お客様の健康を守るため、何を設置していたのでしょう。
『松阪町遊廓 三重県松阪町字松宕町に在つて関西線亀山駅から参宮線に乗換へ、松阪駅で下車すれば東南へ約六丁、松阪電車を利用して「平生町」迄行けば賃三銭である。松阪は蒲生氏郷の修築した松阪城址があつて、今は松阪公園に成つて居る。本居宣長の故郷で彼の書斎は今公園に保存して在り、墓も山室矢那の妙楽寺に在る。松阪木綿の主産地も此処で、富豪三井王国の祖先も此処の出身だ。参宮街道中での繁華地なので昔は随分遊女も多かつたものらしい。現在も昔のままの宿場に成つて居て、貸座敷は十四軒あり、娼妓は全部で七十五人居るが三重県人が最も多い・・・』
お馴染『全国遊廓案内』の抜粋から始めさせていただきますが、文中の『松宕町』は間違いで、正しくは『愛宕町』だと思います。この町名は現在も健在なのですが、その1でレポした阪内川対岸の遊廓(西の廓)に対して、コチラは東の廓と呼ばれていたそうです。場所は判ったのですが、どうも地図を見てもピンとこないわけ。現在の愛宕町は歓楽街と化しているということだけは判るのですが、特徴的な区画はおろか料亭や旅館といったものも見当たらないのです。
その理由は愛宕町の歴史を知るとある程度納得することができます。この遊里、明治26年(1893)、昭和26年(1951)と二度もの大火に遭っているのです。二度目が戦後というのが興味深い・・・おそらくこの遊廓も昭和14年(1939)の公娼廃止で無くなったはず。戦後赤線として復活したかは定かではありませんが、もしそうだったとしても大火で焼けてしまったのでしょう。その名残が現在の歓楽街ということなのかもしれません。まあ、そのあたりのことをこれから確認しに行きたいと思います。
駐車場の向こうに見えた光景にビックリ・・・はて、松阪城の天守は台風で倒壊したと聞いているのですが・・・。
正体を確認しようと回り込んでみますと、清水歯科医院さんの奥に建っているようです。RC造の外壁に貼り付けたような唐破風・・・医院自体も面白い造りになっていますな。
こりゃ凄いなあ。上部の見事な造りに比べて、下部がいい加減になっているのが気になります。以前は別の建物に繋がっていたのかもしれません。帰ってから調べてみますと、戦争で亡くなった息子さんを慰霊するために建てられたのだとか。
その1でも少しお話した白粉町に入りました。いいなあ、この町名。その中心に見事な近代建築が残っています。大正2年(1913)に建てられた旧松阪水力電気㈱本社、現在は松阪地区医師会館として余生を送っています。アールがついた建物の角が玄関になっていて、それを強調するかのように、様式は不明ですがオーダーがデーンと構えています。パラペットのアールデコ調の装飾も素晴らしいぞ。
赤煉瓦に見えますが煉瓦風タイルです。窓廻りは洗い出し風のモルタルでしょうか、縦ラインを強調した意匠になっております。小庇の持ち送りもしっかりとデザインされておりますね。築100年超なのにとても状態がいいのに驚きました。
近くの四つ角の光景・・・渋い芥子色の商店の腰にはスクラッチタイルが使われています。
魚元さんは魚屋さんだったようですが、仕出しみたいなこともされていたようです。
こういった虫籠窓が見られるのが三重県辺りからになるでしょうか。コレの東限ということになるのかもしれません。
これはいい路地・・・微妙なくねり具合から、元は川だったのではないかと思われるコレを抜けますと・・・
いきなりコレが現れるわけ。オッ、鬼六先生原作ではありませんか。一応断っておきますが、双葉鮨さんで上映しているわけではありませんぞ(笑)
絶賛上映中なのは、脇の路地のどん詰まりにある松阪大映さんです。路地沿いには長屋風の飲み屋さんが並んでおりました。ちなみに『緊縛卍責め』は昭和60年(1985)の作品、主演は高倉美貴・・・何を隠そう、彼女と宮下順子の大ファンであります。どうでもいいですね、こんな情報・・・。あ、そういえば日活ロマンポルノが復活するそうですね。あっけらかんとしたAVより、やはりシットリとした陰影のあるこっちでしょう。
松阪大映さんの前身は昭和15年(1940)頃開館したアサヒ座、当初は大映専門の封切館だったようですが、昭和45年(1970)前後にピンク映画専門に鞍替えしたそうです。それが今や松阪市内に残る唯一の映画館・・・後から出てきますが小津安二郎が青春時代を過ごした町だというのに、ちょっと寂しい状況なのです。
路地に並ぶ飲み屋さんには料理店の鑑札が残っておりました。
妙に惹かれた恋人さん、でもすでに退役済みみたい・・・残念。
謎の組み合わせが並ぶショーケース、恋人さんのです。
まだ愛宕町の手前なのですが、飲み屋さんが目につくようになってまいりました。
近くには大人のサロンもあったりして、いかついオッチャンが二人も目を光らせていて、さすがにカメラは向けられませんでしたよ。
国道42号線を渡ると愛宕町です。ウーム、どう表現したらいいのでしょう、いい感じに寂れているというのは確かのようですが・・・。
こんな妻入りの町屋も残っておりました。一面の焼け野原というわけではなかったようですな。
判りにくいと思いますが、畳まれたテント庇にはみちき遊技場とあります。温泉街でもないのに遊技場、やはり射的やスマートボールといった感じだったのでしょうか。娼妓も客に連れられて此処で遊んだのかもしれませんね。
鑑札も残っていましたよ。
四つ角に建つ出窓がグルリと回り込む物件。小割りにされた一階の店子は全て飲み屋さん。ある程度予想していたのですが、やはり大火のせいなのか、判断しずらい物件ばかりなのです。
コチラは一種の横丁建築、妖しい赤はいいのですが、明らかに新しいですよね。
奥の電飾看板は大人のサロン、看板に明かりは灯っておりましたが、ひっそりと静まり返っておりました。
蘭さんのアールでまとめた入口廻りがとてもいい。
歓楽街北側に残っていました。間違いなく遊廓が現役の頃からのものだと思うのですが、長屋であることも間違いないようです。
大した収穫もなく愛宕町を東西に貫く旧伊勢街道(県道60号線)に出ました。昔の芝居小屋風なのは小津安二郎青春館。小津は多感な9歳から19歳までの10年間を松阪で過ごしました。愛宕町にあった神楽座に足繁く通っていたそうです。此処も時間の関係で寄れなかった・・・。
同じ旧伊勢街道沿いで見つけたお宅、一階に洋風の窓が使われています。でも、コレも違うよなあ。
こんな路地を見つけましたが・・・
・・・黒ニャンコにメンチ切られただけでした。
旧街道の南側にあるのが日本料理武蔵野さん。創業は文政3年(1820)という老舗、当時の屋号は広月楼。昭和になって武蔵野に改めたそうですが、『全国遊廓案内』には武蔵楼とあるのですが、果たして・・・。
ここで時間切れ・・・というより、はるかにオーバーしているのですが・・・急いで駅に戻りましょう。
以上で松阪の探索はオシマイ。遊里関係は残念な結果でしたが、まちあるきとしてはかなり楽しめましたから、これもよしとしておきましょう。ただ思うのは、松阪大映さん末永くということだけ。次に訪れるのは大きなお寺を中心に栄えた環濠が残る寺内町、遊廓は濠の向こう側にあったそうです。明らかに日没に間に合いそうにないのですが、どうしよう・・・。