末枯れた家並み、それを見下ろす高層マンション・・・川口を代表する景観の一つだと思います。
さて、肝心の川口の遊里です。ご存知の方も多いかと思いますが、元々川口は日光御成街道の宿場町。これから向かう本一商店会こと本町一丁目辺りが宿場の中心だったようです。以上のことから、川口の遊里は宿場由来と言ってしまっても宜しいのではないでしょうか。その後、近くを流れる荒川で鋳型に適した良質な川砂が採取されることが判明し、鋳造業が隆盛を極めていくことになるわけです。全国区の産業がある町ですから、当然遊ぶ場所・・・必要ですよね。
『川口町 埼玉県北足立郡川口町字栄町に在つて、東北本線川口駅から東北へ約四丁の処に在る。川口は鋳物工場町で、鋳物工場の多い事は日本一である。町も可成発展して居て人口も浦和に劣らない。市政の敷かれるのは、浦和よりも川口の方が早いだらうと土地の人々は推測している。栄町は遊廓の様に一廓に成つて居るが、乙種料理店の一廓で、酌婦が一軒の家に多い処で十人位、少ない家でも三四人宛も居て陰店を張つて居る。善い玉は余り居ない。何の事は無い亀戸の白首の様なものだ。同業者は二十三軒あつて、酌婦は約百廿人居る。其れでも検黴やつて居るそうだ。御定りは二円で酒が一本付く。昼なら一時間、宵から二時迄、二時から翌朝迄が一仕切りださうだ。客の廻しも取つて居る・・・』
以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の川口の様子です。栄町とありますが、一丁目から三丁目までものすごく広範囲なんですけど・・・。駅から四丁とありますので、おそらくは三丁目に存在していたのだと思いますが、いくら地図と睨めっこしても一廓を成していたという痕跡は皆無なわけ。ご存知だと思いますが、川口は有数のベッドタウン、雨後の筍の如くあちこちでマンションやショッピングセンターが林立・・・開発が進みすぎていてかなり期待薄の状態なわけです。市役所の近くや川口陸橋から続く通りの両側にあったという情報をウェブで見つけましたが・・・まあ、その辺りを含めて彷徨ってみることにしてみます。
産業道路が岩槻街道(国道122号線)にぶつかる手前に本一商店会の入口があります。門番のように立ち塞がるのが、福田屋洋品店さんともう一軒。両者とも美しい緑青が表れた銅板張りの看板建築です。おそらく昭和初期ぐらいに建てられたのではないでしょうか。網代に矢羽に青海波などなど、職人さんの妙技をとくとご覧あれ。
近くの明治期創業という亀の湯さんは更地になっておりました。関東では珍しい独特な看板建築風のお風呂屋さんだったのですが・・・。
本一商店会の通り、これが嘗ての日光御成街道(岩槻街道)みたいです。所々に往時を彷彿とさせる建物が残っています。右の中西日進堂薬局さんは大正期に建てられたものらしいです。
嘗ては川口の中心街だったということなのですが、とてもそれが信じられない光景ですよね。
周囲にはこんな感じの路地が結構見られます。風情はいまいちですけどね。高い塀の向こうから土蔵らしきものが顔を覗かせていましたが、詳細は不明・・・。
そんな路地の一本を抜けると・・・現れたのが、大砲!?鋳物関係と思われる会社の敷地に無造作に置かれていたのですが、説明板にはこうありました。18ポンドカノン砲・・・嘉永5年(1852)に津軽藩より依頼を受けて製造したもののレプリカとのこと。当時では不可能とされていた大型砲なんだそうで、それだけ川口の鋳物職人は優秀だったということですな。
本一商店会の入口に戻ってまいりました。産業道路を挟んだ向かいに店仕舞いしていまったらしい薬局、胃腸薬がイチオシだったらしいです(笑)その向こうに気になる造りのお宅。遠景には竣工当時は日本一の高さを誇っていたエルザタワー55。
このお宅が妙に艶っぽく見えてしまうのはなぜ???それを睥睨するマンション、冒頭画像の場所は此処になります。
で、向かいの薬局ですが、ファサードは地味なのに、妻側はとっても賑やかなのです。
洗い出し風の左官仕上です。
プチラビリンスなアパート、あづま荘さんです。いいなあ、コレ。そのまま駅方面に戻り栄町三丁目を歩いてみましたが、案の定全く収穫はありませんでした。ここまでなーんにもないとある意味スッキリしますな。そして、腹が減った・・・。
隣町の幸町で見つけたとんかつわらじ亭さんに飛び込みました。見るからに昭和なお店ですが、中もそんな感じ。カウンターのみですが清潔な店内、人の良さそうな親父さんが一人で切り盛りしています。ヘッ?とんかつ類が全部500円以下!?よくよく見たら単品の値段(笑)定食にするためにはご飯付き(335円)にしないといけないみたい、それでも800円くらいで済んじゃうわけ。カラリと揚がった顔ほどもあるわらじとんかつ、おいしゅうございました。先日の人間ドックで、お医者さんから揚げ物は控えるように言われたのに、いい歳してこれだけは止められない。写真が盗撮風になっておりますが、レンズのフードが緩んでいるだけでございます。
燃料を補給しましたので川口陸橋に向かいましょう。途中にあった写真館、三階建てほどの高さがあるのですが、三階部分には窓が見当たらない・・・写場ということなのでしょうか。
川口駅の北側で県道35号線が線路を跨いでいるのが川口陸橋、竣工したのは昭和32年(1957)のこと。道路で東西の町を結ぶのは市民の悲願だったようで、竣工時は盛大なお祭りが行われたそうです。高架下が居住スペースになっていたようです。
しかし、遺構らしきものは一切見当たりませんでした。この通りを東へ行けば市役所に出るみたいです。
市役所周辺をフラフラしてみましたが、やっぱり何も発見できず・・・唯一といいますか、近くで高い煙突を見つけたわけ。
さいわい湯さん・・・かなりの規模のお風呂屋さんです。遊里と何か関係あるんでしょうか・・・。
再び川口陸橋から続く通りに戻って東へ・・・途中、こんな看板建築を見つけました。川口ダイキャスト・・・鋳物の町ならではですよね。でも屋号の文字、木製なんですけど(笑)
中央の西洋風の柱型がある部分が嘗ての入口だと思います。潰しちゃったみたい。
脇道の光景・・・中途半端に古びたお店などが続いておりました。ちょっと周辺の状況から浮いているよう見えるのです。
こういうの嫌いじゃないのですが・・・やっぱり違うよなあ・・・。
こんな飲み屋さんもあったりしますが、『全国遊廓案内』に書かれている規模とは全然違うよなあ。こういうのは慣れっこですが、やっぱり悔しい・・・。それにしても乙種料理店って本当に存在していたのでしょうか。
結局何の成果も得られず、そのまま旧芝川を渡って日光御成街道に出ると、この洋館が見えてきます。大正12年(1923)に建てられた国の登録文化財、旧田中家住宅です。
県内唯一の木造と煉瓦造の混構造三階建ての建造物になります。柱梁が木造、その間の壁に煉瓦が積まれているのだと思います。更にその上からイギリス積みの化粧煉瓦で包んでいると考えて貰えれば分かりやすいかと。頂部の銅板による装飾が綺麗ですね。田中家は代々この地で味噌蔵を営んできたそうです。一族は村議会議員、県議会議員、貴族院議員等を歴任してきたそうです。地元の名家ということですな。
此処もお雛様が飾りっぱなし(笑)接客スペースということで畳なんだと思います。上部の突き出した部分、たぶん神棚だと思います。奥で昭和9年(1934)に増築された仏間や広間がある純和風の部分と繋がっています。
1階の応接室・・・格天井にセンターシーリング、和洋折衷の意匠でまとめられています。
階段・・・行って来いの単純な構成ですが、三層分ありますのでかなり迫力がある空間になっています。段裏に縁甲板が張られているのが結構珍しいと思います。
踊り場から1階を見下ろします。手摺の柱の装飾は松ぼっくり???
3階の大広間・・・イオニア式のオーダーが部屋の中にあるというちょっと変わった構成です。この建物の見所の一つではないでしょうか。
3階ですので往時は眺望が抜群だったそうで、晴れた日には富士山まで望めたとか。西洋の柱列越しに見る富士山、なかなかオツなものだったのではないでしょうか。
庭園の池越しに増築された寄棟屋根の和風部分を望みます。この庭、嘗ては何棟もの味噌蔵が並んでいたそうです。あまりこういったものが残っていない埼玉県では素晴しい部類に入る建造物だと思います。でも、その1で紹介した鋳物問屋の別邸が個人的には好みだなあ。あの水廻りはほんと面白かったです。
旧川口市はここまで、なんとその3があるのです。その3では2011年に川口市に編入されたばかりの町を歩きます。この町も日光御成街道の宿場だったのですが、旧街道筋から一歩入った路地の奥で・・・発見しちゃったのですよ。