歓迎大門と廃映画館・門柱が残る遊廓跡?・湯女の碑と400歳の共同浴場
左の旅館松本屋さん、玄関を入った処に面白い形状の下地窓があります。
村山駅から40分ほどで山形駅です。奥羽本線普通列車のほとんどは山形止まりですので、米沢や福島方面へ向かうには此処で乗り継がないとならないのですが、どうも接続がうまくいかないわけ。その時間を利用して駅前のお店で昼食、ウーム、やはり真夏の芋煮定食はいまいちだったか(笑)二年前、私はこの町で、熱中症寸前と思われる体調急変で探索を途中で打ち切るというアクシデントに遭っているのです。そのとき山形市の次に訪れる予定だったのが上山市、蔵王連峰の裾野にひろがる盆地に位置している町になります。
上山は能見松平家が治めた上山藩三万石の城下町、羽州街道と七ヶ宿街道という二本の街道が通る交通の要衝でもあります。まあ、そんなことより世間一般的には、かみのやま温泉がある町ですよと言ったほうが通じるかもしれませんね。湯町、十日町、新湯などなど数多くの温が湧出しており、これらを総称してかみのやま温泉と呼んでいます。由来は長禄2年(1458)に旅の僧が、沼地に湧く湯で脛の傷を癒している鶴と出会ったのが始まりとされています。数多くの旅館やホテルが軒を連ねていますが、それ以外にも7つの外湯(共同浴場)があるのが特徴になるでしょうか。今回は遊廓跡等を巡った後、その共同浴場で汗を流すというプランになっているわけ。以下はお馴染『全国遊廓案内』からの抜粋、遊廓についてはレポの中でお話致します。
『上山遊廓 山形県南村山郡上山町字新町にあつて、鉄道に依る時は、奥羽線上山駅で下車、北方約十丁の個所にあつて、町の中北を通つて居る国道に沿ふて北方約七八丁位行き、四つ谷街道に入り約一丁の処にある。温泉町であるので早くより各地人から知られ、又上山は松平氏の城下であつた為めに相当繁華を極めた処であるが、遊廓は最初国道筋にあつたものが明治三十年頃現在の新町に集合して廓となつたもので、目下楼数四軒、娼妓約二十人位居り、湯治客及近在の者等の為め相当繁昌を極めて居る・・・特殊の情緒は毎年の例として盆には盆踊が遊廓の中で催され、多くの客と入乱れて、踊り狂ふのが見物である・・・妓楼は新吉楼、新吉楼支店、舞鶴楼、柏木楼、瀧本楼等である』
奥羽本線と並行して流れる前川の手前に金鳥の琺瑯看板が残るお宅、右は飲み屋さんの亡骸でしょうか。前川を渡った先が温泉旅館街になっております。
駅前からの通りと交わるのが県道13号線、嘗ての羽州街道になります。交差点の角にあるのが上山市観光物産協会。タバコのカウンターがあることから元商店かなと思ったのですが・・・
・・・正体は旧上山郵便局、明治44年(1911)に建てられたそうです。寄棟屋根に下見板張りの洋館風の建物です。
鄙びた温泉街には不釣合いに見える巨大なショッピングセンターの裏手、ブロック塀の上でニャンコがノビてた(笑)陽射しがないのは助かるのですが、そのぶん非常に蒸し暑い、二年前の悪夢が蘇ってきた・・・。
近くにあるのが二日町共同浴場、建替えたばかりのように真新しい、趣き皆無ですのでパスします。
グルッと回って駅前から続く通りに出る途中にあったお宅、外壁が妙に艶っぽい色なわけ。暑さのせいかヒマワリも項垂れ気味。
その先の路地を入りますと見えてくるのが旅館よね本さん。建物の角を隅切って入口を造り、両側に西洋風の柱型を配したモダンな造り。二階には円窓が並んでいるのですが、後付されたテント庇がシックリ馴染んでいるのが面白いわけ。
隅切りの部分が入口かと思ったら奥に立派な車寄せ風の入母屋破風がありました。この日は植木屋さんが総出で庭木の剪定中。ネットでも一応ヒットするので現役だと思うのですが、それ以外、建物の素性などの情報が皆無という不思議な物件なのです。
駅前から続く通りに戻りました。パーマ屋さんのサイケな看板がお気に入り、今は亡き藤沢のまりこを思い出しましたよ。
その先に上山城を模したと思われる歓迎の大門。脇には特徴的な体育館みたいな物件があります。そう、閉館となった映画館です。円柱に貼られた黄緑のモザイクタイルが妙に鮮やかです。
名前をトキワ館といいます。いつ頃開館し、いつ頃閉館になったのかは不明ですが、末期はほぼピンク映画専門だったとか。
回り込むと増築されたと思われる飲み屋さんの亡骸がへばり付いておりました。右に行くとさきほどの旅館よね本さんがあります。
通りを西へと辿ります。左側はこんな感じですが、右側にはかなり規模の大きな旅館が並んでおります。暑さのせいでしょうか、湯治客の姿はほとんど見かけませんでした。まあ、この鄙びた感じ嫌いではありませんけど。
その先の看板に導かれるまま路地を辿っていきますと、こんな奥まった場所にありました。澤の湯、コチラも共同浴場の一つなのですが、まだまだ歩かないとなりませんのでパスということで。
月岡ホテルさんの裏口にも暑さでとろけたニャンコ。毛色が珍しいのですが、この仔、かなりデカイのです。後ろを従業員が頻繁に行き来するのに我関せずといった感じ、図体同様態度もデカイ(笑)
上山城址の北西側の一画にあるのが武家屋敷通り。嘗ては上山藩の要職にあった家臣の住まいが並んでいました。現在も往時の面影を残すお宅が四軒ほど残っています。その中の一軒、森本家住宅です。現在も住宅として現役ですが、庭までは立ち入ることが可能です。
伝統的な茅葺の曲り家、来客用の玄関と通用口とを別にする武家中門造りというやつですな。残りの三軒の中には有料で内部を見学できるお宅もあるようですが、どれも似たような造りでしたので割愛、手抜きで申し訳ない。
上山城址を廻り込むようにして坂を下っていきますと、旅館が建ち並ぶ一画に出ます。湯町の旅館街、冒頭画像の場所が此処になります。
退役してからかなり時間が経過していると思われる旅館松本屋さん。一階の庇は桧皮葺きです。由緒正しき湯治場といった佇まいが素晴らしいなあ。
奥には立派な土蔵が続いておりました。確か右の円窓がある建物は床屋さんだったかな。
近くのお宅だったと記憶しているのですが・・・葉っぱが綺麗でしたので。そのまま道なりに下っていきますと再び旧羽州街道(県道13号線)に出ます。旧街道を北東へ、遊廓があったと思われる場所に向かいます。
しばらく行きますと、登り坂が左に分岐しています。この通りが『全国遊廓案内』にある四つ谷街道、まあ羽州街道のことなんですけどね。目印は一軒の土蔵です。
土蔵の先を左折して脇道に入ると新町一丁目、この先を右に入った処が遊廓跡ではないかと睨んでいる一画。地図をご覧になれば判りますが、遊廓特有のメインストリートらしきものが確認できるはずです。
メインストリート?に入ると右手にこんな塀が現れます。なぜか端っこに門柱が建っているわけ。
入口にも立派な門柱、奥には赤い屋根の大きなお宅があるのですが、玄関前の植込のせいで全体像がよく判らん。
脇からやっと全体を見渡すことができました。綺麗に直されておりますが、玄関の車寄せ風の入母屋破風に辛うじて名残が感じられるのではないかと。まあ、此処が遊廓跡と決まったわけではありませんが、昔の航空写真にはコチラの向かいにも複雑な屋根形状の大きな建物が写っていたとお伝えしておきます。
旧羽州街道に戻り、駅方面へ・・・途中の脇道で見つけたスタイル抜群の赤煉瓦煙突。大正10年(1921)創業の醤油の蔵元、鏡政治商店さんです。
またしばらく旧街道を辿り、右折して上山城址側に入りますとすぐに見えてくるのが下大湯公衆浴場、コチラが目的の共同浴場になります。汗だくですので早く湯に飛び込みたいのですが、その前に背後の高台にある観音寺さんにお参りしていきましょう。
境内にこんな石碑があります。達筆すぎて読めませんが、コチラは湯女(ゆな)の供養塔になります。要するに温泉地版飯盛女ですな。下の大湯(下大湯公衆浴場)界隈、二十数軒の旅籠に対して、湯女を置くことが許可されたのは元文2年(1737)のこと。その後、天保から幕末にかけて隆盛を極めることになる・・・と説明板にはありました。そうなりますと、さきほどの遊廓跡?は湯女由来ということになるのかもしれませんね。
かみのやま温泉の外湯で最も歴史があるのがコチラになります。寛永元年(1624)に上山藩主松平重忠が、町民のためにこの湯を開放したのが始まりとされています。400年近い歴史がある共同浴場ということになりますな。歴史にも驚きましたが、もっと驚いたのが150円で浸かれるということ、以前は50円だったとか!?天井の高い浴室、浴槽は六畳ほどもある大きなものです。お湯は無色透明、匂いもありません。それでは・・・アッチー!!温度計には45度とありましたが、コレ壊れてるんじゃないの?江戸っ子じゃありませんので5分と浸かっていられないわけ。浴槽の縁に避難して、落着いたら再び浸かること数セットで限界ですわ。でも地元の方は平気の様子、まあお爺ちゃんは茹蛸みたいになっていましたけど(笑)とりあえずスッキリしたので良しと致しましょう。
駅に戻る途中、リブ壁だらけの元商店?に出会いました。むちゃくちゃカッコイイんですけど。
駅から続く通りに出る手前に飲み屋さんが集まっておりました。そのうちの一軒にクラクラ、まだ湯あたりするには早いよね。
駅の時刻表を見て悟りました、山寺には寄れないと。以上で温泉郷上山市の探索はオシマイ、今日はこのまま仙台に戻りますが、明日はどうしましょう。完全にノープランなんですけど・・・。
左の旅館松本屋さん、玄関を入った処に面白い形状の下地窓があります。
村山駅から40分ほどで山形駅です。奥羽本線普通列車のほとんどは山形止まりですので、米沢や福島方面へ向かうには此処で乗り継がないとならないのですが、どうも接続がうまくいかないわけ。その時間を利用して駅前のお店で昼食、ウーム、やはり真夏の芋煮定食はいまいちだったか(笑)二年前、私はこの町で、熱中症寸前と思われる体調急変で探索を途中で打ち切るというアクシデントに遭っているのです。そのとき山形市の次に訪れる予定だったのが上山市、蔵王連峰の裾野にひろがる盆地に位置している町になります。
上山は能見松平家が治めた上山藩三万石の城下町、羽州街道と七ヶ宿街道という二本の街道が通る交通の要衝でもあります。まあ、そんなことより世間一般的には、かみのやま温泉がある町ですよと言ったほうが通じるかもしれませんね。湯町、十日町、新湯などなど数多くの温が湧出しており、これらを総称してかみのやま温泉と呼んでいます。由来は長禄2年(1458)に旅の僧が、沼地に湧く湯で脛の傷を癒している鶴と出会ったのが始まりとされています。数多くの旅館やホテルが軒を連ねていますが、それ以外にも7つの外湯(共同浴場)があるのが特徴になるでしょうか。今回は遊廓跡等を巡った後、その共同浴場で汗を流すというプランになっているわけ。以下はお馴染『全国遊廓案内』からの抜粋、遊廓についてはレポの中でお話致します。
『上山遊廓 山形県南村山郡上山町字新町にあつて、鉄道に依る時は、奥羽線上山駅で下車、北方約十丁の個所にあつて、町の中北を通つて居る国道に沿ふて北方約七八丁位行き、四つ谷街道に入り約一丁の処にある。温泉町であるので早くより各地人から知られ、又上山は松平氏の城下であつた為めに相当繁華を極めた処であるが、遊廓は最初国道筋にあつたものが明治三十年頃現在の新町に集合して廓となつたもので、目下楼数四軒、娼妓約二十人位居り、湯治客及近在の者等の為め相当繁昌を極めて居る・・・特殊の情緒は毎年の例として盆には盆踊が遊廓の中で催され、多くの客と入乱れて、踊り狂ふのが見物である・・・妓楼は新吉楼、新吉楼支店、舞鶴楼、柏木楼、瀧本楼等である』
奥羽本線と並行して流れる前川の手前に金鳥の琺瑯看板が残るお宅、右は飲み屋さんの亡骸でしょうか。前川を渡った先が温泉旅館街になっております。
駅前からの通りと交わるのが県道13号線、嘗ての羽州街道になります。交差点の角にあるのが上山市観光物産協会。タバコのカウンターがあることから元商店かなと思ったのですが・・・
・・・正体は旧上山郵便局、明治44年(1911)に建てられたそうです。寄棟屋根に下見板張りの洋館風の建物です。
鄙びた温泉街には不釣合いに見える巨大なショッピングセンターの裏手、ブロック塀の上でニャンコがノビてた(笑)陽射しがないのは助かるのですが、そのぶん非常に蒸し暑い、二年前の悪夢が蘇ってきた・・・。
近くにあるのが二日町共同浴場、建替えたばかりのように真新しい、趣き皆無ですのでパスします。
グルッと回って駅前から続く通りに出る途中にあったお宅、外壁が妙に艶っぽい色なわけ。暑さのせいかヒマワリも項垂れ気味。
その先の路地を入りますと見えてくるのが旅館よね本さん。建物の角を隅切って入口を造り、両側に西洋風の柱型を配したモダンな造り。二階には円窓が並んでいるのですが、後付されたテント庇がシックリ馴染んでいるのが面白いわけ。
隅切りの部分が入口かと思ったら奥に立派な車寄せ風の入母屋破風がありました。この日は植木屋さんが総出で庭木の剪定中。ネットでも一応ヒットするので現役だと思うのですが、それ以外、建物の素性などの情報が皆無という不思議な物件なのです。
駅前から続く通りに戻りました。パーマ屋さんのサイケな看板がお気に入り、今は亡き藤沢のまりこを思い出しましたよ。
その先に上山城を模したと思われる歓迎の大門。脇には特徴的な体育館みたいな物件があります。そう、閉館となった映画館です。円柱に貼られた黄緑のモザイクタイルが妙に鮮やかです。
名前をトキワ館といいます。いつ頃開館し、いつ頃閉館になったのかは不明ですが、末期はほぼピンク映画専門だったとか。
回り込むと増築されたと思われる飲み屋さんの亡骸がへばり付いておりました。右に行くとさきほどの旅館よね本さんがあります。
通りを西へと辿ります。左側はこんな感じですが、右側にはかなり規模の大きな旅館が並んでおります。暑さのせいでしょうか、湯治客の姿はほとんど見かけませんでした。まあ、この鄙びた感じ嫌いではありませんけど。
その先の看板に導かれるまま路地を辿っていきますと、こんな奥まった場所にありました。澤の湯、コチラも共同浴場の一つなのですが、まだまだ歩かないとなりませんのでパスということで。
月岡ホテルさんの裏口にも暑さでとろけたニャンコ。毛色が珍しいのですが、この仔、かなりデカイのです。後ろを従業員が頻繁に行き来するのに我関せずといった感じ、図体同様態度もデカイ(笑)
上山城址の北西側の一画にあるのが武家屋敷通り。嘗ては上山藩の要職にあった家臣の住まいが並んでいました。現在も往時の面影を残すお宅が四軒ほど残っています。その中の一軒、森本家住宅です。現在も住宅として現役ですが、庭までは立ち入ることが可能です。
伝統的な茅葺の曲り家、来客用の玄関と通用口とを別にする武家中門造りというやつですな。残りの三軒の中には有料で内部を見学できるお宅もあるようですが、どれも似たような造りでしたので割愛、手抜きで申し訳ない。
上山城址を廻り込むようにして坂を下っていきますと、旅館が建ち並ぶ一画に出ます。湯町の旅館街、冒頭画像の場所が此処になります。
退役してからかなり時間が経過していると思われる旅館松本屋さん。一階の庇は桧皮葺きです。由緒正しき湯治場といった佇まいが素晴らしいなあ。
奥には立派な土蔵が続いておりました。確か右の円窓がある建物は床屋さんだったかな。
近くのお宅だったと記憶しているのですが・・・葉っぱが綺麗でしたので。そのまま道なりに下っていきますと再び旧羽州街道(県道13号線)に出ます。旧街道を北東へ、遊廓があったと思われる場所に向かいます。
しばらく行きますと、登り坂が左に分岐しています。この通りが『全国遊廓案内』にある四つ谷街道、まあ羽州街道のことなんですけどね。目印は一軒の土蔵です。
土蔵の先を左折して脇道に入ると新町一丁目、この先を右に入った処が遊廓跡ではないかと睨んでいる一画。地図をご覧になれば判りますが、遊廓特有のメインストリートらしきものが確認できるはずです。
メインストリート?に入ると右手にこんな塀が現れます。なぜか端っこに門柱が建っているわけ。
入口にも立派な門柱、奥には赤い屋根の大きなお宅があるのですが、玄関前の植込のせいで全体像がよく判らん。
脇からやっと全体を見渡すことができました。綺麗に直されておりますが、玄関の車寄せ風の入母屋破風に辛うじて名残が感じられるのではないかと。まあ、此処が遊廓跡と決まったわけではありませんが、昔の航空写真にはコチラの向かいにも複雑な屋根形状の大きな建物が写っていたとお伝えしておきます。
旧羽州街道に戻り、駅方面へ・・・途中の脇道で見つけたスタイル抜群の赤煉瓦煙突。大正10年(1921)創業の醤油の蔵元、鏡政治商店さんです。
またしばらく旧街道を辿り、右折して上山城址側に入りますとすぐに見えてくるのが下大湯公衆浴場、コチラが目的の共同浴場になります。汗だくですので早く湯に飛び込みたいのですが、その前に背後の高台にある観音寺さんにお参りしていきましょう。
境内にこんな石碑があります。達筆すぎて読めませんが、コチラは湯女(ゆな)の供養塔になります。要するに温泉地版飯盛女ですな。下の大湯(下大湯公衆浴場)界隈、二十数軒の旅籠に対して、湯女を置くことが許可されたのは元文2年(1737)のこと。その後、天保から幕末にかけて隆盛を極めることになる・・・と説明板にはありました。そうなりますと、さきほどの遊廓跡?は湯女由来ということになるのかもしれませんね。
かみのやま温泉の外湯で最も歴史があるのがコチラになります。寛永元年(1624)に上山藩主松平重忠が、町民のためにこの湯を開放したのが始まりとされています。400年近い歴史がある共同浴場ということになりますな。歴史にも驚きましたが、もっと驚いたのが150円で浸かれるということ、以前は50円だったとか!?天井の高い浴室、浴槽は六畳ほどもある大きなものです。お湯は無色透明、匂いもありません。それでは・・・アッチー!!温度計には45度とありましたが、コレ壊れてるんじゃないの?江戸っ子じゃありませんので5分と浸かっていられないわけ。浴槽の縁に避難して、落着いたら再び浸かること数セットで限界ですわ。でも地元の方は平気の様子、まあお爺ちゃんは茹蛸みたいになっていましたけど(笑)とりあえずスッキリしたので良しと致しましょう。
駅に戻る途中、リブ壁だらけの元商店?に出会いました。むちゃくちゃカッコイイんですけど。
駅から続く通りに出る手前に飲み屋さんが集まっておりました。そのうちの一軒にクラクラ、まだ湯あたりするには早いよね。
駅の時刻表を見て悟りました、山寺には寄れないと。以上で温泉郷上山市の探索はオシマイ、今日はこのまま仙台に戻りますが、明日はどうしましょう。完全にノープランなんですけど・・・。