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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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埼玉県 秩父郡小鹿野町201311

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お医者さんからスナックへ・廃娼県の小さな私娼街跡・胡瓜と紅生姜の鼻緒!?

山あいの小さな町にこんな私娼街があったなんて、ちょっと驚きです。


 今回は小鹿野町、この町もなかなかの難読町。埼玉出身の私ですが、子供の頃は『こじかの』って読んでいましたから、そのまんまなんですけどね。まあ、その頃から地図を見てはニヤニヤしている変な子でしたというのはどうでもいい情報ですので話を進めますよ。正解は『おがの』です。場所は秩父市の西隣、山一つ越えた先にある小さな町。西方には日本百名山の一つ、イザナギとイザナミという二つの神様を祀る両神山がそびえる山あいの静かな処。嘗ては旧中山道の脇往還の宿場だったそうで、明治以降西秩父地方の中心として一気に近代化が進んだそうです。しかし、あっというまにお隣の秩父市に追い抜かれ、現在は何処にでもありそうな寂れた町といった様相です。

 小鹿野特有の風俗というのが歌舞伎です。その歴史は二百数十年前まで遡るそうで、秩父出身の初代坂東彦五郎が江戸歌舞伎を伝えたのが始まりとされています。衣装や小道具、振り付けなど全てが町民の手になるもので、これは全国的に見てもかなり珍しいものなんだとか。スケジュールを見ますと、一年を通じて定期的に演じられているようでして、これも結構珍しい状況なんじゃないでしょうか。実は私、この歌舞伎を子供の頃に見に行っているみたいなのです。4、5歳だったので全く記憶にないのですが・・・。

 そんな小鹿野に遊里が存在していたと知ったのはつい最近のこと。たまたまある近代建築を探しておりましたら、どういうわけか『小鹿野路地まち勉強会』なるサイトに行き着いてしまったのです。どうやらコチラ、NPO法人の後援で町の再生を図っている団体みたい。そういえば小鹿野ってあったなあ、どんな町だったっけ・・・そんな感じで眺めておりましたら、いきなり目に飛び込んできたのが『遊郭街』の文字・・・思わずポカーン、これはやられましたわ。ご存知だと思いますが、埼玉県は明治8年(1875)に県令の命で廃娼県になっております。まあ、その後以前から遊廓が置かれていた本荘と深谷が編入されて全て有耶無耶になってしまうのですがね。川越や秩父などで見られる遺構は、群馬県で言うところの乙種料理店みたいなもの、所謂私娼街ということになります。この乙種料理店的な遺構、埼玉県では探せばそれなりに見られるのですが、不思議なことに本家本元の群馬県で見つけるのはとても困難なんですよねえ、何でだろう・・・。



小鹿野町へは西武秩父駅からバスになります。途中、かなりのヘアピンカーブで山を越えていくのですが、エンジンブレーキだけで突っ込んでいく運ちゃんの見事なハンドル捌きを鑑賞しながら30分ほどで町の入口にある役場前に到着です。出迎えてくれたのは歌舞伎の町をアピールする看板だけ、人影は皆無・・・。



とりあえず町の目抜き通りである県道209号線を行きましょう。この通りが嘗ての脇往還です。



越後屋旅館さん・・・創業が明治8年って埼玉が廃娼県になった年じゃないですか。何か曰くあり気に感じるのは気のせいでしょうか。この直後、マイクロバスが横付けされ、団体さんがワラワラと入っていきました。



所々の店先にこんなものが飾られているわけ。歌舞伎の町をPRしてるんでしょうが、コレ夜見たら絶対チビるでしょう(笑)イカ天世代からすると、カブキロックスにしか見えないのが哀しいところ。



コチラは村上酒店さん、看板には醤油店とあるとおり元々は江戸末期創業の醤油と味噌の醸造所だったそうです。



お店の脇が路地になっていました。ちょっと入ってみましょう。圧し掛かってくるような屋根の迫力が見事。



路地の奥には愛宕神社という小さな神様が鎮座しておりました。



通りに戻って今度は北側に入ると十輪寺さん、何だか鐘楼が通りにはみ出しちゃっているんですけど。



十輪寺さん参道の向かいにあるのが通りでいちばん立派な常盤屋さん(加藤家住宅)、明治13年(1880)に建てられた重厚な店蔵です。一階が店舗、二、三階ではお蚕さんを飼っていたそうです。



気になったのが腰に貼られていたコレ。最初は煉瓦かと思ったのですが、どうやら瓦製のタイルみたい、初めて見ました。



此処の脇にも路地が続いています。しかも未舗装の砂利道・・・地元では成田横丁と呼ばれています。



途中にはこんな立派な門も・・・砂利道とのギャップが凄い。たぶんコチラも常盤屋さんのものだと思われます。



突当りにあるのが不動尊、成田の名の由来は此処ですね。思いっきり季節外れな画像で申し訳ない。



目抜き通りに戻りました。倒壊寸前の板塀に囲まれているのは旧荻野医院さん。



金子薬局さん・・・後から気付いたのですが、外壁に円盤みたいなものがありますよね。よく見てみると、間違いなく銅鏡(レプリカ?)なのです。どういった意味なんでしょう。



謎の警備詰所、何のための、誰のための警備だったのでしょう。もしかして・・・真央ちゃんの???



同じ二階建てなのにずいぶんとたっぱの違う二軒ですな。



右の平沼製菓舗さん、画像では分かりにくいと思いますが、とても綺麗な緑の玉石タイルが使われています。



左の元蕎麦屋には料理店の鑑札が残っておりました。



その先を右折、既に退役済みと思われる寿司駒さんの先に異様な物件が見えてきます。



寄棟屋根に下見板張りの洋館風、玄関まのでアプローチである前庭がグルリと塀で囲まれています。



立派な門構え・・・ですが、もうお気付きですよね。『喫茶スナック ふるさと』の場違い感が半端ないぞ。



門に診療所の表示、やっぱりお医者さんだったんだ。医者→飲み屋、どんな数奇な運命を歩めばこうなるの???



振り返ると向かいには神様、八雲神社です。塀は倒壊寸前、庭も荒れ放題ですのでてっきり廃屋かと思ったのですが、さきほどから視界の隅に白い物体がヒラヒラと・・・。



なんと現役でしたか、大変失礼致しました。



原町の交差点を左折するとこの公衆便所が見えてきます。よほどの非常事態でないかぎり使いたくない(笑)



その先をまた左折して目抜き通りの南側を並行している通りに入りました。地元では朝日通りと呼ばれています。しばらく行くと冒頭画像の場所が見えてきますよ。



ホワイトボックスの隅をカットして入口を造っただけというシンプルすぎる構成、こういうの大好きです。でも、注目していただきたいのは左の建物。



そのまま辿っていくとこんなお店の痕跡が・・・二階部分はL字のプランになっているようです。そのまま建物沿いを回り込んでいきますと・・・



・・・砂利敷きの広場にこんな三軒が並んでいるわけ。そう、此処が私娼街跡になります。砂利敷きの広場が嘗てのメインストリートだったそうで、往時には十軒のお店が並んでいたそうです。町の規模から考えても十軒ってかなりの規模だと思います。奥の二軒はかなり直されているようで、面影はほとんど残っておりません。



まあ、手前のもこの塀ぐらいでしょうか、雰囲気が感じられるのは。公許の遊廓とは違う立場のため、あえて質素な造りにしたのかもしれませんね。



お隣の駐車場越しの光景、伸びやかな屋根が美しいなあ。この駐車場に建っていたのが小鹿野キネマという映画館。私娼街に映画館、町いちばんの盛り場だったのでしょう。バイクがいっぱいありますが、別に怖い集会が行なわれているわけではありませんのでご安心を(笑)小鹿野町はツーリングで峠を越えて山梨県側に抜けるライダーが必ず通る町、町もバイクによる町興しをいろいろやっているみたいです。



さきほどのバイク群の理由は、近くにある小鹿野名物わらじカツの有名店安田屋さん目的だったというわけ。私もチェック済みだったのですが、行ってみると長蛇の列・・・他の店にしますわ。



遊里跡近くでこういったものを見つけると別の意味にとってしまうのです。



若い方は知らないと思いますが、ちょっと前までタバコは立派な贈答品だったのですぞ。海外旅行の土産も免税店のカートンタバコが定番、今じゃ考えられないですよね。それから免税店とくると、なぜか頭に浮かぶのがナポレオンとシーバスリーガル(笑)



近くにあったかなりの邸宅、高い塀のせいで中の様子は窺えませんでした。



十輪寺さん参道脇にある昭和食堂さんのわらじカツ丼を頂きました。わらじということで胡瓜と紅生姜で鼻緒を表現しているみたい(笑)所謂ソースカツ丼でして、今までいろんな町でコレを頂いてきましたが、思うのはやっぱり自分は卵でとじているヤツが好きだということ。

こんな山あいの小さな町にかなりの規模の遊里があった、これはちょっと驚きの事実なんじゃないかと。行ってみれば分かりますが、ロケーションもかなり面白いと思います。そんな小鹿野の探索でした。次回は秩父、4回目ですので勝手知ったるといった町ですので、地図も持たないブラブラ探索です。全然変わっていないと思えた町にも少しずつ変化が現れていることに気付くのでした。

埼玉県 秩父市201311(5回目)

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ケヤキ巨木の紅葉・ファサードだけが残った映画館・四つ角の文化財群は変わらず

相変わらずの季節感ゼロ画像、お許しくだされ。


 小鹿野のからの帰り道、秩父に寄ってみました。小鹿野のレポの中で4回目と言いましたが、よくよく考えてみましたらなんと5回目!?これは毎年詣でを欠かしていない大好きな町、桐生に次ぐ頻繁さなのです。何に惹かれているのか今もってよく分からないのですが、それだけ面白い町であることだけは間違いないのでしょう。これ以上この前書きに書くことが思いつきませんので早速始めさせていただきます。今回は下調べなし、地図も持たない行き当たりばったりの探索、できる限り今まで訪れていない界隈を巡ってみようと思ったのですが、結局行き着く場所は毎回同じだったりするのが不思議・・・。



西武秩父駅近く、秩父札所13番旗下山慈眼寺の裏手にちょっと艶っぽい一画があります。そこで出会ったニャンコ。状況を説明致しますと、門を介した向こうにももう一匹おりまして身動き一つせず睨めっこをしているわけ。やがて緊張の糸が切れ、この仔に動きが・・・オオッ、一戦交えるのか!?しかし、ゴロニャンして仲良く奥に消えちゃった・・・知り合いかよ・・・。



この土蔵、以前はボロボロの崩壊寸前だったのですが、真っ白なトタンでラッピングされておりました。



秩父の街灯もなかなかでしょ。



松と楓が対照的なのは大友内科医院さん、和洋折衷のちょっと面白い造りになっているのですがこの写真じゃよく分からないですね。下手糞で申し訳ない。



はす向かいには退役済みのパーマ屋さん、緑の偽スレートと出窓がいいね。



近くのどん詰まり路地の光景です。



県道73号線(旧秩父往還)に出ました。



すぐ横の福島屋さん・・・タイルが型押しされたトタンで覆われています。



あ、此処に出るんだ・・・秩父市唯一のデパート、矢尾百貨店裏の駐車場にコレがあります。嘗てこの地にあったのが寛延2年(1749)創業の酒蔵である矢尾本店、銘酒秩父錦の蔵元です。矢尾百貨店のご先祖は酒蔵だったというわけ。酒蔵自体は別の場所に移って今も健在です。蔵の横にあるケヤキの大木が見事なのです。



紅葉は散る寸前といった感じでしたが、これはこれでいいんじゃないでしょうか。



近くの今宮神社にもケヤキの大木があります。樹齢千年を超えるとも言われているご神木の龍神木です。幹には大きな洞があり、これは龍神様の住処なんだとか。市と県の天然記念物に指定されています。



境内の玉垣、どういうわけか製薬関係が多いのです。これは太田胃酸ですが、龍角散や浅田飴もありました。変わったところでは胃腸薬ゴルフなんてものも(笑)



ちょっと行った処にある寿司市本店さん、格子戸の上に料理店の鑑札があります。かなりの大店ですので、たぶん寿司割烹的なお店だったのではないでしょうか。



路地を抜けるとコレが現れます。銭湯から焼き鳥屋という数奇な運命を歩んだ物件なのです。しかしその焼き鳥屋も、今やもう・・・。



近くの路地を覗くと小さなお稲荷さん。この先がちょっと妖しい一画なのです。



お狐さんの台座には『秩父町料理店組合』と刻まれております。



細い路地を回り込んでいきますと、何とも判断しずらいお宅が現れます。二階の手摺にある隔て板が妙に気になるんだよなあ。



脇の更地には謎の飛び石?がクネクネ。新手のランドスケープアートかもしれませんな。



その先に以前も紹介した広さ三帖ほど、これまた謎の激狭飲み屋跡があります。此処は全く変わっておりません。



ジョッキの位置もそのまんまのような気が・・・。



路地を抜けると何度も紹介している花街跡とされている一画。手前の重厚な造りの建物は花月という屋号だったそうです。果たして料亭や待合だったのか、もっと妖しげなお店だったのか・・・。棟には立派な鯱、手前は招き猫です。現在はヨガ教室として余生を送っています。



相変わらず欄間の色ガラスが美しいですなあ。



奥にもう一軒、連続する窓の桟が印象的な建物です。やっぱり気なるのが門の脇にある小窓の存在、どんな役目を果たしていたのでしょう。陰見世の名残だったり・・・するわけないよなあ。



窓の桟が印象的な物件から続く家並み、これはなかなか壮観。



その先に営業中の看板がかなり怪しいつみっ子さん。裏手に擬洋風建築風の土蔵がくっ付いております。



通りを挟んだ同じ並びには、レリーフ状の装飾が残る元商店。何屋さんだったのでしょう。



ちょっと戻って旧秩父往還と並行している裏通りを行くと見えてくるのが看板建築風のたから湯さん。なぜか私、以前のレポの中でさくら湯って紹介してた・・・この箱文字、読めないよねえ、と言い訳しておきます。



たから湯さんのはす向かいにあるのが冒頭画像の場所。大好物のシンプルアーチの看板建築、どうやらお菓子屋さんだったみたい。鈴なりなのは渋柿だから???



その先にあるのが旧松竹秩父国際劇場・・・って、やっぱり無くなっていた。いや、正確に言うと無くなったというのは間違い、改修されて残ったのが茶の三角屋根の部分だけということみたいです。新聞か何かの記事で改修されると聞いていたのですが、詳細までは知りませんでした。そうですか、こうなってしまいましたか・・・。残念だったのは、映画館裏手に付属していた巨大なボロアパート、まあ住人もいなかったようですのでこうなるのは当然なんですけどね。それにしても何だこの空虚な感じは・・・。



浅草国際劇場を模したというファサードだけは残してくれたようです。現在はイタリアンのお店になっているみたい。ガラスにへばり付いて中を覗いてみましたが、往時の様子は残っていないようですので入りませんでした。店員さんが驚いていましたが(笑)まあ、閉館後の30年は倉庫として使われていただけですから勿体無いですものね。でも、もう少し何かやりようがあったような・・・部外者の戯言ですよ。



次に向かったのは番場町、嘗ての中心街です。



四つ角に国の登録文化財が並んでいます。手前が昭和初期に建てられた小池煙草店さん、奥が大正15年(1926)に建てられた旧大月旅館別館さん。此処も何度も紹介していますね。



何と言っても小池煙草店さんです。これだけ見事な看板建築、なかなか見られないと思いますぞ。



昭和2年(1927)に建てられたカフェパリーさんもお元気そうで何よりです。欲を言わせてもらえば、ネオン管が灯る姿を見てみたい。そして、お店オリジナルの美しいドンブリを譲っていただきたい。



近くにあるのがクラブ湯さん。相変わらず暖簾が出ておらず、やっているんだかやっていないんだかよく分からないお風呂屋さんです。チャリがいつも同じ場所にあるし(笑)



此処も毎回紹介していますね。倒壊寸前の傾きまくっている屋根付き駐車場なのですが変化が・・・入口に引き戸、脇には格子が造られておりました。傾いていますので格子が思いっきり不整形(笑)中ではお爺ちゃんが作業しているし、どうやらこれらはお爺ちゃんが造ったみたい。此処どうするのでしょうか、まさか住んだりしないよね???



一方、お隣のメナードさんは全く変わらず。



昭和初期に建てられた秩父銘仙出張所。名産である絹織物、秩父銘仙の取引に使われた建物です。似たようなものが三棟続いているのですが、二階部分が渡り廊下で繋がっているため、こんな素晴らしい路地状の『ぬけられます』空間が形成されたというわけ。



『ぬけられます』空間を抜けると重機が残る更地。まだ壊されたばかりみたいです。此処には平屋建てという珍しいビリヤード屋がありました。ちょっと遅かった・・・。



駅に戻る途中、矢尾百貨店が面している交差点にあった古い商家が消えていました。この通り(県道73号線)は都市計画道路でして、将来的に拡幅が行なわれるはずなのですが、どうやら事業が本格的に動き出したようです。県議会の議事録によりますと、7月段階での用地買収率は57%だとか・・・。通りには幾つかの古い商家や近代建築があるのですが、それらはどうなってしまうのでしょうか。



最後に秩父のシンボルである武甲山を仰いで帰りましょう。穴ぼこだらけの昼間の姿はあれですが、こうしてシルエットで見るぶんにはいいものですな。

前回の探索から2年半ぶりになるでしょうか、そんな短期間でも少しずつ変化が現れていた秩父市でした。おそらくこの町とはしばらくご無沙汰になると思います。次に訪れるとき、町はどんな顔で迎えてくれるでしょうか、ちょっと怖いような、楽しみなような・・・。

千葉県 松戸市201405

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此処でも発見例の街灯・往時を語るのは柳の巨木のみ・河畔のトタン看板建築

古びたお宅の前から河畔に建つトタン建築を望みます。


 今回は松戸市、知り合いの何人かがこの町に住んでおりますが、有数のベッドタウンですよね。なんでも昭和45年(1970)で20万人だった人口が、平成22年(2010)には48万人に激増しているそうですからこれはかなりのもの。江戸川を渡れば東京ですし、生活環境もまずまず、若いファミリーが暮らすのにはもってこいの町というのが私のイメージ。そんな松戸ですが、嘗ては西を流れる江戸川の舟運と五街道に準ずる水戸街道の宿場として栄えた町でした。後に紹介する『全国遊廓案内』にも出てきますが、遊廓形成の由来となったのが宿場の飯盛女とされています。大正8年(1919)になりますと軍隊がやってきます。駅東側の高台に大日本帝国陸軍工兵学校が開校、松戸は軍都という一面もあった町ということになりますね。軍都に遊里、必要不可欠・・・と書いたところで気付いたのですが、兵隊見習いに遊里って必要だったのでしょうか。以下の案内文は上から『全国遊廓案内』、『よるの女性街・全国案内版』になります。

 『松戸町遊廓 千葉県東葛飾郡松戸町字平潟に在つて、常磐線松戸駅へ下車して西北へ約五丁の処に在る。東京府と千葉県との境に在る町で、江戸川の川岸に臨んだ濱街道の要路に成つて居り、水陸の便が善い。松戸の相模台には競馬場があり、県農事試験場があり、又日本唯一の園芸学校もある。川岸は魚釣りには善い場所がある。寛永年間には沢山の飯盛女が居たものだつたが、今日の遊廓は其の後身である。目下貸座敷が十三軒あつて、娼妓は百五十人いるが、秋田県、山形県の女が多い・・・娼楼には、喜楽楼、第一鶴宝来楼、第二鶴宝来楼、蓬莱楼、若松、濱名家、叶家、福田屋、百年、鈴金、三井家、第二九十九、一元等がある・・・「松戸女郎衆はいかりか網か、登り下りの船とめる」』

 『町端れに古い遊廓が三軒、江戸川堤の夕色に浮き出ている。そんな灯ともし頃から一五〇〇円OK。千葉、茨城のタフな女が二二名。普通の泊りでもお安く七〇〇円、桜の季節は特に風情がある』



とりあえず昼食ということで駅の西口の出たのですが、フランチャイズ店ばかり・・・。好みのお店を物色していると、こんな激セマ呑ん兵衛横丁に出会ってしまったわけ。VABAR’s BARにとっても惹かれるのですが(笑)



こりゃすごい・・・通路の巾が三尺ほどしかないぞ。



ようやく見つけた中華竹琳さんで昼食、所謂ヌーベルシノワ的な小洒落たお店。確かに旨いけど・・・量がね・・・。なんとか燃料補給できましたので遊廓跡に向かいましょう。駅西口から延びる通りを真っ直ぐ行くと江戸川の堤にぶつかります。そこが遊廓跡への入口、嘗ては大門があったそうな。



近くにある来迎寺さん。娼妓のお墓があるそうなのですが、最近になって本堂を建て替えたようでして見つかりませんでした。



向かいには境内がちょっと荒れ気味の水神宮という小さな神様。手洗い鉢に九十九楼と刻まれておりました。



嘗て貸座敷が並んでいた通りに戻りました。そこでこの子にメンチ切られたわけ。遊里跡のニャンコって、皆人相(ニャン相?)が悪いのはなぜなんでしょうね(笑)しかし、問題はニャンコではありません。画像を開いてから気付いたのですが、左にある街灯・・・というか、正確には街灯の柱ですね。横須賀市安浦、四谷荒木町にも残っているコンクリート製の例のヤツです。ちょっと前、山梨県のとある町でも発見したのですが、あれと同じだ。何てこった、現地では全く気付かなかった・・・ニャンコにやられましたわ。



建物ではありませんが、唯一の遺構と思われるのがこの柳。往時は通りに沿って柳並木が続いていたそうですが、残っているのはこの一本だけ。手前の電柱には『平潟』と書かれたプレートが残っていました。



巨木と言ってしまっても差し支えないほどの立派なものです。清清しい五月の風に揺れる葉の下には幼稚園の送迎バスが打ち捨てられておりました。



遊廓跡の裏手を流れる樋古根川、往時は水面を妖しく照らす軒燈が並んでいたのかもしれませんね。



あまりにも遊廓跡がアッサリ終わってしまったので宿場跡もフラフラしていきましょう。駅側にちょっと戻ると県道5号線(流山街道)に出ます。これが旧水戸街道です。ポツリポツリと出桁造りの商家が見られますが、残念なことに面影はあまり残っておりません。



途中、坂川を春雨橋という趣のある名前の橋で渡ります。河畔のこんもりと繁る木々の向こうに瓦屋根が見えますね。



旧街道に面した部分はこんな感じ。コチラも商家だったみたいですね。



銅板張りの看板建築もありましたよ。緑青がいい塩梅。その先のY字路で県道5号線とはお別れ、右に行きますと・・・



平屋建てと思われるトタン張りの看板建築が続いておりました。このスカーンと抜けた感じが堪りません。



シンプル・・・それしか浮かんでこない・・・。



脇に回ってみると・・・平屋だと思っていたのはなんと二階建てだったというわけ。裏を流れるのはさきほどの坂川です。



近くの路地裏で見つけた謎の松戸学園。試しに検索したら『まつど学園』なるイメクラ情報がわんさと出てきちゃったんですけど(笑)



路地を抜けるとさきほどお別れした県道5号線、此処に出るんだ。



坂川に架かっているのが小山樋門橋。橋と呼ばれておりますが、水門の役目も兼ねていた土木施設です。三連のアーチが連なる赤煉瓦造、明治31年(1898)に造られました。アーチの手前、縦に溝があるのが分かるでしょうか。あそこに板を差し込んで水量を調整していたのだと思います。その独特な形状から、地元ではめがね橋と呼ばれているそうです。



線路を潜り常盤線の東側に出ました。東京寄りの高台に広大な緑に埋もれるようにして見事な邸宅がデーンと構えております。明治17年(1884)に建てられた国の重文、戸定邸であります。



施主は水戸藩最後の藩主徳川昭武、将軍徳川慶喜の実弟ですね。コチラは彼の別邸だったそうです。



徳川家の住居で公開されているのは此処だけなんだとか。杉柾目の柱が見事、相当贅沢な建材使っているのでしょう。



住むということに徹した控え目な意匠が気に入りました。



コチラは湯殿、小さな浴槽がカワイイですね。



最後に訪れたのは駅のすぐ脇にある松戸中央公園。公園入口に建つ門柱、実はコレが前書きにもある陸軍工兵学校の正門なのです。奥に見える小屋は歩哨哨舎、要するに歩哨の詰所ですね。正門は大正9年(1920)、歩哨哨舎は昭和2年(1927)〜10年(1935)に建てられたものとされています。



松戸が軍都であったということを伝える貴重な遺構です。

以上で松戸の探索はオシマイ。遊里関係はサッパリでしたが、多少軍オタ入っている人間としては楽しめたんじゃないでしょうか・・・と自分に言い聞かせております。

告知 幻燈街2014 東京篇

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個展の告知でございます。毎年恒例のネオンこと大倉ひとみさんの『幻燈街2014 東京篇』が開催されます。期間は9月6日(土)〜15日(月・祝日)となっております。つい先日(5月)にも『京都篇』の告知を打ちましたが、それの『東京篇』ということになります。

『京都篇』が盛況だったようでして、その様子をプロジェクターで映しているそうです。プロジェクター・・・ということは『京都篇』は完売!?やっぱり無理してでも行くべきだったかと今更ながら後悔しているわけ。

『京都篇』を見逃した方、是非ともご来廊くださいね。

詳しくは上のDMの画像をクリックしていただくか、ひとみさんのブログまでどうぞ。

◆大倉ひとみブログ『N的画譚』 http://neontica.blog51.fc2.com/
◆ギャラリーツープラス http://two-plus.blog.jp/

千葉県 流山市201405

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典型的な終着駅の町・日本料理必需品発祥の地・遊女の墓?と謎の歴女集団!?

そんな名店だとは露知らず・・・。


 いきなり私事であれなのですが、今後拙ブログの更新がかなり不規則になると思われます。理由は超絶多忙のため・・・つい先日、合間を縫って中距離の町をチョコチョコっと探索してきましたが、これが実に四ヶ月ぶりという惨状ですから笑っちゃいます。いや、暢気に笑ってはいられないのですがね・・・。実際、そんな状況でフラフラしていてもいまいち楽しくないというのが正直なところなのです。おそらく今年いっぱいはこんな状況が続くと思います。更新を一日千秋の想いでお待ちの方・・・そんな奴はいないですって?知ってるよ(笑)とにかくこんな状況ですので、何卒お取り計らいのこと宜しくお願い致しますぞ。

 ちょっと間が空いちゃいましたが、松戸市の次に訪れたのは隣町の流山市。先日、アド街で特集されていましたね。毎度のことになりますが、この町も大した下調べもないまま訪れておりましたので大変参考になりました。今回はその情報も盛り込みながらレポしていきたいと思います。この流山、松戸と同じく町の西を流れる江戸川の舟運で栄えた町だったみたい、それから新撰組別れの地・・・まあ、相変わらずの杜撰な下調べで知った予備知識はそんな程度なわけ。そんな程度なのになぜ訪れたのか!?理由は『流鉄』こと流山線の存在にあります。JR常盤線の馬橋駅から分岐している第三セクターの私鉄なのですが、大好物の盲腸線なのですよ。江戸川の向こうは東京というか、正確には埼玉県三郷市なのですが、そんな処を駅数たった5つしかないローカル線がガタゴト走っているという事実に以前から気になっておりました。まあ、もう一つ目的があるんですけどね。それについては追々レポの中で・・・。馬橋駅から12分で流山駅に到着、その駅前はいかにもローカル線の終着駅然としていて妙に安心したのはなぜでしょう。あ、忘れておりましたが、一応遊里情報もありますよ。



『流鉄』のあかぎ号、丸いライトがお気に入り。何処かで見たようなと思った方おられるのではないでしょうか。この車両、元は西武新101系・・・そう、嘗ては東京を走っていたのです。流山線の前身は大正5年(1916)に開業した流山軽便鉄道になります。



流山駅舎、サイディングで化粧されており古いんだか新しいんだかよく分からない。駅前には商店が数軒、歴史がありそうな建物も皆無、おまけに人影も皆無・・・と思ったらおりました、外国人だけど(笑)ウム、これぞ東京近郊の終着駅に相応しいと妙に納得。



駅前通りを真っ直ぐ行くと、地元で流山広小路と呼ばれている通りにぶつかります。これが嘗ての流山街道になります。旧街道に面しているのがアド街にも出てきた丁字屋さん。大正12年(1923)に建てられた足袋屋さんだったそうです。現在はイタリアンのお店として余生を送っております。典型的な関東の出桁造りの商家、見所は二階戸袋の銅板細工かな。



お隣には持ち送り状の装飾が並ぶ洋館、現在は蔵日和さんというベーカリー+カフェになっています。調べてみましたらこの建物、やっぱり前身はお医者さんだったそうです。



その先には呉服商の新川屋さん、此処もアド街で紹介されていましたね。重厚な黒漆喰の見世蔵は明治23年(1890)に建てられた国の登録文化財です。



戻って丁字屋さんの左隣、コチラは矢葉喜という割烹だったそうなのですが、門柱が大好物の擬木じゃありませんか。



その先の路地に入ると目的の閻魔堂があるのですが・・・って、お堂の前で新撰組の陣羽織姿の女の子集団が舞っているのですが・・・な、何コレ???近くにいた顔役?らしい男性に尋ねて納得、正解は後ほど。此処を訪れた目的はコレ、金子市之丞なる人物のお墓なのですが、別名流山のねずみ小僧と呼ばれているのです。市之丞は流山の出身、生家は醸造業だったそうですがあれこれあって勘当、盗賊に転業します。盗んだ金品を貧しい人々に配ったので義賊という当時のヒーローだったとか。そんな市之丞でしたがついに大阪でお縄頂戴・・・文化10年(1831)、小塚原の刑場であえなく獄門・・・。この墓石、実は初代じゃないそうです。お隣の松戸市に松戸競輪があるわけ、これを聞いてピンときた方いるのでは???そう、ギャンブラー達がゲン担ぎのお守りとして削って持ち帰ってしまうため何度か造り直しているそうです。森の石松なども同じ目に遭っているみたいですね。私も毎週totoを購入していますので入念に手を合わせたのですが・・・今のところ効果はありませぬ(笑)



実は市之丞のお墓が目的ではありません。それは隣にあるこの小さな墓石、コチラは市之丞が贔屓にしていた遊女三千歳のもの。何処の遊廓の遊女だったのだろうと考えておりましたら、男性から意外な一言が・・・。実はこの墓石、市之丞の妹のという説があるんだとか・・・エエーッですよね。



お堂の閻魔様、ベーッと舌を出しているのは珍しいものなんだとか。嘘つくと舌引っこ抜くぞ!!って意味なのでしょうかね。



依然として舞い続ける陣羽織集団、彼女たちは北総新撰組のご歴々。アド街でもちょっと紹介されていましたね。要するに新撰組大好きな歴女の皆さんです。ブログを拝見しましたが、あそこまでやるとは大したものです。ウーム、歴女の世界・・・深すぎるぞ。



閻魔堂の近くにある近藤勇陣屋跡。観光マップにも載っている有名な場所なのですが、さきほどの男性曰く、陣屋自体はかなり広範囲だったそうで此処限定で語られることに少し違和感があるんだとか。しかも、この土蔵は別の場所にあったのを移築したものだと聞くと・・・エエーッですよね。



適当にフラフラしていたらトタン塀が続く路地に迷い込んでしまいました。



路地を抜けると再び旧街道、二軒の商家がお出迎え。両方ともアド街に出てきました。



手前は明治22年(1889)に建てられた元乾物屋さんを万華鏡ギャラリーとして使っています。当日は休みだったみたい。二階の銅板製の扉がいいね。



そして冒頭画像の清水屋本店さん、明治35年(1902)創業の老舗和菓子屋さんです。アド街で写っていましたが、店内に建つ漆喰塗り?の白い円柱が気になるわけ。最中も美味しそうだったし、入ればよかった。



旧街道を少し行きますと広大なプラント風工場が見えてきます。キッコーマン万上みりん醸造工場です。流山は白みりんの発祥の地、欠かせない調味料ですから発見されなかったら日本料理は今頃どうなっていたでしょう。まあ、別の誰かが見つけていたでしょうけど。



さらに江戸川沿いを松戸方面に辿りますが、微妙な町並みが続くだけ・・・旧街道の面影は皆無です。



途中にあった完璧な窒息物件、杢目の合板が恐さに拍車をかけております。



此処もアド街に出てきました、一茶双樹記念館です。小林一茶とみりん醸造家五代目秋元三左衛門の親交を記念した資料館です。敷地は秋元本家跡で写っている建物は安政時代の母屋らしいです。閉館時間ピッタリに到着、係の方が雨戸を閉めておりました・・・残念。



近くにあるのが赤城神社。アド街では1000年前に起こった大洪水で、江戸川の上流にある赤城山の一部がこの地に流れ着き神社の杜になったとありました。その珍説が納得できるほどこの一画だけがポッコリと不自然に盛り上がっているのです。



狛犬は何となくライオン風、威厳ゼロですな。



そのまま江戸川の堤に出ましょう。こんな光景が見えるはずです。嘗て此処に架かっていたのが旧流山橋、それの橋脚基礎になります。昭和10年(1935)に開通した立派なものだったそうですが、橋桁が低く江戸川が増水すると度々通行止めになってしまったとか。そんな状態だったため600m下流に架橋された現在の流山橋(県道6号線)に取って代わられることに、昭和40年(1965)のことでした。



橋が架かる前は渡し舟だったそうです。



では鰭ヶ崎駅から帰ります。駅の近くで見つけました。上がパーマ屋で下が床屋、こういうのってありそうで実はなかなか無いんじゃないでしょうか。

そうそう、大事なことを忘れておりました。肝心の遊里ですが、閻魔堂の男性によりますと、芸者さんはおられたそうです。しかし、遊廓のような色街は無かったとのこと、遊ぶためには前回レポした松戸の平潟遊廓までわざわざ通っていたそうです。これは松戸が栄えていた証拠といえるかもしれませんね。以上、終着駅がある町、流山の探索でした。

山梨県 上野原市201404

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インター脇の遊廓跡・フラードームの図書館・嘗ての町のランドマーク

ここまで草臥れ果てた国の登録文化財も珍しいのでは。


 県民の方々には申し訳ないのですが、自分の中で遊里不毛の地と勝手に呼んでいるのが山梨県。ちゃんとしたという表現は変かもしれませんが、甲府の穴切遊廓ぐらいしかそういったものが存在しなかったみたいですので。それ以外となると、間違いなく何かがあったと思われる大好きな町富士吉田、そして点在する温泉地に小さな色街があったとか無かったとか・・・こんな感じですからね。まあ、山ばかりという地理的不利な面もあるのかもしれませんが、嘗ては甲州街道が貫いていたという事実もあるわけでして、どうも釈然としないんだよなあ。

 そんな山梨県ですが、お馴染『全国遊廓案内』に甲府と共に記されているのが今回の上野原。県の東の端っこ、東京都と神奈川県に接している町ですが、嘗ては甲州街道の宿場として賑わった処でした。往時で本陣1、脇本陣2、旅籠20を数えたそうですから結構な規模だと思います。遊廓形成の由来がこの宿場なのかは不明ですが、おそらく各旅籠には飯盛女が控えていたのでしょう。そんな隆盛を誇った宿場でしたが、中央本線と中央自動車道の開通によって一気に寂れていくことになります。

 『上野原町遊廓 山梨県上野原町字関山に在つて、中央線上野原駅で下車する。上野原は高燥の地に在つて、空気が善い。夏でも比較的涼しいので避暑地には善い処だ。町並びに附近一帯が機業の盛んな処である。附近には東京電燈の発電所がある。貸座敷は目下三軒あつて、娼妓は二十人程居る。附近の女が多い・・・』

 この遊廓跡、結構珍しい場所にあるのです。戦後すぐ米軍が撮影した航空写真を見ますと、上野原駅のすぐ北側、一面の田畑がひろがる中に不自然な集落があるのが分かります。よく見ると特徴的な三軒の大きな屋根が・・・『全国遊廓案内』の記述と合致しているわけです。これが遊廓跡なのですが、航空写真を年代順に見ていくと面白いのです。昭和44年(1969)に中央自動車道の相模湖-河口湖間が開通し、遊廓跡のすぐ北側を車がビュンビュン走ることに。これで鉄道と高速に挟まれたことになりますね。これでも十分に面白いのですが、平成元年(1989)に今度は上野原ICが新設され、料金所からの取付道にグルリと囲まれてしまうのです。インター脇の遊廓跡、興味深いロケーションではないでしょうか。



河岸段丘の底にあるJR上野原駅。遊廓跡に行くためには急な坂道を登らねばなりません。途中にはどういう目的で建てられたのかは分かりませんが、旅館が数軒。全て廃屋と化しておりました。



振り返ると桂川、この急坂を造り出した張本人です。少し下流には相模湖があります。



高速への取付道を渡り、こんな切通しのダラダラ坂道をヒイヒイ言いながら登りきった先が遊廓跡の入口です。



此処が遊廓の入口だったと思われます。航空写真で確認しますと、左の建物辺りに貸座敷が一軒あったようです。



左に分岐する嘗てのメインストリートを行きますと旅館中屋さん。航空写真には此処にも一軒あったみたい。転業されたとみるのが正しいのかな?



メインストリートの突当りには大鷲神社。これで遊廓跡の探索はオシマイ・・・って、これではレポになりませんので、宿場跡も訪ねることに致しましょう。



宿場跡へは高速を橋で跨いで500mほど、単調な家並み続く通りをしばらく行きますと国道20号線にぶつかります。これが嘗ての甲州街道になります。



すぐに見つけたくすんだシルバートタン平葺きに包まれたお宅。奥に行きますと・・・



煙突がお辞儀してご挨拶・・・いかん、これでは不完全燃焼を起こしてしまうぞ。しかし、よく見ると底が抜けてた(笑)



旧街道沿いの光景・・・ポツリポツリと往時を物語る見世蔵などが見られますが、全体的にはいまひとつの風情。お隣の八百屋さんは良いんだけどネ。



八百屋さんの向かいには鳥居、奥にある牛倉神社のものです。



神社手前にある立派な破風を構えたお宅。かなり歴史があるのものだと思うのですが、正体不明です。



神社脇にある一見カフェー風に見えないこともない建物、地図には雀荘とあるのですが・・・。



このトンガリ具合が堪らんわけ。



その先には割烹。この一画、ちょっぴり艶っぽい雰囲気なのです。



旧街道に戻ると、今度はGSの廃墟。住まい部分?奥のお宅の造りが面白いですねえ。



上野原の名物が酒饅頭、旧街道沿いにも何軒か見られます。中でも人気なのがコチラの永井酒饅頭店さん。おかかに高菜なんて変わり物もありますが、ノーマルなつぶ餡を頂きました。一個80円、素朴な甘さだあ、美味しゅうございました。



少し行くと飲み屋さんが並ぶ長屋風の建物が見えてきます。それの脇を入っていきますと、古びた門が見えてくるはずです。



これが上野原宿本陣跡。門自体はしっかりしているようなのですが、なぜか両側の塀だけがボロボロ・・・。



内側には明治天皇が巡行の際宿泊した行在所が残っていたそうですが、昭和22年(1947)に焼失してしまいました。



再び旧街道に戻りました。三井屋さんは何を営んでいたのでしょう。



宿場跡の外れに残る赤い屋根の古い商家。ちなみに此処から三つ先の犬目宿、つげ義春著『貧困旅行記』の猫町紀行のモデルになった場所です。



どうやら赤い屋根の正体は薬局だったようです。此処で旧街道とはお別れ、右折して山側に入ります。



今回は珍しく時間に余裕があるため図書館で遊廓のことを調べようと思ったのですが、驚いたのが図書館の構造。コレ、フラードームではありませんか。フラードームとは、米国の建築家・思想家・詩人というマルチな顔を持つバックミンスター・フラー博士が発明した建物の構造形式になります。当時(1947)はごつい柱や梁を用いた構造がまだまだ主流でしたが、このフラードームは細い部材で二種類の三角形を作り、それを交互に繋ぎ合せることで大空間を作り出すという画期的なものでした。世界中で大流行しましたが、日本ではあまり流行りませんでしたね。これに代わるのがバブルの頃流行した東京ドームなどで見られる膜構造になりますか。



それにしてもこんな処でフラードームに出会うとは・・・ちょっと感動したのはいいのですが、遊廓関係の収穫は皆無・・・。図書館の前に建つ洋館風のお宅?車庫の上は物干し場です。



近くの市立上野原小学校の校庭に巨木がそびえています。上野原の大ケヤキ、推定樹齢800年以上だそうです。



小学校の向かいに月見が池というため池があります。ちょっと一休みのつもりで寄ったのですが、岸辺の石碑にこう刻まれていました。『ため池百選』・・・農水省で選定しているそうなのですが、こんな百選もあるんですねえ(笑)



帰りは旧街道と並行している裏道を・・・是非とも見ておきたい物件があるのです。露わになった小舞の先、くすんだ黄色の外壁がそれになります。



旧大正館・・・名前のとおり大正13年(1924)に建てられた映画館です。横に連続する窓と円柱がモダンですね。しかし側面は崩壊しているし、元は何色だったのか想像できないほどの凄まじい退色っぷり・・・こんな状態でも国の登録文化財なんですよね。



昭和63年(1988)まで現役だったそうです。現在は倉庫ということなのですが、こりゃ相当長いこと放置プレイされておりますぞ。



突き出したもぎりの窓口がお気に入りです。



外から直に映写室に入れるって珍しいのではないでしょうか。こんな惨状でも嘗ては町のランドマークだったのでしょうね。



駅に向かう途中、砂利敷きの脇道に古びた長屋?が並んでいるのに気付きました。



誰も住んでいないみたい・・・此処ではどんな暮らしがあったのでしょうね。

以上、遊廓跡や宿場跡探しのはずが、いつのまにかフラードームが全部持っていってしまった上野原の探索でした。次回は隣町、湖畔にあったという遊廓跡を探します。

神奈川県 相模原市緑区吉野201404

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拡幅されていた宿場跡・静かな湖畔の遊廓跡・中腹の巨大ラブレター

豪壮な五層楼の本陣、見たかったです。


 前回の上野原市と県境を挟んで隣り合っているのが相模原市。区政が布かれた自治体だというのを知らなかったというのはここだけの話、随分と大きな市なのですね。相模原市の西の外れにあるのが相模湖、前回ちょっと記した桂川(神奈川県側では相模川)を堰き止めて造った人造湖になります。その湖畔にあるのが吉野の集落、嘗ては甲州街道10番目の宿場でした。もちろん、江戸時代に相模湖は存在しておりませんので当時は河岸段丘の崖上にあったということになりますか。往時の規模は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒とのこと、小さな宿場だったようです。小規模だったとはいえ宿場に遊里有りです。以下は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。

 『吉野町吉野遊廓 神奈川県津久井郡吉野町字吉野に在つて、中央線与瀬駅で下車すれば西へ約一里の処に位して居る。乗合自動車の便があつて、大房商店前で下車すれば宜しい。賃五十銭。吉野は甲州街道の古い宿場で、安政四年時分には旅館兼遊女屋が十八軒もあつて、町も相当に繁華したものであるが、鉄道が開設され次いで明治三十六年には現在の個所に遊廓と成つて移転してからは急に淋れて、現在では貸座敷がたつた三軒に減少し、娼妓も十三人しか居なく成つた・・・娼妓は神奈川県東京府等の女が多い。妓楼は柴田楼、常盤楼、中山楼の三軒である』

 往時で旅籠3軒だったのに旅籠兼遊女屋が18軒・・・何だかつじつまが合わないんですけど。もうこれは宿場というより町全体が遊廓といった感じだったのではないのかと・・・もし貴方が旅人だったら素通りできますか?(笑)まあ、以上のちぐはぐな事柄は置いといて、以下は宿場跡の資料館の方に伺った話です。遊女屋は6軒あったそうです。しかし、明治29年(1896)に発生した大火で集落は壊滅。その後、遊廓は崖下の川岸に移転することになります。しかし、資料館の方もはっきりとした場所までは判らないとのこと。この遊廓、細々とですが売防法施行まで継続、その時点で3軒だったそうです。移転時期、その後の規模などは『全国遊廓案内』と合致していますね。この遊廓跡なのですが、移転当時は川岸だったのが戦後相模湖の完成によって湖畔になってしまうわけです。湖畔の遊廓ってかなり珍しいんじゃないでしょうか。



『全国遊廓案内』には与瀬駅とありますが、これは現在の相模湖駅のことになります。私は手前の藤野駅で下車、吉野は両駅の中間に位置しています。駅前の元旅館と思われるお宅、戸袋に鏝絵で屋号が描かれています。



コチラも駅前にあった古い商店を使った休憩所?こういうのちょっと苦手・・・。



相模湖に沿って走る国道20号線が嘗ての甲州街道なのですが、歩道が無いのにダンプやトラックがビュンビュン、かなり危険なので脇道を行くことにします。途中にある藤野中学校の校門ではこんな門番が挨拶してくれました。



頃合をみて旧街道に戻ります。相模湖の入り江を渡ると吉野宿跡の入口です。



入口に建つ庚申塚・・・気付いたのですが、どうやら通りが拡幅されたばかりのようです。この時点では湖畔に移転していたという事実を知りませんでしたので、こりゃ遺構の類は無理だなという諦めの境地でしたね。



家並みの中ほどにあるのが吉野宿ふじや。嘗ては旅籠だったそうですが、大火で焼けてしまいこの建物は明治30年(1897)以降に建て替えたものになります。現在は吉野宿の歴史を伝える資料館として余生を送っています。道路拡幅に伴い曳家で動かしたそうです。此処で前書きにあるお話を伺いました。



コレ、明治10年(1877)頃の宿場の様子を示したジオラマになります。クリックして頂くと遊女屋の位置が分かります。写ってはいませんが、手前にも紅葉楼というお店がありました。合わせて6軒ということになります。



在りし日の本陣、正しくは吉野十朗右衛門宅の姿、なんと木造5階建てですぞ。小さな宿場には勿体無いほどの逸品でございます。現在はというと・・・



袖蔵のみが残るだけ・・・。それでは遊廓跡を探すと致しましょう。



近くにある相模湖大橋、その袂から見下ろした光景。手前のシルバー屋根のお宅が気になりましたが、よく見ると昔からの農家といった感じの造り、これじゃないと思います。奥の変なのは釣り船屋さんです。



湖畔に降りて探してみるとこんな石垣を見つけたわけ。



僅かに入口の痕跡が残っているのお分かりになります???帰ってから航空写真を見てみますと、60年代まで特徴的な大きな屋根が手前に1軒、奥に2軒並んでいるのを確認致しました。おそらく此処で間違いないと思います。



振り返ってみるとこんな感じ。どんな建物だったのかは皆目検討がつきませんが、二階の手摺に物憂げに寄りかかった娼妓も同じ光景を見ていたと考えると感慨深いものがありますな。当時との違いは行き来するバス釣りのボートだけ・・・。



相模湖大橋からの眺め・・・画面中央にコンクリートの基礎みたいなものがありますね。嘗てあそこには勝瀬橋という吊橋が架かっておりました。老朽化で架け替えとなったのが現在の相模湖大橋というわけです。面白いのは勝瀬橋を渡った先、派手な看板で判ると思いますがラブホがあるのです。それも3軒・・・これは何かの偶然でしょうか。画像の左隅、対岸に見えるこれまた派手な建物です。実はこれまたラブホ、しかも廃墟なのです。業界でも結構有名な物件だったりするわけ。



藤野駅に戻って参りました。駅前から南の方角を見ると、山の中腹に巨大なラブレターがあるのです。中央高速や列車の車窓からも見えますのでお気付きの方も多いと思います。



通称緑のラブレター・・・横26m、縦16mあるそうです。緑に侵食されているように見えますが、あれは手の形です。造形作家高橋政行氏の作品、昭和60年(1985)、相模原市と合併する前の藤野町の依頼で造ったものになります。それから約30年、近くで見るとボロボロなんだとか。こういうのは遠くから眺めるにかぎりますな。

以上、湖畔にあった小さな遊里跡でした。遊廓にラブホに有名廃墟・・・お手軽な観光地というイメージの相模湖にも様々な暗部があるわけです。

新潟県 胎内市中条201410

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驟雨に濡れる遊廓跡・謎の料亭割烹街の正体は・水路から路地へ路地から水路へ

市の花を模した街灯、気に入っちゃいました。


 今回からは越後新潟シリーズ、2年半ぶりになりますか。ちょっと前のレポの中で今後超絶多忙ための更新が滞ると記しました。実はこの状態は5月から延々と続いているわけです。何となく先が見えてきたのが9月になってから、それまでの4ヶ月間は探索にも行けないという惨状ですから、そりゃあもう酷いものです。一応ブログの更新は継続していましたが、あれは書き溜めていた在庫があったから、今やスッカラカンですから。合間をみて出掛けられるようにはなりましたが、そんな状態でフラフラしてもいまひとつ楽しめないわけ。かといってストレスは溜まるばかり・・・そして遂には爆発・・・あ、爆発といっても自爆だから被害者は私だけですので(笑)もうあかん!!何処か行く!!超特急で計画を策定、始発の超特急に飛び乗ったのでした。

 初っ端は新潟県北部に位置する胎内市中条です。元々は中条町でしたが、平成17年(2005)に黒川村との合併で誕生したのが胎内市になります。胎内って珍しい響きですよね。これは市内を流れる胎内川が由来となっているのですが、その語源はアイヌ語の清い川『テイ・ナイ』或いは泥の川『トイ・ナイ』からきているそうです。新潟市沼垂(ぬったり)もそうでしたが、越後は蝦夷といろいろと繋がりの深い地ですよね。さて、この中条ですが、江戸の頃は南の新発田、北の村上という城下町の中間に位置する宿場町だったようです。3と8がつく日には市も立っていたそうですので、物資の集積地でもあったわけです。

 『中條町遊廓 新潟県北蒲原郡中條町に在つて、羽越線中條駅で下車すれば約二丁も無い処であるから、何も乗物に乗る必要は無い。此の町は別に取り立てて云ふ程の事は無いが、米、麦、梨等の農産物が相当に出るので、此の地方の町としては相当の重きをなして居る。尚此の町をして有名たらしめたものは、中條町遊廓の遊興費の低廉な事を興つて力あるとさへ人々は噂さして居る。現在此の遊廓に貸座敷が十二軒あつて、娼妓が全部で五十一人居る・・・』

 以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。こう言っては何なのですが、特徴の乏しい町に結構な規模の遊廓が存在していたというのがちょっと意外でした。肝心の場所ですが、地図を見ますと西栄町にどういうわけか料亭や割烹が集まっているのです。当初はこの辺りなのかなと当たりをつけていたのですが、ネットの情報によりますと逆側の新栄町にあったと知るに至りました。戦後すぐに撮影された航空写真で確認しますと、確かに町の区割から不自然に飛び出した通りに沿って家並みが続いているのが判ります。とはいえ、上から見た感じではありがちな造りみたいなものは見当たらないような・・・。まあ、とりあえず此処を訪ねてみましょうか。



中条駅に着いた途端、物凄い豪雨。雨雲レーダーを見ると中条上空にだけ雨雲があるんですけど・・・これは不吉だ。暫しの雨宿りの後歩き出しました。駅前通りを真っ直ぐ、本町の交差点を右折すると遊廓の入口です。ブライダル会館ぬのかわさんの看板がステキ。



残念ながら名残みたいなものは残っておりません。しいて言えばこんな飲み屋さんになるのでしょうか。この遊廓、戦前で無くなっていたのかもしれませんね。



コチラも名残と言えるのかもしれません。現役という感じではありませんでしたが・・・。この先でメインストリートは真新しい通りにぶつかって終わっておりました。



メインストリートに並行している裏通りも探ってみましたが収穫は皆無。



名無しの小さな神様もありましたがこれまた収穫無し。中条の飛び出し坊やは女の子です。



反対側の裏通りにあった飲み屋さん、明らかに新しい建物ですな。遊廓跡を諦めまして本町の交差点に戻り今度は左折、料亭や割烹がある西栄町を目指します。



途中の路地裏にも割烹がありました。三嶋屋さんです。



旧道と思われる通りを行きますと道幅が急激に広がっているわけ。一目で最近になって拡幅されたものと判るのですが、初めて地図を見たときは此処が遊廓跡に間違いないと思い込んでしまったというのはここだけの話(笑)左は神田醸造所さん、醤油の蔵元です。



右の通りに入ると見事な土蔵が残っています。文政7年(1824)創業の荒惣さん。現在は文具店ですが、創業当時は両替商兼質屋だったそうです。



その先に重厚な入母屋造りが見えてきます。料亭南都屋さん、かなりの大店ですな。



コチラも創業は江戸末期、その頃は魚屋だったそうですが、明治になって料理屋に転業されたそうです。現在の建物は昭和8年(1933)頃に建て替えたものになります。ここにきて再び雨が激しくなってきた・・・。



近くのガレージをお借りしてまた雨宿り、スケジュールが詰まっております。これ以上は勘弁して・・・。



近くにあるのが明治3年(1870)創業の割烹丸市さん。これまた見事な造りだ。



創業当時からの建物かは判りませんが、玄関部分が立派すぎて後ろの母屋が見えません。この辺りコチラ以外にも数軒の割烹があるわけ、謎の一画なのです。



中条で気に入ったのがこの街灯。市の花がチューリップとことですので、それをモチーフにしているのだと思います。まあ、チューリップは下向いて咲かないだろとは思いますが(笑)草臥れた黒のトタンとの組み合わせが絶妙。



熊野若宮神社の脇を水路が流れています。水路沿いに建つお宅がとてもいい感じなのです。



雨のせいで水が濁っているのはご愛嬌。やっぱり川っぺりっていいですなあ。



そのまま水路を辿っていきますと、一軒の飲み屋さんを見つけました。お店の脇に回り込んでみますと・・・



こんなリブ壁の連続が現れます。こういった建物に付き物の色褪せたピンクが堪りません。



適当に裏路地をクネクネ、ちょっと広い通りに出ました。下見板張りの先の鳥居は伏見稲荷社天満宮です。



旧道に戻りました。この町、私好みの近代建築などが一切無いのです。それなりに歴史もあるはずなのに、不思議といえば不思議。まあ、とりあえず時間の許す限り行けるところまで行ってみましょう。



旧道が直角に曲がる突当りある大輪寺さん。山門の先、参道の途中に鐘楼門があるのです。珍しい伽藍ですよね。此処で時間切れ、再び路地を通って駅に戻ります。



路地に入るとすぐに水路に出会いました。洗い場の跡みたいなものも確認できますね。かなり歴史あるものかもしれません。



この路地を選んで大正解!!



一度別れたはずの水路に再び合流、この裏路地巡り結構楽しめました。



行きのときは気付かなかったこんなお店が駅前にありました。



全てが昭和で止まっているようです。町も含めて・・・。

以上で驟雨に邪魔された中条の探索はオシマイ。遊廓跡よりも気になったのが謎の料亭割烹街、調べてみましたらこんな動画を見つけました。舞っているのは新潟市古町の芸妓衆ですが、やっぱり嘗ては花柳界が存在していたのです。今回の旅、こんな知られざる遊里的なケースが結構出てきます。期待して貰って宜しいかと。次回は鮭の町、村上です。

新潟県 村上市201410その1

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兎にも角にも鮭の町・寺町なのに花街?・茶畑脇の廃れ飲み屋

逆光に光る押縁下見板と出格子、綺麗ですね。


 中条から羽越本線で30分ほど、村上に到着です。新潟県の最北端、山形県と接しているのが村上市です。江戸の頃は代々内藤家が治めた村上藩五万石の城下町、町の東方に位置する臥牛山に居城である村上城がそびえていました。お城の麓にひろがる武家屋敷や町人町を南北に貫いていたのが出羽街道・・・とのことなのですが、この街道、米沢街道とか羽越街道とも呼ばれているようでして、どれが正しい名称なのかよく判らないんだよなあ。まあ、宿場町という一面もあったと言いたかっただけです。往時はお城の石垣や土塁が町を包み込むように延びており、まるで町全体が城郭的な様相だったとか。

 ご存知の方も多いかと思いますが、村上とくれば鮭の町ですよね。町の北を流れる三面川を遡上する鮭は村上藩時代の頃から町の貴重な財源でした。明治11年(1878)には日本初の人工孵化場が置かれたそうで、独自の食文化が連綿と受け継がれている町であります。鮭、好きなんですよね~。あくまでもサーモンではなくて鮭、それも強烈にしょっぱいの、一切れでご飯三杯いけちゃうみたいな奴(笑)昔はそういったのが多かったですよね。でも昨今は食習慣の変化や健康嗜好のためかあまり見かけなくなったような気がするのです。まあ、あれは新巻鮭の塩辛い奴だと思いますが、村上ではそれとは全く違う製法で近いものが頂けると聞いてノコノコやって来たというわけです。


 肝心の遊里関係の情報ですが、杜撰な下調べ段階ではこれといったものは見つけられませんでした。中心街の西、日本海に面した瀬波温泉には芸妓置屋があるようなのですが、どうやらこれはコンパニオン専門みたい。唯一の情報は嘗て寺町は花街だったらしいということだけ。地図を見ますと確かに数軒の割烹があるようです。とりあえず此処を訪ねてみようかと歩き出したのですが、遊里ウンヌンより鮭の誘惑に負けてしまうのでした。



村上駅舎の謎のレトロ装飾、最近になって改修したみたいですが・・・。



村上の旧市街は駅から少し離れています。駅前通りをすぐ左折、しばらく行きますと肴町上交差点に出ます。交差している通りが旧出羽街道浜通り、たぶん出羽街道の脇往還みたいなものだと思います。此処を右折(県道230号線)、中条での悪天候が嘘みたいな青空・・・あれはいったい何だったんだ・・・。



村上の町並みの特徴として挙げられるのが、押縁下見板張りの外壁に平入りの町屋になるでしょうか。コチラは綺麗に直されていますが、こういった感じのはあまり見られませんでした。おそらく厳しい気候が関係しているのだと思います。



山上染物店さんは創業360年を誇る老舗です。時間の関係で寄れませんでしたが、内部の見学もできるみたいです。現在のお店は明治初期に建てられたそうで、国の登録文化財です。



酒屋さんの倉庫を覗くとこんなものが、山車の車輪でしょうか。毎年7月に開催される村上大祭では豪壮な山車が練り回るそうです。



その先、大町の交差点を左折すると嘗ての目抜き通りと思われる大町通りです。嘗ての出羽街道になります。



大町通りに面した大町文庫の中にある海鮮一鰭さんで燃料補給。なんとこれで2,000円ポッキリ!?このお店、隣にある越後村上うおやさんという創業200年の魚屋の直営、だからこのお値段で提供できるそうです。奥に見えるのが村上名物の塩引き鮭、その独特な製法ゆえの凝縮された滋味とでも申しましょうか。これは旨い、そしてしっかりしょっぱいぞ(笑)もちろんご飯おかわりしたのはいいのですが、此処でノンビリしすぎたのが後々響くことに・・・。



近くにあるのが味匠喜っ川さん、寛永3年(1626)創業というとんでもない老舗の鮭専門の加工販売店です。お店は明治期に建てられたものだそうで国の登録文化財です。鮭と染め抜かれた暖簾、何処かで見た記憶ございませんか?隣で吉永小百合が微笑んでいましたね。そう、JR東日本のポスターです。



店内の奥が加工場になっていて見学できます。そこに吊るされているのがさきほど頂いた塩引き鮭の正体、これは壮観ですぞ。



内臓と鰓を取り除いた鮭に塩を満遍なく擦り込みます。これが塩引きの名の由来みたい。一週間ほど漬け込んだら塩を洗い流し、腹をひろげた状態で寒風に晒すこと一週間から二週間。その後、室内で逆さ吊りにして乾燥させて完成です。頭を下にするのは余計な脂を落とし旨味だけを凝縮させるという理由から。旨いものには手間が掛かるということですな。それにしても鼻曲がりの凄い形相、おまけに匂いも結構凄いぞ(笑)



近くの路地裏にも吊るされておりました。



大町文庫の脇を入ると花街だったという寺町、名前のとおりお寺が並んでいます。面白いのは通りの片側にはお寺がズラリ、そしてもう一方にはこういったお店ばかり。



割烹松浦家さんは創業150年、時間があればコチラで鮭尽くし頂きたかった。



その先のお宅の塀に施されていた銅板による板金細工。鮭の町なんだなあ。



今度は割烹吉源さん、コチラは創業180年なんだとか。昭和3年(1928)に建てられた主屋と土蔵が国の登録文化財に指定されています。コチラでの昼食も検討したのですが、6,000円からとかであえなく撤退ですわ・・・。



袖壁に穿たれていたワラビ?それともゼンマイ?いいね、コレ。



枯れた風情の下地窓の下には石を模したと思われる左官仕上、人研ぎの一種だと思います。



杉玉に石灯籠、ちょっと苔生したごろた石の敷石、こういうのを見ると間違いなく花柳界が存在していたと考えるのは早計でしょうか。積雪対策と思われるキャノピーは後から造られたものですね。



入口には風俗営業の鑑札、この旅でも何度かお目にかかることになります。



通りに戻ると、側溝のグレーチングにもヤマメかイワナっぽい鮭(笑)



一本入った路地に面した安善寺さんの楼門が見事な造り。建立は正徳2年(1712)とされています。この路地、地元では安善小路と呼ばれておりまして、観光スポットにするため『黒塀プロジェクト』なる募金を募って黒板塀化を進めています。その黒板塀を曲がりますと・・・



・・・冒頭画像の場所が見えてきます。こう見ると縦長のプロポーションにちょっと違和感を覚えますが、とても美しい建物です。見事な鬼瓦が載っていますよ。何故か浪漫亭と呼ばれています。



この雰囲気からして存在したらしい花街と何か関係があったものではないかと思ったのですが、昭和11年(1936)に建てられた資産家のお宅だったそうです。その後、第四銀行村上支店長宅として長らく使われ、現在は個人のお宅になっています。町の催しの際は和洋折衷の意匠でまとめられた一階部分を公開しているそうです。コチラも国の登録文化財です。



出格子の向こうに円形の造作がありますね。

前半は此処までとさせていただきます。このレポ、チビチビやりながらUPしているのですが、あては喜っ川さんの鮭の酒びたし、コレ最高なんですけど(笑)通販での再購入決定ですわ。

新潟県 村上市201410その2

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入隅に風俗営業の鑑札があるの、お判りになるでしょうか。


 村上は鮭の町であるともに酒の町でもあると市の観光サイトに書かれておりました。有名処では〆張鶴の宮尾酒造さんあたりになるでしょうか。でも、新潟県全体が酒の町というのが私のイメージ・・・正確には呑ん兵衛の町と言ったほうが正しいかもしれませんけど(笑)飲料繋がりみたいになりますが、村上の名産の一つとして挙げられるのが村上茶になります。この村上茶、商業的に販売されるものとしては日本の北限に位置するお茶なんだそうです。村上藩時代から栽培されていたそうですが、山沿いでは2m近い積雪がある場所です。よくまあそんな処でお茶を育てようと思ったものです。そんな感じで文字数が埋まりましたので早々に始めさせていただきます。



安善小路を抜けると再び大町通り。界隈でも珍しい看板建築は開運堂ベーカリーさん、ご覧のとおり既に退役済みと思われます。



電菓ってなんぞ???電気窯で焼きたてを提供しておりますというアピールでしょうか。当時は珍しかったのかもしれませんね。



一軒おいた先にあるのが井筒屋旅館さん。現在の主屋は明治末期に建てられたものだそうですが、嘗て此処に二泊したのがかの松尾芭蕉。芭蕉が泊まった宿として今も現役、でも宿泊できるのは一日一組だけなんだとか。国の登録文化財です。



その先で大町通りは鉤形に曲がっています。その曲がり角に建つの昭和元年(1926)に建てられた旧新潟貯蓄銀行村上支店。アーチ窓のほとんどが塞がれており、タイル剥落の危険があるためか全体がネットに覆われています。



現在は第四銀行の車庫として余生を送っています。しっかりと往時の面影が感じられますね。でも、なんだか勿体無い使い方だなあ・・・。



片隅には金庫も残っていましたよ。



近くの直されたばかりと思われる町屋、袖壁に粋な造作が施されておりました。



そのまま通りを辿りますと庄内町に入ります。そこで見つけた水路を跨ぐ渡り廊下でしょうか。漆喰塗りたてみたいな真っ白な土蔵と一緒に。



まいづる公園に村上藩時代の武家屋敷が移築復元されています。まずは旧岩間家住宅、元々は長屋形式だったそうですが、安政5年(1858)に一戸建てに大改造したそうです。



お次は旧嵩岡家住宅、上屋の梁間が二間半ということで岩間家より大きな茅葺屋根なのですが、あまり違いは感じられません・・・というか、時間の関係でジックリ見学できませんでした。内部も見られますよ。



そろそろ葺き替え時期かな、苔の緑が鮮やかです。



再び庄内町を通って次の場所に向かいます。



三之町にやって参りました。村上歴史文化館の前身は明治40年(1907)に建てられた旧村上銀行本店になります。近くには郷土資料館もあり、当初の予定では此処で遊里関係の情報を仕入れよう思ったのですが、そんな余裕は全くありません。それもこれも昼食でノンビリしすぎたせい、おかわりなんかするんじゃなかった・・・。



隣には旧若林家住宅があります。若林氏は村上藩の中級武士、150石を抱える物頭だったそうです。築二百数十年、東日本では珍しい中級武士の住宅ということで国の重文に指定されています。此処も外観だけかよ・・・。



門も茅葺きですぞ。コチラは単なる復元かな?部材が新しいような気がします。



市役所裏の駐車場入口にこんな小屋と門柱が残されていました。これは旧制新発田中学校村上分校の校門と守衛舎、明治33年(1900)に建てられたとされています。分校はその後村上高校になりますが、高校移転後の跡地に現在の市役所が建てられたそうです。



駅へと戻る途中、もっとこう艶っぽい一画みたいな場所がないものかとキョロキョロ。見つけたのがこの路地、数軒の飲み屋さんが軒を連ねていましたが、自分的にはちょっと物足らない(笑)



昔の町屋を無理矢理洋風に直したようなこのお店は面白かったですが・・・。



その先に大店が現れます。創業270年を誇る老舗料亭能登新さんです。大正時代に現在地に移転したそうですが、建物は新しいものでした。



能登新さんがある通りを抜けると茶畑が現れます。そう、これが村上茶。この茶畑、奥に見える九重園茶舗さんのものみたいです。もちろん此処だけでなく郊外にもっと大きなの所有しているはずだよね。



茶畑の脇が冒頭画像の場所、こんな廃れた飲み屋さんが残っていました。外壁の下見板が痩せ細ってペラペラです。



『きらく』さんで間違いないかと思われます。風俗営業の鑑札以外にも18歳未満ウンヌンの表示、コレもこの先何度か目にすることになります。



回り込むとこんな窓・・・面白いのが窓上の傷?旗本退屈男か(笑)



隣というか、この二軒くっ付いています、むらさきさん・・・コチラにも鑑札がありますよ。暖簾が見えますね、もしかすると・・・。



向かいにはこんな標語、鮭にも少子化問題ってあるのかしら・・・。

以上、鮭の町村上でした。ペース配分を間違えて慌しい探索になってしまいましたが、ゆっくり巡れば楽しめる町だと思います。内部を見学できる町屋も結構あるみたいですよ。実はその1で出できた食事をした大町文庫、よくよく考えてみましたらあそこって私設図書館なのです。もしかすると遊里関係の資料もあったかもしれないのに、頭の中は『鮭・・・鮭・・・鮭・・・』やられましたわ。次回はちょっと戻って新発田を再訪致します。最近よくレポしている『実は間違っておりました』シリーズ、正しい遊廓跡を太陽と競争しながら訪ねます。

新潟県 新発田市201410(再訪編)

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擬木フレームの飲み屋・水草揺れる水路と謎の公設市場・遺構も今やゴミ集積所

サビサビトタン屋根の船着き場跡?、ユラユラ漂う水草とのコントラストが強烈。


 今回の旅で是非とも再訪したいと思っていたのが新発田市です。ずーっと心の片隅に引っかかっていたのです、本当にあそこが遊廓跡なのかということが・・・。詳しくは前回のレポを参照していただきたいのですが、私が遊廓跡ではないかとしているのは御幸町一丁目。当時のことはよく覚えていないのですが、一軒の割烹の存在と通りの形状によってそう思い込んでしまったみたい。しかし、通り沿いで見つけた明治天皇行在所址の石碑でその考えがアレレ???陛下が遊廓のそばに立寄るわけないよなあ。いくら庶民の生活を知りたいと仰っても、これはどう考えても有り得ない状況なわけ。5年前はこんな感じでモヤモヤしたまま終わってしまったのです。

 で今回、戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を眺めていますと、御幸町一丁目の西隣、現在の御幸町二丁目になりますね。そこに町の区割りから不自然に突き出した一画があることに気付きました。解像度の悪い画像に目を凝らしてみますと、通りに沿って大きめの屋根が並んでいるように見えないこともない。その後行き着いたのがこちらのブログ、やっぱり此処が遊廓だったと知り愕然。地元の方が仰っているのですからこれはもう間違いない。というわけでこの場を借りて訂正させていただきます。前回のレポは間違っておりました、ご免なさい。最近こういうのばっかり(笑)

 どうやら60年代初めまでは何かしら遺構が残っていたようです。その頃の航空写真には中央に植栽帯がある特徴的なメインストリートの様子がはっきりと写っております。その後区画整理が行なわれたのか、メインストリートの形状が変わってしまったようなのが気になるところ、前出のブログでも建物的な遺構の紹介はありませんでしたし。まあ、とりあえず行くだけ行ってみましょうか。最後に前回は載せられなかった『全国遊廓案内』の文章を記しておきます。

 『新発田遊廓 新潟県北蒲原郡新発田町字三宣町に在つて、羽越線新発田駅で下車すれば西へ約十三丁、乗合自動車を利用すれば「神明社前」で下車する。新発田は溝口氏の旧城下で、大地主の多い処だけに小作争議も多い地方である。新発田城址は今兵営に成つて居るが、濠と城垣のみは依然として昔の儘の懐かしい姿を残して居て、今は濠一面に蓮が繁殖して、夏の開花時節に成ると、花の開く音を聞く為めに、暁の暗い内から人が出盛ると云ふ話である。明治初年には旧藩主の許可を得て、旭町で貸座敷を営業して居たのであつたが、明治三十七年に全焼したので、間も無く本廓へ移転したものである。目下貸座敷が十九軒あつて、娼妓は百十八人居るが県下の女が多い・・・』

註)前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



前回は国指定名勝の清水園でノンビリしすぎたでせいで慌しい探索になってしまったのですが、今回は違う意味で時間ありません。今回はつるべ落としの太陽と競争、急ぎましょう。



急ぎましょうと言いながら寄り道してしまう私。中央町は町いちばんの歓楽街、地元では新道(しんみち)と呼ばれ嘗ては赤線だったという噂がある処。そこで見つけた破風が美しい旅館北幸さん。



回り込んでみるとかなりの大店であることが判ります。一応ネットでもヒットしますが、雰囲気からしてたぶん退役済みかと・・・。



トタン張りの岩渕畳店さんはちょっと面白い造り。



横から見るとよく判りますね。



歓楽街の真ん中、ちょっとした広場でこの子が延々と・・・。でもこの池の造り、ちょっと間違っていません???飛距離が計算外だったか(笑)



近くに前回も訪れた妖しい造りの飲み屋さんが・・・まだ残っていた。何も変わっておりません。



地図にも載っていない路地にお母さんが入っていくのを見て後に続いていくと、仕舞いには砂利道になっちゃった。そんな処にも飲み屋さんがあるわけ。この路地抜けるとさきほどの岩渕畳店さんの脇に出ます。



歴史ある建物があまり残っていない界隈で一際目立つのがすき焼きの八木さん。此処で話好きで気さくな女将さんに捉まってしまったわけ。



元々は明治初期創業の精肉店だったそうですが、昭和10年(1935)に発生した大火で店は全焼、現在のお店はその後に建てられたものになります。それを期にすき焼き店に転業されたそうです。お店の左半分は亡くなったご主人が営んでいた写真店だったとか、往時の新道は芸者さんが50人ほど活躍されていたとか、興味深いお話を伺うことができました。まだまだ女将さんは話したがっておりましたが(笑)、先を急ぎますのでここいらで・・・。それにしても玄関廻りの造りがいいね。



ちょっと行った処で見つけた瓢亭さんがこれまたいい造り。赤紫のフレームありますでしょ?コレ、大好物の擬木なのです。



ショーケースのイラストがカワイイ。どうやら手前は食堂、奥が飲み屋になっているみたい。画像を確認しましたら奥の入口上に風俗営業の鑑札がありました。



新道を後にして駅前から続く県道32号線を渡りますと、前方に煙突が見えてきます。まずい、本当に日が暮れそう・・・。



煙突の正体は前回も訪れたいいでの湯さん。あ、なんか綺麗になっているんですけど、直されたみたい。此処で出会ったうちの近所に住んでいたというお婆ちゃん、元気かなあ・・・。



道を挟んだ小屋には燃料の薪が満載。脇を流れる水路は新発田川、上流に辿っていくと清水園があります。



私は下流へ・・・それにしても水草が綺麗。前方に見えるのが冒頭画像の船着き場跡?さらにその先、水路に跨っているのが・・・



・・・謎の公設鮮魚市場。この時間ですので既に店仕舞いしておりましたが、ストリートビューには店番をするお母さんがしっかり写っております。こんなにトリッキーな建物なのに、その成り立ちなどの情報がほとんど見つからないのが不思議。公設とありますが役所とは関係が無さそうだし・・・。



建物が乗っている梁は木製電柱なんだとか!?判ったのはそれくらい。見事なくらいシックリ納まっておりますなあ。



その先が御幸町一丁目の入口、改めて申しますが此処は遊廓跡ではありません。



前回もしやと思った独特な出窓があるコチラ、間違いなく元理容室!!と今回は断言しちゃいます。



とんでもなく長~い長屋も健在。まあ、長いから長屋なんでしょうけど、これだけのものってなかなか無いと思います。地元では白勢長屋と呼ばれており、明治10年(1877)に建てられたものだそうです。



この白勢長屋、実は一部が『ぬけられます』状態なのですよ。奥が気になるなあ。



通りからちょっと逸れると新発田川に再会。



近くにあるのが前回も紹介した謎の巨大キノコ。コメント頂いた方の情報で元GSの屋根だったと知り納得。



再び通りに戻ったところで出会った白ニャンコ。こんな酷い形相ですが(笑)とても大人しくて遊んでくれそうな雰囲気だったのですが・・・すまぬ、先を急ぐ身なのだ。



クネクネ路地を抜けると広い通りに出ます。此処が御幸町二丁目、二丁目公会堂脇に小さな名無しの神様。これが『全国遊廓案内』に出てくる神明社なのでしょうか。しかし、見回した限り遺構らしきものは皆無・・・



・・・と思った次の瞬間です。通り脇の空き地、それを仕切る塀が妙なシルエットを描いていることに気付きました。



こうしてみると判るでしょうか。門柱に表札の痕跡?○○楼などと書かれていたのではないかと。状態から判断しても遺構としても全く問題ないと思われます。良かった・・・再訪した甲斐がありました。



しかし、現状はというと黄色いネットから判りますが、ゴミ集積所・・・。新ちゃんって誰やねん・・・。



裏通りも探ってみましたが、見つかったのはこんな真っ黒な小屋だけ。中身は空っぽでした。



セイタカアワダチソウが我が物顔で生い茂る空き地にも何かがあったのかもしれませんね。



茜雲の下を駅へと向かいます。実のことを言うともうヘロヘロ・・・昨晩は下調べなどでほとんど寝ておりません。早くベッドに潜り込みたい・・・。

とりあえず遊廓跡だけでも確認できればいいやという感じだったのですが、想定外のオマケまで付いてきちゃった新発田の再訪編でした。今日は新津に一泊、明日は磐越西線沿いの町を相も変わらずフラフラ彷徨います。

新潟県 五泉市村松201410

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これも一種の終着駅への旅・新潟県最後の私鉄が走った町・有数な軍都の遊里跡

モハの意味、お判りになります???私は最近になって理解致しました。


 嗚呼、よく眠れた・・・おはようございます。今日は磐越西線沿いの町を巡りますよ。初っ端は以前訪ねたことのある五泉市の南に位置する村松です。元々は村松町でしたが、平成18年(2006)の合併で現在は五泉市の一部になっています。江戸の頃は掘氏が治めた村松藩三万石の城下町でした。近代になると武士に変わって軍隊がやって来ます。明治30年(1897)に大日本帝国陸軍歩兵第三十連隊の兵営が置かれることになります。現在の石曾根辺りが練兵場や射撃場だったそうで、かなりの広範囲が軍の施設だったそうです。最盛期には2,000名もの兵隊さんが駐屯していたそうですから、村松は有数の軍都だったということになりますな。軍都に遊里有りの法則で、この町にもそういったものがあったそうなのですが、どうもはっきりしないわけ・・・。まあ、小さな町だから何か見つかるだろうと見切り発車したのですが・・・結果から先に言ってしまうと、遊廓跡一歩手前で引き返してしまったという大ポカ・・・。下調べの時間が充分に取れなかったというのが理由なのですが、今更そんなこと言っても言い訳にしかなりませんので、希有な(実はよくある(爆))失敗探索の例としてそのまんまお伝え致しますぞ。

 遊里以外にもこの町を訪れた理由があります。それは嘗て五泉と村松を結んでいた超絶ローカル鉄道の存在、その名を蒲原鉄道といいます。蒲原鉄道が開業したのは大正12年(1923)、言うまでもありませんが鉄道敷設の理由として軍事物資輸送という役目があったはずです。当初は五泉-村松間という盲腸線状態でしたが、昭和5年(1930)に村松-加茂間が繋がってめでたく全線開通、国鉄との接続線という役目も担うことになります。戦後になり軍用線の必要も無くなり、さらにモータリゼーションの変化が追い討ちをかけます。元々沿線住民が少なかった村松-加茂間が昭和60年(1985)に廃止、これで元の盲腸線になってしまうわけ。五泉-村松間はたった4.2キロ、間には今泉という無人駅があるだけ・・・こんな状態が長続きするはずもなく、遂には全線廃止に至ってしまいます。平成11年(1999)のことでした。末期の乗客数は900人/日程度だったそうです。蒲原鉄道が新潟県内を走った最後の私鉄だったと知ったのは最近のこと、しかも大好物の盲腸線ですし、これは一種の終着駅への旅でもあるわけです。



現在は路線バスが唯一の足、五泉駅から南へ真っ直ぐ延びる県道7号線を行きます。道の左側、寄り添うようにして一定幅の草むらが続いています。実はこれが蒲原鉄道の線路敷きの跡になります。ほどなく村松の中心街に入り、下町の交差点で下車しました。



早朝の村松、人影は皆無。町の目抜き通りである国道290号線、途中で鉤形に曲がっています。城下町の面影だと思われます。



振り向くとこんな看板。



割烹木むらさん、一応ネットではヒットしますが詳細は不明。



目抜き通りの西側を並行している通りにも数軒の割烹が集まっています。最初地図を見たとき気になった場所になります。



こんな妙な造りのお宅もありますし。



看板はありませんでしたが、コチラは割烹松木屋さん。入口上に、この旅お馴染になった風俗営業の鑑札を発見です。発見はいいのですが、どうも探している場所とは違うような気がするのです。



その先の高い煙突は金鵄盃酒造さんのもの、明治40年(1907)創業の酒蔵です。



近くにあった小さな洋館、竹のバリケードで判りますが誰も住んでいないみたい。



何処にあったんだろう・・・ちょっと焦り始めております。



目抜き通りを戻るとまた割烹、手前の○月さん(読めない)は退役済みみたい、向こう側に現役と思われ新瀧さんがあります。これだけ割烹があるのも軍都の面影なのかもしれませんね。



○月さんの敷地内に残っていました。こちらが本館だったのかも。でも、此処も違うと思う・・・。



町中には無かったのではないかということで、南の外れのお寺が並んでいる一画を探ってみます。



脇道にあった骨組みだけのお宅、長らく放置されている様子・・・ちょっとした狂気を感じたのですが・・・。



大同元年(806)に創建され、寛文4年(1664)に村松藩主掘直吉によって現在地に移転された住吉神社。判りにくいと思いますが、境内が広大な池に囲まれております。それはいいのですが、やっぱり此処も違ったみたい。



今度は西に見える本堂山という小高い丘辺りを・・・途中にあったガレージ上の茅葺屋根、どうやら造園屋さんのものみたい。



その先の小さな集落で出会った塀。一瞬オオッとなりましたが、地図をよく見てみると、コチラは左官屋さんでした。物凄く紛らわしいぞ。



隣には小さな神様と欄間のみが放置プレイ、謎のシンメトリー・・・(笑)



町の西を流れる滝谷川を渡って本堂山へ・・・中腹に鳥居が見えてきます。



弘仁5年(814)の創建とされる春日神社。木々囲まれた静かな社です。時間の関係もありまして此処で引き返したのですが、実は此処の向こう側、本堂山を越えた先の曙町辺りに遊廓があったとは・・・。



重大な事実を知らぬまま、最後に訪れたのは村松城址、城自体は戊辰戦争で焼けてしまったそうです。現在は公園に整備されており郷土資料館があるのですが・・・って、早朝とあってまだ開館してないんでやんの。もうあかん、帰る!!と思いながらふと横を見るとコレが・・・。



蒲原鉄道モハ11保存車・・・村松-加茂間が廃止になった際に廃車されたものだそうです。雨露を凌ぐ上屋がありますが、塗装は廃車当時のままみたい。こんなのがガタゴト走っていたんだ・・・乗ってみたかった。



帰りは町の北の外れにある旧村松駅から・・・現在は路線バスの発着所ですが、当時の駅舎がそのまま使われています。停留所名も村松駅のままです。



停留所の裏手にひろがる嘗てのホーム跡、遺構らしいものは何も残っておらず砂利敷きの広場だけが秋の陽射しを浴びておりました。

肝心の遊廓についてですが、地元の不動産屋さんのHPで見つけました。写真の列の上から12番目、左から2番目に遊廓の位置を示した地図があるはずです。私は上の本堂山まで辿り着いていたわけ、見事に一歩手前で引き返していたことになります。数えてみるとお店が20軒ほどあったようです。町の規模からするとかなりのものだと思うのですが、兵隊さんが2,000名もいたとなるとこれぐらいないと捌ききれなかったのかも・・・。



その後の様子ですが、上の航空写真をクリックして下さいね。コレ、国土地理院の「国土変遷 地図・航空写真閲覧サービス」からの出典(整理番号:USA コース番号:R465-No2 写真番号:19 撮影年月日:1948/11/23 に加筆)になります。この航空写真、転載禁止かと思っていたのですが、よくよく見たら出典元を明記すればOKでした。遊廓の位置は左下、本堂山の向こう側、面白いくらい町から隠れるようにして存在していたことになります。当初は陸軍病院跡がそれだと思っていたのですがね。いかにもな形状しているでしょ?この写真、戦後すぐに米軍が撮影したものになりますが、この時点で遊廓は『跡』になっちゃっているのです。うっすらと何かがあったという感じはありますが、建物らしきものは確認できません。たぶん軍隊がいなくなったと同時に遊廓も終焉を迎えたのではないかと、ご贔屓さんが消えちゃったら商売になりませんものね。現在はというと、普通の住宅地になっているみたい。嫌々ですが(笑)ストリートビューでも確認してみましたが、何も見つけられませんでした。

もう少し下調べに時間をかければ違った結果になったのでしょうけど、相変わらず思いつきで行動してしまう人間ですのでどうかお許しを。以上、軍都村松の失敗探索でした。このまま五泉に戻り、時間に限りがありますが大急ぎで遊廓跡と思われる料亭街を再訪します。

新潟県 五泉市201410(再訪編)

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実は現役だった食堂三兄弟・最長距離更新の長屋・遊里跡らしからぬニャンコ

富士山を象っていたとは気付きませんでした。


 村松から五泉駅に戻ってきました。2年半ぶりになるでしょうか、前回は雨に祟られて靴の中までグショグショ・・・散々でしたわ。今回はそんな心配など全く必要の無いピーカンの秋晴れなのですが、別の心配事がございます。何しろ時間が無いわけ、ちょっとした駆け足状態で探索しないといけないようですな。手抜きで大変申し訳ないのですが、町や遊里関係の情報は前回のレポを参照していただければ幸いです。これ以上記すことも思いつきませんので早々に始めさせていただきます。

註)前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



やはり初っ端は此処になるでしょうか、駅近くにある食堂三兄弟、もちろん何の繋がりもないと思いますが(笑)この並びが大のお気に入り。ここで訂正・・・左のお城みたいな破風とレトロな窓が連続するアバンギャルドな栃尾屋さん、前回退役済みと言ってしまいましたが現役だったみたい、ご免なさい。時間があればどれかで昼食といきたかったのですがね。



前回は訪れなかった駅の北東側を探ってみることにします。



裏通りに入ると水路が現れます。新発田で出会ったものと同じ水草がユラユラ。その先の草臥れた下見板張りは近藤酒造さん。慶応元年(1865)創業の酒蔵です。



近くで見つけたノコギリ屋根、古くからの機業地である五泉の象徴でもあります。元々は五泉平という絹の袴地が名産でしたが、現在はニットがそれに代わっています。



物凄い塀を構えた豪邸、機業で財を成した方のお宅かもしれませんね。まあ、後でもっと凄いのが出てきますけど・・・。



緩やかなカーブを描く通りに沿って廃れた家並みが続いておりました。



その先に茶舗の丸松園さん、母屋部分の松が立派です。



さらにゴチャゴチャとした一画の奥へ、ふと左を見ると・・・



これがとんでもなく長~い長屋。地図で確認してみますと、80mはゆうにあるわけ。新発田の白新長屋より長いでやんの。最長距離更新ですな。



長~い長屋に気をとられていたら黒板塀が続く路地に迷い込んでしまった。どうやら此処、丸松園さんの勝手口だったみたい。



時間がないので強引に駐車場を突っ切って旧街道と思われる県道7号線に出ました。正面には前回も紹介した旅籠風の旅館福泉館さん、此処に出るんだ。この裏手が遊廓跡と思われる馬場町の割烹街になります。



この孔は健在。前回は毘沙門亀甲って言っていましたが、三つ盛亀甲のほうがしっくりきますよね。相変わらずいい加減で申し訳ない。それにしても孔の暗闇が恐くて仕方がないのですが・・・トライフォビアの一種なのでしょうか。



未舗装の細い路地に冒頭画像の円形の造作があります。



コレに気付いてはいましたが、前回は雨のせいで細部まで気が回らなかった・・・。路地の出口にあった美しい造りの大野屋旅館さんは真新しいお宅に変わっておりました。たった2年半ですが、いろいろと変化があるものです。



路地を抜けるとこの仔がお出迎え。遊里跡のニャンコって、大抵ニャン相が悪くてひねくれているのが多いというのが持論なのですが、この仔は例外。まあ、飼い猫ということもあるのでしょうけど、とても大人しかったですよ。



そういうときにかぎって時間がないんですよね・・・。



敷居が高そうな割烹一力さんは以前のままでした。敷居が高いの使い方誤っているの自覚しておりますが、今やこっちのほうが意味伝わりますよね。



水路が暗渠になっている通りに出ました。昔の航空写真で確認してみますと、水路に蓋がされていない頃は両側に並木みたいな物体が有るような無いような・・・メインストリートだったのでしょうか。その通り沿いで一際目立つメダイヨンがある謎の看板建築。こっちに目がいきがちですが、お隣のお宅に注目ですぞ。かなり直されているようですが、面影が残っているような気がしませんか???



開口部廻りを強調したフレームにモルタル欠き落としの外壁、妙な違和感を覚えるのは微妙にシンメトリーからずれているせいでしょうか。メダイヨン本体は無くなってしまったのか、何かが描かれていたのか、写真からは判断できませんでした。そして何よりも気になるのは空中ドアの存在、ご丁寧にも小庇まで付いているし(笑)こう見ると、その類というよりも元お医者さんといったほうがシックリきますよねえ。



締めはやっぱりこの豪邸、元大地主の吉田家住宅に登場願いましょう。県道7号線沿いの光景、巨大な土蔵が二棟ドーン!!車と比較していただければその大きさが判ると思います。



交差点に面しているのは吉田家が設立した旧吉田銀行、明治末期に建てられたものだそうです。路面が濡れているのは融雪装置の試験、垂れ流しですので池みたいになっておりました。雪国なんですねえ。



通りを回り込むと二階建てほどもある煉瓦塀がドーン!!もうなんか刑務所並みですなあ(笑)



その先には県道側と同じような土蔵が二棟再びドーン!!いったい中には何があるのでしょう、とんでもないお宝が眠っていたりして・・・。

なんだか慌しい探索になってしまいましたが、以上で五泉の再訪編はオシマイ。再び磐越西線に乗り込んだら福島県との県境に位置する町を目指します。そこは普段使っている住宅地図にも詳細が表示されない処、どうやら勘に頼るしかなさそうです。

新潟県 東蒲原郡阿賀町津川201410

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三大河川港ととんぼ発祥の町・歴史から抹殺された遊里・廃工場と思いきや

色づき始めた蔦が綺麗でした。


 五泉駅から再び磐越西線に乗り込み、阿賀野川沿いをノンビリ行くこと約40分で津川駅に到着です。元々は津川町でしたが、平成17年(2005)に周辺の鹿瀬町、上川村、三川村との合併により誕生した阿賀町によってその名は消え失せています。この町の歴史は相当古く、その由来は700年以上昔まで遡るそうです。蒲原郡小川庄にあった新善光寺がこの地に移ってきたのが貞治元年(1362)のこと、一緒に移転した民家によって自然発生的に町が形成されたようです。その後、町は会津藩の西の玄関口、脇を流れる阿賀野川の舟運、そして越後街道(会津街道)の宿場町として栄えていくことになります。しかし、明治になると磐越西線が開通し宿場が役目を終え、舟運も次第に衰退していくことになるわけ。現在の町はといえば、日本全国何処にでもありそうな田舎町といった様相でした。そんな町にも嘗て遊里がありました。

 『津川町遊廓 新潟県津川町にあつて、汽車なら磐越西線、津川駅へ下車する。貸座敷五軒、娼妓約三十五名位居る。』

 お馴染『全国遊廓案内』による津川の紹介になりますが、たったこれだけかよ・・・。これは困った、ネットでも大した情報は見つからないし。さらに困ったのが地図です。この町、グーグルマップでいくら拡大しても町の様子が判らない地域にありまして、いつも探索に使用しているゼンリンの地図でも同じなわけ。まあ、グーグルマップの元データはゼンリンのですので当然の結果なんですけどね。仕方ないので新旧の航空写真にも目を凝らしてみましたがやっぱり駄目。仕舞いには禁じ手であるストリートビューにも手を出してしまいましたが、裏通りまではカバーしておらず皆目検討つかないわけ。もうどうしようもないので、今回はいちばん町の様子が判る航空写真を出力して持参という異例の状況・・・こんなんで大丈夫かいな・・・。



町は阿賀野川の対岸にあります。川に架かるきりん橋からの光景、特徴的な岩峰は麒麟山、津川城址でもあります。阿賀野川は岬のように出っ張った山にぶつかって左に大きく蛇行しています。右は支流の常浪川、同じく右に見えるのが津川の中心街です。



とにかく空腹だったので美味しいお蕎麦で燃料補給して、再び町の入口に戻って探索開始です。近くにあるのが琴平清水なる湧水、道から突然湧き出しているように見える不思議なロケーション。後ろの石垣も歴史がありそうです。



河畔に行ってみるとこんな謎の構造物、新発田でのこともあって遺構かと・・・後に大間違いであることが判明するわけ。



その先に舟運時代の遺構が残っています。河川港跡、地元では新船戸と呼ばれています。津川の港は日本三大河川港の一つとされていたそうです。この先にももう一ヶ所大船戸という港跡があります。嘗ての隆盛が偲ばれますね。



河畔の崖上に建つのが狐の嫁入り屋敷。どういった理由かは判りませんが、麒麟山には頻繁に狐火が現れるんだそうです。古から狐火の列は狐の嫁入りとされていましたから、津川ではそれを再現したお祭り毎年開催しています。それの資料館みたいです。展示されていたこれはお祭りに使われる打ち掛けだと思います。幸運にも此処の係の方から遊廓の情報をお聞きすることができました。それについては後ほど・・・。



町中を貫く県道14号線に戻って東へ、たぶんこの通りが嘗ての越後街道だと思います。



敏達天皇9年(580)に摂津国から勧請されたと伝わる住吉神社。境内にあった石造の変わった社です。拝殿は別でもっと立派なのがあります。



その先に重厚な赤煉瓦の塀が現れます。豪商平田家屋敷跡・・・平田家は藩の御廻米問屋、舟運での交易、銅山の経営、味噌醤油の醸造、数千haに及ぶ林業などなど手広く商っていた豪商だったそうです。



そんなとんでもない豪商のお屋敷ですが、残っているのは塀だけなんですよね・・・。



木目が美しい板塀に囲まれたお宅、軽やかな造りの門がいいね。



津川では雁木のことを『とんぼ』と呼びます。なぜ『とんぼ』なのか、調べてもよく判らないのですが・・・。で、この津川、とんぼ(雁木)発祥の地なんだそうです。慶長15年(1610)に発生した津川大火の後、津川城主、岡半兵衛重政の命により造られたのが最初とされています。左の妻入の商家が蕎麦を頂いた塩屋橘さん、なかなかのものでしたよ。



失礼な言い方かもしれませんが、この町思っていたほど寂れていないのです。しかし、そんな家並みの中にもポツリポツリと廃屋が見られます。



お隣も廃屋、玄関がトタンで塞がれておりました。コチラはお医者さんっぽいですね。



近くに貼られていた案内図でこれから向かう遊廓跡についてご説明致します。横に走っているのが旧越後街道の県道14号線です。途中で鉤形に曲がっているのが判ると思います。その先で姥堂川が横切っているのですが、川の向こうからその先の原町交差点までの範囲(赤点線)に貸座敷があったそうです。街道沿いに並んでいたのか、はたまた一廓を成していたのか、そこまでは狐の嫁入り屋敷の方も判らないとのこと・・・とにかく行ってみましょう。



鉤形の通りの先に赤煉瓦の塀がありました。たぶん手前にある天保14年(1843)創業の老舗酒蔵、麒麟山酒造さんのものだと思います。さきほどの平田家のもそうでしたが、端部に柱型があるのです。同じようなものを幾つか見かけました。津川特有のものかもしれません。



空き家になっていると思われる店舗に並んでいた地元小学生の作品。子供にとっての狐のイメージって皆似たり寄ったりなんですね(笑)



姥堂川を渡るとその先が目的地。橋の袂に建つ本陣旅館さん、ストリートビューでも注目していましたぞ。でも、本陣という屋号が気になります。津川は宿場でもあったわけでして、それと何か関係があったのかもしれません。



通りのほうが高いので一階部分がめり込んじゃってる・・・かなり複雑な造りになっているみたい。一応ネットでヒットはしますがかなり荒れ気味、おそらく既に退役しているかと。



そのまま姥堂川沿いを行きますと高台に神明宮なる神様が鎮座しているのですが、参道がちょっと面白い状況。鳥居の手前にこんな橋、跨いでいるのは川ではなく道なのです。親柱に何も刻まれていませんでしたが、かなり歴史がありそう。



本陣旅館さんの裏にあるのが割烹緑地亭さん、航空写真でもコチラの入母屋の屋根が目立っておりました。屋根のサビサビ具合からしてかなり歴史があるんじゃないかと思ったのですが、ご覧のとおりかなり直されているようでして以前の姿が全く想像できません。



落雪によるものだと思いますがこんな酷い状態・・・店を閉めてからかなり時間が経過している様子。これが遺構なのでしょうか。



振り返ると放置プレイの庭木が生い茂る本陣旅館さんの裏側、戸袋の『藤』の字はどんな意味なのでしょうね。



辺りにはこんな空き地が点在しているのですが、あまり『跡』という感じがしないんだよなあ。狐の嫁入り屋敷の方によりますと、遊廓として機能していたのは戦前までだったようですのでそれが原因なのかもしれません。



旧街道から分岐するこんな路地の奥や裏通りを探ってみましたが、これぞといったものの発見には至りませんでした。



狐の嫁入り屋敷の方の話です。以前、町史を編纂する際、この遊廓のことを『恥ずかしい場所』ということで本には記さなかったそうです。まあ、これがお役所としての普通の反応なのだと思います。この遊廓、ある意味歴史から抹殺された遊里と言えるのかもしれませんね。



駅に戻る途中、お宅の間の奥でひっそりと佇む廃墟に目が止まりました。行きのときも気付いてはいたのですが、工場か倉庫の廃墟かと思いスルーしていたのです。しかし、改めて見ると妙な感じ・・・・もうお気付きですよね?そう、右下の水色の部分です。



コレ、間違いなくモギリの窓口ではありませんか!!廃工場かと思いきや、なんと廃映画館だったというわけ。モギリの廻りは綺麗にモザイクタイルが貼られているのに、他の部分は全面トタン張り・・・変てこな造りですな。奥の客席部分は完全に倒壊しておりかなり危険な状態です。間違ってもこれ以上絶対接近しないように、忠告しましたぞ。昭和三十年代初め東蒲原郡には電工会館と津川東亜劇場という二館の映画館があったそうです。



駅に戻ってきましたが、次の列車まで30分以上・・・ベンチでぼんやりと形の良い山を眺めておりました。この津川駅、周辺に人家が少ないのでちょっとした秘境駅といった感じなのです。委託のようですが駅員はいますけどね。



やってきたのは国鉄色!?・・・で合っています???降り立ったのは女子高生が一人、乗り込むのも私一人・・・。

以上で情報が極めて少ない津川の探索はオシマイ、あそこって本当に遊廓跡だったのでしょうか。未だに半信半疑というのが正直なところ。まだ陽は高いのですがこの日はこれで打ち止め。今日はこのまま新潟市に出て毎回恒例の精進落し、相変わらず何を落とすのか本人もよく判っていないのですが(笑)一説によりますと、落とすのは金と運だけとか(爆)古町芸者を呼んでパーッと・・・なんてできるわけないので、慎ましく庶民に相応しい処で妥協しようかと・・・ではまた明日。

群馬県 沼田市201303(再訪編)その1

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タモさん憧れ河岸段丘の町・なんと裏口があったとは・キーワードは未舗装

『まいう~』って、あんた・・・中途半端に時が止まっていた路地でした。


 お届けしてきました越後新潟シリーズですが、ちょっとお休みをいただきます。気が付けばいつのまにか12月、ほんと一年が早く感じますなあ。この時期になりますと、いろいろ整理しないといけない事柄が増えてきますよね。というわけで12月はHDDの在庫整理にあてたいと思います。まあ、相変わらずバタバタしておりますので中途半端で終わること必至なんですけどね。

 まずは群馬県の北部に位置する沼田市、3年ぶりになりますか。何でも坂道や地層が大好物であるタモさんお気に入りの町なんだとか。どういった経緯で沼田のことを知ったのかは判りませんが、福岡県の一高校生である森田一義の頃から憧れの場所だったそうです。早稲田に通うため東京に出てきて真っ先に向かったのがこの町だったというのが凄い、ませた新入生ですなあ。自分のその頃を思い返してみると・・・恥ずかしいので止めておきます。来年には『ブラタモリ』も復活するようですし、『いいとも』という縛りが無くなったわけですから日本全国をブラブラしてほしいと期待しているわけ。できれば京都や大阪といったメジャーな町ではなく、地方のマイナーな町の路地裏を徘徊してくれたら嬉しいのですがね。いっそのこと初回はお気に入りの沼田なんて如何?たぶん一般視聴者はナニココ???って呆気にとられるでしょうけど(笑)今回のレポもまさにそんな感じで???の連発になっておりますのであしからず。

※前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



沼田駅前から東に延びる通りは次第に勾配を増していきます。地元では滝坂と呼ばれる坂道、正体は利根川によって造られた河岸段丘です。コレに高校生のタモさんは惹かれていたのでしょう。そんな十代、普通いないよなあ(笑)坂の途中にあるのが前回も紹介した旅館の見晴館さん、アプローチの橋がいい感じ。



これが滝坂の全景、見晴館と名乗るのも納得ですな。当日は天候が残念でした。



前回同様、今回も屋根付きの階段でショートカットしていきますよ。相変わらず架構が見事です。



階段を登りきってもその先にはもっと勾配のきつい胸突き八丁の急坂、これを越えないと沼田の中心街には出られません。そんな坂の途中にあるのが謎の公衆便所。本屋で立ち読みしているとなぜか催すというのがありますが、坂道でというのは聞いたことがないのですがね。



ヒイヒイ言いながら急坂を登りきって向かったのは沼田公園、嘗ての沼田城址になります。前回も紹介した唐破風が立派な沼田市武道場。前回と比べてちょっと雰囲気がと思ったのですが、どうやら屋根を塗り替えたようですね。



裏手にあるのが旧沼田小学校講堂、こっちは外壁が塗り替えられておりました。板が痩せて浮造のように木目が浮き出た下見板が美しかったのですがね。



その先、行き止まり路地の突当りに建つのが、旧日本基督教団沼田教会記念会堂。この地に移築され関口コオきり絵美術館として余生送っていましたが、現在は閉館になっています。ココは以前のままだなと思っていますと・・・



・・・ドアの前にコレが、三角屋根のてっぺんに付いていた十字架です。震災で落ちちゃったのではないでしょうか。



町の目抜き通りと思われる通りに出ました。交差点に面しているのが神明宮さん、この神様ちょっと変わった状況なのです。まず境内を囲むようにして小さなお店が並んでいるのが変。



そして拝殿の造りも変。まるでお寺の伽藍のように両側に回廊が巡っているシンメトリーな構成は良しとしても、どういうわけかそこに入れないのです。手前で頑丈な鉄製の格子戸でガードされちゃっているわけ。格子の間から覗いた光景、サカキでしょうか対になったご神木?片方だけが枯れているのが妙に気になるのです。



地図を見ていて気付いたのが目抜き通りから分岐する細い細い路地。そんな処にもこんな看板があるわけ。



右は美容室。この路地、並行している通りへの抜け道も兼ねているみたいですね。抜けた先についてはその2ほうでレポ致します。



左のお宅の門、欄間部分に刻まれておりました。



次の路地、いきなり現れた寿司屋さん、看板が酷い有様・・・。



その先が冒頭画像の場所になります。半割の丸太が張られた廃屋、ちょっと不気味です。



蓄光塗料でしょうか、夜になるとボンヤリ発光したりするのでしょうか。



まだあるぞ・・・行き止まりのように見えますが、此処も『ぬけられます』。奥まで行くのが面倒なので入口だけで勘弁して。



こんな貼り紙がありましたので念のため奥を覗いてみますと・・・



・・・こんな処にまであるのかよ。犬小屋が空っぽで良かった。



・・・通りに戻りますと、前回も紹介した利根農林同窓会館。何の同窓なのか依然として謎のまま。



相変わらず門柱がいい味出しております。



通りの向かいにはダイヤが並ぶ退役済みの飲み屋さん、安っぽいタイルが堪らないわけ。



その先、材木町の交差点を左折すると擬洋風建築の旧沼田貯蓄銀行が・・・って、無い・・・無くなっている・・・。移築の計画があり長いこと足場が組まれたまま放置されていたのですが、遂に解体撤去されちゃった!?帰ってから調べてみると意外な事実が判明します。解体は解体でも、撤去のためではなくやはり移築のための解体だったみたい。肝心の移築先なのですが、平成23年に開催した生方記念文庫基本設計業務委託プロポーザルの要項に、記念文庫の想定敷地内に移築という項目があったそうで一安心。あ、生方記念文庫というのは沼田名誉市民の歌人生方たつゑの記念館です。このプロポ、岸和郎氏が最優秀を獲得し、今年の7月にめでたく記念文庫が開館したのですが、敷地内に旧沼田貯蓄銀行の姿は無し・・・たぶん予算が付かず後回しになっているのだと思います。ですよね?沼田市さん。



今回、沼田を再訪した理由ですが、探索以外にもう一つあるのです。凄いうどん屋があると小耳に挟んだものですから。これからそこに向かいます。



相変わらず何がロマンなのかよく判らない日本ロマンチック街道(国道120号線)を東に暫く行って、適当な処で脇道に入るといい感じの水路に出会うはずです。対岸には桜並木、もう少し後に訪れたらと思わせる光景でした。この先に目的のお店があるはず。



な、なんと休業日・・・。コチラ、地元で有名な手打ちうどんの岡林さん、お店の佇まいもいい感じでしょ。極太のうどんいただきたかったです。



お店を探しながら戻るのですが、お腹が完全にうどんモードになっているためどうもピンとこないわけ。途中にある県立沼田高校、RC造の校舎は昭和3年(1928)に建てられたもの、県内初の水洗便所が設置された建物なんだそうです。



裏道の曲り角に建つお宅、角の出っ張りは何でしょう。奥のド派手な鐘楼は長寿院さんのもの。



鐘楼だけかと思ったら本堂も凄いぞ。



通りに面していた材木町神明会館、公民館でしょうか。調べてみましたが詳細不明でした。/div>



そうこうしているうちに材木町の交差点に戻ってきてしまった。ふと見ると前出の利根農林同窓会館の向かいにこんなお店があることに気付きました。手打ちうどんの大和屋さん、空腹も限界でしたので迷うことなく入店・・・実際はちょっと躊躇したけど(笑)



薄暗い店内にはテーブルが二つだけ・・・。こんな感じですが、お客はひっきりなしに訪れます。皆さん、店内では食べず、生のうどん玉を10玉、20玉と大量に購入していくわけ。私の出身地である埼玉にもこういうお店多いんですよね。懐かしい光景でした。/div>



天ぷらうどんを所望、天ぷらは店の一角に山盛りになっている中か二つ選ぶことができます。私が選んだのは普通のかき揚げと竹輪の磯部揚げ。いつも思うのです、磯部揚げを最初に考えついた人は天才だって。腰がほとんど感じられない不揃いのうどん、出汁の風味が遥か彼方にちょこっとだけ感じられるつゆ、人気の讃岐うどんなどとはまさに対極と言えるうどんです。でもね、子供の頃からこういうのに慣れ親しんできた人間とっては堪らないんですよね。優しそうな老夫婦が切り盛りしています。特に腰の曲がったお父さんが凄い、このお店、出前もやっておりまして、岡持ちを乗せたカブでぶっ飛んでいきましたわ。ハンドル握ると性格変わるタイプ?(笑)ごちそうさま、美味しゅうございました。あ、忘れておりました、画像は大盛りです。

前半はここまで、燃料を補給しましたら、前回は訪れなかった気になる界隈を探ってみることに致しましょう。前書きにもありますが、これが???の目白押し、やっぱりこの町は面白いと再認識した次第です。/div>

群馬県 沼田市201303(再訪編)その2

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花街に裏口があったとはねえ・・・。


 群馬県とくれば乙種料理店ですよね。群馬県の統計情報をまとめたサイトで興味深いデータを見つけました。昭和18年(1943)末時点での様々なお店の数などを示したものなのですが、それによりますと沼田には甲種料理店17軒、甲種料理店雇婦21名とあります。此処で言うところの甲種料理店というのは、料亭や割烹といったお店のことだと思います。雇婦というのは仲居さんになるのでしょうか。続いて芸奴屋が16軒、もちろん置屋さんのことです。なぜか芸妓の数は示されておりませんでした。カフェー及バーという項目には横棒だけ、これはゼロではなく不明という意味でしょうね。無いわけありませんものね。そして肝心なのは乙種料理店、沼田には10軒、酌婦21名とありました。

 やっと謎に包まれた色街の実態の一端らしきものを知ることができたわけですが、相変わらず薄ボンヤリとした情報だなあ。話はその1に戻るのですが、『ブラタモリ』で沼田を取り上げるなら是非とも乙種のことも・・・NHKの絶大な力をもってすれば造作もないことでしょ?なんで沼田を取り上げる前提なのかよく判りませんが(笑)まあ、場所などが判ったとしても放送できるわけないわな・・・。

※前回のレポはコチラコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



その1で出てきた飲み屋連なる細い細い路地を抜けた先にあるのがこの通り。いい感じに廃れております。



前回は此処を見落としておりました。



左を見たときはお風呂屋さんかと思ったのですが、おもちゃ・人形のカタヤマとありますね。



ポッカリと口を開けた入口、此処入っちゃって大丈夫なの???と思いながら恐る恐る足を踏み入れると土蔵が数棟並んでおりました。薄暗いその間を縫うように進んで行きますと・・・本当におもちゃ屋があった!!この時はこんな処で商売になるんかいなと思ったのですが、完全な勘違い。通りの反対側には日本ロマンチック街道が並行しているのですが、通りに面して立派なお店があることが判明、此処は単なる裏口だったというわけ。その節は大変失礼致しました。



書き割りのような山小屋風三角屋根が面白いですね。



日本ロマンチック街道に出ました。三階建てのハヤシ洋装さん、昭和初期といった感じでしょうか。界隈で一際目立つ建物です。



さらに南側の並行する細い通りへ・・・割烹奈島屋さん、前回も此処の前を通っているのですが全く気付かなかった。お城の大手門を模したようなファサードです。



門を潜った先に入口があります。かなり前に退役されたようですな。



小さな看板建築は以前のまま、裏手の長屋風の建物が気になるんだよなあ。



向かいにあるのが須賀神社さん、屋根を銅板に葺き替えたばかりみたい、ビカビカです。



カバン・テント製造販売とありました。もの凄い掘り出し物が見つかりそうなお店です。



その先には飲み屋さんがズラリ、此処ちょっと面白い状況なのです。



お店の間、奥に並ぶのは屋根付きのガレージ。お店専用じゃないよね?



スナック人やすみさんのファサードがお気に入りです。



振り返ると半ば崩壊しかけている半横丁建築とでも申しましょうか。後ろに仏塔みたいのがありますでしょ、なんとお店の背後にひろがっているのは墓地・・・。



奥のお店がこれまた凄いわけ。



お店と言ってしまってもいいものかという感じではありますが、やけっぱちにもほどがあるぞ。



近くにあるのが前回偶然見つけた現役『花街』・・・アホらしいのでアッサリと終わらせよう思ったのですが、コレって乙種料理店と何か関係があるのかも???嘗てそういう場所だったので花街と名付けたとか・・・なんてことはたぶんないと思います。昔の航空写真でこの辺りを確認してみましたが、よく判らん。



未舗装の砂利道の先、何か看板が見えますね。



な、なんと、公衆浴場都湯なる立派な造りのお風呂屋さんではありませんか!?これにはぶったまげた。退役済みだと思いますが、看板が結構新しいのが気になって仕方がないわけ、最近まで現役だったのかもしれません。凄いのは建物の周り、土のまんま・・・雨の日なんかどうしていたんだろう、せっかく綺麗になったのに外に出た途端泥まみれとか・・・。



お隣には飲み屋さんと思われる空き店舗・・・やっぱり沼田はいろいろと面白いなあ。



面白ついでに世界の北野(笑)もちろん仁王様なのですが、あまりにも出来が微妙だったものですから。都湯近くのお寺だったと記憶しているのですが、名前は失念してしまいました。



コチラは蕎麦の丸十一屋さん、前回は飲み屋さんかと、しかも元とか言っちゃっているし、これまた失礼致しました。スッキリとした造りとしか表現しようのないお店、こういうの好きですよ。



駐車場の先に目にも鮮やかなスミレ色の木造三階建て、前回も紹介しましたね。



跳ね出した小部屋から延びる陶器製の汚水管。共同便所でしょうか、アパートだったのかもしれませんね。



コチラがファサード。三階には円窓、二階の欄間には松葉、一階はレストラン花さんとのことなのですが、もうやっていないみたい。



さらに分岐する路地に入りますと・・・ホラ、見えてきましたよ。良かったまだ残っておりました。



コチラも前回偶然見つけたカフェー建築風のスナックソムリエさん。スナックなのにソムリエ???なんてツッコミは野暮ですぞ。やっぱり両側のサイディングが残念すぎる。



いつ頃のタイルかは判りませんが、いい艶放っておりますなあ。



実をいうとソムリエさんより向かいの建物が気になるのです。コレ、三軒が並んでいるように見えますが全部繋がっているみたい。かなり複雑な造りになっております。



特にこの部分がいい、窓の位置、外壁の色、ウン、全部いい。



その先にまた未舗装の路地がありまして、今度は割烹喜久乃さん。ご覧のとおりとっくの昔に退役されている様子。



ブロック塀越しにカメラだけを突き出したら割烹とは思えぬ光景が写ってしまったのですが、これはいったい・・・。



雲行きが怪しい感じですので花街の裏口でオシマイです。



膝にきそうな急坂を下って駅に向かいます。行きはヒイヒイ、帰りはカクカク。



坂の途中の廃屋裏に黒ニャンコ。早くお帰り、降ってくるよ。


以上で、沼田の再訪編はオシマイ。???同様に面白さも目白押しでしたね。やっぱりこの町は面白い。

千葉県 旭市201210

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円形造作がある割烹旅館・地方都市名物あの学校・目抜き通りのモザイクタイル円柱

私見になりますが、現役ボーリング場がある町は良い町なのです。


 旭市は千葉県の北東部にある町、と言われてもよく判らないという方多いのではないでしょうか。銚子市の西隣と言ったほうが判りやすいかもしれませんね。中心街はかなり内陸にありますが、犬吠埼から延びる九十九里浜の始まりにも面しています。歴史を遡ってみてもあまりぱっとしておらず(失礼)、おそらく在郷町に当て嵌まるのだと思います。明治30年(1897)に開業したJR総武本線の旭駅を中心に発展してきた町といった感じでしょうか。この町を訪れたのは、遊里の類があったらしいという有難いコメントをいただいたから。しかし、調べてみても収穫皆無、地図を眺めてもチンプンカンプン・・・。行けば行ったでそれなりに楽しめてしまう単純な人間ですので、まあ何とかなるんじゃないでしょうか。



駅前のスーパーにはビックリ!!何だコレ・・・。



空腹でしたのでお店を探しながら駅の東側へ。最初に見つけた洋館付住宅の一種とでも言っておきますか、出窓の向こうは台所みたいですね。



繰り返しの美学のスナックみやびさん、どうやら後から増築されたみたい。



お店脇の引っ込んだ玄関の造りが妙に気になるわけ。近くのそば処富士見さんで遅い昼食、ボリュームがあって美味しかったです。



昼食後、今度は駅の西側へ・・・冒頭画像のアサヒボウルさんが見えてきます。すぐ脇は総武本線の踏切です。



ビリヤードとありましたが、一台しか無いんですけど・・・。



アサヒボウルさんが面している通りが銀座通り、町の目抜き通りになるのだと思います。その目抜き通りを少し行きますと、旅館旭楼と書かれた看板が見えてきます。そりゃあ『楼』ですもの、無視するわけにはいかないでしょ。



しかし、建物は新しいですな。戦後すぐに撮られた航空写真には切妻屋根らしきものが見えるような、見えないような・・・。建て替えたのだと思いますが、以前の業態は何だったのでしょうね。



脇道に入るとこんな光景、所謂眠そうな町、いい感じです。



近くで出会った貴婦人然としたニャンコ、女の子かどうかは確認できませんでしたけど(笑)



一本脇道を抜けた処で見つけました。向こうに見える通りは銀座通りです。看板もありませんが地図を見ますと下根屋とあります。割烹旅館なんだそうです。赤い入母屋屋根に押縁下見板張り、そして高欄風の手摺。奥の赤い屋根も同じ敷地内に建っています。かなり奥行きがありますぞ。



入口の引き戸が開け放たれており、こんな円形の造作が。今回レポを書くにあたって改めて調べてみましたら、とあるブログにこの一画が遊廓だったと記されておりました。真偽のほどは判りませんが、それが少し納得できるような物件がすぐ近くにあることに気付きます。それについては後ほど。



銀座通りに戻って旅館旭楼さん脇の路地に入りますと・・・



・・・この町にもありました、拙ブログではお馴染の文化服装学院ではありませんか。地方都市での遭遇確立が高いのはなぜなのでしょう。



そのまま路地を抜けると成田山真福寺さんの境内です。年代は不明ですがかなり立派な山門です。



参道脇の公園の片隅、金網の檻に鎮座していたC58の217号機。嘗て総武本線や成田線などを走っていたそうです。



再び銀座通りに戻ったところで目に止まった建物、なんの変哲もないように見えますが、お判りになるでしょうか。



そう、モザイクタイルで彩られた円柱です。腰に貼られたタイルのいちばん上、ボーダータイルにも注目ですぞ。



そしてポーチにはかなり歴史がありそうな市松模様。千葉県でコレを見たのは初めてかも!?この建物のすぐ近くに前出の下根屋さんがあるわけでして、どうでしょう、ちょっぴりですが信憑性がでてきたと思いませんか???



建物の全景、こう見ると奥行きがある商家にしか見えなくて、考えが揺らいでしまうわけ。通りに面した部分は窯業系のサイディングできっちりラッピングされていて、嘗ての姿を全く想像できないのが残念。奥の二階部分、庇と窓がグルリと回った部屋がとてもいい。あそこに住みたい(笑)



その先の新甚ゴムさん、こう見えても靴屋さんです。テント製の小庇がカワイイですね。



坂本菓子店さんにもカラフルなモザイクタイル。これだけの面積になりますとかなり壮観ですね。

ちょっと短いレポになってしまいましたが、旭市の探索でした。あの一画が本当ならば知られざる遊里ということになるのかもしれません。千葉県って公許の遊里が少なかったですから、探せばこういう場所がまだ残っているかもしれませんね。

東京都 豊島区雑司が谷201306

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霊園裏の白亜の洋館・小さな小さな横丁建築・日本最古の駄菓子屋併設の神様

絶妙な位置に花一輪。


 雑司が谷と聞くとまず頭に浮かぶのが霊園ではないでしょうか。夏目漱石、竹久夢二、金田一京助、小泉八雲、ジョン万次郎、そして永井荷風といった蒼々たる面子が眠る広大な霊園、個人的には川口浩に思い入れが強かったりします。残念なことに役者としての彼にではなく、探検隊隊長としての彼になんですけどね。あの探検隊、どこかのブログとよく似ていると思うわけです。引っ張るだけ引っ張っといて、収穫はショボイというところなんかが特にね(笑)おっと、話が自虐的な方向に逸れてしまった。えーと、雑司が谷霊園のことでしたね。この霊園ですが、敷地のほとんどが雑司が谷ではなく南池袋に位置しているというのはあまり知られていない事実ではないでしょうか。一帯は二十三区内では貴重な戦災から逃れることができた地域でもあります。そうなると町並みなんかもと思われるかもしれませんが、まあそのあたりは東京ですからね。最初に断っておきますが、今回は妖しげな一画など一切出てこない、そして大して目的地も定めないブラブラ散歩ですので過度な期待はなさらぬように。たまにはこういう健全なのもいいでしょ?



最寄り駅は都電雑司ヶ谷霊園駅、下車すると目の前が霊園です。それにしても町名は『が』なのに、駅名はどうして『ヶ』なのでしょう。



霊園を突っ切って住宅街に入りますと、緑の向こうに白い下見板張りの三角屋根が見えてきます。



区立雑司が谷宣教師館、名前のとおり牧師さんの住居でした。家主は明治25年(1892)に来日して布教活動を行なったジョン・ムーディ・マッケーレブ、この地が気に入り住まいを建てたのが明治40年(1907)のこと、豊島区内に残る最古の木造洋風建築です。出窓の感じなどから何となくアメリカンだなと思っていましたら、マッケーレブさん米国人でした。



路地裏を辿りながら雑司が谷二丁目を目指します。



面白い屋号のラーメン屋さん、正統派の東京ラーメンがいただけるみたいです。



本当に緑が濃い・・・濃いを通り越して薄暗いほど・・・。



こういった緑が豊かなのも戦災から逃れた町の特徴だと思います。



木漏れ日が綺麗、下町とは違った意味で暮らしやすい町なのでしょうね。



路地と路地を繋ぐ飛び石、これも戦災から逃れた町の特徴の一つ。



へたりかけの庇が二つ、羽目板の塗装の剥げ具合がいいね。



くねる坂を下った先が雑司が谷二丁目です。



坂の途中にありました。甘い言葉をかけたらその時点で痴漢ではないと思うのですが・・・。それ以前にこういう場所に出没する正統派の痴漢(笑)って今時いるのでしょうか。



バターせんべいが気になって仕方がないわけ。



肉の大久保さん、お店の雰囲気からしてコロッケが美味しいお店ではないかと。



路地裏の廃屋にはドクダミの絨毯、相変わらず季節外れの画像で申し訳ない。



あ、今気付いた、突当りにも倒れた甘い言葉(笑)



政党のポスターってどうにかならんのでしょうか。



クネクネ路地を抜けると萬屋さん的なお店が二軒。こういうお店が頑張っている限り、界隈はまだまだ大丈夫・・・と思いたいです。



近くに目にも鮮やかな真っ青なトタン、物干し台が絶妙な角度ですなあ。アルミ製というのがちょっと残念ですが。



由来は町名からきているのだと思いますが、『ぞうに』ストアーで合っています???



小さな小さな、所謂横丁建築です。



中には八百屋さんが一軒だけ、ストアーとしての機能は風前の灯。



靴屋さんもとっくの昔に退役されてしまったようです。



都電荒川線を渡った先にある大鳥神社さん。なぜか賽銭箱が巾着袋、布袋さんか大黒さんのでしょうかね。



近くにある神様への参道があります。参道沿いに長屋風の建物、綺麗に直してありますが、かなり歴史があるものではないかと。



長屋の脇に入りますと、突当りに並木ハウスという表札がある建物があります。たぶんアパートだと思います。窓台の手摺が軽やかでいいね。



雑司が谷鬼子母神・・・まあ、此処は都電と合わせてのお手軽な観光スポットですからご存知の方も多いと思います。正式には法明寺さんというお寺のお堂の一つなんだとか。お堂手前にあるのが日本最古の駄菓子屋という上川口屋さん、創業はなんと天明元年(1781)!?十三代続いているそうです。ある意味、鬼子母神より人気のスポットかもしれません。



お店のアイドルは爆睡中でした。片目が見えないので名前は『石松』、なんと16歳、アイドルじゃなくて大親分だったというわけ。こりゃ御見それ致しました。



此処の由来は安土桃山時代まで遡るそうです。現在のお堂は寛文4年(1664)に建てられたものとされています。軒下に牡丹の花?を象った見事な彫り物があります。



鬼子母神を後にして、再び路地裏クネクネ。



コレは何処だったか・・・確か大鳥神社の脇辺りだったと思います。古い住宅を改修したアルゼンチン・タンゴのライブハウスなんだとか。



明治通りを渡って西へ・・・マンション群に睥睨されながらもこんなお宅が残っておりました。



適当にフラフラしておりましたら電車の音が聞こえてきましたよ。



此処に出るんだ・・・山手線と埼京線だ、目白まで来ちゃったというわけ。左のヨネクラジム、ガッツ石松、柴田国明らを輩出した名ボクシングジムです。あら、鬼子母神のニャンコとかぶったのは偶然???



目白通り沿いの大はしさんで美味しいお蕎麦を頂いたら今度は北へ・・・途中にこんな庭園がありました。区立目白庭園・・・平成2年(1990)に開園したそうですので、歴史のあるものではないみたい。こんな処があるとは全く知りませんでした。



その先で西武池袋線を渡ります。ちょっと行きますと・・・



・・・大好きな自由学園明日館です。



あらら、今日もウェディングで入れない。まあ、数ヵ月後、知り合いの披露宴で入れそうですので、今回は外観だけで我慢しましょう。

以上で気ままなお手軽散歩はオシマイ。妖しげな一画もいいのですが、かなり精神的に疲れることが多々ありまして、こういうのはリフレッシュに最適だなと思った次第です。

2014年総括・・・みたいなもの

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 今年はいつにも増して早かった・・・そう毎年言っているような気がしますけどね。今年は5~8月の四ヶ月間、多忙のため一度も探索に行けなかったという異常事態、未だにそれを引きずっているわけです。こういう職業を選んだかぎり仕方がないこととはいえ、これはかなりしんどかった。ほんと、どうにかならないものでしょうか・・・。

 個人的に今年いちばんの出来事といいますか、ちょっとショックだったのは赤瀬川源平氏の死去になるでしょうか。トマソン、路上観察・・・拙ブログの原点みたいな人でしたから。氏の撮る写真も好きでした。改めてご冥福をお祈りいたします。

 いきなり愚痴炸裂で大変申し訳ないのですが、そんなこんなで2014年も終わろうとしております。上記のような状態でしたので、今年は納得できるような収穫は少なかったのですが、一応総括みたいなものを紹介していきたいと思います。簡単には判らないよう町の名前はイニシャル表示にしてあります。去年は『県』や『都』ですぐに判ってしまったかもしれませんが、今回は町の名前だけにしてみました。『区』というのがありますが、これは比較的判りやすいかな。まあ、当てても何も出ませんけどね。

 相変わらず変な処ばかり彷徨っているというのはよくお判りいただけるかと。この路線は来年も継続・・・いや、更なるパワーアップできたらと初詣で願って参りますわ。

 それでは、よいお年をお迎えくださいませ。



M市 大好きな町の一つ、色街跡は少しずつ本当の『跡』に変わろうとしておりました。



K市 レポにまとめてはおりませんが、二度目の探索の港町。遊里跡近くの築100年というお風呂屋さんは健在でした。



K市 名物であるうどん屋巡りのつもりだったのですが、町外れで雰囲気のある謎の料亭に遭遇。



T市I 巨大なお寺を中心に発展した環濠に囲まれた寺内町。遊廓跡は濠の向こう側にありました。



K市 都合三度目になりますか、漸く遊廓跡が判明。空地には映画館がありました。訪れる度、衰退が手に取るように判る、ちょっと寂しい町でもあります。



A区K あえて赤線跡ではなく反対側の路地裏を彷徨ってみましたが、いまいちでしたね。



T市 花街跡のニャンコ、この仔も可愛かったのですが、もう一匹のマイペースぶりに唖然。



T市 伝統技術によって繁栄した職人の町。隣町の方に此処には遊里の類は無かったと教えられたのですが、それでも何かあるんじゃないかとウロウロしてみたのですが。



I市 日本人なら誰でも知っている神様がおられる町。遊廓跡近くでカフェー建築風の飲み屋さんを見つけました。これがなかなかの逸品。



S市 遊廓跡に残る元割烹が大変なことに。実際は爆笑しちゃったんですけどね。



S区T 遊里跡とは全く関係のないお散歩です。思っていたより高低差があるのが意外でした。



S市 遊廓跡は空振り、見たかった横丁建築は解体。打ちひしがれる私が出会ったのは想像を絶する物件でした。



I市S 結構有名な温泉地、遊廓跡は文化財に指定された老舗旅館裏手にあったというのですが・・・。



S市 以前仕事で何度も通った町。大好きな写真家がモチーフにもしていた処です。その場所を探してみたのですが、町は変わり果てておりました。



K区K 赤線跡の大人のお風呂屋さんがマンションに・・・。最近こういうケースが頻発しております。



K区A これまたお気軽なお散歩探索。大きな川沿いの住宅街、路地裏で美しいタイルに出会いました。



M市O 何処にも接続されていないという珍しい鉄道が走る町。一軒しか無かったという色街跡を探してみましたが・・・。



K市 毎度お馴染大好きな町、今年もちゃんと詣でてきましたよ。それにしても裏口があったとはねえ、迂闊でしたわ。



T市 半島の先端に位置する港町。私娼みたいな女性がたくさんいらしたそうですが、これがそうなのでしょうか。



O区O 鉱泉が湧いていたという小さな花街跡、面影は僅かでした。



S市 このモダンな造形、かなり気に入っています。建物の正体はなんでしょう。



T市H 遊廓跡よりも廃れた飲み屋横丁が素晴らしかった。特にこの女王がね。



A区H 戦災から逃れることができた町だと思います。ゴチャゴチャした路地の向こうではタワーマンションの建設が始まっておりました。



T市 池の畔に建つ老舗の料理旅館、食事ついでに内部を見学することができました。あ、後ろの煙突はお風呂屋さんのです。



T区O 此処も高低差がある町。下町の奥深く、路地裏で小さなコロッセオを発見。



N市M ある理由から今も現役の芸者さんがおられる町。そこで見つけた見事なタイル絵、でもコチラ左官屋さんなんですよね。



Y市 お酒のお供が名産の町。遊里らしきものがあったらしいのですが、地図上で怪しいと睨んだ場所にあったのは群青色のタイル包まれた廃映画館でした。



A市 色街跡近く、前回は訪れなかった路地の奥深くにコレが。カフェーの鑑札で何県か判っちゃいますね。



M市 花街跡の象徴ともいえる建物が跡形も無く消え失せておりました。



T町T 小さな小さな城下町。正式な遊廓ではなかったようですが、駅の近くにそれらしき場所を見つけました。



F市Y 大好物の超絶ローカル盲腸線が走る町。一軒しか無かったという遊廓跡を探してみました。



Y町 山あいの静かな町を再訪、前回訪れなかった場所が知られざる遊里だったみたいです。相変わらずもっていない私です。



Y市 市の赤紙がベタベタ貼られた巨大横丁建築、解体される前に訪れることができました。



O市 嘗て花街がありました。その近くの線路沿いに見るからに怪しい物件が。オレンジの電車でバレバレですな。



T市Y 川沿いのこんもりと繁る木々の間からコレが見えたときには仰け反りましたわ。



M市 明治まで遊廓だった一画の裏手で見つけました。タイル屋さんのセンスに脱帽です。

山梨県 甲府市201501(再々訪編)その1

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遊廓跡近くのカフェー鑑札・ソープ街の呑ん兵衛横丁・花街跡の先にはピンク映画館!?

相変わらずの見落としだらけ、ちょっと反省・・・。


 2015年初っ端は甲府市、特に理由はありません。6年ぶりになりますか、しばらく訪れていないので行ってみるか、そんな感じです。里帰りからの直行というハードスケジュール、前日はちょっとした同窓会で久々の痛飲、それにしても皆老けたなというより・・・剥げたな(笑)酷い二日酔いでしたが、盆地の寒風に吹かれたらちょっとスッキリしましたよ。とりあえず『全国遊廓案内』から始めさせていただきます。

 『甲府市穴切遊廓 山梨県甲府市穴切町に在つて、中央線甲府駅で下車すれば西南ね約七丁の個処に在る。駅からは乗合自動車の便もある。甲府は元徳川直轄の地であつたが、今は県庁の所在地で連隊もあり甲府第一の都会である。生糸、葡萄、水晶等の産地で特に甲斐絹及甲州ブドウの名を知らぬ人は無い。甲府駅の在る処は古の舞鶴城の一端で、城址は今舞鶴公園に成つて居る。享保年間には、市内柳町に飯盛女として旅館に散在していたものが、明治初年に新柳町へ移転し、明治廿七年には遊廓と変更して、同業者娼妓共に其の数を増した。処が明治四十年の大火で全焼したので、止むを得ず四十一年五月には、代官町の仮営業所から現在の場所に移転して今日に至つたものである。現在貸座敷が二十一軒あつて娼妓は百七十八人居る・・・』

※前回のレポはコチラ、前々回のはコチラコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



前回は工事中だった甲府駅北口広場が綺麗に整備されておりました。広場の真ん中にあるのが美しい擬洋風建築の旧睦沢学校校舎、明治8年(1875)に建てられた国の重文です。当初は巨摩郡睦沢村(現在の甲斐市)に建てられましたが、その後甲府市の北に位置する武田神社に移築されます。以前訪れた際は足場に囲まれていて姿を拝めませんでした。此処に移築するためだったのですね。



そのまま裏通りを辿って目的の場所へ・・・キッチン、喫茶、そして麻雀と多角経営だったようですが・・・。



面白い窓に出会いました。



目的の場所というのが此処、全く変化がないように見えますが・・・。5年ぶりの再会です。



『新天街』・・・飲み屋さんが連なる横丁建築です。



ブリッジが横切る豪華版?なのはいいのですが、肝心の屋根が無い・・・あるのはか細い小屋組のみ。



右のタイル貼りの部分は共同トイレです。通路の両側には排水溝、屋根が無くなるのを予見していた・・・なわけないか。



変わっていないように思えたのですが、出口辺りに妙な違和感。



ハワイさんの小窓がいいね。



そして何よりも想い出さんのクッションフロアみたいなタイルがステキすぎる。



違和感の正体はコレ、出口部分が無くなっていたというわけ。何があったのでしょう。



近くにあるのが菊乃湯温泉さん。建物は味気ないものですが、創業は昭和9年(1934)なんだとか。このお風呂屋さんに縁があるのが太宰治。太宰が甲府に住んでいた昭和14年(1939)頃、明け方まで執筆していた彼は、此処で汗を流していたとか。正月でしたが地元の方で賑わっておりました。



菊乃湯さんが面している通りで見つけました。コレ、ブックベンダーって言うんだ・・・初めて知った。思春期を迎えた男の子にとってコレは強敵。前を通るだけでドキドキでしたでしょ?そろばん塾の帰り道、適当にボタンを押してカバンに押し込みダッシュで帰宅。ワクワクしながら取り出した宝物、モデルさんの凄まじさに絶句と涙・・・いい人生経験させていただきましたよ。言われたとおり止まってみましたが、何も起きまへん。



再び裏通りを辿って駅方面へ・・・途中で見つけた和楽器店、看板がいいね。



あ、またお風呂屋さんだ。コチラは高砂湯さん、さきほどの菊乃湯さんもそうですが、甲府のお風呂屋さんのほとんどは天然温泉らしいです。



高砂湯さん裏手のコインランドリー、粋な造作がありますね。元は何だったのでしょう。



駅の反対側に抜ける朝日通り(県道6号線)沿いにちょっとした恐怖を覚える物件があります。



これでもかといった感じで徹底的にベニヤで塞がれておりますなあ。見ているだけ息苦しくなってきた。



中央本線の線路を潜って向こう側へ、飯田通り(県道106号線)にぶつかったら右折、通りの南側の宝一丁目に穴切遊廓がありました。遊廓跡がまさに『跡』になっているのは前回、前々回で確かめてありますので、その後に隆盛を誇った赤線の名残を探すの今回の目的。通りから分岐するどん詰まりの路地にあったお宅、二階の窓廻りが気になりますが、なんか違うよなあ。



さらに奥、玄関の欄間と出格子がいい感じですが、何とも判断の難しい物件です。



もう一本向こうの通りに入ると目に飛び込んできたのがさつきの看板。



さつきさんは隣のお店みたいですが、手前には何となくカフェー風の一風変わったアーチ窓が並んでおりました。



プランターボックスで塞がれた入口には、元の色が判断できないほど退色した色ガラスのドア。でも、こうして改めて見ると、そこまで古いものではないような・・・ウーム、赤線時代の物件って判断しずらいのばかりなのはなぜなのでしょう。



その先に冒頭画像の物件があります。『みます』さんで合っていますでしょうか???窓の造りが気になりますが、それよりも松の盆栽が気になって仕方がないわけ(笑)



あ、すぐ脇にも入口がありました。銘木でできた看板には小料理とあります。



看板の右下には円形の鑑札、かすれ掛けの文字でカフェーと刻まれておりました。反射が酷くて読めませんね、申し訳ない。



向かいにはこれまた正体不明の廃屋、でもコチラは一般のお宅のような気がする。



駐車場の片隅にポツンと取り残されておりました。



裏側は下見板とトタンのパッチワーク。小窓が妙に引っかかるのですが・・・。



分岐する細い細い路地を探ってみました。奥に見えるのがさきほどの廃屋です。



実は此処が地図上で何かあるんじゃないかと睨んでいた一画なのですが、見事なまでの空振りに終わりました。



路地を抜けると穴切遊廓跡、何も残っていないことが判っていますので今回はアッサリと。雪を抱いているのは南アルプスの白根三山でしょうか。



遊廓跡の手前、『赤線跡を歩く【完結編】』にも載っていたいい色合いの飲み屋さんが跡形も無く消え失せておりました。



お隣の奥の斜めに振られた玄関、以前はギリギリまで無くなった飲み屋さんの建物が迫っていたため、物凄く妖しく見えたと記憶しているのですが、こうも白日の下に晒されてしまうとねえ・・・。



この界隈、無くなった飲み屋さん以外にも数軒のお店並んでいます。右の後ろ姿の黄色い熊、去年でしたっけ、格好が卑猥だと騒がれたのって。確かに、この服装はいかんでしょ(笑)



周囲の細い路地にも入ってみました。一瞬、オオッと思ったコチラは単なるアパートみたい。枯れた蔦が物凄く恐いのですが。



鮮やかな黄色い外壁は床屋さん、時代的には赤線時代のもののように思えるのですが。

その1はここまで、引き続き赤線跡ではないかと思われる一画を彷徨います。もう少しお付き合いくださいませ。
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