谷樋から漏れた水溜りに看板が写り込んでおりました。
その2で記した新古市遊廓ですが、こんな素晴らしい資料がコチラのサイトにありました。その中の年表に昭和14年(1939)の公娼廃止後の様子が記されておりました。貸座敷は料理店に、娼妓は酌婦に転業とあります。この場合の酌婦とはいったいどういった職種だたのでしょうね。鑑札が廃止になり、給仕婦は白、酌婦は赤、芸妓は緑の証札を携帯することが義務付けられたそうです。芸妓が出てきますが、この遊廓、娼妓と芸妓が混在している遊里だったようです。公娼は廃止されましたが、芸妓まではお上も手は出せなかったはずです。その後は純粋な花街となったのか・・・また、酌婦はどういった位置づけだったのか、大人しくお酌だけをしていたとは到底思えないのですが・・・神都の遊里は謎だらけですな。花柳界の様子については『全国花街めぐり』からの抜粋を置いておきます。
『新古市 芸妓置屋十七、妓楼にして芸妓置屋を兼業するもの四、芸妓一四三名。料理店約五十軒。主なる料亭 千秋楼、戸田屋、貞文、水月楼。右の内千秋楼は県下第一の広壮な建築で、家具計器にも贅をつくし、至極ゆつたりとした気分に富んでゐる、水月楼は常に勅使齋館に充てられ、戸田屋また貴族向きの家で多く大官連が宿泊する。以上はいづれも旅館兼業で、貞文はうなぎの蒲焼を名物としてゐる・・・』
引き続き新古市をもう少しウロウロした後、今度は駅の反対側に行ってみましょう。市内を南北に流れる勢田川沿いに、嘗て物資の流通などで栄えた町並みが残っているそうです。空襲と区画整理の影響で中心街には古い町並みがほとんど残っておりませんので、これから向かう場所は嘗ての山田(伊勢)の姿を感じることができる貴重な処なのです。
三つの町に分かれていたため、別名三遊廓と呼ばれていた新古市ですが、最後に訪れたのは嘗ての新町、現在の曽祢二丁目辺りがそれだったと思われます。そこでいきなりシャープなバルコニーを見つけてしまったわけ。
四つ角に面したファサードはこんな感じ。アールを描く外壁・・・でも、カフェー建築とするにはちょっと無理があるかな?嘗てはこの辺りにも貸座敷が並んでいたようです。
全景はこんな感じ、正面の四つ並んだ装飾の中途半端さが妙に気に入っております。
シャープなバルコニーをもう一度・・・コレ、現代建築でもよく使われる手法でもあります。左の袖壁のタイル目地はもちろんニセモノです。
お年寄りの日向ぼっこ用でしょうかね。その先に見えてきたのが・・・
なんと、またもや横丁建築ではありませんか。宮町名店街なる小さな呑んべえ横丁でございます。
入口廻りに貼られた玉石タイルがかなりの気色悪さ(笑)
此処も谷樋なんだ。一軒のお店では早くもカラオケ全開でした。さて、そろそろ次の目的地に向かうと致しましょう。
近鉄線の高架を潜って町の北側に出ました。これから向かうのは勢田川の水運で栄えた河崎、市場も開かれ嘗ては山田(伊勢)の台所とも呼ばれた町なのです。
まず現れたのは袖壁に石貼り風の左官仕上があるお宅。一階の煉瓦、二階の鉄製の両開き雨戸から歴史があるものだと思うのですが、左のハーフティンバー風の部分は増築されたのでしょうか。何にせよ、とても大事に使われているというのがよく判りますね。
少し行くと、防火壁を兼ねていると思われる凄い袖壁がドーン、その間を長屋門風の瓦屋根が繋いでいるという不思議な構成のテラスハウス風。奥には立派な土蔵があります。モナリザさんというカフェなのですが、元々は築150年という商家だったようです。
界隈には切妻屋根の妻入り、押縁下見板張りの商家や蔵が軒を連ねています。この形式の家並みは全国的にみてもかなり珍しいそうですぞ。角に建つ道標には『左 すぐさんぐう(参宮)みち』『右 宮川道』と刻まれておりました。
素晴らしい町並みですなあ。実は半信半疑だったのですが、これは大正解。
明治中期に建てられたという河崎蔵さん、現在はカフェになっております。歩き疲れて此処で休憩、シフォンケーキおいしゅうございました。
ちょっと休憩のつもりだったのですが、ノンビリしすぎちゃいました。外に出るとお日様がかなり傾いておりました。急ぎましょうとその先の広い通りを渡ろうとすると、コレが見えたわけ。
ペントハウスをご覧下さい。スッと突き出した庇とそれを支える丸柱、そして回り込む開口部・・・かっこよすぎるでしょう。
観光ガイドにもこの町並みのことは紹介されているのですが、観光客の姿はほとんど見かけませんでした。ちょっと勿体無い気がしますなあ。
勢田川の河畔に嘗ての家並みの様子を再現した一画があります。以前はこんな感じで家々のギリギリまで川が迫っていたそうです。しかし、昭和49年(1976)の集中豪雨で発生した洪水で国による河川改修が始まります。河川拡幅と護岸整備によってその家並みは消え失せてしまいました。
左の高い石塀の向こうにあるのが伊勢河崎商人館。江戸時代創業の酒問屋小川酒店を伊勢市が整備し、観光やまちづくりの拠点という位置づけを担った施設になります。
残念ながら時間の関係で今回は覗き込むだけで我慢・・・。
この辺り、町並みをアピールするかのように、通りがいい感じで出っ張ったり引っ込んだりしているのです。左の切妻屋根の向こう側がさきほどの嘗ての家並みを再現した一画になります。
近くの川の駅なる施設に嘗ての家並みの写真が展示されていました。コレ、見たかったなあ。
伊勢河崎商人館脇でこの素晴らしい三角屋根を見つけました。元は何だったのかはすぐに判りますよね???
正式名称は知りませんが、お馴染のネジネジのクルクルが鏝絵によって表現されているわけ。シンプルなれど見事なデザイン、いちばんのお気に入りです。
驚きはこれだけではありません。帰りは裏通りをショートカットして駅に向かったのですが、県道201号線沿いで見つけたコレには絶句。
旅館星出館さん、創業は昭和元年(1926)ですが、建物の一部は大正期のものなんだとか。宿のHPには中庭に太鼓橋が架かっていたりして、大正期は別の業種だったのではないかと勘ぐりたくなるくらいの造りなのです。
もっと驚いたのが料金、なんと普通のビジネスホテルと同じくらい・・・。まあ、HPの『通気性は良好ですが、機密性は良くありません』には妙に納得してしまいましたが(笑)今度来るときは此処に泊りたいなあ。
星出館さん前から延びる通りを行きますと、見えてくるのが霊泉湯さん。富士山型の看板建築風のお風呂屋さんです。
停まっている車から判りますが、近所の方でかなりの盛況ぶりみたいですな。『湯』と屋号はネオンサインになっているのですが、点いていないのは経費節減でしょうかね。かなり惹かれましたが、今日は予定がありますもので・・・。
伊勢市駅前に戻って参りました。最初に訪れた伊勢駅商店街の夜の様子、全滅ではなかったのですね。灯りを見てちょっとホッとしましたよ。
状況を説明致しますと、この仔は看板のお店の飼い猫みたいなのですが、悪さでもしたのか、お母さんに「まだ入れてやらないよ」と追い出されて途方に暮れているというわけ(笑)
以上で神都伊勢市の探索はオシマイ。遊里関係は残念でしたが、河崎の町並みは思っていた以上に濃密で楽しめました。次回は内宮と古市、そして二見浦という感じでしょうか、まあ何時になるかは判りませんが。さて、今日は毎回恒例の精進落しと参りましょう。毎回毎回、何を落とすんだという感じですが、今回は正真正銘の精進落しと胸を張って断言しても宜しいのではないかと。でも、現代の神都は妙に健全でして、そういった場所がありませんので、ベースキャンプの津市に戻って落として参ります。もちろんレポはございません、あしからず。ではまた明日・・・。