謎のマドンナ通り・切通し脇の遊廓跡?・火の見櫓が乗った消防小屋
小さな小さな消防小屋に昔の町名が残っておりました。
先日、仙台に出張してきました。此処で仕事の話もなんですので手短に説明しますと、ピンチヒッターで行ってほしいという話がきたのがなんと二日前。以前ちょっとだけ関わった物件でしたのである程度内容を把握はしていましたが、オイオイ急すぎるだろと文句言いながらも引き受けちゃう私も私なんですけど・・・まあ、いろいろと大人の事情ってものがあるのです。ちょうど木金が出張でしたので、土日で仙台周辺の町を訪れようかなと思ったのですが、そんな準備をしている時間など全くないわけ。そこで思いついたのがお隣の山形県。二年前、東北を旅したとき候補に挙がっていた町があったはず、下調べもして探索用の地図も作成済みのはず、何処にやったっけ、ガサゴソ(PCのフォルダを探る音)・・・といった感じで始まるのが今回のほぼぶっつけ本番の探索というわけ。
まず訪れたのは山形県のほぼ中央部に位置する村山市。以前は楯岡町でしたが、昭和29年(1954)に周辺の町村と合併して誕生したのが現在の町の姿になります。中世の頃は楯岡氏が治めた城下町でしたが、江戸時代になると楯岡城が廃城となり、以降は町を南北に貫く羽州街道の宿場町として栄えていくことになります。現在も二日町、五日町といった感じで市が開かれていた名残と思われる町名が残っており、往時は物資の集積地だったということが判ります。そんな町にも嘗て遊里がありました。以下は毎度お馴染『全国遊廓案内』からの抜粋になります。
『山形県北村山郡楯岡町に在つて奥羽線楯岡駅で下車して北へ約十丁の個所にある。楯岡は人口約一萬の繁華地で、旧幕時代に蝦夷、樺太等を探検した最上徳内と云ふ人の出生地で、近藤重蔵、間宮林蔵等の先鞭者であつた。貸座敷は五軒あるが昔からの宿場に成つて居て旧幕時代の飯盛女気分が微かに残つて居る・・・妓楼は新島楼、但馬楼、岩城楼、東楼、平楼の五軒で、娼妓は全部で十五人居るが、殆んど山形県の女計りだ・・・』
仙台駅から仙山線快速に乗り込み一路西へ・・・そういえばコレに乗るのは九年ぶり、そのときは途中の名勝山寺に登ったっけ。帰りに寄ろうかなと思いながら時計を見て半ば諦めました。昨晩、ちょっと深酒しちゃいまして大寝坊、寄れたらいいな程度にしておきましょう。緑豊かな中を一時間ほどで羽前千歳駅に到着、奥羽本線に乗り換えて30分ほどで村山駅(旧楯岡駅)です。しかし、此処で問題発生、次の山形方面の列車は一時間ちょっと後、それを逃すと次はなんと三時間半近く後・・・そんなにネタないよ。このあたりがぶっつけ本番の弊害とでも申しましょうか、慌しい探索になりそうです。
駅前通りを東へ、すぐに県道29号線にぶつかります。これが嘗ての羽州街道、左折してすぐに見えてくるのが丸藤さんなる洋品店?いきなり凄いのが現れたぞ。
どこかの宮殿みたいなバルコニー、柱にちゃんとエンタシスがついているのに驚いた。奥のアーチ窓の欄間、扉は緑青が浮き出た銅板張り、そしてパラペットの幾何学模様。どうやら大正年間に建てられたようですが、もっと驚いたのが県内最古クラスの鉄筋コンクリート造だということ。手摺や細やかな装飾もコンクリート???ジックリ観察できないのがもどかしい。
その先に現れたマドンナ通りの大門に脱力・・・素晴らしい近代建築の次はコレですか(笑)
えーと、看板の女性がマドンナさん???
お隣のお宅には円形の造作、その先の小さな看板にスナックマドンナとありました。
ワハハ、なんと反対側にも大門があるではありませんか。
旧街道に戻る途中、円形造作のあるお宅の縁の下から私の行動を監視していた仔と目が合った(笑)今日は蒸し暑いものね。
赤い海鼠壁が妙に艶かしい立派な土蔵造りの商家、物凄い奥行きから最初は旅館かと思いましたが呉服屋さんでした。
どうやらこの界隈が宿場の中心だったようです。コチラの向かいの郵便局辺りに本陣があったそうです。
お次は洋館風の商店、鋳鉄製?の窓台グリルは後から取り付けたものじゃないかなあ。
その先に不思議な神社があります。地元で愛宕様と呼ばれ親しまれている愛宕神社です。巨岩を積み上げたような高台の上が境内になっているわけ。
境内にも巨岩が顔を覗かせており、その間を縫うようにしてケヤキの巨木が並んでいます。いちばんの御高齢は樹齢300年なんだとか。このケヤキ林は県の天然記念物に指定されています。
その先の光景、まず位置関係を整理しますと、さきほどの愛宕様は私の左後方にあります。右に岩肌むき出しの崖が見えますが、江戸の頃、この崖と愛宕様の高台は繋がっていました。羽州街道は高台を急坂で乗り越えていたそうですが、明治になってから切通しを造りフラットになったのが現在の姿になります。肝心の遊廓跡ですが、地元の子供向け新聞?『おこさまサラダ 14号』に昔の村山の様子を表した絵地図があり、ちょうど切通しの手前辺りに『元の花街』という表記があるわけ。そこについての注釈はありませんでしたが、おそらく此処で間違いないかと。子供向けのため遊廓というストレートな表現は避け、『元の花街』としたのではないでしょうか。まあ、子供にしてみれば『元の花街』って何???感じかもしれませんが(笑)すぐにでもそっちを探りたいのですが、その前に前方に見える気になる物件を先に・・・。
何かの商店だったのでしょうか、柱型や小庇の持ち送りに西洋風の装飾が見られます。
脇の路地に沿って裏手に行くと土に石といった感じでいろんな蔵がいっぱい、この路地は大正解。
元飲み屋さん?といった感じのお宅の玄関廻りがステキ。近くが『元の花街』ならば納得の状況ではないかと。よくよく見たら軒天が葦簀(よしず)天井ではありませんか、外部に使う仕上ではありませんが、こういう凝り具合は好きですよ。
その先にはカッコイイ写真館。たぶん七十年・・・いや、八十年代かなあ、どう見ても近代建築とは言えませんけどね。
切通しに戻って、崖を登っていきますと湯殿山と刻まれた石碑。出羽三山信仰が盛んだった証です。ちなみに村山市から北西に40キロほど行くと月山、羽黒山、湯殿山です。
崖の上には小さな祠、八坂神社です。
高台から遊廓跡と思われる一画を見下ろします。実際は『全国遊廓案内』に『昔からの宿場に成つて居り』とあるとおり、羽州街道沿いに並んでいたんじゃないかと思ったのですが、名残すら皆無の状態でした。
旧街道沿いが駄目ならと、もっと内側を探ってみましたが収穫ゼロ。あったのは立派な土蔵だけ・・・。
時間もないので遊廓跡は諦め、周辺を探っていて見つけたのが冒頭画像の小さな小さな消防小屋。屋根に火の見櫓が乗っているという変り種。
ドイツ壁風の外壁に洗い出し風左官仕上でフレーム風の装飾、もちろん館名は鏝絵です。正面から見ると判りますが、火の見櫓が中心に乗っていないのです。
消防小屋前の通りを山側へ、ダラダラ登る坂道を行きますと、判読不能の石碑の先に見えてきたのが・・・
・・・ちょっとお疲れ気味の茅葺屋根。
近くあるのが明治16年(1883)創業の高梨醤油店さん。この地方特有なのか、この赤い瓦をよく見かけました。おっと、残念ながら此処で時間切れ、急いで駅に戻りましょう。
旧羽州街道の裏通りで見かけた草臥れてはいるが美しい青緑の外壁、既に退役済みのようでした。
駅前通りに出る手前に残っていた大谷石の蔵です。
なんとか間に合った・・・ふと見上げると、駅の改札前に巨大な草鞋。行きのときは時間ばかり気にしてて全く気付かなかった。
果たして『元の花街』が遊廓跡だったのか、やはり一時間ちょっとの探索じゃねえ・・・もう少し時間があれば結果は違っていたかも。内容が薄くて申し訳ない、以上で村山市の探索はオシマイ。次回は山形方面に戻って、前回アクシデントで訪ねられなかった町をレポ致します。そこは結構有名な温泉地、遊廓跡と思われる一画を巡った後、150円で浸かれるという共同浴場で汗を流すというプラン、楽しみです。
小さな小さな消防小屋に昔の町名が残っておりました。
先日、仙台に出張してきました。此処で仕事の話もなんですので手短に説明しますと、ピンチヒッターで行ってほしいという話がきたのがなんと二日前。以前ちょっとだけ関わった物件でしたのである程度内容を把握はしていましたが、オイオイ急すぎるだろと文句言いながらも引き受けちゃう私も私なんですけど・・・まあ、いろいろと大人の事情ってものがあるのです。ちょうど木金が出張でしたので、土日で仙台周辺の町を訪れようかなと思ったのですが、そんな準備をしている時間など全くないわけ。そこで思いついたのがお隣の山形県。二年前、東北を旅したとき候補に挙がっていた町があったはず、下調べもして探索用の地図も作成済みのはず、何処にやったっけ、ガサゴソ(PCのフォルダを探る音)・・・といった感じで始まるのが今回のほぼぶっつけ本番の探索というわけ。
まず訪れたのは山形県のほぼ中央部に位置する村山市。以前は楯岡町でしたが、昭和29年(1954)に周辺の町村と合併して誕生したのが現在の町の姿になります。中世の頃は楯岡氏が治めた城下町でしたが、江戸時代になると楯岡城が廃城となり、以降は町を南北に貫く羽州街道の宿場町として栄えていくことになります。現在も二日町、五日町といった感じで市が開かれていた名残と思われる町名が残っており、往時は物資の集積地だったということが判ります。そんな町にも嘗て遊里がありました。以下は毎度お馴染『全国遊廓案内』からの抜粋になります。
『山形県北村山郡楯岡町に在つて奥羽線楯岡駅で下車して北へ約十丁の個所にある。楯岡は人口約一萬の繁華地で、旧幕時代に蝦夷、樺太等を探検した最上徳内と云ふ人の出生地で、近藤重蔵、間宮林蔵等の先鞭者であつた。貸座敷は五軒あるが昔からの宿場に成つて居て旧幕時代の飯盛女気分が微かに残つて居る・・・妓楼は新島楼、但馬楼、岩城楼、東楼、平楼の五軒で、娼妓は全部で十五人居るが、殆んど山形県の女計りだ・・・』
仙台駅から仙山線快速に乗り込み一路西へ・・・そういえばコレに乗るのは九年ぶり、そのときは途中の名勝山寺に登ったっけ。帰りに寄ろうかなと思いながら時計を見て半ば諦めました。昨晩、ちょっと深酒しちゃいまして大寝坊、寄れたらいいな程度にしておきましょう。緑豊かな中を一時間ほどで羽前千歳駅に到着、奥羽本線に乗り換えて30分ほどで村山駅(旧楯岡駅)です。しかし、此処で問題発生、次の山形方面の列車は一時間ちょっと後、それを逃すと次はなんと三時間半近く後・・・そんなにネタないよ。このあたりがぶっつけ本番の弊害とでも申しましょうか、慌しい探索になりそうです。
駅前通りを東へ、すぐに県道29号線にぶつかります。これが嘗ての羽州街道、左折してすぐに見えてくるのが丸藤さんなる洋品店?いきなり凄いのが現れたぞ。
どこかの宮殿みたいなバルコニー、柱にちゃんとエンタシスがついているのに驚いた。奥のアーチ窓の欄間、扉は緑青が浮き出た銅板張り、そしてパラペットの幾何学模様。どうやら大正年間に建てられたようですが、もっと驚いたのが県内最古クラスの鉄筋コンクリート造だということ。手摺や細やかな装飾もコンクリート???ジックリ観察できないのがもどかしい。
その先に現れたマドンナ通りの大門に脱力・・・素晴らしい近代建築の次はコレですか(笑)
えーと、看板の女性がマドンナさん???
お隣のお宅には円形の造作、その先の小さな看板にスナックマドンナとありました。
ワハハ、なんと反対側にも大門があるではありませんか。
旧街道に戻る途中、円形造作のあるお宅の縁の下から私の行動を監視していた仔と目が合った(笑)今日は蒸し暑いものね。
赤い海鼠壁が妙に艶かしい立派な土蔵造りの商家、物凄い奥行きから最初は旅館かと思いましたが呉服屋さんでした。
どうやらこの界隈が宿場の中心だったようです。コチラの向かいの郵便局辺りに本陣があったそうです。
お次は洋館風の商店、鋳鉄製?の窓台グリルは後から取り付けたものじゃないかなあ。
その先に不思議な神社があります。地元で愛宕様と呼ばれ親しまれている愛宕神社です。巨岩を積み上げたような高台の上が境内になっているわけ。
境内にも巨岩が顔を覗かせており、その間を縫うようにしてケヤキの巨木が並んでいます。いちばんの御高齢は樹齢300年なんだとか。このケヤキ林は県の天然記念物に指定されています。
その先の光景、まず位置関係を整理しますと、さきほどの愛宕様は私の左後方にあります。右に岩肌むき出しの崖が見えますが、江戸の頃、この崖と愛宕様の高台は繋がっていました。羽州街道は高台を急坂で乗り越えていたそうですが、明治になってから切通しを造りフラットになったのが現在の姿になります。肝心の遊廓跡ですが、地元の子供向け新聞?『おこさまサラダ 14号』に昔の村山の様子を表した絵地図があり、ちょうど切通しの手前辺りに『元の花街』という表記があるわけ。そこについての注釈はありませんでしたが、おそらく此処で間違いないかと。子供向けのため遊廓というストレートな表現は避け、『元の花街』としたのではないでしょうか。まあ、子供にしてみれば『元の花街』って何???感じかもしれませんが(笑)すぐにでもそっちを探りたいのですが、その前に前方に見える気になる物件を先に・・・。
何かの商店だったのでしょうか、柱型や小庇の持ち送りに西洋風の装飾が見られます。
脇の路地に沿って裏手に行くと土に石といった感じでいろんな蔵がいっぱい、この路地は大正解。
元飲み屋さん?といった感じのお宅の玄関廻りがステキ。近くが『元の花街』ならば納得の状況ではないかと。よくよく見たら軒天が葦簀(よしず)天井ではありませんか、外部に使う仕上ではありませんが、こういう凝り具合は好きですよ。
その先にはカッコイイ写真館。たぶん七十年・・・いや、八十年代かなあ、どう見ても近代建築とは言えませんけどね。
切通しに戻って、崖を登っていきますと湯殿山と刻まれた石碑。出羽三山信仰が盛んだった証です。ちなみに村山市から北西に40キロほど行くと月山、羽黒山、湯殿山です。
崖の上には小さな祠、八坂神社です。
高台から遊廓跡と思われる一画を見下ろします。実際は『全国遊廓案内』に『昔からの宿場に成つて居り』とあるとおり、羽州街道沿いに並んでいたんじゃないかと思ったのですが、名残すら皆無の状態でした。
旧街道沿いが駄目ならと、もっと内側を探ってみましたが収穫ゼロ。あったのは立派な土蔵だけ・・・。
時間もないので遊廓跡は諦め、周辺を探っていて見つけたのが冒頭画像の小さな小さな消防小屋。屋根に火の見櫓が乗っているという変り種。
ドイツ壁風の外壁に洗い出し風左官仕上でフレーム風の装飾、もちろん館名は鏝絵です。正面から見ると判りますが、火の見櫓が中心に乗っていないのです。
消防小屋前の通りを山側へ、ダラダラ登る坂道を行きますと、判読不能の石碑の先に見えてきたのが・・・
・・・ちょっとお疲れ気味の茅葺屋根。
近くあるのが明治16年(1883)創業の高梨醤油店さん。この地方特有なのか、この赤い瓦をよく見かけました。おっと、残念ながら此処で時間切れ、急いで駅に戻りましょう。
旧羽州街道の裏通りで見かけた草臥れてはいるが美しい青緑の外壁、既に退役済みのようでした。
駅前通りに出る手前に残っていた大谷石の蔵です。
なんとか間に合った・・・ふと見上げると、駅の改札前に巨大な草鞋。行きのときは時間ばかり気にしてて全く気付かなかった。
果たして『元の花街』が遊廓跡だったのか、やはり一時間ちょっとの探索じゃねえ・・・もう少し時間があれば結果は違っていたかも。内容が薄くて申し訳ない、以上で村山市の探索はオシマイ。次回は山形方面に戻って、前回アクシデントで訪ねられなかった町をレポ致します。そこは結構有名な温泉地、遊廓跡と思われる一画を巡った後、150円で浸かれるという共同浴場で汗を流すというプラン、楽しみです。