追分がある宿場町・ぽっかりと口を開けた奥・畑の中に忽然と現れたもの
『前方』から見た『後円』・・・コレ、なんだかお分かりになります???
本庄(前回参照)が当初予定していたよりも早く片付いてしまった・・・このまま帰ろうかと思ったのですが、日没までもう少し時間がありそう。隣町の深谷にでも寄っていこうかと思いながらぼんやりと地図を眺めておりますと、目に飛び込んできたのが倉賀野の文字。そうか、此処があったか・・・以前、ざっくりと下調べをしたことがあるのです。まあ、いつもざっくりなんですけどね(笑)
倉賀野は中山道の江戸から数えて12番目の宿場町。ちなみに前回の本庄が10番目になります。この倉賀野宿で日光へ向かう例幣使街道が分岐しているわけ。所謂追分があるということになりますね。そのせいなのか分かりませんが、往時には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠60軒あまりを数えたといいます。かなりの規模を誇った宿場であることが分かるかと思います。問題は宿場としての使命を終えた後のこと・・・此処は廃娼県である群馬県、果たして『だるま屋』こと乙種料理店は存在していたのか。飯盛女と称する遊女も存在していたと思うのですが・・・。元宿場の町並みウンヌンなんかよりも拙ブログ的にはそっちが気になるわけです。
なんとも殺風景なJR高崎線倉賀野駅の駅前・・・旧中山道へは、とにかく南へ行けばいいみたいです。
旧中山道に出る手前にあった自由堂薬局さん、いいなあこのファサード。
通称東国文化歴史街道こと県道121号線に出ました。これが嘗ての中山道。とりあえず追分を見たいので東に向かいます。最初に現れたのが土蔵造りの商家。どうやらすでに空き家みたいな雰囲気・・・かなりの奥行きがあります。
海鼠壁の塀沿いに裏手に廻ってみますと、こんな立派な門が残っておりました。かなりの豪邸だと思います。
素っ気無い看板建築のお店・・・すごい奥行きだなと思いながら視線を動かしていきますと・・・エッ、煙突!?
裏手はこんな状態、とっくの昔に廃業したのか廃墟と化しておりました。たぶんお風呂屋さんだと思います。
ようやく元宿場町に相応しい家並みが現れましたよ。
まずは立派な卯建が上がった出桁造りの重厚なお宅、これは大変宜しいですなあ。
建物はもちろんですが、感心したのが見事なリフォーム手法。大切に使われているんだなあ。
お次は白の土蔵に緑の見越しの松、そして黒板塀。シックな装いです。
門がすごく立派なんですよ。
こちらが宿場時代の雰囲気をいちばん感じられるのではないでしょうか。往時のもののように見えるのですが、年代がはっきりしないのが残念。
その先で道路が分岐しています。此処が追分になります。右が旧中山道、左が旧日光例幣使街道です。
追分に建つのがカラフルな閻魔堂。宿場時代は阿弥陀堂だったそうなのですが、明治になって建て替えたところ閻魔堂になってしまったとか・・・なんだそりゃ(笑)
左 日光道、右 江戸道と刻まれていますね。奥の石灯篭は追分常夜灯と呼ばれています。
最初の場所に戻る途中、脇道で見つけたお宅。換気用の越屋根が並んでいますね。屋根裏でお蚕さんを飼っていたんだと思います。
若草ということで建物も緑なのでしょうか。試しに検索したら、豪快な動画を発見してしまった。コレ、カラオケDAMで配信中なんだとか(爆)矢島院長の白塗り怖いのですが(笑)心臓の弱い方ご注意を・・・。
同じ建物に入居しているのがコチラ。もちろん入れませんでした。年末年始だからというわけではなく、ずーっとこの状態みたい・・・。
最初の場所に戻り、今度は旧中山道を西へ・・・嘗ての本陣はベイシアの駐車場になっておりました。以前の下調べでは、この先に脇本陣が残っていると記憶しているのですが・・・
目の錯覚???確か二階建てだったはず・・・それに、妙に建物が傷んでいるように見えます。震災で被害を受けたのでしょうか。
覗き込んでみて納得。ジャッキアップして基礎を造り直しておりました。それで三階建てに見えたわけです。かなり大掛かりな改修工事が行なわれているようですぞ。この脇本陣、実は江戸時代のものではなく、明治36年(1903)に再建されたものなんだそうです。それでも築110年、まあいろいろと建物に問題が起きても仕方ないですよね。今後どう使われるのか気になるところです。
脇本陣の敷地はかなり広大、それを取り囲むようにして蔵が並んでおりました。その中に巨木がドーン。
蔵沿いを辿っていきますと、これまた裏門がありましたとさ。これも立派だなあ。
再び旧中山道に戻って上町の交差点へ・・・そこにあるのが極めてシンプルな看板建築、ぽっかりと口を開けた奥が気になるわけ。恐る恐る覗いてみますと・・・
なんだ、この妙な造りは・・・長方形のガラスブロックにブラックガラスの扉・・・喫茶B・G!?若い人は知らないと思いますが・・・というか、私も知らない時代ですが(笑)戦後すぐの頃、社会に出て会社などで働く女性のことを職業婦人と呼んでいたわけです。英語にするとBusiness girl、略してBGということですな。当時の女性からすれば憧れの職業だったのですが、とんでもない事実が発覚します。当時駐留していた進駐軍のスラングでは、BGは娼婦を意味するものだったのです。その結果、NHKはこれを放送禁止とするなど大騒ぎ・・・代わって使われるようになったのが今もお馴染のOLということになるでしょうか。謎の喫茶B・G・・・BGはスラング・・・乙種料理店・・・というのは強引でしょうか。それはさておき・・・いいですよねえ、OLさん(爆)
此処まで旧中山道を辿ってきたのですが、レポにするにはちと弱い。他に何かないかとスマホの地図を眺めてみますと・・・あった、ありました。拙ブログの主旨からは少し外れておりますが、まあこの際仕方ない、贅沢は言っておられません。旧中山道をさらに西進、左折して何の変哲もない住宅街を抜けた先にそれは忽然と現れました。
畑のド真ん中に小高い丘が・・・コレ、なんだかお分かりになります???
こうすれば分かりやすいかな。えっ、まだ分からないですと???もう、仕方ないな・・・昔の偉い方のお墓ですよ。国指定の史跡、名前を大鶴巻古墳といいます。画像ではよく分かりませんが、航空写真で見ると端正な前方後円墳であることが確認できます。全長123m、高さ10.5m、4世紀から5世紀初めに造られたと推定されています。私が立っているのが『前方』の部分ということになりますね。
『後円』の部分にも登ってみました。これだけでなく周辺には幾つかの古墳が点在しており、総称して倉賀野正六古墳群と呼ばれています。嘗ての宿場町は古代ロマンの町でもあったというわけ。ちなみにこの大鶴巻古墳、発掘調査されていないとのこと・・・もしかすると!?
トリが古墳だったとは・・・相変わらずのグダグダ展開で拙ブログの2012年は暮れていくのでした。以上、倉賀野の探索でした。
『前方』から見た『後円』・・・コレ、なんだかお分かりになります???
本庄(前回参照)が当初予定していたよりも早く片付いてしまった・・・このまま帰ろうかと思ったのですが、日没までもう少し時間がありそう。隣町の深谷にでも寄っていこうかと思いながらぼんやりと地図を眺めておりますと、目に飛び込んできたのが倉賀野の文字。そうか、此処があったか・・・以前、ざっくりと下調べをしたことがあるのです。まあ、いつもざっくりなんですけどね(笑)
倉賀野は中山道の江戸から数えて12番目の宿場町。ちなみに前回の本庄が10番目になります。この倉賀野宿で日光へ向かう例幣使街道が分岐しているわけ。所謂追分があるということになりますね。そのせいなのか分かりませんが、往時には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠60軒あまりを数えたといいます。かなりの規模を誇った宿場であることが分かるかと思います。問題は宿場としての使命を終えた後のこと・・・此処は廃娼県である群馬県、果たして『だるま屋』こと乙種料理店は存在していたのか。飯盛女と称する遊女も存在していたと思うのですが・・・。元宿場の町並みウンヌンなんかよりも拙ブログ的にはそっちが気になるわけです。
なんとも殺風景なJR高崎線倉賀野駅の駅前・・・旧中山道へは、とにかく南へ行けばいいみたいです。
旧中山道に出る手前にあった自由堂薬局さん、いいなあこのファサード。
通称東国文化歴史街道こと県道121号線に出ました。これが嘗ての中山道。とりあえず追分を見たいので東に向かいます。最初に現れたのが土蔵造りの商家。どうやらすでに空き家みたいな雰囲気・・・かなりの奥行きがあります。
海鼠壁の塀沿いに裏手に廻ってみますと、こんな立派な門が残っておりました。かなりの豪邸だと思います。
素っ気無い看板建築のお店・・・すごい奥行きだなと思いながら視線を動かしていきますと・・・エッ、煙突!?
裏手はこんな状態、とっくの昔に廃業したのか廃墟と化しておりました。たぶんお風呂屋さんだと思います。
ようやく元宿場町に相応しい家並みが現れましたよ。
まずは立派な卯建が上がった出桁造りの重厚なお宅、これは大変宜しいですなあ。
建物はもちろんですが、感心したのが見事なリフォーム手法。大切に使われているんだなあ。
お次は白の土蔵に緑の見越しの松、そして黒板塀。シックな装いです。
門がすごく立派なんですよ。
こちらが宿場時代の雰囲気をいちばん感じられるのではないでしょうか。往時のもののように見えるのですが、年代がはっきりしないのが残念。
その先で道路が分岐しています。此処が追分になります。右が旧中山道、左が旧日光例幣使街道です。
追分に建つのがカラフルな閻魔堂。宿場時代は阿弥陀堂だったそうなのですが、明治になって建て替えたところ閻魔堂になってしまったとか・・・なんだそりゃ(笑)
左 日光道、右 江戸道と刻まれていますね。奥の石灯篭は追分常夜灯と呼ばれています。
最初の場所に戻る途中、脇道で見つけたお宅。換気用の越屋根が並んでいますね。屋根裏でお蚕さんを飼っていたんだと思います。
若草ということで建物も緑なのでしょうか。試しに検索したら、豪快な動画を発見してしまった。コレ、カラオケDAMで配信中なんだとか(爆)矢島院長の白塗り怖いのですが(笑)心臓の弱い方ご注意を・・・。
同じ建物に入居しているのがコチラ。もちろん入れませんでした。年末年始だからというわけではなく、ずーっとこの状態みたい・・・。
最初の場所に戻り、今度は旧中山道を西へ・・・嘗ての本陣はベイシアの駐車場になっておりました。以前の下調べでは、この先に脇本陣が残っていると記憶しているのですが・・・
目の錯覚???確か二階建てだったはず・・・それに、妙に建物が傷んでいるように見えます。震災で被害を受けたのでしょうか。
覗き込んでみて納得。ジャッキアップして基礎を造り直しておりました。それで三階建てに見えたわけです。かなり大掛かりな改修工事が行なわれているようですぞ。この脇本陣、実は江戸時代のものではなく、明治36年(1903)に再建されたものなんだそうです。それでも築110年、まあいろいろと建物に問題が起きても仕方ないですよね。今後どう使われるのか気になるところです。
脇本陣の敷地はかなり広大、それを取り囲むようにして蔵が並んでおりました。その中に巨木がドーン。
蔵沿いを辿っていきますと、これまた裏門がありましたとさ。これも立派だなあ。
再び旧中山道に戻って上町の交差点へ・・・そこにあるのが極めてシンプルな看板建築、ぽっかりと口を開けた奥が気になるわけ。恐る恐る覗いてみますと・・・
なんだ、この妙な造りは・・・長方形のガラスブロックにブラックガラスの扉・・・喫茶B・G!?若い人は知らないと思いますが・・・というか、私も知らない時代ですが(笑)戦後すぐの頃、社会に出て会社などで働く女性のことを職業婦人と呼んでいたわけです。英語にするとBusiness girl、略してBGということですな。当時の女性からすれば憧れの職業だったのですが、とんでもない事実が発覚します。当時駐留していた進駐軍のスラングでは、BGは娼婦を意味するものだったのです。その結果、NHKはこれを放送禁止とするなど大騒ぎ・・・代わって使われるようになったのが今もお馴染のOLということになるでしょうか。謎の喫茶B・G・・・BGはスラング・・・乙種料理店・・・というのは強引でしょうか。それはさておき・・・いいですよねえ、OLさん(爆)
此処まで旧中山道を辿ってきたのですが、レポにするにはちと弱い。他に何かないかとスマホの地図を眺めてみますと・・・あった、ありました。拙ブログの主旨からは少し外れておりますが、まあこの際仕方ない、贅沢は言っておられません。旧中山道をさらに西進、左折して何の変哲もない住宅街を抜けた先にそれは忽然と現れました。
畑のド真ん中に小高い丘が・・・コレ、なんだかお分かりになります???
こうすれば分かりやすいかな。えっ、まだ分からないですと???もう、仕方ないな・・・昔の偉い方のお墓ですよ。国指定の史跡、名前を大鶴巻古墳といいます。画像ではよく分かりませんが、航空写真で見ると端正な前方後円墳であることが確認できます。全長123m、高さ10.5m、4世紀から5世紀初めに造られたと推定されています。私が立っているのが『前方』の部分ということになりますね。
『後円』の部分にも登ってみました。これだけでなく周辺には幾つかの古墳が点在しており、総称して倉賀野正六古墳群と呼ばれています。嘗ての宿場町は古代ロマンの町でもあったというわけ。ちなみにこの大鶴巻古墳、発掘調査されていないとのこと・・・もしかすると!?
トリが古墳だったとは・・・相変わらずのグダグダ展開で拙ブログの2012年は暮れていくのでした。以上、倉賀野の探索でした。