謎の料亭街の意外な正体・鯛を象った車が練り歩く町・戸袋の乙姫様と洋館?
こう見えても左官屋さんというところがミソ。
吉田からJR越美線で新潟方面に戻ること三駅で巻に到着です。現在は新潟市の一部になっておりますが、平成17年(2005)までは巻町でした。江戸の頃は三根山藩の領地でして、日本海側を北国街道が貫いておりました。戊辰戦争で敗れ困窮した長岡藩に米百表が送られたという有名な逸話がありますが、お米を送ったのが何を隠そうこの三根山藩であります。明治維新後は西蒲原郡の中心として栄えていくことになります。
そんな感じでそれなりに歴史のある町のようなのですが、地図を眺めてみてもいまひとつピンと・・・いや、ピンときちゃった。前回の吉田と全く同じ、料亭や割烹が集まっている謎の一画を見つけてしまったわけです。とりあえず此処を訪れてみたのですが、地元の方からこの一画の意外な正体を教えられることになるのです。
なんとも表現しようない微妙な駅前の光景。やっぱり『楼』に惹かれちゃう私。コチラ、どうやら食堂みたいですが、もうやっていないみたい。向かいは梅屋旅館さん、こっちも同じ状況だとお見受けしました。
駅前通りから一本入った裏通りには飲み屋さんらしき小さなお店が並んでおりました。
もちろん此処が目的の場所ではありません。現役のお店は少ないようですし、風情的にもいまひとつですな。
近くに立派な赤煉瓦の煙突があります。醤油の蔵元の中吉川商店さん、残念なことにもう醤油は造っていないそうです。後述するお盆のときなどには、蔵の内部が公開されるみたい。
駅前通りに戻って左折すると、吉粂と描かれた蔵が見えてきます。コレを撮っていたとき、偶然車で乗り付けてきたのがなんと此処のご主人。元々は足袋屋だったそうですが、現在は一本向こうの町の目抜き通り(県道374号線)に面した処で洋品店を営んでおられます。まあ、この方がよう喋る喋る(笑)全部書いていたら日が暮れちゃう、というかもうほとんど忘れちゃったけど・・・というわけで要約しますね。この先に謎の料亭街があるのですが、その正体は官官接待の名残だというのです。前書きにもありますが、巻は西蒲原郡の中心でしたので役所関係の出先がたくさんあったそうです。簡単に申せば、良からぬことをヒソヒソ密談する場が必要になったというわけです。でも、もう芸者さんはいないでしょ?という私に問いに、まだいるよという意外なお答え。しかし、調べてみてもウェブではそれらしきものは見つかりませんでした。本当かなあ・・・。
これも所謂一つの『知られざる遊里』ということになるのでしょうか。
官官ではありませんが、ちょっと前までは接待って普通にあったんですよね。私も多少ですが、恩恵に与ったこともありましたから。あ、そんな怪しいものではありませんよ。現場の結束を促すための催しみたいなものです。よくあるのがゴルフ、変わったところでは船を借り切っての海釣りなんてのもあったなあ。唯一の芸者遊びがこれでした。それがバブル崩壊を経てリーマンショック後、ぱったりと無くなりましたからねえ、あれは見事でした。
まあ、そんなことはどうでもいいので肝心の料亭街に向かいましょう。その手前に土蔵が二棟、扉に何か書いてありますよ。
『御料理 角源』・・・これがお店???裏が更地になっていましたので、お店は無くなってしまったけど、蔵だけは残されたのだと思います。
その先にあるのが料亭白根屋さん、明治中期の創業とのこと。建物は当時のものではないようですがかなり立派なものです。お隣には創業70年という割烹新ときわさん、コチラも新しい建物でした。
写真屋さんのこのマーク、よく見かけました。
料亭街の南の外れにあるのが料亭波勢屋さん、地図でも一際目立っていた大店・・・しかし、様子が変。ショートステイとありますね。どうやら老人施設に転業しちゃったみたい。塀は料亭時代のままのようですが、建物はまるまる建替えてられておりました。ちょっと遅かった。
戻って新ときわさんの裏口、壁が手前に傾いてる、凄いなコレ。角のお宅は新ときわさんとは関係ないようですが、気になる存在です。
駅前通りに面しているのが料亭三笠屋さん、大正10年(1921)創業です。
入口に飾られているのが『鯛車』、鯛を象った行灯で車が付いています。お盆に子供がコレをゴロゴロ引っ張って練り歩くんだそうです。一時期廃れていましたが、平成17年(2005)に復活、町の再興プロジェクトの担い手になっています。
それなりに歴史のある町ですので、町並みも期待していたのですが・・・ウーム、いまひとつ。
今回の旅でいちばん滞在時間が短かったからと言い訳しておきます。
草薙神社脇にあった古い商家、坪庭から見事なカエデで枝を延ばしておりました。抜けると県道374号線、此処で再び吉粂のご主人とばったり。再び長話、あのお店は直江兼続の家来だったとか、あそこは偉い学者の子孫だとか(かなりうろ覚え)・・・そんな一気に仰られても覚えられまへんがな(笑)一方私は次の列車の時間が気になって仕方がないわけ。
勘だけに頼って裏通りを探ってみましたが・・・そろそろ時間切れ、駅に戻ろうと思ったときです。あれ?何かあるぞ。
何かというのが、戸袋に描かれたタイル絵。これにはビックリ。右は乙姫様と富士山、まあコレは判る・・・いや、よく判らないか(笑)しかし、左の洋館?と滝はもっと判らない・・・。地図を見ますと、もっともっと判らない。コチラ左官屋さんなのです。そこは鏝絵で勝負でしょう。
下から仰ぐと乙姫様、ちょっとまぬけ顔。
個人的にはこっちが好み。どこかで見たことがあると思ったのですが、はたと気付きました。子供の頃、時々通った銭湯にこんなのあったぞ。
急いで駅に戻る途中にあった見事な鬼瓦、なるほど屋根屋さんでしたか・・・しかし、隣には文具!?多角経営ですな。
フゥー、なんとか間に合いました。
ちょっと消化不良の探索になってしまいました。それもこれも話好きなご主人のせい(笑)まあ、そのおかげで謎の料亭街の正体が判明しましたから、よしと致しましょうか。次回はこの旅最後の町、燕市の中心街を時間の許す限りフラフラ致します。
こう見えても左官屋さんというところがミソ。
吉田からJR越美線で新潟方面に戻ること三駅で巻に到着です。現在は新潟市の一部になっておりますが、平成17年(2005)までは巻町でした。江戸の頃は三根山藩の領地でして、日本海側を北国街道が貫いておりました。戊辰戦争で敗れ困窮した長岡藩に米百表が送られたという有名な逸話がありますが、お米を送ったのが何を隠そうこの三根山藩であります。明治維新後は西蒲原郡の中心として栄えていくことになります。
そんな感じでそれなりに歴史のある町のようなのですが、地図を眺めてみてもいまひとつピンと・・・いや、ピンときちゃった。前回の吉田と全く同じ、料亭や割烹が集まっている謎の一画を見つけてしまったわけです。とりあえず此処を訪れてみたのですが、地元の方からこの一画の意外な正体を教えられることになるのです。
なんとも表現しようない微妙な駅前の光景。やっぱり『楼』に惹かれちゃう私。コチラ、どうやら食堂みたいですが、もうやっていないみたい。向かいは梅屋旅館さん、こっちも同じ状況だとお見受けしました。
駅前通りから一本入った裏通りには飲み屋さんらしき小さなお店が並んでおりました。
もちろん此処が目的の場所ではありません。現役のお店は少ないようですし、風情的にもいまひとつですな。
近くに立派な赤煉瓦の煙突があります。醤油の蔵元の中吉川商店さん、残念なことにもう醤油は造っていないそうです。後述するお盆のときなどには、蔵の内部が公開されるみたい。
駅前通りに戻って左折すると、吉粂と描かれた蔵が見えてきます。コレを撮っていたとき、偶然車で乗り付けてきたのがなんと此処のご主人。元々は足袋屋だったそうですが、現在は一本向こうの町の目抜き通り(県道374号線)に面した処で洋品店を営んでおられます。まあ、この方がよう喋る喋る(笑)全部書いていたら日が暮れちゃう、というかもうほとんど忘れちゃったけど・・・というわけで要約しますね。この先に謎の料亭街があるのですが、その正体は官官接待の名残だというのです。前書きにもありますが、巻は西蒲原郡の中心でしたので役所関係の出先がたくさんあったそうです。簡単に申せば、良からぬことをヒソヒソ密談する場が必要になったというわけです。でも、もう芸者さんはいないでしょ?という私に問いに、まだいるよという意外なお答え。しかし、調べてみてもウェブではそれらしきものは見つかりませんでした。本当かなあ・・・。
これも所謂一つの『知られざる遊里』ということになるのでしょうか。
官官ではありませんが、ちょっと前までは接待って普通にあったんですよね。私も多少ですが、恩恵に与ったこともありましたから。あ、そんな怪しいものではありませんよ。現場の結束を促すための催しみたいなものです。よくあるのがゴルフ、変わったところでは船を借り切っての海釣りなんてのもあったなあ。唯一の芸者遊びがこれでした。それがバブル崩壊を経てリーマンショック後、ぱったりと無くなりましたからねえ、あれは見事でした。
まあ、そんなことはどうでもいいので肝心の料亭街に向かいましょう。その手前に土蔵が二棟、扉に何か書いてありますよ。
『御料理 角源』・・・これがお店???裏が更地になっていましたので、お店は無くなってしまったけど、蔵だけは残されたのだと思います。
その先にあるのが料亭白根屋さん、明治中期の創業とのこと。建物は当時のものではないようですがかなり立派なものです。お隣には創業70年という割烹新ときわさん、コチラも新しい建物でした。
写真屋さんのこのマーク、よく見かけました。
料亭街の南の外れにあるのが料亭波勢屋さん、地図でも一際目立っていた大店・・・しかし、様子が変。ショートステイとありますね。どうやら老人施設に転業しちゃったみたい。塀は料亭時代のままのようですが、建物はまるまる建替えてられておりました。ちょっと遅かった。
戻って新ときわさんの裏口、壁が手前に傾いてる、凄いなコレ。角のお宅は新ときわさんとは関係ないようですが、気になる存在です。
駅前通りに面しているのが料亭三笠屋さん、大正10年(1921)創業です。
入口に飾られているのが『鯛車』、鯛を象った行灯で車が付いています。お盆に子供がコレをゴロゴロ引っ張って練り歩くんだそうです。一時期廃れていましたが、平成17年(2005)に復活、町の再興プロジェクトの担い手になっています。
それなりに歴史のある町ですので、町並みも期待していたのですが・・・ウーム、いまひとつ。
今回の旅でいちばん滞在時間が短かったからと言い訳しておきます。
草薙神社脇にあった古い商家、坪庭から見事なカエデで枝を延ばしておりました。抜けると県道374号線、此処で再び吉粂のご主人とばったり。再び長話、あのお店は直江兼続の家来だったとか、あそこは偉い学者の子孫だとか(かなりうろ覚え)・・・そんな一気に仰られても覚えられまへんがな(笑)一方私は次の列車の時間が気になって仕方がないわけ。
勘だけに頼って裏通りを探ってみましたが・・・そろそろ時間切れ、駅に戻ろうと思ったときです。あれ?何かあるぞ。
何かというのが、戸袋に描かれたタイル絵。これにはビックリ。右は乙姫様と富士山、まあコレは判る・・・いや、よく判らないか(笑)しかし、左の洋館?と滝はもっと判らない・・・。地図を見ますと、もっともっと判らない。コチラ左官屋さんなのです。そこは鏝絵で勝負でしょう。
下から仰ぐと乙姫様、ちょっとまぬけ顔。
個人的にはこっちが好み。どこかで見たことがあると思ったのですが、はたと気付きました。子供の頃、時々通った銭湯にこんなのあったぞ。
急いで駅に戻る途中にあった見事な鬼瓦、なるほど屋根屋さんでしたか・・・しかし、隣には文具!?多角経営ですな。
フゥー、なんとか間に合いました。
ちょっと消化不良の探索になってしまいました。それもこれも話好きなご主人のせい(笑)まあ、そのおかげで謎の料亭街の正体が判明しましたから、よしと致しましょうか。次回はこの旅最後の町、燕市の中心街を時間の許す限りフラフラ致します。