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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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千葉県 木更津市201404(再々訪編) その2

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この木なんの木気になる木♪は日立の樹ですが、コチラは橙の木。いつも気になる存在なわけ。


 『木更津新地廓 千葉県君津郡木更津町字木更津新地に在つて、房総線木更津駅で下車して西北へ約八丁、乗合自動車の便もある。木更津は上総西海岸第一の繁華地で、日本武尊が東征の折、橘媛を海神の為めに犠牲に供し悲しさの余り此の海岸をさまよふて、暫し立ち去り兼ねたと云ふ処から「君去らず」と名付けられたのが地名の起源で、その海岸に在る吾妻神社は橘媛を祀つたものである。明治九年頃から町の東端なる「恋の森」に在つた遊廓を、明治廿三年に現在の個所に移転したものである。東京の遠征客も時々迷ひ込む模様である・・・娼楼は、一京楼、本京楼、新鈴木楼、旧鈴木楼の四軒だ・・・』

 以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になりますが、ちょうどその頃、その1で紹介した絵地図も描かれたことになるわけです。青点線で囲まれた範囲が新地廓になります。当時は海がすぐそばまで迫っていたようですね。おそらく妓楼からも港を行き交う船などを眺めることができたのではないでしょうか。しかし、それも戦後に行われた埋め立てによってかなり遠ざかってしまいました。青点線部分を拡大したのが下の図になります

 遊廓と記されてはいるのですが、なぜかお店の屋号が空欄になっているわけ。そもそもこの絵地図はどういった経緯で描かれたのでしょうか。やはりお役所からの発注なのかなあ。そうなると、あそこは場所が場所なので空欄にせよなんて指示があったのかも。空欄部分の答えは昭和5年(1930)に発行された大日本職業別明細図に記されてありました。上図の右に大門らしきものがありますが、そこから左に伸びるメインストリートを挟む配置で向こう側に1軒(旧鈴木楼)、手前に3軒(左から第一京楼、本京楼、新鈴木楼)の妓楼が並んでいたようです。メインストリートの突当りには組合事務所があり、おそらく通いの医師による花柳病の検査が行われていたと思われます。

 この新地廓、『全国女性街ガイド』によりますと、戦後も赤線として生き残ったようです。遊廓がそのまま赤線に移行したのかは不明ですが、昔の航空写真を見てみますと、七十年代後半までは何かしら遺構らしきものが残っているのを確認することができました。結果をフライングしちゃったようであれなのですが、現在跡地に建っているのは⑬のリリー木更津なるカワイイ名前のマンションというわけ。地図を眺めたかぎりでは、跡地という以外あまり期待できる状態ではないようですが・・・とにかく行ってみましょうか。

※ちなみに前回のレポはコチラ、前々回はコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。



⑨の安室薬局さんの処に戻って通りを西へ少し行きますと、前方に見えてくるのが⑬のリリー木更津、遊廓跡に建つマンションです。



通りを右折すると嘗てのメインストリート、左側に3軒の妓楼が並んでいたことになりますな。



右側・・・前方に公園というか緑地が見えますが、あそこには旧鈴木楼があったはず。そして、突当りにあるクリーム色外壁のお宅、あの辺りに組合事務所があったと思われます。



旧鈴木楼跡地手前にはたぬきなる居酒屋さん。名残と言ってしまっていいものか・・・。



やはり何も残っていなかったかと思いながらリリー木更津の西側に回り込みますと、目に飛び込んできたずいぶんと奥行きのある物件。コチラ、地図には旅館きよとあるのですが、案の定ネットでは一切ヒットしませんでした。



旅館というよりアパートにしか見えないのですが、モザイクタイル貼りの袖壁が妙に浮いているわけ。



左が旅館きよさん、道を挟んだ右側が嘗ての新地廓になるのですが、手前の看板建築が気になりますよねえ。⑭のルイス英語教室さんがコチラ。実は妓楼の一部だった・・・なんてうまい話はそうそう転がっているわけないよなあ。



ナニコレと二階のアーチ窓風の装飾を見上げていると、何処からか刺すような視線・・・ヒエッ、思いっきりメンチ切られた(笑)



お隣の駐車場にはこんな表示、他にも旅館があったようです。



同じ並びにある退役済みと思われるお食事処、変な袖壁が突き出ております。入口は何処?と見回してみますと・・・



こんな奥にありました。コチラも名残の一つということにしておきましょう。



遊廓跡を後にして港に出ました。相変わらず用途不明、謎の黒い船ばかりが停泊しているわけ。奥に見えるのがアド街でも紹介されていた中の島大橋、今回も渡りません。



戻って遊廓跡の南に隣接している⑮の八幡屋旅館さんは健在。前回はてっきりこの一画が遊廓跡ではないかと・・・またもや一歩手前で引き返すという大失態。まあ、恒例なんですけどね。この八幡屋さん、絵地図には記されておりませんでした。立派な破風からかなりの老舗なのではと思っていたのですが違っていたようです。



次に向かったのが毎回訪れている⑰の紫点線に囲まれた謎の飲み屋街。地図にも載っていない迷路のような細い路地に沿って小さなお店が並んでいます。絵地図には丁子家、蓬莱家、花村、君の家といった感じで独特な屋号がいっぱい確認できるわけ。コレって置屋さんではないでしょうか。この一画の裏手には⑱の木更津会館(見番)があるわけでして、この辺りが花柳界の中心だったのではないかと。



証拠なのかは判りませんが、こんな屋号。奥にそびえるのは、今は無き⑯の木更津温泉ホテルさんです。



路地を抜けると⑱の見番である木更津会館です。絵地図には『二業組合事ム所』とありました。三業ではなかったというのが意外です。



今回は芸者さんに会えなかった・・・。



観光用の案内板には半玉さんの写真。この木更津芸者、港町の女に相応しいと言いますか、ちょっと勝気な面があったようです。昭和12年(1937)、彼女ら芸妓組合(置屋32軒、芸妓75名)は玉代の賃上げを求めて、隣町君津の鹿野山神野寺に篭城するという騒動を起こすのです。要するに芸者のゼネストですな。結果、町長や警察署長が調停に乗り出し、篭城二日で賃上げを勝ち取ってしまうわけ。この騒動は新聞などでも大々的に報じられたそうです。で、今回初めて気付いたのです、見番脇に細い細い路地があることを・・・。



此処入っちゃっても大丈夫なの?といった感じで恐る恐る足を踏み入れますと、仄暗い路地の先になんとお店があったわけ。これには驚いた。左の朽ち欠けのドアと右の変な格子が恐いのですが・・・。



偽ステンドグラスの上には『風俗営業(簡易料理店)』なる鑑札。福島県で見かけたことがありますが、千葉県では初めてかも。



⑯の木更津温泉ホテルさんの処に戻って通りを西に行きますと、ボーリングのピンが見えてきます。



⑲のセントラルボウルさん、ボーリング場、映画館、ゲームコーナーといった感じで嘗ては娯楽の殿堂だったと思われますが、前回時点で既に風前の灯状態に見えました。今回再訪してみますと、ボーリング場とゲームコーナーは一応健在でしたが、映画館は閉館しておりました。これで市内の歴史ある映画館は全滅ということになるわけです。まあ、そういった映画館などとっくの昔に消え失せた町なんて、そこらじゅうにありますからね。よくぞ頑張ったと言うべきなのかもしれません。ちなみにコチラ、オープンは昭和50年(1975)だそうですので、絵地図には描かれておりません。



矢那川に抜ける観月通り沿いに冒頭画像の橙の木があります。



近くのどん詰まり路地の光景、いい感じに鄙びた飲み屋さんが軒を連ねておりました。現役かどうかは微妙だけど・・・。



最後に訪れたのが矢那川の河口にひろがる緑地、その片隅にあるのが⑳の富士見亭さん。絵地図では海の中ですが(笑)後から埋め立てられたのでしょう。コチラのロケーションが素晴らしい、まさにポツーンです。こんな佇まいですので、ドラマや映画のロケなどにも使われるとか。私の第一印象は海の家でした。



海の家風ですが、メニューはやきそばとその大盛りのみ。まだあさり尽しが未消化でしたので、単なるやきそばを所望。削り粉が使われているので、富士宮やきそばに似ているかも。やっぱり鉄板で作るやきそばはいいよねえ。女将さんが話好きでかなりまったりしちゃいました。うろ覚えですが、元々、店は女将さんのお母さんがやっていたそうです。お母さんが亡くなった際、店を閉めようと思ったそうですが、役所から閉めないでほしいと頼まれたとか。肝心の遊里関係は、現役の芸者さんがいるという程度の認識であきまへんでした。まあ、何というか、木更津らしさが凝縮されたようなお店でしたよ。

アド街で紹介されたアウトレットパークに海ほたる、そして潮干狩り、見事なまでに中心街はスルーされているわけ。寂しいですがこれが現実なのです。次に訪れるとき、町はどんな表情で迎えてくれるでしょうか・・・。訪れる度、衰退が手に取るように判るちょっと哀しい町、木更津の再々訪編は以上でオシマイ。

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