出格子向こうの色ガラス・元料理店がファミレスに!?・養蚕エリート育成学校
当初はコチラを訪れるのが主な目的だったのですがね。
前回の鬼石から路線バスで本庄方面に戻る途中、JR八高線の踏切を渡った先で下車。近くにある丹荘駅で八高線に乗るつもりだったのですが、時刻表を見ると次の列車は一時間後・・・。仕方がないので無人の木造駅舎の待合でうつらうつら。目を覚ますとちょうど列車が到着、それに乗り込み高麗川方面へ一駅で児玉駅です。元々は児玉町でしたが、平成18年(2006)に本庄市と合併し、自治体としての町は消滅しています。実はこの合併のこと、下調べするまで全く知らなかったというのは此処だけの話。
中世の頃は地名の由来となった児玉党なる武士集団が一帯を治めていました。鎌倉街道上道なる古道が町を南北に貫いていましたので交通の要衝でもあったようです。まあ、そんなことより児玉とくると養蚕です。嘗てこの町には若き養蚕家エリートを育成する学校があり、実習に使用された校舎が今も残っています。当初の予定では町を適当にブラブラして、腹が減ったらメシ食って、最後にその校舎を見学して、といった感じでかなりいい加減なものでした。遊里関係の情報も皆無でしたし、地図を見てもアンテナがピクリともしませんでしたので。しかし、これが意外な展開をみせるわけ。当り前なのですが、やっぱり実地調査しないと分からないことって多いよね。
昭和14年(1939)に建てられた木造の児玉駅駅舎。左の妻側だけが半切妻屋根の瓦が美しい。葺き替えたばかりのようですが・・・なんで分かるんだですって?だって正面破風の鬼瓦にJR児玉駅ってあるんですもの。
駅前のサビサビトタン食堂がやっていない、嫌な予感・・・果たして食事に有り付くことができるのでしょうか。
青く塗られた大和塀を横目に駅前通りを行きますと・・・
寄棟屋根が珍しい石蔵が現れます。裏手には門柱だけが残っておりました。養蚕関係でしょうか。
駅前通りが国道462号線にぶつかる四つ角手前。倉庫かと思ったら半分隠れた『児玉ショッピン』の文字、残りは分かりますよね。
国道を右折(北へ)すると見えてくるのが中林美容室さん。パラペットから柱型がバンバン突き出しているエキセントリックな看板建築風、繰り返しの美学ですな。元々は郵便局だったとか。
同じようなアングルで恐縮ですが、奥をご覧下さい。コレ、土蔵造りの商家にファサード部分を増築したんじゃないでしょうか。
かなり強引な手法にも見えますが(笑)まあ、そこが気に入っているんですけどね。
その先には妻壁+袖卯建が赤煉瓦の土蔵造りの商家。珍しいのが戸袋までが赤煉瓦積みだということ。しかし、ご覧のとおりの非常に危険な状態です。
お次はおかしな表現になりますが、和風の洋館としか言いようのないお宅。左右に松と桜を配したシンプルなお庭が建物同様気に入っています。
駅前通りに戻る途中、脇道あった至って普通の居酒屋にコレが。昭和60年とありましたが、ステッカーでも鑑札と呼ぶのでしょうか。こんなの初めて見ましたよ。
駅前通りが交わる四つ角に戻って、今度は南へしばらく行きますと、屋根付き袖看板が目印の旅館田島屋さんが現れます。よく見ると鬼瓦に田島と刻まれているのが分かるはずです。
外壁の押縁下見板張りが圧巻、しかも奥は三階建てではありませんか。大正3年(1914)に建てられたそうですが、もちろん現役。三島由紀夫や吉田健一などが宿泊したことがあるとか。埼玉県のロケーションサービスに登録しているそうで、コチラで内部の様子が確認できます。いかにも昔からのお宿といった雰囲気ですが、最後の洗面所の窓にやられましたわ。直後に似たようなものにお会いできるとはねえ・・・。
旅館部分に続くのはコチラも三階建てと思われるノッポな土蔵。
その先のお宅が妙に気になる・・・一度通り過ぎたのですが、戻ってみますと・・・
玄関脇の木製看板には頭に『助』の文字、それ以降はかすれて読めませんでした。真っ先に頭に浮かんだのが『助産婦』。ウンウン、これしかないだろうと独りごちていると、奥の出格子に気がつくわけ。
思わずムハッって変な声が出ちゃいました。鮮やかな緑の色ガラス、そして市松模様とタータンチェック風のエッチングに仰天。しかし、コレで終わりではないのです。国道に戻ろうとしますと・・・
なんと側面にこんな窓。おさらいのストリービューで確認しますと、嘗て手前の更地には田島屋さんのガレージがありました。それが撤去された結果、この窓が陽の目を見たということみたい、運が良かったようですな。コチラについて、後ほどある方からお話を伺うことができました。
国道から南に分岐する脇道に入ってしばらく行きますと、児玉商工会裏手にシンボリックな塔が見えてきます。児玉町旧配水塔、昭和6年(1931)竣工、国の登録文化財です。各地にこういったタイプの給水塔・配水塔が残っていますが、埼玉県内では唯一のものなんだとか。
以前のかなり劣化した外壁の風合いが悪の秘密基地っぽくてステキだったのですが、一年ほど前に化粧直しされたとか。ドアなどに使われている水色はオリジナルカラーだそうですよ。
お隣に関連施設、たぶん浄水井という奴じゃないかと、間違っていたらご免なさい。二つの小屋は地中でトンネル状の水槽で繋がっていて、それの通気管が地上に突き出ているのだと思います。
駅方面に戻る途中にあるのが東石清水八幡神社。源義家が奥州征伐の際、この地で戦勝を祈願したのが始まりとされています。県の指定文化財の社殿は享保7年(1722)に建てられたとのこと。見事な彫り物がいっぱいありましたよ。
境内の池には夫婦岩、なぜか先端から噴水がプシャーなわけ。夫婦和合の象徴でもありますので・・・ちょっと考えすぎでしょうか(笑)
八幡神社裏手に位置する玉蔵寺、境内脇にはサビサビトタンの廃工場。
裏通りを抜け、国道462号線に戻って参りました。
そろそろ空腹も限界、道すがらお店を探していたのですが、なかなか良さげな処が見つかりませんので、行きのときチェックしていた美味倶楽部なかまちさんへ。お店の外観はご覧のとおり、明らかに新築物件ではないわけです。後ほどお話を伺った方によりますと、業種は不明ですが元々は料理店だったとのこと。
透かし彫りのある手摺と円形の造作に期待して入店、そしてすぐに落胆。おそらく並んでいた座敷をぶち抜いてリフォームしたのだと思いますが、名残など知らんといった感じ、和洋折衷のファミレスみたいになっておりました。お料理も和洋中と何でも揃っているというところもファミレスっぽい、しかし何を頂いたのか全く覚えていないのです。別に美味しくなかったとかそういうわけではないですよ。会計の際にバイトと思われる兄ちゃんに、此処は料亭か何かだったの?と尋ねてみると???こんな反応。どうやら料亭自体が分からなかったみたい・・・ごめんね、変なこと聞いちゃって。
それでは当初の目的地に向かいましょう。チッカリンにオルガニン、肥料の名前ってなんだか恐ろしいのが多いよね。
競進社模範蚕室・・・明治27年(1894)竣工、県の指定文化財であり経産省の近代化産業遺産にも選定されています。コチラを建てたのが、養蚕技術の発展に一生を捧げた木村九蔵です。当初は研究所的なものだったようですが、後に養業学校なる養蚕家を育成する学校となります。そのあたりのことは本庄市のHPに詳しく載っていますので、そちらをご覧になったほうが宜しいかと、手抜きで申し訳ない。
蚕室の様子・・・両側に蚕棚がズラリと並ぶ部屋の真ん中に炉が切られており、此処で炭を炊いて除湿をします。日本のお蚕さんは湿気に弱いそうな。暖められた空気はスノコみたいな天井を通り、外観に写っていた越し屋根の気抜きから外に排出されるというわけ。木村九蔵が考案したこの飼育法は『一派温暖育』と呼ばれています。
以上のようなことを説明してくれたのが係のオッチャン。一通り聞き終えて、例の色ガラスの件と遊里関係のことを尋ねてみました。養蚕関係の接待が主だったようですが、芸者さんは結構いらしたようです。立派な料亭もあり、自分もお城みたいなお店に何度か行ったことがあるそうです。そして肝心の色ガラスの件、達磨屋こと乙種料理店はご存知でしたが、あそこがそうだったかと言われると分からない、しかし、盛んだった養蚕のことを考えれば、そういう処があったとしてもおかしくはないよねとのことでした。実はこの方、出身は池袋で児玉在住30年と聞き、思わずコケそうになったのは内緒(笑)
近くの丁字路の角にお城みたいな料亭(屋号は失念)があったそうな。
これも所謂『知られざる遊里』ということにしておきましょうか。東京のベッドタウンで開発が盛んというのが影響しているのか、相変わらず埼玉県は芳しくないなあ。まあ、それを探すのが楽しかったりするんですけどね。想像していた以上の展開に驚かされた児玉町は以上でオシマイ。
当初はコチラを訪れるのが主な目的だったのですがね。
前回の鬼石から路線バスで本庄方面に戻る途中、JR八高線の踏切を渡った先で下車。近くにある丹荘駅で八高線に乗るつもりだったのですが、時刻表を見ると次の列車は一時間後・・・。仕方がないので無人の木造駅舎の待合でうつらうつら。目を覚ますとちょうど列車が到着、それに乗り込み高麗川方面へ一駅で児玉駅です。元々は児玉町でしたが、平成18年(2006)に本庄市と合併し、自治体としての町は消滅しています。実はこの合併のこと、下調べするまで全く知らなかったというのは此処だけの話。
中世の頃は地名の由来となった児玉党なる武士集団が一帯を治めていました。鎌倉街道上道なる古道が町を南北に貫いていましたので交通の要衝でもあったようです。まあ、そんなことより児玉とくると養蚕です。嘗てこの町には若き養蚕家エリートを育成する学校があり、実習に使用された校舎が今も残っています。当初の予定では町を適当にブラブラして、腹が減ったらメシ食って、最後にその校舎を見学して、といった感じでかなりいい加減なものでした。遊里関係の情報も皆無でしたし、地図を見てもアンテナがピクリともしませんでしたので。しかし、これが意外な展開をみせるわけ。当り前なのですが、やっぱり実地調査しないと分からないことって多いよね。
昭和14年(1939)に建てられた木造の児玉駅駅舎。左の妻側だけが半切妻屋根の瓦が美しい。葺き替えたばかりのようですが・・・なんで分かるんだですって?だって正面破風の鬼瓦にJR児玉駅ってあるんですもの。
駅前のサビサビトタン食堂がやっていない、嫌な予感・・・果たして食事に有り付くことができるのでしょうか。
青く塗られた大和塀を横目に駅前通りを行きますと・・・
寄棟屋根が珍しい石蔵が現れます。裏手には門柱だけが残っておりました。養蚕関係でしょうか。
駅前通りが国道462号線にぶつかる四つ角手前。倉庫かと思ったら半分隠れた『児玉ショッピン』の文字、残りは分かりますよね。
国道を右折(北へ)すると見えてくるのが中林美容室さん。パラペットから柱型がバンバン突き出しているエキセントリックな看板建築風、繰り返しの美学ですな。元々は郵便局だったとか。
同じようなアングルで恐縮ですが、奥をご覧下さい。コレ、土蔵造りの商家にファサード部分を増築したんじゃないでしょうか。
かなり強引な手法にも見えますが(笑)まあ、そこが気に入っているんですけどね。
その先には妻壁+袖卯建が赤煉瓦の土蔵造りの商家。珍しいのが戸袋までが赤煉瓦積みだということ。しかし、ご覧のとおりの非常に危険な状態です。
お次はおかしな表現になりますが、和風の洋館としか言いようのないお宅。左右に松と桜を配したシンプルなお庭が建物同様気に入っています。
駅前通りに戻る途中、脇道あった至って普通の居酒屋にコレが。昭和60年とありましたが、ステッカーでも鑑札と呼ぶのでしょうか。こんなの初めて見ましたよ。
駅前通りが交わる四つ角に戻って、今度は南へしばらく行きますと、屋根付き袖看板が目印の旅館田島屋さんが現れます。よく見ると鬼瓦に田島と刻まれているのが分かるはずです。
外壁の押縁下見板張りが圧巻、しかも奥は三階建てではありませんか。大正3年(1914)に建てられたそうですが、もちろん現役。三島由紀夫や吉田健一などが宿泊したことがあるとか。埼玉県のロケーションサービスに登録しているそうで、コチラで内部の様子が確認できます。いかにも昔からのお宿といった雰囲気ですが、最後の洗面所の窓にやられましたわ。直後に似たようなものにお会いできるとはねえ・・・。
旅館部分に続くのはコチラも三階建てと思われるノッポな土蔵。
その先のお宅が妙に気になる・・・一度通り過ぎたのですが、戻ってみますと・・・
玄関脇の木製看板には頭に『助』の文字、それ以降はかすれて読めませんでした。真っ先に頭に浮かんだのが『助産婦』。ウンウン、これしかないだろうと独りごちていると、奥の出格子に気がつくわけ。
思わずムハッって変な声が出ちゃいました。鮮やかな緑の色ガラス、そして市松模様とタータンチェック風のエッチングに仰天。しかし、コレで終わりではないのです。国道に戻ろうとしますと・・・
なんと側面にこんな窓。おさらいのストリービューで確認しますと、嘗て手前の更地には田島屋さんのガレージがありました。それが撤去された結果、この窓が陽の目を見たということみたい、運が良かったようですな。コチラについて、後ほどある方からお話を伺うことができました。
国道から南に分岐する脇道に入ってしばらく行きますと、児玉商工会裏手にシンボリックな塔が見えてきます。児玉町旧配水塔、昭和6年(1931)竣工、国の登録文化財です。各地にこういったタイプの給水塔・配水塔が残っていますが、埼玉県内では唯一のものなんだとか。
以前のかなり劣化した外壁の風合いが悪の秘密基地っぽくてステキだったのですが、一年ほど前に化粧直しされたとか。ドアなどに使われている水色はオリジナルカラーだそうですよ。
お隣に関連施設、たぶん浄水井という奴じゃないかと、間違っていたらご免なさい。二つの小屋は地中でトンネル状の水槽で繋がっていて、それの通気管が地上に突き出ているのだと思います。
駅方面に戻る途中にあるのが東石清水八幡神社。源義家が奥州征伐の際、この地で戦勝を祈願したのが始まりとされています。県の指定文化財の社殿は享保7年(1722)に建てられたとのこと。見事な彫り物がいっぱいありましたよ。
境内の池には夫婦岩、なぜか先端から噴水がプシャーなわけ。夫婦和合の象徴でもありますので・・・ちょっと考えすぎでしょうか(笑)
八幡神社裏手に位置する玉蔵寺、境内脇にはサビサビトタンの廃工場。
裏通りを抜け、国道462号線に戻って参りました。
そろそろ空腹も限界、道すがらお店を探していたのですが、なかなか良さげな処が見つかりませんので、行きのときチェックしていた美味倶楽部なかまちさんへ。お店の外観はご覧のとおり、明らかに新築物件ではないわけです。後ほどお話を伺った方によりますと、業種は不明ですが元々は料理店だったとのこと。
透かし彫りのある手摺と円形の造作に期待して入店、そしてすぐに落胆。おそらく並んでいた座敷をぶち抜いてリフォームしたのだと思いますが、名残など知らんといった感じ、和洋折衷のファミレスみたいになっておりました。お料理も和洋中と何でも揃っているというところもファミレスっぽい、しかし何を頂いたのか全く覚えていないのです。別に美味しくなかったとかそういうわけではないですよ。会計の際にバイトと思われる兄ちゃんに、此処は料亭か何かだったの?と尋ねてみると???こんな反応。どうやら料亭自体が分からなかったみたい・・・ごめんね、変なこと聞いちゃって。
それでは当初の目的地に向かいましょう。チッカリンにオルガニン、肥料の名前ってなんだか恐ろしいのが多いよね。
競進社模範蚕室・・・明治27年(1894)竣工、県の指定文化財であり経産省の近代化産業遺産にも選定されています。コチラを建てたのが、養蚕技術の発展に一生を捧げた木村九蔵です。当初は研究所的なものだったようですが、後に養業学校なる養蚕家を育成する学校となります。そのあたりのことは本庄市のHPに詳しく載っていますので、そちらをご覧になったほうが宜しいかと、手抜きで申し訳ない。
蚕室の様子・・・両側に蚕棚がズラリと並ぶ部屋の真ん中に炉が切られており、此処で炭を炊いて除湿をします。日本のお蚕さんは湿気に弱いそうな。暖められた空気はスノコみたいな天井を通り、外観に写っていた越し屋根の気抜きから外に排出されるというわけ。木村九蔵が考案したこの飼育法は『一派温暖育』と呼ばれています。
以上のようなことを説明してくれたのが係のオッチャン。一通り聞き終えて、例の色ガラスの件と遊里関係のことを尋ねてみました。養蚕関係の接待が主だったようですが、芸者さんは結構いらしたようです。立派な料亭もあり、自分もお城みたいなお店に何度か行ったことがあるそうです。そして肝心の色ガラスの件、達磨屋こと乙種料理店はご存知でしたが、あそこがそうだったかと言われると分からない、しかし、盛んだった養蚕のことを考えれば、そういう処があったとしてもおかしくはないよねとのことでした。実はこの方、出身は池袋で児玉在住30年と聞き、思わずコケそうになったのは内緒(笑)
近くの丁字路の角にお城みたいな料亭(屋号は失念)があったそうな。
これも所謂『知られざる遊里』ということにしておきましょうか。東京のベッドタウンで開発が盛んというのが影響しているのか、相変わらず埼玉県は芳しくないなあ。まあ、それを探すのが楽しかったりするんですけどね。想像していた以上の展開に驚かされた児玉町は以上でオシマイ。