電飾付養生シートの一夜城!?・遊廓ではなく歓楽街?・ヒューム管製SL公園
今時の子供って、こういうので喜ぶのでしょうか。
今回からしばらくお付き合いいただくのは伊勢三重シリーズ。関東の人間だからというわけではないのですが、三重県のイメージってよく言うとミステリアス、悪く言うととても地味・・・県民の皆さんご免なさい。そのくせ松阪牛を筆頭に伊勢えび、はまぐり、伊勢うどん、赤福といった感じでとんでもないド派手な隠し玉を持っているわけです。あ、有名すぎて隠し玉になってないか、相変わらず食い意地ばかり張っていて申し訳ない。まあ、簡単に言えばよく判らない県ですな、訪れたのも初めてでしたし。でもそれのほうがかえって旅情を誘うというものです。
そんな三重県の遊里ですが、お馴染『全国遊廓案内』を見ますと、規模の大小に係らず全ての町を網羅するような勢いで紹介されているのです。数にして25・・・どんな町にでも必ずそういった場所があったはずというのが持論ですが、まさしくそれを証明しているような状況なわけ。どうして三重県だけをそんなに熱心に調査したのかは判りませんが、今回はその中から主に県央から県北にかけての町をピックアップしてジックリ巡りたいと思います。
初っ端は県のほぼ中央、志摩半島の付け根に位置する玉城町。元々は田丸町でしたが、昭和30年(1955)に東外城田村、有田村の一部と合併して誕生したのが現在の玉城町になります。町の中心の西、小高い丘の上には北畠親房、北畠顕信が築いたとされる田丸城がありました。明治維新の廃城令で天守閣は壊されてしまったようですが、石垣や外堀・内堀・空掘などが比較的良好な状態で保存されている城址になります。町中を伊勢本街道(参宮街道)・初瀬街道・熊野街道という三本の街道が通っていましたので、宿場という顔を持つ町でもあったようです。往時は相当賑わったようですから、遊里が存在しないわけありませんよね。
『田丸町遊廓 三重県度会郡田丸町字田丸に在つて、関西線亀山駅より参宮線に乗換へ田丸駅で下車すれば西南へ約二丁の処である。田丸は久野丹波氏の城下で、熊野及参宮街道の宿場である。汽車の無い時分には旅行者で相当賑はつたと云ふ事だ。此処の貸座敷は今でも宿場に成つて居て、遊廓としての適用は無い。同業者が四軒あつて娼妓は二十人居るが、殆んど本県下の女計りである・・・貸座敷には山一楼、いろは楼、錦花楼、金波楼等がある。町には田丸城址、孔子廟等がある。「昔話の寒川村に、金がたまるの御殿様(寒川村は田丸の前名)汽車の窓から道者がのぞく、昔忘れぬ女郎花」』
以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になりますが、お気付きになりましたでしょうか?そう、『遊廓としての適用は無い』という謎の一文です。お上の許可が下りなかったのか、届出をせずすっとぼけて営業していたのか・・・それでも遊廓と名乗っている摩訶不思議な状況なわけ。じゃあいったい何だったんだという話にもなるわけですが(笑)駅から西南へ二丁とのことですで、地図上でおそらくこの辺りだろうという感じで訪れたのですが、今回レポを記すためにおさらいをしてみるとこんなものを見つけたわけ。町の観光ガイドにしっかりと『旧歓楽街』と記されているではありませんか。全国遊廓案内の記述のこともあり、遊廓ではなく歓楽街と呼んでいるところに何か意味があるのではないかというのは考えすぎでしょうか・・・。
今回のベースキャンプは津市に設置しました。前日の深夜にベースキャンプ入り、とても県庁所在地とは思えぬ(笑)駅前の光景に驚きながら早朝に発ち、JR紀勢本線で50分ほど、無人の田丸駅に到着です。木造駅舎の駅名看板が国鉄時代のまま、これで町の様子が何となく判るような気がします。
線路沿いの通りを東へ進み、川にぶつかったら北に入ると県道717号線に出ます。これが嘗ての参宮街道、名前のとおりお伊勢参りの旅人が行き来した道です。往時は相当賑わったようですが、残念ながらそれを伝えるような家並みはあまり残っておりません。
その中で一際目立っていたのが、押縁下見板が赤く塗られたコチラの商家。腰には美しい緑のスラッチタイルが貼られておりました。
それの玄関廻り・・・斜めに突き出た隅木に持ち送りのような雲形の装飾がありますね。他の部材に比べて新しいような・・・オリジナルではないかもしれません。
その先で旧街道は鉤形に曲がっています。途中にご自由にお使い下さいと記された井戸がありました。
ちょっと行くと田丸城址の外堀にぶつかります。それを渡ると通りの脇にコレが鎮座しておりました。C58の414号機・・・嘗て参宮線にも同型機が走っていたそうですが、この414号機は昭和48年(1973)まで北海道を走っていたものになります。
古くからの城下町ということで、町並みを期待していたのですがね・・・時間が余ってしまったので田丸城址にも寄っていきましょう。思っていた以上に石垣が見事でした。そこまで城址に思い入れがあるわけではありません。天守閣が残っていれば別なのですが、此処は壊されちゃったし・・・って・・・あ、あれぇ???
正体は養生シートで出来た仮設みたいな天守閣でした。これなら一夜で完成しそうですな(笑)手前の金網ゲートもよく判らない・・・。
眺めは素晴らしいですよ。でも、なんか電飾が付いているんですけど・・・。
城址を後にして麓を走る県道530号線に出ました。嘗ての熊野街道になります。前方の踏切を渡った先が目的の場所のはず。
踏切を渡るとすぐに旧熊野街道を示す道標があるはずです。矢印に従って此処で右折。
道なりに進みますと気になる物件が見えてきます。
入母屋屋根のお宅、なぜか玄関が二つありますね。隣には何かのお堂らしきものが並んでいます。
このお宅、水路を渡ってアプローチするのです。
更に進みますと現れるのがこの光景。ハイ、此処が『旧歓楽街』でございます。向かって右に二軒、左に一軒といった感じで遺構と思われる物件が並んでおります。
出格子の下には御影石、とはいえ造り自体は大人しいですな。このあたりも正式な遊廓ではないということが関係しているのかもと思ったのですが如何でしょう。
いちばん立派なのが黒い押縁下見板張りの物件、かなりの大店ですぞ。
入口の欄間には組子のガラス障子が残っておりました。
見上げるとシンプルな手摺がドーン、間口がかなりありますので迫力ありますぞ。
こう見ると明らかに普通のお宅ではないというのが判るかと。
大店の後ろには蔵が付属しています。
近くにあるのが冒頭画像のヒューム管製のSLがある公園、客車が新幹線というのがポイント高いぞ。公園入口には村山龍平翁生誕之地なる碑が立っていました。村山龍平は朝日新聞の創業者、貴族院議員として有名な地元の名士、田丸城址内に記念館があります。『旧歓楽街』のすぐ裏手で生まれたことになりますな。ちゃんと調べたわけではありませんが、出生や育ちが遊里がらみの有名人って結構いますよね。松田優作、小泉純一郎、木の実ナナなどなど、中でも遊里の業みたいなものを全て背負っているかのようなとんでもない怪物がおります。そう、蛭子能収です(笑)
町並みはちょっと残念でしたが、初っ端としてはまずまずだったのではないでしょうか。以上、小さな小さな城下町、玉城の探索でした。このまま隣町に移動、日本人だったら誰でも知っている神様がいらっしゃる町を時間が許すかぎり彷徨います。
今時の子供って、こういうので喜ぶのでしょうか。
今回からしばらくお付き合いいただくのは伊勢三重シリーズ。関東の人間だからというわけではないのですが、三重県のイメージってよく言うとミステリアス、悪く言うととても地味・・・県民の皆さんご免なさい。そのくせ松阪牛を筆頭に伊勢えび、はまぐり、伊勢うどん、赤福といった感じでとんでもないド派手な隠し玉を持っているわけです。あ、有名すぎて隠し玉になってないか、相変わらず食い意地ばかり張っていて申し訳ない。まあ、簡単に言えばよく判らない県ですな、訪れたのも初めてでしたし。でもそれのほうがかえって旅情を誘うというものです。
そんな三重県の遊里ですが、お馴染『全国遊廓案内』を見ますと、規模の大小に係らず全ての町を網羅するような勢いで紹介されているのです。数にして25・・・どんな町にでも必ずそういった場所があったはずというのが持論ですが、まさしくそれを証明しているような状況なわけ。どうして三重県だけをそんなに熱心に調査したのかは判りませんが、今回はその中から主に県央から県北にかけての町をピックアップしてジックリ巡りたいと思います。
初っ端は県のほぼ中央、志摩半島の付け根に位置する玉城町。元々は田丸町でしたが、昭和30年(1955)に東外城田村、有田村の一部と合併して誕生したのが現在の玉城町になります。町の中心の西、小高い丘の上には北畠親房、北畠顕信が築いたとされる田丸城がありました。明治維新の廃城令で天守閣は壊されてしまったようですが、石垣や外堀・内堀・空掘などが比較的良好な状態で保存されている城址になります。町中を伊勢本街道(参宮街道)・初瀬街道・熊野街道という三本の街道が通っていましたので、宿場という顔を持つ町でもあったようです。往時は相当賑わったようですから、遊里が存在しないわけありませんよね。
『田丸町遊廓 三重県度会郡田丸町字田丸に在つて、関西線亀山駅より参宮線に乗換へ田丸駅で下車すれば西南へ約二丁の処である。田丸は久野丹波氏の城下で、熊野及参宮街道の宿場である。汽車の無い時分には旅行者で相当賑はつたと云ふ事だ。此処の貸座敷は今でも宿場に成つて居て、遊廓としての適用は無い。同業者が四軒あつて娼妓は二十人居るが、殆んど本県下の女計りである・・・貸座敷には山一楼、いろは楼、錦花楼、金波楼等がある。町には田丸城址、孔子廟等がある。「昔話の寒川村に、金がたまるの御殿様(寒川村は田丸の前名)汽車の窓から道者がのぞく、昔忘れぬ女郎花」』
以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になりますが、お気付きになりましたでしょうか?そう、『遊廓としての適用は無い』という謎の一文です。お上の許可が下りなかったのか、届出をせずすっとぼけて営業していたのか・・・それでも遊廓と名乗っている摩訶不思議な状況なわけ。じゃあいったい何だったんだという話にもなるわけですが(笑)駅から西南へ二丁とのことですで、地図上でおそらくこの辺りだろうという感じで訪れたのですが、今回レポを記すためにおさらいをしてみるとこんなものを見つけたわけ。町の観光ガイドにしっかりと『旧歓楽街』と記されているではありませんか。全国遊廓案内の記述のこともあり、遊廓ではなく歓楽街と呼んでいるところに何か意味があるのではないかというのは考えすぎでしょうか・・・。
今回のベースキャンプは津市に設置しました。前日の深夜にベースキャンプ入り、とても県庁所在地とは思えぬ(笑)駅前の光景に驚きながら早朝に発ち、JR紀勢本線で50分ほど、無人の田丸駅に到着です。木造駅舎の駅名看板が国鉄時代のまま、これで町の様子が何となく判るような気がします。
線路沿いの通りを東へ進み、川にぶつかったら北に入ると県道717号線に出ます。これが嘗ての参宮街道、名前のとおりお伊勢参りの旅人が行き来した道です。往時は相当賑わったようですが、残念ながらそれを伝えるような家並みはあまり残っておりません。
その中で一際目立っていたのが、押縁下見板が赤く塗られたコチラの商家。腰には美しい緑のスラッチタイルが貼られておりました。
それの玄関廻り・・・斜めに突き出た隅木に持ち送りのような雲形の装飾がありますね。他の部材に比べて新しいような・・・オリジナルではないかもしれません。
その先で旧街道は鉤形に曲がっています。途中にご自由にお使い下さいと記された井戸がありました。
ちょっと行くと田丸城址の外堀にぶつかります。それを渡ると通りの脇にコレが鎮座しておりました。C58の414号機・・・嘗て参宮線にも同型機が走っていたそうですが、この414号機は昭和48年(1973)まで北海道を走っていたものになります。
古くからの城下町ということで、町並みを期待していたのですがね・・・時間が余ってしまったので田丸城址にも寄っていきましょう。思っていた以上に石垣が見事でした。そこまで城址に思い入れがあるわけではありません。天守閣が残っていれば別なのですが、此処は壊されちゃったし・・・って・・・あ、あれぇ???
正体は養生シートで出来た仮設みたいな天守閣でした。これなら一夜で完成しそうですな(笑)手前の金網ゲートもよく判らない・・・。
眺めは素晴らしいですよ。でも、なんか電飾が付いているんですけど・・・。
城址を後にして麓を走る県道530号線に出ました。嘗ての熊野街道になります。前方の踏切を渡った先が目的の場所のはず。
踏切を渡るとすぐに旧熊野街道を示す道標があるはずです。矢印に従って此処で右折。
道なりに進みますと気になる物件が見えてきます。
入母屋屋根のお宅、なぜか玄関が二つありますね。隣には何かのお堂らしきものが並んでいます。
このお宅、水路を渡ってアプローチするのです。
更に進みますと現れるのがこの光景。ハイ、此処が『旧歓楽街』でございます。向かって右に二軒、左に一軒といった感じで遺構と思われる物件が並んでおります。
出格子の下には御影石、とはいえ造り自体は大人しいですな。このあたりも正式な遊廓ではないということが関係しているのかもと思ったのですが如何でしょう。
いちばん立派なのが黒い押縁下見板張りの物件、かなりの大店ですぞ。
入口の欄間には組子のガラス障子が残っておりました。
見上げるとシンプルな手摺がドーン、間口がかなりありますので迫力ありますぞ。
こう見ると明らかに普通のお宅ではないというのが判るかと。
大店の後ろには蔵が付属しています。
近くにあるのが冒頭画像のヒューム管製のSLがある公園、客車が新幹線というのがポイント高いぞ。公園入口には村山龍平翁生誕之地なる碑が立っていました。村山龍平は朝日新聞の創業者、貴族院議員として有名な地元の名士、田丸城址内に記念館があります。『旧歓楽街』のすぐ裏手で生まれたことになりますな。ちゃんと調べたわけではありませんが、出生や育ちが遊里がらみの有名人って結構いますよね。松田優作、小泉純一郎、木の実ナナなどなど、中でも遊里の業みたいなものを全て背負っているかのようなとんでもない怪物がおります。そう、蛭子能収です(笑)
町並みはちょっと残念でしたが、初っ端としてはまずまずだったのではないでしょうか。以上、小さな小さな城下町、玉城の探索でした。このまま隣町に移動、日本人だったら誰でも知っている神様がいらっしゃる町を時間が許すかぎり彷徨います。