七丁-五丁の遊廓跡・間に合わなかった横丁建築・駅ビル裏のトタン魔窟!?
遊廓跡にふられ、目的の横丁建築にもふられた私が最後に出会ったものとは!?
今回は静岡県の県庁所在地静岡市、その中でも政治経済の中心である葵区を主にレポ致します。ご存知だと思いますが、静岡市はその昔、駿府城を擁する城下町。そして、当時は府中宿と呼ばれていましたが、旧東海道19番目の宿場町でした。今川家に人質に取られた徳川家康が幼少期を過ごした処として知られておりますが、慶長10年(1605)に将軍職を二代目秀忠に譲ると、隠居するために江戸からこの町に凱旋するわけです。帰ってきた家康が手掛けたのが、駿府城の拡張と町の区画整理と再開発、そして安倍川の治水でした。大工や人夫が大量に集められ、男の人口比率が一気に高まることになります。これに困ったのが既存の遊女屋、とてもじゃないが捌ききれないということになったのだと思います。それに対して家康が取った策は大胆なものでした。
『慶長年中家康公駿府在城中伏見より七ヶ町を移し元和年間に至り江戸に五ヶ町を移したれは二丁残りたり 因て人呼て二丁町と云ひ又双街と云へり 市の西端にありて一廓をなすを以て自から他の商家と趣きを異にせり古へ関門あり娼妓をして此門を出さしめす 維新の際官娼妓解放の令ありてより関門を廃し只列柱を建てり柱に一聯の句あり』
以上は明治45年(1912)に出版された『静岡名所案内』からの抜粋になります。なんと京都伏見から七丁分の遊廓を移転させ、増える需要に対応したというのです。町の整備が終わり、そこまでの規模が必要としなくなったのだと思いますが、今度は五丁分を江戸に移転することになります。移転先は現在の日本橋人形町。そう、元吉原遊廓の前身がこの遊廓なのです。本家と分家といった感じでしょうか。七丁-五丁(五丁-三丁という説もあり)で、残りの二丁が別名双街と呼ばれた二丁町遊廓というになります。なんとも効率の良い遊里の形成過程といいますか、これも家康の先見の明としても宜しいのではないでしょうか。
『静岡市安部川遊廓 静岡県静岡市安部川町に在つて、揚屋町、仲の町、上の町の三ヶ町が一廓に成つて居る・・・明治初年の火災以降は漸く衰へたりと雖も今尚十三軒の妓楼があり、娼妓百九十人を数へて居る・・・娼妓は大抵尾張、美濃、伊勢地方の女が多くを占めて居る。妓楼は小松楼、蓬莱楼、喜報楼、初音楼、巴楼、吉田楼、清水楼、江戸楼、若松楼、音羽楼、恵比寿楼、高砂楼、三河楼の十三軒だ。附近には由比正雪の墓があり、今は兵営に成つて居るが静岡城址があり、今川義元の首塚等がある』
お次はお馴染『全国遊廓案内』から。大きな遊廓を表現する言葉で、三層楼が軒を連ねなんて言ったりしますが、此処の場合はなんと四層楼+屋根裏部屋?ですぞ。大正12年(1923)に発行された『静岡』なる書籍に双街の写真が載っており、数えてみると上記のような構造なっていたわけ、これには驚かされました。しかし残念なことに、この遊廓、その後焼けてしまいます。昭和20年(1945)6月19日深夜の大空襲で、静岡市の中心街はほぼ完全に焦土と化してしまいます。二丁町遊廓も例外ではなく、戦後すぐに撮影された航空写真では、痕跡は辛うじて確認できましたが、全て焼け落ちてしまったようです。しかも再開叶わず、近くの一画で赤線として存続していくことになります。
『静岡の花街 両替町 静岡駅から約三町、即駅前から左に折れて右に入れば絃歌さんざめく花街の中心。両替町五・六丁目から平屋町、下桶、鍛冶町、江川町、江尻町等一帯の総称で、洒落て「蓼街(りょうがい)」ともといふ。その間に芸妓屋、料亭等が散在してゐる。芸妓屋 六十軒。芸妓大小併せて百八十一人。主なる料亭 浮月楼、佐野春楼、求友亭、若松、新求園。二流の上では一春、菊月など。主なる貸席 弥生、ひょうたん、きせん等を一流とする・・・』
最後は花街、『全国花街めぐり』からの抜粋になります。両替町は現在も健在でして、JR静岡駅の西、現在はかなりの規模の歓楽街と化している一帯が嘗ての花街だったみたい。幾つかの料亭などは存続しているようですが、もちろん此処も空襲で焼け、その後に行われた区画整理などで面影は皆無だなというのが、最初に地図を眺めたときの印象。そんなとき目に飛び込んできたのが、小割りにされた飲み屋さんと、それを貫く細い通路。これは間違いなく大好物の横丁建築だ、静岡県はコレの宝庫ですからね。遊廓跡はかなり残念な状態というのは予め知っていましたので、急遽コチラを目的地に変更致しましょう。今回は結構広範囲に移動しないとならないのですが、9月初旬ということで非常に厳しい残暑というわけでちょっとズル、レンタサイクルの力をお借りします。
JR静岡駅のすぐ西側、静岡中央郵便局の向かいにあるのが浮月楼さん。『全国花街めぐり』が記しているのがコチラになります。『静岡の代表的料亭としては浮月楼を推さねばなるまい。元徳川慶喜公の邸園で家逹公は幼時こゝで育つたのである。侠客新門辰五郎の事績などもある・・・こゝの貸席といふは即ち待合だが、東京の如く公式のものではない』左の石碑にもありますが、元々は徳川慶喜の隠居所だったそうです。此処の裏手にひろがる歓楽街が嘗ての花街になります。
慶喜の屋敷として20年、その後静岡市の迎賓館として120年の歴史を誇っています。広大な敷地の中央には大きな池、それを横切る木造の弓反り橋。現在は料亭というよりは、総合結婚式場といった感じ。ランチを頂けば庭園を散策できそうですが、これが結構なお値段(笑)
迎賓館でのランチは諦め、駅前から伸びる御幸通り(県道27号線)を行きますと、駿府城址が見えてきます。城址の向かいに、異国情緒満点なドーム付の塔がスクッと伸びた近代建築が現れます。静岡市役所本館、昭和9年(1934)竣工、設計は旧満州や朝鮮でも活動した中村與資平、国の登録文化財です。全面に貼られた淡いベージュのボーダータイル、窓廻りやパラペットのアクセントにテラコッタが使われています。そして何よりも美しいドーム、分かりにくいと思いますが、全面に貼られたモザイクタイルで幾何学模様が描かれているわけ。これのせいでイスラム建築を彷彿とさせるデザインとなっております。大袈裟かもしれませんが、手前の松が無かったら日本の光景だとは思えませんよね。
エントランス部分も秀逸。床と壁、全面に使われたトラバーチン(大理石の一種)、扉の向こうに見える車寄せのアーチ。特に扉の納まりに注目ですぞ。分かるでしょうか、開いた状態で壁と同面・・・要するに出っ張らないように納めているわけ。スッキリしているでしょう。
修復されたばかりのようですが、天井の装飾がお見事。これもテラコッタかと思ったのですが、継ぎ目が見当たりません。石膏かもしれませんな。よく見ると天井と装飾梁が緩い弧を描いており、入口に向かって勾配が付いているようです。
エントランスホール・・・踊り場から左右に分かれていく階段がいかにもな感じ。柱のせいでちょっと窮屈な印象。踊り場には大きなステンドグラスが嵌っておりました。大事に使われているのか、非常に状態が良好な近代建築です。
静岡市役所本館の向かい、駿府城址内に建っているのが静岡県庁舎本館、昭和12年(1937)竣工、コチラの設計も中村與資平、そして国の登録文化財です。中央にエントランスを構えたシンメトリーなファサード、平面は日の字型になっています。此処からでは見えませんが、中央のペントハウスは五重塔風の反りの付いた方形屋根、パラペットの軒庇には持ち送り風の装飾も見られます。しかし、外壁に規則正しく並ぶ窓はモダニズム建築そのもの。和と洋の融合、所謂帝冠様式と呼ばれるものです。
この陰影クッキリで角が立った窓の並びがお気に入り。柔らかな表情の外壁は、本石ではなく人造石なんだとか、小タタキにしているっぽい。オリジナルではないと思いますが、鋳鉄製窓台のお花もステキ。
県庁裏手の駿府城中堀沿いで見つけました。わさび漬発祥の地だったとは知りませんでした。
二ノ丸の南西角に建つ坤櫓(ひつじさるやぐら)、妙に綺麗と思ったらほんの数ヶ月前に再建されたばかりのものでした。『ひつじさる』とは方角を示す言葉になります。残念なことに駿府城址には建造物としての遺構がほとんど残っていないのです。これは寛永12年(1635)に発生した火事で焼けてしまったからなのですが、さらダメ押ししたのが明治30年(1897)にやって来た帝国陸軍歩兵第34連隊、静岡市は軍都という一面もあったということになりますな。城址を駐屯地とするため、本丸堀は埋め立てられ、わずかに残っていた遺構の類も全て壊されてしまったそうです。
中堀と外堀に挟まれた細長い中州のような処で偶然出会ったカトリック教静岡教会。幼稚園の敷地内に建っています。
十分に近代建築と言っていいくらい歴史がある建物に見えるのですが、手元の資料やネットにもほとんど情報がない謎の教会なのです・・・と書いたところで見つかった(笑)昭和24年(1949)に再建された二代目。初代は明治43年(1910)に建てられたそうですが、やはり空襲で焼けてしまったとのこと。近代建築と呼ぶにはちょっと新しかったかな。でも、スッキリとした清潔感のある建物だと思います。
次の目的地に向かう途中、電柱に誰かの落し物。
駿府城址の北側を東西に走る長谷通りに出ました。通り沿いにあるのがレトロな看板建築風の天神湯さん。パラペットの繰形コーニス、その中央から立ち上がる山型の壁に屋号が刻まれた扁額が掲げられています。通りの奥に見える銅板葺きの屋根は駿河国総鎮守の静岡浅間神社、長谷通りは嘗ての参道だったようです。
暖簾が風に揺れていましたが、まだ午前なわけ。
それを潜るとこんな感じ。腰に貼られたタイル、色の組み合わせが結構大胆。取り囲む一見するとゴールドにも見えるタイルは、外壁に使われているのと同じだと思われます。コレが絹目調の柔らかいテクスチャーでステキなのです。しかし、コチラ今年になってから休業されているとのこと、心配ですね。
コチラは何処だったっけ・・・駅方面に戻る途中で出会ったお店だと記憶しています。
この草臥れ具合が気に入っています。
さきほど紹介した静岡市役所本館の裏手辺り、本通り(県道208号線)と呉服町通りが交差する四つ角に重厚な近代建築が残っています。旧静岡三十五銀行本店、昭和6年(1931)竣工、設計者はまたまた中村與資平、またしても国の登録文化財。いくら静岡県ゆかりの建築家だからとはいえ、現代にこういことが起きると大問題かもね(笑)銀行だからというわけではないでしょうが、いかにも古風で堅実なデザインといえるのではないでしょうか。現在は静岡銀行本店となっております。
エントランスに構えるのが4本のドリス式オーダー。画像自体が下から煽っているのであれですが、実物もちょっとプロポーションがポッチャリ気味で可愛らしいのです。此処の裏手から最初に紹介した浮月楼さん辺りまでが嘗ての花街だと思われます。
グラマーなトルソーを横目に二丁町遊廓跡に向かうと致しましょう。
これは懐かしい、母の鏡台に並んでいたという方多いのではないでしょうか。とっくに無くなっているかと思ったら、未だに販売されているのですね。
おもろい名前でしたので・・・たぶん市原悦子は所属していないはず。
『全国女性街ガイド』によりますと、赤線は七間町の左側裏に28軒、周辺に散らばっているのも加えると100軒、四百数十名とあります。七間町は今も健在、左側裏というのがよく分かりませんが、地図上でのという意味であればこの辺りなのですが・・・どうもいまいちピンときませんでした。
近くにある感応寺は、仁寿2年(852)に創建された天台宗の古刹。家康の側室、お万の方が得度した処と伝えられています。そんな由緒正しきお寺なのに、なぜか山門が妙にエキゾチック・・・。
二丁町遊廓跡へは駒形通りを南西へ真っ直ぐ。途中にあるのが桜湯さん、可愛らしいお婆ちゃんが開店を待っておりました。
駒形通りの両側は庶民的な商店が軒を連ねているのですが、その並びの一軒では奥様が競りにかけられていた!?ちなみに『奥様市場』で検索すると、派遣型風俗ばかりがヒット(笑)
奥様市場の先を右に入ると嘗ての二丁町遊廓。静岡県地震防災センターがある一画が中心だったと思われます。遊廓跡に防災センター・・・妙な因縁を感じたのはなぜでしょう。そんなことはおいといて、ご覧のとおり、遺構どころか名残さえ皆無の惨状。事前に分かってはいましたが、四層楼見たかった・・・。
防災センター脇に小さな社があります。単なる稲荷神社、頭に何も付かないのでしょうか。遊廓が伏見からやって来たとすると、この神様もソッチ系???
境内に設置された石碑。達筆すぎてあれですが、静岡双街紀念之碑と刻まれているそうです。脇に立てられた説明板には、七丁-五丁のことなどが記されてあります。ただ、おかしいのは、この遊廓が昭和32年に廃止されたとあるのです。コレたぶん間違い、七間町の赤線とごっちゃになっているんじゃないでしょうか。
花街跡近く、青葉通りに面した別雷神社、『わけいかずち』と読みます。応神4年(273)に創建されたというとんでもなく古い神様なのです。その境内に食い込むようにして小さな飲み屋さんが並んでいるわけ。歴史ある寺社に時折見られる光景なのですが、やはり参拝客目当ての茶屋などの名残なのかなあ。
神社向かいにあるのが青葉おでん街。此処は観光名所でもありますのでご存知の方も多いかと。屋台由来の静岡おでんを供するお店だけが集まった横丁です。
昼間は閑散としておりますな。実は静岡市を訪れるのは三回目、前二回とも野暮用でしたけどね。そのとき此処で飲みました、確か12、3年前だったかな。どのお店だったか全く覚えていないけど、味のほうも(笑)先日、孤独のグルメseason5が始まりましたね。相変わらずゴローが旨そうに食っているだけのドラマですが、それに合わせたように第2巻が18年ぶりに出版されました。それの第一話の舞台が此処でした。
花街跡を貫く両替通りから一本入った裏通りに目的の横丁建築が・・・な、無い!!跡地の感じからして、壊されてからそんなに時間は経過していないと思うのですが、間に合わなかったか・・・。嘗て此処に建っていたのが『ちゃっきり横丁』なる横丁建築でした。
悔しいのでストリートビューの画像貼っておきます。最新のビューではコレも見られなくなっています。保存しておいて良かった・・・そんなことより実物見たかったです。
『ちゃっきり横丁』の反対側に出るため、すぐ脇にあるのが青葉小路なる飲み屋さんが続く路地を抜けていきましょう。どん詰まりのように見えますが、看板の矢印にありますように、クランクして両替通りに『ぬけられます』
両替通りに面したビル内の通路と接続していたようです。遊廓跡と横丁建築、両方にふられてしまいました。まあ、毎度のことなんですけどね。
チャリを返し、何気なく駅の反対側はどうなっているんだろう思いながら高架を潜ると、目の前に現れたコレに仰天。いきなりでしたので本当に驚きましたよ。
横丁建築の一種としても宜しいかと。金網で塞がれておりますが、建物を貫く通路はL字型になっており、右の通りに抜けられるようです。
見上げるとサビサビの骨組、おそらく嘗ては派手なテント地が張ってあったのだと思います。左手のビルはJR関係のもの、そのすぐ向こうは新幹線がビュンビュン走っているわけ。
そんな駅前に、なぜこんな謎物件が残っているのでしょう。
金網越しに覗き込んだ通路の様子。通りに面した部分には飲み屋さんらしき亡骸が並んでいましたが、通路部分にはそういった雰囲気が全く感じられないのが不思議。ご覧のとおり、かなり危険な状態です。
以上、駅前に残る謎のトタン魔窟でした。
トタン魔窟には続きがありまして、おさらいのストリートビューで確認しますと、真新しい駐車場に変わっておりました、直後に解体されてしまったようです。ふられ続きでしたが、最後の最後に救われたような静岡市葵区の探索は以上でオシマイ。
遊廓跡にふられ、目的の横丁建築にもふられた私が最後に出会ったものとは!?
今回は静岡県の県庁所在地静岡市、その中でも政治経済の中心である葵区を主にレポ致します。ご存知だと思いますが、静岡市はその昔、駿府城を擁する城下町。そして、当時は府中宿と呼ばれていましたが、旧東海道19番目の宿場町でした。今川家に人質に取られた徳川家康が幼少期を過ごした処として知られておりますが、慶長10年(1605)に将軍職を二代目秀忠に譲ると、隠居するために江戸からこの町に凱旋するわけです。帰ってきた家康が手掛けたのが、駿府城の拡張と町の区画整理と再開発、そして安倍川の治水でした。大工や人夫が大量に集められ、男の人口比率が一気に高まることになります。これに困ったのが既存の遊女屋、とてもじゃないが捌ききれないということになったのだと思います。それに対して家康が取った策は大胆なものでした。
『慶長年中家康公駿府在城中伏見より七ヶ町を移し元和年間に至り江戸に五ヶ町を移したれは二丁残りたり 因て人呼て二丁町と云ひ又双街と云へり 市の西端にありて一廓をなすを以て自から他の商家と趣きを異にせり古へ関門あり娼妓をして此門を出さしめす 維新の際官娼妓解放の令ありてより関門を廃し只列柱を建てり柱に一聯の句あり』
以上は明治45年(1912)に出版された『静岡名所案内』からの抜粋になります。なんと京都伏見から七丁分の遊廓を移転させ、増える需要に対応したというのです。町の整備が終わり、そこまでの規模が必要としなくなったのだと思いますが、今度は五丁分を江戸に移転することになります。移転先は現在の日本橋人形町。そう、元吉原遊廓の前身がこの遊廓なのです。本家と分家といった感じでしょうか。七丁-五丁(五丁-三丁という説もあり)で、残りの二丁が別名双街と呼ばれた二丁町遊廓というになります。なんとも効率の良い遊里の形成過程といいますか、これも家康の先見の明としても宜しいのではないでしょうか。
『静岡市安部川遊廓 静岡県静岡市安部川町に在つて、揚屋町、仲の町、上の町の三ヶ町が一廓に成つて居る・・・明治初年の火災以降は漸く衰へたりと雖も今尚十三軒の妓楼があり、娼妓百九十人を数へて居る・・・娼妓は大抵尾張、美濃、伊勢地方の女が多くを占めて居る。妓楼は小松楼、蓬莱楼、喜報楼、初音楼、巴楼、吉田楼、清水楼、江戸楼、若松楼、音羽楼、恵比寿楼、高砂楼、三河楼の十三軒だ。附近には由比正雪の墓があり、今は兵営に成つて居るが静岡城址があり、今川義元の首塚等がある』
お次はお馴染『全国遊廓案内』から。大きな遊廓を表現する言葉で、三層楼が軒を連ねなんて言ったりしますが、此処の場合はなんと四層楼+屋根裏部屋?ですぞ。大正12年(1923)に発行された『静岡』なる書籍に双街の写真が載っており、数えてみると上記のような構造なっていたわけ、これには驚かされました。しかし残念なことに、この遊廓、その後焼けてしまいます。昭和20年(1945)6月19日深夜の大空襲で、静岡市の中心街はほぼ完全に焦土と化してしまいます。二丁町遊廓も例外ではなく、戦後すぐに撮影された航空写真では、痕跡は辛うじて確認できましたが、全て焼け落ちてしまったようです。しかも再開叶わず、近くの一画で赤線として存続していくことになります。
『静岡の花街 両替町 静岡駅から約三町、即駅前から左に折れて右に入れば絃歌さんざめく花街の中心。両替町五・六丁目から平屋町、下桶、鍛冶町、江川町、江尻町等一帯の総称で、洒落て「蓼街(りょうがい)」ともといふ。その間に芸妓屋、料亭等が散在してゐる。芸妓屋 六十軒。芸妓大小併せて百八十一人。主なる料亭 浮月楼、佐野春楼、求友亭、若松、新求園。二流の上では一春、菊月など。主なる貸席 弥生、ひょうたん、きせん等を一流とする・・・』
最後は花街、『全国花街めぐり』からの抜粋になります。両替町は現在も健在でして、JR静岡駅の西、現在はかなりの規模の歓楽街と化している一帯が嘗ての花街だったみたい。幾つかの料亭などは存続しているようですが、もちろん此処も空襲で焼け、その後に行われた区画整理などで面影は皆無だなというのが、最初に地図を眺めたときの印象。そんなとき目に飛び込んできたのが、小割りにされた飲み屋さんと、それを貫く細い通路。これは間違いなく大好物の横丁建築だ、静岡県はコレの宝庫ですからね。遊廓跡はかなり残念な状態というのは予め知っていましたので、急遽コチラを目的地に変更致しましょう。今回は結構広範囲に移動しないとならないのですが、9月初旬ということで非常に厳しい残暑というわけでちょっとズル、レンタサイクルの力をお借りします。
JR静岡駅のすぐ西側、静岡中央郵便局の向かいにあるのが浮月楼さん。『全国花街めぐり』が記しているのがコチラになります。『静岡の代表的料亭としては浮月楼を推さねばなるまい。元徳川慶喜公の邸園で家逹公は幼時こゝで育つたのである。侠客新門辰五郎の事績などもある・・・こゝの貸席といふは即ち待合だが、東京の如く公式のものではない』左の石碑にもありますが、元々は徳川慶喜の隠居所だったそうです。此処の裏手にひろがる歓楽街が嘗ての花街になります。
慶喜の屋敷として20年、その後静岡市の迎賓館として120年の歴史を誇っています。広大な敷地の中央には大きな池、それを横切る木造の弓反り橋。現在は料亭というよりは、総合結婚式場といった感じ。ランチを頂けば庭園を散策できそうですが、これが結構なお値段(笑)
迎賓館でのランチは諦め、駅前から伸びる御幸通り(県道27号線)を行きますと、駿府城址が見えてきます。城址の向かいに、異国情緒満点なドーム付の塔がスクッと伸びた近代建築が現れます。静岡市役所本館、昭和9年(1934)竣工、設計は旧満州や朝鮮でも活動した中村與資平、国の登録文化財です。全面に貼られた淡いベージュのボーダータイル、窓廻りやパラペットのアクセントにテラコッタが使われています。そして何よりも美しいドーム、分かりにくいと思いますが、全面に貼られたモザイクタイルで幾何学模様が描かれているわけ。これのせいでイスラム建築を彷彿とさせるデザインとなっております。大袈裟かもしれませんが、手前の松が無かったら日本の光景だとは思えませんよね。
エントランス部分も秀逸。床と壁、全面に使われたトラバーチン(大理石の一種)、扉の向こうに見える車寄せのアーチ。特に扉の納まりに注目ですぞ。分かるでしょうか、開いた状態で壁と同面・・・要するに出っ張らないように納めているわけ。スッキリしているでしょう。
修復されたばかりのようですが、天井の装飾がお見事。これもテラコッタかと思ったのですが、継ぎ目が見当たりません。石膏かもしれませんな。よく見ると天井と装飾梁が緩い弧を描いており、入口に向かって勾配が付いているようです。
エントランスホール・・・踊り場から左右に分かれていく階段がいかにもな感じ。柱のせいでちょっと窮屈な印象。踊り場には大きなステンドグラスが嵌っておりました。大事に使われているのか、非常に状態が良好な近代建築です。
静岡市役所本館の向かい、駿府城址内に建っているのが静岡県庁舎本館、昭和12年(1937)竣工、コチラの設計も中村與資平、そして国の登録文化財です。中央にエントランスを構えたシンメトリーなファサード、平面は日の字型になっています。此処からでは見えませんが、中央のペントハウスは五重塔風の反りの付いた方形屋根、パラペットの軒庇には持ち送り風の装飾も見られます。しかし、外壁に規則正しく並ぶ窓はモダニズム建築そのもの。和と洋の融合、所謂帝冠様式と呼ばれるものです。
この陰影クッキリで角が立った窓の並びがお気に入り。柔らかな表情の外壁は、本石ではなく人造石なんだとか、小タタキにしているっぽい。オリジナルではないと思いますが、鋳鉄製窓台のお花もステキ。
県庁裏手の駿府城中堀沿いで見つけました。わさび漬発祥の地だったとは知りませんでした。
二ノ丸の南西角に建つ坤櫓(ひつじさるやぐら)、妙に綺麗と思ったらほんの数ヶ月前に再建されたばかりのものでした。『ひつじさる』とは方角を示す言葉になります。残念なことに駿府城址には建造物としての遺構がほとんど残っていないのです。これは寛永12年(1635)に発生した火事で焼けてしまったからなのですが、さらダメ押ししたのが明治30年(1897)にやって来た帝国陸軍歩兵第34連隊、静岡市は軍都という一面もあったということになりますな。城址を駐屯地とするため、本丸堀は埋め立てられ、わずかに残っていた遺構の類も全て壊されてしまったそうです。
中堀と外堀に挟まれた細長い中州のような処で偶然出会ったカトリック教静岡教会。幼稚園の敷地内に建っています。
十分に近代建築と言っていいくらい歴史がある建物に見えるのですが、手元の資料やネットにもほとんど情報がない謎の教会なのです・・・と書いたところで見つかった(笑)昭和24年(1949)に再建された二代目。初代は明治43年(1910)に建てられたそうですが、やはり空襲で焼けてしまったとのこと。近代建築と呼ぶにはちょっと新しかったかな。でも、スッキリとした清潔感のある建物だと思います。
次の目的地に向かう途中、電柱に誰かの落し物。
駿府城址の北側を東西に走る長谷通りに出ました。通り沿いにあるのがレトロな看板建築風の天神湯さん。パラペットの繰形コーニス、その中央から立ち上がる山型の壁に屋号が刻まれた扁額が掲げられています。通りの奥に見える銅板葺きの屋根は駿河国総鎮守の静岡浅間神社、長谷通りは嘗ての参道だったようです。
暖簾が風に揺れていましたが、まだ午前なわけ。
それを潜るとこんな感じ。腰に貼られたタイル、色の組み合わせが結構大胆。取り囲む一見するとゴールドにも見えるタイルは、外壁に使われているのと同じだと思われます。コレが絹目調の柔らかいテクスチャーでステキなのです。しかし、コチラ今年になってから休業されているとのこと、心配ですね。
コチラは何処だったっけ・・・駅方面に戻る途中で出会ったお店だと記憶しています。
この草臥れ具合が気に入っています。
さきほど紹介した静岡市役所本館の裏手辺り、本通り(県道208号線)と呉服町通りが交差する四つ角に重厚な近代建築が残っています。旧静岡三十五銀行本店、昭和6年(1931)竣工、設計者はまたまた中村與資平、またしても国の登録文化財。いくら静岡県ゆかりの建築家だからとはいえ、現代にこういことが起きると大問題かもね(笑)銀行だからというわけではないでしょうが、いかにも古風で堅実なデザインといえるのではないでしょうか。現在は静岡銀行本店となっております。
エントランスに構えるのが4本のドリス式オーダー。画像自体が下から煽っているのであれですが、実物もちょっとプロポーションがポッチャリ気味で可愛らしいのです。此処の裏手から最初に紹介した浮月楼さん辺りまでが嘗ての花街だと思われます。
グラマーなトルソーを横目に二丁町遊廓跡に向かうと致しましょう。
これは懐かしい、母の鏡台に並んでいたという方多いのではないでしょうか。とっくに無くなっているかと思ったら、未だに販売されているのですね。
おもろい名前でしたので・・・たぶん市原悦子は所属していないはず。
『全国女性街ガイド』によりますと、赤線は七間町の左側裏に28軒、周辺に散らばっているのも加えると100軒、四百数十名とあります。七間町は今も健在、左側裏というのがよく分かりませんが、地図上でのという意味であればこの辺りなのですが・・・どうもいまいちピンときませんでした。
近くにある感応寺は、仁寿2年(852)に創建された天台宗の古刹。家康の側室、お万の方が得度した処と伝えられています。そんな由緒正しきお寺なのに、なぜか山門が妙にエキゾチック・・・。
二丁町遊廓跡へは駒形通りを南西へ真っ直ぐ。途中にあるのが桜湯さん、可愛らしいお婆ちゃんが開店を待っておりました。
駒形通りの両側は庶民的な商店が軒を連ねているのですが、その並びの一軒では奥様が競りにかけられていた!?ちなみに『奥様市場』で検索すると、派遣型風俗ばかりがヒット(笑)
奥様市場の先を右に入ると嘗ての二丁町遊廓。静岡県地震防災センターがある一画が中心だったと思われます。遊廓跡に防災センター・・・妙な因縁を感じたのはなぜでしょう。そんなことはおいといて、ご覧のとおり、遺構どころか名残さえ皆無の惨状。事前に分かってはいましたが、四層楼見たかった・・・。
防災センター脇に小さな社があります。単なる稲荷神社、頭に何も付かないのでしょうか。遊廓が伏見からやって来たとすると、この神様もソッチ系???
境内に設置された石碑。達筆すぎてあれですが、静岡双街紀念之碑と刻まれているそうです。脇に立てられた説明板には、七丁-五丁のことなどが記されてあります。ただ、おかしいのは、この遊廓が昭和32年に廃止されたとあるのです。コレたぶん間違い、七間町の赤線とごっちゃになっているんじゃないでしょうか。
花街跡近く、青葉通りに面した別雷神社、『わけいかずち』と読みます。応神4年(273)に創建されたというとんでもなく古い神様なのです。その境内に食い込むようにして小さな飲み屋さんが並んでいるわけ。歴史ある寺社に時折見られる光景なのですが、やはり参拝客目当ての茶屋などの名残なのかなあ。
神社向かいにあるのが青葉おでん街。此処は観光名所でもありますのでご存知の方も多いかと。屋台由来の静岡おでんを供するお店だけが集まった横丁です。
昼間は閑散としておりますな。実は静岡市を訪れるのは三回目、前二回とも野暮用でしたけどね。そのとき此処で飲みました、確か12、3年前だったかな。どのお店だったか全く覚えていないけど、味のほうも(笑)先日、孤独のグルメseason5が始まりましたね。相変わらずゴローが旨そうに食っているだけのドラマですが、それに合わせたように第2巻が18年ぶりに出版されました。それの第一話の舞台が此処でした。
花街跡を貫く両替通りから一本入った裏通りに目的の横丁建築が・・・な、無い!!跡地の感じからして、壊されてからそんなに時間は経過していないと思うのですが、間に合わなかったか・・・。嘗て此処に建っていたのが『ちゃっきり横丁』なる横丁建築でした。
悔しいのでストリートビューの画像貼っておきます。最新のビューではコレも見られなくなっています。保存しておいて良かった・・・そんなことより実物見たかったです。
『ちゃっきり横丁』の反対側に出るため、すぐ脇にあるのが青葉小路なる飲み屋さんが続く路地を抜けていきましょう。どん詰まりのように見えますが、看板の矢印にありますように、クランクして両替通りに『ぬけられます』
両替通りに面したビル内の通路と接続していたようです。遊廓跡と横丁建築、両方にふられてしまいました。まあ、毎度のことなんですけどね。
チャリを返し、何気なく駅の反対側はどうなっているんだろう思いながら高架を潜ると、目の前に現れたコレに仰天。いきなりでしたので本当に驚きましたよ。
横丁建築の一種としても宜しいかと。金網で塞がれておりますが、建物を貫く通路はL字型になっており、右の通りに抜けられるようです。
見上げるとサビサビの骨組、おそらく嘗ては派手なテント地が張ってあったのだと思います。左手のビルはJR関係のもの、そのすぐ向こうは新幹線がビュンビュン走っているわけ。
そんな駅前に、なぜこんな謎物件が残っているのでしょう。
金網越しに覗き込んだ通路の様子。通りに面した部分には飲み屋さんらしき亡骸が並んでいましたが、通路部分にはそういった雰囲気が全く感じられないのが不思議。ご覧のとおり、かなり危険な状態です。
以上、駅前に残る謎のトタン魔窟でした。
トタン魔窟には続きがありまして、おさらいのストリートビューで確認しますと、真新しい駐車場に変わっておりました、直後に解体されてしまったようです。ふられ続きでしたが、最後の最後に救われたような静岡市葵区の探索は以上でオシマイ。