高札場跡が遊廓跡?・藤製乳母車と芥子色洋館・カフェーみたいな銭湯
三叉路の辻、この界隈だったようです。
伊勢三重の旅も最終日、今日は名古屋方面に戻りながら途中にある町を訪ねていきましょう。近鉄名古屋線の伊勢若松駅から西へ分岐しているのが近鉄鈴鹿線、営業距離たった8.2キロ、大好物の盲腸線であります。三両編成の列車でガタゴト揺られること二駅で鈴鹿市駅に到着です。サーキットぐらいしか頭に浮かんでこない鈴鹿市ですが、嘗ては代々本多家が治めた神戸藩一万五千石の城下町でした。ちなみに『こうべ』じゃなくて『かんべ』ね。町の南北を伊勢街道が貫いていましたので宿場という役目も果たしていました。往時はお伊勢参りの旅人の往来で賑わったのでしょう。明治22年(1889)の町村制により神戸町となりますが、昭和22年(1947)に行われた二町十三村による空前の大合併で神戸町は消滅、変わって発足したのが現在の鈴鹿市になります。
そんな町に存在していたのが神戸町遊廓、この遊廓、お馴染『全国遊廓案内』にも一応記述があるのですが、これが何とも心許ないわけ。規模はおろか場所も不明、単に遊廓があると記されているだけなんですもの。これは困った・・・ネットの情報では駅の近くにそれらしき場所あるとのこと。とりあえずそこを訪れてみるかと駅を出ると、氷雨のような冷たい雨がシトシト、陰鬱な空を見上げていると何だか気分が滅入ってきちゃいました。
駅前にあるのが明治43年(1910)創業の割烹旅館魚半楼さん。残念ながらお店は新しいというか、何とも微妙な七十年代風・・・
・・・と思ったら裏手にある別館?は黒い羽目板張りの歴史のあるものでした。
近くを流れる六郷川には橋がいっぱい、皆同じような造りなのが面白い。戻って駅前をかすめるようにして北へ向かう旧伊勢街道を少し行きますと、三叉路が見えてくるはずです。
角に建つ繊細な格子が美しい旅館油伊さん、建物は築150年なんだとか。のっぽの石碑には『三重県幸名郡長島村大字押付管轄境七里参拾壱町五拾間』、足元のチビには『神戸町道標元標』と刻まれておりました。江戸の頃、この三叉路の辻は高札場だったそうです。
塀に隔てられた坪庭に続くのは増築された部分でしょうか。親子格子かな、こっちも綺麗だぞ。
ネットの情報では油伊さんがある一画が遊廓跡とのこと。神戸宿は旅籠に飯盛女を置くことが許されていたそうで、宿場としての役目を終えた後、それらがそのまま貸座敷になったということなのでしょう。その後の公娼廃止によって貸座敷は旅館に転業、それが現在の姿なのかな?
北に少し行くと、六郷川の袂にそれらしき物件がもう一軒。飲み屋さんの亡骸が付属していますね。
六郷川を跨ぐ大橋、雷紋が刻まれた親柱が独特な形状。コレ、元々は上に何か立っていたんじゃないかなあ。ゲートがあって大門の役目を果たしていた・・・と妄想すると楽しいわけ。
対岸から振り返ります。この六郷川、嘗ては蛍の名所だったとのことのなのですが、そんな面影は皆無なのでした。
このまま旧伊勢街道を北へ辿っていきましょう。途中、絵になる藤製の乳母車に出会いました。今も造っているのでしょうか。
その先、両側から防火壁が突き出た芥子色の洋館が現れましたよ。
パラペットの装飾がいいね。ご覧のとおり、現在は役目を終え朽ち果てるのを待っているような状態です。
創業250年、主屋は明治13年(1880)に建てられたという加美亭旅館さんです。おそらく前身は旅籠だったのではないでしょうか。そうなると飯盛女も!?
加美亭旅館さんの先で家並みが途切れてこの石垣が現れます。案内板には神戸の見附とありました。此処に往時は木戸が設置され門番が立ち、夜間の往来が禁止されていたそうです。神戸宿の北の外れということですな。
来た道を戻るのもなんですので、並行する路地を辿っていきましょう。
こ、これは・・・名のある作庭家の作品に違いない(笑)
油伊さんがある三叉路に戻って参りました。今度は南側を探ってみましょうか。
窓の桟が美しい商家がありましたが、残念ながらコチラ側には遺構らしきものは残っていないようでした。
再開発によって拡幅されたばかりと思われる真新しい通りに出ました。昔の航空写真には、間口の狭い町屋がビッシリ並んでいるのが写っていたのですがね・・・。通りに面して建つムーブルかんべ再開発ビルの前に石橋と刻まれた石碑がありました。橋の親柱みたい、嘗ては川が流れていたようです。
真新しい通りを西へ、拡幅の終点から向こうは古い家並み残っていましたよ。
その先に見えてきたのが、デカデカと描かれた『ゆ』の文字。
鈴鹿市唯一の現役銭湯、三鈴温泉さんです。御主人が体調を崩されて一時期休業していたそうですが再開されたそうです。向かいの文具店、これがまたいい雰囲気なのですよ。しかしこの通り、さきほどの拡幅された真新しい通りの延長にあるわけでして、いつまでこの光景が見られるのか、かなり心配な状況なのです。
文具店裏手に続く黒い壁、こんないい感じの家並みが残っているのになあ・・・。ちょこっと頭を覗かせているのは三鈴温泉さんの煙突です。
向かいにはカイゼル髭みたいな左官装飾が残る窓、洋館付住宅の一種ということにしておきましょう。
次に向かったのは、現在は公園になっている神戸城址北側の一画。旧伊勢街道の裏通り、トタン外壁にコレが泳いでおりました。どうやら錦鯉の養殖をされているようです。
その先には洋館風の蔵とでも申しておきましょうか、面白いねコレ。手前の塀の基壇部分、石積みも見事です。
石蔵かと思ったら、目地は左官によるものでした。あ、やっと雨が上りましたよ。
旧伊勢街道に出て駅方面へ、さきほどの真新しい通りとの交差点に面しているのが、既に退役済みの紀元湯さん。
入口前には衝立状の石積みの壁・・・何だろうこの材種、此処にもちゃんと逆さクラゲ。
衝立にはガラスブロックが埋め込まれておりました。
裏手には飲食店が入った長屋が続いていました。立派な煙突ですね。
駅に戻る途中にまたお風呂屋さん、これには驚いた。だって紀元湯さんから100mも離れていないのですもの。
昭和湯さん・・・驚いたというのは上記の理由だけではなく、そのデザインです。コレ、女性が向き合っているようにしか見えませんでしょ?こんなカフェー建築があってもおかしくないよね。
脇の小さなアーチ窓が穿たれた小屋?の用途は何でしょう。
もっと驚いたのが入口廻りの腰に貼られた丸モザイクタイル。こりゃパステルカラーのシャボンだ・・・素晴らしいセンスですなあ。
昭和4年(1929)創業、独特な建物は昭和33年(1958)に建てられた二代目、廃業されたのは平成14年(2002)のことでした。このグルグル渦巻き、旗立て金物とか旗差し金物と呼ぶのですが、要するに祝日などに日の丸を掲揚するための金物です。ちょっと前までは建物の必需品だったのですが、近頃の新築物件では滅多に見かけなくなってしまいました。
最後の最後に陰鬱な空を吹き飛ばすような物件に出会った鈴鹿市の探索はオシマイ。昭和53年(1978)時点で、この町には21軒ものお風呂屋さんがあったそうです。実のことを言うと鈴鹿市を選んだ理由は、盲腸線に惹かれたからというのはここだけの話(笑)ちょっとしためっけものの探索になりました。次に訪れるのは四日市市、ようやく憧れの横丁建築に会えるわけ・・・これが凄まじかった。
三叉路の辻、この界隈だったようです。
伊勢三重の旅も最終日、今日は名古屋方面に戻りながら途中にある町を訪ねていきましょう。近鉄名古屋線の伊勢若松駅から西へ分岐しているのが近鉄鈴鹿線、営業距離たった8.2キロ、大好物の盲腸線であります。三両編成の列車でガタゴト揺られること二駅で鈴鹿市駅に到着です。サーキットぐらいしか頭に浮かんでこない鈴鹿市ですが、嘗ては代々本多家が治めた神戸藩一万五千石の城下町でした。ちなみに『こうべ』じゃなくて『かんべ』ね。町の南北を伊勢街道が貫いていましたので宿場という役目も果たしていました。往時はお伊勢参りの旅人の往来で賑わったのでしょう。明治22年(1889)の町村制により神戸町となりますが、昭和22年(1947)に行われた二町十三村による空前の大合併で神戸町は消滅、変わって発足したのが現在の鈴鹿市になります。
そんな町に存在していたのが神戸町遊廓、この遊廓、お馴染『全国遊廓案内』にも一応記述があるのですが、これが何とも心許ないわけ。規模はおろか場所も不明、単に遊廓があると記されているだけなんですもの。これは困った・・・ネットの情報では駅の近くにそれらしき場所あるとのこと。とりあえずそこを訪れてみるかと駅を出ると、氷雨のような冷たい雨がシトシト、陰鬱な空を見上げていると何だか気分が滅入ってきちゃいました。
駅前にあるのが明治43年(1910)創業の割烹旅館魚半楼さん。残念ながらお店は新しいというか、何とも微妙な七十年代風・・・
・・・と思ったら裏手にある別館?は黒い羽目板張りの歴史のあるものでした。
近くを流れる六郷川には橋がいっぱい、皆同じような造りなのが面白い。戻って駅前をかすめるようにして北へ向かう旧伊勢街道を少し行きますと、三叉路が見えてくるはずです。
角に建つ繊細な格子が美しい旅館油伊さん、建物は築150年なんだとか。のっぽの石碑には『三重県幸名郡長島村大字押付管轄境七里参拾壱町五拾間』、足元のチビには『神戸町道標元標』と刻まれておりました。江戸の頃、この三叉路の辻は高札場だったそうです。
塀に隔てられた坪庭に続くのは増築された部分でしょうか。親子格子かな、こっちも綺麗だぞ。
ネットの情報では油伊さんがある一画が遊廓跡とのこと。神戸宿は旅籠に飯盛女を置くことが許されていたそうで、宿場としての役目を終えた後、それらがそのまま貸座敷になったということなのでしょう。その後の公娼廃止によって貸座敷は旅館に転業、それが現在の姿なのかな?
北に少し行くと、六郷川の袂にそれらしき物件がもう一軒。飲み屋さんの亡骸が付属していますね。
六郷川を跨ぐ大橋、雷紋が刻まれた親柱が独特な形状。コレ、元々は上に何か立っていたんじゃないかなあ。ゲートがあって大門の役目を果たしていた・・・と妄想すると楽しいわけ。
対岸から振り返ります。この六郷川、嘗ては蛍の名所だったとのことのなのですが、そんな面影は皆無なのでした。
このまま旧伊勢街道を北へ辿っていきましょう。途中、絵になる藤製の乳母車に出会いました。今も造っているのでしょうか。
その先、両側から防火壁が突き出た芥子色の洋館が現れましたよ。
パラペットの装飾がいいね。ご覧のとおり、現在は役目を終え朽ち果てるのを待っているような状態です。
創業250年、主屋は明治13年(1880)に建てられたという加美亭旅館さんです。おそらく前身は旅籠だったのではないでしょうか。そうなると飯盛女も!?
加美亭旅館さんの先で家並みが途切れてこの石垣が現れます。案内板には神戸の見附とありました。此処に往時は木戸が設置され門番が立ち、夜間の往来が禁止されていたそうです。神戸宿の北の外れということですな。
来た道を戻るのもなんですので、並行する路地を辿っていきましょう。
こ、これは・・・名のある作庭家の作品に違いない(笑)
油伊さんがある三叉路に戻って参りました。今度は南側を探ってみましょうか。
窓の桟が美しい商家がありましたが、残念ながらコチラ側には遺構らしきものは残っていないようでした。
再開発によって拡幅されたばかりと思われる真新しい通りに出ました。昔の航空写真には、間口の狭い町屋がビッシリ並んでいるのが写っていたのですがね・・・。通りに面して建つムーブルかんべ再開発ビルの前に石橋と刻まれた石碑がありました。橋の親柱みたい、嘗ては川が流れていたようです。
真新しい通りを西へ、拡幅の終点から向こうは古い家並み残っていましたよ。
その先に見えてきたのが、デカデカと描かれた『ゆ』の文字。
鈴鹿市唯一の現役銭湯、三鈴温泉さんです。御主人が体調を崩されて一時期休業していたそうですが再開されたそうです。向かいの文具店、これがまたいい雰囲気なのですよ。しかしこの通り、さきほどの拡幅された真新しい通りの延長にあるわけでして、いつまでこの光景が見られるのか、かなり心配な状況なのです。
文具店裏手に続く黒い壁、こんないい感じの家並みが残っているのになあ・・・。ちょこっと頭を覗かせているのは三鈴温泉さんの煙突です。
向かいにはカイゼル髭みたいな左官装飾が残る窓、洋館付住宅の一種ということにしておきましょう。
次に向かったのは、現在は公園になっている神戸城址北側の一画。旧伊勢街道の裏通り、トタン外壁にコレが泳いでおりました。どうやら錦鯉の養殖をされているようです。
その先には洋館風の蔵とでも申しておきましょうか、面白いねコレ。手前の塀の基壇部分、石積みも見事です。
石蔵かと思ったら、目地は左官によるものでした。あ、やっと雨が上りましたよ。
旧伊勢街道に出て駅方面へ、さきほどの真新しい通りとの交差点に面しているのが、既に退役済みの紀元湯さん。
入口前には衝立状の石積みの壁・・・何だろうこの材種、此処にもちゃんと逆さクラゲ。
衝立にはガラスブロックが埋め込まれておりました。
裏手には飲食店が入った長屋が続いていました。立派な煙突ですね。
駅に戻る途中にまたお風呂屋さん、これには驚いた。だって紀元湯さんから100mも離れていないのですもの。
昭和湯さん・・・驚いたというのは上記の理由だけではなく、そのデザインです。コレ、女性が向き合っているようにしか見えませんでしょ?こんなカフェー建築があってもおかしくないよね。
脇の小さなアーチ窓が穿たれた小屋?の用途は何でしょう。
もっと驚いたのが入口廻りの腰に貼られた丸モザイクタイル。こりゃパステルカラーのシャボンだ・・・素晴らしいセンスですなあ。
昭和4年(1929)創業、独特な建物は昭和33年(1958)に建てられた二代目、廃業されたのは平成14年(2002)のことでした。このグルグル渦巻き、旗立て金物とか旗差し金物と呼ぶのですが、要するに祝日などに日の丸を掲揚するための金物です。ちょっと前までは建物の必需品だったのですが、近頃の新築物件では滅多に見かけなくなってしまいました。
最後の最後に陰鬱な空を吹き飛ばすような物件に出会った鈴鹿市の探索はオシマイ。昭和53年(1978)時点で、この町には21軒ものお風呂屋さんがあったそうです。実のことを言うと鈴鹿市を選んだ理由は、盲腸線に惹かれたからというのはここだけの話(笑)ちょっとしためっけものの探索になりました。次に訪れるのは四日市市、ようやく憧れの横丁建築に会えるわけ・・・これが凄まじかった。