遺跡のような近代建築・チャブ屋街跡の自由の女神・屋号を引き継いだアパート
☆ファミリーが遊ぶ公園の向こうに古代遺跡?不思議な光景です。
横浜市の南、東京湾にまるで異国人の鷲鼻のように突き出している半島にあるのが本牧。風光明媚な断崖などがありますから古くからの景勝地だったようです。鷲鼻だったかは知りませんが、黒船のペリーは此処を気に入ったのか、周辺の測量をして崖や岬の名付け親になっているそうです。ペリーの後にやって来たのが、これまた鷲鼻が結構いたんじゃないかと思われる進駐軍というわけ・・・ちょっと強引すぎましたね。本牧という地名の由来って諸説あるようですが、未だにこれといったものは判明していないのだとか。個人的には天皇家の御牧があったからという説を推したいかな・・・まあ、山あり谷ありの地形から牧場にぴったりだと思っただけなんですけどね。
拙ブログ的に本牧ときますとチャブ屋になるわけです。その存在をご存知の方も多いと思います。まあ、この色街については様々な書籍が出版されておりますし、ブログやHPなどで、このいい加減なブログと比べ物にならないほど綿密な調査をされている方もいらっしゃいますので此処では多くを申しません。申し出し始めたら情報が多すぎてきりが無くなりそうですしね。一応断っておきますが、決して手抜きではありませんぞ。その代わりといっては何なのですが、今回はこんなもの作ってみました。
毎度お馴染国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(整理番号:MKT637 コース番号:C8 写真番号:17 撮影年月日:1963/6/26を加工加筆)からの出典になります。売防法施行から5年経過しておりますが、おそらく界隈にほとんど変化はないと判断し、いちばん写りの良いのを使わせていただきました。海沿いを南北に走る海岸通りの東側にあったのが戦前までのチャブ屋街です。規則正しく建物が並んでおりますが、これらは進駐軍の住宅です。戦後、チャブ屋街は接収されて全てが潰され、ご覧のとおり跡形も無くなってしまいました。現在のイトーヨーカ堂本牧店辺りがそれだとされています。戦前の規模ですが、業者26軒に約200名の女給という名の私娼が活躍されていたそうです。あ、大事なことを忘れておりました。この色街、公許の遊里ではないのです。近隣に散在していた私娼を集めた私娼街だったのです。
戦後、海岸通りの向かい、小港三丁目と本牧二丁目辺りに進駐軍の慰安所が設置されチャブ屋が復活します。ホテルと銘打ったネオン煌びやかな洋館が建ち並び、まさに不夜城といった趣だったようです。各地のそれとは違い、この色街は当時の写真が結構残っているんですよね。それから判断しますと、赤線の小さなカフェー建築とは全く違う豪華な造りがほとんどだったようですから、それらが居並ぶ様はさぞ壮観だったことでしょう。当初は進駐軍専用の色街でしたが、その後日本人もOKの赤線に移行して売防法が施行される昭和33年(1958)まで続くことになります。最盛期で業者約40軒、600名あまりの女性が働いていたそうです。航空写真の記号はネットで見つけた売防法施行直前の昭和32年(1957)の住宅地図から、チャブ屋と思われるお店を示したものになります。読みが怪しいのもありますし、場所は大体ですので、細かいツッコミは無しの方向でお願い致しますぞ。
ア:スターホテル イ:ウィーン ウ:ワシントン エ:リドー オ:マスコット カ:アジア キ:レークランド ク:シルバーダラー ケ:ハワイ コ:リリー サ:エバーグリーン シ:レインボー ス:ホテルチェリー セ:ホテルグリーンランド ソ:ホテルメトロ タ:ホテルパシフィック チ:ホテルハーバーライト ツ:パークスロイヤル テ:ホテルニューオリエンタル ト:ホテルルビー ナ:セブンイレブン ニ:ホテルパラダイス ヌ:ホテルフジヤマ ネ:キングホテル ノ:ホテルフロリダ ハ:ホテルセントルイス ヒ:ニューレインボーホテル フ:パラマウントホテル ヘ:ホテル第二ダイヤ ホ:パリスホテル マ:フジホテル ミ:ダイヤホテル ム:ホテルアイボリイ メ:ヨコハマホテル モ:ホテルパーク ヤ:ホテルアストール ユ:ラッキーセブン ヨ:ゴールデンフォーザレー ラ:ローズホテル リ:ホテルモナコ
この色街跡、遺構の類はほとんど残っていないと予め知っておりましたので、埋め合わせというわけではありませんが、近くの以前から見たかった近代建築を訪れてからチャブ屋街跡に向かうことに致します。あ、近くというのはちょっと違うかも・・・直線距離にして2.5キロも離れていますから。それから最後にオマケもありますのでお楽しみに・・・。
註)計二回訪れております。各画像のキャプションに付けられた★は2013年9月、☆は2015年2月に撮影したことを表しています。
☆始まりはJR根岸線の山手駅。本牧へは東に向かうのですが、まずは西へ・・・高低差のある閑静な住宅街を抜けていきますと辿り着くのが根岸森林公園。広大な緑地の片隅に、古代遺跡のような三本の塔が並んだ廃墟があります。周りの長閑な雰囲気とのギャップが凄まじいわけ。
☆引きの絵のほうが判りやすいかな?名前は旧根岸競馬場一等馬見所と言います。昭和5年(1930)竣工、設計は米国の建築家J・H・モーガン。根岸競馬場(横浜競馬場)は慶応2年(1866)に設置された日本初の洋式競馬場になります。地図を見れば一目瞭然なのですが、この公園、見事な楕円形であることが判るはずです。競馬場跡をそのまま整備して公園にしているわけ。馬見所とは要するに観客のスタンドということですな。それの裏側になります。
☆塔部分のディテール、円窓の枠部分が月桂冠みたいな左官の装飾になっているのが判ると思います。
☆妻側の様子、斜めになった外壁の向こう側、段々になった観客席が並んでいるはずなのですが、それを見ることは不可能。私のすぐ背後には高いフェンス、その向こうは米軍根岸住宅の入口なのです。以前は塔の下辺りから鉄骨造の大きな屋根が伸びていたのですが、ボロボロでしたので撤去したようです。
☆根岸競馬場が閉鎖されたのは昭和17年(1942)、このスタンドは12年しか使われなかったことになります。平成21年(2009)に経産省の近代化産業遺産に指定されておりますが、ご覧のとおりの放置プレイ状態。市としても活用法を探っているようですが、さてどうなりますことやら。個人的にはこのまま朽ち果てて欲しいというのは言ってはいけないことでしょうか。
★二年前は逆のルート、本牧からの帰り道に訪れたのですが、途中で迷いに迷って(笑)着いたのは日没直前・・・。手前の円形の芝生広場では、何処かの大学の演劇部?が稽古中でした。
★手持ちではこれが限界ということでお許しくだされ。春から夏にかけては右側の塔がグリーンモンスターに変身します。コレのことを知ったのは10年以上前の廃墟ブーム真っ盛りの頃、内部を撮影したサイトも結構ありましたよね。考えてみると裏側が米軍施設だというのに、よくまあそんなリスクを犯して潜り込んだものだと感心・・・というよりは呆れているわけ。今やそのブームも何処という感じですけどね。その点、遊里跡探索はいいですぞ、ブームなんて絶対こないから(笑)
☆かなり空腹でしたのでお店を探したのですが、公園の周辺にはな~んにも無いわけ。石川町方面にかなり戻った処でようやく見つけた仙良庵さんで鴨南うどんをいただきました。美味しかったのですが、鴨の出汁のせいなのか、つゆが関東風とも関西風ともつかぬ不思議な風味でした。後で知ったのですが、かなり有名なお店みたいです。燃料補給しましたので本牧へ・・・と思ったら、目の前に深い谷が・・・。
☆谷というのは大袈裟ですが、かなりの高低差をこんな階段で下っていきます。高低差は大好物ですが、この辺りは戦後になってから開発された地域と思われますので町並み的にはいまいちですので、2.5キロを思いっきり端折って・・・
☆ハイ、いきなり本牧手前に到着。レトロな床屋さんの先に見えるのが本牧通りです。
★本牧通りから分岐する脇道で見つけた謎の千代崎□市場。正しくは千代崎町市場なんだそうで、所謂横丁建築の一種、どん詰まりの通路の両側にお店が並んでいたそうです。
★しかし、4年前に最後のお店が閉店し現在の寂しい姿になってしまいました。歴史を遡ると大正15年(1926)までいくという由緒正しきものなんだとか。往時は近所の奥様方で賑わったのでしょうね。
☆月嶋寿司さんの処で分岐していくのが、チャブ屋街の北側を流れている千代崎川、現在は暗渠になっています。
☆花見煎餅さんの鏝絵で描かれた屋号、訪れた二回ともシャッターが降りていたのが気になったのですが、日曜が定休日なんだそうです。
★チャブ屋街手前の脇道の光景、劇画調のフォントが昭和すぎて堪らないわけ。
★此処からチャブ屋街跡・・・本牧通りから脇道に入ると見えてくるのが、日の出型看板建築のスナックオリエントさん。嘗て此処にあったと思われるのが、前書き航空写真の『カ』のアジアなるお店、お隣が『キ』のオークランドになるはずです。現在はアパートのようですが、問題は当時の建物なのかどうか・・・ウーム、何とも判断の難しい物件です。
☆今年の様子・・・まあ、たった二年では変わるはずもないのですが、看板までも全く同じ場所・・・そういうことなのでしょう。
☆チャブ屋が並んでいたと思われる路地を抜けると、さきほどの暗渠になった千代崎川に出ます。手前の駐車場に建っていたと思われるのが『タ』のホテルパシフィック。その先に自由の女神の後ろ姿。
☆駐車場にはなぜかキャスター付の椅子が一脚。近所のお爺ちゃんが日向ぼっこでもするのでしょうか。
★自由の女神の正体は横浜ロイヤルホテルさん、界隈に残る唯一のホテルになります。嘗て此処にあったのが『ツ』のパークスローヤルになります。よく似た屋号ですが、何か関係があるのでしょうか。すましたニャンコと一緒に。
☆よくよく見たらロイヤ『レ』だった(笑)自由の女神とくると、よくインター脇に見えたりする派手なホテルを想像しがちですが、コチラはいたって普通のホテルですのでお間違いのないように。普通のホテルというのも変な表現ですけどね。
☆近くにあるのが長屋形式の飲み屋さんが入ったレトロな物件、一見すると鉄筋コンクリート造に見えますが、後ろの片流れ屋根を見えれば木造だということが判ると思います。手前の駐車場に建っていたのが『フ』のパラマウントホテル、このお店のことよく覚えておいてくださいね。
☆レトロに見えますが、おそらく界隈が色街としての終焉を向かえた後に建てられたものだと思います。
☆その先、『マ』のフジホテルなどが並んでいた通りの中ほどに、水色外壁のアパートがあります。此処には『モ』のホテルパークが建っていたのですが、地図を見てビックリ、このアパート、パーク荘というのです。どうやら屋号だけが引き継がれたようです。もちろん建物は当時のものではありません。
☆通りを抜けると再び千代崎川の暗渠、洗い出し風の左官仕上にアーチ窓が並ぶ退役済みと思われる床屋さんが面しています。
☆ポーチには市松模様のモザイクタイル、縁取りを兼ねた段鼻にはスクラッチタイル、ノンスリップ効果を狙ったのかな。
☆『リ』のホテルモナコがあった細い路地も探ってみたのですが、あったのはベコベコになったトタンだけでした。
★路地を抜けると屋根が欠けた白い廃屋。奥の平屋などは間違いなくチャブ屋が現役の頃からのものだと思われます。
★白い廃屋の玄関廻り、これが結構モダンだったりするわけ。以上が嘗て隆盛を極めたチャブ屋街の現在の姿、70年ほど前には米兵が大挙して押し寄せたとはとても思えないほど、静かな一画に変貌しておりました。でも、わずかながらですが独特な空気感は残っているような気がしましたよ。
☆帰りは本牧通りの南側を並行しているクネクネ道を辿っていきましょう。この通りも嘗ては川だったのではないでしょうか。途中にある平屋の看板建築、大切に使われているというのがよく判りますね。
★その先で左折すると山手駅までは真っ直ぐです。中ほどにあるのが、利休鼠っぽいタイルがモダンないなり湯さんです。正面じゃなくて両脇から入るというのが結構珍しいのではないでしょうか。黒湯の天然温泉に浸かれるそうです。
★近くで見つけたお稲荷さん、いなり湯さんの屋号の由来はコチラかもしれませんね。
以上が嘗て隆盛を誇ったチャブ屋街跡の探索になりますが、遺構がほとんど残っていなくてちょっと物足りなかったでしょ?というわけで此処からはお約束したオマケになります。久しぶりになりますが、手元のカストリ雑誌に本牧チャブ屋街の記事がありましたのでそれを紹介したいと思います。舞台となっているのは、『フ』のパラマウントホテル、酷い印刷状態ですが、外観に加えて貴重な部屋と浴室の写真もありますよ。まあ、お暇だったら読んでくださいな。
横浜の本牧ホテル街探訪-チャブ屋復活(読切ロマンス1954年2月号)
懐しの本牧
「どうです?本牧の茶ブ屋を探訪してくれませんか?」
と、編集子に云われた私は、思わずニコリとした。若い頃は横浜に住んでいたので、本牧にはちよいちよい遊びに行ったものだ。ホテルの窓から海を眺めながら、彼女と語った懐しい思い出の街である。
その本牧が復興したと聞きながら、貧乏閑なしで、今日迄行って見る機会のなかった私である。その私に「探訪せよ」とは、「無料ではない、いくらかやるぞ」ということだから、ニコリとしたわけだ。云うなれば、他人から日当を貰って、昔の恋人に会いに行く様なものだ。だから私は「ホイ来た善は急げ」と、時を移さず、国電に飛び乗って、横浜へ吹飛んだ。
桜木町で下車して、本牧行きの市電に乗り、小港の停留所に降り立って、ホテルは何所と眺むれば、あったあった、元の場所に、ショウシャな洋館が立並んでいる。
「あれが、ホテルですね?」
と、通りかゝった娘さんに尋ねると以外にも怪げんな顔をして。
「いゝえ、あれはアメリカの人達の住むハウスです」
と笑って、二三丁手前の方を指さしながら、
「そら、あそこに見えるでしょう、立派な洋館、あれが新しく出来たホテルです」
位置が変ったのを知らなかった私は暫し立止って、昔の茶ブ屋街を瞼に描いて見た。
人家の間に散在した懐しいあのホテルこのホテル、外人と手をつないで歩くアイノコ娘、塀を越して静かに流れて来るブルースのメロデイ―――
思い出は果しなく続く。然し眼を開けば、静まり返った一面の外人住宅、あゝ有為転変の世なる哉。
後を振返りつゝ電車通りをもどること二丁ばかり、「その寺の横丁を入って・・・」と人に教えられて右に曲ると、既に何々ホテルと大きく記された看板がいくつも見える。お嫁入りした恋人の住居を尋ねあてた様な気分である。胸をワクワクさせて歩くと、向うから黒人兵と仲良く手をつないだガールが、ガムをかみながらやって来る。左へ曲ると、もうホテル街の中心と見えて、一般の民家は一軒もなく、豪壮華麗な米式建築がズラリと建ち並んでいる。そうして、そこにもこゝにも、立派な自動車が停っている。通る人は、大抵アメリカの兵隊さんばかりだ。
「丸でアメリカにでも来た様だ」
いささか面喰ってともかくホテル街を一巡したが、「やア」と声をかけて入れる様なホテルは一軒もない。たまにガールらしい女に合っても、ウインクはおろか、見向きもしてくれない。「これが若し東京の新宿だったら・・・」と、不断はうるさく感じた「兄さん一寸・・・」の声が、なつかしくなった程、ここのガール達は、ツンとすましている。
「日本人は駄目らしい」
情ない気持になって、私はしょんぼり電車通りに出て行った。
乾物屋さんの話
「やア、田川さんじゃないか」
声をかけられたので振向くと、四十過ぎの男がニヤニヤ笑っている。瞬間には気がつかなかったが、鼻の下にイボがあるのを見て、やっと思い出した。以前、西戸部に住んでいた頃、防空演習で知合った男である。当時は区役所に勤めていたが、今は本牧で乾物屋をやっているというので、
「ホテルの探訪に来たのですが、一向にとりつく島がなくて・・・」と、窮状を訴えると、
「ホテルのことだったら、私がよく知っています」
と喫茶店に入って、色々と話してくれた。
その話によると、二十五年頃からポツポツ建ち始めて、現在では五十軒ばかり、ガールの数は五百人くらいで、女学校卒業が半分以上も居るそうである。
ビールは一本二五〇円、ウイスキーは一杯一〇〇円と云った相場。客筋は外人七割、日本人三割と云った割合で、米兵が横浜から移動した後も、殆んどこの割合は変らない。玉代は、ショウトが一〇〇〇円、一時間なら一五〇〇円、二時間なら二〇〇〇円という風に、一時間増す毎に五〇〇円宛高くなる。
泊りは三五〇〇円夕方の五時頃からだと、四〇〇〇円、十二時以後だったら二五〇〇円位でも泊める場合もある。これが大体の標準だが、時と場合、交渉のしようによっては、もっと安く泊れることもある。
食事は、客の希望により、オムレツ、ビフテキ、サンドウィッチ等を誂えて呉れるが、余り凝ったものは出来ない。一食一五〇円から三〇〇円位迄、客の注文に応じて安いのも高いのも出来る。
ガールは、二食で一日一〇〇円の食事代の外は、室代も何もいらず、玉代を主人と折半して、一月二万円から十万円位の収入がある。その外に、サービス次第では、靴や洋服を、客から買って貰える場合もあるから、それ等の副収入を入れると、莫大な収入になるわけだが、親兄弟にせびられたり、浪費したりして、その割に貯金は出来ないらしい。
客の中で、最も喜ばれるのは、朝鮮帰りの兵隊で、大抵五十万円位は持っている。ホテルでは、「朝鮮ボケ」と云っている。朝鮮から朝霞に帰って来ると、希望により、バスで横浜に輸送され、長者町の米軍宿舎RRセンターに収容され、ここからホテルへ来て泊るが、大抵三日や五日間は居続ける。何時死ぬか分らないので、金払いもよく、ポンと五日間の宿泊料を前払した上、ガールに色々買ってやるので、大いに歓迎されるわけだ。
これに反して土地の兵隊は金を僅かしか持って居らず、月の半ば頃迄に大抵月給を使ってしまって、月末にはぐんと足が遠のくそうだから、日本人が行くなら、月末を狙うに限る。料金も負けてくれるそうだ。
「まあ大体こんなところですよ。細いことは直接行って聞いて見て下さい」
と云うのだが、「どうも気がひけて・・・」と頭をかくと、
「なアに、ビールの一本も飲めば、酒場の満ママさんが話してくれますよ。なんなら紹介してあげましょうか?」
と云う。私は早速紹介の名刺を貰って、又ノコノコとホテル街へ引返した。
『パラマウント』ホテルで・・・
紹介してくれたホテルは、「パラマウント」という一階建、比較的小さい構えなので、入るのに気楽である。扉を排してホールへ入ると、居る居る、洋装の美人がヅラリと椅子にかけていて、
「いらっしゃいまし」
と、愛想よく迎えてくれた。五時頃だったが、まだ客は一人も来ていなかったので、これ幸と、ママさんに名刺を出すと、
「あら、あの方とお知合ですの。さア、どうぞ・・・」
と、椅子をすゝめてくれる。昔とった杵ヅカというのか、入ってしまえば案外平気である。先ずビールを注文して、
「日本人が入って来て、嫌われるかも知れませんが」
と、皮肉を云うと、
「あら、もうあなた、独立国になってアメリカの兵隊さんも、ぐっと減ったんですもの。日本人を嫌ったんでは、商売になりませんわ。この通り、今店に出たばかりのホヤホヤなんですのよ。どうぞ選りどり見どり、どれでもお好きな娘を恋人にしてあげて頂戴」
よし来た、と行きたいところだが、今日はそのつもりで来たのではないから、
「本当に綺麗な方ばかりですねえ」
と、ニヤニヤしながら、順々に一人一人顔を見る。みんな朗かで、溌ラツとしている。然し、柄はみんな小柄である。外人相手なら、大柄に方が向くだろうに・・・と思っていると、ドヤドヤッと、兵隊の一団が入って来た。
「ハロー」「カムイン」「グットナイト」等ガール達は、口々に挨拶して、俄かに活気ずく。宛も池の鯉が、餌を投げられた時の様である。ビールを飲むもの、踊るもの、抱き合ってキッスをするもの、探訪記者には有難い場景である。
それも束の間、一人一人女をつれて奥へ入ったのだ。私は一人ぼっち、
「ママさん、私はどうしてくれるのです?」
と、冗談云うと、
「お気の毒様、早く乗らなきゃ、ひとが乗るってね、ふゝゝゝゝ」
と笑って、彼女は煙草を私にすゝめ
「でもあなたは、泊る気はなかったのでしょう?」
「どうして?」
「お目が、そう云っていますもの」
「へーえ」
「長くやっていますと、一目見たばかり、ちゃんと分りますのよ」
正に、道によってかしこしである。面白いと思って色々聞いて見る。
「ガールさん、どんなタイプが好かれますか?」
「そうね、矢張可愛い感じの娘でしょうね。でも、それだけでは駄目ね、ウイットがあって、朗かで、矢張一通り利巧でなくては・・・。それから、大柄の女は、絶対と云ってよい位、好かれませんねえ」
「どういうわけでしょう?」
「ふゝゝ、大方あのせいではないかしら」
日本人、ずっと身体が小さいのだから、大柄でもよさそうなものだが・・・と、一寸不審に思う。
「でもね、面も拙ければ愛嬌もないのに、とても好かれる娘もあるんですのよ。床惚れというわけなんでしょうかね」
「成程。黒人はどう扱っています?」
「黒人兵は、それ専門のホテルがありますから、そちらの方へ廻しています。でも、たまに水兵さんなんか、白と黒が一緒に来ることがありますの。その時は、いくらなんでも、白は内、黒は外と、節分の厄払い見たいなことも云えませんので、多い時は別ですけど、五人来て、一人だけ黒の場合なんかは、融通をきかしていますの。絶対にいやだと云う娘もありますが、中には同情して、いゝわ、あたしが引受けてあげるわ、という娘もありましてね」
「成程。それでどうなんでしょう。今までの習慣では、客が一人の女と遊ぶと、次に来た時も、その女とでなければいけないということになっていた様ですが・・・」
「それがいゝのでしょうが、相手が兵隊さんですからそんなわけに行きませんの。来る度毎に女を変えるお客さんもありましてね。五回も遊んだ女を振って、他の女に乗りかえる人だってありますものね。女は無論怒りますけど、お客さんの自由意志は、出来るだけ尊重する建前で居ますの。その代わり女の方だって、気に食わなければ、いやだと断ることもありますからね」
「彼女達、非常に明朗に見えましたが、本牧では、どの女も、みんなあんなに明るいのでしょうか?」
「皆さん、よくそんなにおっしゃって下さいますわね。その原因は色々あると思うんですけど、最も大きな原因は、公娼廃止によって、身分が自由になったことでしょうねえ。気に入らなければ、いつでも出て行ける、どこにだって行ける、隣のホテルだって行けるんですからね。それからもう一つは、お金持の国、自由の国のアメリカさん相手ですから、自然と朗かになったのだと思いますね。それに、このホテルは、規模が小さいだけに、まとまりがよく、みんな仲よくやっていますので、特に気持がおだやかなのかも知れませんわね」
「何か特にモットーがありますか?」
「はア、私のホテルでは、お客さんに家庭的な気分を与えるということに、特に努めて居ります」
成程、そう云えば、ママさん自身に「母親」と云った様な暖か味が感ぜられる。
ガールと語る
「ガールさんの室を見たいのですが・・・」
と、虫のいゝことを云うと、
「丁度、玉はおろしたが、一寸出て来ると云って、昨夜も帰って来なかったお客さんがありますので、その娘の室をお目にかけましょう」
と、親切なママさんは席を立った。五日間の宿泊料を前払して、途中外泊するとは解せないが、喧嘩でもして、多分モンキーハウスに打込まれたのであろう、とママさんは云う。
彼女が、室の前に立って、扉をノックすると、ガールが出て来た。京マチ子型の美人である。ママさんがわけを話すと彼女は直ぐにOK、
「どうぞお入りなさい」
と、私の手をとる様にして、招じ入れた。
「どうぞごゆっくり」
ママさんが去ると、私は煙草に火をつけて、室の中を見廻した。広さは六畳位、壁によせてベッドが置いてあり枕机には、青磁の花瓶にカーネーションが活けてある。その真赤な色が、真白なベッドカバーと対照して、極めて印象的だ。ベッドと反対側の壁によせて、洋服ダンス、そして、その間に卓子と椅子二脚。これだけが、ホテルの備品で、あとの蓄音器とラジオと鏡台とは、ガールの私物だそうだ。
「このホテルへ来て、どの位になります?」
「そうね、そろそろ三年になりますね・・・」
「三年も一ヶ所に居るのは、長い方ではないんですか?」
「そうね。まア長い方でしょうね。でも、ホテルにはそんな人が沢山居ますのよ。居心地がいゝのね」
「どんな点でしょう?」
「ママさんがいゝ人だからね。あの方、私達に親切で、無理をさせないのよ。自分の家に居る様な気持で居られるのね。それにあの方、英語がペラペラでしょう。ですから兵隊さんと話しても、細かいことを呑みこませることが出来るの。それで、放っといたら帰ってしまうお客さんでも遊んで行くし、御機嫌を損ねた兵隊さんでも、直ぐ気持がほぐれますのよ。それが結局、お店のためにもなれば、私達のためにもなりますのね」
ママさんとは、所謂遣手婆さんのことだが、このママさんというのは、まだ三十七八位の綺麗な女で、ホテルの支配人と云った地位にある様だ。その人が、こんなに評判がよいとなると、ホテルはさぞかし繁昌であろう。
「外人を相手にすると、日本人はミミッチくて、面白くないでしょう?」
「いゝえそんなこと。私は日本人の方が好きなんですのよ。金の点では、色々物を揃えてくれますから、外人の方が得ですけれど、矢張気持の方がね。でも、たまに日本人のお客さんと遊ぶと、なんだか勝手が違って・・・細い神経を使わなければならないでしょう、気持や言葉がよく分るだけに・・・。外人だと簡単にすみますものね」
いつまでも話して見たかったが、「旦那」が帰って来ると拙いので、この辺で引上げた。
ビール一本で、これだけの探訪が出来たのはもっけの幸い、若しあのまゝ帰っていたなら、なんて無愛想な本牧だろうと思ったに違いない。中へ入って見れば、どうしてどうして、仲々人情味あふれるばかり、さすがにやっぱり本牧だけあると、私は厚くママさんにお礼を云って帰った。
☆ファミリーが遊ぶ公園の向こうに古代遺跡?不思議な光景です。
横浜市の南、東京湾にまるで異国人の鷲鼻のように突き出している半島にあるのが本牧。風光明媚な断崖などがありますから古くからの景勝地だったようです。鷲鼻だったかは知りませんが、黒船のペリーは此処を気に入ったのか、周辺の測量をして崖や岬の名付け親になっているそうです。ペリーの後にやって来たのが、これまた鷲鼻が結構いたんじゃないかと思われる進駐軍というわけ・・・ちょっと強引すぎましたね。本牧という地名の由来って諸説あるようですが、未だにこれといったものは判明していないのだとか。個人的には天皇家の御牧があったからという説を推したいかな・・・まあ、山あり谷ありの地形から牧場にぴったりだと思っただけなんですけどね。
拙ブログ的に本牧ときますとチャブ屋になるわけです。その存在をご存知の方も多いと思います。まあ、この色街については様々な書籍が出版されておりますし、ブログやHPなどで、このいい加減なブログと比べ物にならないほど綿密な調査をされている方もいらっしゃいますので此処では多くを申しません。申し出し始めたら情報が多すぎてきりが無くなりそうですしね。一応断っておきますが、決して手抜きではありませんぞ。その代わりといっては何なのですが、今回はこんなもの作ってみました。
毎度お馴染国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(整理番号:MKT637 コース番号:C8 写真番号:17 撮影年月日:1963/6/26を加工加筆)からの出典になります。売防法施行から5年経過しておりますが、おそらく界隈にほとんど変化はないと判断し、いちばん写りの良いのを使わせていただきました。海沿いを南北に走る海岸通りの東側にあったのが戦前までのチャブ屋街です。規則正しく建物が並んでおりますが、これらは進駐軍の住宅です。戦後、チャブ屋街は接収されて全てが潰され、ご覧のとおり跡形も無くなってしまいました。現在のイトーヨーカ堂本牧店辺りがそれだとされています。戦前の規模ですが、業者26軒に約200名の女給という名の私娼が活躍されていたそうです。あ、大事なことを忘れておりました。この色街、公許の遊里ではないのです。近隣に散在していた私娼を集めた私娼街だったのです。
戦後、海岸通りの向かい、小港三丁目と本牧二丁目辺りに進駐軍の慰安所が設置されチャブ屋が復活します。ホテルと銘打ったネオン煌びやかな洋館が建ち並び、まさに不夜城といった趣だったようです。各地のそれとは違い、この色街は当時の写真が結構残っているんですよね。それから判断しますと、赤線の小さなカフェー建築とは全く違う豪華な造りがほとんどだったようですから、それらが居並ぶ様はさぞ壮観だったことでしょう。当初は進駐軍専用の色街でしたが、その後日本人もOKの赤線に移行して売防法が施行される昭和33年(1958)まで続くことになります。最盛期で業者約40軒、600名あまりの女性が働いていたそうです。航空写真の記号はネットで見つけた売防法施行直前の昭和32年(1957)の住宅地図から、チャブ屋と思われるお店を示したものになります。読みが怪しいのもありますし、場所は大体ですので、細かいツッコミは無しの方向でお願い致しますぞ。
ア:スターホテル イ:ウィーン ウ:ワシントン エ:リドー オ:マスコット カ:アジア キ:レークランド ク:シルバーダラー ケ:ハワイ コ:リリー サ:エバーグリーン シ:レインボー ス:ホテルチェリー セ:ホテルグリーンランド ソ:ホテルメトロ タ:ホテルパシフィック チ:ホテルハーバーライト ツ:パークスロイヤル テ:ホテルニューオリエンタル ト:ホテルルビー ナ:セブンイレブン ニ:ホテルパラダイス ヌ:ホテルフジヤマ ネ:キングホテル ノ:ホテルフロリダ ハ:ホテルセントルイス ヒ:ニューレインボーホテル フ:パラマウントホテル ヘ:ホテル第二ダイヤ ホ:パリスホテル マ:フジホテル ミ:ダイヤホテル ム:ホテルアイボリイ メ:ヨコハマホテル モ:ホテルパーク ヤ:ホテルアストール ユ:ラッキーセブン ヨ:ゴールデンフォーザレー ラ:ローズホテル リ:ホテルモナコ
この色街跡、遺構の類はほとんど残っていないと予め知っておりましたので、埋め合わせというわけではありませんが、近くの以前から見たかった近代建築を訪れてからチャブ屋街跡に向かうことに致します。あ、近くというのはちょっと違うかも・・・直線距離にして2.5キロも離れていますから。それから最後にオマケもありますのでお楽しみに・・・。
註)計二回訪れております。各画像のキャプションに付けられた★は2013年9月、☆は2015年2月に撮影したことを表しています。
☆始まりはJR根岸線の山手駅。本牧へは東に向かうのですが、まずは西へ・・・高低差のある閑静な住宅街を抜けていきますと辿り着くのが根岸森林公園。広大な緑地の片隅に、古代遺跡のような三本の塔が並んだ廃墟があります。周りの長閑な雰囲気とのギャップが凄まじいわけ。
☆引きの絵のほうが判りやすいかな?名前は旧根岸競馬場一等馬見所と言います。昭和5年(1930)竣工、設計は米国の建築家J・H・モーガン。根岸競馬場(横浜競馬場)は慶応2年(1866)に設置された日本初の洋式競馬場になります。地図を見れば一目瞭然なのですが、この公園、見事な楕円形であることが判るはずです。競馬場跡をそのまま整備して公園にしているわけ。馬見所とは要するに観客のスタンドということですな。それの裏側になります。
☆塔部分のディテール、円窓の枠部分が月桂冠みたいな左官の装飾になっているのが判ると思います。
☆妻側の様子、斜めになった外壁の向こう側、段々になった観客席が並んでいるはずなのですが、それを見ることは不可能。私のすぐ背後には高いフェンス、その向こうは米軍根岸住宅の入口なのです。以前は塔の下辺りから鉄骨造の大きな屋根が伸びていたのですが、ボロボロでしたので撤去したようです。
☆根岸競馬場が閉鎖されたのは昭和17年(1942)、このスタンドは12年しか使われなかったことになります。平成21年(2009)に経産省の近代化産業遺産に指定されておりますが、ご覧のとおりの放置プレイ状態。市としても活用法を探っているようですが、さてどうなりますことやら。個人的にはこのまま朽ち果てて欲しいというのは言ってはいけないことでしょうか。
★二年前は逆のルート、本牧からの帰り道に訪れたのですが、途中で迷いに迷って(笑)着いたのは日没直前・・・。手前の円形の芝生広場では、何処かの大学の演劇部?が稽古中でした。
★手持ちではこれが限界ということでお許しくだされ。春から夏にかけては右側の塔がグリーンモンスターに変身します。コレのことを知ったのは10年以上前の廃墟ブーム真っ盛りの頃、内部を撮影したサイトも結構ありましたよね。考えてみると裏側が米軍施設だというのに、よくまあそんなリスクを犯して潜り込んだものだと感心・・・というよりは呆れているわけ。今やそのブームも何処という感じですけどね。その点、遊里跡探索はいいですぞ、ブームなんて絶対こないから(笑)
☆かなり空腹でしたのでお店を探したのですが、公園の周辺にはな~んにも無いわけ。石川町方面にかなり戻った処でようやく見つけた仙良庵さんで鴨南うどんをいただきました。美味しかったのですが、鴨の出汁のせいなのか、つゆが関東風とも関西風ともつかぬ不思議な風味でした。後で知ったのですが、かなり有名なお店みたいです。燃料補給しましたので本牧へ・・・と思ったら、目の前に深い谷が・・・。
☆谷というのは大袈裟ですが、かなりの高低差をこんな階段で下っていきます。高低差は大好物ですが、この辺りは戦後になってから開発された地域と思われますので町並み的にはいまいちですので、2.5キロを思いっきり端折って・・・
☆ハイ、いきなり本牧手前に到着。レトロな床屋さんの先に見えるのが本牧通りです。
★本牧通りから分岐する脇道で見つけた謎の千代崎□市場。正しくは千代崎町市場なんだそうで、所謂横丁建築の一種、どん詰まりの通路の両側にお店が並んでいたそうです。
★しかし、4年前に最後のお店が閉店し現在の寂しい姿になってしまいました。歴史を遡ると大正15年(1926)までいくという由緒正しきものなんだとか。往時は近所の奥様方で賑わったのでしょうね。
☆月嶋寿司さんの処で分岐していくのが、チャブ屋街の北側を流れている千代崎川、現在は暗渠になっています。
☆花見煎餅さんの鏝絵で描かれた屋号、訪れた二回ともシャッターが降りていたのが気になったのですが、日曜が定休日なんだそうです。
★チャブ屋街手前の脇道の光景、劇画調のフォントが昭和すぎて堪らないわけ。
★此処からチャブ屋街跡・・・本牧通りから脇道に入ると見えてくるのが、日の出型看板建築のスナックオリエントさん。嘗て此処にあったと思われるのが、前書き航空写真の『カ』のアジアなるお店、お隣が『キ』のオークランドになるはずです。現在はアパートのようですが、問題は当時の建物なのかどうか・・・ウーム、何とも判断の難しい物件です。
☆今年の様子・・・まあ、たった二年では変わるはずもないのですが、看板までも全く同じ場所・・・そういうことなのでしょう。
☆チャブ屋が並んでいたと思われる路地を抜けると、さきほどの暗渠になった千代崎川に出ます。手前の駐車場に建っていたと思われるのが『タ』のホテルパシフィック。その先に自由の女神の後ろ姿。
☆駐車場にはなぜかキャスター付の椅子が一脚。近所のお爺ちゃんが日向ぼっこでもするのでしょうか。
★自由の女神の正体は横浜ロイヤルホテルさん、界隈に残る唯一のホテルになります。嘗て此処にあったのが『ツ』のパークスローヤルになります。よく似た屋号ですが、何か関係があるのでしょうか。すましたニャンコと一緒に。
☆よくよく見たらロイヤ『レ』だった(笑)自由の女神とくると、よくインター脇に見えたりする派手なホテルを想像しがちですが、コチラはいたって普通のホテルですのでお間違いのないように。普通のホテルというのも変な表現ですけどね。
☆近くにあるのが長屋形式の飲み屋さんが入ったレトロな物件、一見すると鉄筋コンクリート造に見えますが、後ろの片流れ屋根を見えれば木造だということが判ると思います。手前の駐車場に建っていたのが『フ』のパラマウントホテル、このお店のことよく覚えておいてくださいね。
☆レトロに見えますが、おそらく界隈が色街としての終焉を向かえた後に建てられたものだと思います。
☆その先、『マ』のフジホテルなどが並んでいた通りの中ほどに、水色外壁のアパートがあります。此処には『モ』のホテルパークが建っていたのですが、地図を見てビックリ、このアパート、パーク荘というのです。どうやら屋号だけが引き継がれたようです。もちろん建物は当時のものではありません。
☆通りを抜けると再び千代崎川の暗渠、洗い出し風の左官仕上にアーチ窓が並ぶ退役済みと思われる床屋さんが面しています。
☆ポーチには市松模様のモザイクタイル、縁取りを兼ねた段鼻にはスクラッチタイル、ノンスリップ効果を狙ったのかな。
☆『リ』のホテルモナコがあった細い路地も探ってみたのですが、あったのはベコベコになったトタンだけでした。
★路地を抜けると屋根が欠けた白い廃屋。奥の平屋などは間違いなくチャブ屋が現役の頃からのものだと思われます。
★白い廃屋の玄関廻り、これが結構モダンだったりするわけ。以上が嘗て隆盛を極めたチャブ屋街の現在の姿、70年ほど前には米兵が大挙して押し寄せたとはとても思えないほど、静かな一画に変貌しておりました。でも、わずかながらですが独特な空気感は残っているような気がしましたよ。
☆帰りは本牧通りの南側を並行しているクネクネ道を辿っていきましょう。この通りも嘗ては川だったのではないでしょうか。途中にある平屋の看板建築、大切に使われているというのがよく判りますね。
★その先で左折すると山手駅までは真っ直ぐです。中ほどにあるのが、利休鼠っぽいタイルがモダンないなり湯さんです。正面じゃなくて両脇から入るというのが結構珍しいのではないでしょうか。黒湯の天然温泉に浸かれるそうです。
★近くで見つけたお稲荷さん、いなり湯さんの屋号の由来はコチラかもしれませんね。
以上が嘗て隆盛を誇ったチャブ屋街跡の探索になりますが、遺構がほとんど残っていなくてちょっと物足りなかったでしょ?というわけで此処からはお約束したオマケになります。久しぶりになりますが、手元のカストリ雑誌に本牧チャブ屋街の記事がありましたのでそれを紹介したいと思います。舞台となっているのは、『フ』のパラマウントホテル、酷い印刷状態ですが、外観に加えて貴重な部屋と浴室の写真もありますよ。まあ、お暇だったら読んでくださいな。
横浜の本牧ホテル街探訪-チャブ屋復活(読切ロマンス1954年2月号)
懐しの本牧
「どうです?本牧の茶ブ屋を探訪してくれませんか?」
と、編集子に云われた私は、思わずニコリとした。若い頃は横浜に住んでいたので、本牧にはちよいちよい遊びに行ったものだ。ホテルの窓から海を眺めながら、彼女と語った懐しい思い出の街である。
その本牧が復興したと聞きながら、貧乏閑なしで、今日迄行って見る機会のなかった私である。その私に「探訪せよ」とは、「無料ではない、いくらかやるぞ」ということだから、ニコリとしたわけだ。云うなれば、他人から日当を貰って、昔の恋人に会いに行く様なものだ。だから私は「ホイ来た善は急げ」と、時を移さず、国電に飛び乗って、横浜へ吹飛んだ。
桜木町で下車して、本牧行きの市電に乗り、小港の停留所に降り立って、ホテルは何所と眺むれば、あったあった、元の場所に、ショウシャな洋館が立並んでいる。
「あれが、ホテルですね?」
と、通りかゝった娘さんに尋ねると以外にも怪げんな顔をして。
「いゝえ、あれはアメリカの人達の住むハウスです」
と笑って、二三丁手前の方を指さしながら、
「そら、あそこに見えるでしょう、立派な洋館、あれが新しく出来たホテルです」
位置が変ったのを知らなかった私は暫し立止って、昔の茶ブ屋街を瞼に描いて見た。
人家の間に散在した懐しいあのホテルこのホテル、外人と手をつないで歩くアイノコ娘、塀を越して静かに流れて来るブルースのメロデイ―――
思い出は果しなく続く。然し眼を開けば、静まり返った一面の外人住宅、あゝ有為転変の世なる哉。
後を振返りつゝ電車通りをもどること二丁ばかり、「その寺の横丁を入って・・・」と人に教えられて右に曲ると、既に何々ホテルと大きく記された看板がいくつも見える。お嫁入りした恋人の住居を尋ねあてた様な気分である。胸をワクワクさせて歩くと、向うから黒人兵と仲良く手をつないだガールが、ガムをかみながらやって来る。左へ曲ると、もうホテル街の中心と見えて、一般の民家は一軒もなく、豪壮華麗な米式建築がズラリと建ち並んでいる。そうして、そこにもこゝにも、立派な自動車が停っている。通る人は、大抵アメリカの兵隊さんばかりだ。
「丸でアメリカにでも来た様だ」
いささか面喰ってともかくホテル街を一巡したが、「やア」と声をかけて入れる様なホテルは一軒もない。たまにガールらしい女に合っても、ウインクはおろか、見向きもしてくれない。「これが若し東京の新宿だったら・・・」と、不断はうるさく感じた「兄さん一寸・・・」の声が、なつかしくなった程、ここのガール達は、ツンとすましている。
「日本人は駄目らしい」
情ない気持になって、私はしょんぼり電車通りに出て行った。
乾物屋さんの話
「やア、田川さんじゃないか」
声をかけられたので振向くと、四十過ぎの男がニヤニヤ笑っている。瞬間には気がつかなかったが、鼻の下にイボがあるのを見て、やっと思い出した。以前、西戸部に住んでいた頃、防空演習で知合った男である。当時は区役所に勤めていたが、今は本牧で乾物屋をやっているというので、
「ホテルの探訪に来たのですが、一向にとりつく島がなくて・・・」と、窮状を訴えると、
「ホテルのことだったら、私がよく知っています」
と喫茶店に入って、色々と話してくれた。
その話によると、二十五年頃からポツポツ建ち始めて、現在では五十軒ばかり、ガールの数は五百人くらいで、女学校卒業が半分以上も居るそうである。
ビールは一本二五〇円、ウイスキーは一杯一〇〇円と云った相場。客筋は外人七割、日本人三割と云った割合で、米兵が横浜から移動した後も、殆んどこの割合は変らない。玉代は、ショウトが一〇〇〇円、一時間なら一五〇〇円、二時間なら二〇〇〇円という風に、一時間増す毎に五〇〇円宛高くなる。
泊りは三五〇〇円夕方の五時頃からだと、四〇〇〇円、十二時以後だったら二五〇〇円位でも泊める場合もある。これが大体の標準だが、時と場合、交渉のしようによっては、もっと安く泊れることもある。
食事は、客の希望により、オムレツ、ビフテキ、サンドウィッチ等を誂えて呉れるが、余り凝ったものは出来ない。一食一五〇円から三〇〇円位迄、客の注文に応じて安いのも高いのも出来る。
ガールは、二食で一日一〇〇円の食事代の外は、室代も何もいらず、玉代を主人と折半して、一月二万円から十万円位の収入がある。その外に、サービス次第では、靴や洋服を、客から買って貰える場合もあるから、それ等の副収入を入れると、莫大な収入になるわけだが、親兄弟にせびられたり、浪費したりして、その割に貯金は出来ないらしい。
客の中で、最も喜ばれるのは、朝鮮帰りの兵隊で、大抵五十万円位は持っている。ホテルでは、「朝鮮ボケ」と云っている。朝鮮から朝霞に帰って来ると、希望により、バスで横浜に輸送され、長者町の米軍宿舎RRセンターに収容され、ここからホテルへ来て泊るが、大抵三日や五日間は居続ける。何時死ぬか分らないので、金払いもよく、ポンと五日間の宿泊料を前払した上、ガールに色々買ってやるので、大いに歓迎されるわけだ。
これに反して土地の兵隊は金を僅かしか持って居らず、月の半ば頃迄に大抵月給を使ってしまって、月末にはぐんと足が遠のくそうだから、日本人が行くなら、月末を狙うに限る。料金も負けてくれるそうだ。
「まあ大体こんなところですよ。細いことは直接行って聞いて見て下さい」
と云うのだが、「どうも気がひけて・・・」と頭をかくと、
「なアに、ビールの一本も飲めば、酒場の満ママさんが話してくれますよ。なんなら紹介してあげましょうか?」
と云う。私は早速紹介の名刺を貰って、又ノコノコとホテル街へ引返した。
『パラマウント』ホテルで・・・
紹介してくれたホテルは、「パラマウント」という一階建、比較的小さい構えなので、入るのに気楽である。扉を排してホールへ入ると、居る居る、洋装の美人がヅラリと椅子にかけていて、
「いらっしゃいまし」
と、愛想よく迎えてくれた。五時頃だったが、まだ客は一人も来ていなかったので、これ幸と、ママさんに名刺を出すと、
「あら、あの方とお知合ですの。さア、どうぞ・・・」
と、椅子をすゝめてくれる。昔とった杵ヅカというのか、入ってしまえば案外平気である。先ずビールを注文して、
「日本人が入って来て、嫌われるかも知れませんが」
と、皮肉を云うと、
「あら、もうあなた、独立国になってアメリカの兵隊さんも、ぐっと減ったんですもの。日本人を嫌ったんでは、商売になりませんわ。この通り、今店に出たばかりのホヤホヤなんですのよ。どうぞ選りどり見どり、どれでもお好きな娘を恋人にしてあげて頂戴」
よし来た、と行きたいところだが、今日はそのつもりで来たのではないから、
「本当に綺麗な方ばかりですねえ」
と、ニヤニヤしながら、順々に一人一人顔を見る。みんな朗かで、溌ラツとしている。然し、柄はみんな小柄である。外人相手なら、大柄に方が向くだろうに・・・と思っていると、ドヤドヤッと、兵隊の一団が入って来た。
「ハロー」「カムイン」「グットナイト」等ガール達は、口々に挨拶して、俄かに活気ずく。宛も池の鯉が、餌を投げられた時の様である。ビールを飲むもの、踊るもの、抱き合ってキッスをするもの、探訪記者には有難い場景である。
それも束の間、一人一人女をつれて奥へ入ったのだ。私は一人ぼっち、
「ママさん、私はどうしてくれるのです?」
と、冗談云うと、
「お気の毒様、早く乗らなきゃ、ひとが乗るってね、ふゝゝゝゝ」
と笑って、彼女は煙草を私にすゝめ
「でもあなたは、泊る気はなかったのでしょう?」
「どうして?」
「お目が、そう云っていますもの」
「へーえ」
「長くやっていますと、一目見たばかり、ちゃんと分りますのよ」
正に、道によってかしこしである。面白いと思って色々聞いて見る。
「ガールさん、どんなタイプが好かれますか?」
「そうね、矢張可愛い感じの娘でしょうね。でも、それだけでは駄目ね、ウイットがあって、朗かで、矢張一通り利巧でなくては・・・。それから、大柄の女は、絶対と云ってよい位、好かれませんねえ」
「どういうわけでしょう?」
「ふゝゝ、大方あのせいではないかしら」
日本人、ずっと身体が小さいのだから、大柄でもよさそうなものだが・・・と、一寸不審に思う。
「でもね、面も拙ければ愛嬌もないのに、とても好かれる娘もあるんですのよ。床惚れというわけなんでしょうかね」
「成程。黒人はどう扱っています?」
「黒人兵は、それ専門のホテルがありますから、そちらの方へ廻しています。でも、たまに水兵さんなんか、白と黒が一緒に来ることがありますの。その時は、いくらなんでも、白は内、黒は外と、節分の厄払い見たいなことも云えませんので、多い時は別ですけど、五人来て、一人だけ黒の場合なんかは、融通をきかしていますの。絶対にいやだと云う娘もありますが、中には同情して、いゝわ、あたしが引受けてあげるわ、という娘もありましてね」
「成程。それでどうなんでしょう。今までの習慣では、客が一人の女と遊ぶと、次に来た時も、その女とでなければいけないということになっていた様ですが・・・」
「それがいゝのでしょうが、相手が兵隊さんですからそんなわけに行きませんの。来る度毎に女を変えるお客さんもありましてね。五回も遊んだ女を振って、他の女に乗りかえる人だってありますものね。女は無論怒りますけど、お客さんの自由意志は、出来るだけ尊重する建前で居ますの。その代わり女の方だって、気に食わなければ、いやだと断ることもありますからね」
「彼女達、非常に明朗に見えましたが、本牧では、どの女も、みんなあんなに明るいのでしょうか?」
「皆さん、よくそんなにおっしゃって下さいますわね。その原因は色々あると思うんですけど、最も大きな原因は、公娼廃止によって、身分が自由になったことでしょうねえ。気に入らなければ、いつでも出て行ける、どこにだって行ける、隣のホテルだって行けるんですからね。それからもう一つは、お金持の国、自由の国のアメリカさん相手ですから、自然と朗かになったのだと思いますね。それに、このホテルは、規模が小さいだけに、まとまりがよく、みんな仲よくやっていますので、特に気持がおだやかなのかも知れませんわね」
「何か特にモットーがありますか?」
「はア、私のホテルでは、お客さんに家庭的な気分を与えるということに、特に努めて居ります」
成程、そう云えば、ママさん自身に「母親」と云った様な暖か味が感ぜられる。
ガールと語る
「ガールさんの室を見たいのですが・・・」
と、虫のいゝことを云うと、
「丁度、玉はおろしたが、一寸出て来ると云って、昨夜も帰って来なかったお客さんがありますので、その娘の室をお目にかけましょう」
と、親切なママさんは席を立った。五日間の宿泊料を前払して、途中外泊するとは解せないが、喧嘩でもして、多分モンキーハウスに打込まれたのであろう、とママさんは云う。
彼女が、室の前に立って、扉をノックすると、ガールが出て来た。京マチ子型の美人である。ママさんがわけを話すと彼女は直ぐにOK、
「どうぞお入りなさい」
と、私の手をとる様にして、招じ入れた。
「どうぞごゆっくり」
ママさんが去ると、私は煙草に火をつけて、室の中を見廻した。広さは六畳位、壁によせてベッドが置いてあり枕机には、青磁の花瓶にカーネーションが活けてある。その真赤な色が、真白なベッドカバーと対照して、極めて印象的だ。ベッドと反対側の壁によせて、洋服ダンス、そして、その間に卓子と椅子二脚。これだけが、ホテルの備品で、あとの蓄音器とラジオと鏡台とは、ガールの私物だそうだ。
「このホテルへ来て、どの位になります?」
「そうね、そろそろ三年になりますね・・・」
「三年も一ヶ所に居るのは、長い方ではないんですか?」
「そうね。まア長い方でしょうね。でも、ホテルにはそんな人が沢山居ますのよ。居心地がいゝのね」
「どんな点でしょう?」
「ママさんがいゝ人だからね。あの方、私達に親切で、無理をさせないのよ。自分の家に居る様な気持で居られるのね。それにあの方、英語がペラペラでしょう。ですから兵隊さんと話しても、細かいことを呑みこませることが出来るの。それで、放っといたら帰ってしまうお客さんでも遊んで行くし、御機嫌を損ねた兵隊さんでも、直ぐ気持がほぐれますのよ。それが結局、お店のためにもなれば、私達のためにもなりますのね」
ママさんとは、所謂遣手婆さんのことだが、このママさんというのは、まだ三十七八位の綺麗な女で、ホテルの支配人と云った地位にある様だ。その人が、こんなに評判がよいとなると、ホテルはさぞかし繁昌であろう。
「外人を相手にすると、日本人はミミッチくて、面白くないでしょう?」
「いゝえそんなこと。私は日本人の方が好きなんですのよ。金の点では、色々物を揃えてくれますから、外人の方が得ですけれど、矢張気持の方がね。でも、たまに日本人のお客さんと遊ぶと、なんだか勝手が違って・・・細い神経を使わなければならないでしょう、気持や言葉がよく分るだけに・・・。外人だと簡単にすみますものね」
いつまでも話して見たかったが、「旦那」が帰って来ると拙いので、この辺で引上げた。
ビール一本で、これだけの探訪が出来たのはもっけの幸い、若しあのまゝ帰っていたなら、なんて無愛想な本牧だろうと思ったに違いない。中へ入って見れば、どうしてどうして、仲々人情味あふれるばかり、さすがにやっぱり本牧だけあると、私は厚くママさんにお礼を云って帰った。