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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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三重県 松阪市201412 その1

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水路を跨いだトタン長屋・どん詰まりのピンク映画館・歓楽街に変貌していた遊廓跡

色褪せたトリコロールカラーにやられましたわ。


 三重県のほぼ中央に位置する松阪市、町の北西から南東へ旧伊勢街道(参宮街道)が貫き、西方の小高い丘の上には蒲生氏郷が築いた松阪城址が町を見下ろしています。江戸の頃は徳川御三家紀州藩の藩領、所謂飛び地みたいなものですな、北方を守る砦的な役割を果たしていた町なのではないでしょうか。

 城下町、そして宿場町だった松阪ですが、それ以外にも商業の町という一面がありました。近江商人、大阪商人と並ぶ伊勢商人の多くを輩出したのがこの町、豪商三井家の祖先も松阪出身なんだそうです。それから忘れてはならないのが、かの松阪牛。ほんと三重県はあなどれないぞ(笑)遊里関係はその2でお話致しますが、中心街は戦災に遭っていないようですので、地図を見るかぎり町並みなども期待できそうですぞ。画像数が結構ありますので、早々に始めさせていただきます。



前回の久居から近鉄名古屋線で15分ほど、どこにでもありそうな地方都市然とした駅前の光景に多少驚きながらも歩き出しました。



駅前広場の東に小さな飲食店が並ぶ一画があります。そこで見つけたマッチョな裸婦のレリーフ、バラの花弁がリアルすぎるのですが・・・多くは申さないでおいたほうがよさそうですな(笑)



駅から西に少し行きますと、商店が並ぶ長屋風の物件が現れます。



この長屋、途中からタイル柄が型押しされたトタンに包まれてしまうわけ。奥に見える瓦屋根は継松寺さんの本堂です。



並びには妙な意匠の飲み屋さんの痕跡もあったりします。



鶏肉専門店一軒だけを除き、他はすでに退役済みのようでした。貼り紙が目につきますがこう書かれていました。『この建物は、松阪市上下水道部の管理となっております』・・・コレの意味は引きの画で見ると判ります。



奥に見える片流れ屋根が長屋になります。そう、水路を跨ぐ形で建っているわけ。手前の布基礎のような痕跡、お判りになるでしょうか。以前は此処にも同じような建物があったのでしょう。既存部分も解体されてしまう運命のようです。



旧伊勢街道に出ました。阪内川手前にあるのが松阪商人の館です。



正式な名称は旧小津清左衛門家住宅といいます。小津家は前書きにある伊勢商人の名家、宝暦5年(1755)には三井家、長谷川家らとともに、紀州藩の御為替御用を命じられています。驚いたことにこの豪商は現在も健在でして、小津グループと名を変えて手広く商売されています。創業は承応2年(1653)といいますから、なんと360年以上、とんでもない老舗なのです。



この主屋は17世紀末から18世紀初めに建てられたとされています。通り抜けができる台所を挟む形で、見世の間や勘定場、向座敷、奥座敷など20余りの部屋が並んでいます。



かまどの数が凄いですよね。それだけ使用人がいたという証拠でもあるわけです。



個人的には建物より、こういった坪庭が気に入っています。



此処の案内のオッチャンがよう喋る喋る(笑)・・・まあ、ほとんどは小津家の自慢みたいな感じでしたが・・・。試しに遊里のことを尋ねますと、その2でレポする遊廓のことはよく知らないようでしたが、表を通る旧伊勢街道沿いにも遊廓が存在していたとのこと、これからそこに向かいますよ。



それは阪内川を渡った先だと聞いたのですが・・・



しばらく旧街道を行きますと見えてきたのが旅館満喜さんの看板、この辺りがそうなのでしょうか。



その先にももう一軒、塀には売物件の看板・・・。遊廓が存在したのは明治期までだったようですので、この微妙な状況は納得できるわけ。往時はお伊勢参りの旅人で相当賑わったはずですので、彼らの行き来がなくなれば遊里の存在理由もなくなったということなのかもしれません。



来た道を引き返すのもなんですので、裏通りをクネクネしながら戻りましょう。



その途中で出会ったのが冒頭画像の物件になります。判りにくいと思いますが、退役してからかなり時が経過していると思われる名無しのお風呂屋さんです。



腰に貼られた玉石タイルのカラーリングにウットリ・・・コレいいなあ。よく見るとシートの継ぎ目があるのお判りになるでしょうか。タイルのシート貼りという工法が確立されたのがいつ頃かは知りませんが、結構新しいものかもしれません。



再び阪内川を渡って、今度は旧伊勢街道の南側を並行している通りを行きましょう。和楽器専門店の三味線透かし彫り看板の先、べんがら色の外壁は明治35年(1902)創業の牛銀本店さん、もちろん松阪牛の専門店です。いい感じに空腹になってきましたよ。



松阪商人の館にもありましたが、格子上の斜めに突き出した庇状の板、コレのことをオダレと言います。ちょっと自信ないけど、漢字だと『汚垂』で正しいはず。文字から察すると、雨水が真下に落ちると建物の足元廻りが汚れますので、それを避けるための部材だと思われます。伊勢地方の町屋でコレをよく見掛けることができます。



その先にあるのが、松阪出身の著名人の中で最も知られていると思われる人物の旧宅跡になります。江戸時代の国学者で医師、古事記伝全44巻を執筆とくればわかりますよね。そう、あの本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまで暮らしていたのがこの場所になります。実際に住んでいた旧宅は松阪城址に移築されているのですが、それと合わせて国の特別史跡に指定されています。旧宅は移築されているのに、なぜか古びたお宅が・・・コレは何???



本居宣長旧宅跡の向かいにも伊勢商人の豪邸があります。旧長谷川邸・・・さきほどの小津家の中にも出てきた長谷川家とはコチラのこと。14代400年以上の歴史を誇る老舗中の老舗、現在も東京日本橋でマルサン長谷川として存続・・・と書こうと思ったら、この会社、去年解散していたとは・・・。その影響だと思うのですが、この豪邸、市へ寄贈という申し出があるそうで、市も取り扱いを検討中とのことらしいです。地図上では庭に大きな池も確認できますし、なんと茶室が三室もあるそうですので、うまく整備すれば観光の目玉施設になるんじゃないかと思っているわけ。まあ、変なテーマパークみたいにならないことを願っておりますよ。このときは見学できませんでしたが、現在は休日などに無料で公開されているようです。



旧伊勢街道は途中から町の目抜き通りともいえる県道50号線に変わります。拡幅されているため往時の面影はほとんど残っておりませんが、そこに面しているのがかの和田金。食通の対極に位置しているような人間ですが、それでも和田金くらいは知っておりますぞ。今回はちょっと奮発してと店先に出された料金表を拝見・・・そしてすぐさま退散、だって最低でも諭吉さんが一枚ちょっと必要なんですもの。精進落ししたからだ、などと訳の判らない言い訳をしながら別のお店を探しておりますと、ガラス張りのボックスの中で書き物をしている本居先生に出会いました。これが結構リアルなわけ。



その先で見つけたのが旅館鯛屋さん、創業220年、元々は旅籠でした。旧伊勢街道の拡幅に伴い、往時の建物を曳家で移築したそうです。かなり直されているようですが、僅かながら内部の急角度の階段に往時の面影を見ることができました。どうやら予約の客がほとんどのようでして、私のような飛び込みは珍しいと言いながら綺麗な女将さんが席を作ってくれました。



松阪牛鍋御膳・・・お金の話ばかりで恐縮です。和田金の三分の一ですが、肉質は間違いありませんぞ。まあ、こういうお肉はたまに食べるからいいわけですよね。おいしゅうございました。



高価な燃料補給完了、お次は松阪城址を目指します。



残念ながら天守閣は現存しておらず、現在は松阪公園として整備され市民の憩いの場となっております。公園内にシンメトリーな構成の入母屋造り和風建築があります。入口の破風の鬼瓦は鶴を象っています。元々は明治45年(1910)に建てられた飯南郡図書館でしたが、昭和53年(1978)に市立歴史民俗資料館に改修され余生を送っています。国の登録文化財です。



目についたのがこの看板。まあ、看板自体より、梅毒とりん病に真っ先に反応したというのはここだけの話。松阪の特産だったという白粉の展示コーナーには、吉原の遊女の記述もありましたよ。市内には現在も白粉町という町名が残っています。時間の関係でゆっくりできなかったのが心残りです。



石垣の上から見下ろすとこんな感じ。学校建築にも見えてくるから不思議です。



それよりも気に入ったのがコチラの公衆便所。可愛いでしょ、放尿姿がまる見えですけどね(笑)



さきほどの旧宅跡から移築された本居宣長の住まいがコチラ。建てられたのは元禄4年(1691)、保存のため現在地に移築されたのは明治42年(1909)のこと。右の塀を兼ねた袖壁が延びる坪庭奥の二階部分が『鈴屋』と呼ばれていた彼の書斎になります。和風コートハウスといった趣の、伸びやかな屋根が美しい建物です。



城址の南側、石畳の通りを挟む形で、二棟のまるで倉庫のような長~い建物が向き合っておりました。あ、右上と左下の影は緩んでいたレンズフードです。全く気付かなかった、お恥ずかしいかぎりです。トリミングでうまく切り取れないのはそのままですので、本人が気がつくまでもうしばらくお付き合いくださいませ。



コチラは御城番屋敷、その名のとおり松阪城の警護にあたっていた武士の住まいになります。文久3年(1863)に建てられました。マキの生垣の向こう、長い屋根の下は棟割長屋風(組屋敷)になっているわけ。



そのうちの一戸を市が借り受け内部を公開しています。此処も時間の都合でゆっくりしていられません、ご理解くださいませ。



全国的にみてもこのような組屋敷は大変珍しいということで、国の重文に指定されています。驚いたのは今も普通に住人がいるということ・・・重文の建造物で生活するってどんな気分なのでしょうね。



御城番屋敷の石畳を抜けると県立松阪工業高校、校門脇を覗くと真っ赤な外壁が目に飛び込んでくるはずです。旧三重県立工業高校製図室、明治41年(1908)に建てられた経産省の近代化産業遺産です。切妻屋根に下見板張り、上部は漆喰塗りのハーフティンバー風ですな。現在は松阪工業高校資料館として余生を送っています。別名『赤壁校舎』と呼ばれ親しまれているそうですが、その理由が説明板に記されておりました。『当時は実験に使用する硫化水素の影響を受け建物の塗料が黒変すると考えられていたため、校舎の外壁はすべて変色しない朱(硫化水銀)で塗られていた』ちなみに『あかかべ』ではなく『せきへき』なんだそうです。

前半は此処まで・・・さきほどの遊廓は明治期まででしたが、後半に訪れるのはおそらく県議会で廃娼決議が行なわれるまでは存在していたと思われる遊廓になります。しかし、地図を眺めたかぎりではいまいちの印象・・・何か発見できると嬉しいのですが・・・。

三重県 松阪市201412 その2

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お客様の健康を守るため、何を設置していたのでしょう。


 『松阪町遊廓 三重県松阪町字松宕町に在つて関西線亀山駅から参宮線に乗換へ、松阪駅で下車すれば東南へ約六丁、松阪電車を利用して「平生町」迄行けば賃三銭である。松阪は蒲生氏郷の修築した松阪城址があつて、今は松阪公園に成つて居る。本居宣長の故郷で彼の書斎は今公園に保存して在り、墓も山室矢那の妙楽寺に在る。松阪木綿の主産地も此処で、富豪三井王国の祖先も此処の出身だ。参宮街道中での繁華地なので昔は随分遊女も多かつたものらしい。現在も昔のままの宿場に成つて居て、貸座敷は十四軒あり、娼妓は全部で七十五人居るが三重県人が最も多い・・・』

 お馴染『全国遊廓案内』の抜粋から始めさせていただきますが、文中の『松宕町』は間違いで、正しくは『愛宕町』だと思います。この町名は現在も健在なのですが、その1でレポした阪内川対岸の遊廓(西の廓)に対して、コチラは東の廓と呼ばれていたそうです。場所は判ったのですが、どうも地図を見てもピンとこないわけ。現在の愛宕町は歓楽街と化しているということだけは判るのですが、特徴的な区画はおろか料亭や旅館といったものも見当たらないのです。

 その理由は愛宕町の歴史を知るとある程度納得することができます。この遊里、明治26年(1893)、昭和26年(1951)と二度もの大火に遭っているのです。二度目が戦後というのが興味深い・・・おそらくこの遊廓も昭和14年(1939)の公娼廃止で無くなったはず。戦後赤線として復活したかは定かではありませんが、もしそうだったとしても大火で焼けてしまったのでしょう。その名残が現在の歓楽街ということなのかもしれません。まあ、そのあたりのことをこれから確認しに行きたいと思います。



駐車場の向こうに見えた光景にビックリ・・・はて、松阪城の天守は台風で倒壊したと聞いているのですが・・・。



正体を確認しようと回り込んでみますと、清水歯科医院さんの奥に建っているようです。RC造の外壁に貼り付けたような唐破風・・・医院自体も面白い造りになっていますな。



こりゃ凄いなあ。上部の見事な造りに比べて、下部がいい加減になっているのが気になります。以前は別の建物に繋がっていたのかもしれません。帰ってから調べてみますと、戦争で亡くなった息子さんを慰霊するために建てられたのだとか。



その1でも少しお話した白粉町に入りました。いいなあ、この町名。その中心に見事な近代建築が残っています。大正2年(1913)に建てられた旧松阪水力電気㈱本社、現在は松阪地区医師会館として余生を送っています。アールがついた建物の角が玄関になっていて、それを強調するかのように、様式は不明ですがオーダーがデーンと構えています。パラペットのアールデコ調の装飾も素晴らしいぞ。



赤煉瓦に見えますが煉瓦風タイルです。窓廻りは洗い出し風のモルタルでしょうか、縦ラインを強調した意匠になっております。小庇の持ち送りもしっかりとデザインされておりますね。築100年超なのにとても状態がいいのに驚きました。



近くの四つ角の光景・・・渋い芥子色の商店の腰にはスクラッチタイルが使われています。



魚元さんは魚屋さんだったようですが、仕出しみたいなこともされていたようです。



こういった虫籠窓が見られるのが三重県辺りからになるでしょうか。コレの東限ということになるのかもしれません。



これはいい路地・・・微妙なくねり具合から、元は川だったのではないかと思われるコレを抜けますと・・・



いきなりコレが現れるわけ。オッ、鬼六先生原作ではありませんか。一応断っておきますが、双葉鮨さんで上映しているわけではありませんぞ(笑)



絶賛上映中なのは、脇の路地のどん詰まりにある松阪大映さんです。路地沿いには長屋風の飲み屋さんが並んでおりました。ちなみに『緊縛卍責め』は昭和60年(1985)の作品、主演は高倉美貴・・・何を隠そう、彼女と宮下順子の大ファンであります。どうでもいいですね、こんな情報・・・。あ、そういえば日活ロマンポルノが復活するそうですね。あっけらかんとしたAVより、やはりシットリとした陰影のあるこっちでしょう。



松阪大映さんの前身は昭和15年(1940)頃開館したアサヒ座、当初は大映専門の封切館だったようですが、昭和45年(1970)前後にピンク映画専門に鞍替えしたそうです。それが今や松阪市内に残る唯一の映画館・・・後から出てきますが小津安二郎が青春時代を過ごした町だというのに、ちょっと寂しい状況なのです。



路地に並ぶ飲み屋さんには料理店の鑑札が残っておりました。



妙に惹かれた恋人さん、でもすでに退役済みみたい・・・残念。



謎の組み合わせが並ぶショーケース、恋人さんのです。



まだ愛宕町の手前なのですが、飲み屋さんが目につくようになってまいりました。



近くには大人のサロンもあったりして、いかついオッチャンが二人も目を光らせていて、さすがにカメラは向けられませんでしたよ。



国道42号線を渡ると愛宕町です。ウーム、どう表現したらいいのでしょう、いい感じに寂れているというのは確かのようですが・・・。



こんな妻入りの町屋も残っておりました。一面の焼け野原というわけではなかったようですな。



判りにくいと思いますが、畳まれたテント庇にはみちき遊技場とあります。温泉街でもないのに遊技場、やはり射的やスマートボールといった感じだったのでしょうか。娼妓も客に連れられて此処で遊んだのかもしれませんね。



鑑札も残っていましたよ。



四つ角に建つ出窓がグルリと回り込む物件。小割りにされた一階の店子は全て飲み屋さん。ある程度予想していたのですが、やはり大火のせいなのか、判断しずらい物件ばかりなのです。



コチラは一種の横丁建築、妖しい赤はいいのですが、明らかに新しいですよね。



奥の電飾看板は大人のサロン、看板に明かりは灯っておりましたが、ひっそりと静まり返っておりました。



蘭さんのアールでまとめた入口廻りがとてもいい。



歓楽街北側に残っていました。間違いなく遊廓が現役の頃からのものだと思うのですが、長屋であることも間違いないようです。



大した収穫もなく愛宕町を東西に貫く旧伊勢街道(県道60号線)に出ました。昔の芝居小屋風なのは小津安二郎青春館。小津は多感な9歳から19歳までの10年間を松阪で過ごしました。愛宕町にあった神楽座に足繁く通っていたそうです。此処も時間の関係で寄れなかった・・・。



同じ旧伊勢街道沿いで見つけたお宅、一階に洋風の窓が使われています。でも、コレも違うよなあ。



こんな路地を見つけましたが・・・



・・・黒ニャンコにメンチ切られただけでした。



旧街道の南側にあるのが日本料理武蔵野さん。創業は文政3年(1820)という老舗、当時の屋号は広月楼。昭和になって武蔵野に改めたそうですが、『全国遊廓案内』には武蔵楼とあるのですが、果たして・・・。



ここで時間切れ・・・というより、はるかにオーバーしているのですが・・・急いで駅に戻りましょう。

以上で松阪の探索はオシマイ。遊里関係は残念な結果でしたが、まちあるきとしてはかなり楽しめましたから、これもよしとしておきましょう。ただ思うのは、松阪大映さん末永くということだけ。次に訪れるのは大きなお寺を中心に栄えた環濠が残る寺内町、遊廓は濠の向こう側にあったそうです。明らかに日没に間に合いそうにないのですが、どうしよう・・・。

三重県 津市一身田201412

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寺を模した木造駅舎・環濠に囲まれた寺内町・精進落しは濠の向こうで

妻入りに注目とのこと・・・玄関廻りには色褪せたべんがら?が残っておりました。


 松阪市から近鉄線でベースキャンプのある津市に戻り、JR紀勢本線に乗り換え名古屋方面へ一駅で一身田に到着です。ちなみに読みは『いしんでん』、地元では『いっしんでん』と呼ばれることもあるようです。この町は真宗高田派本山専修寺を中心に栄えた寺内町として知られています。この専修寺、本寺は大好きな町の一つである栃木県真岡市にあるというのは、あまり知られていない事実ではないでしょうか。本山専修寺の創建は寛正6年(1465)のこと、その後二度の火災によって伽藍などが焼失しますが、その都度熱心な信徒の寄進によって再建を果たしてきました。

 地図をご覧になればすぐに判りますが、町の特徴として真っ先に挙げられるのが寺の周囲を取り囲む一辺500mの正方形の環濠になるでしょうか。嘗ては濠の内側に土塁が築かれていたそうです。拙ブログでも幾つかレポしたことがあるのですが、お隣の奈良県には環濠集落というものがあります。あちらは集落(村)としてある程度の自治権が認められていたそうですが、一身田も同じような状態だったと推測することができます。寺内町への入口は濠に架かる三ヶ所の橋だけ、内側には門が建っておりその脇には番所があったそうです。三ヶ所の門は西に桜門、東に赤門、南に黒門・・・遊里は黒門の向こうの橋向町にありました。

 『一身田町遊廓 三重県河芸郡一身田町字橋向町に在つて、関西本線亀山駅から参宮線へ乗換一身田駅から、伊勢電車へ乗つて高田本山停留場で下車する。此の町には高田専修寺があつて此の寺の為めに栄えた町で、真宗高田派の総本山である。本尊は慈覚大師作の阿弥陀仏で、天拝一光三尊仏である。宗教の盛んな処丈けに、人情は至つて純朴である。貸座敷は目下十一軒あつて、娼妓は五十人居るが殆んど三重県の女だ・・・』



JR一身田駅の開業は明治24年(1891)、駅舎は大正12年(1923)に改築された二代目になります。切妻屋根の外側に回廊が回る木造駅舎は、専修寺を模したとされているそうですが、いまいちピンとこないのですが。



駅前には左官で石貼り風の目地が切られた洋館、どうやら運送屋さんだったみたい・・・とはいえノンビリしていられません。今にも日が暮れそう・・・。



駅前から続く通りを西へ少し行き、桜門跡で環濠を渡りますと巨大な門が見えてきます。



専修寺の唐門・・・建てられたのは天保15年(1844)、国の重文です。アンバランスに思えるほどの迫力に圧倒されます。精緻な透かし彫りや彫刻がいっぱいあるのですが、暗すぎてサッパリですな。これでもかなり画像弄くっております。



唐門の向こうに見えるのが如来堂、寛保3年(1743)に建てられましたが、地盤が軟弱なため工事はかなり難航したそうです。噂では人柱が使われたとか・・・。



左が如来堂、右が御影堂・・・とにかくデカイです。



御影堂は正保2年(1645)の大火で焼失しますが、津藩や信徒の寄進によって延宝7年(1679)に再建されました。コチラも国の重文です。ちなみに三重県内最大の木造建築なんだとか。



如来堂と御影堂は通天橋という渡り廊下で繋がっています。竣工は享和2年(1802)、なんとコチラも国の重文。如来堂の見所は跳ね出した屋根を支える肘木の凄まじい連続、これは一見の価値ありですぞ。暗くてよく判らないけど(笑)



御影堂の正面に位置するのが山門。二層、間口20mという巨大な門、宝永元年(1704)頃の竣工とのこと。国宝の京都東福寺三門を参考にしたとされているそうです。コチラも肘木が美しいですね。そして、またまた国の重文・・・重文だらけのお寺はこれくらいにして遊廓跡に向かいましょう。いかん、本当に日が暮れそう・・・。



往時を物語る町屋も結構残っているようなのですが、ゆっくり探索できなかったのが残念です。



専修寺の門が面している通りを右折すると、黒門跡と記された看板が見えてきます。この向こうが橋向町、遊廓跡ということになります。黒門は大門を兼ねていたということになるのかな。



現在の環濠は至って普通の水路といった趣き、嘗てはもっと広かったみたいですけど。それでもかなり貴重な遺構だと思いますよ。



ご丁寧にも橋向町の案内板まで、有難いことです。当時は水茶屋と呼ばれていたんだ・・・どうやら妻入りのお宅に注目するといいことがあるみたいですぞ。



最初に現れた妻入りのお宅、二階の窓の桟と手摺が凝っています。



ポーチには市松模様の縁取りが残っておりましたよ。



お隣は妻入りではありませんが、繊細な造りの格子が美しいなあ。コチラのほうがそれっぽいですよね。



さきほどから妙だと思っていたのですが、ほとんどのお宅に明りが灯っていないのです。空き家ばかりなのでしょうか。



分岐する路地に入ると真っ黒な三階建て、かなり直されている様子ですが、果たして・・・。



その先には仕出しもする魚屋さん。やはり精進落しで賑わった遊廓なのかもしれませんね。この遊里、昭和30年頃まで現役だったらしいのですが、戦前の公娼廃止で一度消え失せて、戦後になって再び赤線として復活したのでしょうか・・・まあ、何にせよ宗教と遊里という不思議で密接な関係が垣間見える町が此処にもありました。



すっかり日が暮れちゃいました。専修寺の南にひろがる向拝前町を抜けて駅に向かいます。



高い塀に遮られて中の様子が窺えないお宅、変わった意匠の防火壁が顔を覗かせておりました。



重文の山門から延びる参道から見た専修寺、人影は皆無です。

一身田駅に着くと、ちょうど津市方面の列車が発車したところでした。時刻表を見ると次の列車は一時間後・・・まあ、急ぐ旅ではありませんから、無人駅の無人のベンチでボンヤリ、これも旅の醍醐味の一つだと思っておりますよ。それではまた明日・・・。

三重県 鈴鹿市神戸201412

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高札場跡が遊廓跡?・藤製乳母車と芥子色洋館・カフェーみたいな銭湯

三叉路の辻、この界隈だったようです。


 伊勢三重の旅も最終日、今日は名古屋方面に戻りながら途中にある町を訪ねていきましょう。近鉄名古屋線の伊勢若松駅から西へ分岐しているのが近鉄鈴鹿線、営業距離たった8.2キロ、大好物の盲腸線であります。三両編成の列車でガタゴト揺られること二駅で鈴鹿市駅に到着です。サーキットぐらいしか頭に浮かんでこない鈴鹿市ですが、嘗ては代々本多家が治めた神戸藩一万五千石の城下町でした。ちなみに『こうべ』じゃなくて『かんべ』ね。町の南北を伊勢街道が貫いていましたので宿場という役目も果たしていました。往時はお伊勢参りの旅人の往来で賑わったのでしょう。明治22年(1889)の町村制により神戸町となりますが、昭和22年(1947)に行われた二町十三村による空前の大合併で神戸町は消滅、変わって発足したのが現在の鈴鹿市になります。

 そんな町に存在していたのが神戸町遊廓、この遊廓、お馴染『全国遊廓案内』にも一応記述があるのですが、これが何とも心許ないわけ。規模はおろか場所も不明、単に遊廓があると記されているだけなんですもの。これは困った・・・ネットの情報では駅の近くにそれらしき場所あるとのこと。とりあえずそこを訪れてみるかと駅を出ると、氷雨のような冷たい雨がシトシト、陰鬱な空を見上げていると何だか気分が滅入ってきちゃいました。



駅前にあるのが明治43年(1910)創業の割烹旅館魚半楼さん。残念ながらお店は新しいというか、何とも微妙な七十年代風・・・



・・・と思ったら裏手にある別館?は黒い羽目板張りの歴史のあるものでした。



近くを流れる六郷川には橋がいっぱい、皆同じような造りなのが面白い。戻って駅前をかすめるようにして北へ向かう旧伊勢街道を少し行きますと、三叉路が見えてくるはずです。



角に建つ繊細な格子が美しい旅館油伊さん、建物は築150年なんだとか。のっぽの石碑には『三重県幸名郡長島村大字押付管轄境七里参拾壱町五拾間』、足元のチビには『神戸町道標元標』と刻まれておりました。江戸の頃、この三叉路の辻は高札場だったそうです。



塀に隔てられた坪庭に続くのは増築された部分でしょうか。親子格子かな、こっちも綺麗だぞ。



ネットの情報では油伊さんがある一画が遊廓跡とのこと。神戸宿は旅籠に飯盛女を置くことが許されていたそうで、宿場としての役目を終えた後、それらがそのまま貸座敷になったということなのでしょう。その後の公娼廃止によって貸座敷は旅館に転業、それが現在の姿なのかな?



北に少し行くと、六郷川の袂にそれらしき物件がもう一軒。飲み屋さんの亡骸が付属していますね。



六郷川を跨ぐ大橋、雷紋が刻まれた親柱が独特な形状。コレ、元々は上に何か立っていたんじゃないかなあ。ゲートがあって大門の役目を果たしていた・・・と妄想すると楽しいわけ。



対岸から振り返ります。この六郷川、嘗ては蛍の名所だったとのことのなのですが、そんな面影は皆無なのでした。



このまま旧伊勢街道を北へ辿っていきましょう。途中、絵になる藤製の乳母車に出会いました。今も造っているのでしょうか。



その先、両側から防火壁が突き出た芥子色の洋館が現れましたよ。



パラペットの装飾がいいね。ご覧のとおり、現在は役目を終え朽ち果てるのを待っているような状態です。



創業250年、主屋は明治13年(1880)に建てられたという加美亭旅館さんです。おそらく前身は旅籠だったのではないでしょうか。そうなると飯盛女も!?



加美亭旅館さんの先で家並みが途切れてこの石垣が現れます。案内板には神戸の見附とありました。此処に往時は木戸が設置され門番が立ち、夜間の往来が禁止されていたそうです。神戸宿の北の外れということですな。



来た道を戻るのもなんですので、並行する路地を辿っていきましょう。



こ、これは・・・名のある作庭家の作品に違いない(笑)



油伊さんがある三叉路に戻って参りました。今度は南側を探ってみましょうか。



窓の桟が美しい商家がありましたが、残念ながらコチラ側には遺構らしきものは残っていないようでした。



再開発によって拡幅されたばかりと思われる真新しい通りに出ました。昔の航空写真には、間口の狭い町屋がビッシリ並んでいるのが写っていたのですがね・・・。通りに面して建つムーブルかんべ再開発ビルの前に石橋と刻まれた石碑がありました。橋の親柱みたい、嘗ては川が流れていたようです。



真新しい通りを西へ、拡幅の終点から向こうは古い家並み残っていましたよ。



その先に見えてきたのが、デカデカと描かれた『ゆ』の文字。



鈴鹿市唯一の現役銭湯、三鈴温泉さんです。御主人が体調を崩されて一時期休業していたそうですが再開されたそうです。向かいの文具店、これがまたいい雰囲気なのですよ。しかしこの通り、さきほどの拡幅された真新しい通りの延長にあるわけでして、いつまでこの光景が見られるのか、かなり心配な状況なのです。



文具店裏手に続く黒い壁、こんないい感じの家並みが残っているのになあ・・・。ちょこっと頭を覗かせているのは三鈴温泉さんの煙突です。



向かいにはカイゼル髭みたいな左官装飾が残る窓、洋館付住宅の一種ということにしておきましょう。



次に向かったのは、現在は公園になっている神戸城址北側の一画。旧伊勢街道の裏通り、トタン外壁にコレが泳いでおりました。どうやら錦鯉の養殖をされているようです。



その先には洋館風の蔵とでも申しておきましょうか、面白いねコレ。手前の塀の基壇部分、石積みも見事です。



石蔵かと思ったら、目地は左官によるものでした。あ、やっと雨が上りましたよ。



旧伊勢街道に出て駅方面へ、さきほどの真新しい通りとの交差点に面しているのが、既に退役済みの紀元湯さん。



入口前には衝立状の石積みの壁・・・何だろうこの材種、此処にもちゃんと逆さクラゲ。



衝立にはガラスブロックが埋め込まれておりました。



裏手には飲食店が入った長屋が続いていました。立派な煙突ですね。



駅に戻る途中にまたお風呂屋さん、これには驚いた。だって紀元湯さんから100mも離れていないのですもの。



昭和湯さん・・・驚いたというのは上記の理由だけではなく、そのデザインです。コレ、女性が向き合っているようにしか見えませんでしょ?こんなカフェー建築があってもおかしくないよね。



脇の小さなアーチ窓が穿たれた小屋?の用途は何でしょう。



もっと驚いたのが入口廻りの腰に貼られた丸モザイクタイル。こりゃパステルカラーのシャボンだ・・・素晴らしいセンスですなあ。



昭和4年(1929)創業、独特な建物は昭和33年(1958)に建てられた二代目、廃業されたのは平成14年(2002)のことでした。このグルグル渦巻き、旗立て金物とか旗差し金物と呼ぶのですが、要するに祝日などに日の丸を掲揚するための金物です。ちょっと前までは建物の必需品だったのですが、近頃の新築物件では滅多に見かけなくなってしまいました。

最後の最後に陰鬱な空を吹き飛ばすような物件に出会った鈴鹿市の探索はオシマイ。昭和53年(1978)時点で、この町には21軒ものお風呂屋さんがあったそうです。実のことを言うと鈴鹿市を選んだ理由は、盲腸線に惹かれたからというのはここだけの話(笑)ちょっとしためっけものの探索になりました。次に訪れるのは四日市市、ようやく憧れの横丁建築に会えるわけ・・・これが凄まじかった。

三重県 四日市市201412 その1

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歓楽街裏手の花街跡?・赤紙が貼られた横丁建築・海に突き出た遊廓跡

遥々東京からモボ(大嘘)が訪れたというのに、モガさんやっていなかった・・・。


 鈴鹿市神戸から近鉄線で名古屋方面に戻ること30分ほどで近鉄四日市駅に到着です。四日市市は県庁所在地の津市よりも人口が多いそうで、三重県最大の都市なんだとか。今回の旅、津市にベースキャンプを置いていたわけですが、駅前の光景が全く違うことに妙に納得(笑)現在は名古屋への通勤通学のためのベッドタウンと化しているようですが、嘗てはその名とおり毎月『四』のつく日に市が開かれていた町でした。東海道43番目の宿場としても栄え、ちょっと手前の日永の追分で伊勢街道が分岐していましたので、交通の要衝でもあったわけです。この東海道なのですが、私、物凄い勘違いをしておりまして・・・ちょっと恥ずかしいぐらいなのですが、それについてはレポの中でお話したいと思います。

 この四日市宿ですが、幕府直轄の天領でもありましたので代官所が設置されており、最盛期には本陣2、脇本陣1、旅籠98を数えたといいます。おそらく旅籠に置かれていた飯盛女が後の遊廓形成の一因となったのでしょう。かなりの規模の宿場だと思うのですが、現在の中心街にその名残みたいなものを見つけるのは非常に困難な状況になっています。その原因は、終戦間近に9回にもわたって行われた大規模な空襲にあります。四日市には大日本帝国海軍第二燃料廠をはじめとする大きな工場が並んでいましたので、米軍の格好の攻撃目標となったようです。この空襲で中心街は焦土と化してしまいます。

 このような状況ですので、私好みの古い町並みはおろか近代建築の類はほぼ期待薄・・・。それなのに、何故この町を訪れたのか・・・まあ、こういったものがお好きな方ならご存知かと思いますが、この町には絶品の横丁建築があるんですよね。実のことを言うと、遊里跡よりこっちのほうが楽しみだったりするわけ。駅を出ると、さきほどのまでの陰鬱な天候はなんだったんだというくらいの青空がひろがっておりました。地図を見ますと、デパートなどが建ち並ぶ駅前から南に延びるちょっと気になる通りを見つけたわけ。辛うじて嘗ての町並みが残っているような・・・。



これが結構いい感じなわけ。ちょっと寄り道になりますが、コレを辿ってみましょう。



その先の東海道と表示された案内板で???前書きに東海道の宿場ウンヌンとか偉そうに書いていますが、どういうわけかこの時点では四日市は伊勢街道の宿場と思い込んでいたというわけ。しかも、東海道は名古屋から岐阜方面に北上していたと、これまた勝手に思い込んでいたという体たらく・・・。慌ててスマホで調べて驚愕の事実を知ることに・・・嗚呼、恥ずかしい。



ハイ、これが正真正銘の『旧東海道』ですぞ(笑)この辺りは空襲の被害から逃れることができたのか、ほんの僅かですが往時の名残が残っているような気がしました。



脇道で見つけたニャンコみたいな塀・・・おっと、ノンビリしてはいられません。結果としてこの寄り道が後々響いてくるんですよね・・・。



急いで駅前に戻って参りました。何となく元旅館といった雰囲気のお宅。



中央通りを渡ってアーケードの架かった商店街に入るとコイツが・・・ご当地キャラの大入道、毎年8月初めに開催される大四日市まつりでは、コイツの巨大版が練り歩くそうです。首が伸びたり縮んだり、ちょっと動きが卑猥かも(笑)



アーケードの裏手はちょっとした呑ん兵衛横丁になっておりました。



そのまま北に向かうと次第に歓楽街の様相を呈してきます。そんな中にあるのが諏訪公園、噴水の向こうに貴重な近代建築が残っていました。旧四日市市図書館、昭和4年(1929)竣工、国の登録文化財です。



スクラッチタイル貼りの外壁から柱型を突き出させて縦を強調させる意匠になっています。本を象ったレリーフには『2588』、なんだと思いましたら、着工した昭和3年→紀元2588年という意味とのことです。



諏訪公園裏手の通り、小さな飲み屋さんが軒を連ねています。奥の立派な塀は料亭旅館大正館さんのもの、創業100余年だそうです。入り口から中の様子は窺えませんでした。



大正館さん裏手の路地、次第に場末っぽくなって参りました。



ちょっと西に行くと今度は大門が現れた。冠しているのがビルの名前というのが面白いぞ。界隈には数軒の大人のサロンらしきお店も散見されました。



国道164号線の延長である大通りを渡ると元町です。どうもこの一画、元花街っぽいのです。あ、個人的感想ね、証拠は何もありませんから。



だって、こんな立派な入母屋造り、現在はアパートになっているようですが・・・。



そして、コチラは料亭か旅館か、間違いなくそっち系ではないかと思われるのですが・・・。



近くにはこんなお風呂屋さんまであるのです。住吉湯さんです。



奥のタワークレーンが建っている現場、手元の地図には寿美家と表示されているのです。寿美家さんは明治10年(1877)創業という老舗の料亭なのですが、お店は消え失せマンションの建設が始まっていたというわけ。しかし、なぜかお店のHPは健在なのです。更新が2年前で止まっているのが気になりますが・・・何があったのでしょう。



アーケードの商店街に戻りうなぎの松岡さんで遅い昼食。本当はひつまぶしにしたかったのですが、時間がないのでクリスピーなうな丼をかっ込んで外に出ると、焼肉屋の天辺に薄っすらと『銀座女学院』の文字。ほ~ら、エロいこと考えた方おりませんか?残念!!コチラは元和裁学校とのこと、拙ブログお馴染の文化服装学院の一種としても宜しいかと。不思議なご縁です。



次に向かうのは海側に位置するJR四日市駅。近鉄四日市駅から東に1キロほど、退屈極まる単調な町並みを抜けていきます。近鉄線は昭和30年頃までJR四日市駅を経由しその先で西へ分岐していたそうですが、その後に現在の新線が敷かれ近鉄四日市駅が開業すると周辺の区画整理と再開発が一気に進むことになります。一方のJR四日市駅周辺はというと、昭和のまま放置プレイといった感じ・・・まあ、それがいいのですがね。



そんな寂れた駅前の一画で彼は生まれたそうな。そして目的の横丁建築もそんな場所にあるわけです。



逆光の先に崩壊寸前に見える妙な架構が見えてきました。これが目的の巨大横丁建築、三和商店街でございます。



ポッカリと口を開けた暗がりがオイデオイデをしておりますが、まだまだ我慢我慢。まずは外回りから。



赤煉瓦にスタッコがいかにもな感じ、妖しさを一層引き立てておりますなあ。



回り込むと今度は変則の日の出型看板建築の一種とでも申しておきましょうか、此処にも入り口ありますね。手造り感溢れる木製バルコニーがいいね。



モルタルの劣化具合が素晴らしいなあ。



この並びのお店の幾つかは現役みたい、その間にも入り口があります。



入り口を覗いてみると、ソバ食堂?と描かれた上に50円の表示、いつ頃の物価なのでしょう。



同じ並びにあるきっちんケミアさん、ランチのハンバーグが500円!?此処にすればよかった。



更にグルリと回り込みます。四周が道路に面した横丁建築ってかなり珍しいと思いますぞ。



やっぱりこのファサードがいちばん、ちょっと残念だったのが、モガさんがやっていなかったこと。



脇にはモガさんのサイケな看板が残っておりました。



同じ並びにあるのが四日市温泉さん。茶の細いボーダータイルを少しずらしながら縦に貼っているため、一見すると竹垣にも見える面白い外壁です。そしてアールのついた窓、何だか電車の正面に見えてきちゃいました。



もうすぐ開店みたいです。

前半はここまで、内部はその2までお待ちくだされ。その2ではおっかなびっくり崩壊寸前の内部を見学した後、港に突き出した遊廓跡を訪ねます。

三重県 四日市市201412 その2

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傾いた陽射しが差し込む『明るい商店街』。


 『四日市高砂遊廓 三重県四日市市高砂町に在つて、関西線四日市駅で下車すれば東へ五丁の地点に在る。四日市は北伊勢第一の都会で、伊勢湾に臨んだ貿易港である。米穀の取引所があり。萬古焼、茶、綿糸等の産物がある・・・東海道の宿場女郎から現在の如き遊廓に成つたのは明治三十三年頃で、現在貸座敷は十軒あり、娼妓は約四十人居る。殆んど娼妓は県下の者が多い・・・』

 お馴染『全国遊廓案内』から始めさせて頂きます。これから訪れる遊廓の昭和初期の様子です。やはり宿場の飯盛女が由来だったようですね。風紀上けしからんということで、町外れに半ば強制的に移転させられたのでしょう。おそらくこの遊廓も戦前に施行された公娼廃止で一度は途絶えているはずですが、戦後になって赤線として復活していたようです。

 先日、池袋西武で開催されていた古本市で手に入れたのが、『実話雑誌(昭和29年3月特別増刊号)全国赤線青線地区総覧』、所謂カストリ雑誌ですな。巷には復刻版が出回っているようですが、それよりも安かった、ラッキー(笑)それには『港楽園』という名前で載っておりました。ただ気になるのは『港に近い西新地の』と頭に付くこと。西新地というのは、その1でレポした諏訪公園裏手の現在は歓楽街になっている一画なのですが、もちろん港とは全く関係ないわけ。まあ、後出し情報ですからと思いながら調べてみますと意外な事実が・・・。

 やはり西新地に存在したのが『港楽園』だったようです。しかも近くには『春国園』という赤線もあったというのです。そうなると『高砂遊廓』は戦前の公娼廃止で終わっていたということなのでしょうか。さらに四日市十二景という絵の中に明治初年の高砂遊廓なるものも見つかってしまうし、『全国遊廓案内』の記述と全く違うわけ。調べれば調べるほど謎が深まる四日市の遊里、何なのコレ・・・。まあ、以上のことは『実話雑誌』によってもたらされた新情報ですので、今更どうこう言っても仕方がないですよね。



遊里ウンヌンはとりあえず置いといて、いちばんの目的である三和商店街を堪能していきましょう。やはりいちばん目立つ此処からお邪魔するというのが礼儀でしょう。



『明るい商店街』・・・あながち間違っていない状況なのですよ。



ほら、通路に架けられた屋根の塩ビ波板がほぼ全滅、よって陽射しが燦々状態というわけ。



その先で通路は丁字路になり、屋根もそれに従って直角に曲がっていくわけ。



コレは素晴らしいなあ、首が痛くなるまで見上げておりました。



しかし、脇を見るとこんな惨状なわけ。



『ナツメロ』を超越した光景だなこりゃ。



洋瓦一枚分の小庇があるカフェー風のお店もありました。奥のブルーシート部分にもお店があったようですが、完全に倒壊してしまったようです。



ガタガタになったコンクリート平板が堪らない、明美さんの傾き具合も絶妙すぎるでしょ。



退役済みのお店、半開きになったドアの隙間の暗闇にレンズ突っ込んでみました。いかにもなスツールが堪らないわけ。



バーの鑑札も残っていましたよ。



四日市市の赤紙が貼られていました。ちゃんと調査したのかは不明ですが、赤紙=全壊或いは一部損壊ということになるわけ。実はかなり危険な状態なのですよ。一応申し上げておきます。実際に訪れて、何かトラブルに遭ったとしても拙ブログは一切関知しませんのであしからず。



この惨状を見れば納得して頂けるかと・・・。



こんな状態ですが、幾つかのお店はまだ現役みたい。かなりのベテランママさんと思われる女性が出入りしていましたから。この横丁建築の成り立ちは不明ですが、おそらく戦後の焼け野原の中、ドサクサに紛れるようにして建てられたのではないでしょうか。その結果、建物同様権利関係も複雑になっていて、役所も容易に手を出せないと・・・。以上、余命僅かという感じの匂いがプンプンする憧れの横丁建築でした。



JR四日市駅の東側に出て、船溜りになっている運河を渡るとそこが高砂遊廓跡です。



遊廓跡入り口にあるのが旅館いちきさん、庭木の松が元気すぎて全景が判りません。



皮付きの桜を使った欄間が面白いですね。ネットでもヒットしませんので、既に退役済みと思われます。



港に向かって延びる通り、コレが嘗てのメインストリートと思われます。



メインストリートの中ほどにある物件。とても興味深い造りなのですが、それはひとまず置いといて、戦後すぐに撮影された航空写真を見ていて気付いたことがあるのです。その1で四日市は大空襲に遭っているとお話しました。航空写真には四日市駅周辺にひろがる一面の焼け野原が確認できたのですが、港のほうへ視線を動かしていくとコチラのすぐ手前で焼け野原が途絶えているのです。ギリギリで空襲から逃れることができた物件というわけです。



興味深いといったのが突き出すように増築された元飲み屋部分。何だか板チョコみたい(笑)当初は赤線時代のものかと思ったのですが、前書きのことが事実であれば違うことになりますな。確かに言われてみれば、そこまで歴史のあるものではないような気がします。



横から見ると、まさに書き割りみたいなペラペラ状態というのがよく判ると思います。



その先にもう一軒、間口はそれほどではありませんが、中庭を囲むような感じで奥行きがかなりあります。



コチラの注目は二階の手摺。唐草模様風のスチール製グリルがとても珍しいと思ったのですが、よく見ると錆の感じからして結構新しいような気がするのです。オリジナルではないのかもしれません。



はす向かいにある二軒長屋、戸袋にはダイヤが描かれておりました。



メインストリートを突き抜けると、そのまま港に延びる突堤に出てしまいます。この遊廓跡、三方が港に面しているわけ、浮世からの隔離ということを考えるとおあつらえ向きの場所だったのでしょうね。



防波堤越しに見る書き割り飲み屋がある物件です。ウーム、どうもピンとこない。やはり戦前に終わっていた遊里なのでしょうか。



近くにある明治39年(1906)創業の料亭浜松茂さん。奥行きが深くてお店の様子は窺えませんでした。



同じ並びにある金砂稲荷神社、遊廓との繋がりみたいなものは発見できませんでした。此処で重大な事実が判明、帰りの新幹線の時間を間違えていた・・・やっちまった。当初の予定では、この後JR関西本線で名古屋方面へ二駅目の富田で下車し、住吉町にある謎多き一画を訪れるつもりでしたが、そこに寄っていたら新幹線に間に合わない・・・ぶった切りみたいで申し訳ないのですが、四日市の探索は此処までとさせて頂きます。



『港楽園』跡かもしれない歓楽街を抜けて近鉄四日市駅へ向かいます。

相変わらずしまらないラストで申し訳ない、以上で伊勢三重シリーズはオシマイ。建物としての遺構が少なかったのがちょっと不満ですけどね。まあ、長年憧れていた横丁建築を堪能できたのは大収穫でした。『実話雑誌』に住吉町のことが記されてありました。『住吉遊楽園』という赤線だったそうです。手前の東富田にも『富田新地』なる場所があったそうですから、いずれ両者とも訪れたいと思っております。

群馬県 安中市201503 その1

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飯盛女不在の宿場・道にはみ出た赤煉瓦煙突・逆さクラゲ発祥の地

円窓が存在していたと辛うじて判断できる状態ですな。


 群馬県の西の外れ、長野県軽井沢町と接しているのが安中市です。南の碓氷川と北の九十九川という二つの川が作り出した東西に長い台地の上に中心街がひろかっています。これは大好物の一つである河岸段丘の町ということなりますな。そんな安中ですが、江戸の頃は安中藩三万石の城下町、そして中山道15番目の宿場町でした。この宿場、往時は本陣1、脇本陣2が置かれていたそうですが、どうも評判が宜しくなかったようなのです。この先には関所に碓氷峠という難所が待ち構えているのですから、手前の宿場でゆっくり身体を休めるのが普通だと思うのですが、ほとんどの旅人は素通りだったため、宿場は寂れる一方だったとか・・・。

 上記の理由として考えられるのが飯盛女の存在です。安中藩は旅籠に飯盛女を置くことを許可しなかったそうなのです。江戸の頃から廃娼県だったというわけ・・・いや、廃娼藩か(笑)まあ、これじゃ素通りされても文句は言えませんよね。こんな状態ですので、侍の時代が終わってもそういった面はあまり芳しくなかったようです。しかもすぐに公娼廃止となってしまいますからね。その後、県内ではお馴染乙種料理店が隆盛を極めることになりますが、安中は依然として寂しい状態のままでした。昭和18年(1943)に群馬県警がまとめた統計には、乙種料理店2、酌婦2、甲種料理店2、甲種料理店雇婦3、カフェー及バー1、カフェー及バー雇婦2という記録が残っています。町の規模からするとちょっとね、これはいかんでしょ。

 以上のような状況ですので、今回の探索、遊里関係は期待しないでくださいね。杜撰な下調べでも何も出てきませんでしたし。ですので、お気軽なブラブラ散歩といった感じにしたいのですが、実はこの町、なかなか手が出せないでおりました。理由はその距離、今回は安中駅から一駅先の磯部駅を目指すのですが、直線距離で10キロもあるのですもの。かなりの歩行距離を覚悟して、靴紐をきつく締めなおすと安中駅から歩き出しました。



安中駅の赤い屋根越しに望む東邦亜鉛安中精錬所。広角レンズですのであれですが、実物は斜面に並ぶプラント類が大迫力です。ちなみに安中駅駅舎は明治33年(1900)竣工、何度か改修されているようですが、群馬県内最古の駅舎になります。



妙義山の奇怪な山並みを遠くに眺めながら国道18号線で碓氷川を渡ると、県道125号線が左に分岐しています。コレが嘗ての中山道、途中の脇道や裏通りに寄り道しながら、旧街道をひたすら西へ西へと辿ります。



碓氷川側への脇道を下ると立派な石垣、すぐに河岸段丘の町らしい光景に出会うことがきました。



旧中山道の交差点、大野屋さんという商家の裏手に海鼠壁の土蔵が残っています。明治26年(1893)に建てられたそうです。



土蔵も美しいのですが、注目してほしいのが手前の赤煉瓦の塀。これは煉瓦の長手と小口を交互に積むフランス積という工法です。長手と小口で色を変えているというわけ、オシャレです。



コチラも碓氷川側へ下っていく脇道の光景、やっぱりステキだ高低差。



コレには驚いた!!北関東特有の重厚な土蔵造りの商家はいいのですが、脇のコレ、門って言っちゃっていいのでしょうか。



怪獣が大きく口を開けているようにしか見えないのですが・・・。



その先にあるのがつるだ理容所さん、鏝絵というより型押したような屋号がむちゃくちゃカッコイイぞ。退役済みっぽいのが残念。



巾木にはブルーグレーのスクラッチタイル、この色大好物なのです。しかも縦目地をネムリにして横のみを強調しているところが小憎らしいですなあ。



お隣には公民館、一階キャノピーに持ち送り風の装飾がありますが、新しいんだか古いんだかよく判らない不思議な建物です。



伝馬町交差点を右折、北に続くダラダラ坂を登った先にあるのが旧碓氷郡役所、明治44年(1911)竣工の二代目になります。柱や梁に、後述する杉並木の杉が使われているそうです。大正15年(1926)に碓氷郡は廃止になってしまいますが、現在は当時の様子を紹介する資料館になっています。此処の係をしているお爺ちゃんに乙種のことを尋ねたのですが、残念な結果に終わりました。



お隣には珍しい大谷石造の日本基督教団安中教会があります。大正8年(1919)竣工、設計は古橋柳太郎、国の登録文化財です。楽しみにしていたのですが、看板を見て愕然・・・なんと見学するには三週間前までに予約しないといけないとのこと。こんなアングルでしか撮れませんでした。



ちょっと行った処に土蔵を付属させた長屋門みたいな不思議な物件があります。



大名小路というのは通りの名前、此処の裏手の安中小学校辺りに安中城址があったそうです。気になるのは木戸脇の『獨楽荘』、調べてみましたら安中出身の日本画家、小野踏青のアトリエだったようです。



旧中山道に戻る脇道で出会った謎の洋館。



正体は既に退役済みと思われるお医者さんでした。キャノピーを支える柱が懲りすぎ(笑)



旧中山道に戻ると、微妙な感じのパチンコ屋の向かいに赤煉瓦の蔵。米庄商店倉庫、明治23年(1890)に建てられました。



ちょっと戻った処で和洋折衷のステキなお宅を見つけましたよ。見越しの松がカワイイですね。



向かいには立派な質屋さん、鬼瓦が見事です。



物凄く惹かれました。大アタリか大ハズレ、はっきりと評価が分かれそうなお店ですな。たぶん大アタリだと思うけど・・・残念ながらまだ腹減っていないんだよなあ。



再び碓氷川側へ下った処で見つけました。道祖神、馬頭観音、庚申塔、道端の神様オールスター勢ぞろいではありませんか。



また旧中山道渡って北側へ、改修が済んだばかりなのか、妙に真新しい茅葺屋根の曲り家が現れました。曲り家って東北特有のものかと思っていたのですが関東にもあるんですね。旧安中藩郡奉行役宅・・・安中藩藩主板倉勝明の側近、山田三郎の住まいだったと伝えられています。



通りを挟んだ向かいにも長~い茅葺屋根があります。コチラは旧安中藩武家長屋、江戸末期に建てられたとされています。桁行26間とのことですので、47mほどになるでしょうか。



所謂棟割長屋ですな、安中藩の武士四家族が暮らしていたそうです。



歴史のあるものではありませんが、面白いバルコニーを設えたお宅です。



近くにはこれまた面白い窓がありましたよ。木造物干し場がポイント高いです



旧中山道沿い、擬人化されたミシンが自身を縫っている・・・。



お隣の廃屋と化したお店、欄間に板金の細やかな手仕事の痕跡。こういうの大好物です。



勇ちゃんの店で左折、脇道に入りますと・・・



そこが冒頭画像の場所。おそらく飲み屋さん関係だったと思われるのですが、この凄まじいまでの荒廃っぷり、看板や鑑札などが残っていればねえ・・・。



突き当りには鳥居のあるお宅、元旅館っぽく見えたのは気のせいでしょうか。妙に心に引っかかった一画でした。



旧中山道に戻ると立派な土蔵が現れます。天保3年(1832)創業の味噌と醤油の醸造元である有田屋さんです。嘗ては安中藩の御用達だったそうです。



分厚い煉瓦塀の脇に小さな庭があるのですが、そこに出るためのにじり口みたいな小さな扉が設えてありました。銅板の板金による麻の葉模様ですね。



お店の裏手に回ると、赤煉瓦が美しい煙突が現れます。此処、ちょっと面白い状況になっているのです。



お判りでしょうか?この煙突、通りにかなりはみ出しちゃっているというわけ。そのわりには擦られた痕跡皆無なのが不思議(笑)



ちゃんとデザインされているのが素晴らしいと思います。

前半は此処まで。後半でも引き続き旧中山道を西へ西へと辿りますよ。その後、鄙びたとしか表現しようのない小さな温泉郷を訪れるのですが、コレがなかなか宜しかったわけ。

群馬県 安中市201503 その2

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コリント式の一種でしょうか、裏通りにこんなものがあるなんて、侮れないぞ安中市。


 まだしばらく旧中山道を西へと辿るのですが、その後訪れるのがJR磯部駅前にひろがる磯部温泉です。知る人ぞ知る秘湯・・・というほどでもなく、中途半端な知名度があるといっては失礼かな。まあ、此処がいい感じに鄙びていて拙ブログ的には大変宜しい処でした。この磯辺温泉、誰でも知っているある記号の発祥地とされているのですが、それについてはレポの中でお話致します。

 温泉繋がりというわけではないのですが、先日、仕事がらみで仙台に行ってきました。合間の土日を利用してぶっつけ本番的な探索を行なってきたのですが、その中に二ヶ所の温泉が含まれていたわけです。それで思ったのですが、夏場の温泉巡りなんてするもんじゃないですな(笑)今夏の異常な暑さと温泉の熱さという合わせ技で、のぼせて危なくぶっ倒れるところでしたよ。これについてもそのうちレポでお伝えできたらと思っておりますが、素朴な共同浴場巡りはとても楽しめました。いい感じで文字数が埋まりましたので、引き続き旧中山道からお伝え致します。



旧中山道沿いにありました。越し屋根がありますよね、嘗ては屋根裏でお蚕さんを飼っていたのではないでしょうか。



それが今やフロアレディー募集中・・・華麗な変身だあ。



その先で碓氷川側に入ってしばらく行きますと、この茅葺屋根が見えてきます。安中が生んだ名士新島襄の旧宅です。新島は熱心なキリスト教徒で牧師の資格も持っていたそうで、その1でレポした日本基督教団安中教会は彼が創立したものになります。



再び旧中山道に戻り、国道18号線を渡りますと杉並木がチラホラ現われ始めます。原市の杉並木、もちろん中山道が現役の頃からのものになります。昭和初期には300本以上あり国の天然記念物に指定されますが、枯死などで生き残っているのは僅か十数本なんだとか。その後に植えられたと思われる比較的若い木も混じっており、どれがそれなんだかよく判らない(笑)



そんな杉並木の脇に一軒だけラブホがあったりするわけ。コレが乙種の名残・・・なんてことは有り得ないよなあ。



更に西へ・・・原市の集落に入りますと、高札場跡の表示。奥の石碑には明治天皇原市御小休所と刻まれておりました。



原市にも立派な教会があります。基本基督教団原市教会、昭和28年(1953)に建てられました。戦後なんだ、見た目は完全に近代建築ですな。創立されたのが明治19年(1886)とのことですので、おそらく二代目になるのではないかと。



幼稚園の敷地内に建っていますので、此処も外から眺めるだけ・・・。



原市の旧中山道沿いの家並み・・・店蔵や土蔵などが比較的良好な状態で残っておりました。



その家並みの裏手で変わった造りの可愛らしいお宅に出会いました。



なんといっても二階の窓、いいでしょコレ。



調べてみましたら、さきほどの原市教会の牧師さん宅だったみたい。そうとくればコリント式風の柱装飾も納得なのですが、かなり状態が悪いのが気になります。空き家なのでしょうか。



此処で旧中山道とはお別れ、真新しい通りを碓氷川へ下りJR磯部駅を目指します。何気なく撮った石碑、後で確認しましたら首塚入口と刻まれているではありませんか・・・。近くに八幡平の首塚なるものがあるそうで、中世のものと思われる150体以上の頭蓋骨が発見されているそうです。



その先にこんもりとした丘が現れます。これは一目瞭然ですよね。そう大昔のお墓、二子塚古墳、全長80mほどの前方後円墳です。以前は竹薮に覆われていたようですが、整備工事の真っ最中でした。今頃は公園として開放されているのではないでしょうか。



碓氷川を渡り、変化に乏しい風景の中を2キロもトボトボ、ようやくJR磯部駅に到着です。駅前には歓迎の大門、愛妻湯の町ってなんぞ???



駅前ロータリーの花壇にこの石碑があります。皆さんご存知の逆さクラゲマークは、磯部温泉が発祥の地とされています。石碑にもありますが、万治4年(1661)に書かれた『上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚』に添付された地図にコレが描かれているそうです。



大門を潜った先の今井食堂さんで昼食、驚いたことに駅周辺で食事できるお店が此処ぐらいしかないのです。鄙びているというのは下調べである程度判っていたのですが、これほどだったとは・・・。チャーシュー麺、おいしゅうございました。



今井食堂さんの並びにあるかなり大きな商家だったと思われる建物の軒下に・・・



こんな謎のマシン。正体をご存知の方いらっしゃいます???



裏通りを適当にフラフラしていますと、前方に何か見えてきた。



一見すると至って普通のお宅といった趣きなのですが、唯一円形の造作だけが異彩を放っているというわけ。こういうのを見ると必ずこう思うわけ、元置屋さん???



碓氷川側の河岸段丘と思われる坂を下っていきますと、また大門が現れたぞ。



大門の先には退役済みと思われるパーマ屋さん、鏝絵による屋号が妙に達筆(笑)



その先の法面の擁壁にはド派手な壁画が描かれてありました。どうやら地元の美大生と子供たちによるコラボ作品みたいです。



壁画の向かいには退役済みと思われる元旅館らしき物件、玄関脇には崩れかけの円形の造作が残っておりました。平屋のように見えますが、道の向こうは崖、玄関が二階にもあるわけです。



崖を下った処に建つ、明治12年(1879)創業の小島屋旅館さん。建物の一部がスクラッチタイル貼りの洋館風なのです。これがなかなかの佇まい。



この木造渡り廊下、人が通る度ミシミシッ、ギシギシッ・・・ちょっと恐いんですけど(笑)



どうやら洋館部分が浴室みたい、中はどうなっているんだろう。HPには表記されていなかったのですが、立ち寄り湯とかやっていないのでしょうか。



鄙びた鄙びたと連呼しておりますが、もっと碓氷川側に下っていきますとかんぽの宿といった大きな旅館が数軒ありまして、そちらは結構賑わっておりましたよ。まあ、それだけ駅周辺とのギャップが凄まじいということにもなるわけです。



駅前から続く通りに戻って参りました。正面の金鳳堂さんは磯部煎餅の老舗、常連と思われる老夫婦が車で乗り付けて入っていきました。磯部煎餅は所謂温泉煎餅の一種、よくありますよね、温泉水と小麦粉で作る軽い歯ざわりのヤツ。



近くの磯部公園にもありましたよ。

スマホの歩数計を見ますと此処まで19キロ、結構歩いたなあ。以上、今の季節には絶対できない安中市の探索でした。近くの足湯で少し休んでから隣町に向かうことに致します。

群馬県 安中市松井田町201503

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欄間の緑の色ガラス・旧街道裏通りの三階建て・二十ウン年ぶりの再会

旧中山道の山側に妙に引っかかる一画がありました。


 群馬県の西の外れに位置する安中市ですが、その市内の西の端っこにあるのが松井田町です。以前は単独の町でしたが、平成18年(2006)に行われた安中市との合併で自治体としての松井田町は消滅しています。この町も嘗ては中山道の宿場、安中宿の次ですので江戸から数えて16番目ということになりますね。此処の先には17番目の坂本宿、そして碓氷の関所が待ち構えていることになります。

 この松井田宿、安中藩の領地内にありましたから、安中宿と同じく飯盛女は置けなかったはずと思いながら調べてみますと、やはり旅人の人気はいまいちだったみたい(笑)皆さん難所の碓氷峠越えに備えて、関所手前の坂本宿で身体を休めるというのが通例だったそうです。まあ、坂本宿にも飯盛女はいないのですがね。酒をかっくらって不貞寝といった感じだったのではないでしょうか。

 以上のような状態ですので遊里関係はかなり期待薄・・・一応、安中の際に紹介した群馬県警がまとめた統計には、乙種料理店3、乙種料理店酌婦3、甲種料理店3という記録が残ってはいるのですが、地図と睨めっこしても全くピンときませんでした。まあ、それでも別にいいのです。この町を訪れたのは、ある建物に二十ウン年ぶりに再会するためなのですから。あ、そうそう、以下の画像、右上と左下に妙な影が写っているのがありますが、緩んでいたレンズフードです。盗撮しているわけではありませんので(笑)



高台にあるJR松井田駅から下り、上毛三山パノラマ街道で碓氷川を渡ったら左に分岐するダラダラ登っていく坂道に入ります。すぐに現れるのが、玄関廻りだけが石造になっているお宅。



大谷石かと思ったら、妙に緑がかっているし肌理も細かいなあ・・・材種は何だろう。



このダラダラ坂、結構キツイなどとブツブツ言いながらしばらく行きますと、中華幸楽さんが現れます。かなり惹かれる佇まいですが、たぶんえなりかずきはいないと思います。



お隣には立派な箱文字で屋号を掲げる呉服の東屋さん。



東屋さんのお隣には、重厚な黒漆喰塗り土蔵造りのお宅、これにはビックリ。見事な鬼瓦に積み重なる棟瓦、緑青の浮き出た銅板張りの雨戸が美しい。



もちろんメインは右なんでしょうけど、左の小さな石造アーチは何のため???



再び戻って参りました、旧中山道(県道33号線)、この辺りが宿場の中心だったのではないかと。仲町の交差点に、一見すると元旅籠にも見えなくもない古い商家が残っておりました。その脇の通りを山側に入っていきますと・・・



とうの昔に退役したと思われる歯医者さん。全体の造りは普通のお宅のようですが、石貼り風の目地が切られた左官仕上の外壁、細かい桟が入った木製窓、玄関の豪快に跳ね出したキャノピーなどなど、不思議な魅力に溢れた建物です。



その先の光景、左のお宅に視線が吸い寄せられました。



腐食防止のため、垂木の小口がちゃんと銅板でカバーされた出桁造りはひとまず置いといて・・・欄間に緑の色ガラスが使われているわけ。最初から銅板の緑青を想定していたのでしょうか、だとしたらコレを建てた棟梁はかなりの手練れ・・・考えすぎでしょうか。



その先の商家の造りも妙。二階の閂で閉め切られた雨戸?とその間の露わになった横材、明らかに伝統的な構造ではないわけです。右の格子はスライドして閉まるんじゃないかなあ。おそらく二階でお蚕さんを飼っていたのではないかと。消失寸前の看板を解読しますと、その後はクリーニング店だったようですが、今はもう・・・。青のモザイクタイルに見えますが、残念ながら型押しされたトタンでした。



歯医者さんの処に戻って今度は旧中山道の北側を並行する通りを西へ・・・。



ステキなお宅がありました。綺麗に直してありますが、玄関のキャノピーや柱を見れば一目瞭然ですな。二本の柱のデザインが異なっているのが面白いです。



その先にボロボロのテント庇、どうやらお寿司屋さんだったみたい。



腰には妖しい赤の左官による偽鉄平石、これが全部フラットじゃなくて、所々面を変えているところなんかが妙に芸が細かいわけ(笑)レトロな柄の型板ガラスがいいなあ。



左のしもた屋風のお宅、二階の額入障子がステキなのはいいのですが、雨戸と障子の間にガラス戸が確認できないのです。普段からこの状態なのでしょうか、宿場が現役の頃からのものだったりして。向かいが冒頭画像の物件、コチラもクリーニング店だったみたい。



角を曲がると、いきなり現れた三階建てにビックリ。



その先には何を商っていたのかは判りませんが、元商店だと思われる建物があります。コチラの二階の窓がなかなかの逸品。



ほら、ステキでしょう。三階建てに凝った窓、いろいろと勘ぐりたくなる一画というわけです。たぶん間違っていると思いますけど・・・。



更に西へ、梅林などが点在する長閑な風景の中をしばらく行きますと、大きな弧を描く白いバルコニーが見えてきます。旧松井田町役場、昭和31年(1956)竣工、設計は以前ちょっと紹介したことがある故白井晟一。円形の孔が穿たれたバルコニーの両側に構えるのは荒々しいテクスチャーの石積、その向こうから円柱の柱列が立ち上がり、緩い勾配の切妻屋根を支えているというシンボリックな構成になっております。竣工当時、周囲には一面畑がひろがっており、敷地が高台にあったことから『畑の中のパルテノン』と呼ばれました。



この建物が竣工した頃、建築界で巻き起こったのが『伝統論争』です。その中心となった論客というのが白井と皆さんご存知故丹下健三。これについては書き出すときりがありませんので思いっきり端折りますが、その中で白井が提唱した『縄文的なるもの』として注目されたのが本建築であります。まあ、そういった小難しいことは抜きにしても、伸びやかで堂々としたとても美しい建物です。



前書きにある二十ウン年ぶりというのがコチラのこと。当時、駆け出しのぺいぺいだった私、心酔まではいきませんでしたが、白井晟一はその人物像を含めて大変興味がありました。遥々長崎県佐世保市まで作品を見に行ったほどですから。当時はまだ役場として現役でしたが、現在は文化財資料館になっているとのこと・・・しかし、ひっそりと静まり返っているわけ。帰ってから調べてみましたら、耐震強度の問題から閉館しているそうです。耐震補強を施して博物館や美術館に改修するという計画があるようですが、あまり進展していない様子。白井の代表作の一つですので大切にしてほしいなあ。



駅に戻る途中、旧中山道沿いにあるのが旧松井田警察署、昭和14年(1939)に建てられました。正面に破風を見せる瓦葺きの反り屋根、しかし外壁は縦を強調したスクラッチタイル貼りの洋館風という和洋折衷。重厚なキャノピーには伝統的な木組を模した部分も見られます。これは所謂帝冠様式というヤツです。当時の戦争直前という国の状況(国粋主義)から、各地でこういったものが建てられました。現在は安中市松井田商工会として余生を送っています。状態が大変良好な近代建築です。

まあ、二十ウン年前は車でしたし、町並みなどには興味はなく目的は旧松井田町役場だけでした。そんな男が二十ウン年後、こんなしょうもないブログを管理しているわけ・・・。不思議な感慨に浸ってしまった松井田町の探索は以上でオシマイ。

千葉県 木更津市201404(再々訪編) その1

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映画館が消え失せた町・メンチ切られた遊廓跡・検番脇の仄暗い路地の奥

この町の現在を象徴しているような光景に思えるのです。


 三年ぶり三回目の木更津です。前回は東日本大震災が発生する一週間ほど前に訪れたわけですが、震源から遠く離れた木更津でも少なからず津波の被害があったと聞き、巨大地震の凄まじさに震撼させられました。船溜りに係留してあった漁船30隻ほどが転覆したそうですが、人的被害がなかったのは不幸中の幸いでした。そんな木更津が一月ほど前にアド街で特集されていましたよね。まあ、アウトレットパークに海ほたるなどなど、拙ブログではまず取り上げないものが多くてかなりガッカリの内容でしたが。

 初回、前回とも毎度お馴染の杜撰な下調べのせいで結局遊廓跡に辿り着けなかったわけですが、その後、コメントをくれた親切な方の情報で場所が判明したわけです。それを確認するというのが今回の探索の主な任務となっております。そして、いつもの行き当たりばったりではありませんぞ、ちょっと意気込みからして違っております。なんたって珍しく図書館に寄って情報収集してきましたから。そこで見つけたのが、下の『千葉県木更津町鳥瞰』なる絵地図であります。

 昭和4年(1929)1月に松井天山によって描かれました。この方、こういった絵地図専門の絵師だったようでして、木更津以外にも60以上の町を描いているそうです。かなり惹かれる職業なんですけど・・・まあ、現代じゃ需要はないよなあ。アホなこと言ってないで絵地図を説明しましょうね。左が北になります。町の東端にあるのが内房線の木更津駅、駅から分岐しているのが盲腸線である久留里線です。町の南を流れるのが矢那川、その河口近くにある證誠寺は童謡『証城寺のたぬき囃子』発祥の地として知られています。駅近くにある愛染院は、承久2年(1220)創建という真言宗の古刹になります。

 ふってある番号はレポに出てくる重要ポイントとでもしておきましょうか。①宮の湯 ②舞踊研究所 ③紅梅 ④モジャ商店 ⑤レディースサークルひまわり ⑥はまだや ⑦富士館 ⑧BERBER金澤 ⑨安室薬局 ⑩人参湯 ⑪木更津東映 ⑫宝家 ⑬リリー木更津 ⑭ルイス英語教室 ⑮八幡屋 ⑯木更津温泉ホテル ⑰謎の飲み屋街 ⑱木更津会館 ⑲セントラルボウル ⑳佐久間屋・・・以上は現代の地図に記されている表示といった感じかな。この絵地図を見つけたときはめっけものだとホクホクしていたのですが、直後に市内の各所に設置された観光用の案内板にコレが使われているのを知ることになるわけ、一気に醒めましたわ。

※ちなみに前回のレポはコチラ、前々回はコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



駅の反対側にある市立図書館を後にして、JR内房線を渡って新田に入りました。矢那川手前で見つけたお宅。なぜかノコギリ屋根なわけ、元織物工場という規模でもありませんし。洗濯物がいい味出しております。



矢那川を渡ると、広い駐車場の向こうに立派な煙突が見えてきます。①の宮の湯さん、絵地図にも同じ名前で表記されておりました。老舗のお風呂屋さんということになるわけ、もちろん今も現役です。



宮の湯さん裏手の路地で、全面にスタッコが塗りたくられた謎のホワイトボックスに出会ったわけ。看板の舞踊研究所で更に混乱、絵地図の②が此処になります。



絵地図には『藤屋パン店』とありましたが、コチラがそうなのかは不明。脇入口の庇の造りが結構好き。



ご存知だと思いますが、木更津は今も現役の芸者さんが活躍されている町。この舞踊研究所もそれに関係しているのではないかと・・・まあ、そんなことより外壁の丸二つは何なのでしょうね。



その先にも謎物件、外壁のモルタルの劣化具合が素晴らしい。



テントによる妙技をご覧下さい(笑)紅梅と読めるでしょうか、③が此処になります。絵地図には『すし千とせ』とありました。



腰に貼られたタイルがステキ、梅を模しているのお判りになるでしょうか。たぶん特注なんじゃないかなあ。



覗いてみると残っていたのは、カウンターと招きニャンコのみ。元喫茶店っぽいですよね。



相変わらずいい感じに眠そうな町であることだけは変わっていないようです。



駅から続く富士見通りを渡って路地に入ります。前回、前々回と紹介した扉に『風俗営業(バー)』の鑑札が残るお店は健在。しかし、その先の珍妙な造りの喫茶店?は隣の居酒屋と合わせて消え失せ駐車場に変わっておりました。



近くではオオデマリの白い花が満開でした。ブロック塀の蔦がいいアクセントになっております。



その先にも蔦がモジャモジャ、④の勝手にモジャ商店と呼んでいる物件。蔦で隠れている部分の造りが面白いのですが、この度その正体が判明しました。まあ、前書きの観光用の案内板があったからなんですけどね。コチラは昭和10年(1935)頃に建てられたという内山洋服店さん、ショーウィンドウには当時のアイロンなどが展示されておりました。此処の裏手に愛染院があります。



四つ角に建つ⑤のレディースサークルひまわりさんも健在、絵地図には『金田屋洋品店』とあります。案内板には昭和7年(1932)に建てられたとありました。



向かいには⑥のはまだやさん、コチラも変化はないようです。左の土蔵は江戸末期、右のお店は昭和11年(1936)に建てられたとされています。絵地図には『浜田屋着物』と記されているような・・・文字がつぶれていてかなり曖昧。



相変わらず欄間の色ガラスが綺麗ですなあ。



その先に閉館してしまった映画館、⑦の富士館さんがあるのですが・・・やはりこうなってしまいましたか。どうやら平成23年(2011)9月頃に解体されたようです。木更津キャッツアイの聖地とされていた物件ですが、それもはるか昔のことのように思えます。まあ、ドラマの流行りなんてそんなものと言ってしまえば簡単ですけどね・・・ちょっと寂しいなあ。しかも、こういった光景がこの後も連続するわけ、覚悟しておいてください。ちなみに絵地図に富士館の表記はありません、描かれた後に開館したと思われます。



まあ、解体されたおかげといいますか、お隣の立派なお宅をじっくり観察することができました。



富士館跡の向かい、通りに面した部分は看板建築風の飲み屋さんなのですが、奥に続く二階部分の造りが興味深いわけ。特に左官で塗り回した格子?とでもしておきましょうか、こんなの初めて見ましたよ。



南片町大通りに面している⑧のBERBER金澤さんも健在。昭和初期に建てられたとされる、リブ状のストライプが並ぶ看板建築です。絵地図には『リハツテン佐久間支店』とありました。



南片町大通りと五平町通りが交わる四つ角に建つのが、重厚な看板建築である⑨の安室薬局さんです。



建てられたのが絵地図が描かれた昭和4年、そのままの名前が表記されてありました。最初に訪れたとき(2008)は現役だったのですが・・・ちょっと先行きが心配な建物です。関東でこれだけ立派なのってかなり貴重だと思いますので。



南片町浜通り沿い、こんな奥まった場所に旅館があっただなんて、初めて気付きましたよ。



向かいにあるのが⑩の人参湯さん、絵地図には『実母散薬湯』とあります。コレって商品名なんじゃないの?まあ、現在の人参も???なんですけどね(笑)立派な千鳥破風のいかにも港町の銭湯らしい造りのお風呂屋さんです。しかし、残念なことに現在休業中なのです。



もっと残念だったのが、お隣の更地。嘗て此処に建っていたのが⑪の木更津東映さん。前回時点で既に閉館していましたので、遅かれ早かれこうなるんじゃないかと思っていましたが・・・。此処も絵地図には表記されておりませんでした。



向かいの熟女パブ出逢いは健在なのに・・・現役かどうかは知りませんが。



木更津東映さんが無くなったおかげで人参湯さんの側面がまる見えなわけ。湯気抜きの越し屋根がデカイ、瓦葺の二階部分はお休み処だったようですね。



一応休業と言いつつもほぼ廃墟と化している⑯の木更津温泉ホテルさんも変わらず。しかし、今回おさらいのストリートビューで確認してみますと、見事な更地に変貌しておりました。どうやら直後に解体されてしまったようです。絵地図には前身なのかは不明ですが、『割烹旅館佐久間本館』というかなり大きな建物が描かれてありました。



アド街にも出てきた明治30年(1897)創業、⑫の宝家さんで昼食です。もちろん絵地図にも描かれております。名物のあさり膳を所望、写ってはいませんがかき揚げと味噌汁以外にも、あさりご飯と佃煮が付くまさにあさり尽くしとなっております。でも、かき揚げがいまいちだった気が・・・串揚げにしておけば良かったかも。コチラの若女将、なんと元女優だったとは、どおりで綺麗なわけだ。

なんだか更地巡りみたいになってしまった前半は此処まで。燃料補給と美しい女性を愛でましたら、遊廓跡に向かうと致しましょうか。

千葉県 木更津市201404(再々訪編) その2

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この木なんの木気になる木♪は日立の樹ですが、コチラは橙の木。いつも気になる存在なわけ。


 『木更津新地廓 千葉県君津郡木更津町字木更津新地に在つて、房総線木更津駅で下車して西北へ約八丁、乗合自動車の便もある。木更津は上総西海岸第一の繁華地で、日本武尊が東征の折、橘媛を海神の為めに犠牲に供し悲しさの余り此の海岸をさまよふて、暫し立ち去り兼ねたと云ふ処から「君去らず」と名付けられたのが地名の起源で、その海岸に在る吾妻神社は橘媛を祀つたものである。明治九年頃から町の東端なる「恋の森」に在つた遊廓を、明治廿三年に現在の個所に移転したものである。東京の遠征客も時々迷ひ込む模様である・・・娼楼は、一京楼、本京楼、新鈴木楼、旧鈴木楼の四軒だ・・・』

 以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になりますが、ちょうどその頃、その1で紹介した絵地図も描かれたことになるわけです。青点線で囲まれた範囲が新地廓になります。当時は海がすぐそばまで迫っていたようですね。おそらく妓楼からも港を行き交う船などを眺めることができたのではないでしょうか。しかし、それも戦後に行われた埋め立てによってかなり遠ざかってしまいました。青点線部分を拡大したのが下の図になります

 遊廓と記されてはいるのですが、なぜかお店の屋号が空欄になっているわけ。そもそもこの絵地図はどういった経緯で描かれたのでしょうか。やはりお役所からの発注なのかなあ。そうなると、あそこは場所が場所なので空欄にせよなんて指示があったのかも。空欄部分の答えは昭和5年(1930)に発行された大日本職業別明細図に記されてありました。上図の右に大門らしきものがありますが、そこから左に伸びるメインストリートを挟む配置で向こう側に1軒(旧鈴木楼)、手前に3軒(左から第一京楼、本京楼、新鈴木楼)の妓楼が並んでいたようです。メインストリートの突当りには組合事務所があり、おそらく通いの医師による花柳病の検査が行われていたと思われます。

 この新地廓、『全国女性街ガイド』によりますと、戦後も赤線として生き残ったようです。遊廓がそのまま赤線に移行したのかは不明ですが、昔の航空写真を見てみますと、七十年代後半までは何かしら遺構らしきものが残っているのを確認することができました。結果をフライングしちゃったようであれなのですが、現在跡地に建っているのは⑬のリリー木更津なるカワイイ名前のマンションというわけ。地図を眺めたかぎりでは、跡地という以外あまり期待できる状態ではないようですが・・・とにかく行ってみましょうか。

※ちなみに前回のレポはコチラ、前々回はコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



⑨の安室薬局さんの処に戻って通りを西へ少し行きますと、前方に見えてくるのが⑬のリリー木更津、遊廓跡に建つマンションです。



通りを右折すると嘗てのメインストリート、左側に3軒の妓楼が並んでいたことになりますな。



右側・・・前方に公園というか緑地が見えますが、あそこには旧鈴木楼があったはず。そして、突当りにあるクリーム色外壁のお宅、あの辺りに組合事務所があったと思われます。



旧鈴木楼跡地手前にはたぬきなる居酒屋さん。名残と言ってしまっていいものか・・・。



やはり何も残っていなかったかと思いながらリリー木更津の西側に回り込みますと、目に飛び込んできたずいぶんと奥行きのある物件。コチラ、地図には旅館きよとあるのですが、案の定ネットでは一切ヒットしませんでした。



旅館というよりアパートにしか見えないのですが、モザイクタイル貼りの袖壁が妙に浮いているわけ。



左が旅館きよさん、道を挟んだ右側が嘗ての新地廓になるのですが、手前の看板建築が気になりますよねえ。⑭のルイス英語教室さんがコチラ。実は妓楼の一部だった・・・なんてうまい話はそうそう転がっているわけないよなあ。



ナニコレと二階のアーチ窓風の装飾を見上げていると、何処からか刺すような視線・・・ヒエッ、思いっきりメンチ切られた(笑)



お隣の駐車場にはこんな表示、他にも旅館があったようです。



同じ並びにある退役済みと思われるお食事処、変な袖壁が突き出ております。入口は何処?と見回してみますと・・・



こんな奥にありました。コチラも名残の一つということにしておきましょう。



遊廓跡を後にして港に出ました。相変わらず用途不明、謎の黒い船ばかりが停泊しているわけ。奥に見えるのがアド街でも紹介されていた中の島大橋、今回も渡りません。



戻って遊廓跡の南に隣接している⑮の八幡屋旅館さんは健在。前回はてっきりこの一画が遊廓跡ではないかと・・・またもや一歩手前で引き返すという大失態。まあ、恒例なんですけどね。この八幡屋さん、絵地図には記されておりませんでした。立派な破風からかなりの老舗なのではと思っていたのですが違っていたようです。



次に向かったのが毎回訪れている⑰の紫点線に囲まれた謎の飲み屋街。地図にも載っていない迷路のような細い路地に沿って小さなお店が並んでいます。絵地図には丁子家、蓬莱家、花村、君の家といった感じで独特な屋号がいっぱい確認できるわけ。コレって置屋さんではないでしょうか。この一画の裏手には⑱の木更津会館(見番)があるわけでして、この辺りが花柳界の中心だったのではないかと。



証拠なのかは判りませんが、こんな屋号。奥にそびえるのは、今は無き⑯の木更津温泉ホテルさんです。



路地を抜けると⑱の見番である木更津会館です。絵地図には『二業組合事ム所』とありました。三業ではなかったというのが意外です。



今回は芸者さんに会えなかった・・・。



観光用の案内板には半玉さんの写真。この木更津芸者、港町の女に相応しいと言いますか、ちょっと勝気な面があったようです。昭和12年(1937)、彼女ら芸妓組合(置屋32軒、芸妓75名)は玉代の賃上げを求めて、隣町君津の鹿野山神野寺に篭城するという騒動を起こすのです。要するに芸者のゼネストですな。結果、町長や警察署長が調停に乗り出し、篭城二日で賃上げを勝ち取ってしまうわけ。この騒動は新聞などでも大々的に報じられたそうです。で、今回初めて気付いたのです、見番脇に細い細い路地があることを・・・。



此処入っちゃっても大丈夫なの?といった感じで恐る恐る足を踏み入れますと、仄暗い路地の先になんとお店があったわけ。これには驚いた。左の朽ち欠けのドアと右の変な格子が恐いのですが・・・。



偽ステンドグラスの上には『風俗営業(簡易料理店)』なる鑑札。福島県で見かけたことがありますが、千葉県では初めてかも。



⑯の木更津温泉ホテルさんの処に戻って通りを西に行きますと、ボーリングのピンが見えてきます。



⑲のセントラルボウルさん、ボーリング場、映画館、ゲームコーナーといった感じで嘗ては娯楽の殿堂だったと思われますが、前回時点で既に風前の灯状態に見えました。今回再訪してみますと、ボーリング場とゲームコーナーは一応健在でしたが、映画館は閉館しておりました。これで市内の歴史ある映画館は全滅ということになるわけです。まあ、そういった映画館などとっくの昔に消え失せた町なんて、そこらじゅうにありますからね。よくぞ頑張ったと言うべきなのかもしれません。ちなみにコチラ、オープンは昭和50年(1975)だそうですので、絵地図には描かれておりません。



矢那川に抜ける観月通り沿いに冒頭画像の橙の木があります。



近くのどん詰まり路地の光景、いい感じに鄙びた飲み屋さんが軒を連ねておりました。現役かどうかは微妙だけど・・・。



最後に訪れたのが矢那川の河口にひろがる緑地、その片隅にあるのが⑳の富士見亭さん。絵地図では海の中ですが(笑)後から埋め立てられたのでしょう。コチラのロケーションが素晴らしい、まさにポツーンです。こんな佇まいですので、ドラマや映画のロケなどにも使われるとか。私の第一印象は海の家でした。



海の家風ですが、メニューはやきそばとその大盛りのみ。まだあさり尽しが未消化でしたので、単なるやきそばを所望。削り粉が使われているので、富士宮やきそばに似ているかも。やっぱり鉄板で作るやきそばはいいよねえ。女将さんが話好きでかなりまったりしちゃいました。うろ覚えですが、元々、店は女将さんのお母さんがやっていたそうです。お母さんが亡くなった際、店を閉めようと思ったそうですが、役所から閉めないでほしいと頼まれたとか。肝心の遊里関係は、現役の芸者さんがいるという程度の認識であきまへんでした。まあ、何というか、木更津らしさが凝縮されたようなお店でしたよ。

アド街で紹介されたアウトレットパークに海ほたる、そして潮干狩り、見事なまでに中心街はスルーされているわけ。寂しいですがこれが現実なのです。次に訪れるとき、町はどんな表情で迎えてくれるでしょうか・・・。訪れる度、衰退が手に取るように判るちょっと哀しい町、木更津の再々訪編は以上でオシマイ。

山形県 村山市201507

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謎のマドンナ通り・切通し脇の遊廓跡?・火の見櫓が乗った消防小屋

小さな小さな消防小屋に昔の町名が残っておりました。


 先日、仙台に出張してきました。此処で仕事の話もなんですので手短に説明しますと、ピンチヒッターで行ってほしいという話がきたのがなんと二日前。以前ちょっとだけ関わった物件でしたのである程度内容を把握はしていましたが、オイオイ急すぎるだろと文句言いながらも引き受けちゃう私も私なんですけど・・・まあ、いろいろと大人の事情ってものがあるのです。ちょうど木金が出張でしたので、土日で仙台周辺の町を訪れようかなと思ったのですが、そんな準備をしている時間など全くないわけ。そこで思いついたのがお隣の山形県。二年前、東北を旅したとき候補に挙がっていた町があったはず、下調べもして探索用の地図も作成済みのはず、何処にやったっけ、ガサゴソ(PCのフォルダを探る音)・・・といった感じで始まるのが今回のほぼぶっつけ本番の探索というわけ。

 まず訪れたのは山形県のほぼ中央部に位置する村山市。以前は楯岡町でしたが、昭和29年(1954)に周辺の町村と合併して誕生したのが現在の町の姿になります。中世の頃は楯岡氏が治めた城下町でしたが、江戸時代になると楯岡城が廃城となり、以降は町を南北に貫く羽州街道の宿場町として栄えていくことになります。現在も二日町、五日町といった感じで市が開かれていた名残と思われる町名が残っており、往時は物資の集積地だったということが判ります。そんな町にも嘗て遊里がありました。以下は毎度お馴染『全国遊廓案内』からの抜粋になります。

 『山形県北村山郡楯岡町に在つて奥羽線楯岡駅で下車して北へ約十丁の個所にある。楯岡は人口約一萬の繁華地で、旧幕時代に蝦夷、樺太等を探検した最上徳内と云ふ人の出生地で、近藤重蔵、間宮林蔵等の先鞭者であつた。貸座敷は五軒あるが昔からの宿場に成つて居て旧幕時代の飯盛女気分が微かに残つて居る・・・妓楼は新島楼、但馬楼、岩城楼、東楼、平楼の五軒で、娼妓は全部で十五人居るが、殆んど山形県の女計りだ・・・』

 仙台駅から仙山線快速に乗り込み一路西へ・・・そういえばコレに乗るのは九年ぶり、そのときは途中の名勝山寺に登ったっけ。帰りに寄ろうかなと思いながら時計を見て半ば諦めました。昨晩、ちょっと深酒しちゃいまして大寝坊、寄れたらいいな程度にしておきましょう。緑豊かな中を一時間ほどで羽前千歳駅に到着、奥羽本線に乗り換えて30分ほどで村山駅(旧楯岡駅)です。しかし、此処で問題発生、次の山形方面の列車は一時間ちょっと後、それを逃すと次はなんと三時間半近く後・・・そんなにネタないよ。このあたりがぶっつけ本番の弊害とでも申しましょうか、慌しい探索になりそうです。



駅前通りを東へ、すぐに県道29号線にぶつかります。これが嘗ての羽州街道、左折してすぐに見えてくるのが丸藤さんなる洋品店?いきなり凄いのが現れたぞ。



どこかの宮殿みたいなバルコニー、柱にちゃんとエンタシスがついているのに驚いた。奥のアーチ窓の欄間、扉は緑青が浮き出た銅板張り、そしてパラペットの幾何学模様。どうやら大正年間に建てられたようですが、もっと驚いたのが県内最古クラスの鉄筋コンクリート造だということ。手摺や細やかな装飾もコンクリート???ジックリ観察できないのがもどかしい。



その先に現れたマドンナ通りの大門に脱力・・・素晴らしい近代建築の次はコレですか(笑)



えーと、看板の女性がマドンナさん???



お隣のお宅には円形の造作、その先の小さな看板にスナックマドンナとありました。



ワハハ、なんと反対側にも大門があるではありませんか。



旧街道に戻る途中、円形造作のあるお宅の縁の下から私の行動を監視していた仔と目が合った(笑)今日は蒸し暑いものね。



赤い海鼠壁が妙に艶かしい立派な土蔵造りの商家、物凄い奥行きから最初は旅館かと思いましたが呉服屋さんでした。



どうやらこの界隈が宿場の中心だったようです。コチラの向かいの郵便局辺りに本陣があったそうです。



お次は洋館風の商店、鋳鉄製?の窓台グリルは後から取り付けたものじゃないかなあ。



その先に不思議な神社があります。地元で愛宕様と呼ばれ親しまれている愛宕神社です。巨岩を積み上げたような高台の上が境内になっているわけ。



境内にも巨岩が顔を覗かせており、その間を縫うようにしてケヤキの巨木が並んでいます。いちばんの御高齢は樹齢300年なんだとか。このケヤキ林は県の天然記念物に指定されています。



その先の光景、まず位置関係を整理しますと、さきほどの愛宕様は私の左後方にあります。右に岩肌むき出しの崖が見えますが、江戸の頃、この崖と愛宕様の高台は繋がっていました。羽州街道は高台を急坂で乗り越えていたそうですが、明治になってから切通しを造りフラットになったのが現在の姿になります。肝心の遊廓跡ですが、地元の子供向け新聞?『おこさまサラダ 14号』に昔の村山の様子を表した絵地図があり、ちょうど切通しの手前辺りに『元の花街』という表記があるわけ。そこについての注釈はありませんでしたが、おそらく此処で間違いないかと。子供向けのため遊廓というストレートな表現は避け、『元の花街』としたのではないでしょうか。まあ、子供にしてみれば『元の花街』って何???感じかもしれませんが(笑)すぐにでもそっちを探りたいのですが、その前に前方に見える気になる物件を先に・・・。



何かの商店だったのでしょうか、柱型や小庇の持ち送りに西洋風の装飾が見られます。



脇の路地に沿って裏手に行くと土に石といった感じでいろんな蔵がいっぱい、この路地は大正解。



元飲み屋さん?といった感じのお宅の玄関廻りがステキ。近くが『元の花街』ならば納得の状況ではないかと。よくよく見たら軒天が葦簀(よしず)天井ではありませんか、外部に使う仕上ではありませんが、こういう凝り具合は好きですよ。



その先にはカッコイイ写真館。たぶん七十年・・・いや、八十年代かなあ、どう見ても近代建築とは言えませんけどね。



切通しに戻って、崖を登っていきますと湯殿山と刻まれた石碑。出羽三山信仰が盛んだった証です。ちなみに村山市から北西に40キロほど行くと月山、羽黒山、湯殿山です。



崖の上には小さな祠、八坂神社です。



高台から遊廓跡と思われる一画を見下ろします。実際は『全国遊廓案内』に『昔からの宿場に成つて居り』とあるとおり、羽州街道沿いに並んでいたんじゃないかと思ったのですが、名残すら皆無の状態でした。



旧街道沿いが駄目ならと、もっと内側を探ってみましたが収穫ゼロ。あったのは立派な土蔵だけ・・・。



時間もないので遊廓跡は諦め、周辺を探っていて見つけたのが冒頭画像の小さな小さな消防小屋。屋根に火の見櫓が乗っているという変り種。



ドイツ壁風の外壁に洗い出し風左官仕上でフレーム風の装飾、もちろん館名は鏝絵です。正面から見ると判りますが、火の見櫓が中心に乗っていないのです。



消防小屋前の通りを山側へ、ダラダラ登る坂道を行きますと、判読不能の石碑の先に見えてきたのが・・・



・・・ちょっとお疲れ気味の茅葺屋根。



近くあるのが明治16年(1883)創業の高梨醤油店さん。この地方特有なのか、この赤い瓦をよく見かけました。おっと、残念ながら此処で時間切れ、急いで駅に戻りましょう。



旧羽州街道の裏通りで見かけた草臥れてはいるが美しい青緑の外壁、既に退役済みのようでした。



駅前通りに出る手前に残っていた大谷石の蔵です。



なんとか間に合った・・・ふと見上げると、駅の改札前に巨大な草鞋。行きのときは時間ばかり気にしてて全く気付かなかった。

果たして『元の花街』が遊廓跡だったのか、やはり一時間ちょっとの探索じゃねえ・・・もう少し時間があれば結果は違っていたかも。内容が薄くて申し訳ない、以上で村山市の探索はオシマイ。次回は山形方面に戻って、前回アクシデントで訪ねられなかった町をレポ致します。そこは結構有名な温泉地、遊廓跡と思われる一画を巡った後、150円で浸かれるという共同浴場で汗を流すというプラン、楽しみです。

山形県 上山市201507

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歓迎大門と廃映画館・門柱が残る遊廓跡?・湯女の碑と400歳の共同浴場

左の旅館松本屋さん、玄関を入った処に面白い形状の下地窓があります。


 村山駅から40分ほどで山形駅です。奥羽本線普通列車のほとんどは山形止まりですので、米沢や福島方面へ向かうには此処で乗り継がないとならないのですが、どうも接続がうまくいかないわけ。その時間を利用して駅前のお店で昼食、ウーム、やはり真夏の芋煮定食はいまいちだったか(笑)二年前、私はこの町で、熱中症寸前と思われる体調急変で探索を途中で打ち切るというアクシデントに遭っているのです。そのとき山形市の次に訪れる予定だったのが上山市、蔵王連峰の裾野にひろがる盆地に位置している町になります。

 上山は能見松平家が治めた上山藩三万石の城下町、羽州街道と七ヶ宿街道という二本の街道が通る交通の要衝でもあります。まあ、そんなことより世間一般的には、かみのやま温泉がある町ですよと言ったほうが通じるかもしれませんね。湯町、十日町、新湯などなど数多くの温が湧出しており、これらを総称してかみのやま温泉と呼んでいます。由来は長禄2年(1458)に旅の僧が、沼地に湧く湯で脛の傷を癒している鶴と出会ったのが始まりとされています。数多くの旅館やホテルが軒を連ねていますが、それ以外にも7つの外湯(共同浴場)があるのが特徴になるでしょうか。今回は遊廓跡等を巡った後、その共同浴場で汗を流すというプランになっているわけ。以下はお馴染『全国遊廓案内』からの抜粋、遊廓についてはレポの中でお話致します。

 『上山遊廓 山形県南村山郡上山町字新町にあつて、鉄道に依る時は、奥羽線上山駅で下車、北方約十丁の個所にあつて、町の中北を通つて居る国道に沿ふて北方約七八丁位行き、四つ谷街道に入り約一丁の処にある。温泉町であるので早くより各地人から知られ、又上山は松平氏の城下であつた為めに相当繁華を極めた処であるが、遊廓は最初国道筋にあつたものが明治三十年頃現在の新町に集合して廓となつたもので、目下楼数四軒、娼妓約二十人位居り、湯治客及近在の者等の為め相当繁昌を極めて居る・・・特殊の情緒は毎年の例として盆には盆踊が遊廓の中で催され、多くの客と入乱れて、踊り狂ふのが見物である・・・妓楼は新吉楼、新吉楼支店、舞鶴楼、柏木楼、瀧本楼等である』



奥羽本線と並行して流れる前川の手前に金鳥の琺瑯看板が残るお宅、右は飲み屋さんの亡骸でしょうか。前川を渡った先が温泉旅館街になっております。



駅前からの通りと交わるのが県道13号線、嘗ての羽州街道になります。交差点の角にあるのが上山市観光物産協会。タバコのカウンターがあることから元商店かなと思ったのですが・・・



・・・正体は旧上山郵便局、明治44年(1911)に建てられたそうです。寄棟屋根に下見板張りの洋館風の建物です。



鄙びた温泉街には不釣合いに見える巨大なショッピングセンターの裏手、ブロック塀の上でニャンコがノビてた(笑)陽射しがないのは助かるのですが、そのぶん非常に蒸し暑い、二年前の悪夢が蘇ってきた・・・。



近くにあるのが二日町共同浴場、建替えたばかりのように真新しい、趣き皆無ですのでパスします。



グルッと回って駅前から続く通りに出る途中にあったお宅、外壁が妙に艶っぽい色なわけ。暑さのせいかヒマワリも項垂れ気味。



その先の路地を入りますと見えてくるのが旅館よね本さん。建物の角を隅切って入口を造り、両側に西洋風の柱型を配したモダンな造り。二階には円窓が並んでいるのですが、後付されたテント庇がシックリ馴染んでいるのが面白いわけ。



隅切りの部分が入口かと思ったら奥に立派な車寄せ風の入母屋破風がありました。この日は植木屋さんが総出で庭木の剪定中。ネットでも一応ヒットするので現役だと思うのですが、それ以外、建物の素性などの情報が皆無という不思議な物件なのです。



駅前から続く通りに戻りました。パーマ屋さんのサイケな看板がお気に入り、今は亡き藤沢のまりこを思い出しましたよ。



その先に上山城を模したと思われる歓迎の大門。脇には特徴的な体育館みたいな物件があります。そう、閉館となった映画館です。円柱に貼られた黄緑のモザイクタイルが妙に鮮やかです。



名前をトキワ館といいます。いつ頃開館し、いつ頃閉館になったのかは不明ですが、末期はほぼピンク映画専門だったとか。



回り込むと増築されたと思われる飲み屋さんの亡骸がへばり付いておりました。右に行くとさきほどの旅館よね本さんがあります。



通りを西へと辿ります。左側はこんな感じですが、右側にはかなり規模の大きな旅館が並んでおります。暑さのせいでしょうか、湯治客の姿はほとんど見かけませんでした。まあ、この鄙びた感じ嫌いではありませんけど。



その先の看板に導かれるまま路地を辿っていきますと、こんな奥まった場所にありました。澤の湯、コチラも共同浴場の一つなのですが、まだまだ歩かないとなりませんのでパスということで。



月岡ホテルさんの裏口にも暑さでとろけたニャンコ。毛色が珍しいのですが、この仔、かなりデカイのです。後ろを従業員が頻繁に行き来するのに我関せずといった感じ、図体同様態度もデカイ(笑)



上山城址の北西側の一画にあるのが武家屋敷通り。嘗ては上山藩の要職にあった家臣の住まいが並んでいました。現在も往時の面影を残すお宅が四軒ほど残っています。その中の一軒、森本家住宅です。現在も住宅として現役ですが、庭までは立ち入ることが可能です。



伝統的な茅葺の曲り家、来客用の玄関と通用口とを別にする武家中門造りというやつですな。残りの三軒の中には有料で内部を見学できるお宅もあるようですが、どれも似たような造りでしたので割愛、手抜きで申し訳ない。



上山城址を廻り込むようにして坂を下っていきますと、旅館が建ち並ぶ一画に出ます。湯町の旅館街、冒頭画像の場所が此処になります。



退役してからかなり時間が経過していると思われる旅館松本屋さん。一階の庇は桧皮葺きです。由緒正しき湯治場といった佇まいが素晴らしいなあ。



奥には立派な土蔵が続いておりました。確か右の円窓がある建物は床屋さんだったかな。



近くのお宅だったと記憶しているのですが・・・葉っぱが綺麗でしたので。そのまま道なりに下っていきますと再び旧羽州街道(県道13号線)に出ます。旧街道を北東へ、遊廓があったと思われる場所に向かいます。



しばらく行きますと、登り坂が左に分岐しています。この通りが『全国遊廓案内』にある四つ谷街道、まあ羽州街道のことなんですけどね。目印は一軒の土蔵です。



土蔵の先を左折して脇道に入ると新町一丁目、この先を右に入った処が遊廓跡ではないかと睨んでいる一画。地図をご覧になれば判りますが、遊廓特有のメインストリートらしきものが確認できるはずです。



メインストリート?に入ると右手にこんな塀が現れます。なぜか端っこに門柱が建っているわけ。



入口にも立派な門柱、奥には赤い屋根の大きなお宅があるのですが、玄関前の植込のせいで全体像がよく判らん。



脇からやっと全体を見渡すことができました。綺麗に直されておりますが、玄関の車寄せ風の入母屋破風に辛うじて名残が感じられるのではないかと。まあ、此処が遊廓跡と決まったわけではありませんが、昔の航空写真にはコチラの向かいにも複雑な屋根形状の大きな建物が写っていたとお伝えしておきます。



旧羽州街道に戻り、駅方面へ・・・途中の脇道で見つけたスタイル抜群の赤煉瓦煙突。大正10年(1921)創業の醤油の蔵元、鏡政治商店さんです。



またしばらく旧街道を辿り、右折して上山城址側に入りますとすぐに見えてくるのが下大湯公衆浴場、コチラが目的の共同浴場になります。汗だくですので早く湯に飛び込みたいのですが、その前に背後の高台にある観音寺さんにお参りしていきましょう。



境内にこんな石碑があります。達筆すぎて読めませんが、コチラは湯女(ゆな)の供養塔になります。要するに温泉地版飯盛女ですな。下の大湯(下大湯公衆浴場)界隈、二十数軒の旅籠に対して、湯女を置くことが許可されたのは元文2年(1737)のこと。その後、天保から幕末にかけて隆盛を極めることになる・・・と説明板にはありました。そうなりますと、さきほどの遊廓跡?は湯女由来ということになるのかもしれませんね。



かみのやま温泉の外湯で最も歴史があるのがコチラになります。寛永元年(1624)に上山藩主松平重忠が、町民のためにこの湯を開放したのが始まりとされています。400年近い歴史がある共同浴場ということになりますな。歴史にも驚きましたが、もっと驚いたのが150円で浸かれるということ、以前は50円だったとか!?天井の高い浴室、浴槽は六畳ほどもある大きなものです。お湯は無色透明、匂いもありません。それでは・・・アッチー!!温度計には45度とありましたが、コレ壊れてるんじゃないの?江戸っ子じゃありませんので5分と浸かっていられないわけ。浴槽の縁に避難して、落着いたら再び浸かること数セットで限界ですわ。でも地元の方は平気の様子、まあお爺ちゃんは茹蛸みたいになっていましたけど(笑)とりあえずスッキリしたので良しと致しましょう。



駅に戻る途中、リブ壁だらけの元商店?に出会いました。むちゃくちゃカッコイイんですけど。



駅から続く通りに出る手前に飲み屋さんが集まっておりました。そのうちの一軒にクラクラ、まだ湯あたりするには早いよね。

駅の時刻表を見て悟りました、山寺には寄れないと。以上で温泉郷上山市の探索はオシマイ、今日はこのまま仙台に戻りますが、明日はどうしましょう。完全にノープランなんですけど・・・。

福島県 福島市飯坂町201507

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焼けた旅館の先が遊廓跡?・謎のトンネルがある旅館・芭蕉も浸かったらしい外湯

夏空に円形造作・・・はいいのですが、早くも汗だくですわ。


 昨日は山形県の町を巡ったわけですが、今日は清々しいまでのノープラン。それじゃ困るので昨晩大急ぎで調べた仙台市内へ・・・小田原遊廓跡には辛うじてメインストリートらしき通りが残っておりましたが、ウーム、どうもピンとこない。その後、駅近くの仙台銀座なる小さな呑ん兵衛横丁、その先の闇市由来とされる壱弐参(いろは)横丁に文化横丁、国分町歓楽街の仙台ロック、そして仙台メディアテークといった感じで訪れたのですが、いまいちテンションが上がってこないわけ。まあ、異常な暑さが影響しているのだと思いますが、それ以上に感じたのが仙台市広すぎるぞということ。こりゃあかん、やはり大都市のぶっつけ本番は難しかったみたい・・・この探索、暫くお蔵入りということにさせてください。しっかりと調べてから訪れたいと思います。

 さて、これからどうするか・・・考えがまとまらないまま東北本線普通列車に乗り込んでしまった。以前から気になっている桑折町に寄ろうか、でもあそこはかなり歩かないとならないからなあ・・・などと考えているうちに気が付くと福島駅。六年ぶりになりますか、以前何気なく地図を覗くと、花街跡に建つ高塀に囲まれた巨大料亭が跡形も無く消え失せており驚かされました。それを確認しにでも行こうかと駅を出ると、ムワッと熱気が・・・当然なのですが、仙台よりクソ暑いわけ。どうせ汗だくになるのだから、昨日のかみのやま温泉みたいにサッパリできたらいいのに・・・そうだ、あるじゃん近くに温泉が。

 というわけで思いついたのが飯坂温泉。その歴史は縄文時代まで遡るという国内屈指の古湯であります。日本武尊も東征の際、この湯で病を癒したとされています。また、おくの細道で松尾芭蕉が立ち寄り、西行法師、正岡子規、与謝野晶子らが此処で句を詠んでいます。何を気に入ったのか、ヘレン・ケラーが二度も訪れているそうです。町中を南北に流れる摺上川沿いに数多くの旅館が軒を連ねているのですが、最盛期と比べると湯治客は半減しているとか。まあ、これは何処の温泉郷でも似たような状況なのでしょう。それを好む人間も此処にいたりしますが。そうそう、もちろんこの温泉にも遊廓が存在していていましたよ。お馴染『全国遊廓案内』からになります。

 『飯坂若葉遊廓 福島県信夫郡飯坂町若葉新地に在つて、東北本線伊達駅から私鉄信達鉄道に乗り替え、飯坂駅で下車する。福島市から自動車で行つても卅分で着く。温泉場で、福島市及此の附近一帯の歓楽境と成つて居る事は、若松に東山温泉があり、松本に浅間温泉があるのと同様である。如何にも温泉場らしい気分に成つて居ると云つて善い程だ。目下貸座敷が七軒あつて、娼妓は約五十人、芸妓は此れに劣らない程居る』

 この温泉も前回のかみのやま温泉同様、九ヶ所もの外湯(共同浴場)があるのです。その中の一ヶ所は、日本最古の木造共同浴場らしいので、探索後そこで汗を流したいと思います。JR福島駅に接続している福島交通飯坂線でガタゴト揺られること20分ほどで終点の飯坂温泉駅に到着です。この飯坂線、大好物の盲腸線、そして終着駅が温泉という素晴らしい路線ということになりますな。地図も持参していない完全なぶっつけ本番ですので、駅前の観光案内所で観光マップを貰ってから歩き出しました。



駅前から伸びる、摺上川沿いの通り(県道319号線)を行きます。この通り、地元では支保工坂と呼ばれているのですが、支保工って完全に建築用語、どういった由来なのでしょうね。前方に見える望楼が乗っている奇妙な建物は外湯の波来湯。後ほど此処にも寄りますよ。



摺上川対岸の光景、居並ぶ旅館が壮観・・・とはいえ、時代遅れの感は否めない様子。そろそろ建替えといきたいところなのでしょうが・・・。



振り返ると鉄骨造のアーチ橋、大正4年(1915)竣工の十綱橋です。大正期に架けられた鋼製アーチ橋の中でも古いものの一つということで、土木学会の推奨土木遺産に認定されています。



立派な塀を構えた旅館、若喜別館とあります。しかし、どうも様子が変、ひっそりと静まり返っているわけ。帰ってから知ったのですが、通りを挟んだ向かい、摺上川の河畔にあったのが若喜旅館、おそらくこっちが本館だったのでしょう。この本館、平成6年(1994)12月21日に発生した火災によって全焼、宿泊客五名が亡くなるという惨事が起きてしまいます。どうやら既存不適格だったようですね。これによって旅館は廃業、焼け落ちた建物はしばらくその酷い姿を晒していましたが、数年前に解体され跡地は公園になっています。



高欄風の手摺に粋な窓が残る建物、コチラも元旅館と思われます。



上流にある新十綱橋からの光景。橋の袂に建つ退役済みと思われる旅館、窓際の応接セットの椅子がパステルカラーで妙にカワイイわけ(笑)肝心の遊廓跡なのですが、どうやらこの橋から若喜旅館跡辺りまでがそれだったようです。途中にある福住旅館さんの女将さんが遊廓跡に移転してきたと仰っておりますので間違いないかと。私が辿ってきた川沿いの通りがメインストリートだったようですが、名残みたいなものは皆無だったと記憶しております。ちなみに地元では若葉坂と呼ばれています。遊廓と同じ名前というわけです。ぶっつけ本番ですので、後付の情報ばかりで申し訳ない。



新十網橋を渡って対岸へ・・・摺上川と並行して流れる水路が現れます。西根堰といいまして、400年前に造られた農業用水になります。それを辿っていきますと、通り沿いのお宅に下に潜り込んでいるではありませんか。どうやらこの先は暗渠になっているみたい。



近くで見つけた水路の立体交差、こういうの大好物なのです。



対岸に見える東屋がある公園が若喜旅館跡になります。摺上川に下っていくと切湯という外湯があるようなのですが、このときは全く気付きませんでした。



十綱橋からちょっと入った路地裏で見つけた奥の細道。矢印の先はお宅の裏庭になっており途切れてしまっているわけ。



新十綱橋に戻って川沿いの通りを更に北西へ・・・途中にあるのが明治22年(1889)創業の味噌蔵である丸滝さんです。店内で味噌田楽などがいただけるようですが、私は向かいの昭和13年(1938)創業の吉原食堂さんで昼食。まあ、『吉原』に惹かれただけなんですけどね(笑)昭和まる出しの店内、頼んだチャーシュー麺と餃子、昔ながらの味付けでなかなかでしたよ。



燃料補給できましたので先を急ぎましょう。脇道の側溝には手押しポンプ、押しても何も出ませんでした。



コンパニオンなのに半玉とはこれ如何に?まあ、温泉郷ですのでコンパニオン置屋はたくさんあるようですが、本物の芸者さんも頑張っているみたい。現在の状況は不明ですが、5年前で5名いらっしゃったようです。



通りをしばらく行きますと見えてくるのが旅館赤川屋さん。脇の通りから見上げるとこんな感じ、敷地は半ば人工地盤の上にあるわけ。枠だけが残る円形の大きな看板、コレいいなあと思っていましたら、土手っ腹にポッカリと穴が開いていることに気付いたわけ。



ガレージかと思ったら貫通しているではありませんか、なんとトンネルだったというわけ。ちゃんと扁額もありますぞ。『旅館赤川屋隧道』とでもしてくれるとなおさら良かったかも(笑)残念なことに現在は休業中とのことですが、HPには洞窟風呂なんてものも、コレと何か関係があるものかもしれません。



そのまま脇道を下っていくと谷地みたいな処に出て行き止まり。近くで見つけた旅館と思われる廃墟、橋を渡ってアプローチします。もちろん拙ブログは此処まで、おそらくマニアが探索済みのことでしょう。



裏通りを駅方面に戻る途中で出会ったのが、冒頭画像の円形造作がある物件。クリーニング店と大衆食堂が合体したお店、両者とも退役済みでしたが・・・。



辿り着いたのが旧堀切邸。堀切家は地元の豪商で、衆議院議長、内務大臣などなど中央政界で活躍した子孫を輩出した名家。その旧宅を飯坂温泉の観光拠点施設として整備したのが現在の姿になります。



右の土蔵は安永4年(1775)に建てられました。桁行が18mあることから十間蔵と呼ばれています。福島県内最大最古の土蔵なんだとか。左奥は主屋、一度火災で焼失したのを明治14年(1881)に再建したものになります。興味深いのが屋根の材料、天然のスレート葺きなのです。かなり珍しいものだと思いますよ。



庭園の片隅のステージでは酷暑の中、可愛らしい女の子たちが踊りを披露中。



主屋の九つある座敷の一つ、アールの付いた竿縁天井が面白い。



旧堀切邸近くで見つけた飲み屋さん、積み木みたいでカワイイ。



旧堀切邸の南側にあるのが目的の外湯、鯖湖湯(さばこゆ)です。前書きの日本武尊が病を癒したというのが此処とされており、飯坂温泉で最も歴史がある共同浴場ということになります。かの松尾芭蕉もこの湯に浸かったとされています。日本最古の木造共同浴場と言いましたが、あれは間違い。現在の建物は平成5年(1993)に改築されたもので、それまでが日本最古だったそうです。唐破風を崩したような独特な形状の銅板葺きの屋根、総ヒバ造りで以前の姿(明治22年築)を忠実に再現しているようですが、入口の位置だけが変わっているようです。以前は妻側にありました。



料金は200円、浴室には中央に長方形の浴槽、洗い場はかなり広め、両者とも御影石貼り、まだまだ新しいので清潔そのものですが、カランはありませんでした。かけ湯の時点で分かっていたのですが、これがとんでもない熱さ。前回のかみのやま温泉では5分でしたが、此処は3分と浸かっていられないわけ。鬼の形相で我慢しているとプルプル震えてくるほど。湯温計には47度!?これは客の回転を稼ぐための作戦かと勘ぐる私(笑)実は飯坂温泉、湯の温度が異常に高いことで有名なんですって。そんなの知らんがな、先に言ってよ。サッパリしたのは一瞬、今度はいっこうに汗がひかないわけ。向かいの温カフェさんに避難させてください。脇にある巨大な桶が乗っている不思議な塔は貯湯塔だそうです。



落着いたので再出発、近くでいい雰囲気の路地を見つけましたよ。



こんな趣のある塀がありましたが、中は更地。何が建っていたのでしょう。



路地の出口には、色褪せた赤い外壁に高欄風の手摺がある物件。一見すると料亭風に見えないこともないかな。



グルリと廻り込んで坂を下っていきますと、立派な看板を掲げた真っ黒な商家が現れます。明治後期に建てられたという採進堂酒店さんです。



ショーケースだけが洋風というのが面白いわけ。



その先の四つ角に面しているのが三層の土蔵造りという豪壮ななかむら屋旅館さん。角の土蔵を挟んで右が本館、左が新館になります。本館は江戸末期、新館は明治29年(1896)頃建てられたとされています。両者とも国の登録文化財になります。左に行くとすぐに鯖湖湯です。



本館には嘗ての帳場が残っており、内部の意匠も結構凝っているとか。東日本大震災でかなりの被害に遭われたそうですが、綺麗に修復されており全くそれを感じさせません。ちょっと此処は泊ってみたいなあ。



角には屋号を刻んだ石柱が埋め込まれてありました。



遊廓跡裏手の路地にて。遠路はるばるですか・・・現在は高速道路も整備されましたし、新幹線なんてものも走っているのですぞ。便利な世の中になりました。



再び汗だく・・・最後に波来湯(はこゆ)に寄っていきましょう。鯖湖湯に次ぐ古湯で1200年余りの歴史を誇っています。4年前に望楼が乗った寺社建築風に改築されました。浴室は摺上川レベルの地下一階、エレベーターで下っていきます。料金は300円、川沿いにあるので露天風呂や展望を期待したのですが、至って普通の造りでちょっとガッカリ。ただ、他の外湯と違っているのは熱い湯と温い湯という二つの浴槽があること。これは飯坂温泉さん熱すぎ、どうにかしてという苦情、もとい要望があったからではないかと(笑)熱いほうは爪先だけで諦め、温いほうへ浸かりましたが、どこが温い湯やねんと言いたくなる温度。出たり入ったりを繰り返しているうちに、何かの修行をしているような気分になってしまったのはなぜでしょう。

まあ、盛夏に訪れた私が悪いということにしておきましょう。個人的には温めの湯にゆっくり浸かるのが好きなのです。完全なぶっつけ本番のわりには十分楽しめた飯坂温泉の探索は以上でオシマイ。

静岡県 富士市吉原201409

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硬券現役の盲腸線に乗って・赤いトンガリ屋根の洋館・ド派手ソシアルビル裏は墓地

踏切脇に残るさつきさん、コチラが今回のお気に入り。


 吉原と聞きますと、昔も今も男達のパラダイスとして君臨し続ける例の場所が真っ先に思い浮かぶと思います。残念、今回は静岡県の吉原ですのでお間違いのないように。県の東部に位置する町なのですが、元々は吉原市でした。昭和41年(1966)に旧富士市、鷹岡町と合併し、新しく発足した富士市の一部になっています。江戸の頃は、東海道の日本橋から数えて14番目の宿場でした。当初は田子の浦に面したJR吉原駅附近にあったそうですが、度重なる水害などで二度の移転を余儀なくされ、最終的に落着いたのが今回歩く界隈になります。往時には本陣2軒、脇本陣4軒を有していましたが、石高が低く近隣の村などに依存していた貧しい宿場だったそうです。そんな町にも宿場の飯盛女が由来と思われる遊廓が存在していました。

 『吉原町遊廓 静岡県吉原町に在つて、富士身延鉄道吉原駅で下車する。妓楼はたつた一軒で、娼妓は四五人しか居ない。費用も、制度も、楼名も判明していない』

 たった一軒・・・最大級の規模と最上級の格式を誇った遊廓と同じ名前だというのに、この凄まじいまでの格差。こんな状況ですので、端から遊里関係は期待しておりません。地図と睨めっこしても全くピンときませんでしたし。ではなぜこの町を訪れたのか・・・その理由は町を通る鉄道にあります。岳南鉄道線といいまして、JR吉原駅から分岐する路線長9.2キロほどの私鉄、コチラ大好物の盲腸線なのです。開業は昭和24年(1949)、東海道本線の吉原駅は中心街からかなり離れていましたので、そことを繋ぐための交通手段として敷設されました。また、周辺は製紙業を始めとする全国的に知られた工業地帯、貨物輸送という役割も担っていたようです。

 その貨物輸送も平成24年(2012)をもって廃止となり、現在は工場の巨大煙突が林立する中を朱色の単行列車がガタゴト走っているだけ。工場萌えの撮り鉄などにとっては堪らん撮影ポイントがあるらしいです。そんな現状ですが一時間に二本程度は運行しているようですので、通勤通学の足としては辛うじて機能している様子。ですのであえてローカル線という表現は致しません。しかし、沿線には有名な観光地もありませんので、先行きが心配なことだけは確かなようです。まあ、その危うい感じに惹かれちゃうんですけどね。



盲腸線という以外、岳南鉄道線に乗りたかった理由がもう一つあります。それがこの硬券、手にしたのウン十年ぶりかも。



いいないいな、コレいいなと硬券を鑑賞していると、単行のワンマンカーが入ってきた。鮮やかな朱色の車両は7000系、元京王3000系の先頭車両を改造したものになります。角が丸まった窓がいいね。車両もいいのですが、丸パイプで構成されたカマボコ屋根のホーム上屋にも注目ですぞ。他所ではあまり見られないものではないでしょうか、軽やかすぎてちょっと不安になる構造ですが(笑)



二つ目の吉原本町駅で下車、駅前を横切る県道22号線が嘗ての東海道。ちょっと西へ行ったこの辺りが宿場跡なのですが、こんな酷い有様。昔の航空写真を確認しますと、60年代までは昔の家並みが残っていたようなのですが、いったい何があったのでしょう。



宿場の面影皆無ですので、脇道に避難すると前方に真っ赤なトンガリ屋根が見えてきます。その前に手前の『白衣』が気になって仕方がないわけ。



旧順天堂田中歯科医院・・・元々は明治22年(1889)頃、東京電燈(現東京電力)の初代社長だった矢島作郎が、蒲原町に別荘として建てたものとされています。それを買い取ったのが歯科医師の田中隆次郎、大正14年(1925)に現在地に移築して診療所として開業します。下見板張りに上げ下げ窓と開き窓が並ぶ外壁、急勾配の菱葺きトンガリ屋根がとても可愛らしい。既に医院としての役目を終え、住宅として余生を送っています。



裏手にはこんなドーム屋根の塔も・・・嘗ては勉強部屋だったとか。中はどうなっているのでしょう。数年前に国の登録文化財に指定されました。



その先のブロック塀には怪しげなフォント。



残念ながら既に息絶えておりました・・・。



旧東海道に戻ると、凄まじい色彩の氾濫に思わず仰け反りましたわ。なんか微妙にパクリ疑惑から逃れたようなアラジンらしき方が浮かんでいるし。はて、こんな処にネズミーランド系列のテーマパークがあったっけ?正体は飲み屋さんが集まった所謂ソシアルビルでした。いやはや、これには降参ですわ。ライカⅢ・・・果たしてⅠとⅡがあるのでしょうか、ちょっと見てみたいかも。



ライカⅢの前で旧東海道は左折しています。左手に見えるのが吉原中央駅。



駅と申しましたが、鉄道のではなく路線バスのターミナル駅になります。これが昭和そのものといった感じで結構いい雰囲気なのです。



近くの脇道で、いい感じに草臥れたトタン建築を見つけましたよ。



どうやら元は飲食店だったような佇まい。右の商店に無理矢理増築したように見えますな。此処で訂正、おさらいのストリートビューに暖簾が写っておりました、失礼なんと現役でしたか。



そのまま旧東海道を辿りますと、ようやく往時を物語るような町屋が現れ始めます。増築や改修を繰り返したのか、コチラの側面は結構凄いことになっておりました。



立派な土蔵造りの商家も残っていましたよ。妻壁に積まれているのは伊豆石だと思われます。



その先の看板に導かれて脇道に入ると現れるのが、旅館五色湯さん。



奥に見える下地窓がある棟が旅館のようですが、そうなると手前の事務所みたいなのは何なのでしょう。当初はコレが五色湯なる温泉なのではと考えたのですが、HPを見ましたら全く違っていたというわけ。それにしてもなんで五色湯なの???



このまま旧東海道を辿るのもなんですので、この辺りで引き返します。



仲睦まじい偽アラジンの処に戻って参りました。たった今、このソシアルビルの名称が判明、アラビアンナイトビルライカⅢというそうです。建物は3棟あって、それぞれペルシャ棟、ランプ棟、アラジン棟となっております。しかも、驚いたことに富士駅の近くにライカⅡがあったのです。コチラは何となくラブホ風でしたが(笑)ここまで書いてはたと気付きました、なんでこんなことを一生懸命調べているんだと・・・。



脇もすんごいことになっておりますなあ。バルコニーの間をダクトがウネウネ、そして看板がビッシリ、どうやら空き室は無さそうな雰囲気、これにはちょっと感心。掃除も行き届いている感じでしたし。



その最深部、奥に銅板葺きの屋根が見えますが、あれは保泉寺さん。すぐ向こうには墓地という強烈なロケーションなのです。



ちょっと戻って別の脇道に入ると、今度は歴史がありそうな町屋を改修したチャイナタウン。お隣の山門は保泉寺さんのです。



チャイナタウンとくると思い浮かぶのが映画のほう、ジャック・ニコルソンの鼻血が痛そうというのが妙に印象に残っているのですが、それ以上にセットなんだか本物なんだかよく分からないくらい背景の町並みが素晴らしかった。



左の大人の社交場はミス・スターパレスなるグランドキャバレー、たぶん退役済みだと思われます。次にチャイナタウン、山門、そしてド派手なライカⅢ。結構濃ゆい一画なのです。



その先には御前様会館なるクラブ、此処で飲みすぎて午前様とか・・・。



分岐する砂利道の先にも飲み屋さんの亡骸、これは素晴らしい佇まい。



この辺りが遊廓跡だったらいいなと・・・でもこの界隈、ちょうど宿場跡裏手のちょっと隔離されたような一画でして、そういうのがあったとしてもおかしくない場所なのです。遊里関係は期待しないと言いましたが、やっぱり気になるわけ。



そのまま通りを進みますと、今度はシンメトリー気味の看板建築。真ん中を入るとクラブがあるようです。



その先を左に入ると、いきなり長屋風の呑ん兵衛横丁が現れてビックリ。



そのうちの一軒の外壁は、妖しげなタイルで彩られておりました。



向かいのお宅がなかなかの逸品、特に直線と曲線を組み合わせたシンプルな構成の門がむちゃくちゃカッコイイぞ。



門から続く横長なダイヤ孔が開いた塀から、呑ん兵衛横丁を望みます。



吉原本町駅に戻る途中、宿場跡に建つビルで見つけました。大きさからしてニャンコというよりライオンだなこりゃ。



駅に着いたのですが、ふと思ったのが反対側はどうなっているんだろうということ。行ってみるとこれが大正解。踏切のすぐ向こうで見つけたのが冒頭画像のさつきさん。これは見事な廃れっぷりですなあ。



タイミングよく吉原行きの単行列車が通過してくれました。本当はあれに乗るつもりだったのですが、まあいいか、急ぐ旅ではありませんから。



ポーチが那智黒の洗い出しの左は、どうやら按摩さんだったみたい。



一方、さつきさんにはスツールが一脚、放置プレイされておりましたとさ。



次にやってきた宿場まつりのヘッドマークが付いた列車で戻ります。


宿場跡は残念でしたが、思っていた以上に楽しめた吉原の探索は以上でオシマイ。それにしても遊廓は何処にあったのでしょうね、それだけが心残りです。

群馬県 藤岡市鬼石201503

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虚空を睨む手作りの鬼・円形造作とセピア色の花嫁・墓地沿いに謎のホルモンが

虚空を睨んではいるのですが、実は結構空ろな目線だったりするわけ。


 今回は群馬県南東部、神流川が大きく湾曲する左岸に位置する小さな町、鬼石を訪れます。ちなみに『おにいし』ではなく『おにし』が正しいみたい。嘗ては中山道の脇往還である十石街道が通っていましたので、宿場という役割も果たしていたのでしょう。以前は鬼石町でしたが、平成18年(2006)に隣接する藤岡市に編入されています。鬼石というおどろおどろしい地名ですが、昭和2年(1927)に発行された『群馬県多野郡誌』に由来が記されてありました。『往古此山頂に鬼ありて人を害す。弘法大師の爲に調伏せられ、鬼石を取り抛ちて去る。其石の落る地を鬼石といふ』なんかこういった逸話に弘法大師が頻繁に出てくるような気がするのですが、毎回毎回大活躍ですな(笑)最初はこの地名に惹かれて地図を眺めていたのですが、気になる一画を見つけてちょっと行ってみるかということになったわけ。

 肝心の遊里関係ですが、群馬県ですので乙種料理店ということになります。昭和13年(1938)に群馬県衛生課が作成した『花柳病諸統計』なる恐ろしいデータには、業者の数は不明ですが、芸妓6名、酌婦4名という記録が残っています。小さな町ですが、やはりいらっしゃいました。これを見ていて気付いたのが、思っていたほど感染率が高くないということ。だからといって当時は治療法が確立されてない時代ですので、恐ろしい病であることに変わりはないと思いますが。巷では若い人の間でクラミジアや淋病が流行っているとも聞きます、もっともっと恐い奴もありますしね。まあ、男女限らず、そして玄人素人限らず、遊ぶときは自己責任でくれぐれも注意したいものです。まあ、私はそういった方面、よく知りませんが(爆)



この町、かなり交通の便が悪い処にありますので、お隣の埼玉県から路線バスという大胆なルートを取りました。JR本庄駅からバスで揺られること40分ほど、最初はそれなりにいた乗客も一人降り、二人降り、最後は私一人に。鬼石郵便局前で下車、町のメインストリートと思われる県道13号線午前9時の様子。人影は皆無、時たま車が通るだけ・・・なんだか凄い処に来ちゃったぞ。



県道から西側に入りますと、芝生広場の向こうに見えてくるのが鬼石多目的ホール。平成17年(2005)竣工、設計は妹島和世建築設計事務所、平成15年(2003)に行われたコンペの当選作になります。



建物はホール1(体育館)、ホール2、管理部分と3棟に分かれています。フリーハンドで描いたような曲線を多用、まるで分裂するアメーバのような平面になっております。全面ガラス張りで各棟ともスカイラインを統一しているのが特徴、ご覧のとおりかなり軽やかな印象の公共建築です。



左がホール1、右がホール2のエントランス、2棟の間はこんな路地空間になっており、ガラスに反対側が写り込み、パースペクティブが強調されます。おかしいと思いませんか?左は体育館なのですが、高さが全然足りていませんよね。答えは地盤を掘り込んでアリーナを地下としているから、ホール2も同じ方法をとっています。まるで平屋のように見える理由はコレ。景観に配慮した結果だと思われます。



まだ開館しておらず、内部が見られなかったのが残念。見上げると空も写り込んでおりました。



判りにくいと思いますが、右の天井はシナ合板張り、安っぽく見えないところはさすが。以降、町の様子をレポしますが、その雰囲気に比べると明らかに浮いているように見えるかもしれません。しかし、現地ではそこまでの異物感はありませんでした。廃校になった中学校の跡地だそうですが、敷地に余裕があるからかもしれません。とはいえ、好きな建築かと問われると、ウーン・・・何だか学生の課題設計みたいに見えちゃうのですよ。



県道に戻る路地で出会いました。一応飲み屋さんみたいなのですが、過剰なまでの小庇に唖然。



いい感じにサビサビのトタン建築、臭突が並んでいることから分かりますが、どうやら長屋だったみたい。



県道に戻った処で見つけたリブ壁がオシャレなお宅。車寄せ風のキャノピーには、迷彩色みたいな変わったタイルが使われておりました。



近くにあるのが享保13年(1728)創業という老舗の酒蔵、藤崎そう兵衛商店さん。この屋号、どこかで見た記憶がと思ったら、埼玉県寄居町にも醸造蔵があり、あちらが本店みたい。



向かいには重厚な門と塀を構えたお宅。宿場の名残でしょうか。



その先に視線を向けると、歴史ある商家がズラリ。此処はかなり見応えがありました。



手前のお店には市松模様のタイルが貼られた派手目なショーケース。中を覗くと物置状態の向こうに急角度の階段が見えました。何屋さんだったのでしょう。此処を右に入る通りを、地元では大門通りと呼んでいるわけ、気になる名前ですよね。地図上で注目したのもこの一画なのです。



すぐに現れるのが割烹喜撰さん、通りいっぱいに建っている総二階建てなので、かなりの迫力。なんといっても真ん中の、コチラに破風を向けた小屋組み丸見えの切妻屋根が面白い。後から付け足したようにも見えるんだよなあ。



庇の垂木が美しい、間隔にパターンがあるの分かるでしょうか。ワンポイントで色褪せたベンガラみたいな色漆喰が残っておりました。



おっと、大事なもの忘れるところでした。大好物の擬木もあるのですぞ。



振り返るとこんな感じ、右手奥がショーケースがある商店になります。



その先の路地を入ると冒頭画像の場所。むくりの付いた破風と透かし彫りが残る手摺が妙に気になるわけ、右は障子むき出しだし。



破風に乗っているのが、鬼瓦ではなく鬼そのもの。手造り感に溢れた作品ですが、正直あまり恐くない(笑)



大門通りに戻ると割烹がもう一軒、美乃和さんです。喜撰さんはあれでした、コチラは現役だと思います。



その先の四つ角に建つお宅に妙な違和感・・・。



奥のくり抜いたような入口に吸い寄せられ、お隣も気になるなあと振り返ると・・・



いきなりピンク外壁に円形の造作が現れたわけ、これには驚きましたわ。



分かりにくいと思いますが、円形造作には組子による、遊里跡ではお馴染の松皮菱風の意匠が見て取れるのです。



お隣には青の出窓に白のパーゴラ、これがいい草臥れ具合なわけ。今回のお気に入りはコチラに決定。



何だろうと覗いてみると、なんとパーマ屋さんでしたか。セピア色の花嫁が哀愁を誘いますなあ。



大門通りの突当りにあるのが福持寺さん、建久7年(1196)創建という古刹です。通りはこのお寺の参道を兼ねていたようですな。



福持寺さんの脇、墓地沿いの坂道を登っていきますと、一見すると旅館風の物件があります。庭木で見切れていますが、奥の看板には何故かホルモンの文字。



コチラ、庭木の向こうに隠れるようにしてこんな造作があるわけ。



看板の矢印に導かれるまま回り込むと・・・うわ、本当にあった。しかも暖簾が出ているし、まだ午前10時なんですけど。もちろんまだやってはいませんでしたけど、そのロケーションを含めて物凄く惹かれたお店でした。お隣の旅館風物件のこっち側にも、同じような八角形の造作があるわけ。



県道13号線から分岐する県道177号線をしばらく行きますと、神流川を堰き止めた小さなダムが現れます。神水ダム、昭和43年(1968)竣工の重力式コンクリートダムです。



美しいエメラルドグリーン・・・この上流約6キロにあるのが、神流湖で知られる下久保ダムです。同じ重力式コンクリートダムですが、堤頂長が605mと日本一の規模を誇っています。此処は下久保ダムの逆調整池という位置づけみたいです。



向こう岸には杉木立に囲まれた小さな社がありました。丹生神社さんです。



県道177号線が分岐する仲町交差点に面して、料亭か旅館だったのではないかと思われる立派な木造建築があります。



かなりの大店であることが分かるかと思います。



しかし、近付いてみるとこんな有様、余命僅かといった状態でした。



日野萬って屋号だったのかと思ったら、コチラ向かいの商店の看板。なんでこんな処に放置されているのでしょうね。

当初はその地名に惹かれただけだったのですが、行けば行ったで楽しめてしまうものです。あの大門通り、おそらく福持寺の山門が由来だと思うのですが、別の意味も兼ねていたら嬉しいなと。以上で山あいの小さな町、鬼石の探索はオシマイ。

埼玉県 本庄市児玉町201503

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出格子向こうの色ガラス・元料理店がファミレスに!?・養蚕エリート育成学校

当初はコチラを訪れるのが主な目的だったのですがね。


 前回の鬼石から路線バスで本庄方面に戻る途中、JR八高線の踏切を渡った先で下車。近くにある丹荘駅で八高線に乗るつもりだったのですが、時刻表を見ると次の列車は一時間後・・・。仕方がないので無人の木造駅舎の待合でうつらうつら。目を覚ますとちょうど列車が到着、それに乗り込み高麗川方面へ一駅で児玉駅です。元々は児玉町でしたが、平成18年(2006)に本庄市と合併し、自治体としての町は消滅しています。実はこの合併のこと、下調べするまで全く知らなかったというのは此処だけの話。

 中世の頃は地名の由来となった児玉党なる武士集団が一帯を治めていました。鎌倉街道上道なる古道が町を南北に貫いていましたので交通の要衝でもあったようです。まあ、そんなことより児玉とくると養蚕です。嘗てこの町には若き養蚕家エリートを育成する学校があり、実習に使用された校舎が今も残っています。当初の予定では町を適当にブラブラして、腹が減ったらメシ食って、最後にその校舎を見学して、といった感じでかなりいい加減なものでした。遊里関係の情報も皆無でしたし、地図を見てもアンテナがピクリともしませんでしたので。しかし、これが意外な展開をみせるわけ。当り前なのですが、やっぱり実地調査しないと分からないことって多いよね。



昭和14年(1939)に建てられた木造の児玉駅駅舎。左の妻側だけが半切妻屋根の瓦が美しい。葺き替えたばかりのようですが・・・なんで分かるんだですって?だって正面破風の鬼瓦にJR児玉駅ってあるんですもの。



駅前のサビサビトタン食堂がやっていない、嫌な予感・・・果たして食事に有り付くことができるのでしょうか。



青く塗られた大和塀を横目に駅前通りを行きますと・・・



寄棟屋根が珍しい石蔵が現れます。裏手には門柱だけが残っておりました。養蚕関係でしょうか。



駅前通りが国道462号線にぶつかる四つ角手前。倉庫かと思ったら半分隠れた『児玉ショッピン』の文字、残りは分かりますよね。



国道を右折(北へ)すると見えてくるのが中林美容室さん。パラペットから柱型がバンバン突き出しているエキセントリックな看板建築風、繰り返しの美学ですな。元々は郵便局だったとか。



同じようなアングルで恐縮ですが、奥をご覧下さい。コレ、土蔵造りの商家にファサード部分を増築したんじゃないでしょうか。



かなり強引な手法にも見えますが(笑)まあ、そこが気に入っているんですけどね。



その先には妻壁+袖卯建が赤煉瓦の土蔵造りの商家。珍しいのが戸袋までが赤煉瓦積みだということ。しかし、ご覧のとおりの非常に危険な状態です。



お次はおかしな表現になりますが、和風の洋館としか言いようのないお宅。左右に松と桜を配したシンプルなお庭が建物同様気に入っています。



駅前通りに戻る途中、脇道あった至って普通の居酒屋にコレが。昭和60年とありましたが、ステッカーでも鑑札と呼ぶのでしょうか。こんなの初めて見ましたよ。



駅前通りが交わる四つ角に戻って、今度は南へしばらく行きますと、屋根付き袖看板が目印の旅館田島屋さんが現れます。よく見ると鬼瓦に田島と刻まれているのが分かるはずです。



外壁の押縁下見板張りが圧巻、しかも奥は三階建てではありませんか。大正3年(1914)に建てられたそうですが、もちろん現役。三島由紀夫や吉田健一などが宿泊したことがあるとか。埼玉県のロケーションサービスに登録しているそうで、コチラで内部の様子が確認できます。いかにも昔からのお宿といった雰囲気ですが、最後の洗面所の窓にやられましたわ。直後に似たようなものにお会いできるとはねえ・・・。



旅館部分に続くのはコチラも三階建てと思われるノッポな土蔵。



その先のお宅が妙に気になる・・・一度通り過ぎたのですが、戻ってみますと・・・



玄関脇の木製看板には頭に『助』の文字、それ以降はかすれて読めませんでした。真っ先に頭に浮かんだのが『助産婦』。ウンウン、これしかないだろうと独りごちていると、奥の出格子に気がつくわけ。



思わずムハッって変な声が出ちゃいました。鮮やかな緑の色ガラス、そして市松模様とタータンチェック風のエッチングに仰天。しかし、コレで終わりではないのです。国道に戻ろうとしますと・・・



なんと側面にこんな窓。おさらいのストリービューで確認しますと、嘗て手前の更地には田島屋さんのガレージがありました。それが撤去された結果、この窓が陽の目を見たということみたい、運が良かったようですな。コチラについて、後ほどある方からお話を伺うことができました。



国道から南に分岐する脇道に入ってしばらく行きますと、児玉商工会裏手にシンボリックな塔が見えてきます。児玉町旧配水塔、昭和6年(1931)竣工、国の登録文化財です。各地にこういったタイプの給水塔・配水塔が残っていますが、埼玉県内では唯一のものなんだとか。



以前のかなり劣化した外壁の風合いが悪の秘密基地っぽくてステキだったのですが、一年ほど前に化粧直しされたとか。ドアなどに使われている水色はオリジナルカラーだそうですよ。



お隣に関連施設、たぶん浄水井という奴じゃないかと、間違っていたらご免なさい。二つの小屋は地中でトンネル状の水槽で繋がっていて、それの通気管が地上に突き出ているのだと思います。



駅方面に戻る途中にあるのが東石清水八幡神社。源義家が奥州征伐の際、この地で戦勝を祈願したのが始まりとされています。県の指定文化財の社殿は享保7年(1722)に建てられたとのこと。見事な彫り物がいっぱいありましたよ。



境内の池には夫婦岩、なぜか先端から噴水がプシャーなわけ。夫婦和合の象徴でもありますので・・・ちょっと考えすぎでしょうか(笑)



八幡神社裏手に位置する玉蔵寺、境内脇にはサビサビトタンの廃工場。



裏通りを抜け、国道462号線に戻って参りました。



そろそろ空腹も限界、道すがらお店を探していたのですが、なかなか良さげな処が見つかりませんので、行きのときチェックしていた美味倶楽部なかまちさんへ。お店の外観はご覧のとおり、明らかに新築物件ではないわけです。後ほどお話を伺った方によりますと、業種は不明ですが元々は料理店だったとのこと。



透かし彫りのある手摺と円形の造作に期待して入店、そしてすぐに落胆。おそらく並んでいた座敷をぶち抜いてリフォームしたのだと思いますが、名残など知らんといった感じ、和洋折衷のファミレスみたいになっておりました。お料理も和洋中と何でも揃っているというところもファミレスっぽい、しかし何を頂いたのか全く覚えていないのです。別に美味しくなかったとかそういうわけではないですよ。会計の際にバイトと思われる兄ちゃんに、此処は料亭か何かだったの?と尋ねてみると???こんな反応。どうやら料亭自体が分からなかったみたい・・・ごめんね、変なこと聞いちゃって。



それでは当初の目的地に向かいましょう。チッカリンにオルガニン、肥料の名前ってなんだか恐ろしいのが多いよね。



競進社模範蚕室・・・明治27年(1894)竣工、県の指定文化財であり経産省の近代化産業遺産にも選定されています。コチラを建てたのが、養蚕技術の発展に一生を捧げた木村九蔵です。当初は研究所的なものだったようですが、後に養業学校なる養蚕家を育成する学校となります。そのあたりのことは本庄市のHPに詳しく載っていますので、そちらをご覧になったほうが宜しいかと、手抜きで申し訳ない。



蚕室の様子・・・両側に蚕棚がズラリと並ぶ部屋の真ん中に炉が切られており、此処で炭を炊いて除湿をします。日本のお蚕さんは湿気に弱いそうな。暖められた空気はスノコみたいな天井を通り、外観に写っていた越し屋根の気抜きから外に排出されるというわけ。木村九蔵が考案したこの飼育法は『一派温暖育』と呼ばれています。



以上のようなことを説明してくれたのが係のオッチャン。一通り聞き終えて、例の色ガラスの件と遊里関係のことを尋ねてみました。養蚕関係の接待が主だったようですが、芸者さんは結構いらしたようです。立派な料亭もあり、自分もお城みたいなお店に何度か行ったことがあるそうです。そして肝心の色ガラスの件、達磨屋こと乙種料理店はご存知でしたが、あそこがそうだったかと言われると分からない、しかし、盛んだった養蚕のことを考えれば、そういう処があったとしてもおかしくはないよねとのことでした。実はこの方、出身は池袋で児玉在住30年と聞き、思わずコケそうになったのは内緒(笑)



近くの丁字路の角にお城みたいな料亭(屋号は失念)があったそうな。

これも所謂『知られざる遊里』ということにしておきましょうか。東京のベッドタウンで開発が盛んというのが影響しているのか、相変わらず埼玉県は芳しくないなあ。まあ、それを探すのが楽しかったりするんですけどね。想像していた以上の展開に驚かされた児玉町は以上でオシマイ。

静岡県 静岡市葵区201409

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七丁-五丁の遊廓跡・間に合わなかった横丁建築・駅ビル裏のトタン魔窟!?

遊廓跡にふられ、目的の横丁建築にもふられた私が最後に出会ったものとは!?


 今回は静岡県の県庁所在地静岡市、その中でも政治経済の中心である葵区を主にレポ致します。ご存知だと思いますが、静岡市はその昔、駿府城を擁する城下町。そして、当時は府中宿と呼ばれていましたが、旧東海道19番目の宿場町でした。今川家に人質に取られた徳川家康が幼少期を過ごした処として知られておりますが、慶長10年(1605)に将軍職を二代目秀忠に譲ると、隠居するために江戸からこの町に凱旋するわけです。帰ってきた家康が手掛けたのが、駿府城の拡張と町の区画整理と再開発、そして安倍川の治水でした。大工や人夫が大量に集められ、男の人口比率が一気に高まることになります。これに困ったのが既存の遊女屋、とてもじゃないが捌ききれないということになったのだと思います。それに対して家康が取った策は大胆なものでした。

 『慶長年中家康公駿府在城中伏見より七ヶ町を移し元和年間に至り江戸に五ヶ町を移したれは二丁残りたり 因て人呼て二丁町と云ひ又双街と云へり 市の西端にありて一廓をなすを以て自から他の商家と趣きを異にせり古へ関門あり娼妓をして此門を出さしめす 維新の際官娼妓解放の令ありてより関門を廃し只列柱を建てり柱に一聯の句あり』

 以上は明治45年(1912)に出版された『静岡名所案内』からの抜粋になります。なんと京都伏見から七丁分の遊廓を移転させ、増える需要に対応したというのです。町の整備が終わり、そこまでの規模が必要としなくなったのだと思いますが、今度は五丁分を江戸に移転することになります。移転先は現在の日本橋人形町。そう、元吉原遊廓の前身がこの遊廓なのです。本家と分家といった感じでしょうか。七丁-五丁(五丁-三丁という説もあり)で、残りの二丁が別名双街と呼ばれた二丁町遊廓というになります。なんとも効率の良い遊里の形成過程といいますか、これも家康の先見の明としても宜しいのではないでしょうか。

 『静岡市安部川遊廓 静岡県静岡市安部川町に在つて、揚屋町、仲の町、上の町の三ヶ町が一廓に成つて居る・・・明治初年の火災以降は漸く衰へたりと雖も今尚十三軒の妓楼があり、娼妓百九十人を数へて居る・・・娼妓は大抵尾張、美濃、伊勢地方の女が多くを占めて居る。妓楼は小松楼、蓬莱楼、喜報楼、初音楼、巴楼、吉田楼、清水楼、江戸楼、若松楼、音羽楼、恵比寿楼、高砂楼、三河楼の十三軒だ。附近には由比正雪の墓があり、今は兵営に成つて居るが静岡城址があり、今川義元の首塚等がある』

 お次はお馴染『全国遊廓案内』から。大きな遊廓を表現する言葉で、三層楼が軒を連ねなんて言ったりしますが、此処の場合はなんと四層楼+屋根裏部屋?ですぞ。大正12年(1923)に発行された『静岡』なる書籍に双街の写真が載っており、数えてみると上記のような構造なっていたわけ、これには驚かされました。しかし残念なことに、この遊廓、その後焼けてしまいます。昭和20年(1945)6月19日深夜の大空襲で、静岡市の中心街はほぼ完全に焦土と化してしまいます。二丁町遊廓も例外ではなく、戦後すぐに撮影された航空写真では、痕跡は辛うじて確認できましたが、全て焼け落ちてしまったようです。しかも再開叶わず、近くの一画で赤線として存続していくことになります。

 『静岡の花街 両替町 静岡駅から約三町、即駅前から左に折れて右に入れば絃歌さんざめく花街の中心。両替町五・六丁目から平屋町、下桶、鍛冶町、江川町、江尻町等一帯の総称で、洒落て「蓼街(りょうがい)」ともといふ。その間に芸妓屋、料亭等が散在してゐる。芸妓屋 六十軒。芸妓大小併せて百八十一人。主なる料亭 浮月楼、佐野春楼、求友亭、若松、新求園。二流の上では一春、菊月など。主なる貸席 弥生、ひょうたん、きせん等を一流とする・・・』

 最後は花街、『全国花街めぐり』からの抜粋になります。両替町は現在も健在でして、JR静岡駅の西、現在はかなりの規模の歓楽街と化している一帯が嘗ての花街だったみたい。幾つかの料亭などは存続しているようですが、もちろん此処も空襲で焼け、その後に行われた区画整理などで面影は皆無だなというのが、最初に地図を眺めたときの印象。そんなとき目に飛び込んできたのが、小割りにされた飲み屋さんと、それを貫く細い通路。これは間違いなく大好物の横丁建築だ、静岡県はコレの宝庫ですからね。遊廓跡はかなり残念な状態というのは予め知っていましたので、急遽コチラを目的地に変更致しましょう。今回は結構広範囲に移動しないとならないのですが、9月初旬ということで非常に厳しい残暑というわけでちょっとズル、レンタサイクルの力をお借りします。



JR静岡駅のすぐ西側、静岡中央郵便局の向かいにあるのが浮月楼さん。『全国花街めぐり』が記しているのがコチラになります。『静岡の代表的料亭としては浮月楼を推さねばなるまい。元徳川慶喜公の邸園で家逹公は幼時こゝで育つたのである。侠客新門辰五郎の事績などもある・・・こゝの貸席といふは即ち待合だが、東京の如く公式のものではない』左の石碑にもありますが、元々は徳川慶喜の隠居所だったそうです。此処の裏手にひろがる歓楽街が嘗ての花街になります。



慶喜の屋敷として20年、その後静岡市の迎賓館として120年の歴史を誇っています。広大な敷地の中央には大きな池、それを横切る木造の弓反り橋。現在は料亭というよりは、総合結婚式場といった感じ。ランチを頂けば庭園を散策できそうですが、これが結構なお値段(笑)



迎賓館でのランチは諦め、駅前から伸びる御幸通り(県道27号線)を行きますと、駿府城址が見えてきます。城址の向かいに、異国情緒満点なドーム付の塔がスクッと伸びた近代建築が現れます。静岡市役所本館、昭和9年(1934)竣工、設計は旧満州や朝鮮でも活動した中村與資平、国の登録文化財です。全面に貼られた淡いベージュのボーダータイル、窓廻りやパラペットのアクセントにテラコッタが使われています。そして何よりも美しいドーム、分かりにくいと思いますが、全面に貼られたモザイクタイルで幾何学模様が描かれているわけ。これのせいでイスラム建築を彷彿とさせるデザインとなっております。大袈裟かもしれませんが、手前の松が無かったら日本の光景だとは思えませんよね。



エントランス部分も秀逸。床と壁、全面に使われたトラバーチン(大理石の一種)、扉の向こうに見える車寄せのアーチ。特に扉の納まりに注目ですぞ。分かるでしょうか、開いた状態で壁と同面・・・要するに出っ張らないように納めているわけ。スッキリしているでしょう。



修復されたばかりのようですが、天井の装飾がお見事。これもテラコッタかと思ったのですが、継ぎ目が見当たりません。石膏かもしれませんな。よく見ると天井と装飾梁が緩い弧を描いており、入口に向かって勾配が付いているようです。



エントランスホール・・・踊り場から左右に分かれていく階段がいかにもな感じ。柱のせいでちょっと窮屈な印象。踊り場には大きなステンドグラスが嵌っておりました。大事に使われているのか、非常に状態が良好な近代建築です。



静岡市役所本館の向かい、駿府城址内に建っているのが静岡県庁舎本館、昭和12年(1937)竣工、コチラの設計も中村與資平、そして国の登録文化財です。中央にエントランスを構えたシンメトリーなファサード、平面は日の字型になっています。此処からでは見えませんが、中央のペントハウスは五重塔風の反りの付いた方形屋根、パラペットの軒庇には持ち送り風の装飾も見られます。しかし、外壁に規則正しく並ぶ窓はモダニズム建築そのもの。和と洋の融合、所謂帝冠様式と呼ばれるものです。



この陰影クッキリで角が立った窓の並びがお気に入り。柔らかな表情の外壁は、本石ではなく人造石なんだとか、小タタキにしているっぽい。オリジナルではないと思いますが、鋳鉄製窓台のお花もステキ。



県庁裏手の駿府城中堀沿いで見つけました。わさび漬発祥の地だったとは知りませんでした。



二ノ丸の南西角に建つ坤櫓(ひつじさるやぐら)、妙に綺麗と思ったらほんの数ヶ月前に再建されたばかりのものでした。『ひつじさる』とは方角を示す言葉になります。残念なことに駿府城址には建造物としての遺構がほとんど残っていないのです。これは寛永12年(1635)に発生した火事で焼けてしまったからなのですが、さらダメ押ししたのが明治30年(1897)にやって来た帝国陸軍歩兵第34連隊、静岡市は軍都という一面もあったということになりますな。城址を駐屯地とするため、本丸堀は埋め立てられ、わずかに残っていた遺構の類も全て壊されてしまったそうです。



中堀と外堀に挟まれた細長い中州のような処で偶然出会ったカトリック教静岡教会。幼稚園の敷地内に建っています。



十分に近代建築と言っていいくらい歴史がある建物に見えるのですが、手元の資料やネットにもほとんど情報がない謎の教会なのです・・・と書いたところで見つかった(笑)昭和24年(1949)に再建された二代目。初代は明治43年(1910)に建てられたそうですが、やはり空襲で焼けてしまったとのこと。近代建築と呼ぶにはちょっと新しかったかな。でも、スッキリとした清潔感のある建物だと思います。



次の目的地に向かう途中、電柱に誰かの落し物。



駿府城址の北側を東西に走る長谷通りに出ました。通り沿いにあるのがレトロな看板建築風の天神湯さん。パラペットの繰形コーニス、その中央から立ち上がる山型の壁に屋号が刻まれた扁額が掲げられています。通りの奥に見える銅板葺きの屋根は駿河国総鎮守の静岡浅間神社、長谷通りは嘗ての参道だったようです。



暖簾が風に揺れていましたが、まだ午前なわけ。



それを潜るとこんな感じ。腰に貼られたタイル、色の組み合わせが結構大胆。取り囲む一見するとゴールドにも見えるタイルは、外壁に使われているのと同じだと思われます。コレが絹目調の柔らかいテクスチャーでステキなのです。しかし、コチラ今年になってから休業されているとのこと、心配ですね。



コチラは何処だったっけ・・・駅方面に戻る途中で出会ったお店だと記憶しています。



この草臥れ具合が気に入っています。



さきほど紹介した静岡市役所本館の裏手辺り、本通り(県道208号線)と呉服町通りが交差する四つ角に重厚な近代建築が残っています。旧静岡三十五銀行本店、昭和6年(1931)竣工、設計者はまたまた中村與資平、またしても国の登録文化財。いくら静岡県ゆかりの建築家だからとはいえ、現代にこういことが起きると大問題かもね(笑)銀行だからというわけではないでしょうが、いかにも古風で堅実なデザインといえるのではないでしょうか。現在は静岡銀行本店となっております。



エントランスに構えるのが4本のドリス式オーダー。画像自体が下から煽っているのであれですが、実物もちょっとプロポーションがポッチャリ気味で可愛らしいのです。此処の裏手から最初に紹介した浮月楼さん辺りまでが嘗ての花街だと思われます。



グラマーなトルソーを横目に二丁町遊廓跡に向かうと致しましょう。



これは懐かしい、母の鏡台に並んでいたという方多いのではないでしょうか。とっくに無くなっているかと思ったら、未だに販売されているのですね。



おもろい名前でしたので・・・たぶん市原悦子は所属していないはず。



『全国女性街ガイド』によりますと、赤線は七間町の左側裏に28軒、周辺に散らばっているのも加えると100軒、四百数十名とあります。七間町は今も健在、左側裏というのがよく分かりませんが、地図上でのという意味であればこの辺りなのですが・・・どうもいまいちピンときませんでした。



近くにある感応寺は、仁寿2年(852)に創建された天台宗の古刹。家康の側室、お万の方が得度した処と伝えられています。そんな由緒正しきお寺なのに、なぜか山門が妙にエキゾチック・・・。



二丁町遊廓跡へは駒形通りを南西へ真っ直ぐ。途中にあるのが桜湯さん、可愛らしいお婆ちゃんが開店を待っておりました。



駒形通りの両側は庶民的な商店が軒を連ねているのですが、その並びの一軒では奥様が競りにかけられていた!?ちなみに『奥様市場』で検索すると、派遣型風俗ばかりがヒット(笑)



奥様市場の先を右に入ると嘗ての二丁町遊廓。静岡県地震防災センターがある一画が中心だったと思われます。遊廓跡に防災センター・・・妙な因縁を感じたのはなぜでしょう。そんなことはおいといて、ご覧のとおり、遺構どころか名残さえ皆無の惨状。事前に分かってはいましたが、四層楼見たかった・・・。



防災センター脇に小さな社があります。単なる稲荷神社、頭に何も付かないのでしょうか。遊廓が伏見からやって来たとすると、この神様もソッチ系???



境内に設置された石碑。達筆すぎてあれですが、静岡双街紀念之碑と刻まれているそうです。脇に立てられた説明板には、七丁-五丁のことなどが記されてあります。ただ、おかしいのは、この遊廓が昭和32年に廃止されたとあるのです。コレたぶん間違い、七間町の赤線とごっちゃになっているんじゃないでしょうか。



花街跡近く、青葉通りに面した別雷神社、『わけいかずち』と読みます。応神4年(273)に創建されたというとんでもなく古い神様なのです。その境内に食い込むようにして小さな飲み屋さんが並んでいるわけ。歴史ある寺社に時折見られる光景なのですが、やはり参拝客目当ての茶屋などの名残なのかなあ。



神社向かいにあるのが青葉おでん街。此処は観光名所でもありますのでご存知の方も多いかと。屋台由来の静岡おでんを供するお店だけが集まった横丁です。



昼間は閑散としておりますな。実は静岡市を訪れるのは三回目、前二回とも野暮用でしたけどね。そのとき此処で飲みました、確か12、3年前だったかな。どのお店だったか全く覚えていないけど、味のほうも(笑)先日、孤独のグルメseason5が始まりましたね。相変わらずゴローが旨そうに食っているだけのドラマですが、それに合わせたように第2巻が18年ぶりに出版されました。それの第一話の舞台が此処でした。



花街跡を貫く両替通りから一本入った裏通りに目的の横丁建築が・・・な、無い!!跡地の感じからして、壊されてからそんなに時間は経過していないと思うのですが、間に合わなかったか・・・。嘗て此処に建っていたのが『ちゃっきり横丁』なる横丁建築でした。



悔しいのでストリートビューの画像貼っておきます。最新のビューではコレも見られなくなっています。保存しておいて良かった・・・そんなことより実物見たかったです。



『ちゃっきり横丁』の反対側に出るため、すぐ脇にあるのが青葉小路なる飲み屋さんが続く路地を抜けていきましょう。どん詰まりのように見えますが、看板の矢印にありますように、クランクして両替通りに『ぬけられます』



両替通りに面したビル内の通路と接続していたようです。遊廓跡と横丁建築、両方にふられてしまいました。まあ、毎度のことなんですけどね。



チャリを返し、何気なく駅の反対側はどうなっているんだろう思いながら高架を潜ると、目の前に現れたコレに仰天。いきなりでしたので本当に驚きましたよ。



横丁建築の一種としても宜しいかと。金網で塞がれておりますが、建物を貫く通路はL字型になっており、右の通りに抜けられるようです。



見上げるとサビサビの骨組、おそらく嘗ては派手なテント地が張ってあったのだと思います。左手のビルはJR関係のもの、そのすぐ向こうは新幹線がビュンビュン走っているわけ。



そんな駅前に、なぜこんな謎物件が残っているのでしょう。



金網越しに覗き込んだ通路の様子。通りに面した部分には飲み屋さんらしき亡骸が並んでいましたが、通路部分にはそういった雰囲気が全く感じられないのが不思議。ご覧のとおり、かなり危険な状態です。



以上、駅前に残る謎のトタン魔窟でした。

トタン魔窟には続きがありまして、おさらいのストリートビューで確認しますと、真新しい駐車場に変わっておりました、直後に解体されてしまったようです。ふられ続きでしたが、最後の最後に救われたような静岡市葵区の探索は以上でオシマイ。

東京都 青梅市200901・201203・201412 その1

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謎の豪邸の正体判明・鰻の煙で泥鰌を食らう?・拡幅により消え行く花街の面影

◆にゃにゃヶ所も曲り角、無かったような気がするのですが・・・。


 たまには東京もレポ致しましょう・・・とは言っても西の外れの青梅市ですけどね。新民謡ヨササ節で『青梅、青梅と青梅の町は、帯の長さもあるものを』、古民謡むぎ打唄では『青梅の宿は長い宿、長いとて物干竿にはならぬ』と唄われた青梅は、旧甲州街道の脇往還である旧青梅街道の宿場町。唄のとおり、多摩川の岸に沿うようにして中心街が東西に細長く伸びているのが特徴。嘗ては木綿と絹の交織である青梅縞を特産としていた機業地でもあります。名前のとおり吉野梅林を代表とする梅も名物でしたが、数年前に日本初(梅では世界初)のプラムポックルウィルスの発生が確認され二万本以上が伐採されてしまうという異常事態。しかも依然として感染は拡大しているというかなり心配な状況なのです。

 そんな青梅ですが、近頃は映画看板を代表とする昭和レトロ推しで観光客を誘致している町として知られているわけです。ご存知の方も多いかと思いますが、これが結構徹底しておりまして、ここまでやりきるのは見事なことだと思います。しかし、個人的にはこういったものって、ウーン・・・基本的に観光地のいやげ物的なものが苦手、押し付けられるとひいちゃう人間なものですから。そんなことしなくても十分に魅力的な町だと思うのですがね。でも、それだけじゃ人は来てくれないんだろうなあ・・・。まあ、そんな感じですので、映画看板はバックで見切れている程度、ほとんど出てきませんのであしからず。

 もちろん遊里も存在しておりましたが、詳しくはその2のほうで・・・大したネタはありませんけど。都合3回訪れておりますが、2回目はちょっと特殊な状況、番外編として最後にでもお伝えできたらと思っております。画像の在庫がかなりありますので、早々に始めさせていただきますね。

註)各画像のキャプションに付けられた★は2009年12月、☆は2012年3月、◆は2014年12月に撮影したことを示しています。



★青梅駅前ロータリーの光景。奥の駅舎は大正13年(1924)竣工、当時はJR青梅線の前身である青梅鉄道の本社を兼ねていたものになります。当時はまだ珍しい鉄筋コンクリート造3階建て、なんと地下には名店街もあったというハイカラなものだったそうです。



◆近くでこんな大門を見つけたわけ。『昭和の猫町 にゃにゃまがり』だと~?前2回のときは全く気付かなかったのですが、いつ頃できたのでしょう。



◆すれ違いも困難な路地に沿って、ニャンコをモチーフにした様々なオブジェが並んでいるわけ。映画看板と並んで町中で散見されるのがコレ、映画はあれですがニャンコは大歓迎(笑)



◆とはいえ、ご覧のとおりのちょっと寂しい状態。これで観光客を引き込むことができるのか、他人事とはいえ少し心配。



★にゃにゃまがりを抜けて旧青梅街道(都道28号線)に出ると、年期の入った銅板装飾に橋の欄干みたいなバルコニー付きの看板建築が現れます。昭和初期に建てられたとされる旧ほてい屋玩具店さん、国の登録文化財です。2階の開口部が塞がれており、どうやら空き家みたい。



★一軒置いた先には金属板平葺きの柏倉洋品店さん、コチラも昭和初期といった感じでしょうか。1階は変な絵画で塞がれておりました。



◆5年後の様子・・・ほてい屋さんはシャッターが撤去され、綺麗に直されておりました。新しい店子さんが入ったのかな。



◆おかげで2階の美しい桟が入った窓を鑑賞することができました。よくよく見るとバルコニーというほど奥行きが無かったね(笑)



★そのまま旧街道を西へ・・・重厚な出桁造りの商家はお茶とお米の柳屋さん。青梅きっての老舗で、現在のお店は明治7年(1874)に建てられたものだとか。



★その先には鈴木染物店さん、これも機業地の名残かもしれません。塗装が剥げ落ちかけた戸袋を兼ねた看板、そして引き戸の金文字が大変宜しいですなあ。



★お次はスッキリとした切妻屋根が美しい店蔵、旧稲葉家住宅です。江戸後期に建てられたとされ、都の民俗文化財に指定されています。内部も無料で見学できますよ。



★稲葉家は青梅宿の町年寄も勤めていた豪商、主に木材商と青梅縞の問屋を営んでいたそうです。画像は入口を入ったすぐ脇、おそらく往時は接客スペースだったと思われます。



★裏庭に面した広縁に囲まれた座敷、額縁障子が美しい。



★旧稲葉家住宅裏には廃業した造り酒屋。稲葉家の案内のお姉さんに屋号を聞いたはずなのですが、何せ6年前ですので・・・。コチラ、既に解体撤去され、この姿を見ることはできません。この辺りで旧街道の北側を並行する地元で七兵衛通りと呼ばれている裏通りを辿って駅方面に戻ります。



◆途中の脇道の光景、木製物干し場がいい感じ。



★その先でJR青梅線の踏切を渡り山側に入ると梅岩寺さんがあります。境内の片隅、森へと伸びる薄暗い山道に入ると現れるのがこんな竹林。



★一応観光マップにも載っている場所なのですが、全くと言っていいほど観光客は訪れない様子、穴場かも。まあ、でもご覧のとおりの至って普通の竹林ですけどね(笑)これは6年前の光景ですが、今回再訪すると倒木が塞いでいたりして少し荒れておりました。



◆竹林を抜けると苔生した石垣が現れます。フカフカ落ち葉のカーペットを踏みしめながら進みますと・・・



◆鳥居が連続する名無しのお稲荷さんがあります。6年前は油揚がお供えしてあったのをよく覚えています。



◆お稲荷さんから真っ直ぐ下っていく階段、コチラがメインの参道だったみたい。私の背後にはJR青梅線の踏切、お稲荷さん専用というわけ。



★駅には戻らず、旧街道を渡って多摩川側へ・・・常保寺さん境内の片隅に佇むのが、世にも珍しい猫地蔵。左手で招いていますので、ご利益はお金ではないみたい(笑)青梅のニャンコ推しのルーツってコチラかしら???



◆近くで出会った現役と思われる井戸。此処だけでなく町中でも結構見られるのです。



★中心街の東端、都立青梅総合高校の手前にあるのが、さくらファクトリーのノコギリ屋根。元々は青梅織物協同組合の工場だったものを、アートスペースや工房として再活用しているそうです。



★記憶が曖昧ですが、近くの坂道だったかと。旧青梅街道から多摩川側に入ると、こういった場所がチラホラ、河岸段丘だと思われます。大好物の高低差がある町でもあるわけです。



★旧青梅街道に抜ける脇道の出口にこんな看板建築があります。コチラも昭和初期といった感じでしょうか、黄色外壁の草臥れ具合が素晴らしい。



★旧街道を少し駅方面に戻ると、橋本屋旅館さんの独特な吊り行灯型の看板が見えてきます。コレ、結構な大きさなのです。創業は明治3年(1870)とのこと、ネットの情報が間違っていなければ今も現役のはず。



★橋本屋旅館さんの裏手、JR青梅線沿いで見つけた小さな洋館付住宅。オシャレな出窓が目印です。



★再び旧街道に戻って駅方面へ、途中の脇道に入りますと、軒燈代わりの提灯が連なる古色蒼然としたお店が現れます。歴史などは不明ですが、宿場時代からの生き残りかもしれません。とんかつのもりたやさん、とんねるずの番組にも登場しているお店といえば何となく雰囲気は分かるかと(笑)実はコチラに3回共ふられているのです。初回は入口が開かず仕舞。2回目、引き戸は開いたのですが、声をかけても一向にご主人は現れず。まあ、とても飲食店とは思えない店内を観察できたのは収穫でしたが。そして3回目、また開かず。その後知ったのですが、夜だけの営業なんだそうです。普通、とんかつ屋が夜だけなんて思わないでしょ。閉店時間もご主人が呑みに行くため、その日の気分次第という素晴らしさ(笑)



★初回は丹下左膳が掲げられていましたが、2回目には無くなっておりました。今回、おさらいのストリートビューで確認しますと、鞍馬天狗に変わっていましたよ。



◆提灯も白から赤に変わっていたわけ。私の記憶違いかもしれませんが、コチラ、NHKの番組にも登場していたはず。現在は別番組ですが、お昼のニュースの後に放送されていた『生中継ふるさと1番!』っていうの覚えておりませんか?確かこの番組だったと思うのですが・・・その中でご主人が、嘗ては芸者さんが出入りして二階で宴会をしていたと仰っていたような・・・勘違いだったらご免なさい。



★もりたやさんの隣に石垣と塀に囲まれた謎の豪邸があるのです。初回、2回目共、門が固く閉ざされており、中の様子を窺うことは不可能、此処は何だろうと思いながら通り過ぎるだけでした。



◆ところがです。今回訪れてみると、なんと公開されているではありませんか。津雲邸といいまして、青梅出身の元衆議院議員津雲國利のお宅だったというわけ。ようやく謎の豪邸の正体が判明致しました。このお宅は昭和9年(1934)竣工、京都から宮大工を呼んで建てさせたそうです。ええ、もちろん、見学させていただきますよ。



◆門を潜ると、鯉?が泳ぐ手水鉢がお出迎え。



◆奥まった玄関廻りのアプローチ、突当りにはちょっと変わった下地窓。敷石には謎の彫刻、何かの転用だと思われます。



◆たぶんご子息と思われる品の良い紳士が案内してくれました。公開してからまだ一月ほどとかで、説明が初々しいところなんかが良かったです(笑)コチラは一階の六畳切の茶室、右に奥行きのある床の間、左は水屋だと思います。



◆一階の応接室、床は寄木造り、天井はたぶんケヤキの格天井。用途は洋式なのに、豪華な床の間や真壁に長押が回っていたりするため、一種オリエンタルな空間になっているわけ。



◆オリエンタルな空間演出に一役買っていたのがこの釈迦涅槃像。由来などを伺ったはずなのですが、記憶からすっかり抜け落ちていた・・・申し訳ない。



◆気に入ったのがおトイレ、ジックリと腰を据えてあれこれと思索できそうですな(笑)



◆二階の大広間には釣鐘窓に出書院。精緻な組子障子と透かし彫りが見事です。



◆大広間の広縁手摺の腰板には蝶の透かし彫り。



◆コレは一階の和室だったかな、欄間に源氏香の記号が穿たれておりました。時間の関係でゆっくりできず、しかも暗くて撮影失敗の連発・・・他にも見所いっぱいですのでオススメですぞ。HPも貼っておきますね。

その1はココまで、次回は駅の東側にひろがっていたという花街跡を重点的に彷徨います。そこで私は落語の一節のような状態に陥ってしまうわけ・・・。

東京都 青梅市200901・201203・201412 その2

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◆線路脇で妙に艶っぽいお店跡を見つけたわけ。


 『青梅の花街 花街といふほど一廓に集中はしてゐないが、氏神の住吉神社を中心として、その周囲の芸妓屋及び料理屋の多くが散在し、青梅駅から遠くも四五町の範囲で格別俥や自動車の御厄介になる必要はない。芸妓屋十数軒、芸妓約五十人(内小芸妓十人)、料理店約三十軒、以上が即ち青梅花街の構成分子で未だ待合はない・・・田舎なれど青梅の町はシヨコシヨコで、こゝの芸妓は主ら芸を以て立ち、此の方面は忘れたのかそれとも身が自由でないのか、さういふ方面には甚だ愛嬌がない。従つて濃艶な情調にとぼしい点は、多少遊客をして物足らぬ感を起させるかもしれないが、安売りをせずに芸に身を入れてゐる意気と張りとは寧ろ大いに珍重してやらねばならぬ』

 『全国花街めぐり』の抜粋から始めさせていただきます。『東京 花街・粋な町』によりますと、嘗て青梅に存在していた花街の由来ははっきりしないそうです。まあ、それでも著者の上村敏彦氏が仰っているように、青梅縞の所謂ガチャ万景気が影響していたのは間違いないと思います。機業と寄り添うようにして盛衰した遊里だったのでしょう。肝心の場所ですが、上記の抜粋にありますように一廓を成していたわけではなく、JR青梅駅の東側、そして旧青梅街道の北側、現在の本町と住江町に料亭が点在していたようです。今でも現役のお店が一軒だけ残っていますので、そこで昼食をいただいたのですが、ちょっと面白い状況に陥ってしまったわけ。それについてはレポの中でお話致します。

 花街の中心だったと思われる一画を貫く通りは、それぞれ三業通り、キネマ通り、仲通りと地元で呼ばれています。その中の仲通りは滝田ゆう小路という別名が付いているそうで、これは地元の旦那衆が滝田ゆうの夫人と知り合いだったからだそうですが、滝田ゆう自身も友人の山口瞳と青梅を訪れているそうです。まあ、滝田ゆうが描く昭和が、青梅のレトロな町並みとうまく合致したということなのでしょう。そんな青梅の遊里ですが、気になって仕方がないことが一つだけあるわけ。花街ではなく遊廓の類は存在しなかったのかということ・・・。

註)各画像のキャプションに付けられた★は2009年12月、☆は2012年3月、◆は2014年12月に撮影したことを示しています。



◆『全国花街めぐり』にも出てくる住吉神社、当日は蚤の市みたいのが開催されておりました。



◆神社近くのお宅、おそらく一部屋をぶち抜いてガレージにしちゃったのだと思います。証拠に襖と照明器具がそのまんま(笑)豪快さんだなあ。



★旧青梅街道に戻ると逆立ちしたパパがお出迎え。青梅赤塚不二夫会館、お隣には昭和レトロ商品博物館もあります。青梅を計3回訪れているわけですが、この2館には一度も寄ったことがないのです。理由は何となく・・・押し付けられるのが嫌なだけかも・・・ウン、そうだ、これでいいのだ!・・・本当にいいのか?



★向かいにはこんな大門があります・・・いや、ありました。実はこの姿、もう見ることができないのです。いつ頃撤去されたのかは知りませんが、3回目の際に気付きました。手前のお店と一緒に消え失せていたというわけ。ある理由からなのですが、それについては後ほど。キネマ通りは此処からJR青梅線の跨線橋までの通りの名前になります。



★短いキネマ通りですが、どういうわけか写真店が三軒もあるわけ。コチラはそのうちの一軒の奥多摩写真館さん、入口廻りはこげ茶の座布団型モザイクタイルで統一、シックな装いですな。



★その先には左官で石貼り風の目地が切られた看板建築のスミレ写真館さん。昭和5年(1930)に建てられたそうです。初回の際は現役のご様子だったのですが・・・



◆5年後(3回目)に再訪すると、なんとこんなお姿・・・外壁も心なしか色褪せたように見えてしまいます。お店の脇を駅の方向に伸びていくのが滝田ゆう小路こと仲通りです。



◆仲通りの北側を並行しているのが三業通り。その通りに面しているのが旧岩浪土建さん、屋根は寄棟の瓦葺きですが、外壁は石貼り風の左官仕上という和洋折衷の建物。目を引く入口の両側から立ち上がる柱型、上部で窄まってそのまま途切れてしまうという不思議なデザインなのです。



◆その先にあるのがとんかつの宗八さん。入口を塞ぐように立ちはだかるガラスブロックが嵌った衝立のような壁、初めて見たときはお風呂屋さんかと思いましたよ。手前パラペットの曲線と窓の矩(かね=直角)の組み合わせがいたく気に入っているわけ。いつも準備中の札が下がっていましたので、てっきり退役済みかと・・・ご免なさい、バリバリの現役でした。



◆近くにこんな表示、花街の名残としておきましょう。



★三業通りから仲通りに抜ける路地の光景、サビサビの手押しポンプが倒壊寸前でした。



◆路地を抜けた仲通りに面しているのが、明治34年(1901)創業の寿々喜家さん。『全国花街めぐり』にも記されているお店、おそらく唯一の生き残りと思われます。その文中に三層楼とありましたので、建物も当時のままかも、かなり直されているようですが。2回目の際、前出のもりたやさんにふられた私はコチラでお昼をいただくことに。



☆うなぎが名物のようでして、私が何にしようかと迷っていると、後から続々と入店してきた客全てがうな重をオーダー。実はちょっと前にあるお店で、天然物のうなぎを食べたのですが、客あしらいが最悪、天然物ってこんなものって感じで、トラウマになっていたわけ。ウーン、うなぎはなあ・・・と思いつつメニューを眺めていると目に飛び込んできたのがどじょうの文字というわけで柳川鍋に決定。どじょうなんて本当に久し振り、グツグツ煮えたぎった土鍋で運ばれてきた、これは精がつきそうではありませんか。で、この状況を説明致しますと、私はカウンター席、向こうは調理場、目の前にはうなぎの焼き場があるわけ。焼き場には大女将?と思われるお母さんが、あたしの目の黒いうちは此処は譲らんといった感じでデンと構え、バンバンうなぎを焼いているのです。その煙がモウモウとたちこめ、うなぎの煙でどじょうを食らうというオモロイ状況・・・落語の始末の極意かと、独りでニヤニヤしておりました。あ、もちろん煙代は請求されませんでしたよ(笑)次回はうなぎいただきたいなあ、おいしゅうございました。



★寿々喜家さんの向かいに、すりガラスに丸いシールが点々と貼られた謎の物件があります。これは初回の時の姿。



☆次回訪れると、大和張り風の目隠しが外され、その下にも丸いシールが貼られていたことが判明。そしてなぜか『ぬけられます』の看板・・・デザインからしてコチラはビリヤード場だったということなのでしょうか。丸いシールはボールを表していたとか。しかし、3回目に訪れると、オシャレなお宅に変わっておりました。結局、正体は謎のまま・・・。



★今は無き丸いシール物件の脇をグルリと回り込みますと、こんな板塀が現れます。手前の角が型押しトタンのお宅も既にこの世に存在しておりません。



★板塀にはニャンコの絵がいっぱい。右の路地は仲通りから旧青梅街道に抜けるものなのですが、これがなかなかいい雰囲気なのです。



★個人的には青梅でいちばんの路地だと思っております。



◆キネマ通りに戻りますと、通りの東側に並んでいたお店のほとんどが更地と化していたわけ。コレを見て前出の大門が無くなった理由が何となく判明、たぶん都市計画道路だ。帰ってから調べてみましたら、やはり当たっておりました。青梅市の都市計画図にもはっきりと記されておりました。昭和36年(1961)に策定されたようですが、どういうわけか今になって本格的に動き出したようです。更地の先には数軒の飲み屋さん、たぶんコリーさんからこっち側が将来的には道路になってしまうわけ。



☆コリーさんのお隣はおでんの銀嶺さん、知る人ぞ知る名店らしいですぞ。初めての時はてっきり退役済みかと思っていたのですが、その後ルイルイこと『吉田類の酒場放浪記』に出てきてビックリ。



★銀嶺さんに掲げられたニャンコの絵、コレがいちばん好きかなあ。



◆3回目のお昼は近くの三玉屋さんで。嘗てはキネマ通り沿いで営業されていたのですが、道路拡幅の影響で奥の真新しいお店に移られておりました。入店してから思い出したのですが、初回の時もコチラだった(笑)メニューには『1930年代、先々代が人力車ひきを廃業した後、中国の人から麺作りを教えてもらい創業いたしました』とあります。ラーメン屋としてはかなりの老舗ということになるのかと。また、初回の写真を確認しますと、以前のお店はいい感じに末枯れていたと記憶しているのですが、そのショーケースには『青梅の機織が盛んな頃に芸者さんが80人位いた名残で、宴会場もあります』とありました。チャシウメン(メニューのまんま)を所望、麺作りを教わったとありますとおり、手打ちの平打ち縮れ面。スープが独特、ほとんど油が浮いていない、まるで蕎麦の出汁みたいなわけ、ちょっとしょっぱいけど後味スッキリ。チャシウも昔の硬い奴って酷い表現だな(笑)燻っているのか香ばしかったです。以上、芸者さんも食べたであろう懐かしいラーメンでした。おいしゅうございました。



◆現在のキネマ通り、奥にスミレ写真館さんが見えますね。向かいは一軒の退役済み中華屋さんを除いて全て更地になっているわけ。嘗て此処には通りの名の由来と思われる映画館もあったそうです。手前のやきとりの関忠さんは現役、澤乃井は青梅の小澤酒造さんの銘柄です。



◆その先にJR青梅線を渡る跨線橋があります。その手前にも飲み屋さん、脇に駐車場があるのですが、『東京 花街・粋な町』によりますと、この辺りに見番があったそうです。



◆その駐車場の奥にあるのが住江町自治会館、コチラが見番だったという可能性は???



◆跨線橋からの眺め、向かいにあるのがカフェ夏への扉さん、いつも気になるお店なのですが、まだ入ったことがないのです。



◆摩訶不思議な和洋折衷、元は何だったのでしょう。花街との関係は・・・などと考えていて気付きました。道路の拡幅が始まると、おそらく跨線橋も架け替えになるはず。そうなると、夏への扉さんにも影響が出るのは間違いないと・・・しまった、寄っておけばよかった。気になる方はお早めにどうぞ、そして花街と建物の関係を聞いてきてください。



◆通りの突当りに洋館風と言っても新しいお宅があり、どうやらオシャレ系の雑貨店?らしいのですが、やっているのかどうも微妙な感じ。テラスのマットの上には蹲るニャンコ、いくら呼んでも完全に無視・・・。『東京 花街・粋な町』によりますと、この辺りに料亭魚久さんがあったそうです。



◆裏手の高台にこんなお宅、コチラ魚久さんの名残ではないかと考えたのですが如何でしょう。



◆分岐する通りを右に行くとすぐに見えてくるのが、青梅花街いちばんの遺構、洋館付住宅風の料亭和田市さんです。もちろん退役済みですよ。こじんまりとしているように見えますが、奥に複雑な造りの離れみたいな棟が続いています。



◆見所はなんといっても洋館部分、こんな処でコリント式のオーダーを見ることになろうとは。でも微妙に違っているような(笑)左官屋さんが見よう見真似で造ったんじゃないでしょうか。



◆正面の桜の木が元気すぎて酷いアングルしか無かったのが残念。アングルのせい・・・いや、私の腕のせいですよ。



◆最後に訪れたのがJR青梅線の線路沿い、此処和田市さんのすぐ近くなのです。行きの車窓からコレが見えたときは???現地で見ても???看板の痕跡がありますので、飲み屋さんだったようですが・・・



◆回り込むと、玄関廻りに特徴的な窓があったりしてますます混乱してしまうわけ。鑑札でも残っていれば判断できるのですがねえ。



◆線路の向こうから見た全景。此処で前書きの一文をもう一度、花街ではなく遊廓の類は存在しなかったのでしょうか・・・。



◆〆は健さん、3回目の探索の一月前に天に召されました、と思ったらもうすぐ一周忌なんですよね。一年って早いなあ。

以上で都合3回も訪れてしまった青梅の探索はオシマイ。映画看板だけじゃないということが分かっていただけたら幸いです。美味しいお店もいっぱいありますし、お手軽なまちあるきとしても十分に楽しめる町だと思いますよ。

オシマイと言いつつも実は続きがあります。前書きに2回目は特殊な状況と書きましたが、目的は探索ではなくある作品を撮影するためでした。もうお分かりの方もいらっしゃると思いますが、その3は番外編としてお伝え致します。
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