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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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三重県 津市久居201412

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神社脇の女王様・軍都の遊里は電停の前・非常に危険な横丁建築

角を曲がるといきなりコレですから、そりゃ驚きますがな。


 ベースキャンプの津市から近鉄名古屋線で松阪方面へ三駅で久居に到着です。ちなみに読みは『ひさい』です。元々は久居町でしたが、平成18年(2006)の合併で現在は津市の一部になっています。江戸の頃は久居藩五万三千石の城下町・・・と言いたいところなのですが、実際は藤堂家が治めた津藩二十二万石の支藩という位置づけだったため、城の築造は許されていなかったそうです。陣屋町といったほうが正しいかもしれませんね。町中を伊賀街道から分岐し松阪の伊勢街道(参宮街道)に合流する奈良街道が通っていたため、往時はお伊勢参りの旅人で賑わったそうです。嘗てそんな町に存在したのが北新地遊廓になります。

 『久居町北新地遊廓 三重県一志郡久居町字北新地に在つて、関西線亀山駅から参宮線乗り阿漕駅から西へ約一里十丁あるが、阿漕駅から伊勢川口行きの電車に乗つて「久居萬町」で下車すれば直ぐだ。此処には宿場の遊女屋としては徳川時代から在つたものであるが、遊廓と成つて現在の個処に移転したのは明治四十三年六月である。目下貸座敷は七軒あつて娼妓は三十一人居り、殆んど本県下の女計りである・・・』

 以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になりますが、何を血迷ったのか当初は文中の『久居萬町』を現在の久居駅だと勝手に思い込んでしまったわけ。地図上の駅周辺を探してみたのですが、何も手がかりなし・・・再開発や区画整理で消え失せてしまったか、それならこの町は止めとくかと思ったところではたと気付きました。嘗て久居にはもう一つ鉄道が走っていたということを・・・。


 今回も国土地理院の航空写真(整理番号:USA コース番号:R203 写真番号:89 撮影年月日:1947/9/23を加工加筆)を使わせていただきました。久居駅まで赤点線の近鉄線と並行している青点線が、昭和18年(1943)まで現役だった中勢鉄道になります。軌間762ミリという軽便鉄道の一種だったそうです。久居駅から分岐した先を辿っていきますと、寺町の次の電停が『万町』、その真ん前には不自然極まる区画(紫点線)が飛び出しているのが判りますよね?おそらくコレが遊廓跡で間違いないと思われます。風紀上ウンヌンで町外れに移転させられたということなのでしょう。

 あ、そうそう、久居を語るうえで忘れてはならないのが、航空写真の久居駅の東側にひろがる緑点線です。嘗て此処に駐屯していたのが、大日本帝国陸軍歩兵第33連隊であります。久居にやってきたのは大正14年(1925)のこと、チチハルや南京などを転戦しますが、戦局厳しい昭和19年(1944)に移駐したのがかのレイテ島・・・最後は玉砕という悲劇が待っていたということになります。現在、跡地には陸上自衛隊第33普通科連隊が駐屯しているのですが、同じ『33』というのは何かの偶然なのでしょうか。久居は昔も今も軍都なのです。



早朝の久居駅前、人影は皆無です。



地図上での密集度はかなりのものでしたので、町並みを期待していたのですが、かなり残念な状態。それでも所々にこういった袖壁付平入りの町屋が残っておりました。



航空写真の黄点線が野辺野神社。久居の以前の呼び名が野辺野、初代藩主である藤堂高通が『永久鎮居の安住の地』と願いを込めて名付けたのが久居という地名の始まりとされています。神社脇にこんな細い路地・・・突当りに特徴的な入口廻りがあるわけ。



角を曲がるといきなり現れた女王に思わす仰け反りましたよ。予期せぬ呑んべえ横丁の出現だあ。それにしてもどんなお店なんだろう、巷にはSMバーなるものがあるようですが・・・こんなの一見さんにはハードル高すぎでしょ(笑)



あけぼのさんの外壁は目がチカチカしそうな凄まじいショッキングパープル、凄いなコレ。向かいにはご縁さん、さきほどの女王さんもそうですが、此処変な屋号が多いのです。



お次はあとごふんさん。以上、忽然と現れた謎の呑んべえ横丁でした。



その先にあるのが旅籠町、名前のとおり嘗てはお宿が軒を連ねていたのでしょう。



ポパイがチェリーを持っている・・・以前は様々なキャラクターがタバコの宣伝に一役かっていたというわけ。まあ、ポパイ自体がパイププカプカですから、昨今の嫌煙事情から考えると、かなり問題だらけのキャラですよねえ。



旅籠町の裏手、この通りが嘗ての奈良街道になります。立派な門と塀、この辺りは往時を忍ばせる雰囲気が辛うじて残っておりました。



そのまま旧奈良街道辿っていきましょう。



頃合をみて、東側を並行している県道15号線に出ます。嘗ての中勢鉄道跡がこの県道になります。それの中町交差点附近が万町電停跡と思われます。すぐ近くに不自然な広い通りがあるわけでして、おそらくコレが嘗てのメインストリートではないかと・・・あ、中ほどのお宅に注目ですぞ。



重厚な入母屋屋根と破風、綺麗に直してありますが、辛うじて面影が残っているような気がしませんか???



横から見るとかなり奥行きがあることが判りますね。手前の駐車場にも何かが建っていたのではないかと。結局、遺構らしき物件はコレだけ・・・廃娼県ということも関係しているのだと思います。駅からかなり離れていますし、おそらく戦後になっても赤線としての復活は叶わなかったのではないでしょうか。



謎の呑んべえ横丁近くに戻ってまいりました。そこで見つけた旅館ひのでやさん、微妙な感じですが、ネットでヒットしましたので現役っぽいです。



玄関には料理店の鑑札が残っておりました。



最後に訪れたのは、駅前の商業施設が入ったマンションの南側。



駐車場を挟んで立つ二軒、実はコレ横丁建築なのです。まずは向かって右から・・・。



横丁建築と言いましたが、建物の外側にも飲み屋さんが軒を連ねておりました。



いい感じに廃れておりますが、現役という感じはあまりありませんな。



それでは横丁にお邪魔しましょう。片側だけにお店が続くタイプになっております。入口廻りに貼られた特殊な形状のモザイクタイルが面白いなあ。



ムーミンの彼女はノンノンじゃなくてスノークのお嬢さん、実はちゃんとした名前がないということを初めて知りました(笑)そんなことより、壁の鉄平石?すんごい色に塗っちゃったものです。



ギルビーさんの二丁掛タイルによるカラーリング、いいねコレ。



それではサビサビトタンのもう一軒へ、コチラは柳ヶ瀬通りというそうです。



足を踏み入れようとしたところでストップ。判りにくいと思いますが、通路に単管足場が組まれてコンパネの天井が張られているわけ。どうやら実際の天井が崩壊寸前のようです。非常に危険ですのでこれ以上は無理・・・ご理解下さいませ。まあ、真似する方はいないと思いますが、何かあっても拙ブログは一切関知しませんので、宜しくお願い致しますぞ。



行きでは気付かなかった町屋の妻側が凄いことになっておりました。

ちょっと消化不良気味でしたが、以上で久居の探索はオシマイ。まあ、遊廓跡らしき一画が判明しただけでも十分ですよ。最後の横丁建築ですが、すぐ向こうを走る近鉄線を渡ると自衛隊の駐屯地なわけです。おそらく当初は彼ら目当てだったのかもしれませんが、今時の若い隊員はああいうお店では呑まないのでしょうねえ。次回は松阪、美味しいお肉を頂いたら、町の東西にあったという遊廓跡を訪ねます。

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