楽天地=歓楽荘なの?・目印は石のバリカー・『ぬけられます』付防火建築帯
謎の砂利道、80年前の地図にも載っているのです。
豊川から飯田線で一度豊橋に戻り、東海道本線に乗り換えて名古屋方面に向かうこと約15分で蒲郡に到着です。三河湾のいちばん奥に位置する蒲郡周辺は、東海地方を代表する機業地なのですが、それについては次にレポする隣町の三谷町の中でお話したいと思います(どうやらコチラが発祥みたいですので)。町の南東には竹島という浜から橋で渡れる小島があり、背後の小高い丘には昭和9年(1934)竣工、経産省の近代化産業遺産に認定されている蒲郡クラシックホテル(旧蒲郡ホテル)があります。他にも水族館や旅館などがあり古くからの景勝地でした。このホテル、見たかったのですが時間の関係で行けなかったのが残念。竹島周辺は戦後すぐに進駐軍に接収され、昭和32年(1952)まで彼らの保養地だったそうで、米兵目当ての歓楽街みたいのがあったとか無かったとか・・・地図を見てもピンときませんでしたけどね。
↑のあやふやなものではなく、一応記録に残っているというのが『蒲郡歓楽荘』、業者10軒、従業婦27名とのことで比較的小規模な遊里だったようです。しかしこの遊里、前回の圓福荘以上に正体不明でして、判明したのは駅の南口にあったらしいということだけ。それの名残なのかは判りませんが、気になる一画が残っているようです。当初はそれをサッサと探して飯を食って次の三谷町に行こうと思っていました。地図を見ても、蒲郡の駅周辺は町並み的にもいまいちの印象でしたので。実際、あまり時間をかけなかったのですが、今回レポを記すにあたって改めて情報を収集してみますと、意外な事実を知ることになるのです。
LINKを貼っておきますが、蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』という昔の町の様子を当時の動画などで紹介しているサイトになります。『商店』の動画に、嘗て駅南口に存在していたという『楽天地』なる歓楽街が紹介されているわけ。昭和10年(1935)当時の周辺の様子を示した地図も登場しています。お店などの位置を航空写真に落としてみたのが次の画像になります。
今回も国土地理院の地図・航空写真閲覧サービス(整理番号:CB776 コース番号C3 写真番号:29 撮影年月日:1977/8/9を加工加筆)からの出典になります。ちょっと新し目の写真ですが、いちばん写りのよい画像を使わせていただきました。赤の点線が問題の『楽天地』です。当時は港への物資輸送のための臨港線なる鉄道(青の点線)が枝分かれしていました。ピンクの★印は動画の地図で(オ)で示されていたお店、これは芸妓置屋だったという説明がありました。水色の◆印は(リ)と示されていたお店、これについての説明はありませんでしたが、なんとなく判りますよね?たぶん料理店という意味だと思います。まあ、この料理店、芸者が出入りしていた所謂料亭的なお店なのか、或いはもっと妖しいお店だったのか、今となっては判りませんが・・・。
数字は界隈を象徴するようなお店、そしてレポの中でも写っている可能性が高いお店になります。①共栄座(映画) ②海岸湯 ③福善(リ) ④市川薬局 ⑤大升屋(酒) ⑥嶋田屋(オ) ⑦浜岡(オ) ⑧喜楽(リ) ⑨末広(オ) ⑩富田屋(オ) ⑪磯野家(オ) ⑫江戸っ子(オ) ⑬吉田家(リ) ⑭キリシマ玉突 ⑮サロン天国(喫) ⑯港屋(渡船)・・・①の共栄座は蒲映に名前を変え平成12年まで現役、②の海岸湯の一番風呂は芸者衆だったという説明が動画の中でありました。③~⑤のお店は今も現役、建物は新しくなっておりましたが(おさらいストリートビューで確認済)。あ、一応断っておきますが、あくまでも位置関係は大体ですので、細かいツッコミはなしの方向でお願い致しますぞ。
そして現在・・・楽天地は再開発と区画整理で跡形も無くなってしまったというわけ。ここで一つの疑問が・・・楽天地=歓楽荘なのかということです。動画の中で、地元の古老が大人の遊び場だったと話しておられました。でもコレ、色々な意味でとれますよね(笑)そしてもう一つ、中央通りを挟んだ西側です。一応は往時の町並みが残っているようですが、もしかすると此処が歓楽荘だったのではないかと考えたのですが如何でしょう。黄の点線で示してありますが、動画の地図の中でも同じように点線で示されているのがコレ。その正体はレポの中に出てくるのですが、それが当初の気になっていた一画ということになります。これは第一印象なのですが、置屋さんだらけというのがどうも気に入らないんだよなあ。求めている色街というよりは花街といった感じですよね。重ね重ね申しますが、以上は帰ってから知った事実のですので、そのことをよ~く承知の上ご覧いただけたら幸いです。
蒲郡駅南口を出て、名鉄蒲郡線の高架沿いを西へ進み中央通りを渡ります。お店の角が変な隅切りされた飲み屋さん、嘗ては此処にも料理店があったようです。そのまま高架沿いの裏通りを行きますと・・・
駐車場の向こう、入母屋に押縁下見板の真っ黒な外壁に薄っすらと旅館と書かれているの、お判りになりますでしょうか。コレが⑬の吉田屋さんの裏側になります。そのまま脇に廻り込んでいきますと・・・
これは・・・ブロック塀越し現れた斜めに振られた赤い外壁にビックリ。豊川に続き、また赤ですか・・・。
吉田屋さんの正面が見たいと裏通りを曲がるとこんな光景が現れます。右の飲み屋と思われる東さん、元は⑥の置屋だったようです。
東さんには二十歳未満ウンヌンの表示、蒲郡は琺瑯製の豪華版。駐車場を挟んだ向こうには⑧の元料理店と思われる建物が残っておりました。
東さんの向かいは⑦の元置屋と思われる建物、二階の手摺には透かし彫りがあります。
通りは国道23号線に抜けています。国道に沿って並んでいるのが⑨~⑫の元置屋群。その中の⑪の建物、腰には左官の装飾が残っておりました。
⑪と⑫の間はこんな簡易舗装の路地になっております。そう、これが航空写真の黄点線の正体、昭和10年の地図でも点線表示でしたから当時からこのまんまなんだと思います。突当りに見えるのが⑬の吉田屋さん。それにしても⑪さん、元置屋には見えないのは気のせいでしょうか。
路地は吉田屋さんの前で左折、ついには砂利道になってしまいます。写ってはいませんが、玄関には割烹旅館吉田屋と刻まれた立派な扁額が掲げてあります。格子戸の上には料理店の鑑札も残っておりました。
砂利道の途中にはこんな飲み屋さんの亡骸。造り自体はそこまで歴史のあるものではないと思いますが、砂利道とのミスマッチ感が凄まじい。
直後、通りかかったご老人に「何してんの?」といった感じで声をかけられたわけ。この辺りはそういった(色街的な)処だったのですか?との私の問いにご老人は「いや、違うよ」と言いながら歩き去ったのですが、行き先はなんと吉田屋さんではありませんか。驚いて見送る私に向かって「うちはもうやっていないから」と言いながら入っていっちゃった・・・なんだかうまくはぐらかされたような気分なんですけど・・・。
砂利道の出口には石の車止め、業界用語でいうバリカーという奴です。バリカーって本当は商品名なんですけど、いつのまにかこれで通用するようになっちゃったというわけ。突当りはさきほどの東さんがある通り、気付かないで通り過ぎちゃったというわけ。
中央通りに戻って今度は南へ・・・市民会館手前の交差点に複雑な屋根が架かった商家があります。地図の⑯、渡船の港屋さんだったと思われます。市民会館もそうですが、私の立っている場所も嘗ては海だったようです。この並びの一軒向こうにあったはずの⑮、サロン天国さんが気になって仕方がないのですが。此処を右折してしばらく行きますと・・・
こんなサビサビトタンが見えてきます。向かいの看板には旅館朝日館とありますね。
朝日館さん・・・航空写真ではかなり複雑な造りの屋根の形状が見て取れます。ウェブでも一応ヒットしますが、果たして現役なのかどうか。地図上で最初に気になったのがこの界隈でした。
国道に抜ける脇道にこれまたサビサビトタンに包まれた長屋形式のアパート?
これはいい熟成具合ですな。
こんなに廃れているのに、扉のピンクがしっくり納まっているのが不思議。
国道沿いにある割烹やまださん。食事できるお店を探すのを兼ねた探索でしたので注目していたのですが、お昼はやっていないのかな?この並びのすぐ向こうがさきほどの砂利道がある一画でして、コチラも何か関係があるのかもしれません。
駅の南側には良さそうなお店がありませんでしたので、中央通りで線路を潜って北側にやってきました。蒲郡ビジネスホテルの裏手には寄棟屋根の蔵みたいな建物があるのですが、これ以上接近できません。
近くに立派な商家?がありました。
県道323号線に出ますと長~いビルが現れます。昭和35年(1960)に建てられたサクラビル、所謂防火建築帯と呼ばれる奴です。大規模火災からの延焼をコレで食い止めるというのが主な目的。昭和27年(1952)に施行された耐火建築促進法によって、各地でこういったビルが建設されました。こう見ると壮観ですが、次に訪れた三谷町にはもっと凄いのがあるのです。
このビル、一部が『ぬけられます』状態なのですぞ。まあ、間口が長すぎますので、こういう部分を造らないと行き来できませんからね。
向かい合ったベージュのビルも防火建築帯だと思われます。
コチラは端部のアールになった部分がレトロで滅茶苦茶カッコイイぞ。
東海道線の高架脇で見つけた半切妻屋根の洋館。詳細は不明ですが、横が運送屋の倉庫でしたので、たぶんそれのオフィスとして使われているみたい。それはさておき、良さそうなお店が全く見つからないのですが・・・。
ようやく駅北口前で見つけた一松さんで昼食、うなぎと生しゃこ!?が名物みたいですが、カンパチのカマの塩梅と焼き加減が絶妙で美味しかった。そんなこんなで蒲郡駅周辺の探索は以上になります。前書きにある事実を知っていれば、また違う探索になったのかもしれませんね。まあ、結局楽天地=歓楽荘なのかという謎は解けませんでしたが、謎ついでに此処でさらに燃料投入。歓楽荘があったのは小江町だったという情報を見つけました。小江町はすでに存在していませんが、どうやら駅の南側ではなく北側だったみたい。証拠に防火建築帯のビルからちょっと東に行った処に小江神社なる神様があり、向かいには小江公民館なんてものもあるわけ。そうなると砂利道のある一画は楽天地の一部ということになるのかもしれません。芸妓置屋だらけというのも納得できるのではないかと。楽天地の芸者遊びでは飽き足らない連中が駅の北側に通ったという説は如何でしょうか?なんだか燃料投入しすぎて訳わからなくなってしまいましたね。まあ、私は燃料補給できましたので、次の町、三谷町に向かうことに致します。
謎の砂利道、80年前の地図にも載っているのです。
豊川から飯田線で一度豊橋に戻り、東海道本線に乗り換えて名古屋方面に向かうこと約15分で蒲郡に到着です。三河湾のいちばん奥に位置する蒲郡周辺は、東海地方を代表する機業地なのですが、それについては次にレポする隣町の三谷町の中でお話したいと思います(どうやらコチラが発祥みたいですので)。町の南東には竹島という浜から橋で渡れる小島があり、背後の小高い丘には昭和9年(1934)竣工、経産省の近代化産業遺産に認定されている蒲郡クラシックホテル(旧蒲郡ホテル)があります。他にも水族館や旅館などがあり古くからの景勝地でした。このホテル、見たかったのですが時間の関係で行けなかったのが残念。竹島周辺は戦後すぐに進駐軍に接収され、昭和32年(1952)まで彼らの保養地だったそうで、米兵目当ての歓楽街みたいのがあったとか無かったとか・・・地図を見てもピンときませんでしたけどね。
↑のあやふやなものではなく、一応記録に残っているというのが『蒲郡歓楽荘』、業者10軒、従業婦27名とのことで比較的小規模な遊里だったようです。しかしこの遊里、前回の圓福荘以上に正体不明でして、判明したのは駅の南口にあったらしいということだけ。それの名残なのかは判りませんが、気になる一画が残っているようです。当初はそれをサッサと探して飯を食って次の三谷町に行こうと思っていました。地図を見ても、蒲郡の駅周辺は町並み的にもいまいちの印象でしたので。実際、あまり時間をかけなかったのですが、今回レポを記すにあたって改めて情報を収集してみますと、意外な事実を知ることになるのです。
LINKを貼っておきますが、蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』という昔の町の様子を当時の動画などで紹介しているサイトになります。『商店』の動画に、嘗て駅南口に存在していたという『楽天地』なる歓楽街が紹介されているわけ。昭和10年(1935)当時の周辺の様子を示した地図も登場しています。お店などの位置を航空写真に落としてみたのが次の画像になります。
今回も国土地理院の地図・航空写真閲覧サービス(整理番号:CB776 コース番号C3 写真番号:29 撮影年月日:1977/8/9を加工加筆)からの出典になります。ちょっと新し目の写真ですが、いちばん写りのよい画像を使わせていただきました。赤の点線が問題の『楽天地』です。当時は港への物資輸送のための臨港線なる鉄道(青の点線)が枝分かれしていました。ピンクの★印は動画の地図で(オ)で示されていたお店、これは芸妓置屋だったという説明がありました。水色の◆印は(リ)と示されていたお店、これについての説明はありませんでしたが、なんとなく判りますよね?たぶん料理店という意味だと思います。まあ、この料理店、芸者が出入りしていた所謂料亭的なお店なのか、或いはもっと妖しいお店だったのか、今となっては判りませんが・・・。
数字は界隈を象徴するようなお店、そしてレポの中でも写っている可能性が高いお店になります。①共栄座(映画) ②海岸湯 ③福善(リ) ④市川薬局 ⑤大升屋(酒) ⑥嶋田屋(オ) ⑦浜岡(オ) ⑧喜楽(リ) ⑨末広(オ) ⑩富田屋(オ) ⑪磯野家(オ) ⑫江戸っ子(オ) ⑬吉田家(リ) ⑭キリシマ玉突 ⑮サロン天国(喫) ⑯港屋(渡船)・・・①の共栄座は蒲映に名前を変え平成12年まで現役、②の海岸湯の一番風呂は芸者衆だったという説明が動画の中でありました。③~⑤のお店は今も現役、建物は新しくなっておりましたが(おさらいストリートビューで確認済)。あ、一応断っておきますが、あくまでも位置関係は大体ですので、細かいツッコミはなしの方向でお願い致しますぞ。
そして現在・・・楽天地は再開発と区画整理で跡形も無くなってしまったというわけ。ここで一つの疑問が・・・楽天地=歓楽荘なのかということです。動画の中で、地元の古老が大人の遊び場だったと話しておられました。でもコレ、色々な意味でとれますよね(笑)そしてもう一つ、中央通りを挟んだ西側です。一応は往時の町並みが残っているようですが、もしかすると此処が歓楽荘だったのではないかと考えたのですが如何でしょう。黄の点線で示してありますが、動画の地図の中でも同じように点線で示されているのがコレ。その正体はレポの中に出てくるのですが、それが当初の気になっていた一画ということになります。これは第一印象なのですが、置屋さんだらけというのがどうも気に入らないんだよなあ。求めている色街というよりは花街といった感じですよね。重ね重ね申しますが、以上は帰ってから知った事実のですので、そのことをよ~く承知の上ご覧いただけたら幸いです。
蒲郡駅南口を出て、名鉄蒲郡線の高架沿いを西へ進み中央通りを渡ります。お店の角が変な隅切りされた飲み屋さん、嘗ては此処にも料理店があったようです。そのまま高架沿いの裏通りを行きますと・・・
駐車場の向こう、入母屋に押縁下見板の真っ黒な外壁に薄っすらと旅館と書かれているの、お判りになりますでしょうか。コレが⑬の吉田屋さんの裏側になります。そのまま脇に廻り込んでいきますと・・・
これは・・・ブロック塀越し現れた斜めに振られた赤い外壁にビックリ。豊川に続き、また赤ですか・・・。
吉田屋さんの正面が見たいと裏通りを曲がるとこんな光景が現れます。右の飲み屋と思われる東さん、元は⑥の置屋だったようです。
東さんには二十歳未満ウンヌンの表示、蒲郡は琺瑯製の豪華版。駐車場を挟んだ向こうには⑧の元料理店と思われる建物が残っておりました。
東さんの向かいは⑦の元置屋と思われる建物、二階の手摺には透かし彫りがあります。
通りは国道23号線に抜けています。国道に沿って並んでいるのが⑨~⑫の元置屋群。その中の⑪の建物、腰には左官の装飾が残っておりました。
⑪と⑫の間はこんな簡易舗装の路地になっております。そう、これが航空写真の黄点線の正体、昭和10年の地図でも点線表示でしたから当時からこのまんまなんだと思います。突当りに見えるのが⑬の吉田屋さん。それにしても⑪さん、元置屋には見えないのは気のせいでしょうか。
路地は吉田屋さんの前で左折、ついには砂利道になってしまいます。写ってはいませんが、玄関には割烹旅館吉田屋と刻まれた立派な扁額が掲げてあります。格子戸の上には料理店の鑑札も残っておりました。
砂利道の途中にはこんな飲み屋さんの亡骸。造り自体はそこまで歴史のあるものではないと思いますが、砂利道とのミスマッチ感が凄まじい。
直後、通りかかったご老人に「何してんの?」といった感じで声をかけられたわけ。この辺りはそういった(色街的な)処だったのですか?との私の問いにご老人は「いや、違うよ」と言いながら歩き去ったのですが、行き先はなんと吉田屋さんではありませんか。驚いて見送る私に向かって「うちはもうやっていないから」と言いながら入っていっちゃった・・・なんだかうまくはぐらかされたような気分なんですけど・・・。
砂利道の出口には石の車止め、業界用語でいうバリカーという奴です。バリカーって本当は商品名なんですけど、いつのまにかこれで通用するようになっちゃったというわけ。突当りはさきほどの東さんがある通り、気付かないで通り過ぎちゃったというわけ。
中央通りに戻って今度は南へ・・・市民会館手前の交差点に複雑な屋根が架かった商家があります。地図の⑯、渡船の港屋さんだったと思われます。市民会館もそうですが、私の立っている場所も嘗ては海だったようです。この並びの一軒向こうにあったはずの⑮、サロン天国さんが気になって仕方がないのですが。此処を右折してしばらく行きますと・・・
こんなサビサビトタンが見えてきます。向かいの看板には旅館朝日館とありますね。
朝日館さん・・・航空写真ではかなり複雑な造りの屋根の形状が見て取れます。ウェブでも一応ヒットしますが、果たして現役なのかどうか。地図上で最初に気になったのがこの界隈でした。
国道に抜ける脇道にこれまたサビサビトタンに包まれた長屋形式のアパート?
これはいい熟成具合ですな。
こんなに廃れているのに、扉のピンクがしっくり納まっているのが不思議。
国道沿いにある割烹やまださん。食事できるお店を探すのを兼ねた探索でしたので注目していたのですが、お昼はやっていないのかな?この並びのすぐ向こうがさきほどの砂利道がある一画でして、コチラも何か関係があるのかもしれません。
駅の南側には良さそうなお店がありませんでしたので、中央通りで線路を潜って北側にやってきました。蒲郡ビジネスホテルの裏手には寄棟屋根の蔵みたいな建物があるのですが、これ以上接近できません。
近くに立派な商家?がありました。
県道323号線に出ますと長~いビルが現れます。昭和35年(1960)に建てられたサクラビル、所謂防火建築帯と呼ばれる奴です。大規模火災からの延焼をコレで食い止めるというのが主な目的。昭和27年(1952)に施行された耐火建築促進法によって、各地でこういったビルが建設されました。こう見ると壮観ですが、次に訪れた三谷町にはもっと凄いのがあるのです。
このビル、一部が『ぬけられます』状態なのですぞ。まあ、間口が長すぎますので、こういう部分を造らないと行き来できませんからね。
向かい合ったベージュのビルも防火建築帯だと思われます。
コチラは端部のアールになった部分がレトロで滅茶苦茶カッコイイぞ。
東海道線の高架脇で見つけた半切妻屋根の洋館。詳細は不明ですが、横が運送屋の倉庫でしたので、たぶんそれのオフィスとして使われているみたい。それはさておき、良さそうなお店が全く見つからないのですが・・・。
ようやく駅北口前で見つけた一松さんで昼食、うなぎと生しゃこ!?が名物みたいですが、カンパチのカマの塩梅と焼き加減が絶妙で美味しかった。そんなこんなで蒲郡駅周辺の探索は以上になります。前書きにある事実を知っていれば、また違う探索になったのかもしれませんね。まあ、結局楽天地=歓楽荘なのかという謎は解けませんでしたが、謎ついでに此処でさらに燃料投入。歓楽荘があったのは小江町だったという情報を見つけました。小江町はすでに存在していませんが、どうやら駅の南側ではなく北側だったみたい。証拠に防火建築帯のビルからちょっと東に行った処に小江神社なる神様があり、向かいには小江公民館なんてものもあるわけ。そうなると砂利道のある一画は楽天地の一部ということになるのかもしれません。芸妓置屋だらけというのも納得できるのではないかと。楽天地の芸者遊びでは飽き足らない連中が駅の北側に通ったという説は如何でしょうか?なんだか燃料投入しすぎて訳わからなくなってしまいましたね。まあ、私は燃料補給できましたので、次の町、三谷町に向かうことに致します。