傾いた陽射しが差し込む『明るい商店街』。
『四日市高砂遊廓 三重県四日市市高砂町に在つて、関西線四日市駅で下車すれば東へ五丁の地点に在る。四日市は北伊勢第一の都会で、伊勢湾に臨んだ貿易港である。米穀の取引所があり。萬古焼、茶、綿糸等の産物がある・・・東海道の宿場女郎から現在の如き遊廓に成つたのは明治三十三年頃で、現在貸座敷は十軒あり、娼妓は約四十人居る。殆んど娼妓は県下の者が多い・・・』
お馴染『全国遊廓案内』から始めさせて頂きます。これから訪れる遊廓の昭和初期の様子です。やはり宿場の飯盛女が由来だったようですね。風紀上けしからんということで、町外れに半ば強制的に移転させられたのでしょう。おそらくこの遊廓も戦前に施行された公娼廃止で一度は途絶えているはずですが、戦後になって赤線として復活していたようです。
先日、池袋西武で開催されていた古本市で手に入れたのが、『実話雑誌(昭和29年3月特別増刊号)全国赤線青線地区総覧』、所謂カストリ雑誌ですな。巷には復刻版が出回っているようですが、それよりも安かった、ラッキー(笑)それには『港楽園』という名前で載っておりました。ただ気になるのは『港に近い西新地の』と頭に付くこと。西新地というのは、その1でレポした諏訪公園裏手の現在は歓楽街になっている一画なのですが、もちろん港とは全く関係ないわけ。まあ、後出し情報ですからと思いながら調べてみますと意外な事実が・・・。
やはり西新地に存在したのが『港楽園』だったようです。しかも近くには『春国園』という赤線もあったというのです。そうなると『高砂遊廓』は戦前の公娼廃止で終わっていたということなのでしょうか。さらに四日市十二景という絵の中に明治初年の高砂遊廓なるものも見つかってしまうし、『全国遊廓案内』の記述と全く違うわけ。調べれば調べるほど謎が深まる四日市の遊里、何なのコレ・・・。まあ、以上のことは『実話雑誌』によってもたらされた新情報ですので、今更どうこう言っても仕方がないですよね。
遊里ウンヌンはとりあえず置いといて、いちばんの目的である三和商店街を堪能していきましょう。やはりいちばん目立つ此処からお邪魔するというのが礼儀でしょう。
『明るい商店街』・・・あながち間違っていない状況なのですよ。
ほら、通路に架けられた屋根の塩ビ波板がほぼ全滅、よって陽射しが燦々状態というわけ。
その先で通路は丁字路になり、屋根もそれに従って直角に曲がっていくわけ。
コレは素晴らしいなあ、首が痛くなるまで見上げておりました。
しかし、脇を見るとこんな惨状なわけ。
『ナツメロ』を超越した光景だなこりゃ。
洋瓦一枚分の小庇があるカフェー風のお店もありました。奥のブルーシート部分にもお店があったようですが、完全に倒壊してしまったようです。
ガタガタになったコンクリート平板が堪らない、明美さんの傾き具合も絶妙すぎるでしょ。
退役済みのお店、半開きになったドアの隙間の暗闇にレンズ突っ込んでみました。いかにもなスツールが堪らないわけ。
バーの鑑札も残っていましたよ。
四日市市の赤紙が貼られていました。ちゃんと調査したのかは不明ですが、赤紙=全壊或いは一部損壊ということになるわけ。実はかなり危険な状態なのですよ。一応申し上げておきます。実際に訪れて、何かトラブルに遭ったとしても拙ブログは一切関知しませんのであしからず。
この惨状を見れば納得して頂けるかと・・・。
こんな状態ですが、幾つかのお店はまだ現役みたい。かなりのベテランママさんと思われる女性が出入りしていましたから。この横丁建築の成り立ちは不明ですが、おそらく戦後の焼け野原の中、ドサクサに紛れるようにして建てられたのではないでしょうか。その結果、建物同様権利関係も複雑になっていて、役所も容易に手を出せないと・・・。以上、余命僅かという感じの匂いがプンプンする憧れの横丁建築でした。
JR四日市駅の東側に出て、船溜りになっている運河を渡るとそこが高砂遊廓跡です。
遊廓跡入り口にあるのが旅館いちきさん、庭木の松が元気すぎて全景が判りません。
皮付きの桜を使った欄間が面白いですね。ネットでもヒットしませんので、既に退役済みと思われます。
港に向かって延びる通り、コレが嘗てのメインストリートと思われます。
メインストリートの中ほどにある物件。とても興味深い造りなのですが、それはひとまず置いといて、戦後すぐに撮影された航空写真を見ていて気付いたことがあるのです。その1で四日市は大空襲に遭っているとお話しました。航空写真には四日市駅周辺にひろがる一面の焼け野原が確認できたのですが、港のほうへ視線を動かしていくとコチラのすぐ手前で焼け野原が途絶えているのです。ギリギリで空襲から逃れることができた物件というわけです。
興味深いといったのが突き出すように増築された元飲み屋部分。何だか板チョコみたい(笑)当初は赤線時代のものかと思ったのですが、前書きのことが事実であれば違うことになりますな。確かに言われてみれば、そこまで歴史のあるものではないような気がします。
横から見ると、まさに書き割りみたいなペラペラ状態というのがよく判ると思います。
その先にもう一軒、間口はそれほどではありませんが、中庭を囲むような感じで奥行きがかなりあります。
コチラの注目は二階の手摺。唐草模様風のスチール製グリルがとても珍しいと思ったのですが、よく見ると錆の感じからして結構新しいような気がするのです。オリジナルではないのかもしれません。
はす向かいにある二軒長屋、戸袋にはダイヤが描かれておりました。
メインストリートを突き抜けると、そのまま港に延びる突堤に出てしまいます。この遊廓跡、三方が港に面しているわけ、浮世からの隔離ということを考えるとおあつらえ向きの場所だったのでしょうね。
防波堤越しに見る書き割り飲み屋がある物件です。ウーム、どうもピンとこない。やはり戦前に終わっていた遊里なのでしょうか。
近くにある明治39年(1906)創業の料亭浜松茂さん。奥行きが深くてお店の様子は窺えませんでした。
同じ並びにある金砂稲荷神社、遊廓との繋がりみたいなものは発見できませんでした。此処で重大な事実が判明、帰りの新幹線の時間を間違えていた・・・やっちまった。当初の予定では、この後JR関西本線で名古屋方面へ二駅目の富田で下車し、住吉町にある謎多き一画を訪れるつもりでしたが、そこに寄っていたら新幹線に間に合わない・・・ぶった切りみたいで申し訳ないのですが、四日市の探索は此処までとさせて頂きます。
『港楽園』跡かもしれない歓楽街を抜けて近鉄四日市駅へ向かいます。
相変わらずしまらないラストで申し訳ない、以上で伊勢三重シリーズはオシマイ。建物としての遺構が少なかったのがちょっと不満ですけどね。まあ、長年憧れていた横丁建築を堪能できたのは大収穫でした。『実話雑誌』に住吉町のことが記されてありました。『住吉遊楽園』という赤線だったそうです。手前の東富田にも『富田新地』なる場所があったそうですから、いずれ両者とも訪れたいと思っております。