旅館付防火建築帯・路地裏の富士山・閉館していた山頂の怪しい館
珍しい形状のコンクリートブロックの孔から破風が見えました。
蒲郡駅から豊橋方面に戻ること一駅で三河三谷駅に到着です。現在は蒲郡市の一部になっておりますが、昭和29年(1954)に蒲郡町・三谷町・塩津村が合併して誕生したのが蒲郡市です。ちなみに『みたに』ではなく『みや』ですので、お間違いのないように。前回お話したように、蒲郡周辺で隆盛を誇った繊維産業の発祥とされているのがこの町であります。蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』にもありますが、明治8年(1875)、三谷町の小田時蔵氏が自宅の二階に織機を置いたのが始まりとされています。明治21年(1888)に東海道線が開通すると、三谷の織物は全国に知れ渡るようになります。戦後になると輸出が急増、ガチャンと織れば一万円儲かるという所謂ガチャマン景気で町は大いに潤ったようです。もちろん科学忍者隊ではありませんぞ・・・毎回毎回ほんと申し訳ない。しかし、ガチャマン景気は数年で下火に・・・それ以降、衰退の一途を辿ることになります。まあ、これは日本全国何処の機業地でも同じような状況ですよね。
機業地とくるとまず頭に浮かぶのが、京都の西陣と並び称された大好きな町群馬県桐生市であります。桐生市の景観上、重要な役割を果たしているのがノコギリ屋根、蒲郡や三谷、次に訪れる形原周辺でもコレをそこかしこで見ることができます。正確な数は判りませんが、おそらく桐生よりいっぱいあるんじゃないでしょうか。赤煉瓦に大谷石といった感じでバリエーションでは桐生に軍配が上がると思いますが、規模的にはコチラになるかな。形原では連続する凄まじいギザギザに圧倒されました。そんな隆盛を誇った産業が由来なのかは不明ですが、この町に存在した遊里というのが三谷歓楽荘。前回の蒲郡と同じ名前なのが不思議ですが、業者10に従業婦27という記録が残っているそうです。まあ、判っているのはそれぐらいで、これまた正体不明なんですよね。町の南東の山腹にある鄙びた温泉街の手前にそれらしき一画があるようですので、そこを訪れた後、温泉街にある怪しい館を見学してみましょうか。
駅から海へと延びる通りを行きます。この駅前通り、結構な幅員があるのですが、人影皆無に加えて車の通行もまばら、妙に空虚な感じなのです。
その空虚さに耐えられなくなったので分岐する路地を辿っていくことにします。
時間の関係であれだったのですが、ジックリ探索できれば面白い光景に出会えたのではと思わせる一画でした。
小さな川に出ました。前方にノコギリ屋根が付属する煙突が見えますね。
国道23号線に面しているが、一見すると古びた普通のビルにしか見えない四季の湯さん。
男湯女湯の表示が珍しい。10年ぐらい前では現役だったようですが、今はもう・・・。
裏手のコインランドリーもやっていませんでした。看板が日焼けしちゃって酷い有様ですな。
振り返ると国道を挟んで向き合う古びたビルがドーン。蒲郡駅前にもあった防火建築帯です。全長100mほど、詳細は不明ですがたぶん昭和三十年代に建てられたものだと思われます。
このビルも蒲郡駅前のと同様に一部が『ぬけられます』状態なわけ。
『ぬけられます』を抜けた先、裏側は結構ダイナミックな架構になっております。
向き合う『ぬけられます』、その先には海が望めました。ふと思ったのですが、すぐ向こうが海なのに必要だったのでしょうか、防火帯・・・。
海側の『ぬけられます』を抜けますと、ガラスにエッチングで門海老と描かれておりました。
その正体は旅館、ウェブではほとんどヒットしませんので既に退役済みかと。
戸袋には扇と折鶴の板金仕上、いいねコレ。後ほど、この旅館の摩訶不思議な構造が判明致します。
そのまま海に出ました。停泊する漁船の少ない三谷漁港、波間に海鳥が数羽漂っているだけでした。
漁港に注ぐ川沿いに古い商家が残っておりました。
そのまま防火帯建築の間を抜けて次の目的地に向かおうとすると、さきほどの門海老さんの看板・・・どうやらコチラがメインの入口だったみたい。脇にはアールの外壁、ストライプの型板ガラス越しに階段が見えますね。裏の木造部分と繋がっていたというわけです。
防火帯建築の先、国道にこんな植栽帯がある通りがぶつかっています。画像の左側が気になる一画ですので、もしかするとメインストリート!?と当初は思ったのですが、どうやら違うみたい。昔の航空写真を遡ってみましたら、この通り元は川でした。今は暗渠になっているみたいです。
しかし、不思議なのは国道側の出口にはこんな車止め。コレ、国道への抜け道に使う車が多くて渋滞緩和のために通れなくしたんじゃないでしょうか。
謎の通り沿いには飲み屋さんが並んでいますが、遺構的な歴史があるものは見当たりません。
謎の通りを抜けると海側を走る広い通りに出ます。その通りに面しているのが割烹旅館の千賀さん、かなり立派なお店です。裏手が気になる一画ですので、何か関係があるのかと思ったのですが、この地に店を構えたのが昭和45年(1970)とのこと、この先にある温泉街の湯治客目当てだったようです。
千賀さん裏手の路地に入りました。居酒屋たぬきさんの先に見えてきたのが・・・
板塀に囲まれた破風が立派なお宅・・・コチラを探していたのですが、呆気なく出会ってしまいちょっと拍子抜け。
かなり崩れておりますが、瓢箪を並べたような欄間が面白いですね。それより目を引くのがポーチの富士山、既にお気付きだと思いますが。
洗い出しというよりは、モルタルに玉石を単に埋めましたという手作り感が堪んないわけ。連続する弧は雲海で手前のまばらな部分は海?と勝手に妄想させていただきました。
路地を抜けると、国道と海沿いの広い通りに挟まれた裏通り。破風のあるお宅が冒頭画像のもの、コチラは元置屋さん?というのも勝手な妄想。
向かいには一際目立つ物件、割烹旅館青柳さん。ご覧のとおりかなり複雑な造りになっております。
豊川、蒲郡ときて此処でも赤ですか・・・。
脇の路地に面した裏門、竹塀がいい感じでした。
近くのお宅の戸袋は鮮やかな群青色。でもコチラは歴史のあるものではなさそそう。なんでこんな色にしちゃったんだろう。
前半はここまで、後半も引き続き路地だらけのこの一画からお届け致します。
珍しい形状のコンクリートブロックの孔から破風が見えました。
蒲郡駅から豊橋方面に戻ること一駅で三河三谷駅に到着です。現在は蒲郡市の一部になっておりますが、昭和29年(1954)に蒲郡町・三谷町・塩津村が合併して誕生したのが蒲郡市です。ちなみに『みたに』ではなく『みや』ですので、お間違いのないように。前回お話したように、蒲郡周辺で隆盛を誇った繊維産業の発祥とされているのがこの町であります。蒲郡市HPの『蒲郡の記憶』にもありますが、明治8年(1875)、三谷町の小田時蔵氏が自宅の二階に織機を置いたのが始まりとされています。明治21年(1888)に東海道線が開通すると、三谷の織物は全国に知れ渡るようになります。戦後になると輸出が急増、ガチャンと織れば一万円儲かるという所謂ガチャマン景気で町は大いに潤ったようです。もちろん科学忍者隊ではありませんぞ・・・毎回毎回ほんと申し訳ない。しかし、ガチャマン景気は数年で下火に・・・それ以降、衰退の一途を辿ることになります。まあ、これは日本全国何処の機業地でも同じような状況ですよね。
機業地とくるとまず頭に浮かぶのが、京都の西陣と並び称された大好きな町群馬県桐生市であります。桐生市の景観上、重要な役割を果たしているのがノコギリ屋根、蒲郡や三谷、次に訪れる形原周辺でもコレをそこかしこで見ることができます。正確な数は判りませんが、おそらく桐生よりいっぱいあるんじゃないでしょうか。赤煉瓦に大谷石といった感じでバリエーションでは桐生に軍配が上がると思いますが、規模的にはコチラになるかな。形原では連続する凄まじいギザギザに圧倒されました。そんな隆盛を誇った産業が由来なのかは不明ですが、この町に存在した遊里というのが三谷歓楽荘。前回の蒲郡と同じ名前なのが不思議ですが、業者10に従業婦27という記録が残っているそうです。まあ、判っているのはそれぐらいで、これまた正体不明なんですよね。町の南東の山腹にある鄙びた温泉街の手前にそれらしき一画があるようですので、そこを訪れた後、温泉街にある怪しい館を見学してみましょうか。
駅から海へと延びる通りを行きます。この駅前通り、結構な幅員があるのですが、人影皆無に加えて車の通行もまばら、妙に空虚な感じなのです。
その空虚さに耐えられなくなったので分岐する路地を辿っていくことにします。
時間の関係であれだったのですが、ジックリ探索できれば面白い光景に出会えたのではと思わせる一画でした。
小さな川に出ました。前方にノコギリ屋根が付属する煙突が見えますね。
国道23号線に面しているが、一見すると古びた普通のビルにしか見えない四季の湯さん。
男湯女湯の表示が珍しい。10年ぐらい前では現役だったようですが、今はもう・・・。
裏手のコインランドリーもやっていませんでした。看板が日焼けしちゃって酷い有様ですな。
振り返ると国道を挟んで向き合う古びたビルがドーン。蒲郡駅前にもあった防火建築帯です。全長100mほど、詳細は不明ですがたぶん昭和三十年代に建てられたものだと思われます。
このビルも蒲郡駅前のと同様に一部が『ぬけられます』状態なわけ。
『ぬけられます』を抜けた先、裏側は結構ダイナミックな架構になっております。
向き合う『ぬけられます』、その先には海が望めました。ふと思ったのですが、すぐ向こうが海なのに必要だったのでしょうか、防火帯・・・。
海側の『ぬけられます』を抜けますと、ガラスにエッチングで門海老と描かれておりました。
その正体は旅館、ウェブではほとんどヒットしませんので既に退役済みかと。
戸袋には扇と折鶴の板金仕上、いいねコレ。後ほど、この旅館の摩訶不思議な構造が判明致します。
そのまま海に出ました。停泊する漁船の少ない三谷漁港、波間に海鳥が数羽漂っているだけでした。
漁港に注ぐ川沿いに古い商家が残っておりました。
そのまま防火帯建築の間を抜けて次の目的地に向かおうとすると、さきほどの門海老さんの看板・・・どうやらコチラがメインの入口だったみたい。脇にはアールの外壁、ストライプの型板ガラス越しに階段が見えますね。裏の木造部分と繋がっていたというわけです。
防火帯建築の先、国道にこんな植栽帯がある通りがぶつかっています。画像の左側が気になる一画ですので、もしかするとメインストリート!?と当初は思ったのですが、どうやら違うみたい。昔の航空写真を遡ってみましたら、この通り元は川でした。今は暗渠になっているみたいです。
しかし、不思議なのは国道側の出口にはこんな車止め。コレ、国道への抜け道に使う車が多くて渋滞緩和のために通れなくしたんじゃないでしょうか。
謎の通り沿いには飲み屋さんが並んでいますが、遺構的な歴史があるものは見当たりません。
謎の通りを抜けると海側を走る広い通りに出ます。その通りに面しているのが割烹旅館の千賀さん、かなり立派なお店です。裏手が気になる一画ですので、何か関係があるのかと思ったのですが、この地に店を構えたのが昭和45年(1970)とのこと、この先にある温泉街の湯治客目当てだったようです。
千賀さん裏手の路地に入りました。居酒屋たぬきさんの先に見えてきたのが・・・
板塀に囲まれた破風が立派なお宅・・・コチラを探していたのですが、呆気なく出会ってしまいちょっと拍子抜け。
かなり崩れておりますが、瓢箪を並べたような欄間が面白いですね。それより目を引くのがポーチの富士山、既にお気付きだと思いますが。
洗い出しというよりは、モルタルに玉石を単に埋めましたという手作り感が堪んないわけ。連続する弧は雲海で手前のまばらな部分は海?と勝手に妄想させていただきました。
路地を抜けると、国道と海沿いの広い通りに挟まれた裏通り。破風のあるお宅が冒頭画像のもの、コチラは元置屋さん?というのも勝手な妄想。
向かいには一際目立つ物件、割烹旅館青柳さん。ご覧のとおりかなり複雑な造りになっております。
豊川、蒲郡ときて此処でも赤ですか・・・。
脇の路地に面した裏門、竹塀がいい感じでした。
近くのお宅の戸袋は鮮やかな群青色。でもコチラは歴史のあるものではなさそそう。なんでこんな色にしちゃったんだろう。
前半はここまで、後半も引き続き路地だらけのこの一画からお届け致します。