Quantcast
Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
Viewing all articles
Browse latest Browse all 160

三重県 松阪市201412 その1

$
0
0
水路を跨いだトタン長屋・どん詰まりのピンク映画館・歓楽街に変貌していた遊廓跡

色褪せたトリコロールカラーにやられましたわ。


 三重県のほぼ中央に位置する松阪市、町の北西から南東へ旧伊勢街道(参宮街道)が貫き、西方の小高い丘の上には蒲生氏郷が築いた松阪城址が町を見下ろしています。江戸の頃は徳川御三家紀州藩の藩領、所謂飛び地みたいなものですな、北方を守る砦的な役割を果たしていた町なのではないでしょうか。

 城下町、そして宿場町だった松阪ですが、それ以外にも商業の町という一面がありました。近江商人、大阪商人と並ぶ伊勢商人の多くを輩出したのがこの町、豪商三井家の祖先も松阪出身なんだそうです。それから忘れてはならないのが、かの松阪牛。ほんと三重県はあなどれないぞ(笑)遊里関係はその2でお話致しますが、中心街は戦災に遭っていないようですので、地図を見るかぎり町並みなども期待できそうですぞ。画像数が結構ありますので、早々に始めさせていただきます。



前回の久居から近鉄名古屋線で15分ほど、どこにでもありそうな地方都市然とした駅前の光景に多少驚きながらも歩き出しました。



駅前広場の東に小さな飲食店が並ぶ一画があります。そこで見つけたマッチョな裸婦のレリーフ、バラの花弁がリアルすぎるのですが・・・多くは申さないでおいたほうがよさそうですな(笑)



駅から西に少し行きますと、商店が並ぶ長屋風の物件が現れます。



この長屋、途中からタイル柄が型押しされたトタンに包まれてしまうわけ。奥に見える瓦屋根は継松寺さんの本堂です。



並びには妙な意匠の飲み屋さんの痕跡もあったりします。



鶏肉専門店一軒だけを除き、他はすでに退役済みのようでした。貼り紙が目につきますがこう書かれていました。『この建物は、松阪市上下水道部の管理となっております』・・・コレの意味は引きの画で見ると判ります。



奥に見える片流れ屋根が長屋になります。そう、水路を跨ぐ形で建っているわけ。手前の布基礎のような痕跡、お判りになるでしょうか。以前は此処にも同じような建物があったのでしょう。既存部分も解体されてしまう運命のようです。



旧伊勢街道に出ました。阪内川手前にあるのが松阪商人の館です。



正式な名称は旧小津清左衛門家住宅といいます。小津家は前書きにある伊勢商人の名家、宝暦5年(1755)には三井家、長谷川家らとともに、紀州藩の御為替御用を命じられています。驚いたことにこの豪商は現在も健在でして、小津グループと名を変えて手広く商売されています。創業は承応2年(1653)といいますから、なんと360年以上、とんでもない老舗なのです。



この主屋は17世紀末から18世紀初めに建てられたとされています。通り抜けができる台所を挟む形で、見世の間や勘定場、向座敷、奥座敷など20余りの部屋が並んでいます。



かまどの数が凄いですよね。それだけ使用人がいたという証拠でもあるわけです。



個人的には建物より、こういった坪庭が気に入っています。



此処の案内のオッチャンがよう喋る喋る(笑)・・・まあ、ほとんどは小津家の自慢みたいな感じでしたが・・・。試しに遊里のことを尋ねますと、その2でレポする遊廓のことはよく知らないようでしたが、表を通る旧伊勢街道沿いにも遊廓が存在していたとのこと、これからそこに向かいますよ。



それは阪内川を渡った先だと聞いたのですが・・・



しばらく旧街道を行きますと見えてきたのが旅館満喜さんの看板、この辺りがそうなのでしょうか。



その先にももう一軒、塀には売物件の看板・・・。遊廓が存在したのは明治期までだったようですので、この微妙な状況は納得できるわけ。往時はお伊勢参りの旅人で相当賑わったはずですので、彼らの行き来がなくなれば遊里の存在理由もなくなったということなのかもしれません。



来た道を引き返すのもなんですので、裏通りをクネクネしながら戻りましょう。



その途中で出会ったのが冒頭画像の物件になります。判りにくいと思いますが、退役してからかなり時が経過していると思われる名無しのお風呂屋さんです。



腰に貼られた玉石タイルのカラーリングにウットリ・・・コレいいなあ。よく見るとシートの継ぎ目があるのお判りになるでしょうか。タイルのシート貼りという工法が確立されたのがいつ頃かは知りませんが、結構新しいものかもしれません。



再び阪内川を渡って、今度は旧伊勢街道の南側を並行している通りを行きましょう。和楽器専門店の三味線透かし彫り看板の先、べんがら色の外壁は明治35年(1902)創業の牛銀本店さん、もちろん松阪牛の専門店です。いい感じに空腹になってきましたよ。



松阪商人の館にもありましたが、格子上の斜めに突き出した庇状の板、コレのことをオダレと言います。ちょっと自信ないけど、漢字だと『汚垂』で正しいはず。文字から察すると、雨水が真下に落ちると建物の足元廻りが汚れますので、それを避けるための部材だと思われます。伊勢地方の町屋でコレをよく見掛けることができます。



その先にあるのが、松阪出身の著名人の中で最も知られていると思われる人物の旧宅跡になります。江戸時代の国学者で医師、古事記伝全44巻を執筆とくればわかりますよね。そう、あの本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまで暮らしていたのがこの場所になります。実際に住んでいた旧宅は松阪城址に移築されているのですが、それと合わせて国の特別史跡に指定されています。旧宅は移築されているのに、なぜか古びたお宅が・・・コレは何???



本居宣長旧宅跡の向かいにも伊勢商人の豪邸があります。旧長谷川邸・・・さきほどの小津家の中にも出てきた長谷川家とはコチラのこと。14代400年以上の歴史を誇る老舗中の老舗、現在も東京日本橋でマルサン長谷川として存続・・・と書こうと思ったら、この会社、去年解散していたとは・・・。その影響だと思うのですが、この豪邸、市へ寄贈という申し出があるそうで、市も取り扱いを検討中とのことらしいです。地図上では庭に大きな池も確認できますし、なんと茶室が三室もあるそうですので、うまく整備すれば観光の目玉施設になるんじゃないかと思っているわけ。まあ、変なテーマパークみたいにならないことを願っておりますよ。このときは見学できませんでしたが、現在は休日などに無料で公開されているようです。



旧伊勢街道は途中から町の目抜き通りともいえる県道50号線に変わります。拡幅されているため往時の面影はほとんど残っておりませんが、そこに面しているのがかの和田金。食通の対極に位置しているような人間ですが、それでも和田金くらいは知っておりますぞ。今回はちょっと奮発してと店先に出された料金表を拝見・・・そしてすぐさま退散、だって最低でも諭吉さんが一枚ちょっと必要なんですもの。精進落ししたからだ、などと訳の判らない言い訳をしながら別のお店を探しておりますと、ガラス張りのボックスの中で書き物をしている本居先生に出会いました。これが結構リアルなわけ。



その先で見つけたのが旅館鯛屋さん、創業220年、元々は旅籠でした。旧伊勢街道の拡幅に伴い、往時の建物を曳家で移築したそうです。かなり直されているようですが、僅かながら内部の急角度の階段に往時の面影を見ることができました。どうやら予約の客がほとんどのようでして、私のような飛び込みは珍しいと言いながら綺麗な女将さんが席を作ってくれました。



松阪牛鍋御膳・・・お金の話ばかりで恐縮です。和田金の三分の一ですが、肉質は間違いありませんぞ。まあ、こういうお肉はたまに食べるからいいわけですよね。おいしゅうございました。



高価な燃料補給完了、お次は松阪城址を目指します。



残念ながら天守閣は現存しておらず、現在は松阪公園として整備され市民の憩いの場となっております。公園内にシンメトリーな構成の入母屋造り和風建築があります。入口の破風の鬼瓦は鶴を象っています。元々は明治45年(1910)に建てられた飯南郡図書館でしたが、昭和53年(1978)に市立歴史民俗資料館に改修され余生を送っています。国の登録文化財です。



目についたのがこの看板。まあ、看板自体より、梅毒とりん病に真っ先に反応したというのはここだけの話。松阪の特産だったという白粉の展示コーナーには、吉原の遊女の記述もありましたよ。市内には現在も白粉町という町名が残っています。時間の関係でゆっくりできなかったのが心残りです。



石垣の上から見下ろすとこんな感じ。学校建築にも見えてくるから不思議です。



それよりも気に入ったのがコチラの公衆便所。可愛いでしょ、放尿姿がまる見えですけどね(笑)



さきほどの旧宅跡から移築された本居宣長の住まいがコチラ。建てられたのは元禄4年(1691)、保存のため現在地に移築されたのは明治42年(1909)のこと。右の塀を兼ねた袖壁が延びる坪庭奥の二階部分が『鈴屋』と呼ばれていた彼の書斎になります。和風コートハウスといった趣の、伸びやかな屋根が美しい建物です。



城址の南側、石畳の通りを挟む形で、二棟のまるで倉庫のような長~い建物が向き合っておりました。あ、右上と左下の影は緩んでいたレンズフードです。全く気付かなかった、お恥ずかしいかぎりです。トリミングでうまく切り取れないのはそのままですので、本人が気がつくまでもうしばらくお付き合いくださいませ。



コチラは御城番屋敷、その名のとおり松阪城の警護にあたっていた武士の住まいになります。文久3年(1863)に建てられました。マキの生垣の向こう、長い屋根の下は棟割長屋風(組屋敷)になっているわけ。



そのうちの一戸を市が借り受け内部を公開しています。此処も時間の都合でゆっくりしていられません、ご理解くださいませ。



全国的にみてもこのような組屋敷は大変珍しいということで、国の重文に指定されています。驚いたのは今も普通に住人がいるということ・・・重文の建造物で生活するってどんな気分なのでしょうね。



御城番屋敷の石畳を抜けると県立松阪工業高校、校門脇を覗くと真っ赤な外壁が目に飛び込んでくるはずです。旧三重県立工業高校製図室、明治41年(1908)に建てられた経産省の近代化産業遺産です。切妻屋根に下見板張り、上部は漆喰塗りのハーフティンバー風ですな。現在は松阪工業高校資料館として余生を送っています。別名『赤壁校舎』と呼ばれ親しまれているそうですが、その理由が説明板に記されておりました。『当時は実験に使用する硫化水素の影響を受け建物の塗料が黒変すると考えられていたため、校舎の外壁はすべて変色しない朱(硫化水銀)で塗られていた』ちなみに『あかかべ』ではなく『せきへき』なんだそうです。

前半は此処まで・・・さきほどの遊廓は明治期まででしたが、後半に訪れるのはおそらく県議会で廃娼決議が行なわれるまでは存在していたと思われる遊廓になります。しかし、地図を眺めたかぎりではいまいちの印象・・・何か発見できると嬉しいのですが・・・。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 160

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>