欄間の緑の色ガラス・旧街道裏通りの三階建て・二十ウン年ぶりの再会
旧中山道の山側に妙に引っかかる一画がありました。
群馬県の西の外れに位置する安中市ですが、その市内の西の端っこにあるのが松井田町です。以前は単独の町でしたが、平成18年(2006)に行われた安中市との合併で自治体としての松井田町は消滅しています。この町も嘗ては中山道の宿場、安中宿の次ですので江戸から数えて16番目ということになりますね。此処の先には17番目の坂本宿、そして碓氷の関所が待ち構えていることになります。
この松井田宿、安中藩の領地内にありましたから、安中宿と同じく飯盛女は置けなかったはずと思いながら調べてみますと、やはり旅人の人気はいまいちだったみたい(笑)皆さん難所の碓氷峠越えに備えて、関所手前の坂本宿で身体を休めるというのが通例だったそうです。まあ、坂本宿にも飯盛女はいないのですがね。酒をかっくらって不貞寝といった感じだったのではないでしょうか。
以上のような状態ですので遊里関係はかなり期待薄・・・一応、安中の際に紹介した群馬県警がまとめた統計には、乙種料理店3、乙種料理店酌婦3、甲種料理店3という記録が残ってはいるのですが、地図と睨めっこしても全くピンときませんでした。まあ、それでも別にいいのです。この町を訪れたのは、ある建物に二十ウン年ぶりに再会するためなのですから。あ、そうそう、以下の画像、右上と左下に妙な影が写っているのがありますが、緩んでいたレンズフードです。盗撮しているわけではありませんので(笑)
高台にあるJR松井田駅から下り、上毛三山パノラマ街道で碓氷川を渡ったら左に分岐するダラダラ登っていく坂道に入ります。すぐに現れるのが、玄関廻りだけが石造になっているお宅。
大谷石かと思ったら、妙に緑がかっているし肌理も細かいなあ・・・材種は何だろう。
このダラダラ坂、結構キツイなどとブツブツ言いながらしばらく行きますと、中華幸楽さんが現れます。かなり惹かれる佇まいですが、たぶんえなりかずきはいないと思います。
お隣には立派な箱文字で屋号を掲げる呉服の東屋さん。
東屋さんのお隣には、重厚な黒漆喰塗り土蔵造りのお宅、これにはビックリ。見事な鬼瓦に積み重なる棟瓦、緑青の浮き出た銅板張りの雨戸が美しい。
もちろんメインは右なんでしょうけど、左の小さな石造アーチは何のため???
再び戻って参りました、旧中山道(県道33号線)、この辺りが宿場の中心だったのではないかと。仲町の交差点に、一見すると元旅籠にも見えなくもない古い商家が残っておりました。その脇の通りを山側に入っていきますと・・・
とうの昔に退役したと思われる歯医者さん。全体の造りは普通のお宅のようですが、石貼り風の目地が切られた左官仕上の外壁、細かい桟が入った木製窓、玄関の豪快に跳ね出したキャノピーなどなど、不思議な魅力に溢れた建物です。
その先の光景、左のお宅に視線が吸い寄せられました。
腐食防止のため、垂木の小口がちゃんと銅板でカバーされた出桁造りはひとまず置いといて・・・欄間に緑の色ガラスが使われているわけ。最初から銅板の緑青を想定していたのでしょうか、だとしたらコレを建てた棟梁はかなりの手練れ・・・考えすぎでしょうか。
その先の商家の造りも妙。二階の閂で閉め切られた雨戸?とその間の露わになった横材、明らかに伝統的な構造ではないわけです。右の格子はスライドして閉まるんじゃないかなあ。おそらく二階でお蚕さんを飼っていたのではないかと。消失寸前の看板を解読しますと、その後はクリーニング店だったようですが、今はもう・・・。青のモザイクタイルに見えますが、残念ながら型押しされたトタンでした。
歯医者さんの処に戻って今度は旧中山道の北側を並行する通りを西へ・・・。
ステキなお宅がありました。綺麗に直してありますが、玄関のキャノピーや柱を見れば一目瞭然ですな。二本の柱のデザインが異なっているのが面白いです。
その先にボロボロのテント庇、どうやらお寿司屋さんだったみたい。
腰には妖しい赤の左官による偽鉄平石、これが全部フラットじゃなくて、所々面を変えているところなんかが妙に芸が細かいわけ(笑)レトロな柄の型板ガラスがいいなあ。
左のしもた屋風のお宅、二階の額入障子がステキなのはいいのですが、雨戸と障子の間にガラス戸が確認できないのです。普段からこの状態なのでしょうか、宿場が現役の頃からのものだったりして。向かいが冒頭画像の物件、コチラもクリーニング店だったみたい。
角を曲がると、いきなり現れた三階建てにビックリ。
その先には何を商っていたのかは判りませんが、元商店だと思われる建物があります。コチラの二階の窓がなかなかの逸品。
ほら、ステキでしょう。三階建てに凝った窓、いろいろと勘ぐりたくなる一画というわけです。たぶん間違っていると思いますけど・・・。
更に西へ、梅林などが点在する長閑な風景の中をしばらく行きますと、大きな弧を描く白いバルコニーが見えてきます。旧松井田町役場、昭和31年(1956)竣工、設計は以前ちょっと紹介したことがある故白井晟一。円形の孔が穿たれたバルコニーの両側に構えるのは荒々しいテクスチャーの石積、その向こうから円柱の柱列が立ち上がり、緩い勾配の切妻屋根を支えているというシンボリックな構成になっております。竣工当時、周囲には一面畑がひろがっており、敷地が高台にあったことから『畑の中のパルテノン』と呼ばれました。
この建物が竣工した頃、建築界で巻き起こったのが『伝統論争』です。その中心となった論客というのが白井と皆さんご存知故丹下健三。これについては書き出すときりがありませんので思いっきり端折りますが、その中で白井が提唱した『縄文的なるもの』として注目されたのが本建築であります。まあ、そういった小難しいことは抜きにしても、伸びやかで堂々としたとても美しい建物です。
前書きにある二十ウン年ぶりというのがコチラのこと。当時、駆け出しのぺいぺいだった私、心酔まではいきませんでしたが、白井晟一はその人物像を含めて大変興味がありました。遥々長崎県佐世保市まで作品を見に行ったほどですから。当時はまだ役場として現役でしたが、現在は文化財資料館になっているとのこと・・・しかし、ひっそりと静まり返っているわけ。帰ってから調べてみましたら、耐震強度の問題から閉館しているそうです。耐震補強を施して博物館や美術館に改修するという計画があるようですが、あまり進展していない様子。白井の代表作の一つですので大切にしてほしいなあ。
駅に戻る途中、旧中山道沿いにあるのが旧松井田警察署、昭和14年(1939)に建てられました。正面に破風を見せる瓦葺きの反り屋根、しかし外壁は縦を強調したスクラッチタイル貼りの洋館風という和洋折衷。重厚なキャノピーには伝統的な木組を模した部分も見られます。これは所謂帝冠様式というヤツです。当時の戦争直前という国の状況(国粋主義)から、各地でこういったものが建てられました。現在は安中市松井田商工会として余生を送っています。状態が大変良好な近代建築です。
まあ、二十ウン年前は車でしたし、町並みなどには興味はなく目的は旧松井田町役場だけでした。そんな男が二十ウン年後、こんなしょうもないブログを管理しているわけ・・・。不思議な感慨に浸ってしまった松井田町の探索は以上でオシマイ。
旧中山道の山側に妙に引っかかる一画がありました。
群馬県の西の外れに位置する安中市ですが、その市内の西の端っこにあるのが松井田町です。以前は単独の町でしたが、平成18年(2006)に行われた安中市との合併で自治体としての松井田町は消滅しています。この町も嘗ては中山道の宿場、安中宿の次ですので江戸から数えて16番目ということになりますね。此処の先には17番目の坂本宿、そして碓氷の関所が待ち構えていることになります。
この松井田宿、安中藩の領地内にありましたから、安中宿と同じく飯盛女は置けなかったはずと思いながら調べてみますと、やはり旅人の人気はいまいちだったみたい(笑)皆さん難所の碓氷峠越えに備えて、関所手前の坂本宿で身体を休めるというのが通例だったそうです。まあ、坂本宿にも飯盛女はいないのですがね。酒をかっくらって不貞寝といった感じだったのではないでしょうか。
以上のような状態ですので遊里関係はかなり期待薄・・・一応、安中の際に紹介した群馬県警がまとめた統計には、乙種料理店3、乙種料理店酌婦3、甲種料理店3という記録が残ってはいるのですが、地図と睨めっこしても全くピンときませんでした。まあ、それでも別にいいのです。この町を訪れたのは、ある建物に二十ウン年ぶりに再会するためなのですから。あ、そうそう、以下の画像、右上と左下に妙な影が写っているのがありますが、緩んでいたレンズフードです。盗撮しているわけではありませんので(笑)
高台にあるJR松井田駅から下り、上毛三山パノラマ街道で碓氷川を渡ったら左に分岐するダラダラ登っていく坂道に入ります。すぐに現れるのが、玄関廻りだけが石造になっているお宅。
大谷石かと思ったら、妙に緑がかっているし肌理も細かいなあ・・・材種は何だろう。
このダラダラ坂、結構キツイなどとブツブツ言いながらしばらく行きますと、中華幸楽さんが現れます。かなり惹かれる佇まいですが、たぶんえなりかずきはいないと思います。
お隣には立派な箱文字で屋号を掲げる呉服の東屋さん。
東屋さんのお隣には、重厚な黒漆喰塗り土蔵造りのお宅、これにはビックリ。見事な鬼瓦に積み重なる棟瓦、緑青の浮き出た銅板張りの雨戸が美しい。
もちろんメインは右なんでしょうけど、左の小さな石造アーチは何のため???
再び戻って参りました、旧中山道(県道33号線)、この辺りが宿場の中心だったのではないかと。仲町の交差点に、一見すると元旅籠にも見えなくもない古い商家が残っておりました。その脇の通りを山側に入っていきますと・・・
とうの昔に退役したと思われる歯医者さん。全体の造りは普通のお宅のようですが、石貼り風の目地が切られた左官仕上の外壁、細かい桟が入った木製窓、玄関の豪快に跳ね出したキャノピーなどなど、不思議な魅力に溢れた建物です。
その先の光景、左のお宅に視線が吸い寄せられました。
腐食防止のため、垂木の小口がちゃんと銅板でカバーされた出桁造りはひとまず置いといて・・・欄間に緑の色ガラスが使われているわけ。最初から銅板の緑青を想定していたのでしょうか、だとしたらコレを建てた棟梁はかなりの手練れ・・・考えすぎでしょうか。
その先の商家の造りも妙。二階の閂で閉め切られた雨戸?とその間の露わになった横材、明らかに伝統的な構造ではないわけです。右の格子はスライドして閉まるんじゃないかなあ。おそらく二階でお蚕さんを飼っていたのではないかと。消失寸前の看板を解読しますと、その後はクリーニング店だったようですが、今はもう・・・。青のモザイクタイルに見えますが、残念ながら型押しされたトタンでした。
歯医者さんの処に戻って今度は旧中山道の北側を並行する通りを西へ・・・。
ステキなお宅がありました。綺麗に直してありますが、玄関のキャノピーや柱を見れば一目瞭然ですな。二本の柱のデザインが異なっているのが面白いです。
その先にボロボロのテント庇、どうやらお寿司屋さんだったみたい。
腰には妖しい赤の左官による偽鉄平石、これが全部フラットじゃなくて、所々面を変えているところなんかが妙に芸が細かいわけ(笑)レトロな柄の型板ガラスがいいなあ。
左のしもた屋風のお宅、二階の額入障子がステキなのはいいのですが、雨戸と障子の間にガラス戸が確認できないのです。普段からこの状態なのでしょうか、宿場が現役の頃からのものだったりして。向かいが冒頭画像の物件、コチラもクリーニング店だったみたい。
角を曲がると、いきなり現れた三階建てにビックリ。
その先には何を商っていたのかは判りませんが、元商店だと思われる建物があります。コチラの二階の窓がなかなかの逸品。
ほら、ステキでしょう。三階建てに凝った窓、いろいろと勘ぐりたくなる一画というわけです。たぶん間違っていると思いますけど・・・。
更に西へ、梅林などが点在する長閑な風景の中をしばらく行きますと、大きな弧を描く白いバルコニーが見えてきます。旧松井田町役場、昭和31年(1956)竣工、設計は以前ちょっと紹介したことがある故白井晟一。円形の孔が穿たれたバルコニーの両側に構えるのは荒々しいテクスチャーの石積、その向こうから円柱の柱列が立ち上がり、緩い勾配の切妻屋根を支えているというシンボリックな構成になっております。竣工当時、周囲には一面畑がひろがっており、敷地が高台にあったことから『畑の中のパルテノン』と呼ばれました。
この建物が竣工した頃、建築界で巻き起こったのが『伝統論争』です。その中心となった論客というのが白井と皆さんご存知故丹下健三。これについては書き出すときりがありませんので思いっきり端折りますが、その中で白井が提唱した『縄文的なるもの』として注目されたのが本建築であります。まあ、そういった小難しいことは抜きにしても、伸びやかで堂々としたとても美しい建物です。
前書きにある二十ウン年ぶりというのがコチラのこと。当時、駆け出しのぺいぺいだった私、心酔まではいきませんでしたが、白井晟一はその人物像を含めて大変興味がありました。遥々長崎県佐世保市まで作品を見に行ったほどですから。当時はまだ役場として現役でしたが、現在は文化財資料館になっているとのこと・・・しかし、ひっそりと静まり返っているわけ。帰ってから調べてみましたら、耐震強度の問題から閉館しているそうです。耐震補強を施して博物館や美術館に改修するという計画があるようですが、あまり進展していない様子。白井の代表作の一つですので大切にしてほしいなあ。
駅に戻る途中、旧中山道沿いにあるのが旧松井田警察署、昭和14年(1939)に建てられました。正面に破風を見せる瓦葺きの反り屋根、しかし外壁は縦を強調したスクラッチタイル貼りの洋館風という和洋折衷。重厚なキャノピーには伝統的な木組を模した部分も見られます。これは所謂帝冠様式というヤツです。当時の戦争直前という国の状況(国粋主義)から、各地でこういったものが建てられました。現在は安中市松井田商工会として余生を送っています。状態が大変良好な近代建築です。
まあ、二十ウン年前は車でしたし、町並みなどには興味はなく目的は旧松井田町役場だけでした。そんな男が二十ウン年後、こんなしょうもないブログを管理しているわけ・・・。不思議な感慨に浸ってしまった松井田町の探索は以上でオシマイ。