。対岸がさきほどの遊廓跡と思われる駐車場です。水面に影を落とすトタン張りのお宅?をご覧下さい。直されすぎていて嘗ての姿を知る由もありませんが、かなりの規模ですよね。屋根の向こうから庭木が顔を覗かせていますが、それを囲むようなコの字のプランになっているようです。遺構によくあるものなのですが、今になって気付くとは・・・。



同じ衣之渡川沿いにあるのが前回偶然出会った謎の洋館です。以前は荒れた庭園がのせいでここまで接近できませんでした。改めて観察・・・右手の越屋根は浴室の湯気抜き?二階の突き出したサッシはサンルーム?分かるのはその程度・・・建物の素性は依然として不明のまま。



玄関に掲げられていた諏訪地区ハイヤー事業協同組合の看板が無くなっておりました。



斜め振られた玄関廻りが相変わらずステキですねえ。



割れたガラスの隙間にレンズを突っ込んで撮れた光景がコレ。ウーム、これでは何が何だか分からん。余計混乱してきた。



衣之渡川側はこんな感じ、触覚みたいな臭突が面白い。この物件、手元の近代建築関係の書籍には一切載っていないのです。ご存知の方、情報お待ちしております。



近くで趣きのあるお宅を見つけました。



なんと岡谷市に続いて此処でも舞踊研究所を発見です。まあ、最盛期には300名超の芸者さんが活躍されていた町ですから当然といえば当然なんでしょうけど。この先の普通のお宅からいきなり美しい三味の音が流れてきてビックリ、思わず立ち止まって聞き惚れてしまいましたよ。

寒風で身体の芯まで冷え切ってしまいました。そろそろ温泉に浸かっていきましょう。いつも行き当たりばったりの探索ですが、今回は稀なケース、珍しくチェック済みですぞ。諏訪駅の南500mほど、住所でいうと小和田という場所です。この地区の地図をよ〜くご覧下さい。小さな建物に○○の湯と表記されているのに気付くと思います。コレ全部共同浴場なのです。共同浴場いいですなあと思われるかもしれませんが、実はこれらに私のような一見さんは入浴できません。地元の組合員専用の共同浴場なのです。しかし、その中にも一見さんが利用できる処があるようですのでこれからそこに向かいます。



左は喜多の湯浴場さん、此処は入浴不可。この界隈、どてらに洗面器を抱えた人がフラフラしていたりして、まるで神田川の世界。お爺ちゃんでしたけどね(笑)



実際に川沿いにもあったりします。コチラは田宿の湯さん、残念ながら此処も入れません。



一本入った路地で出会った洋館付住宅。陸屋根というのが珍しいと思います。



路地を抜けると下見板張りの趣きのある建物が現れます。平湯さん、なんと大正時代に建てられたそうです。此処いいですよねえ・・・残念、此処もダメなのです。



すぐ後ろにもう一軒、上湯さんです。しかし、またもや入れないのです。それにしてもどうしてこんなに共同浴場があるのでしょうね。何でも別府温泉に次ぐ多さなんだとか。そんなことより私が入れる湯は何処???実は通り過ぎていたのです。それはさきほどの洋館付住宅の隣にありました。



大和温泉さん、こんな状態ですからほんと気付かないで通り過ぎちゃいますよね。まさに隠れ湯といった感じです。



細い細い通路を抜けるとこんな状態、謎の冷蔵庫と洗面台に???さらに振り向くと番台という名の茶の間、広縁を挟んだ座敷で炬燵に入ったご主人と奥さんがテレビ見てるし(笑)ご主人に挨拶して広縁に置かれた料金箱にお金を入れるという大らかなシステムになっております。こんなちょっとしたカオス状態ですが、浴室はシンプルそのもの。底に緑の六角形タイルが貼られたステンレスの浴槽があるだけ、カランさえもありません。掃除は行き届いていて清潔です。ちょっと硫黄が香る緑がかった柔らかなお湯、温度もちょうどいい感じ。ジックリ一時間ほど浸かっておりましたが、常に一人か二人相客がいましたので地元では有名なのかもしれませんね。ポカポカに癒されましたが、全身フニャフニャ状態、もう何もする気が起きまへん。



何もする気が起きない身体に鞭打って最後に訪れたのは、前回偶然出会った富士山と帆掛舟がある物件・・・よかった、まだ健在でした。



この見事な建物の素性も不明のまま、情報お待ちしております。

中央本線鈍行に乗り込み、缶ビールを空けた途端に爆睡。終点ですよと塩山駅でお母さんに起こされるまで一回も目が覚めなかった。こんなこと珍しいです。乗物ではあまり眠れない人間ですので。温泉の効能は偉大といことみたいですね。考えてみますと、今は亡き菊乃湯さんに始まり、最後は大和温泉さん、何だか秘湯巡りみたいになってしまった信州の旅でした。

栃木県 鹿沼市201312(再訪編)

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明夫に注意!?・もしかすると六軒町・花弁散る遊廓跡

相変わらず豚さんはウツラウツラしておりました。


 前回の諏訪市(再訪編)に引き続き、今回も『実は間違っておりましたシリーズ』でございます。鹿沼市は5年前(2008)に訪れております。事前の杜撰な下調べの際、とあるブログで知った割烹や飲み屋が集まっている一画を、もしかすると此処がそうなのかもなどと適当なことを言っているわけです。まあ、そのブログ自体、既に閉じてしまったのか見つからないのですがね。その後、いただいた親切なコメントで実は全然違う場所であることが判明することになります。相変わらずのいい加減なブログで申し訳ない、この場を借りまして訂正させていただきます。というわけで、今回は正しい遊廓跡を訪ねることに致しましょう。とりあえず『全国遊廓案内』の紹介文を貼っておきます。

 『鹿沼町遊廓 栃木県上都賀郡鹿沼町字五軒に在つて、日光線鹿沼駅から約十丁の処に在る。新鹿沼迄電車で行けば賃十銭。鹿沼は、天正年間から壬生氏の城下と成り、近江、北海道及鹿沼近傍は麻の三大主産地で、麻問屋が多く、鹿沼には帝国製麻の工場が駅の附近に在る。遊廓には目下貸座敷が五軒在つて娼妓は二十七人居るが、山形県の女が重である・・・娼楼には、清水、竹澤、小林、新藤等がある』

註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。



今回はJR日光線の鹿沼駅で下車、駅前通りである国道293号線を真っ直ぐ西へ。こっちの方が図書館に近いものですから。



渡良瀬川を渡ると川沿いに市の文化施設が集まっています。右は鹿沼市文化活動交流館、左の立派な石蔵も交流館の一部、元々は大正元年(1912)に建てられた旧帝国繊維のものでした。今年になって国の登録文化財に指定されています。



渡良瀬川を跨ぐ既に使われていない水道橋?渡った先には帝国繊維鹿沼工場がありますので何か関係があったのかも。帝国繊維の前身は『全国遊廓案内』に書かれている帝国製麻です。いいサビ具合ですなあ。



図書館で調べ物の後、さらに西へ・・・。旧日光例幣使街道(国道121号線)を渡った先にあるのが鹿沼聖母教会。此処は前回内部も見学させていただきましたのアッサリと。



裏道に入ると私好みの光景が結構見られる町でもあります。



外壁のモルタルが程よく劣化しているお宅、手押しポンプが立て掛けてありました。



国道293号線に戻りました。コチラも前回紹介した気色悪いスタッコに包まれた建物。円形のガラスブロックに見えますが、お皿みたいな単なる鉄板です。二階は雀荘だったのですね。



雀荘への階段、使われなくなってかなり時間が経過しているみたい。



国道から分岐しているのが嘗ての目抜き通りと思われる末広通り。途中、木島用水を跨いでいるのが末広橋、親柱はステンドグラス風のガラスが使われている内照式。この木島用水、遊廓と深い関係があるのです。



近くの小さな公園で冒頭画像の豚さんがウトウトしています。此処も前回訪れています。あら、依然としてチカンに注意なのか・・・そして明夫にも。誰なんだ、明夫(笑)



その先にあるのが清林寺さん、スリランカに実在するアウカナ仏のレプリカがあります。こう見えても高さ19m、石仏ではなくFRPにセメント吹付のがらんどう仏。



末広通りに面している妻壁が大谷石積みの重厚な黒漆喰の商家。防火対策はバッチリですな。ギャラリー鈴木屋とありますが、中身は空っぽでした。



妻壁の様子・・・中間のジッパーみたいな出っ張りは何でしょう。



旧日光例幣使街道の石橋町交差点近くの路地を入ると、前回勝手に妖しいと言っちゃった一画に出ます。仕出しと書かれた梅月さん、どうやらうなぎのお店みたい。塀を突き破っている桜が相変わらず凄い。



その先、薬王寺さんのお隣にあるのが割烹喜楽さん。美しい塀ですが、かなりガタがきているようでして、目で分かるほど傾いております。



入口には料理店の鑑札、栃木県でよく見られるタイプです。風俗営業許可店に二十才未満ウンヌンと盛り沢山。



旧日光例幣使街道沿いに前回紹介できなかった近代建築があります。旧岡本歯科医院さん、大正頃に建てられたみたいです。両開き窓と柱型風の装飾、縦強調のデザインになっております。スタイルいいですね。



路地裏をフラフラしながら次の場所へと向かいましょう。



上都賀病院の裏手に真っ黒なトタンに包まれた商家があります。前身は不明ですが、現在はデイサービスの施設になっているみたい。



煙草の販売カウンターも付属しています。コレの正式名称が未だに分かりません。



裏手にはこれまた真っ黒な倉庫?何を隠そう此処の北側が嘗ての遊廓跡なのです。



路地を抜けると県道4号線、嘗てはこの通りが遊廓へと続く道でした。ちょっと行った突き当たりに御影石の大門がありました。もちろん当時はこんな幅員ではなく、通りも遊廓にぶつかって終わっていたのですが、戦後になって拡幅されたうえ、遊廓跡を貫いてしまったわけ。もうお分かりだと思いますが、ほとんど面影は残っていないのです。ただ幾つか気になる物件が・・・手前の竹澤旅館さんです。『全国遊廓案内』に同じ屋号がありますね。これは何かの偶然???



図書館で大正9年(1920)に発行されたこんな絵地図を見つけました。お手数ですがクリックで拡大してご覧下さい。赤印の部分が遊廓です。町外れの行き止まりになっているのがよく分かると思います。鹿沼市史によりますとこの遊廓、別名五軒町(新地)と呼ばれていました。由来は宿場の飯盛女、風紀上宜しくないので町外れに移転させられたわけ。明治41年(1908)のことでした。五軒の妓楼があったから五軒町なのですが、実はもう一軒移転する予定だったとか。六軒町になっていたのかも・・・。こういう絵地図を見るのは楽しいなあ。



往時の配置はこんな感じ・・・四周を囲うのは高さ2m以上の黒板塀、中央の柳の木はもちろん見返り柳です。台やと書かれた小さな建物がありますが、左から車屋(人力車)、タバコ屋、軽食仕出し。台やとは仕出し屋のことで、出前料理を乗せる台が名前の由来なんだとか、巡査の詰所も付属していたそうです。二階は週一で県医が通ってくる検梅所でした。東を流れるのは前出の木島用水、堀の役目を果たしていたということになるでしょうか。この遊廓が隆盛を誇ったのは関東大震災前だったそうで、戦争が始まり昭和18年(1943)には日本医療営団に強制買い上げとなりその幕を閉じることになります。戦後になっても復活しなかったようです。



↑の配置図に椿森稲荷とありますが、この神様は今も健在。場所は移転しているようですが。あ、そうそう、電柱に『新地幹』と書かれたプレートがあったことを追記しておきます。



遊廓跡の外れ、木島用水の脇で椿が狂ったように咲き乱れておりました。



遊廓跡に向かう途中チェックしていたレストラン藤屋さんで昼食。どういうわけか看板には『FJIYA』(笑)



小エビフライの定食、単なるエビフライではなく、あくまでも『小』なのです。甘エビとブラックタイガーの中間ぐらいの怪しい小エビ(笑)プリプリでおいしゅうございました。このレモン絞り、久しぶりに見たぞ。付け合せのビーツもポイント高いです。優しそうな老夫婦が切り盛りするお店です。



前出の絵地図をご覧下さい。右上に馬鹿デカイ鳥居がありますね。あれが鹿沼今宮神社、鹿沼の総鎮守です。前回は訪れなかったこの界隈を探ってみようかと・・・あらら、ここでカメラに異変、こんな昭和レトロ風になってしまった。何も弄っていないのに、原因不明だ・・・。まあ、これはこれで面白いですし、画像を修正するのも面倒なのでこのまま載せちゃいます。写っているのは、今宮神社参道に面している大谷好美館。明治30年頃に建てられた元写真館です。下見板張りに上げ下げ窓、軒裏に持ち送り状の装飾があります。国の登録文化財です。そんなことよりひもヌンチャクってなんぞ???



ひもヌンチャクとありますように、現在は空手の道場になっているみたい。



突当りに見える鳥居が今宮神社です。



創建は延暦元年(782)という歴史のある神様です。鳥居脇の杉の巨木、絵地図にも描かれていましたね。



参道を戻りまして、大谷好美館のお隣には駒橋歯科医院さん、大正14年(1925)に建てられました。あ、いきなり直った・・・何だったんだ・・・。



窓からキティとミッフィーが・・・。



近くにあるのが日光珈琲朱雀さん。以前、隣町の今市にある元妓楼をリフォームしたというカフェ、饗茶庵さんを紹介しましたが、それの本店?姉妹店?がこのお店。



此処でちょっと休憩・・・。古い町屋を使っていますが、もちろん元妓楼ではありません。



帰りは東武日光線の新鹿沼駅・・・駅へと向かう通り、延々と廃れきったお店が続いています。



ちょうど解体屋さんが作業に取り掛かるところでした。



駅前の富士山を模した窓がある旅館が無くなっておりました。以上、5年という歳月を感じさせる鹿沼の再訪編でした。

絵地図もそうですが、驚いたのは鹿沼市史です。あそこまではっきりと遊廓のことを記してあるのって珍しいと思います。わざとなのかは分かりませんが、花街と言い替えているのはまだしも、全く触れていない町が結構ありますから。まあ、所謂悪所ですから町からすると黒歴史になるのでしょうけど。鹿沼市の英断?私は支持しますぞ。次回は帰り道にぶっつけ本番で寄った小さな町を紹介致します。裏通りで謎の旅館に遭遇・・・お楽しみに。

栃木県 栃木市藤岡201312

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煙突とトロッコレール・裏通りの謎旅館・アンテナ林立するカマボコ屋根

ビジュアル的にもとても好きな建物です。


 鹿沼を再訪した帰り道、日没まで少し時間がありますので途中にある小さな町に寄ってみることに致しましょう。もちろん予備知識ゼロ、ぶっつけ本番の探索であります。実はこのパターン、時折行なっているのですが、今回のようにレポをお届けできるのは本当に稀なケース。収穫皆無・・・何で俺はこんな処にいるんだと呆然と立ち尽くすことがほとんど。その際のお蔵入りとなった写真が山ほどあるのは内緒です(笑)

 東武日光線の栃木駅から三つ目にあるのが藤岡駅です。お隣の群馬県に藤岡市がありますが、そことは全く違いますのでお間違いのないように。元々この町は下都賀郡藤岡町という単独の自治体でしたが、2010年の合併で栃木市の一部になっています。東に少し行くと広大な渡良瀬遊水地がひろがっており、嘗ては町の南に藤岡城なるお城があったそうですが、お城なんて遡れば何処にでもありますからね。そんな感じで極めて特徴の乏しい町なのですが、在郷町の類と言ってしまって差し支えないと思われます。もちろんこれらは後から知った情報でして、当日は大きな蔵があるようだからとりあえず寄ってみようか・・・そんな軽い気持ちで歩き出したのですが、まさかあんなことになるなんて・・・。



降り立った藤岡駅前、あるのはタクシー会社と食堂兼飲み屋みたいな渋いお店だけ・・・。



町を南北に貫いている県道9号線に出るしかないようですな。



県道に面していた庚申塚。左は志満原という屋号の料亭か割烹、新しい建物でしたがもうやっていないみたい。



その先にあるのが岩崎醤油さん、大きな蔵とは此処こと。右が店舗、左が醸造蔵みたいなのですが、どうも様子が変。赤煉瓦の煙突だけがポツン、コレ使われていないですよね。あ、お分かりになるでしょうか、敷地内の運搬に使ったと思われるトロッコレールが残っておりました。



立派な蔵なのですが、近付いてみますと・・・



ガラスが酷い状態。こんな記事を見つけました。此処ではもう醸造されていないんだ・・・しかも今年の3月になって取り壊しが決まってしまったのか。この姿は既に見られないかもしれません。



この先には何も無さそうですので、今度は県道を北へ戻ります。とりあえず家並みが途切れる渡良瀬川まで行ってみることにします。



県道沿いにはこんな嘗ての隆盛を物語る元商家がポツリポツリと残っておりました。



そこにやって来たのは北関東名物(笑)とされている珍走団。ちょっと活動時間には早いんじゃない?



ヒロミ美容室さん、なぜか入口だけが純和風。



通り沿い唯一の近代建築だと思われますが、詳細は不明。現在は電気屋さんですが、たぶん前身は金融関係だったのではないでしょうか。三角屋根の端正な神殿風、左官で石貼り風の目地が切られています。



車は通りますが、人影は皆無です。



てっぺんが円形のシンプルな看板建築、コレ好きなんですよね。何屋さんだったのか、文字がかすれていて読めませんでした。



凄いミニスカ・・・既にやっていない自転車屋さんの側面に描かれておりました。



渡良瀬川にぶつかりました。川を跨いでいるのは新開橋、袂には川魚専門店でしょうか。ナマズの天ぷらとありましたものですから。



回り込んでみると飲み屋さんの痕跡。ここで来た道を単純に引き返していたら、たぶんこのレポはお蔵入りになっていたと思います。単なる思い付きだったのですが、帰りは並行している裏道に入ってみたわけです。



いきなり現れたお好み焼きの看板、なぜこんな場所に!?地図にはおとめと表記されていました。



近くに謎の廃屋があります。



覗いてみると酷い状態、車寄せ風のキャノピーがゴミで埋まっておりました。工場か何かの事務所棟といった雰囲気です。



このサビにはやられましたわ。



その先にもっともっと謎の物件があります。真っ黒な押縁下見板張り、かなり複雑な造りであるのが分かるかと思います。



あら、玄関廻りがステキじゃありませんか。



弧を描く破風に水の流れを模した格子戸が面白いですね。しかし、驚いたのはこれだけはありません。回り込んでみますと・・・・



なんと、こっちにもそっくりな破風があるんですけど・・・。二つの破風を繋いでいるのは繊細な造りの出格子です。



帰ってから地図で確認しますと赤間家旅館とありました。妙に艶っぽい旅館ですよね。しかし、今回再び地図を開いてみますと表記が消えているのです。ちょっと前までは現役だった・・・なわけないか(笑)まあ、何にせよ裏通りに謎の旅館があったことだけは事実なのです。



鹿沼に続いて、懲りずにまたチカン看板。こんな接近遭遇したら110番どころじゃないでしょ、と子供みたいなツッコミ入れておきます。



行きとは違う駅に向かう通りでコレに出会いました。最初はスーパーマーケットの成れの果てかと思ったのですが・・・。



脇に回り込んでみますと、かなりへたったカマボコ屋根が現れてビックリ。換気用の突起があることから、たぶん工場か倉庫だったと思われるのですが、林立するアンテナには???もしかするとアパートになっているのかも。



看板の痕跡がある後ろ姿も大変宜しい。



駅前のお店に明かりが灯ることはなさそうです。あ、赤間家旅館はこちらって看板がありましたね。今頃気付いた・・・。

たまにはこういう大当たりがあるわけ、だからこの知らない町のぶっつけ本番の探索、これからも辞められそうもない。果たして、次に大当たりが見つかる町は何処でしょう。下手な鉄砲ウンヌンで探してみたいと思っています。
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