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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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三重県 伊勢市201412 その2

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新道(しんみち)裏手で謎の操舵輪に出会いました。


 『新古町三遊廓 三重県宇治山田市大世古町新道、一ノ木町、曾根町字新町に三ヶ町に存在するので三遊廓の称がある。関西線亀山駅より参宮線へ乗換へ山田駅へ下車すれば西へ約五丁、山田上口駅へ下車すれば東へ約五丁である。山田は大古の昔から飯盛女の盛んな処であつた事は、大神宮様の所在地であると云ふ事と共に有名であつた。人口は約五萬あつて神都としては日本随一である。然し如何に神都であるとは云つても土地の人のみでは貸座敷が二十四軒、娼妓が二百人と云ふ大所帯を何うしてもこなし得る筈は無い。此れは矢張全国から参詣にやつて来る「女ならでは世の明けぬ国」の人々が大勢で持ち合つて居るのだ。山田には新古市の外に古市遊廓と云ふ、昔から有名な遊廓がある。けれども新古市の方がめきめきと発展して、古市の方が反対に徐々に衰微の形を取りつつあるのは、一つには地の利を占めて居る事と、又一つには営業政策の宜しきを得た結果であらふ・・・』

 『全国遊廓案内』から始めさせていただきますが、最初の『新古町』というのはおそらく間違いかと。案内の中にもありますが、内宮近くの古市には古くからの遊廓がありましたので、それに対して『新古市』と名付けたというのが正しいと思われます。興味深いのが文中の『女ならでは世の明けぬ国』という表現です。これは古事記の『日の本は岩戸神楽の始より女ならでは夜が明けぬ国』にかけているのだと思います。ご存知の方も多いと思いますが、天岩戸に引きこもった天照大神を、天宇受賣命(アメノウズメ)の踊りで誘い出したというエピソードですな。要するに日本は女性がいないと始まらないと持ち上げているわけ・・・当り前のことですが遊里も女性がいないと始まらないですからね。日本を代表する神都ということもあって、こういう表現を用いているのだと思います。

 肝心の場所ですが、幸いなことに案内にある町名のいくつかは今も健在です。伊勢市駅の西300mにあるのが、外宮の別宮である月夜見宮。それの裏手、県道37号線とJR参宮線に挟まれた一画に遊廓があったようです。現在の一之木二丁目、大世古二丁目、曽弥二丁目辺りになるでしょうか。大正8年(1919)に発行された伊勢名所図絵にもこの辺りに『三遊廓』と表記されておりました。面白いのが図絵に付属している遊廓の説明文です。『北遊廓 新町、北町、新道の三遊廓にして『新古市』と称す。劇場は北町に帝国座あり、新町に新明座あり。不夜城の艶美、人の魂を奪ふ』・・・人の魂を奪うに思わず笑っちゃったのですが、よくよく考えると妙に納得してしまいました。この頃(大正時代)はどうだったか判りませんが、元々お伊勢参りは人生の一大イベントだったはずです。そりゃ、おのぼりさんが大挙して押し寄せて、魂奪われる者続出だったのではないでしょうか(笑)

 下調べ段階で気付いたのですが、戦後直後に撮影された航空写真が変なのです。建物が妙にスカスカ・・・これはもしかしてと思い調べてみますと、やはり空襲の被害でした。大規模なものは無かったようですが、終戦直前に何度も米軍機が飛来し、中心街の五割が被災しているそうです。これは神都までもが爆撃されたという厭戦感情を人々に知らしめるための作戦だったようです。もちろん神宮は標的から外れましたが、それでも目標から逸れた数発の爆弾が落ちているとか。この空襲で三遊廓は焼失してしまったと考えるのが正しいかと思われます。地図を見るかぎり、その後に行なわれた区画整理や道路拡幅で遊里の面影はほぼ皆無のようですが、それでも跡地は名残的な歓楽街になっているようです。名残だけでもいい、何か見つけられるといいのですがね。

 此処まで書いて重大な間違いに気付きました。三重県は廃娼県なのです。公娼廃止が実施されたのは昭和14年(1939)4月1日のこと。おそらく新古市の三遊廓もこの日をもって廃止になり、業者は料理屋や旅館に転業したのではないでしょうか。その後の空襲で遊廓跡は焼けてしまい、戦後になっても赤線という形では復活せず、跡地に現在の歓楽街が形成されたというのが正しいと思われます。



外宮を後にして、本町の西側の路地に入ったのですが、いきなり現れたコレにはビックリ。



かなり歴史がありそうな築地塀ではありませんか。内側のハーフティンバー風のお宅も気になります。



路地を抜けると情報過多な喫茶ナナさん(笑)此処にやって来たのは、近くに伊勢うどんの名店があるというのを小耳に挟んだからなのですが・・・



案の定、山口屋さんは長蛇の列でした。まあ、どこかで食えるだろうと思っていたら、結局この旅では食べられなかった・・・。



近くの路地で見つけた木造総三階建ての謎物件。路地が狭くてあおりまくり、判りにくくて申し訳ない。



おそらく元旅館だと思います。美しい瑠璃色の瓦、戸袋には左官の装飾があるのですが、袈裟を羽織った坊さんが並んでいるように見えませんか???手摺が洋風ですよね、コレ遺構などでもたまに見かけるものなのですが、個人的には子供の頃使っていた二段ベッドに見えて仕方がないわけ。判る人いるかな。



近くにあるのが醤油と味噌の醸造元の糀屋さん。文化13年(1816)創業という老舗です。押縁下見板の外壁が壮観ですな。



近くにも押縁下見板張りに立派な門を構えたお宅があります。東邸と刻まれた石碑が立っております。古今伝授の祖とされる東常緑関係のお宅みたいなのですが、詳細は不明です。



門の棟瓦には波を模した装飾が施されています。



近くにあるのが大豊和紙工業さん、明治32年(1899)創業、神宮をはじめとして全国の神社のお札などに使う和紙を製造している会社です。ちなみにコチラは裏口。



裏口の門、アールデコの門柱に陶器製の『縦覧謝絶』の表示。古い工場などでたまに見かけるものですが、関係者以外立ち入り禁止と同じ意味で宜しいかと。



近くの公園でまた出会ってしまった(笑)この地方独特のものかもしれませんな。



工場敷地の角に建つ事務所兼和紙ギャラリー、大正期に建てられたもののようです。仕事柄、紙には興味があるのですが・・・残念、土日は休館でした。



工場入口には堂々と神宮御用紙製造場と刻まれた碑が立っています。



向かいの至って普通のお宅には謎のバッハホール・・・何コレ???



巨木に囲まれた月夜見宮、隣では仮囲いの中で作業中・・・コチラのお宮も遷宮するのでしょうか。調べてもよく判らないのですが・・・。



県道37号線を渡って、北側を並行するアーケード街に出ました。名前をしんみち商店街といいます。嘗ては裏手が遊廓だったため、呉服屋や化粧品を扱うお店が軒を連ねていたそうです。しかし、現在はご覧のような寂しい状態、観光コースから完全に外れているのが致命的なのでしょう。



しんみち商店街裏手にあるのがさくら通り発展会、新古市遊廓の中心だったと思われます。現在は町いちばんの歓楽街、とはいえかなり寂れ気味というのは否めません。そこで見つけた元料亭っぽい妻入りの和風建築。



歴史があるように見えますが、おそらく戦後に建てられたものだと思います。引き分け戸の右上には料理店の鑑札が残っておりました。まあ、私も画像を開いてから気付いたのですがね。



その先に間口の広い看板建築・・・と思ったら、これが横丁建築だったというわけ。注目していただきたいのはその向こう。



カフェー建築と決め付けるのにはちょっと無理があるでしょうか。まあ、とにかく変なお店なのです。



通りに面した外壁には鉄平石による太陽?格子がありますが、内側に窓はなく、スモールサイズの太陽があるのです。



外巾木のボツボツをよく見ましたら、これがビール瓶の底だったというわけ。



そしてなんと言っても謎の操舵輪、左手のスチール製のグリルには自火報?が組み込まれているのが面白い。そして、なぜか入口だけは純和風という凝り具合(笑)飲み屋建築、此処に極まれりといった感じですな。



それでは横丁建築を抜けて向こう側へ、妖しい感じは皆無かと思ったら・・・出ました、飲み屋さんではお馴染の気色悪いスタッコ・・・というよりはモルタル吹付と言ったほうが正しいかも。まあ、気色悪いことに変わりはないけど。



通りから通りへ、結構入念に歩いてみたのですが、名残みたいなものは見つけられませんでした。まあ、戦前に遊廓が無くなっていたとすれば納得の結果ですよね。現地ではそのことをまだ知りませんでしたのでかなり疑問に思っていましたが・・・UPする前に気付いてよかった。その3で記しますが『全国花街めぐり』によりますと、新古市では芸妓さんもたくさん活躍されていたそうです。



そんな中、いきなり現れたお城に思わず仰け反りましたわ。ジャズ喫茶城さん、そのまんまですがな(笑)



見た目は古城ですが、もちろんそこまで歴史があるものではありません。数年前まで現役だったのというのが凄い。



回り込むと後ろはコテコテの和風というのが面白いですね。右手に見えるのがしんみち商店街のアーケードになります。



その先の交差点に面したビル。店子さんが全て飲み屋さんのソシアルビルなのですが、凄いですよ、コレ。遠めでも判りますが・・・



ほら、外壁を彩るのはガラスモザイクタイルによる見事な壁画。コチラはフェニックスでしょうか。



反対側は・・・み、みかん!?凄まじい色彩の氾濫にクラクラしてきた。所々補修してありますが、高い処のは諦めちゃったみたい(笑)

その2はここまで、ご覧のとおり魂を奪われるような遺構には出会えませんでしたね。戦前に終わっていたと知っていれば違う行動を取っていたかもしれません。その3でも引き続き同じ一画をもう少しウロウロしてから、今度は駅の反対側、川沿いに残る物資の流通で栄えた古い町並みを、太陽と競争しながら彷徨います。

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