硬券現役の盲腸線に乗って・赤いトンガリ屋根の洋館・ド派手ソシアルビル裏は墓地
踏切脇に残るさつきさん、コチラが今回のお気に入り。
吉原と聞きますと、昔も今も男達のパラダイスとして君臨し続ける例の場所が真っ先に思い浮かぶと思います。残念、今回は静岡県の吉原ですのでお間違いのないように。県の東部に位置する町なのですが、元々は吉原市でした。昭和41年(1966)に旧富士市、鷹岡町と合併し、新しく発足した富士市の一部になっています。江戸の頃は、東海道の日本橋から数えて14番目の宿場でした。当初は田子の浦に面したJR吉原駅附近にあったそうですが、度重なる水害などで二度の移転を余儀なくされ、最終的に落着いたのが今回歩く界隈になります。往時には本陣2軒、脇本陣4軒を有していましたが、石高が低く近隣の村などに依存していた貧しい宿場だったそうです。そんな町にも宿場の飯盛女が由来と思われる遊廓が存在していました。
『吉原町遊廓 静岡県吉原町に在つて、富士身延鉄道吉原駅で下車する。妓楼はたつた一軒で、娼妓は四五人しか居ない。費用も、制度も、楼名も判明していない』
たった一軒・・・最大級の規模と最上級の格式を誇った遊廓と同じ名前だというのに、この凄まじいまでの格差。こんな状況ですので、端から遊里関係は期待しておりません。地図と睨めっこしても全くピンときませんでしたし。ではなぜこの町を訪れたのか・・・その理由は町を通る鉄道にあります。岳南鉄道線といいまして、JR吉原駅から分岐する路線長9.2キロほどの私鉄、コチラ大好物の盲腸線なのです。開業は昭和24年(1949)、東海道本線の吉原駅は中心街からかなり離れていましたので、そことを繋ぐための交通手段として敷設されました。また、周辺は製紙業を始めとする全国的に知られた工業地帯、貨物輸送という役割も担っていたようです。
その貨物輸送も平成24年(2012)をもって廃止となり、現在は工場の巨大煙突が林立する中を朱色の単行列車がガタゴト走っているだけ。工場萌えの撮り鉄などにとっては堪らん撮影ポイントがあるらしいです。そんな現状ですが一時間に二本程度は運行しているようですので、通勤通学の足としては辛うじて機能している様子。ですのであえてローカル線という表現は致しません。しかし、沿線には有名な観光地もありませんので、先行きが心配なことだけは確かなようです。まあ、その危うい感じに惹かれちゃうんですけどね。
盲腸線という以外、岳南鉄道線に乗りたかった理由がもう一つあります。それがこの硬券、手にしたのウン十年ぶりかも。
いいないいな、コレいいなと硬券を鑑賞していると、単行のワンマンカーが入ってきた。鮮やかな朱色の車両は7000系、元京王3000系の先頭車両を改造したものになります。角が丸まった窓がいいね。車両もいいのですが、丸パイプで構成されたカマボコ屋根のホーム上屋にも注目ですぞ。他所ではあまり見られないものではないでしょうか、軽やかすぎてちょっと不安になる構造ですが(笑)
二つ目の吉原本町駅で下車、駅前を横切る県道22号線が嘗ての東海道。ちょっと西へ行ったこの辺りが宿場跡なのですが、こんな酷い有様。昔の航空写真を確認しますと、60年代までは昔の家並みが残っていたようなのですが、いったい何があったのでしょう。
宿場の面影皆無ですので、脇道に避難すると前方に真っ赤なトンガリ屋根が見えてきます。その前に手前の『白衣』が気になって仕方がないわけ。
旧順天堂田中歯科医院・・・元々は明治22年(1889)頃、東京電燈(現東京電力)の初代社長だった矢島作郎が、蒲原町に別荘として建てたものとされています。それを買い取ったのが歯科医師の田中隆次郎、大正14年(1925)に現在地に移築して診療所として開業します。下見板張りに上げ下げ窓と開き窓が並ぶ外壁、急勾配の菱葺きトンガリ屋根がとても可愛らしい。既に医院としての役目を終え、住宅として余生を送っています。
裏手にはこんなドーム屋根の塔も・・・嘗ては勉強部屋だったとか。中はどうなっているのでしょう。数年前に国の登録文化財に指定されました。
その先のブロック塀には怪しげなフォント。
残念ながら既に息絶えておりました・・・。
旧東海道に戻ると、凄まじい色彩の氾濫に思わず仰け反りましたわ。なんか微妙にパクリ疑惑から逃れたようなアラジンらしき方が浮かんでいるし。はて、こんな処にネズミーランド系列のテーマパークがあったっけ?正体は飲み屋さんが集まった所謂ソシアルビルでした。いやはや、これには降参ですわ。ライカⅢ・・・果たしてⅠとⅡがあるのでしょうか、ちょっと見てみたいかも。
ライカⅢの前で旧東海道は左折しています。左手に見えるのが吉原中央駅。
駅と申しましたが、鉄道のではなく路線バスのターミナル駅になります。これが昭和そのものといった感じで結構いい雰囲気なのです。
近くの脇道で、いい感じに草臥れたトタン建築を見つけましたよ。
どうやら元は飲食店だったような佇まい。右の商店に無理矢理増築したように見えますな。此処で訂正、おさらいのストリートビューに暖簾が写っておりました、失礼なんと現役でしたか。
そのまま旧東海道を辿りますと、ようやく往時を物語るような町屋が現れ始めます。増築や改修を繰り返したのか、コチラの側面は結構凄いことになっておりました。
立派な土蔵造りの商家も残っていましたよ。妻壁に積まれているのは伊豆石だと思われます。
その先の看板に導かれて脇道に入ると現れるのが、旅館五色湯さん。
奥に見える下地窓がある棟が旅館のようですが、そうなると手前の事務所みたいなのは何なのでしょう。当初はコレが五色湯なる温泉なのではと考えたのですが、HPを見ましたら全く違っていたというわけ。それにしてもなんで五色湯なの???
このまま旧東海道を辿るのもなんですので、この辺りで引き返します。
仲睦まじい偽アラジンの処に戻って参りました。たった今、このソシアルビルの名称が判明、アラビアンナイトビルライカⅢというそうです。建物は3棟あって、それぞれペルシャ棟、ランプ棟、アラジン棟となっております。しかも、驚いたことに富士駅の近くにライカⅡがあったのです。コチラは何となくラブホ風でしたが(笑)ここまで書いてはたと気付きました、なんでこんなことを一生懸命調べているんだと・・・。
脇もすんごいことになっておりますなあ。バルコニーの間をダクトがウネウネ、そして看板がビッシリ、どうやら空き室は無さそうな雰囲気、これにはちょっと感心。掃除も行き届いている感じでしたし。
その最深部、奥に銅板葺きの屋根が見えますが、あれは保泉寺さん。すぐ向こうには墓地という強烈なロケーションなのです。
ちょっと戻って別の脇道に入ると、今度は歴史がありそうな町屋を改修したチャイナタウン。お隣の山門は保泉寺さんのです。
チャイナタウンとくると思い浮かぶのが映画のほう、ジャック・ニコルソンの鼻血が痛そうというのが妙に印象に残っているのですが、それ以上にセットなんだか本物なんだかよく分からないくらい背景の町並みが素晴らしかった。
左の大人の社交場はミス・スターパレスなるグランドキャバレー、たぶん退役済みだと思われます。次にチャイナタウン、山門、そしてド派手なライカⅢ。結構濃ゆい一画なのです。
その先には御前様会館なるクラブ、此処で飲みすぎて午前様とか・・・。
分岐する砂利道の先にも飲み屋さんの亡骸、これは素晴らしい佇まい。
この辺りが遊廓跡だったらいいなと・・・でもこの界隈、ちょうど宿場跡裏手のちょっと隔離されたような一画でして、そういうのがあったとしてもおかしくない場所なのです。遊里関係は期待しないと言いましたが、やっぱり気になるわけ。
そのまま通りを進みますと、今度はシンメトリー気味の看板建築。真ん中を入るとクラブがあるようです。
その先を左に入ると、いきなり長屋風の呑ん兵衛横丁が現れてビックリ。
そのうちの一軒の外壁は、妖しげなタイルで彩られておりました。
向かいのお宅がなかなかの逸品、特に直線と曲線を組み合わせたシンプルな構成の門がむちゃくちゃカッコイイぞ。
門から続く横長なダイヤ孔が開いた塀から、呑ん兵衛横丁を望みます。
吉原本町駅に戻る途中、宿場跡に建つビルで見つけました。大きさからしてニャンコというよりライオンだなこりゃ。
駅に着いたのですが、ふと思ったのが反対側はどうなっているんだろうということ。行ってみるとこれが大正解。踏切のすぐ向こうで見つけたのが冒頭画像のさつきさん。これは見事な廃れっぷりですなあ。
タイミングよく吉原行きの単行列車が通過してくれました。本当はあれに乗るつもりだったのですが、まあいいか、急ぐ旅ではありませんから。
ポーチが那智黒の洗い出しの左は、どうやら按摩さんだったみたい。
一方、さつきさんにはスツールが一脚、放置プレイされておりましたとさ。
次にやってきた宿場まつりのヘッドマークが付いた列車で戻ります。
宿場跡は残念でしたが、思っていた以上に楽しめた吉原の探索は以上でオシマイ。それにしても遊廓は何処にあったのでしょうね、それだけが心残りです。
踏切脇に残るさつきさん、コチラが今回のお気に入り。
吉原と聞きますと、昔も今も男達のパラダイスとして君臨し続ける例の場所が真っ先に思い浮かぶと思います。残念、今回は静岡県の吉原ですのでお間違いのないように。県の東部に位置する町なのですが、元々は吉原市でした。昭和41年(1966)に旧富士市、鷹岡町と合併し、新しく発足した富士市の一部になっています。江戸の頃は、東海道の日本橋から数えて14番目の宿場でした。当初は田子の浦に面したJR吉原駅附近にあったそうですが、度重なる水害などで二度の移転を余儀なくされ、最終的に落着いたのが今回歩く界隈になります。往時には本陣2軒、脇本陣4軒を有していましたが、石高が低く近隣の村などに依存していた貧しい宿場だったそうです。そんな町にも宿場の飯盛女が由来と思われる遊廓が存在していました。
『吉原町遊廓 静岡県吉原町に在つて、富士身延鉄道吉原駅で下車する。妓楼はたつた一軒で、娼妓は四五人しか居ない。費用も、制度も、楼名も判明していない』
たった一軒・・・最大級の規模と最上級の格式を誇った遊廓と同じ名前だというのに、この凄まじいまでの格差。こんな状況ですので、端から遊里関係は期待しておりません。地図と睨めっこしても全くピンときませんでしたし。ではなぜこの町を訪れたのか・・・その理由は町を通る鉄道にあります。岳南鉄道線といいまして、JR吉原駅から分岐する路線長9.2キロほどの私鉄、コチラ大好物の盲腸線なのです。開業は昭和24年(1949)、東海道本線の吉原駅は中心街からかなり離れていましたので、そことを繋ぐための交通手段として敷設されました。また、周辺は製紙業を始めとする全国的に知られた工業地帯、貨物輸送という役割も担っていたようです。
その貨物輸送も平成24年(2012)をもって廃止となり、現在は工場の巨大煙突が林立する中を朱色の単行列車がガタゴト走っているだけ。工場萌えの撮り鉄などにとっては堪らん撮影ポイントがあるらしいです。そんな現状ですが一時間に二本程度は運行しているようですので、通勤通学の足としては辛うじて機能している様子。ですのであえてローカル線という表現は致しません。しかし、沿線には有名な観光地もありませんので、先行きが心配なことだけは確かなようです。まあ、その危うい感じに惹かれちゃうんですけどね。
盲腸線という以外、岳南鉄道線に乗りたかった理由がもう一つあります。それがこの硬券、手にしたのウン十年ぶりかも。
いいないいな、コレいいなと硬券を鑑賞していると、単行のワンマンカーが入ってきた。鮮やかな朱色の車両は7000系、元京王3000系の先頭車両を改造したものになります。角が丸まった窓がいいね。車両もいいのですが、丸パイプで構成されたカマボコ屋根のホーム上屋にも注目ですぞ。他所ではあまり見られないものではないでしょうか、軽やかすぎてちょっと不安になる構造ですが(笑)
二つ目の吉原本町駅で下車、駅前を横切る県道22号線が嘗ての東海道。ちょっと西へ行ったこの辺りが宿場跡なのですが、こんな酷い有様。昔の航空写真を確認しますと、60年代までは昔の家並みが残っていたようなのですが、いったい何があったのでしょう。
宿場の面影皆無ですので、脇道に避難すると前方に真っ赤なトンガリ屋根が見えてきます。その前に手前の『白衣』が気になって仕方がないわけ。
旧順天堂田中歯科医院・・・元々は明治22年(1889)頃、東京電燈(現東京電力)の初代社長だった矢島作郎が、蒲原町に別荘として建てたものとされています。それを買い取ったのが歯科医師の田中隆次郎、大正14年(1925)に現在地に移築して診療所として開業します。下見板張りに上げ下げ窓と開き窓が並ぶ外壁、急勾配の菱葺きトンガリ屋根がとても可愛らしい。既に医院としての役目を終え、住宅として余生を送っています。
裏手にはこんなドーム屋根の塔も・・・嘗ては勉強部屋だったとか。中はどうなっているのでしょう。数年前に国の登録文化財に指定されました。
その先のブロック塀には怪しげなフォント。
残念ながら既に息絶えておりました・・・。
旧東海道に戻ると、凄まじい色彩の氾濫に思わず仰け反りましたわ。なんか微妙にパクリ疑惑から逃れたようなアラジンらしき方が浮かんでいるし。はて、こんな処にネズミーランド系列のテーマパークがあったっけ?正体は飲み屋さんが集まった所謂ソシアルビルでした。いやはや、これには降参ですわ。ライカⅢ・・・果たしてⅠとⅡがあるのでしょうか、ちょっと見てみたいかも。
ライカⅢの前で旧東海道は左折しています。左手に見えるのが吉原中央駅。
駅と申しましたが、鉄道のではなく路線バスのターミナル駅になります。これが昭和そのものといった感じで結構いい雰囲気なのです。
近くの脇道で、いい感じに草臥れたトタン建築を見つけましたよ。
どうやら元は飲食店だったような佇まい。右の商店に無理矢理増築したように見えますな。此処で訂正、おさらいのストリートビューに暖簾が写っておりました、失礼なんと現役でしたか。
そのまま旧東海道を辿りますと、ようやく往時を物語るような町屋が現れ始めます。増築や改修を繰り返したのか、コチラの側面は結構凄いことになっておりました。
立派な土蔵造りの商家も残っていましたよ。妻壁に積まれているのは伊豆石だと思われます。
その先の看板に導かれて脇道に入ると現れるのが、旅館五色湯さん。
奥に見える下地窓がある棟が旅館のようですが、そうなると手前の事務所みたいなのは何なのでしょう。当初はコレが五色湯なる温泉なのではと考えたのですが、HPを見ましたら全く違っていたというわけ。それにしてもなんで五色湯なの???
このまま旧東海道を辿るのもなんですので、この辺りで引き返します。
仲睦まじい偽アラジンの処に戻って参りました。たった今、このソシアルビルの名称が判明、アラビアンナイトビルライカⅢというそうです。建物は3棟あって、それぞれペルシャ棟、ランプ棟、アラジン棟となっております。しかも、驚いたことに富士駅の近くにライカⅡがあったのです。コチラは何となくラブホ風でしたが(笑)ここまで書いてはたと気付きました、なんでこんなことを一生懸命調べているんだと・・・。
脇もすんごいことになっておりますなあ。バルコニーの間をダクトがウネウネ、そして看板がビッシリ、どうやら空き室は無さそうな雰囲気、これにはちょっと感心。掃除も行き届いている感じでしたし。
その最深部、奥に銅板葺きの屋根が見えますが、あれは保泉寺さん。すぐ向こうには墓地という強烈なロケーションなのです。
ちょっと戻って別の脇道に入ると、今度は歴史がありそうな町屋を改修したチャイナタウン。お隣の山門は保泉寺さんのです。
チャイナタウンとくると思い浮かぶのが映画のほう、ジャック・ニコルソンの鼻血が痛そうというのが妙に印象に残っているのですが、それ以上にセットなんだか本物なんだかよく分からないくらい背景の町並みが素晴らしかった。
左の大人の社交場はミス・スターパレスなるグランドキャバレー、たぶん退役済みだと思われます。次にチャイナタウン、山門、そしてド派手なライカⅢ。結構濃ゆい一画なのです。
その先には御前様会館なるクラブ、此処で飲みすぎて午前様とか・・・。
分岐する砂利道の先にも飲み屋さんの亡骸、これは素晴らしい佇まい。
この辺りが遊廓跡だったらいいなと・・・でもこの界隈、ちょうど宿場跡裏手のちょっと隔離されたような一画でして、そういうのがあったとしてもおかしくない場所なのです。遊里関係は期待しないと言いましたが、やっぱり気になるわけ。
そのまま通りを進みますと、今度はシンメトリー気味の看板建築。真ん中を入るとクラブがあるようです。
その先を左に入ると、いきなり長屋風の呑ん兵衛横丁が現れてビックリ。
そのうちの一軒の外壁は、妖しげなタイルで彩られておりました。
向かいのお宅がなかなかの逸品、特に直線と曲線を組み合わせたシンプルな構成の門がむちゃくちゃカッコイイぞ。
門から続く横長なダイヤ孔が開いた塀から、呑ん兵衛横丁を望みます。
吉原本町駅に戻る途中、宿場跡に建つビルで見つけました。大きさからしてニャンコというよりライオンだなこりゃ。
駅に着いたのですが、ふと思ったのが反対側はどうなっているんだろうということ。行ってみるとこれが大正解。踏切のすぐ向こうで見つけたのが冒頭画像のさつきさん。これは見事な廃れっぷりですなあ。
タイミングよく吉原行きの単行列車が通過してくれました。本当はあれに乗るつもりだったのですが、まあいいか、急ぐ旅ではありませんから。
ポーチが那智黒の洗い出しの左は、どうやら按摩さんだったみたい。
一方、さつきさんにはスツールが一脚、放置プレイされておりましたとさ。
次にやってきた宿場まつりのヘッドマークが付いた列車で戻ります。
宿場跡は残念でしたが、思っていた以上に楽しめた吉原の探索は以上でオシマイ。それにしても遊廓は何処にあったのでしょうね、それだけが心残りです。