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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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東京都 青梅市200901・201203・201412 その2

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◆線路脇で妙に艶っぽいお店跡を見つけたわけ。


 『青梅の花街 花街といふほど一廓に集中はしてゐないが、氏神の住吉神社を中心として、その周囲の芸妓屋及び料理屋の多くが散在し、青梅駅から遠くも四五町の範囲で格別俥や自動車の御厄介になる必要はない。芸妓屋十数軒、芸妓約五十人(内小芸妓十人)、料理店約三十軒、以上が即ち青梅花街の構成分子で未だ待合はない・・・田舎なれど青梅の町はシヨコシヨコで、こゝの芸妓は主ら芸を以て立ち、此の方面は忘れたのかそれとも身が自由でないのか、さういふ方面には甚だ愛嬌がない。従つて濃艶な情調にとぼしい点は、多少遊客をして物足らぬ感を起させるかもしれないが、安売りをせずに芸に身を入れてゐる意気と張りとは寧ろ大いに珍重してやらねばならぬ』

 『全国花街めぐり』の抜粋から始めさせていただきます。『東京 花街・粋な町』によりますと、嘗て青梅に存在していた花街の由来ははっきりしないそうです。まあ、それでも著者の上村敏彦氏が仰っているように、青梅縞の所謂ガチャ万景気が影響していたのは間違いないと思います。機業と寄り添うようにして盛衰した遊里だったのでしょう。肝心の場所ですが、上記の抜粋にありますように一廓を成していたわけではなく、JR青梅駅の東側、そして旧青梅街道の北側、現在の本町と住江町に料亭が点在していたようです。今でも現役のお店が一軒だけ残っていますので、そこで昼食をいただいたのですが、ちょっと面白い状況に陥ってしまったわけ。それについてはレポの中でお話致します。

 花街の中心だったと思われる一画を貫く通りは、それぞれ三業通り、キネマ通り、仲通りと地元で呼ばれています。その中の仲通りは滝田ゆう小路という別名が付いているそうで、これは地元の旦那衆が滝田ゆうの夫人と知り合いだったからだそうですが、滝田ゆう自身も友人の山口瞳と青梅を訪れているそうです。まあ、滝田ゆうが描く昭和が、青梅のレトロな町並みとうまく合致したということなのでしょう。そんな青梅の遊里ですが、気になって仕方がないことが一つだけあるわけ。花街ではなく遊廓の類は存在しなかったのかということ・・・。

註)各画像のキャプションに付けられた★は2009年12月、☆は2012年3月、◆は2014年12月に撮影したことを示しています。



◆『全国花街めぐり』にも出てくる住吉神社、当日は蚤の市みたいのが開催されておりました。



◆神社近くのお宅、おそらく一部屋をぶち抜いてガレージにしちゃったのだと思います。証拠に襖と照明器具がそのまんま(笑)豪快さんだなあ。



★旧青梅街道に戻ると逆立ちしたパパがお出迎え。青梅赤塚不二夫会館、お隣には昭和レトロ商品博物館もあります。青梅を計3回訪れているわけですが、この2館には一度も寄ったことがないのです。理由は何となく・・・押し付けられるのが嫌なだけかも・・・ウン、そうだ、これでいいのだ!・・・本当にいいのか?



★向かいにはこんな大門があります・・・いや、ありました。実はこの姿、もう見ることができないのです。いつ頃撤去されたのかは知りませんが、3回目の際に気付きました。手前のお店と一緒に消え失せていたというわけ。ある理由からなのですが、それについては後ほど。キネマ通りは此処からJR青梅線の跨線橋までの通りの名前になります。



★短いキネマ通りですが、どういうわけか写真店が三軒もあるわけ。コチラはそのうちの一軒の奥多摩写真館さん、入口廻りはこげ茶の座布団型モザイクタイルで統一、シックな装いですな。



★その先には左官で石貼り風の目地が切られた看板建築のスミレ写真館さん。昭和5年(1930)に建てられたそうです。初回の際は現役のご様子だったのですが・・・



◆5年後(3回目)に再訪すると、なんとこんなお姿・・・外壁も心なしか色褪せたように見えてしまいます。お店の脇を駅の方向に伸びていくのが滝田ゆう小路こと仲通りです。



◆仲通りの北側を並行しているのが三業通り。その通りに面しているのが旧岩浪土建さん、屋根は寄棟の瓦葺きですが、外壁は石貼り風の左官仕上という和洋折衷の建物。目を引く入口の両側から立ち上がる柱型、上部で窄まってそのまま途切れてしまうという不思議なデザインなのです。



◆その先にあるのがとんかつの宗八さん。入口を塞ぐように立ちはだかるガラスブロックが嵌った衝立のような壁、初めて見たときはお風呂屋さんかと思いましたよ。手前パラペットの曲線と窓の矩(かね=直角)の組み合わせがいたく気に入っているわけ。いつも準備中の札が下がっていましたので、てっきり退役済みかと・・・ご免なさい、バリバリの現役でした。



◆近くにこんな表示、花街の名残としておきましょう。



★三業通りから仲通りに抜ける路地の光景、サビサビの手押しポンプが倒壊寸前でした。



◆路地を抜けた仲通りに面しているのが、明治34年(1901)創業の寿々喜家さん。『全国花街めぐり』にも記されているお店、おそらく唯一の生き残りと思われます。その文中に三層楼とありましたので、建物も当時のままかも、かなり直されているようですが。2回目の際、前出のもりたやさんにふられた私はコチラでお昼をいただくことに。



☆うなぎが名物のようでして、私が何にしようかと迷っていると、後から続々と入店してきた客全てがうな重をオーダー。実はちょっと前にあるお店で、天然物のうなぎを食べたのですが、客あしらいが最悪、天然物ってこんなものって感じで、トラウマになっていたわけ。ウーン、うなぎはなあ・・・と思いつつメニューを眺めていると目に飛び込んできたのがどじょうの文字というわけで柳川鍋に決定。どじょうなんて本当に久し振り、グツグツ煮えたぎった土鍋で運ばれてきた、これは精がつきそうではありませんか。で、この状況を説明致しますと、私はカウンター席、向こうは調理場、目の前にはうなぎの焼き場があるわけ。焼き場には大女将?と思われるお母さんが、あたしの目の黒いうちは此処は譲らんといった感じでデンと構え、バンバンうなぎを焼いているのです。その煙がモウモウとたちこめ、うなぎの煙でどじょうを食らうというオモロイ状況・・・落語の始末の極意かと、独りでニヤニヤしておりました。あ、もちろん煙代は請求されませんでしたよ(笑)次回はうなぎいただきたいなあ、おいしゅうございました。



★寿々喜家さんの向かいに、すりガラスに丸いシールが点々と貼られた謎の物件があります。これは初回の時の姿。



☆次回訪れると、大和張り風の目隠しが外され、その下にも丸いシールが貼られていたことが判明。そしてなぜか『ぬけられます』の看板・・・デザインからしてコチラはビリヤード場だったということなのでしょうか。丸いシールはボールを表していたとか。しかし、3回目に訪れると、オシャレなお宅に変わっておりました。結局、正体は謎のまま・・・。



★今は無き丸いシール物件の脇をグルリと回り込みますと、こんな板塀が現れます。手前の角が型押しトタンのお宅も既にこの世に存在しておりません。



★板塀にはニャンコの絵がいっぱい。右の路地は仲通りから旧青梅街道に抜けるものなのですが、これがなかなかいい雰囲気なのです。



★個人的には青梅でいちばんの路地だと思っております。



◆キネマ通りに戻りますと、通りの東側に並んでいたお店のほとんどが更地と化していたわけ。コレを見て前出の大門が無くなった理由が何となく判明、たぶん都市計画道路だ。帰ってから調べてみましたら、やはり当たっておりました。青梅市の都市計画図にもはっきりと記されておりました。昭和36年(1961)に策定されたようですが、どういうわけか今になって本格的に動き出したようです。更地の先には数軒の飲み屋さん、たぶんコリーさんからこっち側が将来的には道路になってしまうわけ。



☆コリーさんのお隣はおでんの銀嶺さん、知る人ぞ知る名店らしいですぞ。初めての時はてっきり退役済みかと思っていたのですが、その後ルイルイこと『吉田類の酒場放浪記』に出てきてビックリ。



★銀嶺さんに掲げられたニャンコの絵、コレがいちばん好きかなあ。



◆3回目のお昼は近くの三玉屋さんで。嘗てはキネマ通り沿いで営業されていたのですが、道路拡幅の影響で奥の真新しいお店に移られておりました。入店してから思い出したのですが、初回の時もコチラだった(笑)メニューには『1930年代、先々代が人力車ひきを廃業した後、中国の人から麺作りを教えてもらい創業いたしました』とあります。ラーメン屋としてはかなりの老舗ということになるのかと。また、初回の写真を確認しますと、以前のお店はいい感じに末枯れていたと記憶しているのですが、そのショーケースには『青梅の機織が盛んな頃に芸者さんが80人位いた名残で、宴会場もあります』とありました。チャシウメン(メニューのまんま)を所望、麺作りを教わったとありますとおり、手打ちの平打ち縮れ面。スープが独特、ほとんど油が浮いていない、まるで蕎麦の出汁みたいなわけ、ちょっとしょっぱいけど後味スッキリ。チャシウも昔の硬い奴って酷い表現だな(笑)燻っているのか香ばしかったです。以上、芸者さんも食べたであろう懐かしいラーメンでした。おいしゅうございました。



◆現在のキネマ通り、奥にスミレ写真館さんが見えますね。向かいは一軒の退役済み中華屋さんを除いて全て更地になっているわけ。嘗て此処には通りの名の由来と思われる映画館もあったそうです。手前のやきとりの関忠さんは現役、澤乃井は青梅の小澤酒造さんの銘柄です。



◆その先にJR青梅線を渡る跨線橋があります。その手前にも飲み屋さん、脇に駐車場があるのですが、『東京 花街・粋な町』によりますと、この辺りに見番があったそうです。



◆その駐車場の奥にあるのが住江町自治会館、コチラが見番だったという可能性は???



◆跨線橋からの眺め、向かいにあるのがカフェ夏への扉さん、いつも気になるお店なのですが、まだ入ったことがないのです。



◆摩訶不思議な和洋折衷、元は何だったのでしょう。花街との関係は・・・などと考えていて気付きました。道路の拡幅が始まると、おそらく跨線橋も架け替えになるはず。そうなると、夏への扉さんにも影響が出るのは間違いないと・・・しまった、寄っておけばよかった。気になる方はお早めにどうぞ、そして花街と建物の関係を聞いてきてください。



◆通りの突当りに洋館風と言っても新しいお宅があり、どうやらオシャレ系の雑貨店?らしいのですが、やっているのかどうも微妙な感じ。テラスのマットの上には蹲るニャンコ、いくら呼んでも完全に無視・・・。『東京 花街・粋な町』によりますと、この辺りに料亭魚久さんがあったそうです。



◆裏手の高台にこんなお宅、コチラ魚久さんの名残ではないかと考えたのですが如何でしょう。



◆分岐する通りを右に行くとすぐに見えてくるのが、青梅花街いちばんの遺構、洋館付住宅風の料亭和田市さんです。もちろん退役済みですよ。こじんまりとしているように見えますが、奥に複雑な造りの離れみたいな棟が続いています。



◆見所はなんといっても洋館部分、こんな処でコリント式のオーダーを見ることになろうとは。でも微妙に違っているような(笑)左官屋さんが見よう見真似で造ったんじゃないでしょうか。



◆正面の桜の木が元気すぎて酷いアングルしか無かったのが残念。アングルのせい・・・いや、私の腕のせいですよ。



◆最後に訪れたのがJR青梅線の線路沿い、此処和田市さんのすぐ近くなのです。行きの車窓からコレが見えたときは???現地で見ても???看板の痕跡がありますので、飲み屋さんだったようですが・・・



◆回り込むと、玄関廻りに特徴的な窓があったりしてますます混乱してしまうわけ。鑑札でも残っていれば判断できるのですがねえ。



◆線路の向こうから見た全景。此処で前書きの一文をもう一度、花街ではなく遊廓の類は存在しなかったのでしょうか・・・。



◆〆は健さん、3回目の探索の一月前に天に召されました、と思ったらもうすぐ一周忌なんですよね。一年って早いなあ。

以上で都合3回も訪れてしまった青梅の探索はオシマイ。映画看板だけじゃないということが分かっていただけたら幸いです。美味しいお店もいっぱいありますし、お手軽なまちあるきとしても十分に楽しめる町だと思いますよ。

オシマイと言いつつも実は続きがあります。前書きに2回目は特殊な状況と書きましたが、目的は探索ではなくある作品を撮影するためでした。もうお分かりの方もいらっしゃると思いますが、その3は番外編としてお伝え致します。

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