そのまま三丁目の夕日のセットになりそうですよね。此処ではありませんが、実際に石岡はロケ地として使われているそうですよ。
元治元年(1864)3月、筑波山で水戸藩の攘夷派数百名が突如挙兵します。のぼり旗にはデカデカと尊皇攘夷と書かれていたそうです。これが俗に言う『天狗党の乱』です。派兵された幕府の討伐軍と筑波山や水戸附近で何度か戦が繰り広げられますが、次第に劣勢になり後退・・・追い詰められた天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仲介してもらい朝廷に尊皇攘夷を訴えるため、旧中山道を北上、一路はるか彼方の京都を目指すことになります。総大将は水戸藩元家老の武田耕雲斎、約千名という大所帯だったそうです。しかし、途中の敦賀で討伐軍の大軍に包囲されあえなく降伏・・・。この討伐軍を率いていたのが、唯一の頼みの綱である一橋慶喜だったというのはなんとも皮肉な話です。捕まった天狗党には、厳しいお上の裁きが下されます。死罪352名、遠島137名、水戸藩預り130名・・・武田耕雲斎以下トップ数名は晒首・・・こうして天狗党の乱は収束していくのことになるのですが・・・数年後には明治維新なんですよね。
晒首にされた天狗党トップの中に、石岡ゆかりの人物がおりました。それが水戸藩の側用人だった藤田東湖の四男、藤田小四郎。天狗党が筑波山で挙兵する直前、小四郎たちが密かに宿泊していたのが石岡に存在していた遊廓だったのです。その名を『新地八軒』といいます。その名のとおり八軒の妓楼からなる廓でした。
市の民俗資料館に展示されていた新地八軒の配置です。左上から松屋・近江屋・紀州屋・金桝屋、右上から大和屋・山本屋・井関屋・三好屋、いちばん下は鈴宮稲荷神社。小四郎たち浪士は筑波山に発つ前、このお稲荷さんで成功を祈願し鬨の声をあげたと伝わっています。
小四郎は普段から新地八軒を常宿にしていたそうで、特に紀州屋の女主人いく子をおふくろと呼び慕っていたそうです。右上の女性がいく子です。いく子は男まさりの女丈夫だったそうで、小四郎の考えに共感し、浪士たちの面倒をみたそうです。下にはいつ頃撮影されたのかは不明ですが、新地八軒の写真が貼られています。結構地味な造りだったように見えますね。
以上は、民俗資料館の展示物やネットの情報だけによる、石岡に存在したとされる遊廓新地八軒の様子でした。おかしいと思いませんか???民俗資料館に行ったのなら詳しい係の人がいるのではないかと・・・もちろん係のお爺ちゃんがいらっしゃいましたよ。しかし、新地八軒のことはほとんど知らないそうです。地元の人でも知っている人は少ないだろうとのこと。自分的には、明治維新以降の様子がいちばんの関心事なのですがね。いろいろと資料を引っ張り出して調べてくれましたが、やっぱり分からない・・・。唯一、新地八軒という表記があったのが下の写真、わざわざコピーを取ってくださいました。
『稲吉旅館(石岡市・明治36年)交通の発達により人びとが旅行をする機会が増えると、旅館の規模も大きくなっていった。その後、旅館や料亭が増えて、この地域に隣接する一帯は「新地八軒」といわれる料亭街となった。』そうキャプションには書かれてあります。写っている建物は妓楼ではなく、純粋な旅館ということみたいです。明治36年とありますので、明治維新後も新地八軒は残っていた・・・いや、この文はそういう意味ではないような気がするのです。まあ、とにかく謎の多い遊里だったということみたいですな。とりあえず場所だけは判明しましたので最後に訪れてみることにします。
さてと、その1でお約束したとおり、ここから石岡名物看板建築巡りの始まりです。駅前通りが突当る丁字路に戻って旧水戸街道を南へ・・・すぐに現れるのが水西酒店さん。リブ状の外壁が特徴、よく見られる装飾ですね。分かりにくいのですが、屋号の箱文字の斜め上に見える三角形の照明、レトロでステキなのですよ。
ライフライン関係を埋設したようですね。スッキリしたのはいいのですが通りが広いので、妙に空虚な感じが・・・これも電柱電線を見慣れたせいでしょうか。左に見えるのは森戸文四郎商店さん、昭和5年(1930)頃に建てられた国の登録文化財です。
元々は飼料店だったそうです。意匠的にはアールデコになるでしょうか、柱型がパラペットから突き出しているのが効いています。
格子が美しい数奇屋風の和風建築は生蕎麦の東京庵さん。昭和7年(1932)頃に建てられました。こちらも国の登録文化財。
この並びは堪りませんなあ。特に左の玉川屋さん、銅板平葺きにアーチ窓・・・そして煎豆に甘納豆、扱っている商品までが昭和です。この通りの古い写真を見つけたのですが、以前は歩道上にアーケードが架かっていました。観光の目玉にするために撤去したようです。
右の石岡富国社さん、結構見かける型押しされたトタンに包まれた建物なのですが、面白いのが軒天にもそれが使われていること・・・なんかカワイイですね。今回のお気に入り物件です。
向かいに一際目を引くお店があります。こちらも昭和5年頃に建てられたという、すがや化粧店さん。またしても国の登録文化財です。この界隈の建物、昭和5年以降に建てられたものばかり・・・理由は昭和4年(1929)に発生した石岡大火のせい、中心街の1/4が焼失したそうです。
すがや化粧品店さんのディテール、どう見てもモデルは古代ギリシアの神殿建築以外有り得ないわけ(笑)屋号が書かれたペディメント、イオニア式とコリント式オーダーの組み合わせ、重厚ですなあ。石貼りに見えますが、もちろん全部左官職人の手によるものですよ。保存状態も大変宜しい物件です。
その先に二軒、左が十七屋履物店さん、右が久松商店さん、どちらも昭和5年頃に建てられました。もちろん両方とも国の登録文化財。
まずは十七屋履物店、真ん中のアーチの装飾を中心としたシンメトリーな構成、連続する持送り風の造作が面白いですね。窓の縁を強調するように長方形のモザイクタイルが貼られています。
そして久松商店さん、下見板張りに見えるのは金属板の平葺き、たぶんオリジナルじゃないと思います。縁起物の雷紋が真ん中でアーチになっています。窓の欄間には松葉のモチーフ。
看板建築群の終わりにあるのが、黒漆喰の見世蔵、福島屋砂糖店さんです。こちらは昭和6年(1931)に建てられました。そして、またもや国の登録文化財。黒漆喰と書きましたが、鉄筋コンクリート造と木造の混構造なんだそうです。とても珍しいと思います。電柱電線がない通り・・・やっぱり映画のセットにしか見えない・・・。
その先を左折すると、土蔵造りの長屋門が見えてきます。こちらは安政元年(1854)創業の酒蔵、府中誉さんです。いちいち明記するのも面倒なのですが、こちらも国の登録文化財(笑)奥にバスが停まっていますが、観光コースの一部になっているみたい。団体さんが見学中でした。
石岡市唯一の酒蔵です。この辺りは筑波山を源とする伏流水が豊富な土地なんだそうです。
近くにも看板建築・・・やっぱり電柱電線があったほうが落ち着くと思いません???
Y字路に建つ廃屋、モルタルと押縁下見板張りの競演。右奥に見えるお店も廃屋・・・何気なく覗いてみますと・・・
ヒイイイッ!!コレ、ガラス越しのお店の中・・・怖いよ〜。
国道6号線に出てしまいました。国道脇の広場というか駐車場、右は食堂の廃墟なのですが、その奥・・・テントで出来た入口が見えますね。看板にはファッションヘルス リッチマン!?すぐ近くにはファミレスなんかがあったりするわけ。一見さんにはかなりハードルの高いお店だとお見受け致しました・・・というか、現役???
ここいらで駅方面に戻って、新地八軒跡を目指しましょう。途中出会ったのが半切妻屋根に下見板張りの建物、ピンクがカワイイですね。どうやらお医者さんだったみたい。ファサードは洋風なのに、妻側だけはなぜか和風・・・分かりにくいと思いますが、手摺のある二階部分が跳ね出しており、軒天にアールがつけられています。
門を挟んで、瓦が美しい方形屋根の母屋?が続いておりました。
蔦に覆われて、もはやお化け屋敷と化した飲み屋さんです。
近くに美しい飲み屋建築がひっそりと佇んでおりました。ねじくれた看板がポイント高いわけ。
こちらもなかなか・・・色ガラスの扉が綺麗ですね。お隣はほぼ骨組みしか残っておりません。
さきほどの看板建築群から少し離れた場所にもこんな逸品が残っています。喫茶店四季さん、昭和5年頃に建てられました。しつこいようで申し訳ありませんが、国の登録文化財です。コリント式オーダーをメインとした左官職人のテクニックが炸裂しまくっている建物、一見の価値ありですぞ。
なぜか左隅だけ上下の柱型が通っていないわけ。まあ、プラン上仕方がなかったようですが、ものすごくアンバランスに見えるんだよなあ・・・実際、構造上もそうみたいでして、つっかえ棒で支えられておりました。
全体が洗い出し風の左官仕上が使われているのですが、庇の先端のねじりん棒みたいな装飾をご覧下さい。ちゃんと色分けされているのがお分かりになります???このお店で昼食をと思ったのですが、扉を開けると喫茶店というよりも薄暗い場末のバーみたいな造り・・・店主らしきお婆ちゃんに食事ができるかと聞くと、コーヒーしか出せないとにべもなく断られてしまった・・・デカデカとランチって看板出してるじゃん。
空腹を抱えたままやってまいました。此処が新地八軒跡でございます。左に見えるのが鈴宮稲荷神社、この先に道を挟んで八軒の妓楼が並んでいたことになります。ハイ、ご覧のとおり、何も残っておりません・・・。
何か痕跡はないものかとお稲荷さんを調査しましたが、全て徒労に終わりました。そろそろ戻ろうかと駅方面に足を向けたときです。脇道の先に何かがチラと・・・
これこれ!!これを探していたのですよ。下調べ段階でコレの存在を知ってはいたのですが、何処にあるのかまではわからなかったわけ。こんなところにあったんだ・・・。それにしても電柱が邪魔・・・あれ?さっきは全然違うこと言っていましたよね、コイツ(笑)
土屋家住宅というそうで、その他の詳細は一切不明、おそらく前述の看板建築群と同じ頃に建てられたのだと思います。どうやら左官屋さんだったらしい・・・納得の造りですよねえ。
中でも気に入ったのがこの美しいバルコニー。いいでしょ、コレ。
はす向かいのマンションの駐車場、奥に貼られたタイルにビックリ。でも、よくよく見ましたら一部がぺロリ・・・コレ、タイルじゃなくてクロス(壁紙)じゃん(笑)一部が吹抜になっているし、何よりも変な窓・・・当初は何かのお店だったのだと思います。
この後、駅近くの石岡カフェという、どうやら市の商工会議所のアンテナショップ?みたいなお店でビーフシチューを頂きました。歩き回って空腹のためライスを大盛りにして欲しいとお願いしたのですが、頑なに断られてしまった。あれは何だったのでしょう・・・。食事を終えて駅に行くと、常磐線は依然として強風の影響で30分以上の遅れ・・・もう勘弁して・・・。