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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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東京都 青梅市201203 その3(番外編)

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半畳ぐらいのスペースで濃密な世界が繰り広げられているわけ。


 ほとんどの男性が経験あると思うのですが、子供の頃プラモデルに嵌ったことおありでしょ???現代はガンダムやエヴァンゲリオンになるのでしょうか、私が小学校高学年の頃はタミヤの1/35シリーズでした。ちょうどドラマ『コンバット!』の何回目かの再放送が行われていた頃、そうそう『ラットパトロール』なんてのもありましたな。普通はサンダース軍曹(Vic Morrow)に憧れるものなのですが、その頃から捻くれていた私は女ったらしのケリー上等兵(Pierre Jalbert)がお気に入り、吹き替えの故山田康雄がピッタリ嵌っておりました。黒のベレー帽姿がかっこよかったなあ。

 そんなわけで戦争モノのジオラマに凝るようになるのですが、作るのはもっぱら旧ドイツ軍のものばかりなわけ。やはり兵器や軍服のかっこよさが図抜けておりますからね。中でも好きだったのがⅣ号戦車H型(シェルツェン付きのね)と水陸両用のシュビムワーゲン。激しい戦闘の後、瓦礫の中に佇むこの二台的な情景を作っては、ウオッ、スゲー!!なんてやっていたわけです。出来はお察し、マニアの方からすれば鼻で笑われそうな酷いものだったかと・・・よく覚えていないけど・・・。

 そんな感じかどうかは分かりませんが、ジオラマに嵌った子供の気持のまま大人になってしまったような方の作品を青梅で鑑賞することができます。それが造形作家の山本高樹氏、ご存知の方も多いと思いますが、昭和レトロをテーマにしたすんばらしいジオラマを作り続けているお方。最近ではNHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』のオープニングに使われていたといえば、いちばん分かりやすいでしょうか。昭和レトロがテーマですので、看板建築が並ぶ商店街、チンチン電車が走る銀座的な作品もありますが、此処青梅では遊里がらみの作品を鑑賞できるというのがミソ。とりあえずその空気感を味わっていただけければと思います。まあ、実物を見るのがいちばんですけどね。

 大変申し訳ない!!上記のようなことを書いてから気付いたのですが、以下のジオラマは現在青梅では見ることができないようです。作品を展示していた昭和幻燈館が展示物を一新されてしまった模様、山本高樹氏の作品は『昭和幻風景ジオラマ展』という形で全国巡回中とのことでした。スケジュールが分かる氏のブログ貼っておきます。この時は館内が想像以上に真っ暗、持ってきたレンズが所謂おでかけズームレンズで四苦八苦、うまく写せなかった作品もありました。やはり不慣れなマニュアルはあきまへんなあ。そこで3回目は滅多に出番がない明るいマクロレンズを持ってきたのに、なんと臨時休館、この時点で何かおかしいなと思っていたのです。何が言いたいかというと、以下の画像、いつにも増して出来が悪いですよと予防線を張っているわけ(笑)



昭和幻燈館は旧青梅街道沿い、住吉神社の鳥居脇にあります。



200円を払って入館すると、いきなりアラーキーがお出迎え。情事なる写真集からですな。モデルは白都真理、最近女優に復帰されたそうです。和服フェチは必須の一冊、もちろん私も持っておりますよ。



こ、これは、たまらんち会長・・・ダジャレも昭和ということでお許しくだされ。



此処からが本番、『隠れ里の温泉』・・・山奥にひっそりと佇む茅葺二階建ての温泉宿、傍らの吊橋には浴衣姿の女性。彼女が見つめる先には・・・



ほろ酔い加減のお父さん。二人の関係は?間違いなく親子ではないでしょうね・・・そうなると、何かの逃避行?此処から先の妄想はご自由に。



『青梅猫町通り』・・・この大門に見覚えはありませんか?そう、モチーフはキネマ通りのアレです。左の現存するパーマ屋さんはカフェーまたたびさんに、今は亡き右は何だったのか覚えておりませんが、ねずみ屋さんなる飲み屋という設定。猫町ということで、登場人物は全てニャンコ化しております。またたびさんの妖しげな紅い灯りの演出がお見事。



中央のニャンコはすぐに分かりますよね。そう、永井荷風先生であります。昭和の象徴ということなのか、ほとんどの作品に先生が登場しているわけ。ねずみ屋さんのお品書き、スズメにトカゲって、ニャンコが捕ったよって飼い主に得意げに持ってくる獲物ですよね。背後の爪研は人間界でいうところの耳かき専門店ではないかと(笑)



またたびさんの二階ではお姉さんが左手で招いております。まあ、客が来ないことには商売になりませんからね。



『妖しの見世物小屋』・・・左手奥に主題の見世物小屋があるのですが、見事に撮影失敗。それでもワクワクするような夏祭りの雰囲気がよく分かるのではないかと。涼しげな浴衣姿の美少女がいいね。りんご飴が食べたくなりました。



コチラは題名不明、河畔に積み重なるようにして続く船宿が凄い、まるで逆柱いみりの世界ですなあ。係留された紅い灯りが洩れる船の居酒屋、そして物憂げな様子で手摺にもたれかかる女性。おちょろ舟がモチーフというのは考えすぎでしょうか。



この場所は古い町並みなどが好きな方ならすぐに分かるのではないでしょうか。まあ、当たっても何も出ませんけど。



正解は本郷菊坂町の此処でしょう、間違っていましたらご免なさい。



そうなると、洗い髪を掻き上げる浴衣姿の女性は樋口一葉ということになるのかと。敷石の質感が素晴らしいのはいいのですが、一枚一枚が大きすぎるような・・・どうもそういうディテールが気になって仕方がないわけ(笑)永井荷風と樋口一葉って接点あったのでしょうか。



『荷風と額縁ショウ』・・・踊り子さんが音楽に合わせて脱いでいく現在のストリップになる前はコレでした。コチラはヴィーナスの誕生ですが、額縁の中で有名絵画の真似をした女性が無言でポーズを取るだけ。要するにお上に対して、これは芸術なんだから、文句ある?ということだったらしいです。客席はどんな感じだったのでしょう、客も終始無言だったらちょっと恐いかも(笑)先生、見る方向が違うでしょ。



さあ、いよいよ、いちばんの大作ですよ。『墨東の色街』・・・冒頭画像がコチラ。ご存知『濹東綺譚』の一場面という設定だと思います。戦前の私娼窟玉の井、曲がりくねるドブから分岐する迷路のような路地、それ沿いにビッシリと軒を連ねるお店。ハートを模した窓も散見されます。



そして燦然と輝く『ぬけられます』の看板、すんばらしいじゃありませんか。下の二人は「遊んでいかない?」なのか「また来てネ」なのか、判断が難しい(笑)



橋の真ん中に悄然と佇む荷風先生、いや、この場合は大江匡か。お雪の面影でも探しているのでしょうか。



いろいろと妄想が膨らむ光景ですが、戦前の玉の井では女性は表に出て客引きはしなかったそうですので、戦後の赤線時代とごっちゃになっているのかも。『ぬけられます』の看板や女性のワンピースも戦後のものですよね。でも、人物が出てこないと作品にならないものね。細かい処はいいんだよ、といわけでこの濃密な空気感をお楽しみ下さい。



サービスカット、コチラもいろいろと妄想が膨らむ・・・いや、このあたりで止めておきましょう。



いちばん好きな作品というのがコチラ。カフェー黒猫さん、モルタル掻き落とし風の質感がお見事、コレどうやって作っているんだろう。それに対して、一階円柱の市松模様モザイクタイルの出来はあれですが(笑)強いて言えば、ポーチや店内にも華美なモザイクタイル炸裂して欲しかった。



向かいには荷風稲荷大明神、これはご利益ありそう(笑)奥の半纏姿の今にも揉み手しそうな男性は客引きでしょうか。先生と女給さんの会話が気になりますなあ。そんなことより、チャイナドレスの腰辺りのまろやかな曲線が・・・たまらんち会長。

以上のすんばらしい作品を鑑賞して、過ぎ去った子供の頃の思い出が蘇り、創作意欲がメラメラと再燃。架空の色街みたいなものを作れたらなあと思ったのですが、フィギュアを作る才能が皆無なことに気付き一気に萎えましたわ。まあ、お近くに個展が巡回してきたら是非とも足をお運びくださいな。たちまち昭和にトリップできるはずですから。

埼玉県 加須市201411

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うどんの町でお店巡り・古い医院建築がいっぱい・お不動様近くの謎料亭

袂に建つとうふ屋さんがこれまたいい感じ。


 埼玉県の北東部に位置する加須市、なんでも『かす』なんて酷い読み間違いをする輩がいるようですが、『かぞ』ですので宜しくお願い致しますぞ。嘗ては青縞織を特産とする機業地だったそうですが、それが衰退した現在は何処にでもありそうな地味な町というのが第一印象。埼玉出身の私が言うのも何のですが、こういう感じの町は県内に結構あるわけでして、ベッドタウンとして機能はしていても、嘗て栄えた駅前などの中心街は閑古鳥が鳴いているような状態、所謂地方都市のドーナツ化現象という奴ですな。社会的には大問題なのですが、それに惹かれる者としては訪れる度複雑な心境になるんですよね。

 以上のようなことに危機感を覚えたのか、現在町が積極的にアピールしているのが『うどんの町』ということ。この一帯は町の北を流れる利根川の氾濫などで土地が肥沃でして、昔から米より小麦の栽培が盛んだったそうです。品質のよい地粉が手に入ったということですな。まあ、昨今は結構知られるようになりましたが、埼玉県には加須がある北東部から川越・狭山が位置する南西部にかけて、町毎にと言っていいほど独自のうどん文化が花開いているわけ。四国にあまりにも有名な県がありますが、それに負けないくらいのうどん県だと個人的には思っております。実際の処、昔の埼玉の女性は皆さん普通にうどんが打てたみたいですぞ。おふくろもそうですが、嫁入りの作法の一つといった感じだったみたい。私も子供の頃は踏んで延ばす工程などをよく手伝わされたものです。今はもう打ちませんが、実家には未だに延し棒が残っています。今や泥棒撃退専用みたいですが(笑)

 遊里関係はサッパリ・・・機業だけでなく、毎月五と十が付く日には市が開かれていたそうですので、存在していたとしてもおかしくないと思うのですがね。しかし、全くあきまへんので、今回はうどん屋巡りに変更。そうは言っても腹のキャパってものがありますので、ブラブラしながら腹を減らす作戦でいきたいと思います。また、町の西の外れには関東の三大不動の一つとされるお寺がありますので、そこまで足を伸ばすつもり。遊里ウンヌンは置いといて、気楽なお散歩探索として見ていただけたら幸いです。



JR宇都宮線の久喜駅で東武伊勢崎線に乗り換えて10分ほどで加須駅に到着。駅前にひろがるのは、いかにも典型的な埼玉の地方都市の町並み、いい意味で眠そう。駅のすぐ東側の線路沿いにあるのが庚良居アトリエ、アーティストの製作工房、元々は米蔵だったそうです。



中田病院の隣におそらく織物関係の工場だったと思われる物件があります。何故か現在は保険の代理店になっているわけ。



外壁の廃れ具合が見事、何だか変電所みたいですね。これ以上接近できませんので、正体は不明のまま。



中田病院脇の通りに入るといきなり市場が現れてビックリ。



その先には古びた板塀に囲まれた料亭吉田家さん。力士は県民にはお馴染の銘柄、加須市に編入された旧騎西町に酒蔵があります。りっきし~♪ってCMまだやっているんでしょうか。



ネットでも全くと言っていいほどヒットしませんのでおそらく退役済みかと。機業が盛んな頃は芸者さんも出入りしていたのでしょう。



近くの平和衣料さんの凄い蔵、こんなのがあるだなんてちょっと驚き。嘗ては青縞織関係のものだったのかな。ちなみに青縞は藍染をした木綿糸で織り上げた無地の平織物のこと、以前は法被や腹掛けなどに使われたそうですが、現在は剣道着が主な用途だとか。



サビサビトタン塀を抜けたらお待ちかねの一軒目、創業70年という手打ちうどん赤城屋さんです。10名も入ればいっぱいと思われる小さなお店、モルタルタタキの飾り気皆無な店内が堪らなくステキ。一応加須のうどんは盛うどんという定義があるようですが、当日はちょっと肌寒かったのでけんちんうどんを所望。里芋がゴロゴロ入った甘くて濃いお汁、讃岐うどん系とは全く違うコシ、何だろうこの懐かしさ、おいしゅうございました。



腹七分目といった感じ、まだまだいけそうですが消化を助けるため探索続行・・・日本特絹工業さんの事務所棟でしょうか。詳細不明ですが、創業が昭和16年(1941)とのことですので、その当時のものと思われます。



裏手にはノコギリ屋根の工場棟もありましたよ。



塀に囲まれたお宅、敷地に高低差があるため、母屋、蔵の順で屋根が積み重なっているように見えるのがおもしろい。



坂を登ると町を東西に貫く県道152号線に出ます。嘗ての目抜き通りと思われますが、江戸の頃は前書きのお不動さん詣での旅人が行き交った道でもあったのでしょう。そのため加須の町は宿場的な役割も果たしていたようです。この通りをひたすら西へと辿ります。まず現れるのが緑青を通り越して黒ずんだ銅板に包まれた新井商店さん。昭和12年(1937)に建てられたそうです。



その先の脇道に入ると下見板に上げ下げ窓が並ぶ端正な洋館が現れます。大正期に建てられたという松本医院さん、外壁を塗り替えたばかりみたい。ご覧のとおり、バリバリの現役というのが素晴らしいですなあ。この加須市、こういった医院建築がそこかしこで見られる町なのです。おや?お隣はうどん屋ではありませんか・・・しかし、まだ胃袋に空きができておりません、もう少し歩かせて。



県道に戻って更に西へ・・・こういった昭和初期頃竣工と思われる比較的シンプルな看板建築商店がチラホラ、典型的な埼玉の地方都市の町並みです。



コチラもそんな一軒、ファサードは左官による石貼り風なのに、側面は型押しトタンによって同じ石貼りが表現されているわけ。



こんな立派な土蔵も残っていましたよ。前に立てられた案内板には、なぜか山車と蘭陵王面なるお面?の説明。この土蔵に保管されているということなのでしょうか。



これまた脇道で見つけました。コチラも何となく元お医者さんっぽいですよね。画像では全く分かりませんが、キャノピーを支える円柱は非常に小さなベージュのモザイクタイルで覆われており、そこに鮮やかな紫と緑のタイルがアクセントとして散りばめられているわけ。まるでラメみたいでとても綺麗なのです。



再び県道に戻ると、最近拡幅されたばかりのように見える県道38号線と交わります。それ沿いに雨戸が閉め切られた空き家、二階の欄間にはこんな模様があるわけ。近くには若葉さん、さかもとさんなる二軒の料亭、ビジュアル的にあれでしたので画像はありませんが。背後には蓋をされ公園と化した会の川が流れているわけ。ちょっと気になる一画でした。



空き家の向かいには、理想的な色合いの緑青に包まれた萩原時計店さん。昭和3年(1928)に建てられたそうです。立派なゴールドの箱文字の天辺には薄紫の球形照明が下がっています。コチラ、通りの拡幅に伴い曳家で動かしたんじゃないでしょうか。



またまた県道に戻りました。重要文化財はもちろん登録文化財の建造物さえもない町並み、見事なまでに眠そう。結構交通量が激しいのですが、うまい具合に車が途絶えるとまるでパニック映画の一場面みたい。この先の丁字路を右折しますと・・・



冒頭画像の会の川を跨ぐレトロな欄干の橋が現れます。徒歩橋(かちばし)と言いまして、その名の由来は江戸の頃まで遡ります。橋を渡ってちょっと行った先には龍蔵寺なるお寺がありまして、当時は橋の手前が参道の始まりだったそうです。参道ですので馬に乗ったままの通行は禁じられており、お侍もこの橋の手前で馬から降りたそうです。徒歩でしか渡れない橋というわけです。



もちろん私も徒歩で渡りましたよ。目的のお不動さんは道なりに左なのですが、私は嘗ての参道を辿ります。しかし、龍蔵寺には寄らず、そのまま国道125号線に出ると二軒目の子亀さんに到着です。お昼をかなり過ぎた時刻でしたがお客でいっぱい、加須のうどん屋でいちばんの人気店らしいです。この店発祥という冷汁うどんを所望、ごま汁うどんいえば分かりやすいかな。県内には『すったて』と呼ぶよく似たうどんがありますが、違いがよく分からん。ツヤツヤでモチモチのうどんと、青じその風味が効いたごま汁との組み合わせがいいね。さすが人気店というお味、おいしゅうございました。しかし、うどんは腹持ちいいからね、限りなく十に近い腹九分目状態。もう一軒いけるかな・・・歩きながら考えましょう。



徒歩橋に戻って通りを更に西へ、イトーヨーカドーを過ぎると不動岡。おそらくこれから向かうお不動さんの門前町として栄えた処だと思います。



そんな道すがら出会ったのがコチラ。無理矢理増築したような二階部分で島田以降が判読できませんが、たぶんコチラもお医者さんだったのでは。



近くにもお医者さん、赤い洗い出し風の門柱がオシャレなのは、本多歯科医院さん。陶器製の表札が旧仮名、間違いなく元だと思います。



その先に加須が誇る埼玉銘菓のお店が二軒並んでいます。手前の看板建築風のが文久2年(1862)創業の武蔵屋本店さん、向こうが歴史不明の清見屋さん。此処で製造販売しているのが五家宝、もう説明しなくてもご存知ですよね。お店の向かいが目的のお不動さんですので、始まりは参拝客目当てということなのかな。茶店みたいな感じだったのかもしれません。でも、五家宝って熊谷が元祖じゃないの?と思い、武蔵屋本店さんの綺麗な女将さんに尋ねてみると、きっぱりとうちが元祖ですと言い切られてしまった・・・。パック入りのいちばん小さな奴を購入、噎せるほどきなこがいっぱい、出来立てですので柔らかくて美味しいのですが、凄まじく甘~い。渋い番茶や粉茶にピッタリかも、でも一日一本で十分だなこりゃ。この五家宝とご存知草加煎餅、そして川越の芋菓子が埼玉三大銘菓と呼ばれているそうです。えーと、十万石饅頭は???



埼玉三大銘菓のお次は関東三大不動という我ながら素晴らしい流れ(笑)向かいのお不動さんというのが不動ヶ岡不動尊、正式名称は總願寺(そうがんじ)といいます。元和2年(1616)に、高野山の總願上人によって開山されたと伝えられております。祀られた不動明王を拝むため、今も数多くの参拝客が訪れます。この日は閑散としておりましたが・・・。此処の向かいにあるのが三軒目の岡村屋さん。創業200年だそうで、そもそも加須のうどんはお不動さんの参拝客にうどんを振舞ったのが始まりとされているそうです。おそらく最も歴史があるお店だと思うのですが、お昼の営業時間を過ぎてしまったのか入れませんでした。まあ、実を言うとちょっとホッとしたというのが本音、オッサンに無理させないで(笑)



不動堂と大日堂はこんな渡り廊下で繋がっています。そこにズラリと並べられた年男と記された木札?ナニコレ。



お不動さんの並び、数軒のお宅の先で奇妙な門を見つけました。看板には料亭亀屋、奥にちらと写っている暖簾にはうなぎの文字、今も現役というわけ???コチラ、ネットで一応ヒットはするのですが、場所などの情報以外は正体不明という謎のお店なのです。



奇妙な門の奥、庭木で巧妙に隠してありますが、その向こうにあるのが母屋みたい。



実は裏手が公園になっておりまして、後ろ姿が丸見えだったというわけ。立派なお店だというのは確認できましたが、分かったのはそれだけ・・・。しかし、これには続きがありまして、たまたま国会図書館の近代デジタルライブラリーで見つけたのが、明治44年(1911)に出版された『東武線案内』なる書籍。名前のとおり東武鉄道各駅の紹介と、その駅がある町の紹介と観光ガイド的なものと思っていただければ分かりやすいかと。加須駅の最後に町にある主な会社やお店が記されているわけ。昔の観光ガイドってこういうの多いですよね、広告料を貰って宣伝頁を設けているのでしょう。そこにしっかりと亀屋さんがあるではありませんか。そして併記されていたのが『各講中御定宿』の文字、やはりお不動さんの参拝客御用達のお店だったようです。参拝の後は精進落しというわけで、嘗ては芸者さんも出入りしていたのではないかと、力技で遊里関係に持っていったのですが如何でしょう。ちなみに五家宝の武蔵屋さんも載っていましたよ、当時は五家『棒』だったようですが。



さて、駅の西側の一画に戻って参りました。いかにも埼玉的な車と自虐的に言っちゃいますが、それが停められた駐車場に面してなぜか門柱があるわけ。背後の嘗ては庭木だったと思われる森の中には、洋館付住宅と思われる廃屋が埋もれておりました。さすがに中には入れませんので門柱だけで勘弁して。



その先には簡素な長屋門とでも言っておきましょうか。地図には薬師尊とあるのですが、それ以外の情報が皆無という謎のお堂なのです。こう見えても門の両側では仁王像が睨みを効かせているのでした。



今も現役のボウリング場、アイビーボウル加須の裏手に三角屋根の山小屋風のお宅があります。しかし、よく見ると一階には和風の格子、外壁もハーフティンバーというよりは真壁と言ったほうが正しいかも、不思議な和洋折衷なのです。



旧篠原医院さん・・・またまた医院建築だ。この建物、敷地に対して45度振った配置で建てられているわけ。ですので物凄く目立ちます。



その先に見えたのが油田型の煙突、地図にはときわ湯とあります。



なんとこんな貼り紙が・・・どうやら五ヶ月ほど前に廃業されたようです。私、間違えて奥に見える裏口から入ってきちゃったみたい。



玄関廻り・・・腰にはこげ茶の座布団型タイル、引き分けの框戸には珍しい玉石柄の型板ガラス。その下からチラと顔を覗かせるのは市松模様・・・なんとも郷愁を誘う光景でした。



近く大和湯さんはとっくの昔に退役されたご様子。市内にスーパー銭湯はあるようですが、こういったお風呂屋さんはときわ湯さんが最後だったみたい。



最後に訪れたのが旧内田医院さん。コチラは路地に面した妻側の様子、一階は下見板張りに上げ下げ窓、二階はハーフティンバーにドイツ壁風の左官仕上、窓は塞がれておりました。



ファサードはこんな感じ、破風先端の丸みと、二つ並んだ持ち送り風の装飾が妙に気に入っております。大正10年(1921)に建てられたそうです。



うどんはあれですが、甘いものは別腹ということで、駅前のレトロな喫茶店千珈多さんで〆。アップルパイをオーダーしたら、想像したのと全く違うものが出てきた・・・美味しかったからいいけど

偉そうにうどん屋巡りと銘打っておきながら、結局行けたのは二軒だけ。今日のところはこれぐらいにしといたろ(笑)相変わらずしまらないオチばかり、以上で加須の探索はオシマイ。

神奈川県 大和市相模大塚201210

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マッカーサーが降り立った町・これも一種の盲腸線!?・鳴ることはない警報機

錆びたレールを野花がゆっくりと覆い隠そうとしておりました。


 神奈川県のほぼ中央、南北に妙に細長い町があります。それが大和市、町の真ん中を東西に横断しているのが相模鉄道本線。相模大塚駅の南に500haというとんでもない敷地を有しているのがご存知厚木基地。正式には海上自衛隊厚木航空基地というそうですが、アメリカ海軍の第七艦隊も共同で使用しております。位置しているのは大和市と綾瀬市なのですが、どうして厚木なのでしょうね。元々は大日本帝国海軍が帝都防衛のため昭和17年(1942)に設置したもので、所属していたのが通称厚木航空隊と呼ばれた第三〇二海軍航空隊。此処を飛び立った零戦や雷電、そして月光(大好きな機体)などがB29の大群を迎え撃ったわけです。終戦直後、占領政策のため飛来したダグラス・マッカーサーが降り立った地としても知られております。

 一応軍都ということになるのかなと思いながら戦後すぐの航空写真を見ましたら唖然、基地と駅の周辺に町らしきものが存在していないわけ。相模大塚駅など田んぼのど真ん中といった感じで、基地周辺にはまるでニキビのような突起物がポツポツと点在しているのが確認できます。おそらく掩体壕だと思いますが、もう残っていないだろうなあ。駅前に何となく建物が並び始めるのが五十年代になってから、最初は軍人さん向けの色街みたいのがあったりしなかったのかしらと考えていたのですが、どうやら無駄な詮索だったみたい。よくよく考えてみれば、この基地は戦時中に出来たもの、しかもすぐに空襲が激化するわけですから、それどころじゃありませんよね。まあ、それでもいいのです、目的は別にありますので。



駅の南口にちょっとした呑ん兵衛横丁的な一画がひろがっています。お店とお店の間には階段があり、どうやら二階はアパートになっているみたい。



新しい女性は見つかったのでしょうか。



鉄平石による本物と偽物のコラボレーションというわけ。偽物の出来、結構微妙だぞ(笑)



そろそろ明りが灯るお店があってもいい時刻なのですが・・・。現代の若い隊員はこういう処では飲まないのでしょうね。一つ横浜方面に戻った大和駅周辺にはそれなりの歓楽街があり、大人のサロンがズラリと並んだ一画なんてものもあるわけ。皆こっちに流れてしまうのかもしれません。



駅の北側に美乃垣さんなる一軒の旅館があります。しかし、どうも様子が変、大工や作業員が入って何やらやっているわけ。改修でもするのでしょうか。



こんな洒落た窓もある建物なのですが、どうなってしまうのでしょう。



おさらいのストリートビューで確認しますと、洒落た窓は無事でしたが、ちょっと凄いことになっておりました。巨大なコンテナ?がズラリ、いったい何が起きたのでしょう。



駅の西側、厚木街道の踏切の光景。左が相模鉄道本線、右に草ボウボウの錆びたレールが分岐しています。コチラが今回の目的、旧相模野海軍航空隊線といいまして、主に厚木飛行場への燃料輸送のために敷設された軍用線であります。当時、周辺にはこういった軍用線が結構あったようですが、残っているのはコレだけ。平成10年(1998)までは現役でしたが、現在はこんな有様。一応表向きは休止ということらしいのですが、まあ廃線と言ってしまっても差し支えないものかと。コレを辿って厚木基地を目指します。



歩き出してすぐに振り返ると、分岐の踏切を相模鉄道の列車が通過していきました。架線もしっかりと残っていますので、ちょっと不思議な感覚を覚えてしまいます。



踏切も綺麗に残っているわけ。普通こういったのって立入禁止の柵などで塞がれたりするものなのですがね・・・。



その先で県道40号線と斜めに交差します。



常時車のタイヤで磨かれているためかレールがピカピカ。でも、此処を列車が通ることはおそらくないのです。



踏切を過ぎるとサビサビレールが復活。脇には黄色い小さな飲み屋さん、これはいい感じ。



お宅の裏口へと続く私設の踏切といった感じでしょうか。



その先にはピンクの金平糖みたいなお花のカーペット。イヌタデと思ったのですが、調べてみましたらヒメツルソバという花でした。



東名高速を跨いでサビサビレールは続いていきます。急がないと日が暮れそう。



この警報機も鳴ることはないのでしょう。CAUTIONは米兵向けかな。



その先のフェンスでレールは唐突に終わっておりました。これも一種の盲腸線として認定しても宜しいのではないかと思っております。終着駅はありませんけどね。



フェンス沿いには監視カメラがズラリ、また鉄ちゃんが来たぞなんて感じで見られていたのでしょうね。

サビサビレールを辿りながら頭に流れていたのはStand by meだったというのは此処だけの話。ちょっとアッサリ風味でしたが、戦争の遺構が残る相模大塚の探索は以上でオシマイ。

栃木県 足利市(再々訪編)201411 その1

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質草がバブルで止まったまま・謎ばかりの色街跡?の現在・駐車場の片隅にあるもの

黒ずんだ板塀の先に崩れかけた瓦屋根が見えてきた・・・。


 再々訪編としましたが、足利は結構ちょくちょく訪れているのです。まあ、ついでといった感じですが・・・。東京からJR両毛線沿いの町を訪れる際、大抵はJR宇都宮線の久喜駅で東武伊勢崎線に乗り換え足利市駅で下車、徒歩で渡良瀬川を渡って対岸の足利駅に出るというのがいちばん早いわけ。乗り換えの合間を利用して駅周辺をちょこっとブラブラすることはありましたが、ちゃんとしたブラブラとなると四年ぶりになるでしょうか。たまたま気付いたのが、町の西側ってどうなっているんだろうということ。試しに地図を眺めてみるとこれが結構面白そう、ちょっと行ってみるか・・・そんな感じで始まる再々訪編。気になる町の西側の一画を訪れた後、ジワジワと区画整理という魔の手が伸びる謎の色街跡とされる界隈の現在も確認してきました。

註)初回と前回はコチラコチラ、先にご覧になったほうが分かりやすいかと。



前書きのとおり、東武伊勢崎線の足利市駅で下車。いつもは緑のアーチが三つ続く中橋を渡るのですが、今回は眺めるだけ。土手沿いに上流を目指します。



すぐに見えてくるのが渡良瀬橋、ピンとくるのは今やオッサン世代となってしまいました。



対岸の橋の袂までは行ったことがあるのですが、フルで渡るのは今回が初めて。夕日じゃなくてすまぬ。



渡良瀬橋を渡り切るとすぐに見えてくるのがホクシンケン食堂さん、これが素晴らしい佇まいなわけ。後で知ったのですが、なんでも足利最古の食堂なんだとか。ショウガ焼肉が妙に気になる、次回は是非とも寄りたいものです。



その先で両毛線を渡ります。足利駅へは右ですが、今回は左へ。



由来は不明ですが、地元でトンネル通りと呼ばれている通りの高架を潜った先にあるのが、不思議な洋館の谷医院さん。昭和3年(1928)に建てられたそうです。



コチラは初回の時に訪れております。アーチ風の装飾に囲まれた窓が並ぶ外壁、紅葉したアイビーが綺麗。庭木も独特、シュロにソテツにバナナ?なぜか南国風、しかしシックリ馴染んでいるのが面白い。



コッチ側から見るのは初めてだ。裏側にも窓がありました。



谷医院さんの隣、広々とした駐車場の向こうに、積み重なる屋根が美しい数奇屋造りがあります。



料亭の相州楼さん、明治期から120年続く老舗だそうです。手前のRC造は旅館部分かな。



今回の探索の切欠となったのがコチラになります。HPを見ましたら、昔の写真とともに芸妓さんのことが記されてありました。やはりいらっしゃいました、足利の花街の様子については次回にでも。



大好物の擬木を発見、板を模しているわけです。コレ、相州楼さんの塀の一部なのですが、なぜか此処だけが擬木になっているわけ。向かいには一面アイビーに覆われた橙の三角屋根が可愛らしい洋館があります。



横から見ると洋館付住宅だということが分かります。



その先にはリブ状の装飾が残る袖蔵付の看板建築。ブロック塀にはいけばな・茶道教室の表示。煎茶に流派があるなんて知りませんでした。



此処にきて天候が急変、降らないといいけど・・・。



適当にブラブラしながら両毛線側に入ると、冒頭画像の崩れかけの瓦屋根が見えてきます。



何だろうと思いながら回り込むと正体判明、なんと古びた長屋だったというわけ。



てっきり廃屋かと思ったら一部は現役でしたか、これは失礼致しました。奥のキノコみたいな木と一緒に。



昭和な光景がいっぱい見られる足利ですが、その最たるものだとちょっと感動。



線路際に建つ一軒家、脇の路地を抜けますと・・・



いきなり舗装が物凄い色に・・・原因は両側の鉄工所。なんだか踏むのが恐いのですが(笑)



舗装に加え建物も塀も、おまけに紅葉した木も、似たような色彩で統一されているわけ。ハンガーはよく分からない・・・。



緑町を貫く県道40号線に出るとこんな洋館が・・・とんかつの大吉さんとのことなのですが、お店は近代建築???元々は繊維業で財を成した大吉氏の別邸だというのですが、素性がよく分からない謎の建物なのです。



駅方面に戻る脇道に入りますと、トタンにデカデカと屋号が描かれたお茶屋さん。



その先、赤いトタンと鉄平石に縁取られたお宅の間に入りますと・・・



兄弟のような石蔵がありましたよ。



路地を抜けると足利の町を東西に貫く県道67号線に出ます。通り沿いに建つオモチャのお城みたいなライオン堂さんにはビックリ。



お店の後ろに巨大な『九・一そば』、つなぎの小麦粉ニに対してそば粉八の『ニ八そば』はよく聞ますが、それでいくとコチラは小麦粉九にそば粉一・・・うどんかよ(笑)もちろんその逆ですのでご安心を、第一立花さんという明治12年(1879)創業、老舗のそば屋でした。



近くにあるのが以前も紹介したバルコニー付の宮殿みたいな旧木村洋服店さん。明治42年(1909)に建てられたとされています。ちょっと心配していた物件なのですが、健在を確認できて一安心。バルコニー上部に菊の御紋らしきものがあるのに初めて気付きました。

前半は此処まで、後半では色街跡とされている界隈を再訪した後、近くで興味深い一画に出会うことになるわけ。

栃木県 足利市(再々訪編)201411 その2

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駐車場の片隅に、忘れ去られたような一画が残っておりました。


 『足利に遊びて、先づ当地の名物たる、機織工業の盛況を視察し、旅館に投ずるもの、若くは料理店に一酌を傾くるものは、普らく粋と不粋とを問はず、当市一流の花たる芸妓を呼びて、酒間の斡旋を為さしめざる可らず、其艶麗なる風姿と、玲瓏珠の如き嬌音に接せば、心情自ら和ぎて酒杯の加るを知らず、快感交々起りて忽ち佳境の人とならん、以て旅情を慰むべきなり・・・』

 以上は明治43年(1910)に発行された『足利案内』による花街の様子になります。難しい文章ですが、大いに盛況を呈していたということだけは分かるのではないでしょうか。この後ろに26軒の料亭の屋号が記されているのですが、なぜかその1で紹介した相州楼さんがないのです。しかし、その三年後の大正2年(1913)に発行された改訂版?には、旅館の項目に載っておりました。料亭26軒、それ以外にも旅館や料理店がたくさんあったようです。甲乙の両見番があり、200名内外の芸妓が活躍されていたそうです。甲乙とはおそらく芸妓の中での格付けみたいなものだと思われます。甲と乙では出入りできるお店の業種が定められていたそうです。例えばになりますが、甲は旅館と料理店までですが、乙になると披露宴や宴会、貸座敷でも営業できたといった感じ。まあ、これは自治体によって違っていると思いますが。

 肝心なのは遊廓、『足利案内』には遊廓という項目もあるのですが、そこに記されていた地名は『福居』、これにはちょっと拍子抜け。福居は東武伊勢崎線足利市駅の二つ手前に駅があります。足利の中心街から直線距離で3キロ以上も離れているわけ。お馴染『全国遊廓案内』にも記されている処なのですが、面影皆無で町並みもいまいちと聞き及び未だに訪れておりません。此処が足利の遊廓という位置づけだったのでしょうか。中心街周辺にそういった場所が存在しなかったのか・・・そうなると、これから向かう色街跡とされている界隈はいったい何だったのかということになってくるわけです。よくよく考えみると細い路地がクネクネって間違いなく遊廓じゃないですよね。個人的には戦後に形成された限りなく青っぽい場所というのを推したいと思います。そもそも本当に存在したのか、謎ばかりが深まる一画なのです。

註)初回と前回はコチラコチラ、先にご覧になったほうが分かりやすいかと。



巴町に到着、東京から銭湯専門の大工呼んで建てたという花乃湯さんは健在。相変わらずの堂々とした佇まいが素晴らしいですなあ。此処には一度浸かってみたいと思っているのですが、うまくタイミングが合いません。先日、和歌山県を旅してきたのですが、小さな港町の超絶激シブ銭湯に探索の後浸かろうと思っていたら、地元の方から二ヶ月前に廃業したと聞き絶句・・・別の町では、現役色街近くのネオン看板が瞬いているはずの銭湯が真っ暗、此処も廃業かと思ったら定休日で呆然、普通木曜が定休日だなんて思わないでしょ・・・こんなのばっか。



花乃湯さん脇の通りに入ると大谷石の蔵を従えた長竹質店さん。前にも言いましたが、銭湯に質屋、遊里に付き物物件が二つもあるわけです。



反射が酷くて申し訳ない、ショーウィンドウに並んでいるのは質草でしょうか。フィルム時代のEOSに、今ではあまり見かけないタイプのヴィトンとグッチ、完全にバブルの頃で時が止まっているわけ。過去の逸品の中で一際輝きを放つのがトランペット・・・。



こんな路地を抜けて並行する通りに抜けましょう。



勝手に元料亭か元旅館ではないかと思っていた物件なのですが・・・



よく見ると南側のコチラと同敷地だったわけ。平屋建ての洋館風に見えますが・・・



コチラも以前紹介した既に退役済みと思われるお医者さん。二階があるように見えますが、ペラペラの壁に窓があるだけというオモロイ造りなのです。将来増築するつもりだったのかしら。



脇道に戻ってこんな除虫菊?が咲き乱れる路地を行きますと、目的の雪輪町です。



お茶漬の萩さんがある四つ角に出ました。盛り場モデル地区の看板、若干色褪せたでしょうか。



萩さんに続く廃墟と化したお店、ゴミ溜めのようになっていたのですが、綺麗に片付けられておりました。変なイラスト、こんなのあったっけ?



逆に荒廃が進んでいたのが、珍しい竹垣を象ったトタンと妖しげな出格子があるコチラ。向かいは二連ノコギリ屋根の織物工場があったのですが、なんと基礎工事の真っ最中。こんな奥まった処に何が建つのでしょう。



萩さん処に戻ってはす向かいの更地を確認、此処は何も変わらず。嘗て此処には妖しげなしもた屋風の平屋建てがありました。ちゃんと撮影する前に無くなっちゃった。取り囲むバリケードにはまちづくり事業用地とあります。無くなった理由とは、この周辺一帯(雪輪町・巴町・家富町)で行われている土地区画整理事業によるものと思われます。住民の反対もありあまり進んではいないようですが、区画整理って気付くと一気に進んだりしますから油断は禁物、どんな力が働いたのかは分かりませんが・・・。かなり先だという雰囲気ではありますが、いずれこの妖しげな一画は消えてしまうかもしれません。興味のある方はお早めにどうぞ。



路地を抜けると双子のような看板建築が・・・というのは前回までの感想、これまた事実は違っていたというわけ。



双子の間に純和風の玄関があるのが分かるでしょうか。



なんと双子は裏手のお宅と繋がっていたのです。相変わらず何処を見ているんでしょうね、お恥ずかしいかぎりです。



花乃湯さんが面している通りに戻りました。ブリーズソレイユみたいな木製リブがカッコイイ博仁堂薬局さん。角の辺りに案内板が見えますが、それによりますと、足利藩藩主の戸田家の陣屋が雪輪町にあったとのこと・・・そんな場所が色街に!?ますます分からなくなってきた。



博仁堂薬局さん脇の入口がいい感じ。框ドアには真鍮製の斜めハンドル、中央を絞ったカーテン、古い床屋さんやパーマ屋さんで時折見掛けますが、コレって名前あるんでしょうか。



向かいの小さなお宅、シンプルモダンな玄関廻りの造りがお気に入り。



次に向かったのが巴町と雪輪町の北側。此処も地図を眺めていて気付いた場所、妙に気になるゴチャゴチャとした一画があるわけです。



市役所の裏手にバリケードに囲まれた足利赤十字病院、どうしちゃったのと思ったら移転していたのですね。その向かいの一段下がった処に数軒の古びたお宅、なんとも表現しようのない近寄りがたい雰囲気に足がこれ以上進みません。



少し戻ってトンネル通りを渡るとなまはげなる看板、その手前も何かのお店だったようなのですが・・・



ぶち抜いてガレージにしちゃったみたい。昭和な照明がそのまんま、ボトル棚?がうまい処にありましたな(笑)



その先に押縁下見板の奥行きがある物件があります。向かいは砂利敷きの駐車場みたいなのですが、奥に何かの看板が見えたわけ。



なんだろうと近寄ってみますと、それが冒頭画像のしおりさん。おや、もっと奥に回り込めそうですぞ。



なんとコッチにもお店の痕跡が残っているではありませんか。小料理屋っぽい佇まいですな。



その先にもすなっくピエロさんなるお店、よくもまあこんな処でとちょっと感心。



扉の上には栃木県ではお馴染のカフェーの鑑札。



路地を抜けるとこんな光景。どうやらお隣の更地にも似たようなお店があったような雰囲気。それにしてもどんよりとした曇り空が似合う一画ですなあ。



場所は近くとだけ言っておきましょう。これまた細い細い路地の突当りにこんな光景が見えたわけ。



あまりにもストレートすぎてクラクラしてきた・・・当り前のことですが、此処でバッグやシューズを扱っているわけではありませんぞ。



奥を覗き込むとさらにクラクラ。誰だ、ポッチに悪戯したのは(笑)コチラにもカフェーの鑑札があるの分かるでしょうか。



路地は突当りで直角に折れていました。その先にもお店がズラリ、地図で偶然見つけた場所ですが、色街跡とされる裏手にこんな昭和がプンプン匂う一画が残っておりました。

足利市の都市計画図を見ますと、今回の場所は国宝に指定された鑁阿寺の西側一帯になるのですが、東側も区画整理事業区域に指定されていることが判明。かなりの規模の事業ということになるわけです。いつまでこの昭和な光景を見ることができるのか、鑁阿寺と足利学校という観光の目玉があるだけに心配なのです。レポの中でも申しましたが、以上のような状況ですので、興味のある方はお早めにどうぞ。

和歌山県 田辺市201510 その1

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実は反対側にも大門が!?・『ぬけられます』の先には・松を象った換気孔

塀の向こうからも雪洞型の街灯がこんにちは。


 今回からしばらくお付き合いいただくのは紀州和歌山シリーズ。遅い遅い夏休みをようやく取ることができまして、まるでどこかの局のアナウンサーみたいですな。ベースキャンプを和歌山市に定め、主に紀北から紀中の町を相変わらずの体でブラブラ彷徨って参りました。

 歴史ある紀州徳川家のお膝元、世界遺産の高野山に熊野古道、そして山海の美味満載といった感じで観光的には魅力いっぱいの和歌山県ですが、これが遊里関係となりますとてんでいけません。あ、これは魅力がないという意味ではありませんよ、情報が少ないという意味ですのでくれぐれもお間違いのないように。そもそも和歌山県にはお上が定めた遊廓が少なかったみたいなのです。昭和14年(1939)の『和歌山県令規類集』に、明治39年(1906)に定められた『娼妓貸座敷免許地域』という項目がありまして、そこには白崎村・大島村・新宮町といった感じでなぜか三ヶ所しか記されていないわけ。ちなみにお馴染『全国遊廓案内』になりますと、新宮町と大島村の二ヶ所に減ってしまうという謎データ、ナニコレ。

 しかしです、毎度の杜撰な下調べによりますと、上記以外の町にもそういった場所が存在したらしいということが次第に判明してくるわけ。ちゃんと名前も付けられている処もあったりして、和歌山市にはそれの名残とされる色街が今も存続しているとか、いないとか。此処はご存知の方も多いかと思います。まあ、そこでえらい目に遭っちゃうんですけどね。話は戻りますが、そうなると上記の三ヶ所以外は何だったのかということになってくるわけです。まさか私娼街というわけではないでしょうし。とりあえず以下のレポを見ていただければ、間違いなく何かがあったということだけは分かっていただけるのではないかと思います。

 初っ端は県の中南部に位置する田辺市、近畿地方でいちばん広い市なんだとか。歴史的には田辺藩約四万石の城下町ということになるでしょうか。しかしこの田辺藩、幕府からは正式な藩として認められていませんでした。なんといってもこの辺りは暴れん坊将軍を輩出した御大紀伊徳川家が治める地、紀州藩の支藩的な扱いだったようです。江戸側に位置していますので、前衛の砦的な軍事上重要な町だったのではないでしょうか。明治維新後、ようやく正式な藩として認められますが、すぐに廃藩置県で廃止になってしまうというちょっと可哀想な藩でもあります。中心街を熊野街道が貫いていましたので、宿場という役割も果たしていたのでしょう。いまひとつ分からないのですが、熊野街道=熊野古道で宜しいのですよね?そして、熊野古道の熊野大社周辺の、石畳の山道部分のみが世界遺産に認定されているということで宜しいのですよね?街道関係って名称が様々だったり、ルートが結構違っていたりして毎回迷うんですけど、どうしてなんでしょう、此処で聞いてどうするといった感じですが。

 そんな田辺市に存在した・・・といいますか、今も存在しているのが田辺新地。数年前までは現役の芸者さんがいらっしゃったようですので、現在進行形とさせていただきました。一応置屋さんがあるようなのですが、現状がよく分からないのが残念ではあります。芸者さんとありますように、遊廓ではなく純粋な花街とするのが正しい一画になります。大正9年(1920)に、町中に散在していた料亭などを現在地に集めて形成されたとされています。分かったのはそれくらい、元遊廓だったという噂もあるようですが、現地を訪れた印象ではそれは違うような気がします。では遊廓は存在しなかったのか・・・いくら調べても分からないわけ。そんな類の一画があってもおかしくないと思うのですがね。田辺以降の町もそうなのですが、ほぼ頭の中の妄想と現地での印象のみで偉そうに語っておりますので、あれでしたらこの前書きはすっ飛ばしてもいっこうに構いませんので。退役済みなのか現役なのか、よく分からない花街を訪ねた後、田辺が生んだ偉人たちゆかりの地を訪れたいと思います。



和歌山市からJR紀勢本線鈍行で二時間ほど、紀伊田辺駅に到着です。この駅舎は昭和6年(1931)に建てられたそうですが、屋根が葺き替えられており、藤城清治の影絵風イラストが個人的にはちょっと残念。



駅前の南西にひろがっているのが『味小路』なる歓楽街。歓楽街とはいっても、そこまで妖しい雰囲気はありません。地方都市らしからず現役のお店も多そうだったのが意外。



唯一妖しかったのが、マミー美容室さんの看板。



えーと、初めてなんですけど・・・。



このイラスト、どこかで見た記憶があるんですけど思い出せない。モデルは故オスカー・ピーターソン?



味小路を抜けるといい感じに眠そうな町並み。一目で気に入っちゃった。



その先に現れたのがニュー青柳さん、今にも反り返そうな痩せ細った羽目板、『ニュー』のフォントがいいなあ。緑に見えますが実際は黄の色ガラス、あまり見かけないサイズの大判タイルが珍しい。



横から見るとこんなペラペラなのです。



田辺飲食業組合員章・・・扉の上にはこんなのが残っておりました。



この蛇腹になっていて上げ下げできる可動式のテント庇大好物なのです。特にフリルのところなんかがね。



近くの路地裏には正体不明の立派な邸宅、角を曲がるとこういうのがいきなり現れるものだから油断できません。



現在は商店街と化している旧熊野街道に出ました。丁字路に地元では道分け石と呼ばれている道標が立っています。大阪方面から来ますと、街道は此処で山側に入り熊野本宮大社を目指す中返路と海沿いを行き新宮を目指す大返路とに分岐しているわけ。交通の要衝だったということですな。



すぐに旧街道から離れ脇道に入りますと、道端にこんな看板が下がっておりました。会津町なる町名は見当たらず、地元の方にだけに通用する名前みたい。幸通りとありますように、嘗ては商店街だったようですが、既に寂れ果てており面影は皆無でした。



グルリと回って再び旧熊野街道に戻って参りました。ふと見ると、ステンレスに包まれた袖壁にポピーが咲き乱れておりました。ちゃんと確認しませんでしたが、絵ではなくてカッティングシートだと思います。



旧熊野街道と交差する県道29号線沿いに建つ、純喫茶オアシスさんがお気に入り。此処、時間があれば寄りたかったなあ。



県道29号線を南下、県道210号線に出る一本手前の通りに入ります。角に両側に円柱を構えた平屋の看板建築があります。『なんば』とありますが、正しくは『なんば焼』、田辺名物の一つで焼き蒲鉾の一種になります。大阪の難波ではなく、元々は南蛮焼だったみたい。



その先にも同じくなんば焼の老舗、慶応元年(1865)創業のたな梅さんがあります。この通りにはなんば焼を扱うお店が数軒並んでおり、地元ではかまぼこ通りと呼ばれています。



県道210号線に面した隅田湯さん、通りが拡幅されているようですので往時の姿ではないと思いますが、盛り上がるように貼られた鉄平石が凄い。裏手が田辺新地ですので、おそらく芸者さんも通ったお風呂屋さんなのでしょう。



少し行きますと、町の西を流れる会津川にぶつかります。すぐ下流は太平洋です。



ちょっと戻って右に入る脇道が田辺新地への入口・・・すぐに現れる謎のちろりん村。その脇、通りの両側に橋の親柱みたいな物体があるの分かるでしょうか。



裏側にはスチールの切文字、上下二文字が欠けているようですが、おそらく『昭和十年三月架○』で間違いないかと、最後の一文字が分かりませんけどね。コレって大門の基礎じゃないでしょうか。あ、拙ブログ的に大門というのは、遊里跡や妖しげな呑ん兵衛横丁などの入口に建つゲートの類も含みますのでくれぐれもお願い致しますぞ。実はこの田辺新地、反対側にも大門がありましたので、コチラ側にあったとしてもおかしくないと思うのですが如何でしょう。



大門跡?を振り返ります。早くも雰囲気のある建物が現れ始めましたよ。



新しいもののようですが、塀には扇を象った虫籠窓風の孔。その先の看板にはモータプール。以前から地図を眺めていて気になっていたのですが、このモータープールって表現、関西周辺だけで見られるものですよね。



その先にあるのが創業100年という割烹のあしべ本店さん。お店のインターネット初期のまんまみたいな(失礼)味わい深いHPに載っている、名物という鯖の棒寿司が滅茶苦茶旨そう。そんなことより、お店の土手っ腹にぽっかりと開いた穴が気になりますよねえ。



その前に手前の煙草の販売カウンターを観察していきましょう。分かりにくいと思いますが、たばこの表示も所謂絵タイルなのです。時折見かけるものですが、当時はこういう既製品があったのだと思います。



やはり穴の正体は『ぬけられます』状のトンネルでした。抜けた先には看板が見えるではありませんか。



此処入っちゃって大丈夫なの?といった感じでおそるおそる足を進めますと、こんな奥まった処にも割烹があったというわけ。やす多さん、一応ネットでもヒットしますので現役だと思います。



振り返って『ぬけられます』部分を望みます。こんな路地を芸者さんが行き来していたのでしょうか、絵になっただろうなあ。以上、隠れ家みたいなお店でした。



通りに戻ってあしべ本店さんのとっても賑やかなエントランス廻り。



二階には円形の造作、ガラスの向こうには六芒星っぽい装飾があるのが見て取れます。界隈には、田辺新地と記された雪洞型の街灯が点在しており、雰囲気を盛り上げるのに一役買っています。コレ、今も明りが灯るのでしょうか。



その先を左折しますと、それぞれに玄関がある長屋風の物件、一部がバルコニー付のビルみたいになっているのが面白い。しかし、タイルの感じからしてそれほど歴史があるものではないような気がします。元置屋さんではないかと。



ちょっと行くとこんな一画に出ます。此処に建っていたというのがもう一つの大門、しかし残念ながら二年前に火災で焼けてしまいました。往時の姿をコチラで見ることができます。



未だに残る火災の傷跡です。



近くにも玄関が並ぶ長屋風の建物、やっぱり料亭系というよりは置屋さんっぽいですよね。



端っこには銘木を使った袖壁が残っておりました。



あしべ本店さんが面する通りの向こう側の路地で見つけたお宅、まるで襖みたいな引き違い戸、引き手が片塵落しそのもので使いづらそう。奥の欄間には組子も見えますね。



焼けた大門の南側の通り、此処にも雪洞型の街灯が続いておりました。奥の建物の軒下照明には・・・



初の家とあります。その下には風俗営業(料理屋)の鑑札が残っておりました。

以上が田辺新地の現在、あしべ本店さんのような現役のお店もありますが、花街として現役なのかと問われると、なんとも微妙な状態であるように見えました。あの雪洞型の街灯が現役ならば、夜にもう一度訪れてみたいですね。前半は此処まで、後半は散在する近代建築などを鑑賞しながら、面白そうな場所を探したいと思います。

和歌山県 田辺市201510 その2

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お店の裏にまたお店、不思議な一画でした。


 田辺ゆかりの著名人として真っ先に頭に浮かぶのは、やはり南方熊楠になるでしょうか。田辺市出身かと思っていたのですが、正しくは和歌山市生まれで、後に田辺を気に入り永住することになります。様々な逸話が残る偉人というよりは、この人の場合はそれを遥かに凌駕した怪人と呼んだほうが正しいような気がします。個人的には菌類学者としての活動、特に粘菌関係に明るかったそうですが、私もあの生き物とは思えない造形にとても惹かれます。

 熊楠が田辺に居を構えたのは明治37年(1904)のこと、二年後に田辺名所の一つである闘鶏神社宮司の娘松枝と結婚するのですが、式を挙げたのが田辺新地の南側に位置する田辺城(錦水城)跡にあった錦水館なる料亭?でした。まあ、この時点では田辺新地はまだできていませんけどね。とんでもない大酒呑みだった熊楠ですが、もちろん田辺新地には足繁く通っていたそうです。こんな怪人と対峙する芸者さんはさぞかし大変だったことでしょう。裏を返せば、相手ができる優秀な芸者さんがいたということになるのかもしれませんな。そんな熊楠の旧宅が今も残っているそうですので、それを訪ねながら路地裏などを時間の許すかぎりブラブラしたいと思います。



田辺新地の南の外れでこの旅最初のニャンコに遭遇。何が気になるのか、前方をじーっと見つめたままで全然こっちを向いてくれない・・・。



更地越しに見る田辺新地です。



すぐ近く、会津川左岸の河口に面して小さな公園があり、一部にこんな石垣が残っています。コチラが前書きにある田辺城の遺構になります。城と言ってはいますが、田辺藩は紀州藩の支藩的な扱いでしたので、一国一城の令により天守を造ることができず、実態は領主の館といった感じだったようです。



この石垣が残る構造物、田辺城の水門とのことなのですが、どれがそれなのかよく分かりませんでした。



公園の脇にある公民館、名前を錦水会館といいます。名前だけが引き継がれたのかな。



路地をウロウロしながら田辺新地の東側に出ました。今度は錦水旅館さんですか、残念ながら現在休業中みたいです。



一本向こうの通りにあるのが、中央に簡略化されたギリシャ神殿が張り付いたようなシンメトリーなファサードの白亜の洋館。昭和24年(1949)に建てられた旧田辺警察署、昭和29年(1954)には市の図書館、昭和38年(1963)からは中部公民館といった感じで数奇な運命を歩んだ建物なのです。



サイディングのように見えますが、釘の頭が見えましたので木の羽目板だと思います。まあ、本当のちゃんとした羽目板は釘の頭は見えませんけどね。現在はララ・ロカルさんなるカフェ+ベーカリーみたいなお店として余生を送っています。お昼は此処でもいいかなと思っていたのですが、なんと定休日・・・。



お昼のお店も物色しながら行きましょう。近くにあるのが池田写真館さん。この弧を描く豪快な破風は以前のお店から移したものかなあ。でも、このアンバランスさがかえってステキ。



遠くからも目立っていた蔵が並ぶ物凄い豪邸、地図には田辺酒造(名)とありますので合名会社ということですよね。しかし、どう見ても酒蔵とするには土蔵が小さすぎるし、煙突も見当たりません。門には『再来荘』とあるのですが、結局正体不明のまま。



宣伝頑張りすぎな、明治13年(1880)創業、醤油と味噌の小山安吉醸造元さん。コレ、風が吹いたら五月蝿そう。



ちょっと駅方向に戻った処にあるのが南方熊楠顕彰館、同敷地内に熊楠の旧宅があります。左の板塀の向こうがそれなのですが、ブハッ、なんと休館日。ゆっくり見学したかったので、平日に訪れたのがかえって大失敗、思いっきり予定が狂ってしまった。さきほどのララ・ロカルさんで嫌な予感がしていたんだよなあ。仕方ない、ブラブラできる時間が増えたとポジティブな方向にもっていきましょうや。



近くで出会った下見板張りの洋館付住宅の一種がなかなかオツな造りでした。



土蔵みたいに漆喰でアールが付けられた軒天に、松を象ったと思われる孔が並んでいるわけ。おそらく天井裏の換気孔だと思われます。こんなの初めて見ましたよ。



どんな町にもなぜか必ず存在する金光教の教会、門柱の文字に目が点。性金也・・・せ、性は金なり!?ウーム、妙に納得。もちろん違う意味だと思いますけど。



今にも崩れそうな築地塀と真新しい虫籠窓が並ぶ塀が向き合っておりました。



県道29号線に出る手前に可愛らしい洋館が残っています。昭和3年(1918)に建てられた旧木津医院さん。三角屋根に細かい桟が入った両開き窓が並んでいるハーフティンバー風です。



このちょっぴり跳ね出した部分が凄くいい、窓下の装飾もステキですね。現在は雑貨店として余生を送っているようです。



退役済みと思われる旅館紀伊国屋さん。入母屋破風の平瓦の小口が積み重なっている部分がとても綺麗。



その先の路地に入りますと、マンサードと半切妻がミックスされたような鮮やかな朱色の洋瓦が見えてきます。屋根から突き出したドーマー窓が豪快ですねえ。



大正末期に建てられたとされる旧長井邸、屋根の色から地元では赤別荘と呼ばれています。でも、こう見ると朱色というよりは橙色ですな、葺き替えたのかもしれません。コチラもハーフティンバー風のドイツ壁の外壁、暖炉の煙突が絶妙な位置にあります。今も個人のお宅として現役、手前の朱色の塀と一緒に。



南方熊楠顕彰館に寄れなかった時間を利用して、前書きにもある闘鶏神社に寄っていきましょう。允恭天皇8年(419)に熊野本宮大社から勧請されたと伝わる歴史ある神様、地元では権現さんと呼ばれ親しまれています。源平合戦の際、かの熊野水軍も此処で源氏につくか平氏につくかを占ったそうです。拝殿の後ろに四棟の本殿が並んでおり、それぞれに違う神様が祀られているわけ。塀の向こうは神域ということで、普段は入れないみたい。



神社南側の広場にクスノキの物凄い巨木がドーン。何も表示がないので樹齢などは分かりませんでした。



神社参道脇に小さなお堂が並んでいる一画があります。奥には大福院なるお寺があるようですが、手前の石碑に注目です。



弁慶誕生之地と刻まれているわけ。かの武蔵坊弁慶は田辺生まれというのが定説とされているそうですが、そもそも本当に実在した人物なのかというのは諸説様々、謎ばかりというのが実態らしいですな。ちなみに闘鶏神社には、君主である義経の横笛なんてものも奉納されているそうです。果たして真偽のほどは・・・。



まだ時間がありますので、今度は駅前通りを挟んだ味小路の反対側へ・・・コチラにもゴチャゴチャとした一画があるようですので。



こんな細い路地を適当にブラブラ、個人的はとても楽しいのですよ。



ニャンコってこういう狭っ苦しい処大好物ですよねえ。



屋根の並びが気に入っております。



駅前通りから続く弁慶通り沿い、とある中華料理店脇の細い細い路地の突当りに看板がチラリ・・・入っていくと現れたのがこんな光景。



路地はそこから直角に曲がって続いておりました。手前のお店、これは珍しい、竹を模したボーダータイルかと思ったら・・・本物でしたわ。



路そして路地は再び直角に曲がっており、そこが冒頭画像の場所。背後はすぐに弁慶通り、お店二軒の周囲をグルリと路地が取り囲んでいたというわけ。



結局目ぼしいお店の発見には至らず、行きのとき味小路で見かけた割烹銀ちろ本店さんの暖簾を潜りました。一人なのに個室に案内されちゃったと思ったら、全室そうだったみたい。どういうわけか和歌山県とくると鰹というのが頭にありまして、むしょうに戻り鰹が食いたいというわけでタタキの定食を所望。量がちょっと物足りなかったけど、おいしゅうございました。



カフェ&パブなのに巣菜句(スナック)とはこれ如何に。歯抜けのバージボードが哀しい。

後半はちょっとグダグダになってしまいましたね。その1でも述べましたが、田辺新地のあの雪洞型の街灯が現役ならば、夜にもう一度訪れてみたいものです。次に訪れるのは、営業距離たった2.7キロという、大好物の超絶ローカル盲腸線がガタゴト走る町。以前から気になっていた町でもあるのですが、ようやく訪れることができました。

和歌山県 御坊市201510 その1

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超絶ローカル盲腸線が走る町・本瓦が連なる家並み・カラフルな板金で包まれた割烹

これが駅の南口だなんて信じられます?


 紀伊田辺駅からJR紀勢本線で和歌山方面に戻ること45分ほどで御坊駅に到着です。和歌山県の中部に位置する御坊市ですが、この駅が町の表玄関というわけではありません。町の中心に出るためには此処で乗り換えないとなりません。その列車は御坊駅の外れにある0番線ホームで、重々しいアイドリングの音を響かせながら待っておりました。単行の気動車キテツ2形、元々は兵庫県の北条線を走っていた車両になります。これが超絶ローカル線の紀州鉄道線、長年憧れていた大好物の盲腸線であります。路線距離たったの2.7キロ、日本一短い鉄道という情報がありますが、西日本一というのが正しいようです。ちなみに日本一は千葉県を走る芝山鉄道で、路線距離は2.2キロとなっております。ただし、芝山鉄道は始発の東成田駅と終点の芝山千代田駅を単純に結んでいるだけですし、京成本線に乗り入れもしていますので、これを単独路線としてしまうのはちょっと無理があるかも。一方の完全な単独路線の紀州鉄道線は2.7キロの間に駅が三つもあるわけ。学問駅と紀伊御坊駅の間など300mほどしかありませんから、まるでちんちん電車並みですよね。

 紀州鉄道線の前身である御坊臨港鉄道が開通したのは昭和6年(1931)のこと、紀勢本線御坊駅と御坊の中心街とを結ぶというのが主な目的でした。当初は御坊-御坊町(現紀伊御坊)間でしたが、その後町の南を流れる日高川のすぐ手前の日高川駅まで延伸されます。それでも全長3.4キロですから、いかに短い路線であるかというのがよく分かると思います。こんな感じのマイナーな地方の私鉄ですので、戦後のモータリゼーションであっというまにジリ貧に陥ります。JRの路線だったらとっくの昔に廃止されていたのではないでしょうか。

 そんな小さなローカル線がなぜ今も生き残っているのか・・・その理由は昭和48年(1973)にこの路線を買収した会社にあります。紀州鉄道と名乗ってはいますが、この会社、本社は東京にあるのです。しかも本業は不動産売買やリゾート開発なのです。そんな会社が、なぜ遠く離れた小さな赤字路線を買収したのか・・・簡単に申せばネームバリューということになるのでしょうか。よく聞くでしょ、東急不動産、阪急不動産といった感じで、まあこの場合、不動産業は鉄道事業の傘下になるのでしょうけど。日本独特のものだと思いますが、鉄道事業というブランド力は偉大であり、それだけ信頼のおけるものということらしいです。そのブランドを維持するためだけに、この小さな鉄道は今日もガタゴト走っているわけ。実際は地元の方の貴重な足でしょうし、その存在は私のような人間や鉄ちゃんにとっても有難いこと。今や稀有な存在だと思いますので、紀州鉄道さんにはこれからもなんとか維持してほしいと切に願うばかりです。

 御坊駅を出た単行列車は、すぐにJRのレールに別れを告げて南下していきます。速度メーターを見ていましたら、30キロより先に針は動きませんでした。ママチャリでも追い抜けそうな速度なわけ。しかも、古い車体のせいなのか、はたまた歪んだレールのせいなのか、左右にグリングリンと激しくローリング、一瞬脱線するかと思いましたよ。そんなスリリングな列車の旅もたった8分でオシマイ、終点の西御坊駅に到着です。この駅もこれまた凄かった・・・。あ、紀州鉄道線のことで夢中になっていた・・・町のことはその2のほうでお話し致しますね。



掘っ立て小屋というのはちょっと失礼か、まあよく分からん造りの無人の駅舎なのです、コレ。折り返し運転を待つキテツ2形、結構新しいように見えますが、昭和60年(1985)製、30年前の車両です。



車止めの先にもレールは続いていますが、前書きにある日高川駅は既に存在しておりません。西御坊-日高川間0.7キロは平成元年(1989)に廃止されてしまいました。



異様に天井の低い待合室、私の背後に通りに面した北向きのメインの出入口があるので、コチラは南口ということでいいのかな?それにしても凄いなこりゃ。



キツキツの南口を抜けますと、正面に痩せ細った下見板張りとサビサビトタンのお宅が待ち受けておりました。



そのお宅の脇を永遠に列車が走らないレールが嘗ての終着駅まで続いています。廃線跡は辿りませんが、とりあえず日高川駅跡を目指します。



南口正面のお宅のロケーション素晴らしい、なんと川に面していたわけ。少し跳ね出した部分のつっかえ棒みたいのが妙に気になる。



今度はちゃんとメインの北口から出て通りを東へ・・・テント地が張られていたと思われるサビサビフレームの先に大門が見えてきました。カーブミラーで一文字隠れておりますが松原通り商店街です。



大門の処を右折すると、退役済みと思われるお店にアイスカクテルの表示。子供の頃、カップのアイスで、ケーキみたいなデコレーションで飾られているのありましたよね。真っ赤な偽物チェリーのゼリーが乗っていたような・・・私にとってはハレの日のアイスでした。アレってコレのことじゃなかったっけ?と思い調べてみたのですが、結局正体不明・・・謎の食べ物だ。近畿地方限定でしょうか。



少し行きますと、突然通りの幅員が大きく拡がります。もしかして!?と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そういった雰囲気は皆無ですのであしからず。でも、戦後すぐの航空写真でも同じ状態であることが確認できるわけ。まあ、謎の通りであることには変わりませんが・・・。



謎の通りに面して古びた赤煉瓦の塀が残っています。案内板には終戦間際の空襲の痕跡が残る塀とあります。案内板の下辺り、三ヶ所ほどの黒い部分がソレだと思われます。太平洋に突き出した紀伊半島沿岸の町は格好の攻撃目標でした。B29による大規模なものというより、空母から飛び立った戦闘機や攻撃機による低空の機銃掃射やロケット弾によってかなりの被害が発生しているのです。



謎の広い通りを抜けると重厚な土蔵造りの町屋がチラホラ現れ始めます。虫籠窓にベンガラっぽい格子・・・ちょっとおかしいと思いませんか。普通、これらって通りに面して設けられるものだと思うのですが、なんでだろう。



しばらく行きますと、西御坊駅から伸びる錆びたレールが合流、その先が旧日高川駅跡です。未だに残る嘗ての終着駅のホームが雑草に埋もれようとしておりました。



適当に路地を選びながら戻ります。とあるお宅の玄関先に凄い葉っぱ、鉢植えの里芋でしょうか。



路地を抜けるとこんな趣のある塀がお出迎え。違い菱風の孔が面白いなあ。



分かりにくいと思いますが、コチラ、ニコイチの長屋風になっているわけ。和風コートハウスだなこりゃ。



同じ通りに面していたお店。画像を開いてから気付いたのですが、扉の上に風俗営業(料理店)の鑑札が残っておりました。



昭和初期に建てられたとされる巽邸さん。所謂洋館付住宅の一種としても宜しいかと。ただ、洋館付住宅というのは洋館部分、大抵この部分は応接間というのが多いのですが、平屋というのが一般的。こういった総二階というのは結構珍しいのではないでしょうか。



近くの立派な塀を構えたお宅、木製門扉の錆びた金具がとてもステキ。そして、何よりも上から飛び出した角刈りみたいな庭木が凄い。以上、恥ずかしがりやのお宅でした。



近くの空地は疎らなコスモス畑と化しておりました。



元禄元年(1688)創業という老舗の味噌と蔵元である堀河屋野村さん。創業当時は廻船問屋だったそうです。白っぽく退色した本瓦と糸屋格子の出格子が美しい店舗兼主屋は江戸後期に建てられたものとされ、国の登録文化財に指定されています。右に行くとさきほどの謎の広い通りです。



同じ並びにあるコチラはお住まいでしょうか。円形の造作に設けられた井桁の格子が面白い。



その先の路地に入りますと、こんな赤煉瓦の塀が現れ驚かされます。巾木に割り肌の石積み、アーチに加えコーナーにもアールが使われています。明治初期のものだそうです。



瓦が乗った天辺のディテール。このデザインが独特、ノコギリ状の装飾積みは結構見られるものですが、その下に特殊な形状の役物を一枚かますことによって陰影の深い表情になっているわけ。



西御坊駅裏を流れていた川に再会、下川というそうです。やっぱり川っぺりの光景はいいなあ。



最初に出てきた大門がある松原通りに戻って参りました。軒を連ねる町屋、手前から三軒目の袖壁に注目です。



写りが悪くて申し訳ない。鷲か鷹か、精緻な鏝絵が残っているわけ。反対側にも同じようなのがあります。一応ガラスでカバーされているのですが、かなり状態が悪いのが気がかりです。



松原通りがぶつかるのが県道176号線、町の目抜き通りの櫃一つかと。左手の軒下にオダレが下がった真っ黒な町屋は界隈で最古のもの、江戸中期に建てられたとされています。向かいの堀河屋又兵衛さんは林業を営んでいたそうです。江戸末期に建てられた主屋と昭和5年(1930)頃建てられた袖蔵とも国の登録文化財です。



江戸中期竣工の町屋・・・脇から見る本瓦葺きの屋根がとっても美しい。東日本ではお寺以外ではまず見られませんからねえ。大事に住まわれているというのがよく分かります。



グルリと回って県道176号線の東を並行している通りに出ました。この東町界隈に古い町屋などが集中しています。まずは寛政9年(1797)創業の岸野酒造本家さん、外壁の漆喰がいい感じに剥げ落ちて、下地の荒壁か中壁が露わになっているお店は大正期に建てられたものになります。



お隣の造りが妙に気になる・・・私は旅館か料理店系に見えたのですが、如何でしょう。



高欄風とまではいきませんが、りゃんこになった手摺子のシンプルさがいいね。あ、りゃんこというのは互い違いとか、位置をずらすという意味ね。欄間上の照明の文字は『真妻屋』と読めるのですが。試しに検索してみたら・・・やっぱり元旅館でした。



角に蔵を構えているのは志賀屋川瀬家さん。建物の詳細は不明ですが、ろうそくの問屋だったそうです。江戸の頃、生ろうそくはこの地域の重要な産物だったとか。



脇の路地の光景、蔵の雨戸には緑青が浮き出ておりました。



お隣の町屋・・・出格子にオダレ、棟の鬼瓦も立派、コチラもかなり歴史があるものだと思われます。



妻壁に謎の記号、新手のモダンアートですな。まあ、補修したのだと思いますけど。軒丸瓦の連続がステキ。軒天の漆喰による波形は、垂木を塗りこめて腐食から守っているわけ、お城などでよく見られるものです。デザインは機能に従うというわけです。



その先にお城の天守のようなお堂が見えてきます。本願寺日高別院の太鼓楼、文政年間に建てられたというのはいいのですが、門が固く閉ざされており境内に入れないわけ。どうやら境内に幼稚園があるからみたい。この日は平日でしたので、休日だったら違う状況なのかも。このお寺が御坊の町の形成に重要な役割を果たしているのですが、そのあたりのことはその2でお話し致します。



さらに進むと見えてくるのが旧華岡医院さん、玄関引違い戸の菱形の桟が目印。華岡と聞いてピンときた方はかなり鋭い、ちょっと誉めちゃう。世界初の全身麻酔手術を成功させた華岡青洲の子孫が開いていた医院です。医者の血って脈々と受け継がれるものなんですねえ。ちなみに青洲は和歌山県紀の川市の出身になります。



向かいにはこんな銅像、青洲のかと思ったら小竹岩楠なる方のでした。日高電灯・日高川水力電気を設立し、白浜温泉の海中源泉を掘り当てた御坊出身の名士だそうです。



その先には材木商を営んでいたという旧中川邸さん・・・って、手元の資料で見たものより綺麗になっているんですけど・・・しかもカフェなんて看板も出ているし、全く知らなかったぞ。ちょうどよかった、お茶したいと思っていたところ・・・ブハッ、また休みですかあ。前回の田辺もそうでしたが、祝日の振り替えだったようで、こういった施設が軒並み休みなわけ、初日からこんなんでは先が思いやられますなあ。



裏の通りに面したファサード、でっぷりとした豊満な土蔵も旧中川邸のもの。主屋のほうは二重に軒が回る豪華な造り、昭和初期に建てられたものとのことでした。

前半は此処まで・・・こんなノンビリとした雰囲気の御坊ですが、後半ではそんな町にも艶っぽい一画があることを証明したいと思います。遊里跡なのかということは、ご覧になった各自で判断してくださいな。個人的には間違いなく何かがあったと思っていますけどね。そして、これには前出の本願寺日高別院が深く関わっているのではと勝手に推察しているわけ。

和歌山県 御坊市201510 その2

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軒天までが板金で包まれているところが気に入っております。

 御坊の町の形成に重要な役割を果たしていたのがその1で紹介した本願寺日高別院です。正確には京都の西本願寺の別院になります。この別院、全国に八十ヶ所余りもあるそうですが、ほとんどが独立採算だというのは意外な事実でした。元々は御坊市の西隣の美浜町にありましたが、豊臣秀吉の紀州征伐の際に焼失、文禄4年(1595)に現在地に移転されます。地元では日高の御坊さんと呼ばれ、これが町の名の由来となったとされているそうです。以降、町は御坊さんを中心とした寺内町として発展していくことになります。

 その1でレポした古い町屋に中に材木問屋や廻船問屋がありました。日高川を利用し、上流で伐採した木を筏で河口まで流し、そこから江戸や大阪などに大きな船で運んだのではないでしょうか。物資の集積地という一面もあった町なんだと思います。旧熊野街道の紀伊路は御坊の中心街ではなく、現在のJR御坊駅辺りを通っていたようですが、御坊さんへの参拝客も多かったはず、そして上記の物資の集積地という一面・・・人が集まる場所に遊里有りです。地図に目を凝らしてみても、遊廓のような特徴的な町割りが残っているわけではありませんが、何ヶ所か気になる一画があるようですので、これからそこを訪れてみることに致します。



旧中川邸さんの裏手にこんな路地があります。手前の赤い手摺が妙に引っかかりますが、構わず足を進めますと・・・



別の路地に出るわけ。電柱にかすれた文字で旅館浜の家とありますね。



浜の家さんは路地のどん詰まりにありました。一応ネットではヒットするのですが、果てしなく微妙な感じ。



コチラにも風俗営業(料理屋)の鑑札が残っておりました。



入ってきた路地の角にはたこよしさん。建物の角が全部引き戸になっている面白い造りになっているわけ。



路地の並び・・・たこよしさんの隣にはリブ状の板が立ち上がるえびす食堂さん、洋食屋だったようです。



路地の出口には角にアールがついた物件、手前の更地には何が建っていたのでしょうね。



その入口廻り、見たところ床屋さんかパーマ屋さんといった感じでしょうか。ポーチには淡いピンクが散りばめられた玉石タイルが使われていました。



ちょっと戻って、旧中川邸さんが面している通りにあるのが江戸末期創業という和菓子の有田屋さん。卯建状の建物と一体になったような内照式の看板が非常に面白い。



近くの薗徹薬局さん、代々薬局を営んできた老舗、今も現役ですよ。かなり直されているようですが、店舗は江戸末期に建てられたものとのこと。軒下の横長欄間状の開口部に、昔のお薬の金看板が嵌め込んであるわけ。私は左の『グルゲル』がお気に入り、新手のモビルスーツかな。



銅板の緑青にトタンの錆汁が流れ出している堀口金物店さんは既に退役済みのご様子。昭和初期といった感じでしょうか。



その先にあるのが昭和3年(1928)に建てられた旧正宗屋酒店さん。当時、地方都市としてはまだ珍しい鉄筋コンクリート造の建物です。



かなり劣化しておりますが、キャノピーの先端にメダイヨン風の装飾が連続しています。屋根は後から乗っけたようですな。



地元で大浜通りと呼ばれている通りの光景。右手の物件、屋根の架け方が妙に気になるんですよねえ。此処については後ほど。



近くの路地に入りますと、こげ茶のモザイクタイルで飾られたショーケースの先に割烹松葉さんの看板が見えてくるはず。



二階のほぼ全部が板金で覆われているわけ。かなり退色しておりますが、外壁は緑、亀甲文様の戸袋は赤、一階の水色と合わせて往時はかなり派手なお店だったと思われます。



向かいには割烹ひさごさん。かなり直されておりますが、入母屋屋根のかなり立派なお店だったということだけは分かりますな。



嘗ては日高別院参拝後の精進落しの場だったら面白いかなと思っているわけ。



路地を抜けると再び大浜通り、出口に建つ退役済みと思われるパーマ屋さん、ポーチには市松模様。



屋根の架け方が気になると言った物件の正体は食堂でした。喜よ美食堂さん、伸び放題の庭木に隠れるようにして看板が残っておりました。



喜よ美食堂さんが面している四つ角のはす向かいにも曰くあり気な物件。へたり欠けの手摺がいい味出しております。



喜よ美食堂さんの前から北へ伸びるのが、いちばんそれっぽい匂いがする通りになります。もちろん個人的な感想ね。飲み屋や純喫茶が数軒チラホラ散見される中に、妙に艶っぽい建物が混じっているわけ。



入母屋破風が立派な真っ黒な物件、虫籠窓風の格子が並ぶ塀でがっちりガードされており、中の様子は窺えませんでした。



向かいには角出しの菱形の欄間。コチラにも風俗営業(料理屋)の鑑札。



一軒のお店では早くもカラオケ全開でした。



その先には崩れかけの円形の造作、塀の左官による鉄平石の巾木の毒々しい赤がステキ。



どうやら円形の造作部分は、板で塞いでいたのが外れてしまったようですな。



通りの出口にはオニギリみたいなユニークな屋根形状、ブルーシートの留め方がやけっぱち過ぎて笑っちゃいました。



西日に照らされた手摺が綺麗でしたよ。



近くには大門の痕跡、通りの名前はなんだったのでしょう。



その向こうには、まるで甲冑みたいなサビサビトタンが凄い物件、風格さえ感じるほど。



近くで出会った瓦葺きの洋館、元お医者さんといった感じでしょうか。アーチの間の手摺がオシャレですなあ。



さっきからお茶できる処を探しているのですが・・・とにかくな~んにもないわけ。



まあ、ブラブラしているだけで楽しい町なのですがね。



ヤマザキじゃないディリーストアはやっていないし・・・



太陽はつるべ落としだし・・・



そうこうしているうちに、お茶というよりお酒という時刻になってしまいました。仕方ない、ベースキャンプの和歌山市まで我慢しますか。再びオンボロ列車に揺られて帰りましょう。

御坊さんにお参りしたら、割烹青葉さんがある界隈で精進落し、それでも物足りない方は喜よ美食堂さんがある通りにどうぞ、こんな感じだったのでしょうか。まあ、何かが存在したということだけは分かっていただけたのではないかと。実はこういうことをするのは三ヶ月ぶり、どうもいまいちペースが掴めず異常に疲れました。以上で一日目はオシマイ、二日目は海沿いではなく紀ノ川沿いの町を訪れます。

和歌山県 橋本市高野口町201510

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バットレス付駅舎と三階建旅館・カーブを描くカフェー風?・遊里でお馴染のタイル

洋瓦が乗った小庇とくればアレ・・・だったらいいのですがね。


 紀州和歌山シリーズ二日目です。本日は秘境大台ケ原を源とする紀州随一の大河、紀ノ川沿いの町を巡ります。当初はご存知世界遺産の高野山を訪れようかと思っていたのですが、煩悩の塊のような人間が行っては失礼かなと思い諦めました。まあ、高野山に行くとほぼ一日がつぶれそうというのが実際のところ。でも、その入口だけでもというわけではありませんが、最初に訪れたのが高野口町。平成18年(2006)に隣接する橋本市と合併し、自治体としての町は消滅しております。名前のとおり、町から直線で南に10キロほど行きますと高野山ですので、嘗ては参詣口の一つとして賑わった町でした。10キロといっても実際は険しい山道ばかりみたいですけど。町中の東西を大和街道が貫き、高野山へ向かう高野街道と交差しておりましたので交通の要衝でもありました。産業的に見ると機業地になるでしょうか、現在もパイル織物が生産されており、家並みの中に幾つかのノコギリ屋根を見ることができます。

 最初に地図を眺めて思ったのは、区画整理などがほとんど行なわれていないなということ。曲がりくねる通りに、五叉路、六叉路といった変則的な辻がいっぱい、そこから細い路地が四方八方に伸びているわけ。これは町並みもかなり期待できるのではないでしょうか。あ、この二日目、遊里関係は期待しないでくださいね。情報皆無でしたし、できる限り地図上で気になった妖しげな処を探してはみましたが・・・。妙に引っかかる一画なんてものも出てきますが、それの正体が分かりませんので、妄想ばかりが炸裂しておりますので。まあ、気楽なブラブラまちあるきとしてご覧になっていただけたら幸いです。



和歌山駅からJR和歌山線で揺られること1時間ほどで高野口駅に到着。この駅の開業は明治34年(1901)のこと、当時は名倉という駅名でした。ホームの上屋は、トラスの小屋組が連続する木造です。



駅舎も下見板張りのレトロな木造、これはいい佇まいですなあ。明治45年(1912)に建てられたものが現在も使われています。軒下に連続するバージボードみたいな装飾が面白い。そして目を引くのが側面のバットレス(控え柱)。後付のようですが、耐震補強でしょうか。コレがある駅舎って結構珍しいと思います。



駅前広場の向かいにはもっと目を引く物件があります。総三階建ての旅館葛城館さん、明治後期に建てられたとされる国の登録文化財です。



天辺の唐破風の下に堂々とした扁額、何よりもオフィスビルみたいな連続する開口部が凄いですなあ。コレ、全開するんだと思います。



既に現役を退いているのですが、玄関を覗いてみるとこんなに綺麗、期間限定とかで公開されているのかもしれません。井桁の配置の竿縁天井、タタキは敷き瓦かな。金文字の看板には『高野山総本山金剛峯寺 御遠忌局指定旅館』とありました。参詣口として賑わった頃の遺構というわけです。



グルリと回り込む開口部が素晴らしい。



そのまま坂を下って脇道に入ると現れるのが旅館も里内さん、ネットでは全くヒットしませんので退役済みと思われます。



腰にはスクラッチタイル、縁取りの蛍光色っぽいマーブル模様タイルが面白い。



向かいにはおそらく青系統の外壁だったのでしょうが、退色し過ぎてグレーと化しているわけ。これが非常にいい塩梅なのです。



どうやら床屋さんだったようですな。ポーチに貼られた玉石タイルもかなり色褪せており、この枯れた風合いが堪らないわけ。



近くの廃屋、割れたガラスの奥を覗いてみると・・・なんと五右衛門風呂ではありませんか。



旧大和街道に出ました。変則の五叉路に合流する通りの光景。『かむろ』が妙に気になりました。



そのまま旧街道を辿っていきますと、冒頭画像の謎の物件が緩やかなカーブに沿うようにして建っているわけ。まあ、勝手に元カフェーとかだったらいいなあと思っているだけなんですけどね。柱の天辺から鉄筋が突き出しておりますが、増築でもするつもりだったのでしょうか。



ピーカンの秋空と全く同じ洋瓦の青、申し訳程度に貼られた鉄平石。そして、鉄柱一本で支えられたペラペラのキャノピー、これが堪らなく好き。



五叉路に戻って南に伸びる坂道を下っていきますと、両側に虫籠窓を設えた商家が現れ始めます。



この坂道、地元ではババタレ坂と呼ばれております。由来は荷物を引いた牛が、この坂で力んでウンチを垂れたからだとか。



鏝絵で屋号が描かれた森本理容所さんの前で足が止まりました。



ポーチに遊里でお馴染の騙し絵風のタイル、店内まで一面に貼られているわけ。此処で親爺さんのどうでもいい世間話を聞きながらカットされたい。よく見ると手前の部分、ちょっと色調とテクスチャーが違うの分かるでしょうか。おそらく四角形のタイルをカットして補修しているんだと思います。こういうのいいですよねえ。



その先の駐車場の向こうには、赤煉瓦の塀と一体化したようなノコギリ屋根。アーチの出入口の位置が絶妙。『おに車どめるな?』



近くの路地裏で見つけました。こんな形状のモザイクタイル初めてです。腰はグラデーションのつもりなのかな?



ショーケースがあることから、おそらく食堂関係だったと思われるお店。型板ガラスの柄が気に入りました。



細い細い路地を辿っていきますと、また赤煉瓦。よくよく地図を見ましたら、さきほどのノコギリ屋根の工場でした。



路地出口にあるお宅の塀です。菱形の虫籠窓風の格子が連続しておりました。



路地を抜けると再び旧大和街道、スーパー五一さんはガレージに転用です。あ、此処の場合はモータープールか。



駅前から続く旧高野街道(県道113号線)と旧大和街道が交差する辻に長大な塀を構えた豪邸があります。代々薬種商を営んできた旧前田邸さん、主屋は江戸後期竣工とされ国の登録文化財です。内部の公開は日曜のみですので今回は見学できず。



塗り替えたばかりの漆喰が眩しい主屋、越し屋根は囲炉裏の煙抜きでしょうか。この地方で結構見られるものです。



そのまま旧大和街道を辿っていきますとまた五叉路。角に建つ純喫茶プランタンさんがいい感じ。このまま辿りたいのですが、時間の関係で旧大和街道とは此処でお別れ。近くに国の登録文化財である高野口小学校があるのですが、平日ですので止めときました。



旧高野街道に戻ると、複雑な屋根が架かったお宅に遭遇。奥にステーキの看板が・・・



正体はこれまた喫茶店でした。その隣には・・・



こんな入母屋破風、額付の格子戸が独特ですな。



その先にもちょっと凝った造りの入母屋破風のお宅。この通り、右に行くとスーパーマーケットの駐車場にぶつかってしまうのです。妙に気になって、帰ってから戦後すぐに撮影された航空写真で確認しましたら、当時この一画は一面の畑でした。ちょっと損した気分です。



旧高野街道沿いでまたまた喫茶店。なんとも控え目な表示が奥ゆかしい。



あとはひたすら県道4号線を南下します。途中、いかにも眠そうな佇まいのおもちゃ屋さんに遭遇。



しばらく行きますと、外壁の廃れ具合が素晴らしい物件が現れました。妻壁だけが妙に綺麗なのが不思議。



正体は正面から見ると一目瞭然、廃業してからかなり時間が経過していると思われるお風呂屋さんでした。看板など何も残っていないので屋号は不明のまま。



はす向かいには変梃りんな看板建築。奥に工場か倉庫みたいのがありますので、嘗てはオフィスだったのかな。左官で石貼りを模しているんだと思いますが、目地の方向が普通と逆なわけ。こんなの初めて見ましたよ。



九度山橋で紀ノ川を渡ります。左手の高台に見えるのが、次に訪れる九度山の中心街です。

本当はフラフラと迷い込みたい路地がいっぱいあったんですけどね。時間の関係で此処までとさせていただきます。次回は弘法大師と真田幸村ゆかりの地である九度山です。

東京都 青梅市201203 その3(番外編)

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半畳ぐらいのスペースで濃密な世界が繰り広げられているわけ。


 ほとんどの男性が経験あると思うのですが、子供の頃プラモデルに嵌ったことおありでしょ???現代はガンダムやエヴァンゲリオンになるのでしょうか、私が小学校高学年の頃はタミヤの1/35シリーズでした。ちょうどドラマ『コンバット!』の何回目かの再放送が行われていた頃、そうそう『ラットパトロール』なんてのもありましたな。普通はサンダース軍曹(Vic Morrow)に憧れるものなのですが、その頃から捻くれていた私は女ったらしのケリー上等兵(Pierre Jalbert)がお気に入り、吹き替えの故山田康雄がピッタリ嵌っておりました。黒のベレー帽姿がかっこよかったなあ。

 そんなわけで戦争モノのジオラマに凝るようになるのですが、作るのはもっぱら旧ドイツ軍のものばかりなわけ。やはり兵器や軍服のかっこよさが図抜けておりますからね。中でも好きだったのがⅣ号戦車H型(シェルツェン付きのね)と水陸両用のシュビムワーゲン。激しい戦闘の後、瓦礫の中に佇むこの二台的な情景を作っては、ウオッ、スゲー!!なんてやっていたわけです。出来はお察し、マニアの方からすれば鼻で笑われそうな酷いものだったかと・・・よく覚えていないけど・・・。

 そんな感じかどうかは分かりませんが、ジオラマに嵌った子供の気持のまま大人になってしまったような方の作品を青梅で鑑賞することができます。それが造形作家の山本高樹氏、ご存知の方も多いと思いますが、昭和レトロをテーマにしたすんばらしいジオラマを作り続けているお方。最近ではNHKの朝ドラ『梅ちゃん先生』のオープニングに使われていたといえば、いちばん分かりやすいでしょうか。昭和レトロがテーマですので、看板建築が並ぶ商店街、チンチン電車が走る銀座的な作品もありますが、此処青梅では遊里がらみの作品を鑑賞できるというのがミソ。とりあえずその空気感を味わっていただけければと思います。まあ、実物を見るのがいちばんですけどね。

 大変申し訳ない!!上記のようなことを書いてから気付いたのですが、以下のジオラマは現在青梅では見ることができないようです。作品を展示していた昭和幻燈館が展示物を一新されてしまった模様、山本高樹氏の作品は『昭和幻風景ジオラマ展』という形で全国巡回中とのことでした。スケジュールが分かる氏のブログ貼っておきます。この時は館内が想像以上に真っ暗、持ってきたレンズが所謂おでかけズームレンズで四苦八苦、うまく写せなかった作品もありました。やはり不慣れなマニュアルはあきまへんなあ。そこで3回目は滅多に出番がない明るいマクロレンズを持ってきたのに、なんと臨時休館、この時点で何かおかしいなと思っていたのです。何が言いたいかというと、以下の画像、いつにも増して出来が悪いですよと予防線を張っているわけ(笑)



昭和幻燈館は旧青梅街道沿い、住吉神社の鳥居脇にあります。



200円を払って入館すると、いきなりアラーキーがお出迎え。情事なる写真集からですな。モデルは白都真理、最近女優に復帰されたそうです。和服フェチは必須の一冊、もちろん私も持っておりますよ。



こ、これは、たまらんち会長・・・ダジャレも昭和ということでお許しくだされ。



此処からが本番、『隠れ里の温泉』・・・山奥にひっそりと佇む茅葺二階建ての温泉宿、傍らの吊橋には浴衣姿の女性。彼女が見つめる先には・・・



ほろ酔い加減のお父さん。二人の関係は?間違いなく親子ではないでしょうね・・・そうなると、何かの逃避行?此処から先の妄想はご自由に。



『青梅猫町通り』・・・この大門に見覚えはありませんか?そう、モチーフはキネマ通りのアレです。左の現存するパーマ屋さんはカフェーまたたびさんに、今は亡き右は何だったのか覚えておりませんが、ねずみ屋さんなる飲み屋という設定。猫町ということで、登場人物は全てニャンコ化しております。またたびさんの妖しげな紅い灯りの演出がお見事。



中央のニャンコはすぐに分かりますよね。そう、永井荷風先生であります。昭和の象徴ということなのか、ほとんどの作品に先生が登場しているわけ。ねずみ屋さんのお品書き、スズメにトカゲって、ニャンコが捕ったよって飼い主に得意げに持ってくる獲物ですよね。背後の爪研は人間界でいうところの耳かき専門店ではないかと(笑)



またたびさんの二階ではお姉さんが左手で招いております。まあ、客が来ないことには商売になりませんからね。



『妖しの見世物小屋』・・・左手奥に主題の見世物小屋があるのですが、見事に撮影失敗。それでもワクワクするような夏祭りの雰囲気がよく分かるのではないかと。涼しげな浴衣姿の美少女がいいね。りんご飴が食べたくなりました。



コチラは題名不明、河畔に積み重なるようにして続く船宿が凄い、まるで逆柱いみりの世界ですなあ。係留された紅い灯りが洩れる船の居酒屋、そして物憂げな様子で手摺にもたれかかる女性。おちょろ舟がモチーフというのは考えすぎでしょうか。



この場所は古い町並みなどが好きな方ならすぐに分かるのではないでしょうか。まあ、当たっても何も出ませんけど。



正解は本郷菊坂町の此処でしょう、間違っていましたらご免なさい。



そうなると、洗い髪を掻き上げる浴衣姿の女性は樋口一葉ということになるのかと。敷石の質感が素晴らしいのはいいのですが、一枚一枚が大きすぎるような・・・どうもそういうディテールが気になって仕方がないわけ(笑)永井荷風と樋口一葉って接点あったのでしょうか。



『荷風と額縁ショウ』・・・踊り子さんが音楽に合わせて脱いでいく現在のストリップになる前はコレでした。コチラはヴィーナスの誕生ですが、額縁の中で有名絵画の真似をした女性が無言でポーズを取るだけ。要するにお上に対して、これは芸術なんだから、文句ある?ということだったらしいです。客席はどんな感じだったのでしょう、客も終始無言だったらちょっと恐いかも(笑)先生、見る方向が違うでしょ。



さあ、いよいよ、いちばんの大作ですよ。『墨東の色街』・・・冒頭画像がコチラ。ご存知『濹東綺譚』の一場面という設定だと思います。戦前の私娼窟玉の井、曲がりくねるドブから分岐する迷路のような路地、それ沿いにビッシリと軒を連ねるお店。ハートを模した窓も散見されます。



そして燦然と輝く『ぬけられます』の看板、すんばらしいじゃありませんか。下の二人は「遊んでいかない?」なのか「また来てネ」なのか、判断が難しい(笑)



橋の真ん中に悄然と佇む荷風先生、いや、この場合は大江匡か。お雪の面影でも探しているのでしょうか。



いろいろと妄想が膨らむ光景ですが、戦前の玉の井では女性は表に出て客引きはしなかったそうですので、戦後の赤線時代とごっちゃになっているのかも。『ぬけられます』の看板や女性のワンピースも戦後のものですよね。でも、人物が出てこないと作品にならないものね。細かい処はいいんだよ、といわけでこの濃密な空気感をお楽しみ下さい。



サービスカット、コチラもいろいろと妄想が膨らむ・・・いや、このあたりで止めておきましょう。



いちばん好きな作品というのがコチラ。カフェー黒猫さん、モルタル掻き落とし風の質感がお見事、コレどうやって作っているんだろう。それに対して、一階円柱の市松模様モザイクタイルの出来はあれですが(笑)強いて言えば、ポーチや店内にも華美なモザイクタイル炸裂して欲しかった。



向かいには荷風稲荷大明神、これはご利益ありそう(笑)奥の半纏姿の今にも揉み手しそうな男性は客引きでしょうか。先生と女給さんの会話が気になりますなあ。そんなことより、チャイナドレスの腰辺りのまろやかな曲線が・・・たまらんち会長。

以上のすんばらしい作品を鑑賞して、過ぎ去った子供の頃の思い出が蘇り、創作意欲がメラメラと再燃。架空の色街みたいなものを作れたらなあと思ったのですが、フィギュアを作る才能が皆無なことに気付き一気に萎えましたわ。まあ、お近くに個展が巡回してきたら是非とも足をお運びくださいな。たちまち昭和にトリップできるはずですから。

埼玉県 加須市201411

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うどんの町でお店巡り・古い医院建築がいっぱい・お不動様近くの謎料亭

袂に建つとうふ屋さんがこれまたいい感じ。


 埼玉県の北東部に位置する加須市、なんでも『かす』なんて酷い読み間違いをする輩がいるようですが、『かぞ』ですので宜しくお願い致しますぞ。嘗ては青縞織を特産とする機業地だったそうですが、それが衰退した現在は何処にでもありそうな地味な町というのが第一印象。埼玉出身の私が言うのも何のですが、こういう感じの町は県内に結構あるわけでして、ベッドタウンとして機能はしていても、嘗て栄えた駅前などの中心街は閑古鳥が鳴いているような状態、所謂地方都市のドーナツ化現象という奴ですな。社会的には大問題なのですが、それに惹かれる者としては訪れる度複雑な心境になるんですよね。

 以上のようなことに危機感を覚えたのか、現在町が積極的にアピールしているのが『うどんの町』ということ。この一帯は町の北を流れる利根川の氾濫などで土地が肥沃でして、昔から米より小麦の栽培が盛んだったそうです。品質のよい地粉が手に入ったということですな。まあ、昨今は結構知られるようになりましたが、埼玉県には加須がある北東部から川越・狭山が位置する南西部にかけて、町毎にと言っていいほど独自のうどん文化が花開いているわけ。四国にあまりにも有名な県がありますが、それに負けないくらいのうどん県だと個人的には思っております。実際の処、昔の埼玉の女性は皆さん普通にうどんが打てたみたいですぞ。おふくろもそうですが、嫁入りの作法の一つといった感じだったみたい。私も子供の頃は踏んで延ばす工程などをよく手伝わされたものです。今はもう打ちませんが、実家には未だに延し棒が残っています。今や泥棒撃退専用みたいですが(笑)

 遊里関係はサッパリ・・・機業だけでなく、毎月五と十が付く日には市が開かれていたそうですので、存在していたとしてもおかしくないと思うのですがね。しかし、全くあきまへんので、今回はうどん屋巡りに変更。そうは言っても腹のキャパってものがありますので、ブラブラしながら腹を減らす作戦でいきたいと思います。また、町の西の外れには関東の三大不動の一つとされるお寺がありますので、そこまで足を伸ばすつもり。遊里ウンヌンは置いといて、気楽なお散歩探索として見ていただけたら幸いです。



JR宇都宮線の久喜駅で東武伊勢崎線に乗り換えて10分ほどで加須駅に到着。駅前にひろがるのは、いかにも典型的な埼玉の地方都市の町並み、いい意味で眠そう。駅のすぐ東側の線路沿いにあるのが庚良居アトリエ、アーティストの製作工房、元々は米蔵だったそうです。



中田病院の隣におそらく織物関係の工場だったと思われる物件があります。何故か現在は保険の代理店になっているわけ。



外壁の廃れ具合が見事、何だか変電所みたいですね。これ以上接近できませんので、正体は不明のまま。



中田病院脇の通りに入るといきなり市場が現れてビックリ。



その先には古びた板塀に囲まれた料亭吉田家さん。力士は県民にはお馴染の銘柄、加須市に編入された旧騎西町に酒蔵があります。りっきし~♪ってCMまだやっているんでしょうか。



ネットでも全くと言っていいほどヒットしませんのでおそらく退役済みかと。機業が盛んな頃は芸者さんも出入りしていたのでしょう。



近くの平和衣料さんの凄い蔵、こんなのがあるだなんてちょっと驚き。嘗ては青縞織関係のものだったのかな。ちなみに青縞は藍染をした木綿糸で織り上げた無地の平織物のこと、以前は法被や腹掛けなどに使われたそうですが、現在は剣道着が主な用途だとか。



サビサビトタン塀を抜けたらお待ちかねの一軒目、創業70年という手打ちうどん赤城屋さんです。10名も入ればいっぱいと思われる小さなお店、モルタルタタキの飾り気皆無な店内が堪らなくステキ。一応加須のうどんは盛うどんという定義があるようですが、当日はちょっと肌寒かったのでけんちんうどんを所望。里芋がゴロゴロ入った甘くて濃いお汁、讃岐うどん系とは全く違うコシ、何だろうこの懐かしさ、おいしゅうございました。



腹七分目といった感じ、まだまだいけそうですが消化を助けるため探索続行・・・日本特絹工業さんの事務所棟でしょうか。詳細不明ですが、創業が昭和16年(1941)とのことですので、その当時のものと思われます。



裏手にはノコギリ屋根の工場棟もありましたよ。



塀に囲まれたお宅、敷地に高低差があるため、母屋、蔵の順で屋根が積み重なっているように見えるのがおもしろい。



坂を登ると町を東西に貫く県道152号線に出ます。嘗ての目抜き通りと思われますが、江戸の頃は前書きのお不動さん詣での旅人が行き交った道でもあったのでしょう。そのため加須の町は宿場的な役割も果たしていたようです。この通りをひたすら西へと辿ります。まず現れるのが緑青を通り越して黒ずんだ銅板に包まれた新井商店さん。昭和12年(1937)に建てられたそうです。



その先の脇道に入ると下見板に上げ下げ窓が並ぶ端正な洋館が現れます。大正期に建てられたという松本医院さん、外壁を塗り替えたばかりみたい。ご覧のとおり、バリバリの現役というのが素晴らしいですなあ。この加須市、こういった医院建築がそこかしこで見られる町なのです。おや?お隣はうどん屋ではありませんか・・・しかし、まだ胃袋に空きができておりません、もう少し歩かせて。



県道に戻って更に西へ・・・こういった昭和初期頃竣工と思われる比較的シンプルな看板建築商店がチラホラ、典型的な埼玉の地方都市の町並みです。



コチラもそんな一軒、ファサードは左官による石貼り風なのに、側面は型押しトタンによって同じ石貼りが表現されているわけ。



こんな立派な土蔵も残っていましたよ。前に立てられた案内板には、なぜか山車と蘭陵王面なるお面?の説明。この土蔵に保管されているということなのでしょうか。



これまた脇道で見つけました。コチラも何となく元お医者さんっぽいですよね。画像では全く分かりませんが、キャノピーを支える円柱は非常に小さなベージュのモザイクタイルで覆われており、そこに鮮やかな紫と緑のタイルがアクセントとして散りばめられているわけ。まるでラメみたいでとても綺麗なのです。



再び県道に戻ると、最近拡幅されたばかりのように見える県道38号線と交わります。それ沿いに雨戸が閉め切られた空き家、二階の欄間にはこんな模様があるわけ。近くには若葉さん、さかもとさんなる二軒の料亭、ビジュアル的にあれでしたので画像はありませんが。背後には蓋をされ公園と化した会の川が流れているわけ。ちょっと気になる一画でした。



空き家の向かいには、理想的な色合いの緑青に包まれた萩原時計店さん。昭和3年(1928)に建てられたそうです。立派なゴールドの箱文字の天辺には薄紫の球形照明が下がっています。コチラ、通りの拡幅に伴い曳家で動かしたんじゃないでしょうか。



またまた県道に戻りました。重要文化財はもちろん登録文化財の建造物さえもない町並み、見事なまでに眠そう。結構交通量が激しいのですが、うまい具合に車が途絶えるとまるでパニック映画の一場面みたい。この先の丁字路を右折しますと・・・



冒頭画像の会の川を跨ぐレトロな欄干の橋が現れます。徒歩橋(かちばし)と言いまして、その名の由来は江戸の頃まで遡ります。橋を渡ってちょっと行った先には龍蔵寺なるお寺がありまして、当時は橋の手前が参道の始まりだったそうです。参道ですので馬に乗ったままの通行は禁じられており、お侍もこの橋の手前で馬から降りたそうです。徒歩でしか渡れない橋というわけです。



もちろん私も徒歩で渡りましたよ。目的のお不動さんは道なりに左なのですが、私は嘗ての参道を辿ります。しかし、龍蔵寺には寄らず、そのまま国道125号線に出ると二軒目の子亀さんに到着です。お昼をかなり過ぎた時刻でしたがお客でいっぱい、加須のうどん屋でいちばんの人気店らしいです。この店発祥という冷汁うどんを所望、ごま汁うどんいえば分かりやすいかな。県内には『すったて』と呼ぶよく似たうどんがありますが、違いがよく分からん。ツヤツヤでモチモチのうどんと、青じその風味が効いたごま汁との組み合わせがいいね。さすが人気店というお味、おいしゅうございました。しかし、うどんは腹持ちいいからね、限りなく十に近い腹九分目状態。もう一軒いけるかな・・・歩きながら考えましょう。



徒歩橋に戻って通りを更に西へ、イトーヨーカドーを過ぎると不動岡。おそらくこれから向かうお不動さんの門前町として栄えた処だと思います。



そんな道すがら出会ったのがコチラ。無理矢理増築したような二階部分で島田以降が判読できませんが、たぶんコチラもお医者さんだったのでは。



近くにもお医者さん、赤い洗い出し風の門柱がオシャレなのは、本多歯科医院さん。陶器製の表札が旧仮名、間違いなく元だと思います。



その先に加須が誇る埼玉銘菓のお店が二軒並んでいます。手前の看板建築風のが文久2年(1862)創業の武蔵屋本店さん、向こうが歴史不明の清見屋さん。此処で製造販売しているのが五家宝、もう説明しなくてもご存知ですよね。お店の向かいが目的のお不動さんですので、始まりは参拝客目当てということなのかな。茶店みたいな感じだったのかもしれません。でも、五家宝って熊谷が元祖じゃないの?と思い、武蔵屋本店さんの綺麗な女将さんに尋ねてみると、きっぱりとうちが元祖ですと言い切られてしまった・・・。パック入りのいちばん小さな奴を購入、噎せるほどきなこがいっぱい、出来立てですので柔らかくて美味しいのですが、凄まじく甘~い。渋い番茶や粉茶にピッタリかも、でも一日一本で十分だなこりゃ。この五家宝とご存知草加煎餅、そして川越の芋菓子が埼玉三大銘菓と呼ばれているそうです。えーと、十万石饅頭は???



埼玉三大銘菓のお次は関東三大不動という我ながら素晴らしい流れ(笑)向かいのお不動さんというのが不動ヶ岡不動尊、正式名称は總願寺(そうがんじ)といいます。元和2年(1616)に、高野山の總願上人によって開山されたと伝えられております。祀られた不動明王を拝むため、今も数多くの参拝客が訪れます。この日は閑散としておりましたが・・・。此処の向かいにあるのが三軒目の岡村屋さん。創業200年だそうで、そもそも加須のうどんはお不動さんの参拝客にうどんを振舞ったのが始まりとされているそうです。おそらく最も歴史があるお店だと思うのですが、お昼の営業時間を過ぎてしまったのか入れませんでした。まあ、実を言うとちょっとホッとしたというのが本音、オッサンに無理させないで(笑)



不動堂と大日堂はこんな渡り廊下で繋がっています。そこにズラリと並べられた年男と記された木札?ナニコレ。



お不動さんの並び、数軒のお宅の先で奇妙な門を見つけました。看板には料亭亀屋、奥にちらと写っている暖簾にはうなぎの文字、今も現役というわけ???コチラ、ネットで一応ヒットはするのですが、場所などの情報以外は正体不明という謎のお店なのです。



奇妙な門の奥、庭木で巧妙に隠してありますが、その向こうにあるのが母屋みたい。



実は裏手が公園になっておりまして、後ろ姿が丸見えだったというわけ。立派なお店だというのは確認できましたが、分かったのはそれだけ・・・。しかし、これには続きがありまして、たまたま国会図書館の近代デジタルライブラリーで見つけたのが、明治44年(1911)に出版された『東武線案内』なる書籍。名前のとおり東武鉄道各駅の紹介と、その駅がある町の紹介と観光ガイド的なものと思っていただければ分かりやすいかと。加須駅の最後に町にある主な会社やお店が記されているわけ。昔の観光ガイドってこういうの多いですよね、広告料を貰って宣伝頁を設けているのでしょう。そこにしっかりと亀屋さんがあるではありませんか。そして併記されていたのが『各講中御定宿』の文字、やはりお不動さんの参拝客御用達のお店だったようです。参拝の後は精進落しというわけで、嘗ては芸者さんも出入りしていたのではないかと、力技で遊里関係に持っていったのですが如何でしょう。ちなみに五家宝の武蔵屋さんも載っていましたよ、当時は五家『棒』だったようですが。



さて、駅の西側の一画に戻って参りました。いかにも埼玉的な車と自虐的に言っちゃいますが、それが停められた駐車場に面してなぜか門柱があるわけ。背後の嘗ては庭木だったと思われる森の中には、洋館付住宅と思われる廃屋が埋もれておりました。さすがに中には入れませんので門柱だけで勘弁して。



その先には簡素な長屋門とでも言っておきましょうか。地図には薬師尊とあるのですが、それ以外の情報が皆無という謎のお堂なのです。こう見えても門の両側では仁王像が睨みを効かせているのでした。



今も現役のボウリング場、アイビーボウル加須の裏手に三角屋根の山小屋風のお宅があります。しかし、よく見ると一階には和風の格子、外壁もハーフティンバーというよりは真壁と言ったほうが正しいかも、不思議な和洋折衷なのです。



旧篠原医院さん・・・またまた医院建築だ。この建物、敷地に対して45度振った配置で建てられているわけ。ですので物凄く目立ちます。



その先に見えたのが油田型の煙突、地図にはときわ湯とあります。



なんとこんな貼り紙が・・・どうやら五ヶ月ほど前に廃業されたようです。私、間違えて奥に見える裏口から入ってきちゃったみたい。



玄関廻り・・・腰にはこげ茶の座布団型タイル、引き分けの框戸には珍しい玉石柄の型板ガラス。その下からチラと顔を覗かせるのは市松模様・・・なんとも郷愁を誘う光景でした。



近く大和湯さんはとっくの昔に退役されたご様子。市内にスーパー銭湯はあるようですが、こういったお風呂屋さんはときわ湯さんが最後だったみたい。



最後に訪れたのが旧内田医院さん。コチラは路地に面した妻側の様子、一階は下見板張りに上げ下げ窓、二階はハーフティンバーにドイツ壁風の左官仕上、窓は塞がれておりました。



ファサードはこんな感じ、破風先端の丸みと、二つ並んだ持ち送り風の装飾が妙に気に入っております。大正10年(1921)に建てられたそうです。



うどんはあれですが、甘いものは別腹ということで、駅前のレトロな喫茶店千珈多さんで〆。アップルパイをオーダーしたら、想像したのと全く違うものが出てきた・・・美味しかったからいいけど

偉そうにうどん屋巡りと銘打っておきながら、結局行けたのは二軒だけ。今日のところはこれぐらいにしといたろ(笑)相変わらずしまらないオチばかり、以上で加須の探索はオシマイ。

神奈川県 大和市相模大塚201210

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マッカーサーが降り立った町・これも一種の盲腸線!?・鳴ることはない警報機

錆びたレールを野花がゆっくりと覆い隠そうとしておりました。


 神奈川県のほぼ中央、南北に妙に細長い町があります。それが大和市、町の真ん中を東西に横断しているのが相模鉄道本線。相模大塚駅の南に500haというとんでもない敷地を有しているのがご存知厚木基地。正式には海上自衛隊厚木航空基地というそうですが、アメリカ海軍の第七艦隊も共同で使用しております。位置しているのは大和市と綾瀬市なのですが、どうして厚木なのでしょうね。元々は大日本帝国海軍が帝都防衛のため昭和17年(1942)に設置したもので、所属していたのが通称厚木航空隊と呼ばれた第三〇二海軍航空隊。此処を飛び立った零戦や雷電、そして月光(大好きな機体)などがB29の大群を迎え撃ったわけです。終戦直後、占領政策のため飛来したダグラス・マッカーサーが降り立った地としても知られております。

 一応軍都ということになるのかなと思いながら戦後すぐの航空写真を見ましたら唖然、基地と駅の周辺に町らしきものが存在していないわけ。相模大塚駅など田んぼのど真ん中といった感じで、基地周辺にはまるでニキビのような突起物がポツポツと点在しているのが確認できます。おそらく掩体壕だと思いますが、もう残っていないだろうなあ。駅前に何となく建物が並び始めるのが五十年代になってから、最初は軍人さん向けの色街みたいのがあったりしなかったのかしらと考えていたのですが、どうやら無駄な詮索だったみたい。よくよく考えてみれば、この基地は戦時中に出来たもの、しかもすぐに空襲が激化するわけですから、それどころじゃありませんよね。まあ、それでもいいのです、目的は別にありますので。



駅の南口にちょっとした呑ん兵衛横丁的な一画がひろがっています。お店とお店の間には階段があり、どうやら二階はアパートになっているみたい。



新しい女性は見つかったのでしょうか。



鉄平石による本物と偽物のコラボレーションというわけ。偽物の出来、結構微妙だぞ(笑)



そろそろ明りが灯るお店があってもいい時刻なのですが・・・。現代の若い隊員はこういう処では飲まないのでしょうね。一つ横浜方面に戻った大和駅周辺にはそれなりの歓楽街があり、大人のサロンがズラリと並んだ一画なんてものもあるわけ。皆こっちに流れてしまうのかもしれません。



駅の北側に美乃垣さんなる一軒の旅館があります。しかし、どうも様子が変、大工や作業員が入って何やらやっているわけ。改修でもするのでしょうか。



こんな洒落た窓もある建物なのですが、どうなってしまうのでしょう。



おさらいのストリートビューで確認しますと、洒落た窓は無事でしたが、ちょっと凄いことになっておりました。巨大なコンテナ?がズラリ、いったい何が起きたのでしょう。



駅の西側、厚木街道の踏切の光景。左が相模鉄道本線、右に草ボウボウの錆びたレールが分岐しています。コチラが今回の目的、旧相模野海軍航空隊線といいまして、主に厚木飛行場への燃料輸送のために敷設された軍用線であります。当時、周辺にはこういった軍用線が結構あったようですが、残っているのはコレだけ。平成10年(1998)までは現役でしたが、現在はこんな有様。一応表向きは休止ということらしいのですが、まあ廃線と言ってしまっても差し支えないものかと。コレを辿って厚木基地を目指します。



歩き出してすぐに振り返ると、分岐の踏切を相模鉄道の列車が通過していきました。架線もしっかりと残っていますので、ちょっと不思議な感覚を覚えてしまいます。



踏切も綺麗に残っているわけ。普通こういったのって立入禁止の柵などで塞がれたりするものなのですがね・・・。



その先で県道40号線と斜めに交差します。



常時車のタイヤで磨かれているためかレールがピカピカ。でも、此処を列車が通ることはおそらくないのです。



踏切を過ぎるとサビサビレールが復活。脇には黄色い小さな飲み屋さん、これはいい感じ。



お宅の裏口へと続く私設の踏切といった感じでしょうか。



その先にはピンクの金平糖みたいなお花のカーペット。イヌタデと思ったのですが、調べてみましたらヒメツルソバという花でした。



東名高速を跨いでサビサビレールは続いていきます。急がないと日が暮れそう。



この警報機も鳴ることはないのでしょう。CAUTIONは米兵向けかな。



その先のフェンスでレールは唐突に終わっておりました。これも一種の盲腸線として認定しても宜しいのではないかと思っております。終着駅はありませんけどね。



フェンス沿いには監視カメラがズラリ、また鉄ちゃんが来たぞなんて感じで見られていたのでしょうね。

サビサビレールを辿りながら頭に流れていたのはStand by meだったというのは此処だけの話。ちょっとアッサリ風味でしたが、戦争の遺構が残る相模大塚の探索は以上でオシマイ。

栃木県 足利市(再々訪編)201411 その1

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質草がバブルで止まったまま・謎ばかりの色街跡?の現在・駐車場の片隅にあるもの

黒ずんだ板塀の先に崩れかけた瓦屋根が見えてきた・・・。


 再々訪編としましたが、足利は結構ちょくちょく訪れているのです。まあ、ついでといった感じですが・・・。東京からJR両毛線沿いの町を訪れる際、大抵はJR宇都宮線の久喜駅で東武伊勢崎線に乗り換え足利市駅で下車、徒歩で渡良瀬川を渡って対岸の足利駅に出るというのがいちばん早いわけ。乗り換えの合間を利用して駅周辺をちょこっとブラブラすることはありましたが、ちゃんとしたブラブラとなると四年ぶりになるでしょうか。たまたま気付いたのが、町の西側ってどうなっているんだろうということ。試しに地図を眺めてみるとこれが結構面白そう、ちょっと行ってみるか・・・そんな感じで始まる再々訪編。気になる町の西側の一画を訪れた後、ジワジワと区画整理という魔の手が伸びる謎の色街跡とされる界隈の現在も確認してきました。

註)初回と前回はコチラコチラ、先にご覧になったほうが分かりやすいかと。



前書きのとおり、東武伊勢崎線の足利市駅で下車。いつもは緑のアーチが三つ続く中橋を渡るのですが、今回は眺めるだけ。土手沿いに上流を目指します。



すぐに見えてくるのが渡良瀬橋、ピンとくるのは今やオッサン世代となってしまいました。



対岸の橋の袂までは行ったことがあるのですが、フルで渡るのは今回が初めて。夕日じゃなくてすまぬ。



渡良瀬橋を渡り切るとすぐに見えてくるのがホクシンケン食堂さん、これが素晴らしい佇まいなわけ。後で知ったのですが、なんでも足利最古の食堂なんだとか。ショウガ焼肉が妙に気になる、次回は是非とも寄りたいものです。



その先で両毛線を渡ります。足利駅へは右ですが、今回は左へ。



由来は不明ですが、地元でトンネル通りと呼ばれている通りの高架を潜った先にあるのが、不思議な洋館の谷医院さん。昭和3年(1928)に建てられたそうです。



コチラは初回の時に訪れております。アーチ風の装飾に囲まれた窓が並ぶ外壁、紅葉したアイビーが綺麗。庭木も独特、シュロにソテツにバナナ?なぜか南国風、しかしシックリ馴染んでいるのが面白い。



コッチ側から見るのは初めてだ。裏側にも窓がありました。



谷医院さんの隣、広々とした駐車場の向こうに、積み重なる屋根が美しい数奇屋造りがあります。



料亭の相州楼さん、明治期から120年続く老舗だそうです。手前のRC造は旅館部分かな。



今回の探索の切欠となったのがコチラになります。HPを見ましたら、昔の写真とともに芸妓さんのことが記されてありました。やはりいらっしゃいました、足利の花街の様子については次回にでも。



大好物の擬木を発見、板を模しているわけです。コレ、相州楼さんの塀の一部なのですが、なぜか此処だけが擬木になっているわけ。向かいには一面アイビーに覆われた橙の三角屋根が可愛らしい洋館があります。



横から見ると洋館付住宅だということが分かります。



その先にはリブ状の装飾が残る袖蔵付の看板建築。ブロック塀にはいけばな・茶道教室の表示。煎茶に流派があるなんて知りませんでした。



此処にきて天候が急変、降らないといいけど・・・。



適当にブラブラしながら両毛線側に入ると、冒頭画像の崩れかけの瓦屋根が見えてきます。



何だろうと思いながら回り込むと正体判明、なんと古びた長屋だったというわけ。



てっきり廃屋かと思ったら一部は現役でしたか、これは失礼致しました。奥のキノコみたいな木と一緒に。



昭和な光景がいっぱい見られる足利ですが、その最たるものだとちょっと感動。



線路際に建つ一軒家、脇の路地を抜けますと・・・



いきなり舗装が物凄い色に・・・原因は両側の鉄工所。なんだか踏むのが恐いのですが(笑)



舗装に加え建物も塀も、おまけに紅葉した木も、似たような色彩で統一されているわけ。ハンガーはよく分からない・・・。



緑町を貫く県道40号線に出るとこんな洋館が・・・とんかつの大吉さんとのことなのですが、お店は近代建築???元々は繊維業で財を成した大吉氏の別邸だというのですが、素性がよく分からない謎の建物なのです。



駅方面に戻る脇道に入りますと、トタンにデカデカと屋号が描かれたお茶屋さん。



その先、赤いトタンと鉄平石に縁取られたお宅の間に入りますと・・・



兄弟のような石蔵がありましたよ。



路地を抜けると足利の町を東西に貫く県道67号線に出ます。通り沿いに建つオモチャのお城みたいなライオン堂さんにはビックリ。



お店の後ろに巨大な『九・一そば』、つなぎの小麦粉ニに対してそば粉八の『ニ八そば』はよく聞ますが、それでいくとコチラは小麦粉九にそば粉一・・・うどんかよ(笑)もちろんその逆ですのでご安心を、第一立花さんという明治12年(1879)創業、老舗のそば屋でした。



近くにあるのが以前も紹介したバルコニー付の宮殿みたいな旧木村洋服店さん。明治42年(1909)に建てられたとされています。ちょっと心配していた物件なのですが、健在を確認できて一安心。バルコニー上部に菊の御紋らしきものがあるのに初めて気付きました。

前半は此処まで、後半では色街跡とされている界隈を再訪した後、近くで興味深い一画に出会うことになるわけ。

栃木県 足利市(再々訪編)201411 その2

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駐車場の片隅に、忘れ去られたような一画が残っておりました。


 『足利に遊びて、先づ当地の名物たる、機織工業の盛況を視察し、旅館に投ずるもの、若くは料理店に一酌を傾くるものは、普らく粋と不粋とを問はず、当市一流の花たる芸妓を呼びて、酒間の斡旋を為さしめざる可らず、其艶麗なる風姿と、玲瓏珠の如き嬌音に接せば、心情自ら和ぎて酒杯の加るを知らず、快感交々起りて忽ち佳境の人とならん、以て旅情を慰むべきなり・・・』

 以上は明治43年(1910)に発行された『足利案内』による花街の様子になります。難しい文章ですが、大いに盛況を呈していたということだけは分かるのではないでしょうか。この後ろに26軒の料亭の屋号が記されているのですが、なぜかその1で紹介した相州楼さんがないのです。しかし、その三年後の大正2年(1913)に発行された改訂版?には、旅館の項目に載っておりました。料亭26軒、それ以外にも旅館や料理店がたくさんあったようです。甲乙の両見番があり、200名内外の芸妓が活躍されていたそうです。甲乙とはおそらく芸妓の中での格付けみたいなものだと思われます。甲と乙では出入りできるお店の業種が定められていたそうです。例えばになりますが、甲は旅館と料理店までですが、乙になると披露宴や宴会、貸座敷でも営業できたといった感じ。まあ、これは自治体によって違っていると思いますが。

 肝心なのは遊廓、『足利案内』には遊廓という項目もあるのですが、そこに記されていた地名は『福居』、これにはちょっと拍子抜け。福居は東武伊勢崎線足利市駅の二つ手前に駅があります。足利の中心街から直線距離で3キロ以上も離れているわけ。お馴染『全国遊廓案内』にも記されている処なのですが、面影皆無で町並みもいまいちと聞き及び未だに訪れておりません。此処が足利の遊廓という位置づけだったのでしょうか。中心街周辺にそういった場所が存在しなかったのか・・・そうなると、これから向かう色街跡とされている界隈はいったい何だったのかということになってくるわけです。よくよく考えみると細い路地がクネクネって間違いなく遊廓じゃないですよね。個人的には戦後に形成された限りなく青っぽい場所というのを推したいと思います。そもそも本当に存在したのか、謎ばかりが深まる一画なのです。

註)初回と前回はコチラコチラ、先にご覧になったほうが分かりやすいかと。



巴町に到着、東京から銭湯専門の大工呼んで建てたという花乃湯さんは健在。相変わらずの堂々とした佇まいが素晴らしいですなあ。此処には一度浸かってみたいと思っているのですが、うまくタイミングが合いません。先日、和歌山県を旅してきたのですが、小さな港町の超絶激シブ銭湯に探索の後浸かろうと思っていたら、地元の方から二ヶ月前に廃業したと聞き絶句・・・別の町では、現役色街近くのネオン看板が瞬いているはずの銭湯が真っ暗、此処も廃業かと思ったら定休日で呆然、普通木曜が定休日だなんて思わないでしょ・・・こんなのばっか。



花乃湯さん脇の通りに入ると大谷石の蔵を従えた長竹質店さん。前にも言いましたが、銭湯に質屋、遊里に付き物物件が二つもあるわけです。



反射が酷くて申し訳ない、ショーウィンドウに並んでいるのは質草でしょうか。フィルム時代のEOSに、今ではあまり見かけないタイプのヴィトンとグッチ、完全にバブルの頃で時が止まっているわけ。過去の逸品の中で一際輝きを放つのがトランペット・・・。



こんな路地を抜けて並行する通りに抜けましょう。



勝手に元料亭か元旅館ではないかと思っていた物件なのですが・・・



よく見ると南側のコチラと同敷地だったわけ。平屋建ての洋館風に見えますが・・・



コチラも以前紹介した既に退役済みと思われるお医者さん。二階があるように見えますが、ペラペラの壁に窓があるだけというオモロイ造りなのです。将来増築するつもりだったのかしら。



脇道に戻ってこんな除虫菊?が咲き乱れる路地を行きますと、目的の雪輪町です。



お茶漬の萩さんがある四つ角に出ました。盛り場モデル地区の看板、若干色褪せたでしょうか。



萩さんに続く廃墟と化したお店、ゴミ溜めのようになっていたのですが、綺麗に片付けられておりました。変なイラスト、こんなのあったっけ?



逆に荒廃が進んでいたのが、珍しい竹垣を象ったトタンと妖しげな出格子があるコチラ。向かいは二連ノコギリ屋根の織物工場があったのですが、なんと基礎工事の真っ最中。こんな奥まった処に何が建つのでしょう。



萩さん処に戻ってはす向かいの更地を確認、此処は何も変わらず。嘗て此処には妖しげなしもた屋風の平屋建てがありました。ちゃんと撮影する前に無くなっちゃった。取り囲むバリケードにはまちづくり事業用地とあります。無くなった理由とは、この周辺一帯(雪輪町・巴町・家富町)で行われている土地区画整理事業によるものと思われます。住民の反対もありあまり進んではいないようですが、区画整理って気付くと一気に進んだりしますから油断は禁物、どんな力が働いたのかは分かりませんが・・・。かなり先だという雰囲気ではありますが、いずれこの妖しげな一画は消えてしまうかもしれません。興味のある方はお早めにどうぞ。



路地を抜けると双子のような看板建築が・・・というのは前回までの感想、これまた事実は違っていたというわけ。



双子の間に純和風の玄関があるのが分かるでしょうか。



なんと双子は裏手のお宅と繋がっていたのです。相変わらず何処を見ているんでしょうね、お恥ずかしいかぎりです。



花乃湯さんが面している通りに戻りました。ブリーズソレイユみたいな木製リブがカッコイイ博仁堂薬局さん。角の辺りに案内板が見えますが、それによりますと、足利藩藩主の戸田家の陣屋が雪輪町にあったとのこと・・・そんな場所が色街に!?ますます分からなくなってきた。



博仁堂薬局さん脇の入口がいい感じ。框ドアには真鍮製の斜めハンドル、中央を絞ったカーテン、古い床屋さんやパーマ屋さんで時折見掛けますが、コレって名前あるんでしょうか。



向かいの小さなお宅、シンプルモダンな玄関廻りの造りがお気に入り。



次に向かったのが巴町と雪輪町の北側。此処も地図を眺めていて気付いた場所、妙に気になるゴチャゴチャとした一画があるわけです。



市役所の裏手にバリケードに囲まれた足利赤十字病院、どうしちゃったのと思ったら移転していたのですね。その向かいの一段下がった処に数軒の古びたお宅、なんとも表現しようのない近寄りがたい雰囲気に足がこれ以上進みません。



少し戻ってトンネル通りを渡るとなまはげなる看板、その手前も何かのお店だったようなのですが・・・



ぶち抜いてガレージにしちゃったみたい。昭和な照明がそのまんま、ボトル棚?がうまい処にありましたな(笑)



その先に押縁下見板の奥行きがある物件があります。向かいは砂利敷きの駐車場みたいなのですが、奥に何かの看板が見えたわけ。



なんだろうと近寄ってみますと、それが冒頭画像のしおりさん。おや、もっと奥に回り込めそうですぞ。



なんとコッチにもお店の痕跡が残っているではありませんか。小料理屋っぽい佇まいですな。



その先にもすなっくピエロさんなるお店、よくもまあこんな処でとちょっと感心。



扉の上には栃木県ではお馴染のカフェーの鑑札。



路地を抜けるとこんな光景。どうやらお隣の更地にも似たようなお店があったような雰囲気。それにしてもどんよりとした曇り空が似合う一画ですなあ。



場所は近くとだけ言っておきましょう。これまた細い細い路地の突当りにこんな光景が見えたわけ。



あまりにもストレートすぎてクラクラしてきた・・・当り前のことですが、此処でバッグやシューズを扱っているわけではありませんぞ。



奥を覗き込むとさらにクラクラ。誰だ、ポッチに悪戯したのは(笑)コチラにもカフェーの鑑札があるの分かるでしょうか。



路地は突当りで直角に折れていました。その先にもお店がズラリ、地図で偶然見つけた場所ですが、色街跡とされる裏手にこんな昭和がプンプン匂う一画が残っておりました。

足利市の都市計画図を見ますと、今回の場所は国宝に指定された鑁阿寺の西側一帯になるのですが、東側も区画整理事業区域に指定されていることが判明。かなりの規模の事業ということになるわけです。いつまでこの昭和な光景を見ることができるのか、鑁阿寺と足利学校という観光の目玉があるだけに心配なのです。レポの中でも申しましたが、以上のような状況ですので、興味のある方はお早めにどうぞ。

和歌山県 田辺市201510 その1

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実は反対側にも大門が!?・『ぬけられます』の先には・松を象った換気孔

塀の向こうからも雪洞型の街灯がこんにちは。


 今回からしばらくお付き合いいただくのは紀州和歌山シリーズ。遅い遅い夏休みをようやく取ることができまして、まるでどこかの局のアナウンサーみたいですな。ベースキャンプを和歌山市に定め、主に紀北から紀中の町を相変わらずの体でブラブラ彷徨って参りました。

 歴史ある紀州徳川家のお膝元、世界遺産の高野山に熊野古道、そして山海の美味満載といった感じで観光的には魅力いっぱいの和歌山県ですが、これが遊里関係となりますとてんでいけません。あ、これは魅力がないという意味ではありませんよ、情報が少ないという意味ですのでくれぐれもお間違いのないように。そもそも和歌山県にはお上が定めた遊廓が少なかったみたいなのです。昭和14年(1939)の『和歌山県令規類集』に、明治39年(1906)に定められた『娼妓貸座敷免許地域』という項目がありまして、そこには白崎村・大島村・新宮町といった感じでなぜか三ヶ所しか記されていないわけ。ちなみにお馴染『全国遊廓案内』になりますと、新宮町と大島村の二ヶ所に減ってしまうという謎データ、ナニコレ。

 しかしです、毎度の杜撰な下調べによりますと、上記以外の町にもそういった場所が存在したらしいということが次第に判明してくるわけ。ちゃんと名前も付けられている処もあったりして、和歌山市にはそれの名残とされる色街が今も存続しているとか、いないとか。此処はご存知の方も多いかと思います。まあ、そこでえらい目に遭っちゃうんですけどね。話は戻りますが、そうなると上記の三ヶ所以外は何だったのかということになってくるわけです。まさか私娼街というわけではないでしょうし。とりあえず以下のレポを見ていただければ、間違いなく何かがあったということだけは分かっていただけるのではないかと思います。

 初っ端は県の中南部に位置する田辺市、近畿地方でいちばん広い市なんだとか。歴史的には田辺藩約四万石の城下町ということになるでしょうか。しかしこの田辺藩、幕府からは正式な藩として認められていませんでした。なんといってもこの辺りは暴れん坊将軍を輩出した御大紀伊徳川家が治める地、紀州藩の支藩的な扱いだったようです。江戸側に位置していますので、前衛の砦的な軍事上重要な町だったのではないでしょうか。明治維新後、ようやく正式な藩として認められますが、すぐに廃藩置県で廃止になってしまうというちょっと可哀想な藩でもあります。中心街を熊野街道が貫いていましたので、宿場という役割も果たしていたのでしょう。いまひとつ分からないのですが、熊野街道=熊野古道で宜しいのですよね?そして、熊野古道の熊野大社周辺の、石畳の山道部分のみが世界遺産に認定されているということで宜しいのですよね?街道関係って名称が様々だったり、ルートが結構違っていたりして毎回迷うんですけど、どうしてなんでしょう、此処で聞いてどうするといった感じですが。

 そんな田辺市に存在した・・・といいますか、今も存在しているのが田辺新地。数年前までは現役の芸者さんがいらっしゃったようですので、現在進行形とさせていただきました。一応置屋さんがあるようなのですが、現状がよく分からないのが残念ではあります。芸者さんとありますように、遊廓ではなく純粋な花街とするのが正しい一画になります。大正9年(1920)に、町中に散在していた料亭などを現在地に集めて形成されたとされています。分かったのはそれくらい、元遊廓だったという噂もあるようですが、現地を訪れた印象ではそれは違うような気がします。では遊廓は存在しなかったのか・・・いくら調べても分からないわけ。そんな類の一画があってもおかしくないと思うのですがね。田辺以降の町もそうなのですが、ほぼ頭の中の妄想と現地での印象のみで偉そうに語っておりますので、あれでしたらこの前書きはすっ飛ばしてもいっこうに構いませんので。退役済みなのか現役なのか、よく分からない花街を訪ねた後、田辺が生んだ偉人たちゆかりの地を訪れたいと思います。



和歌山市からJR紀勢本線鈍行で二時間ほど、紀伊田辺駅に到着です。この駅舎は昭和6年(1931)に建てられたそうですが、屋根が葺き替えられており、藤城清治の影絵風イラストが個人的にはちょっと残念。



駅前の南西にひろがっているのが『味小路』なる歓楽街。歓楽街とはいっても、そこまで妖しい雰囲気はありません。地方都市らしからず現役のお店も多そうだったのが意外。



唯一妖しかったのが、マミー美容室さんの看板。



えーと、初めてなんですけど・・・。



このイラスト、どこかで見た記憶があるんですけど思い出せない。モデルは故オスカー・ピーターソン?



味小路を抜けるといい感じに眠そうな町並み。一目で気に入っちゃった。



その先に現れたのがニュー青柳さん、今にも反り返そうな痩せ細った羽目板、『ニュー』のフォントがいいなあ。緑に見えますが実際は黄の色ガラス、あまり見かけないサイズの大判タイルが珍しい。



横から見るとこんなペラペラなのです。



田辺飲食業組合員章・・・扉の上にはこんなのが残っておりました。



この蛇腹になっていて上げ下げできる可動式のテント庇大好物なのです。特にフリルのところなんかがね。



近くの路地裏には正体不明の立派な邸宅、角を曲がるとこういうのがいきなり現れるものだから油断できません。



現在は商店街と化している旧熊野街道に出ました。丁字路に地元では道分け石と呼ばれている道標が立っています。大阪方面から来ますと、街道は此処で山側に入り熊野本宮大社を目指す中返路と海沿いを行き新宮を目指す大返路とに分岐しているわけ。交通の要衝だったということですな。



すぐに旧街道から離れ脇道に入りますと、道端にこんな看板が下がっておりました。会津町なる町名は見当たらず、地元の方にだけに通用する名前みたい。幸通りとありますように、嘗ては商店街だったようですが、既に寂れ果てており面影は皆無でした。



グルリと回って再び旧熊野街道に戻って参りました。ふと見ると、ステンレスに包まれた袖壁にポピーが咲き乱れておりました。ちゃんと確認しませんでしたが、絵ではなくてカッティングシートだと思います。



旧熊野街道と交差する県道29号線沿いに建つ、純喫茶オアシスさんがお気に入り。此処、時間があれば寄りたかったなあ。



県道29号線を南下、県道210号線に出る一本手前の通りに入ります。角に両側に円柱を構えた平屋の看板建築があります。『なんば』とありますが、正しくは『なんば焼』、田辺名物の一つで焼き蒲鉾の一種になります。大阪の難波ではなく、元々は南蛮焼だったみたい。



その先にも同じくなんば焼の老舗、慶応元年(1865)創業のたな梅さんがあります。この通りにはなんば焼を扱うお店が数軒並んでおり、地元ではかまぼこ通りと呼ばれています。



県道210号線に面した隅田湯さん、通りが拡幅されているようですので往時の姿ではないと思いますが、盛り上がるように貼られた鉄平石が凄い。裏手が田辺新地ですので、おそらく芸者さんも通ったお風呂屋さんなのでしょう。



少し行きますと、町の西を流れる会津川にぶつかります。すぐ下流は太平洋です。



ちょっと戻って右に入る脇道が田辺新地への入口・・・すぐに現れる謎のちろりん村。その脇、通りの両側に橋の親柱みたいな物体があるの分かるでしょうか。



裏側にはスチールの切文字、上下二文字が欠けているようですが、おそらく『昭和十年三月架○』で間違いないかと、最後の一文字が分かりませんけどね。コレって大門の基礎じゃないでしょうか。あ、拙ブログ的に大門というのは、遊里跡や妖しげな呑ん兵衛横丁などの入口に建つゲートの類も含みますのでくれぐれもお願い致しますぞ。実はこの田辺新地、反対側にも大門がありましたので、コチラ側にあったとしてもおかしくないと思うのですが如何でしょう。



大門跡?を振り返ります。早くも雰囲気のある建物が現れ始めましたよ。



新しいもののようですが、塀には扇を象った虫籠窓風の孔。その先の看板にはモータプール。以前から地図を眺めていて気になっていたのですが、このモータープールって表現、関西周辺だけで見られるものですよね。



その先にあるのが創業100年という割烹のあしべ本店さん。お店のインターネット初期のまんまみたいな(失礼)味わい深いHPに載っている、名物という鯖の棒寿司が滅茶苦茶旨そう。そんなことより、お店の土手っ腹にぽっかりと開いた穴が気になりますよねえ。



その前に手前の煙草の販売カウンターを観察していきましょう。分かりにくいと思いますが、たばこの表示も所謂絵タイルなのです。時折見かけるものですが、当時はこういう既製品があったのだと思います。



やはり穴の正体は『ぬけられます』状のトンネルでした。抜けた先には看板が見えるではありませんか。



此処入っちゃって大丈夫なの?といった感じでおそるおそる足を進めますと、こんな奥まった処にも割烹があったというわけ。やす多さん、一応ネットでもヒットしますので現役だと思います。



振り返って『ぬけられます』部分を望みます。こんな路地を芸者さんが行き来していたのでしょうか、絵になっただろうなあ。以上、隠れ家みたいなお店でした。



通りに戻ってあしべ本店さんのとっても賑やかなエントランス廻り。



二階には円形の造作、ガラスの向こうには六芒星っぽい装飾があるのが見て取れます。界隈には、田辺新地と記された雪洞型の街灯が点在しており、雰囲気を盛り上げるのに一役買っています。コレ、今も明りが灯るのでしょうか。



その先を左折しますと、それぞれに玄関がある長屋風の物件、一部がバルコニー付のビルみたいになっているのが面白い。しかし、タイルの感じからしてそれほど歴史があるものではないような気がします。元置屋さんではないかと。



ちょっと行くとこんな一画に出ます。此処に建っていたというのがもう一つの大門、しかし残念ながら二年前に火災で焼けてしまいました。往時の姿をコチラで見ることができます。



未だに残る火災の傷跡です。



近くにも玄関が並ぶ長屋風の建物、やっぱり料亭系というよりは置屋さんっぽいですよね。



端っこには銘木を使った袖壁が残っておりました。



あしべ本店さんが面する通りの向こう側の路地で見つけたお宅、まるで襖みたいな引き違い戸、引き手が片塵落しそのもので使いづらそう。奥の欄間には組子も見えますね。



焼けた大門の南側の通り、此処にも雪洞型の街灯が続いておりました。奥の建物の軒下照明には・・・



初の家とあります。その下には風俗営業(料理屋)の鑑札が残っておりました。

以上が田辺新地の現在、あしべ本店さんのような現役のお店もありますが、花街として現役なのかと問われると、なんとも微妙な状態であるように見えました。あの雪洞型の街灯が現役ならば、夜にもう一度訪れてみたいですね。前半は此処まで、後半は散在する近代建築などを鑑賞しながら、面白そうな場所を探したいと思います。

和歌山県 田辺市201510 その2

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お店の裏にまたお店、不思議な一画でした。


 田辺ゆかりの著名人として真っ先に頭に浮かぶのは、やはり南方熊楠になるでしょうか。田辺市出身かと思っていたのですが、正しくは和歌山市生まれで、後に田辺を気に入り永住することになります。様々な逸話が残る偉人というよりは、この人の場合はそれを遥かに凌駕した怪人と呼んだほうが正しいような気がします。個人的には菌類学者としての活動、特に粘菌関係に明るかったそうですが、私もあの生き物とは思えない造形にとても惹かれます。

 熊楠が田辺に居を構えたのは明治37年(1904)のこと、二年後に田辺名所の一つである闘鶏神社宮司の娘松枝と結婚するのですが、式を挙げたのが田辺新地の南側に位置する田辺城(錦水城)跡にあった錦水館なる料亭?でした。まあ、この時点では田辺新地はまだできていませんけどね。とんでもない大酒呑みだった熊楠ですが、もちろん田辺新地には足繁く通っていたそうです。こんな怪人と対峙する芸者さんはさぞかし大変だったことでしょう。裏を返せば、相手ができる優秀な芸者さんがいたということになるのかもしれませんな。そんな熊楠の旧宅が今も残っているそうですので、それを訪ねながら路地裏などを時間の許すかぎりブラブラしたいと思います。



田辺新地の南の外れでこの旅最初のニャンコに遭遇。何が気になるのか、前方をじーっと見つめたままで全然こっちを向いてくれない・・・。



更地越しに見る田辺新地です。



すぐ近く、会津川左岸の河口に面して小さな公園があり、一部にこんな石垣が残っています。コチラが前書きにある田辺城の遺構になります。城と言ってはいますが、田辺藩は紀州藩の支藩的な扱いでしたので、一国一城の令により天守を造ることができず、実態は領主の館といった感じだったようです。



この石垣が残る構造物、田辺城の水門とのことなのですが、どれがそれなのかよく分かりませんでした。



公園の脇にある公民館、名前を錦水会館といいます。名前だけが引き継がれたのかな。



路地をウロウロしながら田辺新地の東側に出ました。今度は錦水旅館さんですか、残念ながら現在休業中みたいです。



一本向こうの通りにあるのが、中央に簡略化されたギリシャ神殿が張り付いたようなシンメトリーなファサードの白亜の洋館。昭和24年(1949)に建てられた旧田辺警察署、昭和29年(1954)には市の図書館、昭和38年(1963)からは中部公民館といった感じで数奇な運命を歩んだ建物なのです。



サイディングのように見えますが、釘の頭が見えましたので木の羽目板だと思います。まあ、本当のちゃんとした羽目板は釘の頭は見えませんけどね。現在はララ・ロカルさんなるカフェ+ベーカリーみたいなお店として余生を送っています。お昼は此処でもいいかなと思っていたのですが、なんと定休日・・・。



お昼のお店も物色しながら行きましょう。近くにあるのが池田写真館さん。この弧を描く豪快な破風は以前のお店から移したものかなあ。でも、このアンバランスさがかえってステキ。



遠くからも目立っていた蔵が並ぶ物凄い豪邸、地図には田辺酒造(名)とありますので合名会社ということですよね。しかし、どう見ても酒蔵とするには土蔵が小さすぎるし、煙突も見当たりません。門には『再来荘』とあるのですが、結局正体不明のまま。



宣伝頑張りすぎな、明治13年(1880)創業、醤油と味噌の小山安吉醸造元さん。コレ、風が吹いたら五月蝿そう。



ちょっと駅方向に戻った処にあるのが南方熊楠顕彰館、同敷地内に熊楠の旧宅があります。左の板塀の向こうがそれなのですが、ブハッ、なんと休館日。ゆっくり見学したかったので、平日に訪れたのがかえって大失敗、思いっきり予定が狂ってしまった。さきほどのララ・ロカルさんで嫌な予感がしていたんだよなあ。仕方ない、ブラブラできる時間が増えたとポジティブな方向にもっていきましょうや。



近くで出会った下見板張りの洋館付住宅の一種がなかなかオツな造りでした。



土蔵みたいに漆喰でアールが付けられた軒天に、松を象ったと思われる孔が並んでいるわけ。おそらく天井裏の換気孔だと思われます。こんなの初めて見ましたよ。



どんな町にもなぜか必ず存在する金光教の教会、門柱の文字に目が点。性金也・・・せ、性は金なり!?ウーム、妙に納得。もちろん違う意味だと思いますけど。



今にも崩れそうな築地塀と真新しい虫籠窓が並ぶ塀が向き合っておりました。



県道29号線に出る手前に可愛らしい洋館が残っています。昭和3年(1918)に建てられた旧木津医院さん。三角屋根に細かい桟が入った両開き窓が並んでいるハーフティンバー風です。



このちょっぴり跳ね出した部分が凄くいい、窓下の装飾もステキですね。現在は雑貨店として余生を送っているようです。



退役済みと思われる旅館紀伊国屋さん。入母屋破風の平瓦の小口が積み重なっている部分がとても綺麗。



その先の路地に入りますと、マンサードと半切妻がミックスされたような鮮やかな朱色の洋瓦が見えてきます。屋根から突き出したドーマー窓が豪快ですねえ。



大正末期に建てられたとされる旧長井邸、屋根の色から地元では赤別荘と呼ばれています。でも、こう見ると朱色というよりは橙色ですな、葺き替えたのかもしれません。コチラもハーフティンバー風のドイツ壁の外壁、暖炉の煙突が絶妙な位置にあります。今も個人のお宅として現役、手前の朱色の塀と一緒に。



南方熊楠顕彰館に寄れなかった時間を利用して、前書きにもある闘鶏神社に寄っていきましょう。允恭天皇8年(419)に熊野本宮大社から勧請されたと伝わる歴史ある神様、地元では権現さんと呼ばれ親しまれています。源平合戦の際、かの熊野水軍も此処で源氏につくか平氏につくかを占ったそうです。拝殿の後ろに四棟の本殿が並んでおり、それぞれに違う神様が祀られているわけ。塀の向こうは神域ということで、普段は入れないみたい。



神社南側の広場にクスノキの物凄い巨木がドーン。何も表示がないので樹齢などは分かりませんでした。



神社参道脇に小さなお堂が並んでいる一画があります。奥には大福院なるお寺があるようですが、手前の石碑に注目です。



弁慶誕生之地と刻まれているわけ。かの武蔵坊弁慶は田辺生まれというのが定説とされているそうですが、そもそも本当に実在した人物なのかというのは諸説様々、謎ばかりというのが実態らしいですな。ちなみに闘鶏神社には、君主である義経の横笛なんてものも奉納されているそうです。果たして真偽のほどは・・・。



まだ時間がありますので、今度は駅前通りを挟んだ味小路の反対側へ・・・コチラにもゴチャゴチャとした一画があるようですので。



こんな細い路地を適当にブラブラ、個人的はとても楽しいのですよ。



ニャンコってこういう狭っ苦しい処大好物ですよねえ。



屋根の並びが気に入っております。



駅前通りから続く弁慶通り沿い、とある中華料理店脇の細い細い路地の突当りに看板がチラリ・・・入っていくと現れたのがこんな光景。



路地はそこから直角に曲がって続いておりました。手前のお店、これは珍しい、竹を模したボーダータイルかと思ったら・・・本物でしたわ。



路そして路地は再び直角に曲がっており、そこが冒頭画像の場所。背後はすぐに弁慶通り、お店二軒の周囲をグルリと路地が取り囲んでいたというわけ。



結局目ぼしいお店の発見には至らず、行きのとき味小路で見かけた割烹銀ちろ本店さんの暖簾を潜りました。一人なのに個室に案内されちゃったと思ったら、全室そうだったみたい。どういうわけか和歌山県とくると鰹というのが頭にありまして、むしょうに戻り鰹が食いたいというわけでタタキの定食を所望。量がちょっと物足りなかったけど、おいしゅうございました。



カフェ&パブなのに巣菜句(スナック)とはこれ如何に。歯抜けのバージボードが哀しい。

後半はちょっとグダグダになってしまいましたね。その1でも述べましたが、田辺新地のあの雪洞型の街灯が現役ならば、夜にもう一度訪れてみたいものです。次に訪れるのは、営業距離たった2.7キロという、大好物の超絶ローカル盲腸線がガタゴト走る町。以前から気になっていた町でもあるのですが、ようやく訪れることができました。

和歌山県 御坊市201510 その1

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超絶ローカル盲腸線が走る町・本瓦が連なる家並み・カラフルな板金で包まれた割烹

これが駅の南口だなんて信じられます?


 紀伊田辺駅からJR紀勢本線で和歌山方面に戻ること45分ほどで御坊駅に到着です。和歌山県の中部に位置する御坊市ですが、この駅が町の表玄関というわけではありません。町の中心に出るためには此処で乗り換えないとなりません。その列車は御坊駅の外れにある0番線ホームで、重々しいアイドリングの音を響かせながら待っておりました。単行の気動車キテツ2形、元々は兵庫県の北条線を走っていた車両になります。これが超絶ローカル線の紀州鉄道線、長年憧れていた大好物の盲腸線であります。路線距離たったの2.7キロ、日本一短い鉄道という情報がありますが、西日本一というのが正しいようです。ちなみに日本一は千葉県を走る芝山鉄道で、路線距離は2.2キロとなっております。ただし、芝山鉄道は始発の東成田駅と終点の芝山千代田駅を単純に結んでいるだけですし、京成本線に乗り入れもしていますので、これを単独路線としてしまうのはちょっと無理があるかも。一方の完全な単独路線の紀州鉄道線は2.7キロの間に駅が三つもあるわけ。学問駅と紀伊御坊駅の間など300mほどしかありませんから、まるでちんちん電車並みですよね。

 紀州鉄道線の前身である御坊臨港鉄道が開通したのは昭和6年(1931)のこと、紀勢本線御坊駅と御坊の中心街とを結ぶというのが主な目的でした。当初は御坊-御坊町(現紀伊御坊)間でしたが、その後町の南を流れる日高川のすぐ手前の日高川駅まで延伸されます。それでも全長3.4キロですから、いかに短い路線であるかというのがよく分かると思います。こんな感じのマイナーな地方の私鉄ですので、戦後のモータリゼーションであっというまにジリ貧に陥ります。JRの路線だったらとっくの昔に廃止されていたのではないでしょうか。

 そんな小さなローカル線がなぜ今も生き残っているのか・・・その理由は昭和48年(1973)にこの路線を買収した会社にあります。紀州鉄道と名乗ってはいますが、この会社、本社は東京にあるのです。しかも本業は不動産売買やリゾート開発なのです。そんな会社が、なぜ遠く離れた小さな赤字路線を買収したのか・・・簡単に申せばネームバリューということになるのでしょうか。よく聞くでしょ、東急不動産、阪急不動産といった感じで、まあこの場合、不動産業は鉄道事業の傘下になるのでしょうけど。日本独特のものだと思いますが、鉄道事業というブランド力は偉大であり、それだけ信頼のおけるものということらしいです。そのブランドを維持するためだけに、この小さな鉄道は今日もガタゴト走っているわけ。実際は地元の方の貴重な足でしょうし、その存在は私のような人間や鉄ちゃんにとっても有難いこと。今や稀有な存在だと思いますので、紀州鉄道さんにはこれからもなんとか維持してほしいと切に願うばかりです。

 御坊駅を出た単行列車は、すぐにJRのレールに別れを告げて南下していきます。速度メーターを見ていましたら、30キロより先に針は動きませんでした。ママチャリでも追い抜けそうな速度なわけ。しかも、古い車体のせいなのか、はたまた歪んだレールのせいなのか、左右にグリングリンと激しくローリング、一瞬脱線するかと思いましたよ。そんなスリリングな列車の旅もたった8分でオシマイ、終点の西御坊駅に到着です。この駅もこれまた凄かった・・・。あ、紀州鉄道線のことで夢中になっていた・・・町のことはその2のほうでお話し致しますね。



掘っ立て小屋というのはちょっと失礼か、まあよく分からん造りの無人の駅舎なのです、コレ。折り返し運転を待つキテツ2形、結構新しいように見えますが、昭和60年(1985)製、30年前の車両です。



車止めの先にもレールは続いていますが、前書きにある日高川駅は既に存在しておりません。西御坊-日高川間0.7キロは平成元年(1989)に廃止されてしまいました。



異様に天井の低い待合室、私の背後に通りに面した北向きのメインの出入口があるので、コチラは南口ということでいいのかな?それにしても凄いなこりゃ。



キツキツの南口を抜けますと、正面に痩せ細った下見板張りとサビサビトタンのお宅が待ち受けておりました。



そのお宅の脇を永遠に列車が走らないレールが嘗ての終着駅まで続いています。廃線跡は辿りませんが、とりあえず日高川駅跡を目指します。



南口正面のお宅のロケーション素晴らしい、なんと川に面していたわけ。少し跳ね出した部分のつっかえ棒みたいのが妙に気になる。



今度はちゃんとメインの北口から出て通りを東へ・・・テント地が張られていたと思われるサビサビフレームの先に大門が見えてきました。カーブミラーで一文字隠れておりますが松原通り商店街です。



大門の処を右折すると、退役済みと思われるお店にアイスカクテルの表示。子供の頃、カップのアイスで、ケーキみたいなデコレーションで飾られているのありましたよね。真っ赤な偽物チェリーのゼリーが乗っていたような・・・私にとってはハレの日のアイスでした。アレってコレのことじゃなかったっけ?と思い調べてみたのですが、結局正体不明・・・謎の食べ物だ。近畿地方限定でしょうか。



少し行きますと、突然通りの幅員が大きく拡がります。もしかして!?と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、そういった雰囲気は皆無ですのであしからず。でも、戦後すぐの航空写真でも同じ状態であることが確認できるわけ。まあ、謎の通りであることには変わりませんが・・・。



謎の通りに面して古びた赤煉瓦の塀が残っています。案内板には終戦間際の空襲の痕跡が残る塀とあります。案内板の下辺り、三ヶ所ほどの黒い部分がソレだと思われます。太平洋に突き出した紀伊半島沿岸の町は格好の攻撃目標でした。B29による大規模なものというより、空母から飛び立った戦闘機や攻撃機による低空の機銃掃射やロケット弾によってかなりの被害が発生しているのです。



謎の広い通りを抜けると重厚な土蔵造りの町屋がチラホラ現れ始めます。虫籠窓にベンガラっぽい格子・・・ちょっとおかしいと思いませんか。普通、これらって通りに面して設けられるものだと思うのですが、なんでだろう。



しばらく行きますと、西御坊駅から伸びる錆びたレールが合流、その先が旧日高川駅跡です。未だに残る嘗ての終着駅のホームが雑草に埋もれようとしておりました。



適当に路地を選びながら戻ります。とあるお宅の玄関先に凄い葉っぱ、鉢植えの里芋でしょうか。



路地を抜けるとこんな趣のある塀がお出迎え。違い菱風の孔が面白いなあ。



分かりにくいと思いますが、コチラ、ニコイチの長屋風になっているわけ。和風コートハウスだなこりゃ。



同じ通りに面していたお店。画像を開いてから気付いたのですが、扉の上に風俗営業(料理店)の鑑札が残っておりました。



昭和初期に建てられたとされる巽邸さん。所謂洋館付住宅の一種としても宜しいかと。ただ、洋館付住宅というのは洋館部分、大抵この部分は応接間というのが多いのですが、平屋というのが一般的。こういった総二階というのは結構珍しいのではないでしょうか。



近くの立派な塀を構えたお宅、木製門扉の錆びた金具がとてもステキ。そして、何よりも上から飛び出した角刈りみたいな庭木が凄い。以上、恥ずかしがりやのお宅でした。



近くの空地は疎らなコスモス畑と化しておりました。



元禄元年(1688)創業という老舗の味噌と蔵元である堀河屋野村さん。創業当時は廻船問屋だったそうです。白っぽく退色した本瓦と糸屋格子の出格子が美しい店舗兼主屋は江戸後期に建てられたものとされ、国の登録文化財に指定されています。右に行くとさきほどの謎の広い通りです。



同じ並びにあるコチラはお住まいでしょうか。円形の造作に設けられた井桁の格子が面白い。



その先の路地に入りますと、こんな赤煉瓦の塀が現れ驚かされます。巾木に割り肌の石積み、アーチに加えコーナーにもアールが使われています。明治初期のものだそうです。



瓦が乗った天辺のディテール。このデザインが独特、ノコギリ状の装飾積みは結構見られるものですが、その下に特殊な形状の役物を一枚かますことによって陰影の深い表情になっているわけ。



西御坊駅裏を流れていた川に再会、下川というそうです。やっぱり川っぺりの光景はいいなあ。



最初に出てきた大門がある松原通りに戻って参りました。軒を連ねる町屋、手前から三軒目の袖壁に注目です。



写りが悪くて申し訳ない。鷲か鷹か、精緻な鏝絵が残っているわけ。反対側にも同じようなのがあります。一応ガラスでカバーされているのですが、かなり状態が悪いのが気がかりです。



松原通りがぶつかるのが県道176号線、町の目抜き通りの櫃一つかと。左手の軒下にオダレが下がった真っ黒な町屋は界隈で最古のもの、江戸中期に建てられたとされています。向かいの堀河屋又兵衛さんは林業を営んでいたそうです。江戸末期に建てられた主屋と昭和5年(1930)頃建てられた袖蔵とも国の登録文化財です。



江戸中期竣工の町屋・・・脇から見る本瓦葺きの屋根がとっても美しい。東日本ではお寺以外ではまず見られませんからねえ。大事に住まわれているというのがよく分かります。



グルリと回って県道176号線の東を並行している通りに出ました。この東町界隈に古い町屋などが集中しています。まずは寛政9年(1797)創業の岸野酒造本家さん、外壁の漆喰がいい感じに剥げ落ちて、下地の荒壁か中壁が露わになっているお店は大正期に建てられたものになります。



お隣の造りが妙に気になる・・・私は旅館か料理店系に見えたのですが、如何でしょう。



高欄風とまではいきませんが、りゃんこになった手摺子のシンプルさがいいね。あ、りゃんこというのは互い違いとか、位置をずらすという意味ね。欄間上の照明の文字は『真妻屋』と読めるのですが。試しに検索してみたら・・・やっぱり元旅館でした。



角に蔵を構えているのは志賀屋川瀬家さん。建物の詳細は不明ですが、ろうそくの問屋だったそうです。江戸の頃、生ろうそくはこの地域の重要な産物だったとか。



脇の路地の光景、蔵の雨戸には緑青が浮き出ておりました。



お隣の町屋・・・出格子にオダレ、棟の鬼瓦も立派、コチラもかなり歴史があるものだと思われます。



妻壁に謎の記号、新手のモダンアートですな。まあ、補修したのだと思いますけど。軒丸瓦の連続がステキ。軒天の漆喰による波形は、垂木を塗りこめて腐食から守っているわけ、お城などでよく見られるものです。デザインは機能に従うというわけです。



その先にお城の天守のようなお堂が見えてきます。本願寺日高別院の太鼓楼、文政年間に建てられたというのはいいのですが、門が固く閉ざされており境内に入れないわけ。どうやら境内に幼稚園があるからみたい。この日は平日でしたので、休日だったら違う状況なのかも。このお寺が御坊の町の形成に重要な役割を果たしているのですが、そのあたりのことはその2でお話し致します。



さらに進むと見えてくるのが旧華岡医院さん、玄関引違い戸の菱形の桟が目印。華岡と聞いてピンときた方はかなり鋭い、ちょっと誉めちゃう。世界初の全身麻酔手術を成功させた華岡青洲の子孫が開いていた医院です。医者の血って脈々と受け継がれるものなんですねえ。ちなみに青洲は和歌山県紀の川市の出身になります。



向かいにはこんな銅像、青洲のかと思ったら小竹岩楠なる方のでした。日高電灯・日高川水力電気を設立し、白浜温泉の海中源泉を掘り当てた御坊出身の名士だそうです。



その先には材木商を営んでいたという旧中川邸さん・・・って、手元の資料で見たものより綺麗になっているんですけど・・・しかもカフェなんて看板も出ているし、全く知らなかったぞ。ちょうどよかった、お茶したいと思っていたところ・・・ブハッ、また休みですかあ。前回の田辺もそうでしたが、祝日の振り替えだったようで、こういった施設が軒並み休みなわけ、初日からこんなんでは先が思いやられますなあ。



裏の通りに面したファサード、でっぷりとした豊満な土蔵も旧中川邸のもの。主屋のほうは二重に軒が回る豪華な造り、昭和初期に建てられたものとのことでした。

前半は此処まで・・・こんなノンビリとした雰囲気の御坊ですが、後半ではそんな町にも艶っぽい一画があることを証明したいと思います。遊里跡なのかということは、ご覧になった各自で判断してくださいな。個人的には間違いなく何かがあったと思っていますけどね。そして、これには前出の本願寺日高別院が深く関わっているのではと勝手に推察しているわけ。

和歌山県 御坊市201510 その2

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軒天までが板金で包まれているところが気に入っております。

 御坊の町の形成に重要な役割を果たしていたのがその1で紹介した本願寺日高別院です。正確には京都の西本願寺の別院になります。この別院、全国に八十ヶ所余りもあるそうですが、ほとんどが独立採算だというのは意外な事実でした。元々は御坊市の西隣の美浜町にありましたが、豊臣秀吉の紀州征伐の際に焼失、文禄4年(1595)に現在地に移転されます。地元では日高の御坊さんと呼ばれ、これが町の名の由来となったとされているそうです。以降、町は御坊さんを中心とした寺内町として発展していくことになります。

 その1でレポした古い町屋に中に材木問屋や廻船問屋がありました。日高川を利用し、上流で伐採した木を筏で河口まで流し、そこから江戸や大阪などに大きな船で運んだのではないでしょうか。物資の集積地という一面もあった町なんだと思います。旧熊野街道の紀伊路は御坊の中心街ではなく、現在のJR御坊駅辺りを通っていたようですが、御坊さんへの参拝客も多かったはず、そして上記の物資の集積地という一面・・・人が集まる場所に遊里有りです。地図に目を凝らしてみても、遊廓のような特徴的な町割りが残っているわけではありませんが、何ヶ所か気になる一画があるようですので、これからそこを訪れてみることに致します。



旧中川邸さんの裏手にこんな路地があります。手前の赤い手摺が妙に引っかかりますが、構わず足を進めますと・・・



別の路地に出るわけ。電柱にかすれた文字で旅館浜の家とありますね。



浜の家さんは路地のどん詰まりにありました。一応ネットではヒットするのですが、果てしなく微妙な感じ。



コチラにも風俗営業(料理屋)の鑑札が残っておりました。



入ってきた路地の角にはたこよしさん。建物の角が全部引き戸になっている面白い造りになっているわけ。



路地の並び・・・たこよしさんの隣にはリブ状の板が立ち上がるえびす食堂さん、洋食屋だったようです。



路地の出口には角にアールがついた物件、手前の更地には何が建っていたのでしょうね。



その入口廻り、見たところ床屋さんかパーマ屋さんといった感じでしょうか。ポーチには淡いピンクが散りばめられた玉石タイルが使われていました。



ちょっと戻って、旧中川邸さんが面している通りにあるのが江戸末期創業という和菓子の有田屋さん。卯建状の建物と一体になったような内照式の看板が非常に面白い。



近くの薗徹薬局さん、代々薬局を営んできた老舗、今も現役ですよ。かなり直されているようですが、店舗は江戸末期に建てられたものとのこと。軒下の横長欄間状の開口部に、昔のお薬の金看板が嵌め込んであるわけ。私は左の『グルゲル』がお気に入り、新手のモビルスーツかな。



銅板の緑青にトタンの錆汁が流れ出している堀口金物店さんは既に退役済みのご様子。昭和初期といった感じでしょうか。



その先にあるのが昭和3年(1928)に建てられた旧正宗屋酒店さん。当時、地方都市としてはまだ珍しい鉄筋コンクリート造の建物です。



かなり劣化しておりますが、キャノピーの先端にメダイヨン風の装飾が連続しています。屋根は後から乗っけたようですな。



地元で大浜通りと呼ばれている通りの光景。右手の物件、屋根の架け方が妙に気になるんですよねえ。此処については後ほど。



近くの路地に入りますと、こげ茶のモザイクタイルで飾られたショーケースの先に割烹松葉さんの看板が見えてくるはず。



二階のほぼ全部が板金で覆われているわけ。かなり退色しておりますが、外壁は緑、亀甲文様の戸袋は赤、一階の水色と合わせて往時はかなり派手なお店だったと思われます。



向かいには割烹ひさごさん。かなり直されておりますが、入母屋屋根のかなり立派なお店だったということだけは分かりますな。



嘗ては日高別院参拝後の精進落しの場だったら面白いかなと思っているわけ。



路地を抜けると再び大浜通り、出口に建つ退役済みと思われるパーマ屋さん、ポーチには市松模様。



屋根の架け方が気になると言った物件の正体は食堂でした。喜よ美食堂さん、伸び放題の庭木に隠れるようにして看板が残っておりました。



喜よ美食堂さんが面している四つ角のはす向かいにも曰くあり気な物件。へたり欠けの手摺がいい味出しております。



喜よ美食堂さんの前から北へ伸びるのが、いちばんそれっぽい匂いがする通りになります。もちろん個人的な感想ね。飲み屋や純喫茶が数軒チラホラ散見される中に、妙に艶っぽい建物が混じっているわけ。



入母屋破風が立派な真っ黒な物件、虫籠窓風の格子が並ぶ塀でがっちりガードされており、中の様子は窺えませんでした。



向かいには角出しの菱形の欄間。コチラにも風俗営業(料理屋)の鑑札。



一軒のお店では早くもカラオケ全開でした。



その先には崩れかけの円形の造作、塀の左官による鉄平石の巾木の毒々しい赤がステキ。



どうやら円形の造作部分は、板で塞いでいたのが外れてしまったようですな。



通りの出口にはオニギリみたいなユニークな屋根形状、ブルーシートの留め方がやけっぱち過ぎて笑っちゃいました。



西日に照らされた手摺が綺麗でしたよ。



近くには大門の痕跡、通りの名前はなんだったのでしょう。



その向こうには、まるで甲冑みたいなサビサビトタンが凄い物件、風格さえ感じるほど。



近くで出会った瓦葺きの洋館、元お医者さんといった感じでしょうか。アーチの間の手摺がオシャレですなあ。



さっきからお茶できる処を探しているのですが・・・とにかくな~んにもないわけ。



まあ、ブラブラしているだけで楽しい町なのですがね。



ヤマザキじゃないディリーストアはやっていないし・・・



太陽はつるべ落としだし・・・



そうこうしているうちに、お茶というよりお酒という時刻になってしまいました。仕方ない、ベースキャンプの和歌山市まで我慢しますか。再びオンボロ列車に揺られて帰りましょう。

御坊さんにお参りしたら、割烹青葉さんがある界隈で精進落し、それでも物足りない方は喜よ美食堂さんがある通りにどうぞ、こんな感じだったのでしょうか。まあ、何かが存在したということだけは分かっていただけたのではないかと。実はこういうことをするのは三ヶ月ぶり、どうもいまいちペースが掴めず異常に疲れました。以上で一日目はオシマイ、二日目は海沿いではなく紀ノ川沿いの町を訪れます。

和歌山県 橋本市高野口町201510

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バットレス付駅舎と三階建旅館・カーブを描くカフェー風?・遊里でお馴染のタイル

洋瓦が乗った小庇とくればアレ・・・だったらいいのですがね。


 紀州和歌山シリーズ二日目です。本日は秘境大台ケ原を源とする紀州随一の大河、紀ノ川沿いの町を巡ります。当初はご存知世界遺産の高野山を訪れようかと思っていたのですが、煩悩の塊のような人間が行っては失礼かなと思い諦めました。まあ、高野山に行くとほぼ一日がつぶれそうというのが実際のところ。でも、その入口だけでもというわけではありませんが、最初に訪れたのが高野口町。平成18年(2006)に隣接する橋本市と合併し、自治体としての町は消滅しております。名前のとおり、町から直線で南に10キロほど行きますと高野山ですので、嘗ては参詣口の一つとして賑わった町でした。10キロといっても実際は険しい山道ばかりみたいですけど。町中の東西を大和街道が貫き、高野山へ向かう高野街道と交差しておりましたので交通の要衝でもありました。産業的に見ると機業地になるでしょうか、現在もパイル織物が生産されており、家並みの中に幾つかのノコギリ屋根を見ることができます。

 最初に地図を眺めて思ったのは、区画整理などがほとんど行なわれていないなということ。曲がりくねる通りに、五叉路、六叉路といった変則的な辻がいっぱい、そこから細い路地が四方八方に伸びているわけ。これは町並みもかなり期待できるのではないでしょうか。あ、この二日目、遊里関係は期待しないでくださいね。情報皆無でしたし、できる限り地図上で気になった妖しげな処を探してはみましたが・・・。妙に引っかかる一画なんてものも出てきますが、それの正体が分かりませんので、妄想ばかりが炸裂しておりますので。まあ、気楽なブラブラまちあるきとしてご覧になっていただけたら幸いです。



和歌山駅からJR和歌山線で揺られること1時間ほどで高野口駅に到着。この駅の開業は明治34年(1901)のこと、当時は名倉という駅名でした。ホームの上屋は、トラスの小屋組が連続する木造です。



駅舎も下見板張りのレトロな木造、これはいい佇まいですなあ。明治45年(1912)に建てられたものが現在も使われています。軒下に連続するバージボードみたいな装飾が面白い。そして目を引くのが側面のバットレス(控え柱)。後付のようですが、耐震補強でしょうか。コレがある駅舎って結構珍しいと思います。



駅前広場の向かいにはもっと目を引く物件があります。総三階建ての旅館葛城館さん、明治後期に建てられたとされる国の登録文化財です。



天辺の唐破風の下に堂々とした扁額、何よりもオフィスビルみたいな連続する開口部が凄いですなあ。コレ、全開するんだと思います。



既に現役を退いているのですが、玄関を覗いてみるとこんなに綺麗、期間限定とかで公開されているのかもしれません。井桁の配置の竿縁天井、タタキは敷き瓦かな。金文字の看板には『高野山総本山金剛峯寺 御遠忌局指定旅館』とありました。参詣口として賑わった頃の遺構というわけです。



グルリと回り込む開口部が素晴らしい。



そのまま坂を下って脇道に入ると現れるのが旅館も里内さん、ネットでは全くヒットしませんので退役済みと思われます。



腰にはスクラッチタイル、縁取りの蛍光色っぽいマーブル模様タイルが面白い。



向かいにはおそらく青系統の外壁だったのでしょうが、退色し過ぎてグレーと化しているわけ。これが非常にいい塩梅なのです。



どうやら床屋さんだったようですな。ポーチに貼られた玉石タイルもかなり色褪せており、この枯れた風合いが堪らないわけ。



近くの廃屋、割れたガラスの奥を覗いてみると・・・なんと五右衛門風呂ではありませんか。



旧大和街道に出ました。変則の五叉路に合流する通りの光景。『かむろ』が妙に気になりました。



そのまま旧街道を辿っていきますと、冒頭画像の謎の物件が緩やかなカーブに沿うようにして建っているわけ。まあ、勝手に元カフェーとかだったらいいなあと思っているだけなんですけどね。柱の天辺から鉄筋が突き出しておりますが、増築でもするつもりだったのでしょうか。



ピーカンの秋空と全く同じ洋瓦の青、申し訳程度に貼られた鉄平石。そして、鉄柱一本で支えられたペラペラのキャノピー、これが堪らなく好き。



五叉路に戻って南に伸びる坂道を下っていきますと、両側に虫籠窓を設えた商家が現れ始めます。



この坂道、地元ではババタレ坂と呼ばれております。由来は荷物を引いた牛が、この坂で力んでウンチを垂れたからだとか。



鏝絵で屋号が描かれた森本理容所さんの前で足が止まりました。



ポーチに遊里でお馴染の騙し絵風のタイル、店内まで一面に貼られているわけ。此処で親爺さんのどうでもいい世間話を聞きながらカットされたい。よく見ると手前の部分、ちょっと色調とテクスチャーが違うの分かるでしょうか。おそらく四角形のタイルをカットして補修しているんだと思います。こういうのいいですよねえ。



その先の駐車場の向こうには、赤煉瓦の塀と一体化したようなノコギリ屋根。アーチの出入口の位置が絶妙。『おに車どめるな?』



近くの路地裏で見つけました。こんな形状のモザイクタイル初めてです。腰はグラデーションのつもりなのかな?



ショーケースがあることから、おそらく食堂関係だったと思われるお店。型板ガラスの柄が気に入りました。



細い細い路地を辿っていきますと、また赤煉瓦。よくよく地図を見ましたら、さきほどのノコギリ屋根の工場でした。



路地出口にあるお宅の塀です。菱形の虫籠窓風の格子が連続しておりました。



路地を抜けると再び旧大和街道、スーパー五一さんはガレージに転用です。あ、此処の場合はモータープールか。



駅前から続く旧高野街道(県道113号線)と旧大和街道が交差する辻に長大な塀を構えた豪邸があります。代々薬種商を営んできた旧前田邸さん、主屋は江戸後期竣工とされ国の登録文化財です。内部の公開は日曜のみですので今回は見学できず。



塗り替えたばかりの漆喰が眩しい主屋、越し屋根は囲炉裏の煙抜きでしょうか。この地方で結構見られるものです。



そのまま旧大和街道を辿っていきますとまた五叉路。角に建つ純喫茶プランタンさんがいい感じ。このまま辿りたいのですが、時間の関係で旧大和街道とは此処でお別れ。近くに国の登録文化財である高野口小学校があるのですが、平日ですので止めときました。



旧高野街道に戻ると、複雑な屋根が架かったお宅に遭遇。奥にステーキの看板が・・・



正体はこれまた喫茶店でした。その隣には・・・



こんな入母屋破風、額付の格子戸が独特ですな。



その先にもちょっと凝った造りの入母屋破風のお宅。この通り、右に行くとスーパーマーケットの駐車場にぶつかってしまうのです。妙に気になって、帰ってから戦後すぐに撮影された航空写真で確認しましたら、当時この一画は一面の畑でした。ちょっと損した気分です。



旧高野街道沿いでまたまた喫茶店。なんとも控え目な表示が奥ゆかしい。



あとはひたすら県道4号線を南下します。途中、いかにも眠そうな佇まいのおもちゃ屋さんに遭遇。



しばらく行きますと、外壁の廃れ具合が素晴らしい物件が現れました。妻壁だけが妙に綺麗なのが不思議。



正体は正面から見ると一目瞭然、廃業してからかなり時間が経過していると思われるお風呂屋さんでした。看板など何も残っていないので屋号は不明のまま。



はす向かいには変梃りんな看板建築。奥に工場か倉庫みたいのがありますので、嘗てはオフィスだったのかな。左官で石貼りを模しているんだと思いますが、目地の方向が普通と逆なわけ。こんなの初めて見ましたよ。



九度山橋で紀ノ川を渡ります。左手の高台に見えるのが、次に訪れる九度山の中心街です。

本当はフラフラと迷い込みたい路地がいっぱいあったんですけどね。時間の関係で此処までとさせていただきます。次回は弘法大師と真田幸村ゆかりの地である九度山です。
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