神都は横丁建築の宝庫・人の魂を奪う遊廓!?・川沿いの趣きある町並み
さすが神都、オフシーズンでも結構な賑わいでした。
田丸駅からJR参宮線で10分ほど、伊勢市駅に到着です。お伊勢さん、大神宮さんと親しみを込めて呼ばれる神様の本拠地でございます。伊勢神宮ではなく単純に神宮と呼ぶのが正しいそうですな。おそらく日本で最も知名度がある神様だと思いますので、此処であれこれ記すのはやめておきます。書き出したらきりがありませんので、どうかご理解くださいませ。決して手抜きではありませんぞ。まあ、寺社関係にそこまで興味がわかないというのが正直なところだったりするわけ・・・言ってはいけないことかもしれませんが。
別名神都とも呼ばれる伊勢市ですが、元々は宇治山田市だったというのはご存知の方も多いかと思います。昭和30年(1955)、周辺の町村との合併で誕生したのが伊勢市という名称になります。個人的には直球すぎる名前でかなり気に入らないわけ(笑)この町が神宮の門前町として古くから栄えてきたというのは言うまでもありません。ご存知のとおり神宮は20年に一度、式年遷宮という大祭が執り行われます。普段でも参拝客で賑わっておりますが、これが式年遷宮となるととんでもないことになります。2年前にこの大祭が行なわれましたので、凄まじい混雑の様子がニュースなどで紹介されていましたよね。町はこれによって一気に潤うわけです。もちろんその中には遊里が含まれていることになります。それについてはその2のほうでお話することしまして、とりあえず駅前に降り立ったわけですが、観光客の皆さんは徒歩5分ほどの外宮に真っ直ぐ向かうようです。しかし、このひねくれたブログです。真っ直ぐ向かうわけありませんがな・・・だって見つけちゃったのですもの。
見つけちゃったというのが、伊勢駅前商店街なる横丁建築。こんなのあったら放っておけないでしょ。
中はこんな感じ・・・飲み屋さんがほとんどのようですが、現役かどうか判断しずらいお店ばかり。
円窓に手書きで屋号が描かれておりました。
とても美しい玉石タイルを見つけましたよ。
近所の方が普通に近道として通り抜けていきます。夜はどんな感じになるのでしょう、帰りにもう一度寄ってみましょうか。
まだまだお伊勢さんには参りませんよ。今度は線路沿いの通りを南東に少し行きますと・・・
ベージュの二丁掛風タイルに包まれた端正な近代建築が見えてきます。近鉄山田線の宇治山田駅舎、昭和6年(1931)竣工、設計は元鉄道省建築課長の久野節、国の登録文化財です。間口130mあまり、当時はまだ珍しい鉄筋コンクリート造の駅舎になります。
エントランス廻りとそこから延びる二階の外壁は、クリーム色のテラコッタで装飾されているのですが、近付くとキャノピーが邪魔をして二階部分が見えなくなってしまうのがちょっと残念。
中央コンコースは二層吹抜の見事な造りです。八角形のハイサイドライト、何かの花を模したと思われるシャンデリア、柱と梁が交差する部分のくり型装飾、シンプルでいてとても落着く空間になっております。
一層上がったところにある臨時改札の待合スペース、初詣などのオンシーズンはコチラも使われるようです。椅子の色配置が妙に気に入ってしまったわけ。同じ二階には貴賓室もあることから判りますが、JR伊勢市駅(旧山田駅)よりはどちらかというとコチラが神都の表玄関という位置づけみたいですね。実際、近鉄線のほうが本数多いですし、運賃もお得ですから。
外に出てもう一度外観を観察・・・パラペットにもテラコッタが使われ、笠木にはスパニッシュ瓦が乗っています。タイルに劣化や剥落がほとんど見られないのが素晴らしいなあ。嘗てペントハウスには市の消防本部が入っていて、火の見櫓代わりにしていたそうです。
駅前に重厚な入母屋屋根、旅館か料亭と思ったら真珠の製造販売店でした。食べ物以外にもとんでもない隠し玉がありましたねえ(笑)
そして、この駅前にも明倫商店街なる横丁建築があるのですぞ。
まあ、どちらかというとアーケード街と言ったほうが正しいような気もしますが、細かいツッコミは無しの方向でお願い致しますぞ。以前はめいりん村と呼ばれていたようですが、名前が変わったみたい。
シャッターが降りたままのお店も目立ちますが、お婆ちゃんのブティック的なお店はバリバリの現役でした。先には八百屋や魚屋などもありましたよ。
グルリと回り込むともう一本の通路、この出口も駅前に面しています。
コチラは飲食店関係が多いようです。屋根の造りが面白い、中央を走っているのは谷樋です。両側からの雨水を受けているということになりますが、できる限り谷樋は造らないというのが建築のセオリー。まあ、此処の場合は下が部屋ではありませんからいいんじゃないでしょうか。
通路にはみ出した小さな居酒屋が妙に気になりました。
明倫商店街の裏手にあるのが悲劇の大投手、沢村榮治の生家跡。出身が神都だったとは全く知りませんでした。小さい頃は野球少年でしたが、歳を重ねるに従って全く興味が無くなってしまいました。高校野球は好きなんですけどね、なんでだろう・・・。
近くで見つけたひょろ長いお宅、中はどうなっているのでしょうね。
いつまでも道草を食っていると神様に怒られそうですので、そろそろ外宮に向かうと致しましょう。
外宮参道の手前で見つけたべんがら色、戸袋に矢羽根の造作があるのお判りなるでしょうか。しかし、表に回ってみるとコチラも真珠の宝飾店でした。
外宮参道に面しているのが冒頭画像の旅館山田館さんです。豪壮な木造三階建て、別々の三棟が並んでいるように見えるのが面白い。
山田館さんは大正初期の創業、昭和2年(1927)の増改築で現在の姿になりました。昔の写真を見ますと、以前は似たような造りの旅館が軒を連ねていたようです。現在の参道で往時を物語るのはコチラぐらい、貴重な建物だと思います。
近寄ってみますと結構ガタがきているような・・・様々な法的規制がかかってくると思いますが、直せるところは直しておいたほうが宜しいのでは。
外宮のすぐ手前、周囲の雰囲気から多少浮いているように見えるスパニッシュ瓦葺きの洋館があります。旧山田郵便局電話分室、大正12年(1923)竣工、設計は逓信建築で有名な吉田鉄郎。現在はフランス料理店ボンヴィヴァンさんになっております。山小屋風とでも申しましょうか、不思議な屋根の架構、端部には反りも入っております。その一方、窓の配置はドイツ表現主義を彷彿とさせるものがあったりして・・・まあ、簡単に申せばかなり好きな近代建築ということですよ。
建物はコの字のプランになっております。珍しく事前にボンヴィヴァンさんチェック済みでして、お昼は此処でと決めてやって来たのです。しかし、正午になったばかりだというのに満席の表示・・・ほらね、馴れないことするとこういうことになるわけ。いつもの行き当たりばったりがお似合いか・・・自嘲しながら見回すと、目に飛び込んできたのが『豚捨』の文字。と、とんすて・・・正しくは『ぶたすて』だそうで、豚を飼っていた捨吉が食肉店を始めたからというのが屋号の由来になっているそうです。現在はその名のとおり豚は扱っておらず、伊勢和牛専門の地元ではちょっと知られたお店みたい。上牛丼を所望、目の前のオープンキッチンみたいな厨房で、一人前ずつ小さな鍋で作ってくれます。所謂焼き牛丼の一種、関東限定かもしれませんが、ほら東京チカラめしってありますでしょ。あれをイメージしていただければ宜しいかと、まあ肉の質は段違いですけどね。ちょっと量があれでしたが、おいしゅうございました。
燃料補給できましたので外宮に参拝していきましょう。外宮の本体である豊受大神宮、鳥居の向こうは神様の領域、ご存知の方も多いと思いますが撮影禁止です。オフシーズンでこの人出、オンのときなんて絶対無理ですわ。
東側の更地、2年前まではコチラに神様がいらっしゃったというわけです。式年遷宮の意義については様々な説があるようですが、建築技術の伝承という面からすれば非常に意味深いことだと思いますよ。
その1はここまで、外宮の次に南の山側に入った古市の内宮に参拝するのが正しいお伊勢参りのルートなのですが、この普段から神も仏もないと信じている男はこのまま遊里跡探索に行ってしまうわけ・・・とんでもない奴でしょ(笑)まあ、内宮は古市の遊廓跡と二見浦の旅館街と合わせてまた次回ということでお許しくだされ。
さすが神都、オフシーズンでも結構な賑わいでした。
田丸駅からJR参宮線で10分ほど、伊勢市駅に到着です。お伊勢さん、大神宮さんと親しみを込めて呼ばれる神様の本拠地でございます。伊勢神宮ではなく単純に神宮と呼ぶのが正しいそうですな。おそらく日本で最も知名度がある神様だと思いますので、此処であれこれ記すのはやめておきます。書き出したらきりがありませんので、どうかご理解くださいませ。決して手抜きではありませんぞ。まあ、寺社関係にそこまで興味がわかないというのが正直なところだったりするわけ・・・言ってはいけないことかもしれませんが。
別名神都とも呼ばれる伊勢市ですが、元々は宇治山田市だったというのはご存知の方も多いかと思います。昭和30年(1955)、周辺の町村との合併で誕生したのが伊勢市という名称になります。個人的には直球すぎる名前でかなり気に入らないわけ(笑)この町が神宮の門前町として古くから栄えてきたというのは言うまでもありません。ご存知のとおり神宮は20年に一度、式年遷宮という大祭が執り行われます。普段でも参拝客で賑わっておりますが、これが式年遷宮となるととんでもないことになります。2年前にこの大祭が行なわれましたので、凄まじい混雑の様子がニュースなどで紹介されていましたよね。町はこれによって一気に潤うわけです。もちろんその中には遊里が含まれていることになります。それについてはその2のほうでお話することしまして、とりあえず駅前に降り立ったわけですが、観光客の皆さんは徒歩5分ほどの外宮に真っ直ぐ向かうようです。しかし、このひねくれたブログです。真っ直ぐ向かうわけありませんがな・・・だって見つけちゃったのですもの。
見つけちゃったというのが、伊勢駅前商店街なる横丁建築。こんなのあったら放っておけないでしょ。
中はこんな感じ・・・飲み屋さんがほとんどのようですが、現役かどうか判断しずらいお店ばかり。
円窓に手書きで屋号が描かれておりました。
とても美しい玉石タイルを見つけましたよ。
近所の方が普通に近道として通り抜けていきます。夜はどんな感じになるのでしょう、帰りにもう一度寄ってみましょうか。
まだまだお伊勢さんには参りませんよ。今度は線路沿いの通りを南東に少し行きますと・・・
ベージュの二丁掛風タイルに包まれた端正な近代建築が見えてきます。近鉄山田線の宇治山田駅舎、昭和6年(1931)竣工、設計は元鉄道省建築課長の久野節、国の登録文化財です。間口130mあまり、当時はまだ珍しい鉄筋コンクリート造の駅舎になります。
エントランス廻りとそこから延びる二階の外壁は、クリーム色のテラコッタで装飾されているのですが、近付くとキャノピーが邪魔をして二階部分が見えなくなってしまうのがちょっと残念。
中央コンコースは二層吹抜の見事な造りです。八角形のハイサイドライト、何かの花を模したと思われるシャンデリア、柱と梁が交差する部分のくり型装飾、シンプルでいてとても落着く空間になっております。
一層上がったところにある臨時改札の待合スペース、初詣などのオンシーズンはコチラも使われるようです。椅子の色配置が妙に気に入ってしまったわけ。同じ二階には貴賓室もあることから判りますが、JR伊勢市駅(旧山田駅)よりはどちらかというとコチラが神都の表玄関という位置づけみたいですね。実際、近鉄線のほうが本数多いですし、運賃もお得ですから。
外に出てもう一度外観を観察・・・パラペットにもテラコッタが使われ、笠木にはスパニッシュ瓦が乗っています。タイルに劣化や剥落がほとんど見られないのが素晴らしいなあ。嘗てペントハウスには市の消防本部が入っていて、火の見櫓代わりにしていたそうです。
駅前に重厚な入母屋屋根、旅館か料亭と思ったら真珠の製造販売店でした。食べ物以外にもとんでもない隠し玉がありましたねえ(笑)
そして、この駅前にも明倫商店街なる横丁建築があるのですぞ。
まあ、どちらかというとアーケード街と言ったほうが正しいような気もしますが、細かいツッコミは無しの方向でお願い致しますぞ。以前はめいりん村と呼ばれていたようですが、名前が変わったみたい。
シャッターが降りたままのお店も目立ちますが、お婆ちゃんのブティック的なお店はバリバリの現役でした。先には八百屋や魚屋などもありましたよ。
グルリと回り込むともう一本の通路、この出口も駅前に面しています。
コチラは飲食店関係が多いようです。屋根の造りが面白い、中央を走っているのは谷樋です。両側からの雨水を受けているということになりますが、できる限り谷樋は造らないというのが建築のセオリー。まあ、此処の場合は下が部屋ではありませんからいいんじゃないでしょうか。
通路にはみ出した小さな居酒屋が妙に気になりました。
明倫商店街の裏手にあるのが悲劇の大投手、沢村榮治の生家跡。出身が神都だったとは全く知りませんでした。小さい頃は野球少年でしたが、歳を重ねるに従って全く興味が無くなってしまいました。高校野球は好きなんですけどね、なんでだろう・・・。
近くで見つけたひょろ長いお宅、中はどうなっているのでしょうね。
いつまでも道草を食っていると神様に怒られそうですので、そろそろ外宮に向かうと致しましょう。
外宮参道の手前で見つけたべんがら色、戸袋に矢羽根の造作があるのお判りなるでしょうか。しかし、表に回ってみるとコチラも真珠の宝飾店でした。
外宮参道に面しているのが冒頭画像の旅館山田館さんです。豪壮な木造三階建て、別々の三棟が並んでいるように見えるのが面白い。
山田館さんは大正初期の創業、昭和2年(1927)の増改築で現在の姿になりました。昔の写真を見ますと、以前は似たような造りの旅館が軒を連ねていたようです。現在の参道で往時を物語るのはコチラぐらい、貴重な建物だと思います。
近寄ってみますと結構ガタがきているような・・・様々な法的規制がかかってくると思いますが、直せるところは直しておいたほうが宜しいのでは。
外宮のすぐ手前、周囲の雰囲気から多少浮いているように見えるスパニッシュ瓦葺きの洋館があります。旧山田郵便局電話分室、大正12年(1923)竣工、設計は逓信建築で有名な吉田鉄郎。現在はフランス料理店ボンヴィヴァンさんになっております。山小屋風とでも申しましょうか、不思議な屋根の架構、端部には反りも入っております。その一方、窓の配置はドイツ表現主義を彷彿とさせるものがあったりして・・・まあ、簡単に申せばかなり好きな近代建築ということですよ。
建物はコの字のプランになっております。珍しく事前にボンヴィヴァンさんチェック済みでして、お昼は此処でと決めてやって来たのです。しかし、正午になったばかりだというのに満席の表示・・・ほらね、馴れないことするとこういうことになるわけ。いつもの行き当たりばったりがお似合いか・・・自嘲しながら見回すと、目に飛び込んできたのが『豚捨』の文字。と、とんすて・・・正しくは『ぶたすて』だそうで、豚を飼っていた捨吉が食肉店を始めたからというのが屋号の由来になっているそうです。現在はその名のとおり豚は扱っておらず、伊勢和牛専門の地元ではちょっと知られたお店みたい。上牛丼を所望、目の前のオープンキッチンみたいな厨房で、一人前ずつ小さな鍋で作ってくれます。所謂焼き牛丼の一種、関東限定かもしれませんが、ほら東京チカラめしってありますでしょ。あれをイメージしていただければ宜しいかと、まあ肉の質は段違いですけどね。ちょっと量があれでしたが、おいしゅうございました。
燃料補給できましたので外宮に参拝していきましょう。外宮の本体である豊受大神宮、鳥居の向こうは神様の領域、ご存知の方も多いと思いますが撮影禁止です。オフシーズンでこの人出、オンのときなんて絶対無理ですわ。
東側の更地、2年前まではコチラに神様がいらっしゃったというわけです。式年遷宮の意義については様々な説があるようですが、建築技術の伝承という面からすれば非常に意味深いことだと思いますよ。
その1はここまで、外宮の次に南の山側に入った古市の内宮に参拝するのが正しいお伊勢参りのルートなのですが、この普段から神も仏もないと信じている男はこのまま遊里跡探索に行ってしまうわけ・・・とんでもない奴でしょ(笑)まあ、内宮は古市の遊廓跡と二見浦の旅館街と合わせてまた次回ということでお許しくだされ。