寺を模した木造駅舎・環濠に囲まれた寺内町・精進落しは濠の向こうで
妻入りに注目とのこと・・・玄関廻りには色褪せたべんがら?が残っておりました。
松阪市から近鉄線でベースキャンプのある津市に戻り、JR紀勢本線に乗り換え名古屋方面へ一駅で一身田に到着です。ちなみに読みは『いしんでん』、地元では『いっしんでん』と呼ばれることもあるようです。この町は真宗高田派本山専修寺を中心に栄えた寺内町として知られています。この専修寺、本寺は大好きな町の一つである栃木県真岡市にあるというのは、あまり知られていない事実ではないでしょうか。本山専修寺の創建は寛正6年(1465)のこと、その後二度の火災によって伽藍などが焼失しますが、その都度熱心な信徒の寄進によって再建を果たしてきました。
地図をご覧になればすぐに判りますが、町の特徴として真っ先に挙げられるのが寺の周囲を取り囲む一辺500mの正方形の環濠になるでしょうか。嘗ては濠の内側に土塁が築かれていたそうです。拙ブログでも幾つかレポしたことがあるのですが、お隣の奈良県には環濠集落というものがあります。あちらは集落(村)としてある程度の自治権が認められていたそうですが、一身田も同じような状態だったと推測することができます。寺内町への入口は濠に架かる三ヶ所の橋だけ、内側には門が建っておりその脇には番所があったそうです。三ヶ所の門は西に桜門、東に赤門、南に黒門・・・遊里は黒門の向こうの橋向町にありました。
『一身田町遊廓 三重県河芸郡一身田町字橋向町に在つて、関西本線亀山駅から参宮線へ乗換一身田駅から、伊勢電車へ乗つて高田本山停留場で下車する。此の町には高田専修寺があつて此の寺の為めに栄えた町で、真宗高田派の総本山である。本尊は慈覚大師作の阿弥陀仏で、天拝一光三尊仏である。宗教の盛んな処丈けに、人情は至つて純朴である。貸座敷は目下十一軒あつて、娼妓は五十人居るが殆んど三重県の女だ・・・』
JR一身田駅の開業は明治24年(1891)、駅舎は大正12年(1923)に改築された二代目になります。切妻屋根の外側に回廊が回る木造駅舎は、専修寺を模したとされているそうですが、いまいちピンとこないのですが。
駅前には左官で石貼り風の目地が切られた洋館、どうやら運送屋さんだったみたい・・・とはいえノンビリしていられません。今にも日が暮れそう・・・。
駅前から続く通りを西へ少し行き、桜門跡で環濠を渡りますと巨大な門が見えてきます。
専修寺の唐門・・・建てられたのは天保15年(1844)、国の重文です。アンバランスに思えるほどの迫力に圧倒されます。精緻な透かし彫りや彫刻がいっぱいあるのですが、暗すぎてサッパリですな。これでもかなり画像弄くっております。
唐門の向こうに見えるのが如来堂、寛保3年(1743)に建てられましたが、地盤が軟弱なため工事はかなり難航したそうです。噂では人柱が使われたとか・・・。
左が如来堂、右が御影堂・・・とにかくデカイです。
御影堂は正保2年(1645)の大火で焼失しますが、津藩や信徒の寄進によって延宝7年(1679)に再建されました。コチラも国の重文です。ちなみに三重県内最大の木造建築なんだとか。
如来堂と御影堂は通天橋という渡り廊下で繋がっています。竣工は享和2年(1802)、なんとコチラも国の重文。如来堂の見所は跳ね出した屋根を支える肘木の凄まじい連続、これは一見の価値ありですぞ。暗くてよく判らないけど(笑)
御影堂の正面に位置するのが山門。二層、間口20mという巨大な門、宝永元年(1704)頃の竣工とのこと。国宝の京都東福寺三門を参考にしたとされているそうです。コチラも肘木が美しいですね。そして、またまた国の重文・・・重文だらけのお寺はこれくらいにして遊廓跡に向かいましょう。いかん、本当に日が暮れそう・・・。
往時を物語る町屋も結構残っているようなのですが、ゆっくり探索できなかったのが残念です。
専修寺の門が面している通りを右折すると、黒門跡と記された看板が見えてきます。この向こうが橋向町、遊廓跡ということになります。黒門は大門を兼ねていたということになるのかな。
現在の環濠は至って普通の水路といった趣き、嘗てはもっと広かったみたいですけど。それでもかなり貴重な遺構だと思いますよ。
ご丁寧にも橋向町の案内板まで、有難いことです。当時は水茶屋と呼ばれていたんだ・・・どうやら妻入りのお宅に注目するといいことがあるみたいですぞ。
最初に現れた妻入りのお宅、二階の窓の桟と手摺が凝っています。
ポーチには市松模様の縁取りが残っておりましたよ。
お隣は妻入りではありませんが、繊細な造りの格子が美しいなあ。コチラのほうがそれっぽいですよね。
さきほどから妙だと思っていたのですが、ほとんどのお宅に明りが灯っていないのです。空き家ばかりなのでしょうか。
分岐する路地に入ると真っ黒な三階建て、かなり直されている様子ですが、果たして・・・。
その先には仕出しもする魚屋さん。やはり精進落しで賑わった遊廓なのかもしれませんね。この遊里、昭和30年頃まで現役だったらしいのですが、戦前の公娼廃止で一度消え失せて、戦後になって再び赤線として復活したのでしょうか・・・まあ、何にせよ宗教と遊里という不思議で密接な関係が垣間見える町が此処にもありました。
すっかり日が暮れちゃいました。専修寺の南にひろがる向拝前町を抜けて駅に向かいます。
高い塀に遮られて中の様子が窺えないお宅、変わった意匠の防火壁が顔を覗かせておりました。
重文の山門から延びる参道から見た専修寺、人影は皆無です。
一身田駅に着くと、ちょうど津市方面の列車が発車したところでした。時刻表を見ると次の列車は一時間後・・・まあ、急ぐ旅ではありませんから、無人駅の無人のベンチでボンヤリ、これも旅の醍醐味の一つだと思っておりますよ。それではまた明日・・・。
妻入りに注目とのこと・・・玄関廻りには色褪せたべんがら?が残っておりました。
松阪市から近鉄線でベースキャンプのある津市に戻り、JR紀勢本線に乗り換え名古屋方面へ一駅で一身田に到着です。ちなみに読みは『いしんでん』、地元では『いっしんでん』と呼ばれることもあるようです。この町は真宗高田派本山専修寺を中心に栄えた寺内町として知られています。この専修寺、本寺は大好きな町の一つである栃木県真岡市にあるというのは、あまり知られていない事実ではないでしょうか。本山専修寺の創建は寛正6年(1465)のこと、その後二度の火災によって伽藍などが焼失しますが、その都度熱心な信徒の寄進によって再建を果たしてきました。
地図をご覧になればすぐに判りますが、町の特徴として真っ先に挙げられるのが寺の周囲を取り囲む一辺500mの正方形の環濠になるでしょうか。嘗ては濠の内側に土塁が築かれていたそうです。拙ブログでも幾つかレポしたことがあるのですが、お隣の奈良県には環濠集落というものがあります。あちらは集落(村)としてある程度の自治権が認められていたそうですが、一身田も同じような状態だったと推測することができます。寺内町への入口は濠に架かる三ヶ所の橋だけ、内側には門が建っておりその脇には番所があったそうです。三ヶ所の門は西に桜門、東に赤門、南に黒門・・・遊里は黒門の向こうの橋向町にありました。
『一身田町遊廓 三重県河芸郡一身田町字橋向町に在つて、関西本線亀山駅から参宮線へ乗換一身田駅から、伊勢電車へ乗つて高田本山停留場で下車する。此の町には高田専修寺があつて此の寺の為めに栄えた町で、真宗高田派の総本山である。本尊は慈覚大師作の阿弥陀仏で、天拝一光三尊仏である。宗教の盛んな処丈けに、人情は至つて純朴である。貸座敷は目下十一軒あつて、娼妓は五十人居るが殆んど三重県の女だ・・・』
JR一身田駅の開業は明治24年(1891)、駅舎は大正12年(1923)に改築された二代目になります。切妻屋根の外側に回廊が回る木造駅舎は、専修寺を模したとされているそうですが、いまいちピンとこないのですが。
駅前には左官で石貼り風の目地が切られた洋館、どうやら運送屋さんだったみたい・・・とはいえノンビリしていられません。今にも日が暮れそう・・・。
駅前から続く通りを西へ少し行き、桜門跡で環濠を渡りますと巨大な門が見えてきます。
専修寺の唐門・・・建てられたのは天保15年(1844)、国の重文です。アンバランスに思えるほどの迫力に圧倒されます。精緻な透かし彫りや彫刻がいっぱいあるのですが、暗すぎてサッパリですな。これでもかなり画像弄くっております。
唐門の向こうに見えるのが如来堂、寛保3年(1743)に建てられましたが、地盤が軟弱なため工事はかなり難航したそうです。噂では人柱が使われたとか・・・。
左が如来堂、右が御影堂・・・とにかくデカイです。
御影堂は正保2年(1645)の大火で焼失しますが、津藩や信徒の寄進によって延宝7年(1679)に再建されました。コチラも国の重文です。ちなみに三重県内最大の木造建築なんだとか。
如来堂と御影堂は通天橋という渡り廊下で繋がっています。竣工は享和2年(1802)、なんとコチラも国の重文。如来堂の見所は跳ね出した屋根を支える肘木の凄まじい連続、これは一見の価値ありですぞ。暗くてよく判らないけど(笑)
御影堂の正面に位置するのが山門。二層、間口20mという巨大な門、宝永元年(1704)頃の竣工とのこと。国宝の京都東福寺三門を参考にしたとされているそうです。コチラも肘木が美しいですね。そして、またまた国の重文・・・重文だらけのお寺はこれくらいにして遊廓跡に向かいましょう。いかん、本当に日が暮れそう・・・。
往時を物語る町屋も結構残っているようなのですが、ゆっくり探索できなかったのが残念です。
専修寺の門が面している通りを右折すると、黒門跡と記された看板が見えてきます。この向こうが橋向町、遊廓跡ということになります。黒門は大門を兼ねていたということになるのかな。
現在の環濠は至って普通の水路といった趣き、嘗てはもっと広かったみたいですけど。それでもかなり貴重な遺構だと思いますよ。
ご丁寧にも橋向町の案内板まで、有難いことです。当時は水茶屋と呼ばれていたんだ・・・どうやら妻入りのお宅に注目するといいことがあるみたいですぞ。
最初に現れた妻入りのお宅、二階の窓の桟と手摺が凝っています。
ポーチには市松模様の縁取りが残っておりましたよ。
お隣は妻入りではありませんが、繊細な造りの格子が美しいなあ。コチラのほうがそれっぽいですよね。
さきほどから妙だと思っていたのですが、ほとんどのお宅に明りが灯っていないのです。空き家ばかりなのでしょうか。
分岐する路地に入ると真っ黒な三階建て、かなり直されている様子ですが、果たして・・・。
その先には仕出しもする魚屋さん。やはり精進落しで賑わった遊廓なのかもしれませんね。この遊里、昭和30年頃まで現役だったらしいのですが、戦前の公娼廃止で一度消え失せて、戦後になって再び赤線として復活したのでしょうか・・・まあ、何にせよ宗教と遊里という不思議で密接な関係が垣間見える町が此処にもありました。
すっかり日が暮れちゃいました。専修寺の南にひろがる向拝前町を抜けて駅に向かいます。
高い塀に遮られて中の様子が窺えないお宅、変わった意匠の防火壁が顔を覗かせておりました。
重文の山門から延びる参道から見た専修寺、人影は皆無です。
一身田駅に着くと、ちょうど津市方面の列車が発車したところでした。時刻表を見ると次の列車は一時間後・・・まあ、急ぐ旅ではありませんから、無人駅の無人のベンチでボンヤリ、これも旅の醍醐味の一つだと思っておりますよ。それではまた明日・・・。